カール・マルクス


「資本論」 (第1巻)

 

訳者  宮 崎 恭 一

(1887年にイギリスで発行された版に基づく)

 

 

カール・マルクス

資 本 論


第一巻 資本の生産過程

第二篇 貨幣の資本への変換

第六章 労働力の買いと売り



(1) 資本に変換されるよう意図された貨幣の場合に起こる 価値の変化は、貨幣自体に起こることはできない。なぜなら、購入と支払いの手段の機能には、商品を買うまたは支払う、その価格を実現する以上のものはない。そして、固い現金として、変わることのない価値の固化物なのである。第二の流通行為、その商品の転売においても、それが起因することはほんの少しもない。品物が物体的形式から貨幣形式に戻るだけの変化以上のものはない。従って、変化は、商品が買われるという最初の行為 M-C で起こらなければならない。しかし、その価値にあるのではない。 なぜなら、等価が交換されたのである。そして、商品はその価値全部を支払われたのである。従って、我々は、次のような結論を強いられている。変化は使用価値に起因している。そのような商品のものの。すなわち、その消費の中に。商品の消費から価値を引き出すことを可能とするために。我が友 マネーバッグスは、商品を、市場で、流通局面で、見つけ出すという幸運があったに違いない。その使用価値は、価値の源という特異な性質を持っている。その実際の消費は、従って、それ自体で、労働の具体化であり、その結果、価値の創造である。貨幣所有者は、市場で、そのような特別の商品、労働の能力または労働力を見つけたのである。

(2) 労働力または、労働の能力は、人間としての存在における、それらによって得られた 精神的、肉体的な能力の総体と理解されるべきものである。彼が、いろいろな使用価値を生産するときはいつも、彼は、これらを用いる。

(3) しかし、我等の貨幣所有者が、商品として労働力が提供されていると見つけることができるかどうか、そのためには、様々な条件がまずは満たされねばならない。商品の交換自体は、それ自身の性質から生じる依存関係以外には、なにものも意味してはいない。この仮説に立てば、労働力は、市場に、商品として現われることができる。ただ もし、そして、その所有者、彼の労働力そのものを所持する個人が、それを売りに供し、またはそれを商品として売る限りにおいて、である。彼が、この事ができるようにするためには、彼はその事に関して、彼の処分権を持っていなければならない、労働能力の所有者 彼という人間として、なんら束縛を受けない者でなければならない。彼と貨幣の所有者は、市場で出会い、互いに、同等の権利の上に立って、すなわち、法の目において、ともに同等な、違いは唯一つ、一人は買い手であり、もう一人は売り手として相対する。この関係の存続には、労働力の所有者が、それを明確なる期間において、それを売ることが求められる。なぜなら、仮に、彼がそれを、尻もその付け根も売ったとなれば、全てを一度に、そうなれば、彼は彼自身を売ったことになるであろう、彼自身を自由なる人間から奴隷に変換している、商品の所有者から商品に変換していることになってしまう。彼は、常に、彼の労働力を彼の財産として、彼自身の商品として見守らねばならない。そしてこの様に、彼はただ、それを一時的に、明確なる時間期間の間、買い手の処分にまかせることができるのである。この意味において、ただ、それの所有者として、彼の権利の放棄を回避することができるということである。

(4) 貨幣所有者が、市場で、商品として、労働力を見出すための必須の第二の条件は、労働者は、彼の労働が具体化された商品を売るという位置にある存在の代わりに、彼の生命そのものの中にのみ存在する労働力を商品として売ると申し出るよう強いられているに違いないということである。

(5) 人が、労働力とは違う商品を売ることができるであろうためには、当然ながら、生産の手段、原料とか道具とか他を持っていなければならない。皮なくして、ブーツは作れない。また彼は生活手段も必要とする。誰も、未来の音楽家でさえも、未来の生産物で生きることはできない。または、未完成な使用価値で生きることはできない。そして、彼が世界の舞台に始めて登場した瞬間から、人は生き、消費せざるを得ない。生産活動の間も、それ以前もそうであった。全ての生産物が商品の形式をとる社会では、これらの商品は生産されたら、売られねばならない。ただかれらの売りの後でのみ、それらの生産者の要求を満足させることができる。彼等の生産に必要な時間の他に、彼等の売りのための時間も必要なのであるから、 さらにその時間も付け加えられる。

