カール・マルクス


「資本論」 (第1巻)

 

訳者  宮 崎 恭 一

(1887年にイギリスで発行された版に基づく)

 

 

カール・マルクス

資 本 論


第一巻 資本の生産過程

第四篇 相対的剰余価値の生産

第十二章 相対的剰余価値の概念





  (1) 資本家によって、単に、彼の労働力のために支払われる価値の等価を生産する労働日の部分を、ここまでの処では、我々は、ある一定の大きさとして取り扱ってきた。いはば、事実上、与えられた生産条件の下で、与えられた社会の経済的発展段階の下で、の一定の大きさとして取り扱ってきた。この、労働者の必要労働時間を超えて、労働者が仕事を2時間、3時間、4、5、6時間、そしてそれ以上の時間を続けて働くことができることも我々は見た。剰余労働率と、労働日の長さは、この延長の大きさに依存したものであった。必要労働時間が一定であったとしても、その一方で、全労働日が変化することは、我々が見てきた処である。さて、ここで、我々が持っている労働日の長さと、その区分、必要労働と剰余労働間の区分が与えられたものであると仮定しよう。全長さをa cとし、仮に、12時間の労働日を表すものとし、

a -------------------------- b ------- c
とし、a --- b 部分を10時間の必要労働、b - c 部分を2時間の剰余労働としてみよう。さて、どうしたら剰余価値の生産を増やすことができるだろうか。すなわち、どうしたら、a c を延長することなく、a - c と無関係に剰余労働を延長することができるだろうか?

  (2) 長さ a c は与えられたものではあるが、b c が延長可能であるものとすれば、そして、右端のc がそれ以上右に延長しないものとすれば、つまり、労働日 a c が依然として、なんであれ、位置を変えないものとすれば、b の開始位置を、a の方向に戻すことになろう。さて、新たなbの開始位置をb' とすれば、 線 a-b'-b-c が、下の様に描ける。

a--------------------b'-b--c

 b'---bの長さを、b ------ c の半分、または1時間の労働時間であるとしておこう。もし、改めて見れば、12時間労働日 a - c において、我々はb 点をb' に動かし、b - c を、b' - c とした。剰余労働を1時間増やし、2時間から3時間とした。だが、労働日は前と変わらず12時間に留まっている。剰余労働時間を、b - c から、b' - cへと2時間から3時間に拡大はしたが、明らかに、同時に、必要労働 a - b を a - b' に、10時間から9時間に短縮しなければ、このことは不可能である。剰余労働の拡大は、必要労働の縮小と見合っており、または、実際に、労働者自身の便益のために以前は消費した労働時間の一部が、資本家の便益のための労働時間に転化することになろう。労働日の長さは変わらないが、必要労働時間と剰余労働時間の区分が変わることになろう。

  (3) 他方、もし、労働日の長さと労働力の価値が与えられるならば、剰余労働の長さが与えられたものとなるのは自明である。労働力の価値、すなわち、労働力を生産するに不可欠な労働時間は、その価値を再生産するために必要な労働時間を定める。もし、一労働時間が6ペンスに体現されるとするならば、そして労働力の日価値が5シリングであるとするならば、労働者は、彼の労働力に対する資本によって支払われた価値と置き換えるために、または、彼の必要な日生活手段の価値の等価分を生産するために、日10時間働かなければならない。この様に、生活手段の価値が与えられるならば、彼の労働力の価値は与えられたものとなる*1、彼の労働力の価値が与えられるならば、彼の必要労働時間の長さは与えられたものとなる。

