カール・マルクス


「資本論」 (第1巻)

 

訳者  宮 崎 恭 一

(1887年にイギリスで発行された版に基づく)

 

 

カール・マルクス

資 本 論


第一巻 資本の生産過程

第四篇 相対的剰余価値の生産

第十五章 機械と近代工業



第一節

機械の発展



  (1) ジョン スチュアート ミルは、彼の著作「政治経済学の原理」の中で、こう云っている。

  (2) 「機械の発明の全てが、あらゆる人間の日々の労苦を軽減したかどうかは今までのところ疑わしい。」*1

  本文注: *1 ミルは次のように云うべきであった。「他人の労働で養われることのないあらゆる人間の労苦を」と。なぜなら、疑いもなく、機械は富裕な労働をしない人間を大勢増やしたのだから。

  (3) なにはともあれ、そのことが資本主義的な機械使用の目的であるはずもない。労働の生産力における他のあらゆる増加と同様、機械は商品を安くするためのものなのである。そして、労働日のある部分を短縮する。その部分とは、労働者自身の生きるための労働部分であり、彼が他に与えるための時間部分を拡大する。他に与えるとは、云うまでもなく、資本家に与える時間ということである。端的に云えば、機械使用の目的は、(訳者挿入 (相対的)) 剰余価値の生産手段ということにある。

  (4) 工場手工業にあっては、生産様式の革命は、労働力によって始まったが、近代工業のそれにあっては、労働の手段によって始まる。そこで、最初の質問となるが、どのようにして労働の手段が道具から機械へと変換されたのか? または、機械と手工業の手段との違いは何なのか? と云うことになろう。ただここでは、注目される一般的な性格についてのみ検討していく。なぜと云えば、社会の歴史的な特定の時代区分と云うのは、地質学的な時代区分の様に、相互に明確で厳格な地層区分によって識別されるものではないからである。

  (5) 数学者達や機械学者達は、そしてこの中には、英国の経済学者等の追従者もいるのだが、道具を簡単な機械と云い、機械を複雑な道具と云う。彼等はそれらの間に何の本質的な差異をも見てはいない。単純な機械的な力、梃子、斜面、螺子、楔、その他にまでも、機械という名称を与えている。*2

  本文注: *2 例えば、ハットンの「数学講座」を見よ。

  (本文に戻る) 実際に見れば分かるように、全ての機械は、外見がどうであれ、それらの単純な機械的な力の組み合わせである。ただ、この説明は、経済学的視点から云えば、何の意味もない。なぜならば、歴史的要素が欠けているからである。もう一つの道具と機械の差異に関する説明だが、道具では主動力が人間であって、それとはちがって、機械の主動力は人ではなく、例えば、家畜、水、風、等々であると云うのがある。*3

  本文注: *3「この視点から、我々は道具と機械の間に、明確なる識別線を引けよう。鋤、ハンマー、鑿、等々、梃子や螺子の組み合わせも、それらの諸々が他からはどんなに複雑に見えたとしても、人が主動力であり、…. それらの物は全て道具の概念に入る。しかし、犂は家畜力によって曳かれ、また風車等々は、機械の中に分類されねばならない。(ウイルヘルム シュルツ 「生産の運動」(ドイツ語) チューリッヒ 1843年 38ページ) 多くの点で、推薦される本である。

  (本文に戻る) この見解に従えば、雄牛に曳かれる犂は、最も異なる時代でも普通の考案物だが、機械と云う事になり、一方、クローセンの回転式織機は、一人の労働者によって動かされ、一分間に96,000もの織り目を作り上げるが、単に道具と云うことになろう。それはおかしな話しである。同じ織機が人間の手によって動かされる場合は道具と言い、これを蒸気で作動させれば、この織機を機械と云うことになる。人間の最も初期の発明の一つは、家畜力の利用である。すると機械による生産が手工業生産に先行することになろう。1735年 ジョン ワイアットは、彼の紡績機を世に出し、それが18世紀 産業革命の出発点となったが、人の手に変わってロバで駆動するとは云わなかったが、その部分はロバを利用した。実際に、彼がそれを機械と言ったのは、「指を使わないで紡ぐ」機械と云ったのである。*4

  本文注: *4 彼以前の時代、紡績機は、全く不完全なものであったが、すでに使われていた。そしてそれらの最初の出現があった国は多分イタリアであったろう。確かな技術史があるならば、18世紀のどの発明でも、一人の個人の発明であったことはほとんどないことを示すであろう。今までのところ、そのような本はない。ダーウインは我々に自然の技術史に関する興味をもたらした。すなわち、動植物の器官の形成に関して、生存のための生産手段としてそれらの器官が役割を果たしたという点である。人間の生産器官の歴史、全社会的組織の物質的基盤としての器官の歴史については、同じような注目に該当するものはないのだろうか? そしてそのような歴史をまとめあげることは、容易ではないと云うのだろうか? ビコが云うように、人間の歴史は自然の歴史とは違ったものであり、前者は我々が作ったが、後者は人間が作ってはいないから 容易ではないと云うのだろうか? 科学技術は、自然を考える上での人間の存在様式を明らかにする。彼が彼の生活を支える生産過程、そしてそれによって、さらに、彼の社会的関係の形成様式をもあらわにする。そして、それらの社会的関係から表れ出る精神的な観念の形成様式をもあらわにする。どの宗教史といえども、この精神の表れる物質的基盤を捉えることに失敗しており、厳密な把握に至っていない。(訳者挿入: 「どの宗教史以下至っていない」までを前者とし、以下を後者とする)実際に、宗教の幽玄なる核芯を地上の分析によって発見する方が、その逆の、それらの天上の形式に相応するものを現実の生活関係の中から捻り出すよりも、かなり容易である。後者の(訳者追加: 容易な)方法こそ、唯一の唯物論であり、従って、唯一の科学的方法である。(着色部分は、上記の訳者挿入の後者の意) 自然科学の抽象的唯物論、歴史や過程を排除した唯物論では、彼等が彼等自身の専門性の領域からあえて踏み出そうとする時はいつも、彼等論者の抽象的かつ観念的な概念の弱点が、直ぐに明らかになる。




  訳者余談: この注4は、マルクス自身の注書きであって、そこに人間の生存という具体的、歴史的、過程的な存在をもって、その労働、生産過程、社会的関係を捉える科学的方法こそ唯物論的な立場であると述べると共に、宗教とは人間の生活から生じた 生産過程・社会的関係(地上)より生じたものであって、その観念(天上)が逆に社会的関係とか生産過程を規定するかのような論理を展開する非科学的な方法ではどうにもならないと批判している。さらに、唯物論といえども抽象的唯物論や歴史や過程を排除した唯物論ではなんの足しにもならないことをも明記している。  なぜ、この点を余談とするかは、二つの理由からである。一つは、この簡単な言及を向坂訳では排除しているからである。彼の訳は、ビコの述べていることの意味を把握できず、それに対する批判的な視点がとれていない。従って自然史と人間史の関係を示せない。そして、「技術学は、自然にたいする人間の能動的な態度を、彼の生活の直接的生産過程を、それとともに、また彼の社会的生活諸関係およびそれから生ずる精神的諸表象の直接的生産過程を、明らかにする。宗教史といえども、この物質的基盤から抽象されたものは−批判的とはいえない。」と訳す。例の難解訳で、マルクスの注を台無しにしている。以降の注の訳は特に問題はないのだから、ここは情けない。もう一つは、日本を襲ったマグニチュード9.0と云う未曾有の大地震である。潰滅的な被害が生じ、人命も住居もそして地盤をも大きく失う深刻な事態となった。テレビ画面の津波の実像は全世界を圧倒する恐怖を映し出した。さらに原発の炉心溶融が予測されるとして、例によって、念のためという言葉とともに20km圏の避難が始まった。人間の存在を崩壊させるようなこの事態を、その生産過程・社会関係の産物が作り出したことである。商品では対応不能な、資本主義社会では考えることを排除した事態が予想通りやって来たことである。放射能レベルはなんの影響もないとか、想定の範囲外の地震とか、商売の自由のための設定条件の信仰ではどうにもならない。


  (6) 十分に発達した全ての機械は、質的に異なる三つの構成部分から成り立っている。動力装置、力の伝達装置、そして最後に、道具または作業装置である。動力装置とは、全てを動かすためのものである。それは自分自身の動く力を作り出す、蒸気機関、熱エンジン、電磁力機械、等々の様なものもあれば、また、自身の駆動を、すでに存在している自然力より受け取るものもある。水車は水の落差より、風車は風により、等々と云った様に。伝達装置は、フライホイール、シャフト、歯車、プーリー、革バンド、鋼索、ベルト、ピニオン、そして最も数多くの種類があるギアといったものから構成され、運動を関連させ、その形式を変える。必要があればだが、例えば、直線的な運動を円運動に、そして動力を作業装置全体に分配する。全装置のうちのこれら最初の二つの部分は、作業装置を動かすためにのみ存在しており、いかにそれを動かすのか、どのように変換してそれに用いるのかのために据えられる。道具または作業装置はまさに機械そのものであって、18世紀の産業革命はそれをもって開始されたのである。そして、今もなお、変わることなく、手工業または工場手工業が機械によって推進されて工業に変わるという開始点として存在する。

  (7) 作業装置自体にもう少し近づいて調べて見れば、我々は、一般的に、そしてたびたび、疑いもなく、かなり変えられた形をしていても、そこに、手工業職人または工場手工業労働者が使っていた器具やら道具やらがあるのを見出す。違いがあるのは、人間の道具であったものが、機械装置の道具、または機械的な道具となっていることである。機械全体が、単に、その程度がどうであれ、以前の手工業の道具の機械化版に過ぎないか、例えば力織機 *5

 本文注: *5 とりわけ、力織機の原型には、一見して、昔からの機織り機がそこにあると分かる。それが近代形になって、力織機は本質的な変形に至ったのである。

 (本文に戻る) または、その作業部分が機械架台に取り付けられただけの、例えば、紡績機の紡錘とか、靴下編み機の針とか、機械鋸の鋸歯とか、研削機のナイフのように、昔なじみのものに過ぎないかのいずれかである。これらの道具と機械架台との違いは、その生まれくるところにある。なぜならば、それらは多くの場合、手工業または工場手工業によって作られた後に、機械の製品である機械架台に取り付けられる。 *6

 本文注: *6 英国において、機械によって製造されたこれらの機械式道具が顕著に増加してきたのは、そして、その機械を作る者が、同じ工場手工業者ではないのであるが、ここ15年ほどのこと (すなわち、1850年頃から) である。これらの機械式道具を製作する機械の例としては、自動糸巻製作機械、毛羽立て機製作機械、機織杼製作機械、そして、ミュール紡績機とスロッスル紡錘製作機械がある。

 (本文に戻る) 機械それ自体は、従って、一つのメカニズムであって、動くようにセットされれば、それらの道具を使って、以前は労働者が同様の道具を使って行っていたのと同じ作業を行う。原動力が人間によろうと、または他の機械によろうと、この点に関しては何の違いもない。道具自体が人より取り上げられて、そしてメカニズムの中に据えられた時から、機械はちっぽけな道具にとって換わる。この違いは直ぐに分かる。人自身が依然として原動力であり続けるような場合であってもである。彼自身が同時に使用できる道具の数は、彼自身が持つ自然の生産の道具の数によって、彼の肉体的器官の数によって、制約されている。ドイツにおいて、彼等は最初、一人の紡績工が二つの紡車を操ることを想いついた。それは、両手と両足でそれらを同時に動かすというものであった。これはとても難しいことであった。さらには、二つの紡錘を取り付けた足踏み式の紡車を発明した。が、一度に二本の糸を紡げる糸紡ぎ名人は、双頭の人間が居ないのとまったく同様と云うべきものであった。他方、ジェニーはその誕生においてすら、12-18本の紡錘を回し、そして数千の針を持つ靴下編み機は、瞬時に靴下を編んだ。いつくもの道具を持ち込んで同時に操ることができる機械は、その最初から、手工業職人の使える道具数を限定する生物器官的な制約からは解放されていた。

  (8) 多くの手工業の道具では、単なる動力役の者と、作業者または操作する者と正しく呼ばれる者との間には、はっきりした対照的な区別があった。例えば、脚は単に紡車の第一の作動者にすぎないが、一方、手は紡錘を動かし、そして糸を引き、撚るわけで、紡績作業の実際の操作を行う。産業革命によって最初に捉えられた手工職人の道具の、職人の手に残された最後の部分は、彼の新たな仕事、彼の目によって機械を監視し、機械のミスを彼の手によって正すことに加えての、単なる動く機械の機械的な部品となることである。他方、いつも単純な原動力を演じてきた者に係わる道具、例えば、石臼の柄を廻すとか、*7

 本文注: *7 モーゼは、「穀物を踏む雄牛に口輪を嵌めるな」と云う。ドイツのキリスト教徒の博愛主義者は、これとは違って、粉砕するための原動力として用いる農奴の首の回りに、木の板を取り付ける。彼等が、彼等の手によって、彼等の口に粉を入れるのを防止するためである。

 (本文に戻る) ポンプの柄を動かすとか、ふいごの腕を上に下に動かすとか、すり鉢ですりつぶすとか、等々、このような道具は、すぐに動物や水の応用が呼び出される。*8

 本文注: *8 まずは適当な落差に欠けるため、またもう一つの問題として有り余る水との闘いがあるため、オランダ人は原動力として風を使うように強いられている。風車自体は、彼等はドイツから得たが、ドイツでは、その発明の出所について、貴族、僧侶、と皇帝の間で馬鹿げた口論があった。風がその三者のいずれに属するのかというものであった。大気を奴隷にするというのがドイツでの叫びであるが、この同じ頃、風はオランダを自由にした。この場合束縛を減じたものは、オランダ人ではなく、オランダ人の土地であった。1836年においても、土地の2/3を再び湿地に帰すことを防止するために、6,000馬力の、12,000箇所の風車がオランダで用いられていた。

 (本文に戻る) そして、風も原動力として呼び出される。どこにでも、工場手工業時代のずっと以前から、そしてそれ以後の間も、これらの時代において、これらの道具はそのまま機械となっている。だが、なんら生産様式の革命を作り出しはしない。近代工業の時代にあっては、これらの道具は、手技の道具の形のものであってすら、すでに機械であることは明らかである。例えば、ポンプ、1836−37年 オランダ ハーレム湖の水汲み出しのために建設されたそれは、普通のポンプの原理に基づいたもので、ただ一つの違いと言えば、それらのピストンが、人に替って、巨人 サイキュロプス級の蒸気機関によって駆動されていることである。鍛冶屋の、ありふれた、そしてきわめて不完全なふいごが、英国で、時にはその腕を蒸気機関と連結されて、ブロワー機に転換される。蒸気機関自体は、その発明があったと思われる17世紀に近づいた頃の工場手工業時代にあっても、そして1780年 *9