(6) 彼の貨幣を資本に変換するためには、従って、貨幣の所有者は、市場で自由な労働者に出会わねばならない。自由には二重の意味がある。自由な人間として、彼は、彼自身の商品である労働力の処分ができる。そしてもう一つ、彼は売るための他の商品を持たない。彼の労働力を実現させるために必要なものが全く足りていない。

(7) 何故、この自由な労働者が、市場で、彼に対面するのかという問題については、貨幣所有者にとっては全く興味がない。彼は一般的な市場の一支所としてしか労働市場を見ていない。そして、現在のところはでは、少しも我々の興味を引くものではない。我々は、彼が実際的に行うことを、事実について理論的に密着して行く。しかしながら、一つのことは明白である。自然は、一方に貨幣や商品の所有者を作らず、他方に、自身の労動力だけを所有している人を作らない。この関係は、自然基盤を持たず、全ての歴史期間で一般的という社会基盤をも持たない。明らかに、過去の歴史的発展の結果であり、数多くの経済的革命の生産物であり、古い社会的生産諸形式の一連の全体の消滅の生産物なのである。

(8) すでに我々が議論してきた経済的範疇も、また同様、歴史の刻印を付けている。生産物が商品になるかどうかは、明確な歴史的条件が必要である。それは、生産者、彼自身の生存の直接的手段として生産されるべきものではない。我々はさらに進んで、如何なる状況において、全ての、またはその生産物の大部分が商品形式を取ったのか調べてみれば、我々は、このことが極めて特別な種類の生産としておこり得たことを発見することになろう。資本家の生産であると。とはいえ、このような調査は商品の分析にとっては、当面は関係外である。生産と商品流通は、多くの量の品々が、生産者の直接的要求のために生産され、商品とはならず、よって社会的生産もまだ先に長い道のりを残しており、交換価値が、縦横に支配的とはなっていない場合でも、起こり得た。生産物の商品としての出現には、労働の社会的な分業の発展と云ったものが前提される。使用価値の交換価値からの分離であり、最初の物々交換から、すでに完成された状態への その分離が前提される。しかし、この発展の段階は、多くの社会形式で共通しており、他の視点から見れば、最も変化しつつある歴史的特徴を示している。他方、もし、我々が貨幣について考えると、その存在は、明確に、商品の交換の段階を意味する。貨幣の特別の機能、それは単に商品の等価としてとか、または流通の手段としてとか、または支払い手段としてとか、または退蔵、または世界貨幣とか、を行うが、その広がりや、またある一つの機能を、比較的優位に置くとか、または別の機能を優位とするとかによって、社会的生産の過程の非常に異なる段階を示すものとなる。とはいえ、我々は、経験上、商品流通が比較的未熟であっても、これらの全ての形式の生産 (production の直訳であるが、訳者としては、品揃え) には十分であることを知っている。資本については別である。その存立の歴史的な条件は、単なる貨幣・商品の流通から与えられるというものではない。それは、ただ、生産手段・生活手段の所有者が、市場で、彼の労働力を売っている自由なる労働者と出会うことでのみ始まる。そして、この一つの歴史的条件が、世界の歴史を構築する。従って資本は、現われた直ぐから、社会的生産過程に新たな時代を宣言する。

(9) 我々は、今こそ、この特異な商品 労働力 についてより詳しく調べなければならない。他の全てのものと同様、価値を持っている。どのようにして、その価値が決められるのだろうか?