    本文注: 1 *彼の日平均賃金の価値は、労働者が必要とする「生活し、労働し、再生する」ためのものによって決められる。(ウイリアム ペティ 「アイルランドの政治的解剖」1672年) 「労働の価格は、常に、必要なものの価格に等しい…. いつでも…. 労働者の賃金が、彼の労働者としての低き身分と地位に見合うもので、多くの者は家庭を持つのであるが、その家庭を維持していくものに当たらないならば、彼は適切な賃金を受け取ってはいない。(J. バンダーリント 既出) 「自身の腕と働きのみしか持たない単なる労働者は、他人に彼の労働を売る以外の何物も相続しておらず…. あらゆる種類の仕事において、必ずと言っていい程、実際に事実上その通りなのであるが、労働者の賃金は彼の生活を支えるに足るものに制限されている。」(タルゴー 「考察 他」著作集)(フランス語) 「生活に必要な品々の価格は、事実、労働の生産コストである。」(マルサス 「地代 他に関する研究」ロンドン 1815年) 

    (本文のつづき)従って、剰余労働の時間は、全労働日から必要労働時間を差し引くことによって達成される。10時間が12時間から差し引かれて、2時間が残る。与えられた条件の下で、剰余労働が2時間を超えて、どの様にして引き延ばされるのか、それが分かるのは簡単ではない。いや、資本家にとってはなんでもない。5シリングに代えて、4シリング6ペンスまたはそれより少ない額を労働者に支払うことができる。もし、この4シリング6ペンスの価値の再生産に対応する9時間の労働で充分足りるとなれば、その結果、2時間に代わって3時間の剰余労働が資本家に生じ、剰余価値は1シリングから18ペンスに上昇する。とはいえ、この結果は、単に労働者の賃金を彼の労働力の価値よりも下げたことで得られたものに過ぎない。彼が9時間で生産した4シリング6ペンスでは、彼は、以前の暮らしに必要であったものを1/10少なくせねばならぬ。結果、彼の労働力の適切な再生産が損なわれる。これでは、剰余労働は、ただ標準境界への踏み込みによって拡大されたものでしかない。その領域はただ、必要労働時間領域部分への強権的な拡大となるだけであろう。労働力の生産のために必要な労働時間、またはその価値の再生産に必要な労働時間は、労働者の賃金の彼の労働力の価値以下に下落によって減少させることはできないが、ただその労働力の価値そのものの下落によってのみ承認されるものとなる。労働日が与えられているとすれば、剰余労働の拡大は、必要労働時間の短縮から生じる必然性がなければならない。後者は前者から生じることはできない。我々が取り上げた例から云えば、必要労働時間が1/10縮小されることで、すなわち、10時間が9時間に、労働力の価値が実際に1/10低下すべきことが必要である。結果として、剰余労働が2時間から3時間に拡大されることになろう。

  (4) しかしながら、この様な労働力の価値の低下は、以前には10時間で生産されていた同じ生活必需品が、今では9時間で生産され得るということを意味する。しかし、この事は、労働の生産性の向上が無ければ不可能である。例えば、ある靴屋を想定してみよう。与えられた道具で、12時間の一労働日に、1足のブーツを作る。もし、彼が同じ時間でもって、2足を作らねばならないとしたら彼の労働の生産性は2倍にならねばならない。だが、それはできない。彼の道具を変えるか、または彼の労働様式を変えるか、またはその両方を変えるかしない限り、できない。そうするには、生産条件 すなわち、生産様式と労働過程そのものであるが、を革命しなければならない。我々が、一般的に、労働の生産性の向上と言うのは、商品の生産に必要な社会的労働時間の短縮といった様な種類の労働過程の変更を意味している、そして、与えられた労働量に、より大きな使用価値量を生産する力を付加することである。*2

   本文注: 2 * 手工業の完成とは、より少ない人数で、または(全く同じことであるが) 以前より少ない時間で、生産物を作る新たな方法の発見以外のなにものでもない。( シスモンディ「研究」)(フランス語)

   (本文のつづき)これ迄は、労働日の単純な拡大から生じる剰余価値を取り扱って来たが、そこでは、我々は、生産様式を与えられたものとして、変化しないものとして仮定してきた。しかし、剰余価値が必要労働を剰余労働に変換することで生産されるべきものとなるならば、旧来のやり方でやって来たような労働過程は、単純にその労働過程の長さを延長するだけのやり方は、資本家にとっては事足れりというものでは無くなる。労働の生産性を増大させ得るということになれば、生産過程の技術的かつ社会的条件は、結果として、あらゆる生産様式は、革命的に変容を受けざるを得ない。ただ一つこのことによって、労働力の価値は下落され得る。かくて、その価値の再生産に必要な労働日に該当する部分が短縮され得る。