 本文注: *9 確かに、ワットによって、いわゆる単シリンダー単動エンジンが著しく改良されたが、この形では、単なる揚水ポンプか、岩塩鉱の塩水汲み出し用としてしか使われなかった。

 (本文に戻る) に至る間にあっても、なんらの産業的革命を引き起こすことはしなかった。全く逆で、機械の発明こそが蒸気機関を必要とする形の革命を起こしたのである。人間が、彼の労働が、道具を用いて働く代わりに、単なる道具機関の原動力となるやいなや、原動力の方が人間の筋肉の代わりをするのは単なる偶然ではない。(余談にて) であるから、風、水、または蒸気の形式が、全く同様に、巧みに、人間の筋肉に取って代わることになろう。勿論、このことは、人間のみによって動かすように作られた当初の機構に大きな技術的変更が生じるという形式の変更を妨げはしない。今日では、全ての機械は、それがミシンとか、パン焼き器とかなんであれ、それら独特の形を持っているが、もともとその使い方がごく小さな規模でのものを別とすれば、機械は、人と、純粋に機械的な原動力との、両方によって動かされるように作られている。




 訳者余談である。依然として、福島原発は、核物質を大気や海に排出を継続しており、止めることができない。野菜や魚にもベクレル値が検出され、出荷停止措置の指示が出され、農家や漁業者の生活を困難な状況に陥れている。国の補償についての法律が検討されつつある。余談の主題に直ぐに辿り着かない理由である。さて、人間が単純な原動機労働に落とし込まれれば、どうなるか。人間を少しやれば、そんなことは自明である。家畜や自然の力を利用する。風や水や蒸気の方が、より優秀な力を発揮するのだから、それらが人間の筋肉にとって代わるのは偶然ではない。いや、それは偶然にふと代わるのか。この二つの、合い違う言葉のいずれをここに用いるかの問題である。英文はこうだ。it is a mere accident that motive power takes the disguise of human muscle このaccident の訳のことである。私の訳は前者であって、向坂訳は後者である。「動力が、人間の筋肉を装うことは偶然となり、」というのが向坂訳である。ドイツ語がどうかは感知しないが、機械出現の根幹に係わる事態が偶然なのか必然なのかとなれば、偶然という観念的唯物論となるはずはない。偶然では、人間の自然を、生産過程を、社会関係を消失する。英文のアクシデントは、当然起こり得るアクシデントであって、どうでもいい偶然ではないと見る。原子時代の日本語で云えば想定外なのか想定内なのかであって、その場その場で言い逃れするための用語であるが、政治経済的な理由により想定外とする想定内のことを明示する。これが分からない人は生まれたての赤ん坊でも無い限り、いない。自明である。原子力保安院の重鎮やら、村長らが、反対する住民達を、国の発展のため説得したのは、まさに政治的経済的な役割を演じたに過ぎず、アクシデントをどう想定するかとはなんら関係はない。政治経済的理由を外せば、原発が建設できないからにすぎない。今これを人災と云う者は、原子核内の陽子・中性子をいじること、自然をいじくることこそ政治災と知るべきである。蒸気の利用の延長ではないのである。マルクスは、核分裂熱の蒸気利用を見ることはなかったが、これを見れば、歴史的にほとんど馴染みが無かった大自然を政治経済的に利用する貪欲を、いかに早期に正すか、大いに腐心したことであろう。


  (9) その機械なるもの、産業革命の開始点となった機械は、たった一つの道具しか操れぬ労働者の地位を奪う。メカニズムとして似た様な道具を数多く操り、その原動力の形式がなんであれ、一つの原動力によって動く。*10

  本文注: *10「これら全ての単純な道具の結合が、一つの原動機によって動かされ、機械を構成する。」(バベッジ 既出)

  (本文に戻る) ついに我々は機械を得た。だが、ただの機械による生産の初歩的な要素として得たにすぎない。

  (10) 機械のサイズが大きくなるとともに、そしてそこに使われる道具の数が増えるとともに、それを動かすためのさらに巨大なメカニズムが呼び出される。そしてこのメカニズムは、その抗力を征服するために、人の力よりも強力な原動力を要求する。人はこのような均一で連続的な動きを生産する道具としては極めて不完全であるから、この事実からしても、それとは別な原動力を要求する。いずれにしても、彼が単純に原動機を演じるとするならば、また機械が彼の道具の役割を果たすとするならば、彼が自然力によって取って代わられることは明らかである。工場手工業時代このかた 手にした 偉大なる原動機の全ての中で、馬の動力は最悪である。まずは、馬は自分自身の頭を持っているからで、また、馬は費用が係るからである。そして工場内で馬を扱うことになると、非常に限定された。*11

  本文注: *11 1861年1月、ジョン C. モートンは、技芸協会で、「農業に用いられる様々な力」についての論文を朗読した。彼はそこで、次のように述べた。「土地の均一性を求めようとするあらゆる改良は、純粋に機械的な力の生産のために、蒸気機関をますます適応性のあるものにした。…. 曲がりくねった柵やその他障害物で均一な作業が妨げられるような場所では馬の力が必要だが。とはいえ、このような障害物は日に日に消え去って行く。現実の力よりも、意志の実践をより多く求められる作業に対しては、適用可能な唯一の力は、人間の心にあり、別の言葉で云えば、人間の力である。」(訳者注 ここの後段の文章は多分意味不明の感があると思う。現実の力とか意志の実践とか人間の心が人間の力であるとか、観念論的用語の羅列だから。でもモートン氏の云っている言葉だからしかたがないが、現実の力とは馬また雇い農夫の力であり、意志の持ち主が農園主であって、意志の実践とは農園主のより広い耕作のことで、意志の内容は蒸気機関の力の行使であり、その生産手段の保持と活用を命じる力のこととなる。それが人間の力であるということになる。農園主の生産形式が人間の意志であり力であると。不要な説明だとは思うが、例によって、訳に苦労するとすぐにこれだ。) そしてモートン氏は、蒸気力、馬の力、人の力のそれぞれを、蒸気機関に用いる一般的な単位に換算する。すなわち一分間に、33,000重量ポンドのものを、1フィート持ち上げるに要する力の単位を用いて。そして、時間当たり1馬力を得る蒸気機関の費用を3ペンスとし、馬では5 1/2ペンス、と計算する。さらに、もし、馬の健康を十分に維持するためには、日8時間以上働かすことは出来ないと。蒸気機関を用いることによって、年、馬7匹ごとに、少なくとも3匹を節約することができる。そしてその出費は、節約された馬に要する費用の、適切な活用のもとでの、3ないし4ヶ月分に留まる。最後に、蒸気機関は、そのような農作業に用いられることで、馬の力に較べて、作業の質を改善する。蒸気機関で仕事をすれば、32人の農夫で、時間当たりの全費用は8シリング、そして馬ですれば、66人の農夫で、時間あたりの全費用は15シリングである。(訳者注 最後のところの各数字は、原文では、蒸気機関と馬で、逆になっている。訳者としては、モートン氏の文章とは別に、彼の蒸気機関を推奨する理由の方、整合性の方を取った。)

 (本文に戻る) にもかかわらず、馬は近代工業の揺籃期を通して、広範囲に用いられた。このことは、当時の農業者の方からの苦情によって、証明される。また、「馬力」という単語がいまでも機械的な力を表す用語として生き残っていることからも証明される。

 (11) 風はあまりにも定常性を欠き、そして制御できないものであった。そしてこれとは別に、英国、近代工業の生誕地では、水力の利用が、工場手工業時代の間ですら、優位を占めていた。17世紀すでに、二組の石臼を一つの水車で廻す試みがなされていた。だが、大きくなった伝動歯車機構はさらに大きな水力を必要とした。現状のものでは不十分となった。そうしてこれが摩擦の法則をより正確に研究することになる状況の一つとなった。同様に、レバーを押したり引いたりの動きをする製粉工場の原動力に生じる不規則性が、近代工業では後に重要な役割を演じる、慣性装置フライホイールの理論とその応用を導いた。*12

 本文注: *12 ファウルハーベル 1625年 (訳者注 両軸原動機の一方が駆動側で、他方に慣性円盤を取り付け、安定的な回転を保持するようにした。)ド・クー 1688年 (訳者注 クランクシャフトと慣性円盤を組み合わせる方式を考案した。)

  (本文に戻る) この様に、工場手工業時代を経る間、最初の近代機械工業の科学的・技術的要素が発展させられた。アークライトのスロッスル紡績機は、最初から、水力によって回転させるものであった。だが、優れた原動力であるとはいえ、困難に悩まされるものでもあった。大きな力を得たいと思っても、大きな力とすることは出来なかった。年のある季節には水が涸れてしまった。そして結局のところ水のあるその地方から本質的に離れられなかった。*13

 本文注: *13 近代タービン機は、水力を利用する工業を、以前の様々な足かせから解放する。

 (本文に戻る) ワットの二番目の発明、いわゆる複動蒸気機関が到来するまでは、石炭や水を用いて自分自身の力を産み出すような原動機は存在しなかった。その力は完全に人の制御に服し、可搬で、移動手段ともなった。水車のように田園的なものではなく、都会的なものであった。水車のように地方のあちこちに散らばって配置されるものに代わって、都市に生産を集中させることを許すものであった。*14

 本文注: *14「織物工場手工業の初期にあっては、工場の立地場所は水車を回す十分な落差のある小川の存在に依存していた。そして水車工場の確立は家内的な工場手工業の破壊の端緒ともなるにも係わらず、依然として小川の側に設置せざるを得ず、そして多くの場合、互いに一定の距離を置いて設置され、都会的なシステムというよりは田園の一部分を形成していた。そして、小川に替わるがごとく蒸気力が導入さるまでは、工場は都市に集中化されることはなく、また石炭と水の十分な量がある場所に集中化されることも無かった。(訳者はここで大発見をしたので、どうしても書いて置きたくなった。小川(stream) から r を蒸発させると、蒸気(steam) になることを見出したのである。中学生レベルを証明してみせたところ。邪魔してもうしわけない。それともう一つ、田園と都市の意味がここで明確になった。) 蒸気エンジンは、工場手工業都市の生みの親である。」(A. レッドグレーブ 「事実に関する調査報告書 1860年4月30日」36ページ)

 (本文に戻る) すなわち、それは普遍的な技術の応用であり、比較して云えば、地方的環境によって所在を選択するようなことにはなんら影響を受けない。ワットの天才の偉大さは、彼が1784年4月に提出した特許の明細書が示している。その明細書で彼の蒸気エンジンは特定の目的のための発明ではなく、機械工業への一般的応用に供するものとある。その応用について沢山のものが示されているが、例えば蒸気ハンマーは、半世紀が過ぎる迄は表れなかった。彼は、航海に蒸気エンジンを使用することには懐疑的であったが、彼の後継者のボルトンとワットは、1851年の博覧会に大洋蒸気船用の巨大な、コロッサル級の蒸気エンジンを送り込んだ。

 (12) 道具が人の手の道具としての存在から機械的な装置の道具、機械の道具に変換されるやいなや、原動力機構もまた、人間の力という拘束から完全に解放されて、独立した形式を獲得する。その上、今迄我々が考察して来た個々の機械は、機械による生産の単なる一要素に没落する。原動力機構は今や、同時に、多くの機械を動かすことができた。原動力機構は多くの機械群とともに成長する。その機械群は同時に回転させられる。そして歯車他による伝達機構は網の目のように広がった装置となる。

 (13) ここで、我々は、一つの種類の多くの機械の協業と、機械の重複したシステムとを峻別して見て行く。

 (14) 一つのケースを取り上げて見よう。生産物は完全に一つの単一の機械によって作られる。機械は、以前は手工業職人が彼の道具を用いて行っていた様々な作業を行う。丁度、例えば、一人の織り工が彼の織機を用いて行う様に、又は、何人かの手工職人達が次々と行う様に、個々別々にであろうと、工場手工業システムを構成する職人達でやろうと、いずれでも同じである。*15

  (本文に戻る) 例えば、封筒工場手工業では、一人が紙折り器で紙を折り、他の者が糊を付け、第三の者が、紋章を刻印する部分を折り返し、第四の者が、紋印する。そしてそのように、これらそれぞれの作業を進めるために、封筒は手を変えねばならない。一つの単体の封筒機械は、これらの作業を一挙に行い、一時間に3,000枚以上の封筒を作る。1862年のロンドン万博に、紙のコーンカップを作るアメリカ製の機械が出品された。この機械は紙を切断し、糊を付け、折り込み、1分間に300個を仕上げた。ここでは、その全工程が、かって工場手工業で行われていた、それぞれに分割されて、次々を経る一連の作業が、一つの単体機械によって、様々な道具の結合体を動かすことによって、完結させられる。さてこの場面では、その機械が単なる複雑な手工道具の再現であろうと、工場手工業によって特殊化された様々な単純な道具の組み合わせであろうと、いずれにおいても、工場においては、すなわち機械のみが用いられる作業場においては、再び単純な協同作業に出会う。そして、一瞬、労働者のことを度外視すれば、まず初めには、この機械の協同作業自体の姿が目に止まる。あたかも、一ヶ所に集まって、同時に作業する集合機械体として見える。従って、織物工場は並んで動く力織機の数で構成され、また、縫製工場では、多くの縫製機械全てが同じ建物の中に置かれる。しかしそこには、全システムが一つの技術的単一性の下にある。全ての機械が受け取るのは彼等の同期した鼓動であり、同じ大きさであり、共通の原動機の鼓動からのものであり、歯車等の伝達機構の媒介を経てもたらされるものである。この伝達機構は、また、大抵の範囲内で、全てに共通である。なぜならば、その伝達機構の、ほんの僅かな特定の分岐が、それぞれの機械に行き着くだけなのである。多くの道具が、かくて、あたかも、機械の各器官を形成する。であるから、一種類の機械の数が、作動するメカニズムの各器官を構成する。

  (15) 実際の機械システムが、これらの独立している機械に取って代わることは、労働の対象が一連の細目工程の繋がりを通過するに至るまでは生じない。互いに補足し合う様々な種類の機械の連鎖によって作業が遂行されるまでは、独立する機械の地位を奪うことはない。ここで、我々は、もう一度、協同作業を、工場手工業を特徴づける分業の視点から、取り上げて見よう。ただしここでは、細目機械の組み合わせということになる。各種の細目区分労働者達の特別の道具、例えば、毛織物工場手工業における、毛ほぐし工、毛梳き工、紡績工等々の用いるような道具はいまでは特殊化された機械の道具へと変換されている。各機械はシステム上の特殊な器官を構成し、特別な機能を持つ。機械システムが最初に導入された工業のそうした部門では、工場手工業自身が、一般的に、区分化のための自然な基礎と生産工程の一連の構造をすでに備えている。*16