(10) 労働力の価値は、あらゆる他の商品の場合のように、その生産に必要な労働時間、必然的に、この特殊な品物の再生産に必要な労働時間であるが、 によって決められる。それが価値を有する限りにおいて、その中に含まれる 明確な、社会的労働の平均的な量以上のものを表すものではない。労働力は、ただ、生きている個人の能力として、または力として存在する。その生産は、であるから、彼の存在を前提にしている。あらゆる個人にとって、労働力の生産は、彼自身の再生産または彼の維持である。彼の維持のために、彼は生存の手段の ある一定の量を要求する。従って、労働力の生産のために必要な労働時間は、それらの生存の手段の生産に必要な時間数に集約される。別の言葉で云えば、労働力の価値は、労働者の維持のために必要な生存手段の価値である。しかしながら、労働力は、ただその行使によってのみ実際のものとなる。それは、それ自身を、働くという行動で示す。しかし、それゆえに、ある明確なる量の人間の筋肉、神経、頭脳他が消耗し、これらが、回復を要求する。この増大した支出は、より大きな収入を求める。労働力の所有者が、今日働けば、明日彼は、同じ過程を同じ条件で 健康と力でもって 再び繰り返すことができなければならない。彼の生存手段は、従って、労働する個人としての 彼の通常の状態に 彼を維持するに十分なものでなければならない。彼の通常の欲求は、食料とか、衣料とか、燃料や家、は、彼の国の気候その他の自然の条件によって変わってくる。他方、彼のいわゆる必要なる欲求の数や広がりは、それらを満足させる様式は、それら自身 歴史的発展の産物であり、従って、その国の文化の発展状況の大きな展開いかんに依存している。自由な労働者階級が形成されたところの、生活の安楽さの度合いとか習慣の状態により特定的に依存している。従って、他の商品の場合とは対照的に、労働力の価値の決定には、歴史的かつ倫理的な要素が入り込む。それにも係わらず、一国の、ある時期では、労働者にとって必要な生存手段の平均的量が、事実上既知である。  

(11) 労働力の所有者は、死ぬべき運命にある。だから、もし、市場に絶えることなく彼の姿があるべきと云うならば、貨幣が資本に絶えることなく変換されるべきと云うならば、労働力の売り手は、彼自身を永続させねばならない。「あらゆる 生きる個人が、彼自身を永続させる方法で、生殖によって。」労働力は、市場から、磨耗、破断、死によって、引き下ろされる。だから絶えることなく、新たな、少なくとも同量の、労働力で置き換えられなければならない。であるから、労働力の生産のために必要となる生存手段の総額には、労働者の代理品 すなわち、彼の子供達への必要な手段も含まれなければならない。この特異なる商品の 所有者という人種が、市場に現われるように、永続するようにするために。

(12) ある与えられた産業の一部門では、技巧と手際が求められるかも知れない、また労働力を特別の種類のものとするとか、人間の体を改造するために、特別の教育または訓練が必要となる。そして、このことが、その部分のために、より多くまたはより少ない量の商品の等価物のコストが生じる。この教育への支出分 ( 通常の労働力の場合には極めて僅かなものである。) が、その生産に費消される合計価値に加えられる。(色が変わって入る部分は、ラテン語)

(13) 労働力の価値は、その生存手段の明確な一定量の価値に収斂される。従って、それら手段の価値によって変化する。または、それらの生産に必要な労働の量によって変化する。

(14) 生存手段のうちの ある物は、食料とか燃料とかは、毎日消費される。だから、新たな供給が毎日配されねばならない。他の衣料とか、家具とかは、より長い期間長持ちするから、より長い期間を置いて交換されるよう 要求する。ある品物は、毎日買われ、支払わねばならない。他は週で、また他は四半期で、以下それぞれがある。しかし、それらの支出の総額が年間でどのように散らばっていようと、それらは、平均収入から毎日次々になんとかしなければ済まない。労働力の生産のために毎日必要な商品の合計を =A 、そして週で必要な商品の合計を =B、四半期で必要なものを=C、以下等々、とすれば、日平均商品= (365A+52B+4C+&c) / 365 となる。この日平均で必要となる商品全体の固まりの中に、6時間分の社会的労働が体現されていると考えてみよう。すると、1日あたりの労働力に、半日分の社会的労働が含まれている。別の言葉で云えば、毎日の労働力の生産のために、半日の労働が必要と云うことである。この量の労働が、日労働力の価値を、または毎日再生産される労働力の価値を形成する。もし、日平均社会的労働の半日分が3シリングであるとするなら、3シリングが、日労動力の価値に該当する価格である。従って、もし、それらの所有者が、それを日当り3リングで売りに供するなら、その売り値は、その価値と同等であり、我々の仮定によれば、我が友 マネーバッグスは、彼の3シリングを資本に変えようと思っているので、この価値を支払う。