  (5) 労働日の延長によって産み出された剰余価値を、私は絶対的剰余価値と呼ぶ。(イタリック) 他方、必要労働時間の短縮によって生じる剰余価値を、労働日の二つの要素のそれぞれの長さを、それ相応に変更することから生じる剰余価値を、私は相対的剰余価値と呼ぶ。(イタリック)

  (6) 労働力の価値の下落をもたらすためには、労働の生産性の増加が次のような産業部門を捕らえなければならない。その生産物が労働力の価値を決めている産業部門、結果的にも、習慣的な生活手段に所属する生産物であるか、またはそのための手段と物を供給することができるかの、いずれかの、生産部門でなければならない。さて、とはいえ、商品の価値は、労働者がその商品に直接的に付与した労働の量のみではなく、さらにまた生産手段の中に含まれた労働の量をも合わせて決められる。例えば、一足のブーツの価値は、靴直しの労働のみではなく、皮革の、ワックスの、紐の価値等々に依存している。であるから、労働力の価値の下落は、労働の生産性の向上と、労働手段や材料を供給する産業部門等の関連するそれぞれの商品等が安くなることでもたらされる。それらの労働手段や材料は、生活必需品の生産に要する不変資本の必須の要素となる。しかし、生活必需品を供給するでもなく、またそのような必需品の生産手段ともならないものを供給する産業部門での、労働の生産性の向上は、労働力の価値を攪乱することはない。労働力の価値を変えない。    

  (7) 勿論、安くなった商品は、ただその限りにおいてのみ、労働力の価値を下落させる。(ラテン語)下落は、その商品が労働力の再生産において使用される範囲に比例して生じる。例えば、ワイシャツである。これは生活必需品の一つである。がしかし、様々な必需品のうちの一つなのである。であるから、生活必需品全体ということになれば、様々な商品群からなっており、かつそれぞれ別々の産業の生産物なのである。そして、それらの商品それぞれの価値が、労働力の価値の中に、その構成要素として入る。後者の価値は、その再生産のために必要な労働時間の減少によって減少する。全体としての減少は、それらの種々の異なる産業によって実現された労働時間の短縮の総計による。だがここでは、この一般的結果は、あたかも、個々の産業において、直接的にそのようになるもとして瞬時に実現するかのように取り扱われる。すなわち、労働の生産性の増大によって個々の産業資本家がワイシャツを安くする時がいつであれ、彼においては、労働力の価値の縮小、必要労働時間の該当比部分の短縮をわざわざ意図する必要性などは全くないのである。しかしながら、彼がこの結果に究極的に貢献する比率において、全般的に剰余価値率の上昇を支援することにはなる。*3

   本文注: 3 * 「我々は次のことを考えて見よう… 生産物を… 機械類の改良によって工場主らはその量を倍にした… 彼は、全売り上げのより小さな部分をもって、彼の労働者に衣服を着せることができるであろう… そのようにして、彼の利益は上昇するであろう。だが、その他のことはなんら影響されることはないであろう。」(ラムジー 既出)

  (本文のつづき) 一般的かつ必然的な資本の傾向は、資本の存在証明の各形式とは明確に区別されねばならない。(訳者注: 資本は、労働力の価値を低下させるという傾向を示すが、これが資本の本質的な各存在形式 ( forms of manifestation ) であるはずもないことを忘れるなと、書いているのである。 まあ、必要はないと思ったが、訳者としては、自分の頭に言い聞かせる必要があるのである。 直ぐには訳せなかった。 意味の把握が出来るまで相当の時間を要した。先輩の訳は、「資本の一般的にして必然的な諸傾向は、この傾向の現象形態とは区別されるべきである。」と意味難解性を採用しているところである。)