  本文注: *16 機械工業時代以前では、毛織物工場手工業は英国では主要な工場手工業であった。それ故、18世紀前半、この工場手工業では、多くの実験が行われていた。機械で取り扱うための念入りな準備をそれほど必要としない綿は、羊毛で得られた経験の恩恵を利用することができた。その後、羊毛を機械で取り扱う方法は、綿紡績と綿織物の機械ラインから発展させられた。1866年 羊毛工場手工業の孤立化した細目工程、毛梳き工程は、その後の僅か10年の間に、工場システムに一体化された。「羊毛の毛梳き工程に動力を用いることは、…. 毛梳き機の作業工程への広範な導入以来、特にリスターが考案した毛梳き機…. 疑いもなく、非常に多くの人間を作業から投げ捨てる効果はあった。羊毛は以前は手によって梳かれ、殆どの場合は、毛梳き小屋を用いて行われた。今では、ごく一般的に工場において梳かれ、手労働は、特殊な作業種を除いて、なくなってしまった。特殊な作業種が残っているのは、その手梳き羊毛が未だに好まれているからである。何人かの手梳き工が工場でも仕事を見つけている。ではあるが、機械の生産物と較べれば、本当に少ない比率でしかなく、ほとんど大部分の手梳き工の雇用は消え去ってしまった。」( 事実に関する調査報告書 1856年 10月31日 16ページ)

 (本文に戻る) にもかかわらず、本質的な違いそのものが直ちに明らかとなる。工場手工業では、労働者が自分達の手工の道具を用いて、一人としてであろうと、グループとしてであろうと、それぞれの特殊化された細目工程を行わねばならない。であるから、一方で労働者が工程に適応して行くことになるが、他方では、工程の方が予め労働者に適応するように作られることにもなる。この人間側から見る主観的な分業原理はもはや機械による生産には存在しない。ここでは、全体としての工程は機械の客観性で検討され、その中には、言うなれば、人間の手によってどう行われるかとはなんの関係も持たない。連続する各局面において分析され、問題は、いかに各細目工程を実施するかであり、全体をまとめるかであり、機械装置や化学その他の助けによって解決される。*17

 本文注: *17「であるから、工場システムの原理は、…. 手工職人の分業またはレベル分けに代わって、その本質的な構成に係る工程の分離によるものとなる。」(アンドレ ユア 「工場手工業の哲学」ロンドン1835年 20ページ)

 (本文に戻る) そうは云っても、勿論のこと、この場合でもまた、理論は広範な経験の蓄積によって完全なものとされねばならない。それぞれ個々の細目機械は順序に従って、次の機械に原材料を供給する、そしてそう言うことであるから、それらの機械は全て同時に動く。生産物はいつも、それらの製造の様々な段階を通る。そして常にまた、それらは、一つの局面から他の局面への移動の状態にある。あたかもちょうど、工場手工業において、細目区分労働者達の直接的な協同作業が特別なるグループ間の様々な比例関係を確立するかのように、それらが機械のシステムを組織化し、一つの細目機械が変わることなく他の機械によって支配され、それらの多くに関して、それらの数、力量、速度によって一定の決まった関係が確立される。集合的な機械は、今や、単一機械群や単一機械のグループとして、様々な種類のシステムを構成し、ますます完璧化し、工程は全体として連続的なものへとなる。すなわち、原材料が、最初の局面から最後まで、その通過が妨げられることが少なければ少ないほど、一つの局面から他への進行がより効果的なものとなる。人の手によらずして、まさに、機械自身によってである。工場手工業においては、細目工程の分断は労働の分割上の性質から持ち込まれた条件である。がしかし、最大限に発展させられた工場においては、それらの工程の連続性は、これとは違って、絶対のものである。

  (16) 機械システムは、織機のように、同種のごとき機械の単なる協業であれ、紡績のように、異種の機械の組み合わせであれ、それが自動式原動機で動かされるならば、それら自身において、巨大な自動装置を形成する。しかしながら、工場が全体的にその蒸気機関によって動かされるとはいえ、幾つかの個々の機械は、それらの幾つかの作動のためには労働者の助けを必要とするものもあった。(その様な助けとは、ミュール紡績機の走錘台車を動かすために必要なものであり、自動紡績機の発明以前ではそうであったし、精密紡績機では今もその必要がある。) または、機械がその仕事をすることが出来る様に、機械のあるパーツでは手工の道具のように職人の手を必要とするものもあった。その一つの例は、機械メーカーの工場の機械で、自動の刃物工具送り台の改良以前にはよく見られたものであった。機械が、人の手を借りずに、原材料を精巧に加工するに不可欠な作動の全てを実行するやいなや、人は単なる立ち会いとしての必要物となる。我々は機械の自動システムを得た。そして機械はその細部において絶え間なく改良を受容し続ける。粗糸状のロープが切れれば直ぐに送り出し側の枠架台を止める機具の改良があり、また自動停止装置、紡車ボビンの横糸が無くなれば直ぐに力織機を停止させるものなどは近代の発明と云える。生産の連続性と自動化の推進の両方の点において、その例として、我々は、近代の製紙工場を取り上げて見よう。一般的な製紙工業において、我々は、異なる生産手段を基礎とする生産様式の相違のみでなく、それらの様式を有する生産の社会的条件との関係をも、細部にわたって幅広く学ぶことができるであろう。どうしてかと云うと、古きドイツの製紙業は手工業生産のサンプルを我々に示してくれるし、17世紀のオランダのもの、18世紀のフランスのものは、厳密な意味で工場手工業のサンプルを、近代英国のものは、この種の自動製紙のサンプルとしてそこに用意されているからである。さらに、これらの他、インドと中国には、二つの明確な古代アジア形式の同種の製造業が今も存在している。

 (17) 中央に置かれた自動装置から伝達機構を通じて動かされる体系化された機械システムは、機械による生産の最も発達した形式である。ここで我々は、個々の機械に代わって、工場一杯に陣取る巨大な機械怪物を見ることになる。そしてその悪魔的な力は、最初のうちは、その巨大な四肢のゆっくりした控えめな動きに隠されているが、ついには、その俊敏かつ怒り狂うがごとき彼の無数の活動器官の回転をもってその姿を現わす。

 (18) 力織機と蒸気機関は、力織機や蒸気機関を製作する専門的な職種の労働者が存在する以前から存在していた。丁度、仕立屋と呼ばれる人々が存在する以前から人は着物を着ていたのと同じようなものである。ボーカンソン、アークライト、ワット、他の発明が、どのようにして実際に用いられるようになものとなったのかは、ただ一つ、それらの発明家達が、身近なところに、それなりの大勢の熟練工達を見ていたからである。工場手工業時代を経て、彼等は彼等自身の処遇をおのれの判断でどうするか決めることができる状態にあったのだから。これらのある熟練工労働者は、様々な商売を行う独立した手工職人であり、他の者は工場手工業内で一緒のグルーブとなっていた。そして、前にも述べたように、そこでは厳格に区分された分業化がなされていた。発明の数々が増えれば、それらの新たに発明された機械の需要も増加し、機械製造工業もまた様々な分岐を見せ、ますます、多くの独立の部門となり、これらの工場手工業での分業もまた、ますます発展させられた。かくて、であるから、我々は工場手工業において、近代工業の直接的な技術的基盤を見出す。工場手工業が機械を生産する、その機械によって、近代工業が、手工業や工場手工業システムを、最初に機械が利用された生産局面から廃止した。そのようにして、工場システムが、ものの自然な成り行きとして、不適切な基礎の上に立ち上げられたのである。このシステムがある一定段階の発展に達した時、それは、既製の基盤の上に根を下ろしており、その間、その古きラインにおいて精巧化された。また、機械は、その製造方法に適合させねばならないという原則の上に自身を作り上げており、あたかも、個々の機械は、人の力だけで動く範囲の矮小化された性格を維持したかのようであった。また、蒸気機関が、初期の原動力、動物、風、水すらもに取って代わる以前には、機械システムは適切に発展させられることは出来なかった。また、同様に、近代工業はその完全なる発展を、そのような生産手段としての性格がある間は、阻害されていた。機械は自己の存在を人の力量や人の技巧に負っており、工場手工業における細目区分労働者の筋肉の発展、鋭き視力、そして巧妙な手に依存しており、手工職人の手の限界、彼等の矮小な道具に縛られる。従って、この点での機械への憧れ、その状況が資本家の心に写すもの (訳者余談で触れる) があったことを別にすれば、機械によって進められ工業の拡大は、そして新たな生産の分岐への機械の侵入は、労働者階級の拡大に依存していた。彼等は、彼等の雇用については大抵の場合、芸術的な性格にもとづいており、彼等の人数はわずかに少しずつ増やすことが出来ただけで、飛躍的に拡大することはできなかった。しかしこの事とは別に、機械の発展段階のある時点では、近代工業は、手工業や工場手工業によって用意された基盤とは技術的に両立しないところにまで行き着く。原動機の大きさの拡大、伝達メカニズムの拡大、そして機械自体の拡大、より複雑、より多様化、そしてこれら機械の細目内容のより規則的な安定性、それらは、ますます、最初の頃の手労働モデルから大きく離れ、自身の形式を求める。彼等が動く屋根の下以外は拘束不能となった。*18

 本文注: *18 力織機は初め主に木製であった。改良された近代形は鉄で作られている。初めの頃は、ある程度の時期に至るも古き生産手段の形が、それらの新しい形に影響を及ぼしていた。いろいろとあるが、現在の力織機と旧力織機を外観だけ較べて見れば分かる通りである。近代の溶鉱炉の送風機も最初は、どこにでもあった非効率な蛇腹の鞴の再現である。多分、他のなによりも驚くことは、現在の蒸気機関車の発明以前の試みでは、実際に、二本脚の機関車が作られた。馬の形を取り入れたのである。その脚が交互に地面から立ち上がった。機械の形が完全に機械的原理に従って作られるようになるのは、只々機械の科学の少なからぬ発展があって、実際の経験が積み重なった後のことである。そして、そこに至らしめる起源となった道具の伝統的な形から解放された。

 (本文に戻る) その自動システムの完成化、そしてその使用、日々ますます避けることのできない、より強固な原材料、例えば木塊 (wood-block) −いたる所でぶつかる人という障害物 (stumbling-block )や、状況から生じるこれらの問題の解決− に代わって鉄が、と、昔の方式からは離れて行く。工場手工業の集合的な労働者ですら、人という障害物となり、僅かな部分を除いてはこれらを解決することはできなかった。近代水力ブレス機、近代力織機、近代毛梳き機のような機械は、工場手工業によって作り出すことはできなかった。


 

 訳者余談を入れる。ここの本文 (18) 中程に、ちらっと資本家が登場した。機械に注ぐ情熱が彼の心に、原発への憧れのように飽くところを知らない心に、いかなる放射線が抜き通ったかは知らないが、この機械の章で最初に登場するのがこんな皮肉っぽい場面とは思わなかった。もちろん枕を外せば、そこに向坂訳の蕎麦殼がある。訳文をそのまま鉤括弧で示す。 「このような発生の仕方の結果、機械が高価だったこと−意識的動機として資本を支配する一事情−は別として、すでに機械によって経営されていた工業の拡大と新たなる生産部門への機械装置の侵入とは、その仕事の半ば芸術的な性質のゆえに、飛躍的にではなく、徐々にしか増加されえなかった労働者部類の増大に、完全に制せられていた。」
 これでは、工場手工業とその労働者達と資本との歴史的な経過も、そこに作用した機械の生産力とそれらを巡る諸過程もほとんど感じ取れるものではない。資本を支配する事情など、その主語も目的語も曖昧模糊で、労働者が資本を支配したのかといった とんでも理解もありえるし、労働者部類などは労働者の輩がの感じすらして読む気も失せる。なぜこのような訳になるのかは、労働者の労働経過を理解しておらず、資本の素姓についての歴史的唯物論を理解しえない特殊な事情があったのかも知れない。日本語資本論本の弱点となっている。福島第一原発は1ヶ月前に水素爆発を起こし、周辺にかなりの放射性物質を拡散した。現時点でもただ冷却水を注ぎ込む以外の手がなく、水蒸気とともに空中に撒く他、放射線物質を含むかなりの汚水を海に垂れ流した。周辺住民は避難、農業・漁業では作付け不能、漁獲不能の事態となり、補償をいかにするかが議論され、電力会社は仮払い補償金を配らざるをえなくなった。何分間かしか働けない放射線量下、ガイガーカウンターや線量バッジなしに、働かされる労働者によってしか対応できない。大勢の失業者を暴力団等にも関与させて街頭で金で釣り送り込む。資本家の大きな儲けを政府も一体となって守る様は、国際資本主義集団の相も変わらぬ大いなる挑戦である。経団連は内部留保には指一本をも触れさせず、義援金を広く募集し、政党は、一党を除き政党助成金を税金から補償金に先がけて受領する。原発を設置した輩が、自分達の取り分を囲い込んだ上で、人々に頭を下げさせて、補償金申請用紙を配る。マルクスが知ったら、なんで、大勢の人々がもっと資本論を読んでくれなかったのかと嘆くだろう。もうすぐ小学生の教科書にも載せるからと謝るしかない。


 

 (19) 工業の一領域における生産様式の急激な変化は、他の領域での同様の変化をも内包している。初期においては、互いに結合されてはいるものの、工程の個別の局面に置かれ、依然として社会的分業として隔絶されており、従って、彼等のそれぞれは独立的な商品を生産している と言った様な工業の分枝においてこうした変化が連鎖的に生じる。例えば、機械紡績は、機械織機を必要とする。そして両者はいっしょになって、機械的・化学的革命を漂白、印刷、染色部門に不可避的に作り出す。また同様、他方では、綿紡績での革命が、綿の繊維から綿の種を取り除く綿繰り機の発明を要求する。この発明によって、綿の生産は今日求められているような巨大な規模になることができた。

  (19) 工業の一領域における生産様式の急激な変化は、他の領域での同様の変化をも内包している。初期においては、互いに結合されてはいるものの、工程の個別の局面に置かれ、依然として社会的分業として隔絶されており、従って、彼等のそれぞれは独立的な商品を生産している と言った様な工業の分枝においてこうした変化が連鎖的に生じる。例えば、機械紡績は、機械織機を必要とする。そして両者はいっしょになって、機械的・化学的革命を漂白、印刷、染色部門に不可避的に作り出す。また同様、他方では、綿紡績での革命が、綿の繊維から綿の種を取り除く綿繰り機の発明を要求する。この発明によって、綿の生産は今日求められているような巨大な規模になることができた。*19

