カール・マルクス


「資本論」 (第1巻)

 

訳者  宮 崎 恭 一

(1887年にイギリスで発行された版に基づく)

 

 

 

日本語訳の序文



  第1巻だけの、英語版(1886年3月原稿完成、同8月校閲、同11月校正完 1887年1月出版)は、一足先に出版されたフランス語版(1872-1875年に出版)と同様、マルクスの原典とはかなり違うものとして、なにか別扱いされていている感じがする。それだけではなく、マルクス自身の思考とは違っているものとする論まであるようだ。

 だが、その違いについては、マルクスもエンゲルスも序文で説明しており、それ以上のものを分析して見せた人は見当たらない。つまり、実質的な差はなく、二人が指摘する範囲のもので、意図も明確に叙述している。  

 英文(すでに、1867年には計画がはじまった) は、独文の第三版をベースに、フランス語版にマルクスが書いた指示を参照して出来上がっている。そういう意味では、マルクスの最後の息が英文にはあるということになる。フランス語版は、ロイ氏の訳で、マルクスの校訂であり、その序文で、ロイ氏の翻訳に触れている。その固執ぶりはかなりのものと思われ、マルクスが読者に分かりやすいように字句を変えた程であると自身が書いている。この変更を独文第二版に加えたのがエンゲルス編の第三版なのである。

 英文翻訳は、マルクスとエンゲルスの友人でありかつ法律顧問であったムーア氏が大半を、後段の一部をエイブリング博士が担当し、エンゲルスが監修した。エンゲルスは、自分の編纂した第三版の出版を先のばししてまで、英語版の監修に1年の時間を掛けているのである。(1886年 エンゲルス66才) ムーア氏も試訳に3年を要しているのである。ムーア氏の試訳の最初の部分を読んだエンゲルスは、「大部分は大変上出来で、生き生きしていた」とローラ(マルクスの次女で、英訳の話はローラに委ねるとマルクスが生前(1882年の夏)に話したいきさつがある。だが、マルクスは、1883年3月14日65才で亡くなった。) 宛の手紙 (1883年9月) に書いている。ロイ氏は、ドイツの唯物論哲学者 フォイエルバッハの著書の訳者でもあり、マルクスが選ぶだけの理由があった。二人の間にはそれなりの緊張感があったであろう。ムーア氏は法律家で、友人関係にあり、いはば半身内の人である。また何故英語版を急いだかは、ヘイリー ハイドマンの英訳(1885年10月〜)が一部公開され、エンゲルスが「ぞっとする代物」と云ったというもので、それに対して出版停止の措置が取れないと分かったからである。     

  二人の訳は、ロイ氏はマルクスに迫りながら、ムーア氏はできるだけそのままに、翻訳しているように感じる。エンゲルスもフランス語版に沿っている感じがする。申し訳ないが、感じだけで、なんの根拠も持ってはいないが、気づいたところは、次のところである。

  第ニ章のタイトルは、ドイツ版では、交換過程(Der Austauschprozes)となっているが、フランス語版では、交換 (DES ECHANGES)となっている。英語版は交換 (EXCHANGE) である。またその書き出し部分であるが、独文では、"Die Waren konnen nicht selbst zu Markte gehn" 仏文では、"Les marechandises ne peuvent point aller ellesmemes au marche" 英文では "It is plain that commodities cannot go to market"となっている。英文には、友人同志の独特の雰囲気も表れているようだ。ムーア氏は、エンゲルスの最後の病床にも立ち会っている。(エンゲルスは、1894年 74才で亡くなった。) それだけに、友人としてのエンゲルスの監修も相当なものであり、エンゲルスもこの訳を大切にしたのだろう。  

  私などが、適当に書くなど、場違いは承知しているが、英訳版の和訳を進める中で、英語版の素晴らしい位置づけが分かってきて、一層進めてみたいと思ったので、触れさせてもらった。  

  ネット上で、独文、仏文、英文に、直接アクセスできる。
[ドイツ語版] http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_000.htm
[フランス語版]
http://www.otaru-uc.ac.jp/htosyo1/siryo/yosho/pdf/YR049002_1.pdf
[英語版] http://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/index.htm
 