(15) 労働力の価値の最低限度は、毎日の供給がないと、労働者の生命に係わるエネルギーが更新できない商品の価値で決められる。つまりは、物質的に絶対に欠かすことができない生存手段の価値によって決められる。もしも、労働力の価格が、この最低にまで下落すれば、それは、その価値以下に下がる。そのような状況になれば、ただ活動不能状態で、維持され、病的な症状も現われる。だが、あらゆる商品の価値は、それを通常の品質のものとするために必要な 労働時間 によって決められる。

(16) 労働力の価値を決めるこの方法、極めて当たり前に規定される方法を、弱肉強食的な方法と云うならば、また、ロッシイが、「労働の能力を把握するのに、生産過程の間における労働者の生存手段を考えもしないということは、幽霊のそれを把握せよと云うようなものではないか。」と嘆いているが、このように共に嘆くならば、それは全く安っぽい感傷と云うしかない。(色の変わっている部分には、括弧書きで同じ意味のフランス語が付されている。訳者注)我々が、労働、または、労働力と言うのは、同時に、労働者と彼の生存手段を、労働者と賃金のことを云っているのである。我々が労働の能力と云うからといって、労働を云ってはいない。我々が消化能力と云ったとしても、消化を云っていないのと同じことである。後者の過程は、良好な胃袋以上のなにかを云う必要があろう。我々が労働の能力と云う場合、我々は必要なる生存手段を無視してはいない。逆に、労働の価値を労働者の生存手段の価値で表している。もし、彼の労働の能力が売られずに残されたままなら、労働者は、それから何の利得も引き出せない。いやむしろ、この能力なるものが、自らの生産のために、一定量の生存手段が不可欠であるという、残酷とも云える自然が負わす必要性を感じることになろう。そして、その再生産のためにそうする他はないことを感じ続けることになろう。であるから、彼は、シスモンディの「労働のための能力とは、…それが売られずしては、何物でもない。」に、合意するであろう。

(17) 商品としての労働力の、特異な性質の一つの内容は、買い手と売り手間で契約が成立したとしても、その使用価値は直接的に前者の手に渡っていないということである。その価値は、他のあらゆる商品と同様、流通に入る前に既に決められている。なぜなら、一定量の社会的労働が、それに支出されているからである。だが、その使用価値は、その後の、それらの力の行使で成り立つ。労働力の譲渡、また、買い手によるそれの実際的な私有、使用価値の雇用は、時間的に隔てられている。とはいえ、商品の使用価値の売りによって行われた形式的な譲渡の場合、買い手への現実的な引き渡しが同時に行われるものではない。後者の貨幣は通常、支払い手段として機能する。資本主義的生産様式をとる あらゆる国においては、契約によって決められた一定期間、例えば、毎週末までの作業前には、労働力に対して支払わないことが習慣になっている。従って、全ての場合で、労働力の使用価値が資本家に前貸しされている。労働者は、買い手がその価格を支払う前にそれの消費を許している。彼は、あらゆるところで、資本家に信用貸しを与えている。この債権は、単なるフィクションではない。資本家の破産ともなれば、賃金の未払い分としてはっきりと現われる。それだけではない、絶えずこのようなことが繰り返されている。それにもかかわらず、貨幣が購入手段としての役割を果たそうが、支払手段としての役割を果たそうが、この、商品の交換の性質を変えることはない。労働力の価格は契約で決められる。後に至るまで、それが実現されないにも係わらず。丁度、家を借りるのと同様だ。労働力は売られた、だが、後になって支払われるだけにも係わらず。だが、成り行きとして、この両者の関係を単純明快に理解するために、労働力の所有者が、その個々の売りにおいて、直接的に、支払うと明記された価格を受領すると暫定的に仮定するのが分かりやすいだろう。