  本文注: *19 エリー ホイットニーの綿繰り機は、ごく最近まで、18世紀の他の様々な機械に較べて、本質的な変化はほとんど無かった。もうひとりのアメリカ人であるニューヨーク アルバニーのエメリー氏が、古風なホイットニーの綿繰り機に単純で効果的な改良を施したのは、ここ10年(すなわち、1856年以降) のことなのである。

 (本文に戻る) しかしさらに、とりわけ 言及すべきは、工業と農業の生産様式の革命が、社会的生産過程の一般条件に必要な革命をもたらしたことである。すなわち、通信と交通の手段においてである。社会が足場とし旋回する所は、フーリエの表現を使えば、小規模農業とそれに付随する補助的な家内工業、そして市街地の手工業であった。その通信手段・交通手段は工場手工業時代の生産に係る要求には全く対応できておらず、社会的分業の広がりにも、労働手段の集中化にも、労働者の集約化にも、植民地市場にとっても不十分なものであった。であるから、事実、革命的に変革された。全く同様、工場手工業時代からそのまま引き継いだ通信・交通手段は直ぐに近代工業にとって我慢することの出来ない足かせになった。その熱狂的な生産の早さ、その巨大な広がり、ひっきりなしの資本と労働の一生産領域から他への急送、新たに開設されたグローバル世界市場との連携、にとってはもう今までも各手段ではどうにもならない。かくして、帆船建造にもたらされた急進的変革は別格としても、通信・交通手段は徐々に、河川蒸気船、鉄道、海洋蒸気船、そして電話により、機械工業の生産様式に適合されて行った。しかしながら、巨大なる鉄の塊、いまや鍛造、溶接、切断、穿孔、研削されねばならないそれらは、それ自体、巨大な機械を要求していた。その建造には工場手工業時代の方法では全く対応できるものではなかった。

 (20) であるから、機械工業は、自ら、機械を、その特徴的なる生産手段を手に入れねばならなかった。それゆえ、機械で機械を建造せねばならなかった。自身のために、適合する技術的基礎を作り出し、そして自分自身の脚で立ち上がるまでは、そこに至ることは無かった。今世紀の最初の10年で、機械は、同時に進む機械の利用の増大とともに、機械を専門に作る製造業が、次第に、立ち上がって来た。とはいえ、それもわずか、1866年に先立つこと10年のことであった。鉄道建設と驚くほどの大きさを誇る外洋蒸気船が、巨大な機械、原動機の建造で今日用いられるところのその存在を呼び込んだのである。

 (21) 最も本質的な、機械による機械の生産への条件は、あらゆる力の大きさを出力する原動機にある。そして、それに加えてそれが完全なる制御下にあることである。そのような条件はすでに、蒸気機関によって満たされている。しかしそれと同時に、幾何学的に正確な直線、平面、円、円筒、円錐と、球を、機械の各細目部品のために生産する必要性があった。この問題は、今世紀前半の10年間で、ヘンリー モオズレーが、刃物工具送り台の発明によって解決した。そして、元は旋盤用に発明されたものだが、直ぐに自動化され、改良型が、旋盤の他に、必要とする多くの機械に応用された。この機械装置は、単に、ある特殊な道具に取って代わっただけでなく、鉄や他の金属に対して保持したり、研磨したり、切断したりする道具を用いて与えられた形状を作り出す手そのものに取って代わったのである。かくして、機械の工業部品の形を作り出すことが可能となった。

  (22) 「最も卓越した熟練工がなし得ないほどのレベルで、何の経験の積みかさねもなしに、容易に、正確に、素早くやってのける程に達している。」*20

 本文注: *20 「諸国の産業」ロンドン 1855年 第二編 239ページ この本はまた、次のように述べている。「この旋盤に付け加えられたものは、単純で外見的にはなんの重要性も見えてこないようであるが、そうではない。我々は、次のように云えるものに達していると信じている。すなわち、ワットの蒸気機関そのものの発明によって作られたものと同様、機械の使用に於ける改良と拡大への影響は非常に大きいものである。この導入が直ぐに全ての機械を完全なものとし、安価にし、そして、発明と改良を刺激した。」

 (23) もし、今、我々が、可動する道具を構成する機械の構築 に用いられる機械というものについて注意を向ければ、そこに手工の道具が再現しているのを見つけるであろう。とはいえ、巨大なる大きさのものとして。ボール盤のその可動部分は、蒸気機関で運転される巨大なドリルである。もしこの機械がなかったなら、他の一方の大きな蒸気機関のシリンダーや水圧プレスは作られることも無かったであろう。機械旋盤は唯一、通常の足踏み旋盤の巨大化再生産である。平削り盤、鉄大工は、人間の大工が木材に使うのと同じような道具で、鉄を扱う。ロンドンの埠頭で、船体の鉄製外板を切断する道具は、巨大な剃刀、剪断機という道具で、鉄板をあたかも裁縫師の布を切るはさみのようにやすやすと鉄を切断する。一対の怪物鋏である。そして、蒸気ハンマーは、普通のハンマーヘッドで仕事をするが、その重さたるや、雷神でも振り回すことが出来ないほどのものなのである。*21

 本文注: *21 これらの機械の一つは、ロンドンで外輪船の外輪軸の鍛造に用いられるもので、「雷神」と呼ばれた。それは、一人の鍛冶屋が蹄鉄を打つように簡単に、16 1/2トンの軸一本を鍛える。

 (本文に戻る) これらの蒸気ハンマーはネイスミスの発明であるが、その一つは、6トン以上の重量があり、垂直落下距離7フィートで、平均36トン重量に達する。花崗岩の塊を粉砕するのはまるで子供の遊び、その上連続して軽く小さく打つことができないわけでもなく、柔らかな木材に釘を打つこともできる。*22

   本文注: *22 木材加工機で、小さなものを加工することができるものは、大抵アメリカ人の発明である。  


 

 訳者余談、小さいことをぐたぐた言うのが、悪い癖だ。でも小さいからこそ大目にみて貰っていると気安くやらして貰っている。マルクスも驚くだろうが、1センチ平方メートルあたり3,000万個のトランジスターを集積化してパソコンの中央演算処理装置(CPU)を作る。大きさはせいぜい4センチ平方メートル。その加工はナノメートル単位の加工を光や電子線と言ったビームを使って行う。ビーム旋盤、ビームプレス、ビーム研削盤等々である。我が舌をもってすれば、0センチメートルのなにもしない加工で、言い訳する。原子同士の結合距離に近い1ナノメートルの微細加工を越える。恥ずかしくて文章には到底できない。だが、資本主義生産体制を変革することができる。脳そのものを加工するのである。余計なことだから、我が古き脳への応用は無用。節電しといてくれ。


 

 (24) 労働手段は、機械の形式にあっては、人間の力に換えて自然の力を利用することが避けられない。親指のルールに代わって、意識的に科学を応用する。工場手工業においては、社会的労働過程の組織は純粋に個人的で、細目労働社の組み合わせである。機械システムでは、近代工業は、純粋に物的な生産的組織で、労働者はすでに存在する生産の物的条件に対する単なる付属品となる。単純な協同作業、そして分業化が形成される中での協同作業においてすら、その集合化された労働者によって、抑圧され個別化される労働者はまだまだ偶然的なものとして多少顕れる程度のものであった。機械は、後に述べるような二三の例外はあるが、共同的な労働の手段として、または共通の労働のそれとしてのみ動く。以後、労働過程の協同的性格は、ここに登場する後者の場合においては、労働手段そのものによって指示される技術的な必須事項となる。




[第一節 終り]






第二節

機械によって生産物に移転される価値


  (1)我々は、協同作業や分業から得られる生産的な力には、なんら資本の必要がないことを見て来た。それらは社会的労働の自然力なのである。そのように、また、物理的な力、蒸気、水、その他のようなものも、生産過程に充当する場合、なんらかのものを必要とすることもない。


 

  (節が改まって早々の訳者余談)で申し訳ないのだが、向坂訳を取り上げる。「すでに見たように、協業および分業から生ずる生産諸力は、資本にとっては、なんら費用をも要しない。」と云う訳の、「資本にとっては、」とあるところである。間違いとは云えないにしても、読者の皆さんはここになんか違和感を感じることはないだろうか。私は、まだ資本の化身である資本家の登場する場面とはどうしても思えないのである。資本家に教示する必要もないし、資本家がどう思おうと勝手であって、大抵彼等は、資本のお慈悲で、協業も分業も成り立っており、すでに資本の大枚が支払われていると思っているはずである。ここは単純に資本がいらないのであって、資本家にとってどうこう云うのはやはり追及不足な訳と思う。すぐ後に記述されている「社会的労働の自然力」という捉え方への妨害にすらなっている。


 

 (本文に戻る) しかし、呼吸するために人間には肺が必要なように、それは、物理的な力を生産的に消費するためには、労働者の手のようなものを必要とする。水の力を利用するには水車が必要であり、蒸気の圧力を利用するためには蒸気機関が必要である。一旦発見された、電界における磁針の偏差の法則、または電流が流れるコイルが巻かれた鉄における磁化の法則には、1ペニーの費用もいらない。*23

 本文注: *23 科学は、一般的に言えば、資本家になんらの費用をも支払わせない。事実、彼がそれをいかに利用しようと、決して、彼を妨げはしない。他人の科学は他人の労働と同じように資本によって併合される。とはいえ、資本主義的私有化と個人的私有化は、それが科学であれ、物質的な富であれ、全く違ったものである。ユア博士自身、機械を用いる親愛なる工場手工業者達の頭の中にある機械科学へのどうにもならない無知ぶりには嘆くばかり、また、リービッヒは英国化学工場手工業者達によって開示される驚くべき化学への無知についての話しになるとどとまることを知らない。(福島原発事故で、資本家も政治家も御用科学者も、驚くべき無知ぶりを披瀝して余すところがなかった。別枠にせずに、訳者余談を括弧書きさせてもらう。少々長くなるが、お許しいただきたい。私は原発のステンレス容器や配管の溶接のエックス線等による検査をする会社で働いたことがあるが、エックス線やガンマ線の被爆を防ぐ鉛板を置いて、線源とフィルムをセットしてはそこに逃げ込むのだが、それでもフィルムバッジには被爆が記録される。日に200枚の写真を撮り、これを5年も続ければ、確実に基準を越える。管茎・管厚等からフィルムの種類と線源の強さを計算して写真を撮るが、相当の経験がないと適切な写真にはならない。写真の検査で溶接のよしあしを判定し、時には溶接箇所を削り落として再溶接する。写真を見れば即欠陥が指摘できる分けではない。写真を判定する目はさらに経験を要する。資本家的な頭では、形式検査で片付けたいし、溶接工も再溶接には大きな過失的負担を課せられている。検査する側も、残される証拠写真で素人目にも明らかなものは見逃さないが、200枚の写真/日を考えれば、素人と変わらなくなるし、被爆線量のこともあって、私のような新米もその一端を担う。我が検査になんの自信もないし、その作業の本当の意味も理解していなかった。いや資本主義社会が課している本当の意味の方を理解する方が早かった。そこを見る目は資本家にも政治家にも御用科学者にもないが、先輩は見ていて、時に怒鳴った。鉛に隠れろとか、怪しい白っぽい霧の汚れ模様が裂け目の重層と疑えと。でも、大勢は形式検査なのである。科学を理解せず、科学を資本主義的私有物、労働の搾取装置とする結果がいかなるものかは明確に証明された。さて、政治とは何か。環境、衛生、安全等々の基準を、取引の自由を守るために定める権力構造である。大抵、基準はそのため緩められる、あるいは緩く決められる。年間1−20ミリシーベルトという巾のある許容線量という国際資本基準もその例だが、最大の20ミリシーベルト/年を決めるのも彼等の作業である。1ミリシーベルトを主張する 幼児を含めての安全に学者生命をかけた人を、一旦委員会のメンバーに入れて公平を期そうとしたが、結局委員辞任に追い込む結果となった。これが政治というものである。結果として誰もが安全基準をその程度のものと理解して自ら考えてこれらに対応することを学んだ。)

 (本文に戻る) 確かに電磁科学法則は無料だが、しかしその法則を電信その他の目的のために利用するとなると、相当の費用が必要であり、様々な装置が必要となる。道具は、我々が見てきたように、機械によって絶滅させられることはない。人間の器官の矮小な道具から、それは人間によって作られた機械の道具に至るまで、拡大し、多様化した。今や、資本は、手工の道具ではなく、機械が自ら道具を操るその機械を用いて労働者に作業をさせる。それゆえ、驚くべき自然の力と自然科学を結びつけて生産過程に用いるならば、近代工業の労働生産性は普通では考えられない程のレベルまでに高まるのは、一見して明らかである。けれども、この増大した生産力は、他方において、労働支出の増大によって購入されたものではないということは必ずしも同様には明らかではない。機械は、他のあらゆる不変資本部分と同様、なんら新たな価値を創造しない。だが、自分の価値を、それが産み出した生産物に譲る。機械が持つ価値の限りにおいて、結果的に、価値を生産物に譲る。そしてそれは生産物が持つ価値の成分を形成する。安価にされるのではなく、生産物は機械の価値に比例して高価なものとされる。従って、次のことは白昼に陽を見るごとく明らかである。機械と機械システムは、特徴的な近代工業の労働手段は、手工業や工場手工業で使われる道具に較べれば比較にならない位の大きな価値を背負っている。

  (2)まず最初に、次のことが把握されていなければならない。機械は、いつも全体として労働過程に入るが、価値を産み出す過程においては、ただ断片部分のみが入る。機械は機械が失う価値以上のものを加えない。平均的な消耗分ということである。であるから、機械の価値と、与えられた時間において、生産物へ機械による価値の転移分との間には、大きな違いがある。労働過程において、機械の耐用年数が長ければ長い程、その違いはより大きなものとなる。疑いもなく、すでに我々が見ていたように、あらゆる労働手段は労働過程には全体として入る、そしてただ、少しずつ平均的な日々の消耗分が、その比例分に応じて価値を産み出す過程に入る。しかし、この全体として入る分と日々の消耗分との差分は、道具よりも機械の方がより大きい。なぜかと言えば、機械はより耐久性のある材料で造られており、寿命も長い。また、その機械の使用においては、厳密に科学的法則によって規制されており、各パーツの消耗においてもまた消耗する材料においても、より大きな経済性、すなわち節約が計られている。そして、結論として云うならば、機械の生産の場は道具の場と較べれば比較にならないくらい大きい。機械であれ、道具であれ、それらの日々のコスト、即ちそれらが日々生産物に移転する価値、それらの平均的消耗と、それらが消費する補助的な材料、石油とか石炭とかと云ったものを控除して見れば、それらはそれぞれそれらの仕事を無償で行っている。あたかも、人の助けなしに働く自然によって準備された力のように作動している。道具の生産力に較べて機械の生産力が大きければ大きい程、道具の無償の恩恵に較べれば、機械の無償の恩恵はより大きなものとなる。近代工業によって、人は初めて、彼の過去の労働の生産物を大きな規模で無償の恩恵のごとく働かせることに成功した。まるで自然の力の様に。*24