  もう一つ触れておきたい。向坂逸郎氏のこの序文訳の一点である。「だから古典派経済学は、一度も生産物のこの不払い部分(マルクスは剰余生産物と名付けている)を、総体において、全的なものとしては研究しなかった。」と書いているところである。 では、総体としてではなく、全的でないものとして、部分的または局面的なものとしては研究していたのかという反問を禁じ得ない。しかし、古典経済学は、敢えて云えば現在のブルジョワ経済学ですら、これになんら関心を持つことができなかったのだから、奇妙である。英文は、極めてすっきりしており、この疑問を生じさせない。この点でも、英文は極めて有難い。  

  私は、向坂訳で資本論を読みはじめて、見事に挫折した。大学時代のことである。最近、友人のブログに刺激を受けて、ふたたび色あせた岩波文庫を取り出した、瞬時に再挫折した。しかたがないので、やさしい資本論を検索した。勿論そんなものはない。だが、英文のCapitalがどういう具合か引っかかった。英語は高校以来本気で学んだことはないし、高校では劣等生以外の何者でもなく、読めるなんて少しも思わなかった。でも興味半分で、開いて見て、驚いた。やさしく読めたのである。おふざけものと思った。でも読み進めると、なんとなく興味が湧いた。そう言えば、向坂本に、英語版への序文もあったなと。ひょっとしたら本物なのではないかという気になった。私の英語版訳作業のはじまりなのである。実は、第三章第一節まで訳したところで、序文の訳に取りかかった。英語版の位置づけがどうしても以後の訳を進める上で、気がかりになったからである。英語版はフランス語版同様、本物の資本論とは別物という説明があると聞き、ならば、英語版訳などは徒労かも知れないと不安になったからである。岩波新書 佐藤金三郎著 マルクス遺稿物語 を読んで、英語版の経過も多少わかった。資本論を粉砕したいと願う側から見れば、各語版は違ったもので、そのように資本論はマルクス・エンゲルスの勝手なばらばらな論でどれが本物というものでもなく、読むに値しないという意図があってのものと察することができるようになった。英語版は今、我々の宝となる。向坂本は脇読みするにはいい参考となる。

  挫折がいかにして生じるかについて、証明書を発行しておく。瞬時にして挫折するだろう。資本論を読むなら、先ずは、本を買う。なにを買っても似たようなもんだが、ほとんど向坂本類似の翻訳だから、他を選ぶ特別の理由はない。だから、岩波文庫の向坂訳本の第一冊目ということになろう。  序文を飛ばして、第一章 第一節を読み始める。有名な句で始まる。(以下向坂本)
 資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。  商品はまず第一に外的対象である。すなわち、その属性によって人間のなんらかの種類の欲望を充足させる一つの物である。これらの欲望の性質は、それが例えば胃の腑から出てこようと想像によるものであろうと、ことの本質を少しも変化させない。ここではまた、事物が、直接に生活手段として、すなわち、享受の対象としてであれ、あるいは迂路をへて生産手段としてであれ、いかに人間の欲望を充足させるかも、問題となるのではない。(ここまでが向坂本の最初の部分)

  挫折点は、多い。富の成素形態、外的対象、属性、という単語は独特でなじみが少ない。それでも、それが資本論の語彙として受け入れるとしよう。だが、外的対象の属性が人間の欲望を充足する。どんな欲望でも、欲望の本質を変化させない。このことに関しては、どう欲望を充足させるのか、問題とならない。  ここで挫折するのである。追いかけきれない。読書能力の欠如を実感する。どういう意味なのかわけが分からなくなる。商品の何を云いたいのか把握できない。本を投げ出す。以降の文面も似たような反応しか生じない。今の能力では、難解そのもの、いずれ改めて機会があれば、さいなら。となるであろう。向坂本は、こうだが、英文は明解に訳されている。その和訳を私が行っているのだが、簡単明瞭、難解はない。私の訳を掲げておく。比較すれば、向坂本の翻訳の挫折性が分かるだろう。

  (1) 資本主義的生産を行う社会では、その富は、商品の巨大な蓄積のようなものとして現われる。その最小単位は一商品ということになる。従って、我々の資本主義的生産様式の考察は、一商品の分析を以て始めねばならぬ。       

  (2) 一商品は、とにもかくにも我々の面前に存在して、その特質をもって、人間の様々な欲求を満足させて呉れる。 その欲求が、例え胃からであろうと、幻想からであろうとかまわない。 ただこの商品要素の考察という段階においては、一商品が、直接的に生存のための欲求にであれ、間接的に生産に用いるための欲求にであれ、どのようにこれらの欲求を満足させるかについては、特に知る必要はない。

長い余談を付けさせて貰った。恐縮だが、私の資本論経験も英語版訳には大切な起点なのである。