  (8) ここで、次のような事を考察する意図はない。資本主義的生産に内在する法則として、資本個々の集団としての運動に現われるそれら自体の兆候とか、それらが自身の主張する強権的な競争原理とか、資本家としての行為の直接的動機となる資本家個人の、家まで持ち帰る心や意識とかの、道筋については、考察してみる意図はない。だが、以下のことはより明瞭である。資本の内的特質の概念を持つ以前に、競争の科学的な分析は不可能である。丁度、天体の運動そのものの正確な動きを知る者でなければ、その運動を理解することはあり得ない。 運動は直接的に五感では感じとることはできない。にもかかわらず、相対的剰余価値の生産を理解するために、以下のことを付け加えておこう。そこでは、我々がすでに獲得した結果以上のものはなにも仮定してはいない。

  (9) もし、一労働時間が6ペンスに体現されているとすれば、6シリングの価値は、12時間の一労働日で生産されるであろう。広がりを見せた労働の生産性をもってすれば、12個の品物がこれらの12時間で生産されると考えてみよう。それぞれの品物に使用された生産手段の価値を6ペンスとしよう。これらの状況で、それぞれの品物のコストは1シリング。そこには、生産手段の価値として6ペンス、と、それらに労働によって新たに追加された価値の6ペンスがある。さて、ここで、ある一人の資本家が労働の生産性を2倍にする方法を考え出したとしてみよう。そしてその12時間の労働日にうちに、12個に代わって、その種の品物 24個を生産する。生産手段の価値が同じに留まるとすれば、それぞれの品物の価値は、9ペンスに下落するであろう。そこには、生産手段の価値が6ペンス、と、労働によって新たに追加された価値の3ペンスがある。倍になった労働生産性にも係わらず、日の労働は、以前と同じく、新たな6シリングの価値を作り出すが、それ以上のものではない。とはいえ、その価値が2倍数の品物の上に振り分けられる。今、それぞれのこの品物は、価値の中に、1/12 に代わって、1/24で体現された労働を有している。6ペンスに代わって3ペンスが、または、同じ量として云うならば、全1時間の労働時間に代わって、生産手段が それぞれの品物の中に変換される時に、わずか半時間の労働時間が、ここで、追加されるということである。これらの品物の個々の価値は、今や、それらの社会的価値以下となる。他の言葉で云えば、社会的平均的条件の下で生産される同じような品物の多くの物よりも少ない労働時間の品物となっている。それぞれの品物の平均価格が、1シリング、そして社会的労働の2時間を表しているとする。しかし、変更された生産様式下では、わずか9ペンスの価格、または、わずか1 1/2時間の労働を含むにすぎない。とはいえ、商品の実際の価格は、そのものの個別の価格ではない。というのも、実際の価値は、その商品が個々の場合に生産者が要する労働時間によって計量されるのではなくて、その生産に要する社会的時間によってなのである。 従って、もし、新たな方法を採用した資本家は、彼の商品をその社会的価値 1シリングで売り、 彼は、その個々の価値よりも3ペンス高く売る。そして、その様にして、3ペンスの更なる剰余価値を実現する。他方、彼に関しては、12時間の労働日が今では、12個に代わって24個の品物で表される。それゆえ、1労働日の生産物を始末するためには、以前の2倍の需要がなければならなくなった。すなわち、市場が2倍の広さにならねばならない。そこで、彼は、それらをそれらの個々の価値よりは高く、ではあるが、それらの社会的価値よりは安く、例えばそれぞれ10ペンスで売るであろう。このようにしても、彼は、依然として、それぞれから1ペニーの更なる剰余価値を絞り出す。剰余価値の増大物は彼のポケットに入る。彼の商品が、生活必需品の範疇、労働力の一般的価値を決定する部分に関係するもの、に属して居ようと居まいと、彼のポケットに入る。かくて、この後者の状況は、独立的に、存在する。すなわち、労働生産性を増大することによって、彼の商品を安くするという動機は、いずれの個々の資本家にも存在するのである。