 本文注: *24 リカードは、この機械の効果を特に強調する。( 機械に関しては、他の関連も含めて、彼は労働過程と剰余価値の創造過程とに関する一般的な識別すら把握してはいない。) そのため、彼は往々にして、機械によって生産物に付与される価値の視点を失い、機械を自然の力と同じような位置に置く。だから彼はこう言う。「アダム スミスは、どこでも、自然の営みと機械が我々のために成すこの活動を過少評価してはいないが、それらが商品に加える価値の性質については極めて正確に認識している。…. あたかもそれらが機械としての仕事を無償で行い、機械が我々にそれを援助として供与し、交換価値以上の何物も加えない。( リカード 原理 336 337ページ) このリカードの見識は勿論、J.B. セイに対する限りにおいては正しい。セイは機械が価値創出の「仕事」をするものと思っており、それが利益の一部を形成すると思っているのだから。

 (3)協同作業と工場手工業で取り上げたように、ある一般的な生産要素は、例えば建物のようなものは、個々に分散された労働者の分散された生産手段と比較すれば、共同的に消費されることによって節約される。従って、それらは生産物の価格を安くする。機械システムにおいては、その機械を構成するものが、多くの作業機具によって共同的に消費されるのみではなく、その伝達機構とともに原動機も多数の作業機器によって共同的に消費される。

  (4)機械の価値と、日当たりで生産物に移行される価値との差が与えられたなら、後者の価値が生産物を高価格とする程度は、まずは生産物の大きさ、云うならば面積に依存する。ブラックバーンのベイヤー氏の1858年に出版された著書では、次のように見積もっている。

  (5)「各機械実馬力 *25 は、450個の紡錘を持つ自立紡績機と前処理装置、または、200個の紡錘を持つスロッスル紡績機、または縦糸がけや糊付け他を含めた40インチ巾の布を織る織機15台を駆動するであろう。」

 本文注: *25 1馬力は、1分間当たりで 33,000フィート・ポンドの力と等しい。33,000ポンドを1分間で、1フィート持ち上げる力、または1ポンドを1分間で33,000フィート持ち上げる力と云うことである。これが本に書いてある馬力の意味である。通常の言葉では、そしてまたこの資本論のあちこちで引用しているものは、「名目」、「商業上の」または「計測値」馬力が同じ蒸気機関にあり、区別されている。以前のもの、または名目馬力はシリンダー径とピストンストローク長のみで計算され、蒸気圧やピストンスピードは計算外である。この名目馬力は、この蒸気機関が50馬力であって、もしボールトンやワットの頃と同じ低い蒸気圧、そして同じように遅いピストンスピードで動かされたとしたら、その限りでの数値としてのものであることを示す。しかし、後者の二つの要素は今日では非常に大きな意味を持つ様になった。今日蒸気機関によって生じる機械的な力を計測するために、計測器が発明され、それはシリンダー内の蒸気圧を示す。かくて、この計測値または商業上の蒸気機関馬力が数学的公式によって表される。この公式には、シリンダー径、ピストンストローク長、ピストンスピード、蒸気圧が同時に考慮され、実際にそのエンジンが、33,000ポンドを1分間で、1フィート持ち上げる力の何倍あるかを表す。従って、「名目」馬力は、「計測値」馬力または「実」馬力の3倍または4倍、時には5倍のものとなる。この点は、以後のページにある様々な引用の説明のために示した。― F. エンゲルス

 (6)まず最初のケースでは、450個の紡錘を持つミュール紡績機の日生産量となる。第二のケースでは、200個のスロッスル紡錘のそれであり、第三では、15台の織機のそれであり、1馬力の日コストである。このコストと、そしてその原動力が駆動することによる機械の損耗とが、それらに生産量に付加される。であるから、1ポンド当たりの撚糸または1ヤードあたりの布に対してそのように移転される価値はほんの僅かであり、極めて小さい。前に述べた蒸気ハンマーの場合も同様である。かくて、その日々の損耗、日々の石炭消費量等々は、1日にそれが打つ莫大な鉄量全体に移転され、僅かな小さな価値が鉄100ポンド重量に加えられるに過ぎない。しかし、もしこの巨大な機械をもって釘を幾本か打つということになれば、とんでもない大きな価値が移転されると云う事になるであろう。

 (7)機械の作業能力、すなわちその作動する道具の数が与えられているならば、または力の大きさが設定されているならば、それらの結果量、生産物量は、その作業するパーツの速度に依存する。例えば、紡錘の速度、または1分間にハンマーが打つ回数に依存する。これらの巨大ハンマーの多くは、1分間に70回打ち下ろす、そしてライダーが特許を持つ機械は、紡錘を鍛造するための小さな槌で、1分間に700回の打撃を与える。

 (8)機械が生産物にその価値を移転する率が与えられているとするならば、その移転される価値量は、機械の全価値に依存している。*26

 本文注: *26 資本家的な観念を吹き込まれている読者は、このことを、機械が、その資本的価値の比率に応じて生産物に付加する「利子」と普通は見誤る。しかしながら、機械は何ら新たな価値を、他のすべての不変資本部分と同様、造らないことは、見て来た通り、簡単に分かるところである。「利子」という名の下にいかなる価値も付け加えることはできない。また、これまで我々は剰余価値の生産を取り上げて見て来たのであるから、利子の名の下にいかなるそれらの価値の存在をも、予め(フランス語 イタリック)存在すると仮定することはできない。資本家的計算様式は、ちょっと見ただけで(フランス語 イタリック)、明らかに不合理で、価値の創造の法則に矛盾している。この点については、この本の第三巻で説明することになろう。

 (本文に戻る) 機械が持っている労働が少なければ少ない程、機械はより少ない価値を生産物に分け与える。付与する価値が少なければ少ない程、それはより生産性があり、その作動は自然の力のようなものに近づく。まさに、機械による機械の生産は、その規模と能力の増大に比較すれば、相対的にその価値を小さくする。

  (9)手工業または工場手工業によって生産された商品の価格と、機械によって生産された同じ商品の価格の比較と分析によれば、一般的に、次のことが見られる。機械による生産物では、労働手段によって生じる価値は相対的に上昇するが、絶対的には低下する。他の言葉で言えば、絶対的な価値量は減少するが、その生産物全量の価値量は相対的に、例えば、撚糸1ポンドの全量に関しては増大する。*27 

  本文注: *27 機械が、単なる動かす力として使用している 馬とか他の動物に取って代わる場合では、機械が付加する価値の構成部分は絶対的にも相対的にも減少する。機械がそれらの事態の形式を変更するためのものである場合は、そうではない。ここでちなみに触れておくが、デカルトは動物を単なる機械のごときものと定義している。工場手工業時代の目で見ようとしていた。その一方で、中世の目で、動物は人間の助手と見ていた。あたかも後のフォン ハレル氏の著書 「国家管理による科学の復興」(ドイツ語)に見られるごとく、デカルトは、ベーコンと同様、生産形式の改変と人間による実用主義的な自然の征服を予想していた。あたかも思考方法を変更した結果のごとく。そのことは、彼の「方法序説」(フランス語)で明らかである。彼は、次のように云う。「学校における思索的哲学に代わって、我々は、生活に非常に役に立つ知識を得ることができる。誰でも実用的な哲学を見つけることができ、それは我々に火、水、空気、星、そしてさらに我々の回にある全てのものの力とか効用を知らしめる。あたかも我々は職人達の様々な商売を知るごとく十分に正確に知らしめられる。我々は職人達がそれに適応してすべて使いこなしたように、それらを使うことができるであろう。そしてそれが我々自身をして自然の主人、所有者とするであろう。そしてその結果として、人間的生活の完成化に寄与するであろう。」(フランス語) ダッドレイ ノース卿の「商業論」(1691) への序文はこう述べている。デカルト派の方法論は、金とか商売等々に関する古いおとぎ話と迷信的な観念から政治経済学を解放し始めた。しかしながら、結局のところ、初期の英国経済学者らは彼等の御用哲学者であるベーコンやホッブスに寄り掛かっていた。しばらくの後には、英国、フランスそしてイタリアの政治経済学者らが寄り掛かった御用哲学者はロックであった。


  訳者余談である。マルクスはデカルト他を皮肉を込めて取り上げている。ハーバード大学の白熱教室哲学講座は、ロックの思想から始まり、商売の話しで大騒ぎする。イチローの給料は高額だが、正義である。と。ここの御用哲学者と云う訳は、私の訳である。普通は御用とはいわない哲学者と訳すはず。さて、自然の主人、所有者。そして人間的生活の完成化へ寄与した結果は何だったか。福島原発では炉心溶融が起き、燃料の全てが圧力容器内の底に落下し、炉内水面下にあって、水温は105から120度であるが、溶融物の内部はかなりの高熱を保持しており、原子の自然状態が継続していて、いつその高熱が外皮を破って水に作用するか、ジルコニウムに作用するかはその自然そのままであって、制御外にある。水蒸気爆発や水素爆発が再度起こる可能性が、長期間にわたって存在する。
  国会の該当委員会に、3人の人間が呼び出され、議員の質問に答えた。福島原発という変形した不変資本を所有する資本家、原発行政を補佐、推進した政府機関の長、御用科学者として原子力の安全性を担った委員会の長である。議員はこう質問した。「メルトダウンを知ったのはどの時点、日時か。」3人はそれぞれ答えたが、経過の説明はしたが、いつかという日時は答えることが出来なかった。予想した。とか推測できたとかいう経過の説明はできても、日時はあとで調べて報告すると云うばかりであった。一人として知らなかったのである。いや知ったのがいつか分からなかったのである。まいった。もう一つ質問があった。今後予想される最悪の事態はどういう事態なのか。一人として最悪の事態を言明することができなかった。現在の状況の継続こそ最悪の事態と云う始末であった。これ以上悪い事態はないのか、これ以上悪くはならないほど悪いのかさっぱり分からない。チェルノブイリの約10倍の核燃料量がそこにあって、制御外にある。ほんのわずかな水の出し入れもままならない。
  爆発が起こる可能性があると言えば、そしてそれは極めて長期にわたると言えば、覚悟して事態に対応できる。云わなければ、直ぐに元の生活に戻れるんなら、早くしてくれとなるばかり。
  わが師匠のブログは、この歴史的事態を、哲学を替え、社会を替える契機を含んでいるとして、早くからそこに向けての計画概要を提案しています。多分振り返って見れば、その叡知は改めて高く評価されるでしょう。
  http://pga00374.cocolog-nifty.com/blog/ (2011/3/16) この大災害の教訓を計画的経済体制への転換点にしよう!
  日本の政治経済学者らは、一言も提案がない。政府やマスコミ内にあって、デカルトもベーコンもロックをも再生産することすらできなかった。マルクスが引用したデカルトに原子炉の炉心溶融という人々の生活を崩壊させる哲学があったのだから。
  実に苦労した。この本文(9) 本文注27の向坂訳は殆ど意味不明訳だったからである。デカルトもロックもこれでは歴史的意味を失う。

  (10)ある機械の生産に多大な労働が費やされていて、その機械の使用によって節約される量と同じというのならばいつも、そこには労働の置換以外の何物もない。その結果としてある商品の生産に必要とされた全労働は減少されず、または労働の生産性も増加されない。とはいえ、機械に要した労働と節約された労働との差は、別の言葉で言えば、その生産性の程度は、それ自身の価値とそれが置き換えた道具の価値との差に依存していないことは明白である。機械に費やされた労働の長さの限りにおいて、そしてその結果として生産物に付加される機械の価値の一部分が、労働者が彼の道具によって付加した価値より小さい状態に留まる限りは、そこには常に、機械の効用によって節約された労働の差が存在する。従って、機械の生産性は、機械が置き換えた労働力によって計量される。ベインズ氏によれば、前処理機を含めてミュール紡績機の450個の紡錘を動かすためには二人の労働者が必要であるという。*28

  本文注: *28 エッセン商工会議所の年度報告書( 1863年)によれば、1862年に、クルップ鋳鋼工場は、161基の溶融炉、32台の蒸気機関 ( 1800年 この数は、マンチェスターで稼働していた蒸気機関のほぼ全数であった。) そして14基の蒸気ハンマー (これだけで 1,236馬力である。)、49基の鍛造機、203台の道具機そして、約2,400人の労働者で、1,300万ポンドの鋳鋼を生産した。ここには、各1馬力当たり二人の労働者はいない。

 (本文に戻る ベイヤー氏の話しが続く) そのミュール紡績機は、1馬力で駆動され、各自動式紡錘は10時間で、13オンスの撚糸(平均的な太さの糸 番手)を生産する。であるから、週に、2 1/2人の労働者によって、365 5/8重量ポンドの撚糸を紡ぐ。かくして、ごみ量を考えないものとして、366ポンドの綿花が撚糸に変換される間、わずか150時間の労働、または、各10時間労働日の15日分を吸収するのみである。しかしこれを、手回し紡車で、手紡ぎで13オンスの撚糸を生産するには、60時間を要する。同じ重量の綿が10時間労働日で2,700日の労働 または 27,000時間の労働を吸収する。*29

 本文注: *29 バベッジは、ジャワ島では、紡績労働のみで、綿の価値にさらに綿の価値の117%の価値を加えると見積もる。同じ時代(1832年) 機械と細糸紡績工業の労働によって綿に加えられた全価値は綿の価値の約33%である。(「機械の経済性について」 165, 166ページ)

 (本文に戻る) 版木印刷、綿布に手作業で印刷する古い手法は、今では機械印刷によって取って代わられた。1台の機械が一人の男または少年の手助けで、1時間に4色で、普通では200人掛かりでやる作業と同じ量の更紗捺染を行う。*30