 (訳者余談: 前貸し資本に加えて、債権者として労働者が、資本家が債務者として現われた。歴史が債務者の敗北で終わるとマルクスが書いたところがこれで紛れもない人々と繋がった。)

(18) 我々は、今、労働力と云う特異なる商品の購入者が、所有者に対して支払う価値が、どのように決定されるかが分かった。前者が交換によって得る使用価値が、それ自体をただの事実上の使用権であり、労働力の消費であることを明らかにしている。貨幣所有者は、この目的のために必要なあらゆる物を、原料を、市場で、その全価値を不足なく支払って買う。労働力の消費は、一つであり、かつ同時に、商品の生産であり、剰余価値の生産である。労働力の消費は、あらゆる他の商品の場合と同様に、市場または流通局面の範囲外で完結する。従って、この騒々しく、様々なことがそこで展開されており、誰もが見ている局面をしばらく離れて、マネーバッグス氏と労働力の所有者と一緒に、二人に従って、生産の行われる隠された住所に行ってみよう。彼等の境界入口には、「業務関係者以外立ち入り禁止」という文字面が我々を睨んでいる。ここで、我々は、どのように資本が生産するのか、どのように資本が生産されるのかを見るであろう。我々は、ついに、利益作出の秘密をこじ開けるであろう。

(19) 我々が離れてきた局面、その範囲内では、労働力の売りと買いが行き来するが、そこは事実、人間の本質的権利のエデンの園である。そこにある規則は唯一つ、自由・平等・所有権・功利主義である。自由、なんとなれば、労働力という商品 の売り手と買い手は、ただ彼等の自由な意志のみに縛られるだけ。彼等は、自由な行為者として契約し、合意に到達したことは、なにはともあれ、彼等の共通の意志の法的表現を与える形式となる。平等、なんとなれば、それぞれは、他と、商品の、単純なる所有者として互いの関係に入り、彼等は、等価と等価を交換する。所有権、なんとなれば、それぞれ、彼自身が所有するもののみを処分する。そして、功利主義、なんとなれば、それぞれ、彼等自身のみを見ている。ただ一つの力が、彼等を共にし、互いの関係に置く。それは利己的であり、それぞれの利得と個人的興味である。それぞれは彼自身のみを見ており、その他のことは彼自身にとって障害にならない。そして、なんとなれば、彼等がそうする、彼等がやることの全ては、予め確立された 物の調和に従っており、あるいは、全てが整った 神の摂理の下にあり、相互の利益のために共に働き、共通の幸福のためであり、全ての利益のためであるのだから。

(20) 俗物自由貿易論者は、(色が変わって入る部分は、フランス語) この単純な流通局面、または、商品の交換から、彼の見解やら理念やら、資本と賃金に基づく社会を判断する基準とやらを、持ち出して来るが、この局面から離れるに際して、我々は、なんとはなしに、我々の登場人物達の顔付きの変化を、感じることができるようだ。彼、ほんの少し前は、貨幣所有者だったが、今では、資本家として、先頭を大股で進んでいる。労働力の所有者は、彼の労働者として後について行く。ある人物は、偉そうな素振りで、気取った笑いをしながら、業務への心づもりをしつつ、他の者は、怯えながら、後ろを振り返りつつ、あたかも自分の皮を市場へ持っていく者のように、そしてなんの希望もなく、− ただ笞打たれるしかないと。

 (the other, timid and holding back, like one who is bringing his own hide to market and has nothing to expect but - a hiding. 訳者余談: まるで、ロバか牛かが、市場で売られ、畑で笞打たれながら、働かされるに至る状況を書いている。英文のholding, own hide, a hiding. と続く音の繋がりもそれをよく表現していて面白い。)





[第六章 終り]



 [第二篇 終り]