  (10) 動機がどうであれ、上記の場合ですら、増大した剰余価値の生産は、必要労働時間の短縮から、またそれによって生じる剰余労働の拡大から生じる。*4

   本文注: 4 * 「ある人の利益は、他人の労働の生産物の支配に依存してはいない。そうではなくて、労働そのものの支配に依存している。彼の労働者の賃金が変わらないのに、もし、彼が彼の生産物を高い価格で売ることができれば、彼は明らかに利益を受ける。…. 彼が生産する小さな部分が、その労働を稼働させるに充分であり、そして大きな部分が、その結果として彼自身の側に残る。」(「政治経済学の概要」ロンドン1832年)

   (本文のつづき)必要労働時間を10時間、日労働力の価値を5シリング、剰余労働時間を2時間とし、そして日剰余価値を1シリングとしてみよう。さて、資本家は、今では、24個の品物を生産する。1個10ペンスでそれらを売れば、計20シリングとなる。生産手段の価値は、12シリングであるから、品物14 2/5個は、単に、前貸しされた不変資本を置き換えたにすぎない。12時間労働日は、残りの9 3/5個で表される。労働力の価値は5シリングであるから、6個の品物が、必要労働時間を表す。そして、3 3/5個の品物が、剰余労働の価値である。必要労働の剰余労働に対する比率は、平均的社会的条件では5 : 1であったが、今では、5 : 3である。同じ結果に、次の様な方法でも帰着する。12時間労働日の生産物の価値が20シリング。そのうちの12シリングが生産手段に属している。単純に再現される価値である。残りの8シリングは、貨幣的な表現ではあるが、労働日の中で新たに創造された価値である。この額は、同じ種類の平均的社会的労働が表されている額よりも大きい、後者の12時間労働はわずか6シリングだからである。この例外的な生産的労働は、あたかも強化された労働のごとくである。その労働が、同じ時間に、同じ種類の平均的社会的労働よりも大きな価値を創造する。( 第一章 第二節 節末 (16 ) を参照 ) しかし、我々の資本家は、依然として、ただの5シリングを日労働力の価値として支払い続けるのみである。今では、10時間に代わって、その価値を再生産するためには、労働者はわずか7 1/2時間の労働を必要とするだけである。であるから、彼の剰余労働は、2 1/2時間増加した。そして彼が生産した剰余価値は、1から3シリングへと成長した。今では、改良した生産方法を採用した資本家は、同じ商売をする他の資本家に較べて、労働日のより大きな部分を剰余労働として占有する。彼は、個人としてこれを行い、資本家として全身全霊をもって相対的剰余価値の生産に取り組んだ結果を、全部を自分のものとする。ではあるけれど、他方、この余分に得た剰余価値は、消える。この新たな生産方法が一般化するやいなや、そしてその連鎖は、個々の安くした商品の価値とその社会的価値との差を消し去る。労働時間によって価値を決定する法則は、新たな生産方法を採用する資本家を、その法則の支配下に置く。彼の商品を社会的価値以下で売るように強いる。この同じ法則が、競争を強いる法則となる。彼の競争者に、新方法の採用を強いる。*5

   本文注: 5 * 「もし我が燐人が、僅かな労働で沢山のことをなせば、安く売ることができるであろう、そうなれば、私も彼と同じように安く売るためには、なんとかしなければならない。であるから、あらゆる技巧とか、取引とか、エンジンとかで、少ない人手の労働で、仕事をし、それによってより安くなるならば、他のその種の必要があり、張り合わなければならない人をして、同じ技巧とか取引とかエンジンとかを用いるか、類似のものを見出すかと強いることになる。かくて、全ての人は、同じ広場に立つことになり、彼の隣人よりも安く売ることができる者はいないであろう。」(「イギリスに対する東インド商売の利点」ロンドン1720年) 

   (本文のつづき)従って、一般的剰余価値率は、究極的には、全過程によって影響を受ける。ただ、労働の生産性の増加時にあっては、そのことと関連する生産部門のみを捕らえる。そしてやがて、生活必需品等々を含むそれらの商品を安くし、そして、従って、労働力の価値の要素を安くする。