 本文注: *30 機械印刷は、さらに、染料を節約する。

 (本文に戻る) エリー ホィットニーが綿繰り機を発明する1793年以前では、1ポンドの綿から種を取り分けるのに平均1日分の労働を要した。彼の発明によって、黒人女性一人で日に100ポンドのきれいな綿を作り出すことができた。以後、綿繰り機の性能は相当増大した。生綿1ポンドは、以前はそれを生産するのに50セントを要したが、その発明後は、多くの不払い労働込みで、当然ながらより大きな利益を含んで、10セントで売られた。インドでは、人々は種と綿を分けるために、ある手段、半機械を用いた。チュルカと呼ばれる。これで、一人の男と一人の女性とで、日に28ポンドのきれいな綿を繰る。数年後、フォーブス博士によって発明されたチュルカでは、一人の男と一人の少年とで日 250ポンドを生産する。仮に、牛、蒸気、または水流でそれを動かすならば、二三人の少年と少女が材料の供給役とし必要となるだけである。16台のこれらの機械を牛で動かすならば、通常 日平均で750人の人々が行う作業に相当する。*31

 本文注: *31  1860年4月17日 職能協会において、ワトスン博士が読んだ、インド総督宛の生産物報告書を見よ。

  (11)前に述べたように、一台の蒸気鋤は1時間で3ペンスのコストを要するが、66人15シリングのコストを要するのと同じ作業を行う。間違いやすい記述をはっきりさせるために、この例に戻ることにしよう。15シリングは、66人の1時間の仕事に支払った全労働の貨幣額を表すものでは全くない。もし仮に、剰余労働率が100%であるとしたら、これらの66人は1時間に30シリングの価値を作り出すであろう。であるから、彼等の賃金、15シリングは単に彼等の半時間の労働を表すにすぎない。そして機械のコストが排除された年150人の賃金に相当すると想定すれば、仮に3,000英ポンドとすれば、この3,000英ポンドは、この機械が導入される以前 これらの150人によって生産された品物に加えられた労働の価格を表すものでは全くない。ただ、彼等の年労働の、それに支払われた部分のみを表すものに過ぎない。つまり、彼等の賃金を表すに過ぎない。他方、この3,000英ポンドは、その機械の貨幣価値は、労働者に支払われた賃金と資本家のための剰余価値の比率がどうであれ、その生産に用いられた全労働を表す。であるから、その価格によって排除された労働力と同じだけの価格であるとしても、依然として置き換えられた生きた労働に較べれば、そこに物体化された労働はさらにそれより少ないものである。*32

  本文注: *32  「これらの無言の斡旋人 (機械) は、常に、それが置き換えた労働よりも少ない労働の生産物である。それらの貨幣価値が同じだとしても である。」(リカード 既出 40ページ)

  (12)もっぱら生産物を安くする目的のための機械の使用は、機械の使用によって置き換えられた労働に較べて、その機械の生産に用いられた労働が必ず小さくなければならないという範囲に限定される。しかしながら、資本家にとっては、この機械の使用はさらに制約を受ける。労働に支払うのに代わって、彼は雇用した労働力の価値のみを支払う。であるから、機械使用にかかる彼の限界は、機械の価値とそれによって置き換えられる労働力の価値との差によって決定される。日労働の必要労働と剰余労働との分割は、各国によって異なり、同じ国内においてすら、時期によって異なる。または産業の異なる分業種で異なるからである。また実際、労働者の賃金は、ある時は彼の労働力以下となり、ある時はそれ以上に上がる。であるから、機械の価格とその機械によって置き換えられる労働力の価格との差は大きく変動する。たとえ、その機械の生産のために要する労働量とそれによって置き換えられる全労働量間の差が一定に留まるとしてもである。*33

  本文注: *33 故に、共産主義社会では、機械の使用について、ブルジョワ社会での見方とは全く異なる見方が存在するであろう。

  (本文に戻る) しかし、資本家にとっては、ある商品の生産価格を決定するのは、前者の差のみであり、それが、競争のブレッシャーの下で、彼の行動を左右する。だからこそ、今日の英国で発明された機械は、北アメリカでしか使用されない。丁度16、17世紀にドイツで発明された機械がオランダでしか用いられなかったのと同じである。また、丁度、18世紀にフランスで発明されたものが、英国だけで利用されたように。より古い国では、機械はある産業の分業部門で用いられ、他の部門への労働者の過剰を産んだ。これらの後者部門では賃金が労働力の価値以下に低下して、機械の使用を阻害した。そして、資本家的視点から見れば、彼等の利益は労働雇用量の縮小からではなく、労働者への支払い量の減少からであって、機械の使用は無駄なことであり、ほとんどあり得ないことであった。英国の羊毛工場手工業のある部門では、こどもたちの雇用が近年顕著に減少した。そしてあるケースでは全く廃止された。何故か? 工場法は二組のこどもたちの組を規定した。一つの組は6時間働き、他の組はその場合4時間とするか、両方の組とも5時間と規定した。しかし、両親達は、「半時間工」を、「フルタイム工」以下の安値で売ることを拒否した。そのため、「半時間工」を機械で置換したのである。*34

  本文注: *34 「労働の雇用者は、13歳以下のこどもたちの二組セットを必要もなく保持することはしなかったろう。…. 事実、ある工場手工業者等のグループでは、羊毛紡績業者連中では、今日、13歳以下のこどもたちを雇うことはほとんどない、すなわち「半時間工」をば。彼等は改良された新しい様々な種類の機械を導入し、これらはすっかりこどもたち(13歳以下)の雇用を置き換えた。ちなみに、私は、こどもたちの雇用数のこの削減を説明する一経過を取り上げておく。現存する機械に糸繋ぎ機と呼ばれる装置を付け加えることによって、各機械の特性に合わせて6人または4人の半時間工がこなした仕事を、一人の若年工(13歳を越える者)で行うことができた。…. 半時間工システムが糸繋ぎ機の発明を「刺激」したのであった。」(事実に関する調査報告書 1858年 10月31日)

  (本文に戻る) 鉱山における婦人及び10歳未満のこどもたちの労働が禁じられる以前、資本家にとっては、男性等といつも一緒に仕事をさせる、裸の婦人達・少女たちの雇用は、彼等の道徳規範には少しも抵触するものではなく、特に銭勘定上からは当然のことであった。だから、それを機械に替えたのは、ただただ、工場法が議会を通過したからのことであった。ヤンキーは砕石機を発明していた。英国ではその機械を使用しなかった。その理由は、「可愛い奴」が居たからである。*35

  本文注: *35 「可愛い奴」(英文は Wretch) とは、英国政治経済学上の単語で、農業労働者を表す言葉として知られている。

  (本文に戻る) 彼等「可愛い奴ら」はこの仕事をして、彼の労働のほんの小さな部分の支払いを得ていた。だから機械は資本家にとってはコストを増大させかねないものであった。*36

  本文注: *36 「機械は…. 労働 (彼は賃金をこう言う) が高騰するまでは、ほとんど利用されることにならない。」(リカード 既出 479ページ)

  (本文に戻る) 英国では、婦人達が今もなおしばしば運河の船を曳く馬に替わって使われている。*37

  本文注: *37 「エジンバラの社会科学会議報告書」1863年 10月 を見よ。

  (本文に戻る) なぜならば、馬や機械を生産する労働に関しては、正確にその量を知られている。一方、剰余人口にあたる婦人達を維持するに要する労働はいかなる計算においてもそれ以下だから。以来、機械の国 英国の、この最も見下げ果てた目的のためへの人間の労働力の乱用よりも恥知らずなものを見出す国はどこにもない。


  福島、いや訳者余談、そこでは貧乏で仕事が殆どない人々を、被爆をものともしない特攻作業に、多少の高賃金で狩りだし、賞賛し、靖国神社に祭りかねない言労をもって、あたかも資本の所業を拭うがごとく用いる。恥知らずな乱用は、我が国では常識的にいかなる地点でも、いかなる形でも存在する。名ばかり管理職の名の色褪せるを知らない。




[第二節 終り]






第三節

機械が労働者に及ぼす即時的作用


  (1) 近代工業の出発点は、我々が見て来たように、労働の道具における革命であり、革命がその最も高度に発達した形式を獲得したのは、工場における組織化された機械のシステムにおいてである。いかに人間材料がこの客観的な有機体に一体化されたかを調べる前に、我々は、労働者自身に生じる、この革命によるいくつかの一般的な作用について考察しておこう。



  A. 資本による補足的な労働力の私物化
  婦人たち と こどもたち の雇用
 

 

 (1) 機械が筋肉の力をなしで済ませるという限りでの話しとして云うならば、筋肉力の欠ける労働者の雇用手段となる。体の発達が不十分でも、手足が多少なりとも動く者の雇用手段となる。であるから、婦人たちとこどもたちの労働は、機械を用いる資本家どもが最初に欲しがるものであった。ゆえにこの、恐るべき労働と労働者の置換物は、直ちに、労働者の家族のすべてを、年令や性別を区別することもなく、資本の直接的な支配の下に組み入れて行くことによって、賃金労働者の数を増加させる手段となった。この強制的な資本家のための労働が、子供の遊びを強奪しただけではなく、家族を支える家庭での適度な範囲の自由労働をも奪ったのであった。*38

 本文注: *38 エドワード スミス博士は、アメリカ南北戦争による綿花恐慌の頃、英国政府によって、ランカシャー、チェルシャーその他へ、綿業労働者の衛生状態について報告するために派遣された。彼は、衛生学上の見地から、ただし工場から労働者が追い出されたことは別にして、恐慌には様々な利点があると報告した。婦人たちは、今、健康を害する「ゴッドフレーのおしゃぶり」に代わって、幼児たちに授乳させるための十分な余裕時間を持つことができた。料理を学ぶ時間も持った。ただ残念ながら、この料理術を修得しても、料理する材料がないということにはなった。そして、このことから、我々は、いかに資本が自己拡大の目的のために、家族の家庭での必要な労働を強奪したかを見出す。この恐慌はまた、裁縫学校で、労働娘たちに、裁縫を教えるために用いられた。アメリカ革命と世界的な恐慌へと至らしめるために、労働娘たちは全世界を代表して紡ぎ、そして裁縫を習うことになったと云うべきか。

 (小さな訳者余談を。ここの最後の部分の向坂訳と対比する。彼の訳は、「全世界のために糸を紡ぐ労働少女が、裁縫を習うためには、アメリカの革命と世界恐慌が必要なのだ! 」である。なんじゃこれは。私が云いたいのは、全人類のために働く技術者や工業デザイナーが、一転、自ら学費50%を調達して、政府支援の金融商品販売の接客術を有名大学の経済学部の出張教室で学ばせられるのは、まさにその労働の結果とでも云うことになるのかという面白さの方なのだ。一億総懺悔もその一変種と云いたい。後は皆で懺悔すればいいと、戦争や原発立地をしたかように。まさに歴史ど忘れの観念論を逆説的に示したところのマルクス独特の面白さなのだ。)

 (2) 労働力の価値は、一成人労働者個人の生活を維持する必要な労働時間によって決められるのみでなく、彼の家庭を維持するに必要な時間によっても決められる。その家庭の全てのメンバーを労働市場に投入することによって、機械は、労働力の価値を彼の家庭の全ての者に拡げる。そうすることよって、彼の労働力の価値を低下させる。一家庭の4人の労働者の労働力を買うためには、その家庭の頭の労働力を以前のように買うよりは多少は高くつく。しかし、その結果、一人の労働日に代わって4労働日が生じる。そしてかれら全体4人の費用は、一人の剰余労働以上の4人の剰余労働の超過分に見合うところまで低下して落ち着く。4人の人々は今や、自分達家族の生活のために働くだけではなく、資本家のためにさらなる剰余労働をすることになった。かように、機械は、一方で資本の搾取力の原理的対象を形成する人間材料を増大させるとともに、*39 同時に、搾取率をも高める。

 本文注: *39 「労働者の数の増大に至ったのは、男性に替わって女性の代用、成人に替わってこどもの代用を通じてである。週賃金が6シリングから8シリングの13歳の少女3人が、週賃金が18シリングから45シリングの成人男子一人にとって代わった。」(Th. De クィンシー 「政治経済学の論理」ロンドン 1844年 注 147ページ)
 (ここにも訳者小余談を入れる。年配労働者ともなれば、「お前の高い給料で、若くて生きのいいのを二人雇える」というせりふを聞かされない人はいないし、資本家的立場に立てば立つほどこの冗談で、仲間の昇給停止を言い聞かすはずである。後者に立つ人は余程の愚かさがなければ勤まらない。資本家はこれ以外のせりふを知らない。そして一人の資本の増大が二人の資本家に置き換わるのではなく、大勢の資本家が一人の資本家に屈する。資本家には数は要らないのである。小余談はここまで。)
 (注*39の続き) 以後、とある家庭の機能、育児や幼児の授乳は、止めてしまう分けには行かないので、資本に徴発されてしまった母親は、その種のしごとを代わってくれる人を頼まねばならない。家庭内の仕事、例えば裁縫とか繕いとかは出来合いの品を買ってそれらに代えねばならない。それゆえ、家庭の中での労働支出の縮小は、お金の支出の増大を伴う。家庭の維持コストの増大と、多少増えた収入とが相殺される。その上、生活手段の準備や消費に関する節約やら判断やらは不可能なものとなる。これらの事実に関する豊富な材料は、表向きの政治経済学によっては隠蔽されるが、児童雇用監視委員会の工場査察官の報告書では明らかである。そして、特に公衆衛生に関する報告書にはさらに多くのことを見ることができる。

 (3) 機械は、正式な労働者と資本家間のお互いの契約を根本的に変える。我々の基本的な事項である商品の交換については、最初の我々の仮定では、資本家と労働者は自由な人間として、それぞれ商品の独立した所有者として相対する。一人は貨幣と生産手段を持ち、もう一人は労働力を有する。しかし今では、資本家はこどもたちや成年には届かない年少者を買う。以前は労働者は自分の労働力を売った。それは彼が自由な商人としてそれをなした。ところが今では、彼は彼の妻や子供を売る。彼は奴隷商人になってしまった。*40

  本文注: *40 成年男子労働者によって、英国の工場における女性たちとこどもたちの労働時間の短縮が、資本家に対して厳密に実施されたと云う事実とは対照的に、我々は、最近の児童の雇用に関する委員会報告書に、児童取引に係わる労働者の両親達の特徴として、真実おぞましくかつ全く奴隷売買の如き記述を見出す。ところが、資本家パリサイびとは、自分が作りだし、不朽化し、搾取を拡大し、その上、「労働の自由」として洗礼を施したこの蛮行を非難する。このことは同じ報告書にも見ることができる。「児童労働は救済されねばならない。…. 例え彼等が毎日自分のパンを求めるために働いているとしても。そのような不釣り合いな労苦に耐える力もなく、将来の生活への道筋の準備もなく、こどもたちは、肉体的にも精神的にも汚濁にまみれた状況に放り出されている。ティトゥスによるエルサレム征服について、ユダヤの歴史家はこう述べている。人間性を失った母親が自分のこどもを己の圧倒的な渇望を満足させるために犠牲にした時、そのような破滅のシグナルがあったのだから、破滅させられるのになんの不思議も無かった。」(「集中化された公的経済学」カーライル 1833年 66ページ)