  (11) 商品の価値は、労働の生産力に反比例する。そしてそのように同じく、労働力の価値もそれに反比例する。なぜならば、それが、商品の価値に依存しているからである。相対的剰余価値は、逆である。生産力に直接的に正比例する。それは生産力の上昇に応じて上昇し、生産力の下落に応じて下落する。貨幣の価値が一定であるとするならば、12時間の平均的社会的労働日は常に、同じ、新たな価値、6シリングを生産する。それが剰余価値と賃金の間でどのように配分されようと全く関係はなく生産する。しかし、もし、増大した生産力によって、生活必需品の価値が下落するならば、そして、日労働力の価値が、そのため、5シリングから3シリングに減少するならば、剰余価値は、1シリングから3シリングに上昇する。労働力の価値の再生産のために、10時間が必要だったが、いまや、ただの6時間が必要とされる。4時間が自由なものとなる。そして剰余労働の領域に併合されることも可能となる。以来、労働の生産力の強化は、商品を安くするために、そしてそのように安くすることで、労働者自体を安くするために、資本における性向かつ定常的傾向として、資本家に内在するところとなった。*6

   本文注: 6 * 「労働者の支出の割合がどのように減少させられようと、もし、産業を拘束するものが同時に解除されるならば、同じ割合で、彼の賃金も減少させられるであろう。」(「穀物輸出助成金の廃止に関する考察」他 ロンドン 1753年) 「商売の利益は、穀物や全ての食料ができうる限り安くあるべきであることを要求する。それらのものを高くすれば、労働もまた同じように高くなるに違いないからである。…. あらゆる国において、産業が拘束を受けていなければ、食料品の価格が労働の価格に必ず作用する。労働の価格は、常に、生活必需品が安くなるならば、縮小させられるであろう。」(前出) 「賃金は、生産力の増大と同じ比率で減少される。機械は、まさに真実、生活必需品を安くする。それがまた、労働者を安くする。」(「競争と協業の各メリットの比較に関する懸賞評論」 ロンドン 1834年)

  (12) 商品の価値、それ自体については、資本家にとってはなんの興味もない。ただ一つ彼を魅了するのは、その中に住んでいる、そして売る事で実現される剰余価値ただ一つである。剰余価値の実現は、前貸しされた価値の払い戻しによってなされることが必要なのである。さて、ここでは、相対的価値は労働の生産力の発展に直接的に比例して増大するが、他方、商品の価値は同じ比率で減少する。一つのまたは同様の過程が商品を安くし、そしてそこに含まれる剰余価値を増加させる。我々は、ここに、ある謎の解法を得る。何故、資本家の唯一の関心事と言えば、交換価値の生産であるはずなのに、その彼が、絶え間もなく、何故、商品の交換価値の押し下げに努力するのか? この謎をして、政治経済学の創始者の一人であるケネーは、彼の論敵を困らせたのである。そしてこの謎に対して、論敵らは、彼に答えを出すことができなかった。

  (13) 「あなた達は次のようなことを認めるはずだ、」と彼は云う。「工業製品の生産においては、生産に支障をきたすことなく、労働への支出と費用をより少なくすることができればできるほど。そのような削減を、すればするほど、より有益なものとなると。なぜならば、出来上がった品物の価格を下落させるからである。だが、依然として、あなた方は、労働者の労働から生じる富の生産が、それらの商品の交換価値の増大の中に存在すると信じている。」*7

   本文注: 7 * 上記記述 (13) のフランス語原文を、注として表示している。( ケネー 「商業と職人の労働に関する対話」)    

  (14) 従って、労働日の短縮は、資本主義的生産においては、その生産力の増加によって労働を節約する局面では、なんら追及されることはない。*8

   本文注: 8 * 「自分達が支払わねばならぬ労働者の労働を、これほどまでに節約するこれらの工場主ら」( J. N. ビドー 「工業的手法と商業から発生する独占」パリ 1828年 )(フランス語) 「雇用者はいつも、労働と時間を節約するストレッチャーに縛りつけられることとなろう。」( ダガード スチュアート著 W. ハミルトン卿 編集「政治経済学講義」エジンバラ 1855年) 「彼等 ( 資本家ら) の関心事は、自分らが雇用する労働者達の生産的力を、でき得る限りの最大限にすべきだと云うことである。この力を進展させるためにと、彼等の関心が凝縮している。そして全くそのことのみに凝り固まっている。(R. ジョーンズ 前出 第三講義)




   どうにも余談の出る幕がこない。このままでは、章が終わってしまうではないか。なんとか無理やりに、ここに突っ込んで見た。大抵の人は、安くていいものが良いと思っているだろう。中には高くていいものの方が良いと思っている人も多少はいるだろう。その思考がどうであれ、仕事では、よいデザインのよい品物作りに取り組む。時には、独特のデザイン、高価な材料や技法による高額商品で、豪快な売り上げ、巨大な利益を得られるものを作る。だが、大抵は、それなりのデザイン、安い材料と安く作れる方法で、極めて安いものを作る。大量に売りさばき、1個あたりでは殆ど利益は薄いが、その全てを集めれば、猛烈に大きな利益となるものを作る。いずれの場合でも、設計者も工業デザイナーも、なんで、こんなものを作らにゃなんらのか、なんで我々の技量をこんなものに使うんだと、思うだろう。でも、前者の場合であれ、後者の場合であれ、その理由はここまで読んだ皆さんにはもう、自明であろう。技量をどう使おうが、なにを作らせようが、そこに何の関心もない資本の欲するものがそこにあるからである。前者は自分らのためであり、後者は全資本のために作る。大抵は、どうでもいいデザインやどうでもいい設計のために、設計者やデザイナーを使うのだが、ほんの少数だけ、前者に用い、全体が設計やデザインの本質的存在理由であると見せかける。夢をどこまでも追及させるというストレッチャーに寝かせる。事故が起これば、担当者に責任をとらせ、時には法の不備と、知らない振りをする。国家に賠償させたり、政府を替えたりしてどこまでも資本の利益を完遂する。私の後者の仕事を振り返ると、苦笑する他ない。もう少し早く資本論を読んでいたらなあ。もう遅いが、訳していることで、少しは許していただきたい。余談の役には立ったか。


 

   (本文のつづき)ある一定量の商品の生産に必要な労働時間、そこで意図されることは、ただその必要労働時間の短縮のみである。事実は次のごとし。労働者の労働の生産力が増大され、彼が以前の10倍個の商品を作るとすれば、それは商品各1個に1/10の労働時間で済ますことであるが、以前のように12時間働き続けることをなにも妨げはしない。また、同様のことを別の言葉で云うなら、120個に代わって、その12時間の労働から1,200個を作り出すことを妨げはしない。いや、それ以上に、その時、彼をして、14時間で、1,400個の品物を生産するように、彼の労働日が拡張されることもあり得る。それゆえ、マカロック、ユア、ショーニア、類似の者等 (ラテン語)の箔押しがある論文に、我々は、あるぺージでは次のような言葉を読むであろう。労働者達は、自身の生産力の発展について、資本家に感謝する恩義がある。なぜならば、それによって、必要労働時間が縮小されたからである。そして次のページでは、彼は、10時間の替わりに今後は15時間働くことで、資本家への感謝の証としなければならない。とあるのを。労働の生産力の全ての発展の目的は、資本主義的生産の限界内では、労働日のある部分を短縮することにある。その部分においては、労働者は、彼自身の生活のために働かねばならない。そして、まさに、そこを短縮することが、もう一方の日部分を長くする。そのもう一方の部分においては、彼は自由に、資本家のために無償で働く。
 このような結果が、商品を安くすることなしに、同様にどこまで達成できるかどうかは、相対的剰余価値の特有な生産様式を調べて見る事で、明らかになるであろう。我々がこれからすぐに、調査をしようとするところである。






[第十ニ章 終り]