  (本文に戻る) 多くの場合、児童労働に対する需要は、黒人奴隷に対する需要形式とよく似ている。次に見るように、ちょうどアメリカの新聞広告には見なれたものの如くである。

  (4) 「私の目は」と、ある英国の工場査察官は言う。「私の管轄する地域の、最重要な工場手工業の町の、ある地方新聞に載った広告に引きつけられた。その文面は次の如くである。12歳から20歳の若い人を募集する、但し13歳として通用する者より若い者を除く。賃金は、週4シリング。申し込みその他は」*41

  本文注: *41 A. レッドグレーブ の「工場査察報告書 1858年10月31日」 40,41 ページ

 (5) 「13歳として通用する者」という文句は、ある事実に係わる。つまり、工場法は、13歳以下の児童は日6時間しか働かせられない。公式に任命された医師が彼等の年令を証明しなければならない。だから工場手工業者は、彼等があたかも13歳に達しているかどうかを判断する。工場に雇用される13歳未満の児童の数が突拍子もなく減少する。ここ20年の英国統計によれば、この減少は驚くべき不自然さを見せる。そのことは、工場査察官自身が認める証拠によれば、年令証明をする医師らの仕業である。医師らは資本家の搾取欲に迎合し、また親達の恥知らずな不正に迎合して、児童の年令を過大に偽ったのである。悪名高きベスナール グリーン地域では、毎週月曜日と火曜日の朝、公開市場が開かれる。そこでは、9歳以上の男女の子供達が、絹工場手工業者に、自分たちを賃貸しする。「通常の賃貸条件は、週1シリングと8ペンス(これは両親に所属する分)と、' 私のための2ペンスとお茶'、この契約はその週のみに限ったものである。この市場が開かれている時の光景と使われる言語は全く恥ずべきものばかり。」*42 

  本文注: *42「児童雇用調査委員会 第5回 報告書」ロンドン 1866年 81ページ ノート31 [ドイツ語第4版には、--このベスナール グリーンの絹産業は今では殆どなくなっている、--と追記されている。F. エンゲルス]

  (本文に戻る) 英国ではまた、こう言うこともあった。女どもが「救貧院からこどもたちを連れ出して、週2シリング 6ペンスでだれかれ構わずに引き渡した。」*43

  本文注: *43「児童雇用調査委員会 第3回 報告書」ロンドン 1864年 53ページ ノート15

  (本文に戻る) 法律があるにも係わらず、大英帝国では、多くの少年たちが彼等の両親らによって、生きた煙突掃除機として売られた。(彼等に代わる多くの機械が存在しているに係わらず) その数は2,000人を越えた。*44

     本文注: *44「既出 児童雇用調査委員会 第5回 報告書」22ページ ノート137

     (本文に戻る) 機械によって影響を受けた労働力の買い手と売り手の法的な関係は、全くのところ、自由な人間同士の契約という外観すらをも失うほどに変容しており、英国議会としても、言い訳的に工場に対する国の立場として、法的な原則を設けた。以前は制約しなかった児童の6時間労働制限法を持ち出せば、その度に工場手工業者たちの抗議が常に更新された。工場手工業者達はこう抗議した。多くの両親達は法の下に、彼等の子供たちを工場から連れ出し、「労働の自由」が依然として存在するところへ、つまり13歳未満の子供たちを成人と同様に働かせて、高い価格を排除することができるところへ、と売ると。だがしかし、もともと資本の本性は平等主義者ではなかったか。あらゆる生産局面において労働の搾取条件の平等を求めたのではなかったか。児童労働を制限する法が、ある産業部門で規定されれば、それが他部門での制限の原因となるはずではなかったか。

 (6) 我々はすでに機械が、女性たちに身体的な悪化をもたらすことと同様に児童や若い人達にも身体的な影響を及ぼすことについて言及した。 最初は直接的に機械の上に急速に成り立った工場において、そして残るあらゆる産業部門においても間接的に、資本の搾取に服従させられる全ての者に及ぶことを。ではあるが、ここでは、一点についてのみ詳述する。それは労働者のこどもたちの最初の一年にも達しない間の彼等の命、その大きな死亡者数のことである。英国の各地区の中の16の登録地区では、1才未満のこどもたち10万人ごとに、1年間で平均わずか9,000人が死亡する。(ある一つの地区ではたったの7,047人である) 24地区では1万人を越える死亡があるが、11,000人は越えない。39の地区では、11,000人を越えるが、12,000人以下。48地区では、12,000人を越えるが、13,000人以下。22地区では20,000人を越える。25地区では21,000人を越え、17地区では22,000人を越える。11地区では23,000人を越える。フー、ウルバーハンプトン、アシュトン-アンダー-レイン、そしてプレストンでは24,000人を越え、ノッチンガム、ストックポート、そしてブラッドフォードでは、25,000人を越え、ウイズビーチでは16,000人、そしてマンチェスターでは26,125人である。*45

   本文注: *45「公衆衛生 第6回報告書」ロンドン 1864年 34ページ

   (本文に戻る) 1861年の公式医学調査によれば、この高い死亡率は、地方的な原因を別として、基本的には、こどもたちの家庭から母親を仕事へと奪ったことに起因している。彼女達の不在の結果として、育児放棄、虐待となり、その他にも不十分な食事、不適切な食品、そして阿片の吸引がある。これらに加えて、母と子の不自然な隔絶が生じ、そのため子供たちに対する意図的な飢餓や薬漬けも起こる。*46

   本文注: *46 「それが、(1861年の調査)が示しているところは、それ以上のものがある。そこに記された状況によれば、母親の就業の結果としてネグレクトや養育不全で幼児が死亡するが、母親達は彼女たちの子供に対しては全く常軌を逸しており、こどもたちが死んでもなんの気持ちも持たず、時には、直接手をかけて死を確実にすることもある。」(既出「公衆衛生 第6回報告書」)

   (本文に戻る) それらの地区のうちの農業地区で、「そこは女性の雇用は最少であって、そのため死亡率は非常に低い」ところで、*47

   本文注: *47 「公衆衛生 第6回報告書」ロンドン 1864年 454ページ

   (本文に戻る) 1861年の調査委員会は、それにも係わらず、予想外の結果に関して調査を進めた。そこは北海に面する純粋な農業地区なのに、1才未満の幼児の死亡率が、最悪な工場地区とほぼ同じであった。ジュリアン ハンター博士は、そのため、この特異地点の減少を調査するよう任命された。彼の報告書は、「公衆衛生第6回報告書」に収録されている。*48

   本文注: *48 「公衆衛生 第6回報告書」ロンドン 1864年 454ページから463ページ 「ヘンリー ジュリアン ハンター博士による ある英国の田園地区における 幼児の過大な死亡数に関する報告」

   (本文に戻る) 当時は、子供たちはマラリアとか、その他の低地で湿地である地域に特有の疾患によって死亡するものと思われていた。しかし調査は全く別の結果を示した。マラリアを撲滅し、冬は沼地、夏は貧弱な牧草地を肥沃な穀倉地に改良したことが原因で、幼児の例外的な死亡率を作り出したのであった。*49

   本文注: *49 「公衆衛生 第6回報告書」ロンドン 1864年 455ページから456ページ

   (本文に戻る) ハンター博士が聴取したその地区の70人の医師たちは、この点については、「驚くほど一致していた。」 事実、土地開墾様式の革命が産業システムを導入することになったのである。

 (7) 少年たちや少女たちと一緒になって隊の中で働く既婚婦人たちは、隊全体を請負として提供する「請負業者」と呼ばれる農夫の自由な処分の下に置かれ、契約条件に従って、使われる。「これらの一隊は、度々、自分たちの村からかなりの距離を歩くことになろう。彼女たちは朝集合させられ夕方はその道を戻る。彼女たちは、短いペティコートと、それに見合う上着とブーツ、時にはズボンという格好で、一見驚くほど頑強で健康的に見えるのだが、習慣的なふしだらに染まっており、彼女たちのこの忙しくそして独立した生活への愛着が、家に留め置かれた彼女等の子供たちの上にもらす致命的な結果には気が回らない。」*50

 本文注: *50 前出 456ページ

  (8) 工場地域のあらゆる現象がここに再生産されている。悪質な偽装的幼児殺しや鎮静剤等の投与等を含み、さらにその広がりも大きい。*51

  本文注: *51 工場地域と同様、農業地域での、成年労働者、男女とも、アヘンの消費量は日々増大している。「鎮静剤等の販売を促進することは、…. ある卸売業者の偉大なる目的である。薬屋によれば、それらが筆頭商品であるとみなされている。」(前出 459ページ) 鎮静剤等を投与されたこどもたちは、「小さな老人のごとくしわしわで、」あるいは 「しなびた小猿のよう。」(前出 460ページ) 我々は、ここに、インドや中国が、どのようにして、英国に対して彼等の復讐をなし遂げたかを知る。

 (9) 「それらの弊害に関して私が知っているからこそ、」と、英国枢密院の医務官であり、公衆衛生に関する報告書の編集者でもあるサイモン博士は、語る。「あらゆる大きな産業における成人婦人の雇用に関して、非常に憂慮していることを言わねばならない。」*52 

 本文注: *52 前出 37ページ

 (10) 「それこそ幸せそのもの」と、工場査察官のベイカー氏は彼の公式報告書に書いている。「それこそ幸せそのものである、英国の工場手工業地域において、家庭をもつ既婚婦人たちのすべてが、あらゆる繊維関係の仕事から締め出されることになるならば。」*53

 本文注: *53 事実に関する報告書 1862年 10月31日 59ページ ベイカー氏は以前は医師であった。

 (11) 女性たち及びこどもたちの資本主義的搾取によって生じるモラルの頽廃については、F. エンゲルスが書いた、彼の「英国における労働者階級の境遇」(ドイツ語) に余すところなく叙述されている。そして他の著者達によっても。であるから、私は、ここでは、それが起因になって生じたことのみについて述べるに止める。まさにこのような知的退廃、未熟な人間を、剰余価値の絞り出しのために、単なる機械とする人為的に作りだされた知性の退廃は、その心の状態は、自然の状態においては、今は無知であっても、いずれは発展していく能力として持っているものを壊すことがない自然的な心の豊かさを秘めているものだが、これとは全く別のものである。であるから、この退廃がついには、英国議会をして、工場法に、あらゆる産業において、14歳未満の「生産的」に雇用されているこどもたちに、初等教育を強制的に実施するという明文を入れることを余儀なくさせた。とはいえ、資本主義的生産体制の精神は、工場法のいわゆる教育条項をはっきりと愚弄しており、それを執行する仕組みの欠如もあって、明確なる幻想に堕するものとなった。工場手工業者等のこの教育条項への反対もあり、またそれらの条項から逃げるための勝手な解釈やらごまかしが横行した。

 (12) 「あたかも 雇用されたこどもたちには、教育が与えられるかのように読めるこの欺瞞的法律として議会を通過させられた この法律こそ恥知らずそのものである。そこにはその公言された目的を担保するなんの条項も、以下の他は無かったのである。そこにあるのは、こどもたちを、週何日かの、各日何時間 (3時間) かを、四面壁に囲まれた学校と称される場所に閉じ込めることと、こどもたちの雇用者は毎週、学校教師または学校女教師として履修書に署名するよう指名された者による有効な署名をされた同書類を受け取らなければならない。ということ以外には何もなかったのである。」*54

 本文注: *54 L. ホーナーの「事実に関する報告書 1857年 7月30日」 17ページ

 (13)  1844年の改正工場法が通過する以前は、二三はと言うことではなく、学校教師または学校女教師の、学校に出席したことを証明する書類は、十字マークで署名されていた。彼等 彼女等は字が書けなかったからである。

 (14)  「ある時学校と呼ばれる場所、学校への出席を証明する書類が提出される場所を訪ねたが、学校教師の無学には全く驚かされた。というのは、私が彼に「あの、ちょっとお尋ねしますが、あなたは字が読めますか?」と云った時、彼の答えは「いかにも、かなり!」と云い、署名する権利の正当性をも付け加えた。「ともかく、私は生徒たちの前にいるのですから」」(訳者注 : 茶色部分の原文は、Aye, summat! である。ヨークシャー地方の俗語、英国の俗語である。前者はyes 後者は somewhatで、暗喩としては、something like that である。もう少し正確に訳すなら、「その通り、そう云うことで」となるかも。まあ、そうではないことの表現なのだが、そう読めるかどうかはもう、読者の世界でと云うことで。訳者の楽しみはここまでに。)

 (15)  工場査察官達は、1844年工場法の準備当たって、この学校と呼ばれる場所の恥ずべき状況を明確にするのに失敗してはいなかった。履修証明書については法に同意したが、彼等は、1845年の法以後にも続くある一つのことには成功していた。

 (16)  学校履修証明書は、学校教師の自筆による記入でなければならず、かつ彼の「省略なしの クリスチャンネームと姓」をもって署名しなければならない。*55

 本文注: *55 L. ホーナーの「事実に関する報告書 1855年 10月31日」 18、19ページ

 (17)  スコットランドの工場査察官 ジョン キンケード氏も、同じような経験について語っている。

 (18) 「我々が訪ねた最初の学校は、Mrs. アン キリンによって行われている学校であった。彼女の名前のスペルを訊ねたところ、彼女は入口で間違えた。Cで書き始めたが、直ぐに自分で書き直した。彼女は彼女の名前が Kで始まると云った。だが、学校の証明書控えには、いろいろな書き方で記されていることに私は気が付いた。記入もさることながら、彼女の筆跡は疑いもなく、教える適性がないことを示すものであった。彼女自身も彼女がこの記帳を続けることはできないと自認していた。…. 二番目の学校では、その学校なるものが、奥行き15フィート 巾10フィートで、その中に、数えれば、75人のこどもたちがいた。子供たちは何かわけの分からない声をあげていた。」*56

 本文注: *56 ジョン キンケード氏の「事実に関する査察報告書 1858年 10月31日」 31、32ページ

 (本文に戻る) 「しかし、この劣悪極まる場所はここに取り上げた例のみに留まるものでは無かった。子供たちは何ら意味のある指導を受けることなく学校出席の証明書を得る。なぜそうなるかと云えば、多くの学校には有能なる教師はいるが、彼の努力はありとあらゆる年令の、三歳からかなり上の年令までの雑多な子供たちの大騒ぎの中ではなんの手を打つこともできなかった。彼の暮らしは、もっともいいケースでも、惨めなもので、その空間に詰め込むことができた最大数の子供たちから受け取るペンスに依存していたのである。それに加えて、学校家具はわずかしかなく、図書もなく、教具もない。そして貧しい子供たちは、狭く、臭い場所に押し込まれて生気もなくなる。私はそのような学校を沢山見てきた。そこでは子供たちは全く何もせずに並んでいる。これが学校出席としての証明となる。統計的に見れば、このような子供たちは、教育された者として数えられる。」*57

 本文注: *57 L ホーナーの「事実に関する査察報告書 1857年 10月31日」 17、18ページ

 (19) スコットランドの工場手工業者等は、学校に主席しなければならない義務のある子供たちを排除するためにできることはなんでも試みた。

 (20) 「工場法の教育条項は、工場主等にこのような嫌悪を催し、雇用と教育の効用を同時に意図した工場法に該当する年令層の子供たちを排除しようとしたことを証明するには、以下の記録の他になんの議論も要らない。」*58

 本文注: *58 ジョン キンケード氏の「事実に関する査察報告書 1856年 10月31日」 66ページ

  (21)  恐ろしく奇怪なる事態が、特別工場法によって規制される捺染工場手工業に出現した。その法によれば、

  (22) 「捺染工場手工業に雇用される以前に、すべての子供たちは、少なくとも30日、150時間以上、学校に出席しなければならない。最初の雇用日に先立つ直近の6ヶ月間、そして捺染作業に雇用されている連続する期間において30日かつ150時間と見なされる期間出席しなければならない、各連続する6ヶ月の期間ごとに、…. 学校への出席は、午前8時から午後6時の間でなければならない。いかなる日であれ、2時間半以下または5時間以上の出席は、150時間の一部としての出席記録とならない。( 論理的に追いかければ、意味不明である。文字遊びの謎というか、クイズ見たいである。訳者注: 法の文字づら解釈の自由の例みたいなもん。) 通常の状態では、子供たちは朝と午後30日間各日少なくとも5時間、学校に出席する。子供たちの言葉で言えば、出席簿ができ上がるまで、…. 所定の時間数学校に出席した多くの少年たちは、捺染の6ヶ月間の作業の終了後に学校に戻った時、捺染少年工として最初に出席した時と全く同じ状態なのである。つまり、彼等の前回の出席で得たものが全て失われたということ。…. 他の捺染工場では、子供たちの学校への出席は、全くの所、企業内の緊急作業の有無に依存している。各6ヶ月ごとに必要な時間数は、1回あたり3時間から5時間の細切れで、多分、全6ヶ月の間にばらまかれている。…. 例えば、ある日の出席は朝8時から11時、また別の日では午後1時から4時、そして子供たちは、数日間は学校には現われないだろう。午後3時から6時に出席すれば、3、4日続けて、または1週間出席するかも知れない。が、その後は、3週間ない1ヶ月はやってはこないだろう。その後、ある日ある時間、雇用する親方がその動産少年の余った時間にそれを嵌め込む。かくてその子供たちはあたかもサッカーボールのように、学校から作業場へ、作業場から学校へと翻弄される。150時間という仮想的試合時間終了の笛がなるまで。」( 色の変わっている部分は、訳者の得意な訳にしており申し訳ない。原文を添えて置く。and thus the child was, as it were, buffeted from school to work, from work to school, until the tale of 150 hours was told. ) *59

  本文注: *59 A. レッドグレーブの 「事実に関する査察報告書 1857年 10月31日」41-42ページ 正規の工場法 ( 本文で取り上げた捺染工場法ではないが) が施行されてしばらく経過した該当産業部門では、この教育条項の実施に係る障害は、近年、克服されてきた。工場法に該当しない産業部門では、J. ゲッデス氏 ガラス工場手工業者 のような見解が依然として広く蔓延している。彼が、調査委員会委員の一人であるホワイト氏に伝えた言葉は次の通りである。「私の見る限りでは、労働者階級の一部がここ数年楽しんだ大量の教育は、害悪である。危険である。なぜならば、それは彼等を自立させる。」(「児童の雇用に関する委員会 第4次報告書」 ロンドン 1865年 253ページ) 

 (23)  このように多くの女性や児童が、労働者の仲間に加わるにつれて、機械はついに、男性労働者が工場手工業時代を通じて資本の専制に対抗してきた抵抗運動を打ち砕いた。*60

  本文注: *60「工場手工業者 E氏… が私に語ったところによれば、彼は彼の力織機に女性をもっぱら雇用している。…. 既婚婦人を雇用すると決めている。特に、家族が居り、扶養が彼女の腕にかかっている者を。彼女らは未婚女性よりも注意深く、従順で、生活に必要なものを手に入れるために、彼女らはでき得るかぎの努力をするよう余儀なくされている。かくてその美徳が、女性的性格でもある独特の美徳が、自身を痛めるものへと転換される。---かくて、最も忠実で優しい彼女の性質が、彼女の隷属と労苦の手段にされる。」( 10時間工場法案 アッシュレー卿の演説 3月15日 ロンドン 1844年 20ページ)


(A. 資本による補足的な労働力の私物化
婦人たち と こどもたち の雇用
終り)



 


 (訳者の余計な追記であるが) 今、保育所への待機児童数が、増大している。保育所を設置すればするほど、待機児童が増える。普通に考えれば、保育所を設置すれば、待機児童が減ると思うのが常識的な算数であるが、逆に増大する。市町村区では予算が追いつかない。一体何故なのか。このAの最後の部分には、女性労働者の状況が書かれている。女性や児童が資本に雇用されるようになるのに、機械が果たした役割をよく物語っている。改めて機械とはなにかを理解させてくれる。

 デザインの世界には、道具論というのがある。デザイナーは道具をデザインする。道具は人のために存在する。道具は人によって使用され、人間の様々な生活や行動を自由に、そして効率的にし、そして人間の意志に応じて働く。道具そのものには善悪も有効無効も基本的にはない。人が使うことで初めて、使い方によっては、様々な問題を惹起する。誰がどう使おうと、道具にはそれを制約するものはない。従って、道具をデザインすることは、悪とか搾取とか妨害とかを含んではいない。善なる行為である。自然の行為である。道具をデザインするデザイナーこそ道具のデザインに徹することで、道具の命を生む。

 例えば武器である。武器は道具である。道具は道具としての本来的存在であるのだから、武器は従って、人間にとって本来的な道具なのである。ただ、使う人間によってのみ、殺人道具となるし、人間を守る道具となる。道具は人間から独立している。その道具を道具として知ることこそ、デザイナーの倫理、デザイナーとしての人間性と云うことになる。もう少し余計な言葉で云えば、道具は道具であって、人のために役立つ。その逆はない。あるとすれば、人間になんらかの異常があって、道具が異常なものとなる。道具は環具ともなる。環境の道具、環境も道具であり、道具が環境を作り出す。道具は道具として進化し、新陳代謝する。代表的な道具論者としては、栄久庵憲司、黒川紀章、川添 登 といったところだ。原発について彼等が何か云ったということは聞いたことがない。道具論では手に負えないものもあるようだ。後継者達の無残よ。

 さて、こんな道具論など全くの愚論なのだが、商品という莫大な集積が地表を覆うような状況では、そのような観念論が呼応する。またそういう論が、資本主義的商品の拡大を、資本の商売の自由を謳歌する連中にとっては笑いが止まらない演歌・応援歌・浪花節となるのである。

 何故、待機児童が減らないかは、女性労働力を安く買う資本の状況こそが原因であることは、資本論15章の当該のページを読めば、その答えは明らかである。保育所が整備されれば、その労働力を売ろうとする女性達がますます増大するからであり、そのような安い労働力を求める資本と、労賃の低下で生活が困難となる成人男性労働者の増大がある。失業者が増え、生活が困難になれば、生活を維持するための売れる労働力を売る以外に方法が無くなる。待機児童はますます増大するのである。市町村区には資本の暴走を予測することも制御することもできないので、将来の少子高齢化・人口減も予想されると云うのに保育所を増設する理由が分からないのである。建設を控えれば待機児童は減るのではないかと逆の推論を持って来る。

 人間は道具である。しかも余剰労働を産み出す道具である。生きた道具である。この生きた道具は自由に買える。なかにはかなり安い価格で買えるものもある。海外には多くの安い労働力があり、ミヤンマーには世界最安の労働力が発見された。国内には女性や児童という安い労働力もある。安い労働力があれば、高い労働力を駆逐することもでき、成人男子労働力もまた安くなる。海外の労働力と同じ価格にもなるだろう。世界均一価格に辿り着く頃には、更なる機械を以て、もっと安い労働力を開発できるかも知れない。生きた道具論の世界である。資本論を読む人々には生きた労働力という道具商品を棄却する世界が見えて来る。  



  B. 労働日の延長化
 

 

  (1) 機械がもし、労働の生産性を増大させる最も強力な力を有するというならば、すなわち一商品の生産に要する労働時間を短縮させる最強力な力を有するというならば、それは資本の側にとっては最強力な手段となる。機械なるものに侵入されたそれらの産業においては、人間の性質なるものによって縛られていた労働日という枠を越えて、労働日を長くするための強力な手段となる。このことは、一方で、資本をして彼らの労働日延長への相も変わらぬ意図への無制限の期待を与える新たな条件を創り出し、また一方で、資本の他人の労働をものにする欲望を刺激する新たな動機となる。

  (2) なによりも、機械の形式として、この労働の手段は自動機械となる。この物体は労働者から独立して動きかつ作業する。それ等はそれ故、産業の恒久機関(ラテン語)となる。機械の付随役なる人間の弱き肉体と強き意志というある種の自然的な障碍に出会わぬならば、永久に生産を継続するであろう。この自動装置は、資本として、そしてそれが資本であるからこそ、資本家と云う人間に、思いつきと意志を賦与する。であるから、弾いてもすぐに反発する自然的障碍、人間、の抵抗を最小限に減らしたいという願望が喚起される。*61

 本文注: *61「機械が一般的に導入されてから、人間の性質は、その平均的な力量を遙かに越えたところのものを強いられている。(ロバート オーエン 「工場手工業システムの効用に関する観察」第二盤版 ロンドン 1817年) 

 (本文に戻る) この抵抗は、機械作業の明らかな軽さによって相当に軽減されており、また、そこに雇用した婦人たちやこどもたちの従順で扱いやすい性格によってもさらに軽減されている。*62

 本文注: *62 英国人は、物事の最初の外観の形式をあたかもその存在の原因であると見なす性癖を持っており、工場での長時間労働の原因は、工場システムの揺籃期に、資本家どもによって行われた、一種の強奪であって、抵抗もみせない搾取のための材料の獲得として行われた、救貧院や孤児院からの広範囲な子供たちの誘拐の結果であると考える習慣がある。それ故、例えば、フィサイデン 彼自身工場手工業者の一人であるが、こう云う「長時間労働は、非常に多くの貧困にあえぐ子供たちが国の様々な地域から供給されたという状況によってもたらされたものである。工場主等がそれに直接関与したわけではない。だが一旦この様な哀れな材料と云うものがこのように生じるという仕組みが慣習として確立されたならば、彼等は彼らの隣人たちに対してもそれを偉大なる便益として取り込むことができた。」(J. フィサイデン 「工場システムが受けた呪縛」ロンドン 1836年 第1巻 の1ページ) 婦人労働者に言及して、工場査察官のサウンダースは、彼の1844年の報告書で次のように述べている。「女性労働者の中には、何週間も連続で、二三日を除き、朝8時から真夜中まで、2時間に欠ける食事時間しかなしに、週5日、24時間の内のたった6時間しか残された時間はなく、それも、家に戻り、ベッドに入り、また家から来る時間なのである。」

 (訳者注: この注62 は、訳者泣かせの一文である。多分訳文をそのままに読んでも、論理的な把握はできないだろう。とはいえ、何故長時間労働がそこにあるのかの原因をかなり正確に把握している読者の皆さんは、ここにマルクス一流の対照的な皮肉たっぷりの言い回しを感じ取っていると思う。フィサイデンは、原因を貧しい子供たちの救済 (マルクスは誘拐) ということと理解し、かつ、彼等は(自分達は)それを彼の隣人、彼が雇用する人にも、長時間労働を強いるという便益があり、当然の経過的必然として、そのために利用できると述べるのである。「工場システムが受けた呪縛」という著書の題名は、英文では単に、「工場システムの呪縛」であって、いかようにも読める言葉である。一見では工場システムが労働者を縛りつける呪縛のようにも読めるが、本人は子供たちの救済というのが自分たちへの呪縛である上、さらにその呪縛の効用を利用するという倒錯的難解性に富んだ部分である。この現代においても、労働者を雇用してやるのだ、経済成長がなければそれもできないと嘯くのが性癖。この部分の向坂訳は意味不明である。)

 (3) 我々が見てきたように、機械の生産性と、機械によって商品に移管される価値とは逆比例する。機械の寿命が長くなれば長くなるほど、機械によって移転される価値はより多くの生産物に行き渡る。そして一個の商品に対して加えられる価値の比率は小さくなる。とはいえ、実際の機械の寿命は、明確に労働日の長さに依存している。または、日々の労働過程の期間に、仕事が実際になされるための何日かを乗じたものに依存している。

 (4) 機械の損耗は、その稼働時間に正確に比例するものではない。そして、仮にそうであったとしたら、日16時間 7年半稼働する機械は、同じ機械が日8時間 15年稼働する場合と同じ稼働時間であり、全生産物に移転する価値が多いことにはならない。だが、最初のケースの場合は、後者の場合より2倍も早く機械の価値が再生産される。だから、資本家は、この機械を用いて、第2のケース、15年かけて吸収する剰余価値を7年半で絞り出そうとする。

 (5) 機械の物質的損耗には二つの種類がある。一つはそれを使用することによって生じ、流通におけるコインと同様に磨耗する。もう一つは使用ではなく、剣が鞘の中にあるままに錆びるように、損耗する。後者の種類は自然の力による。前者の場合は多少にかかわらず機械の使用による直接的な比例関係があり、後者の場合はある程度は使用とは反比例関係にある。*63

 本文注: *63「時には、…. 機械の休止によって、機械のデリケートな可動金属部分に損傷を受けることがある。(ユア 既出 281ページ) (この部分の向坂訳は全く逆、注の役割を失っている。)

  (6) 機械の物質的損耗に加えて、機械は、陳腐化と云うべき価値の低下に直面する。 (訳者注:この部分の英文は、a machine also undergoes, what we may call a moral depreciation. で、向坂訳は、いわば道徳的磨損をも受ける となっている。機械としての活気の低下とか、機械としての活動性の維持困難とか、機械自体のやる気の欠落とか云うことだが、道徳的磨損と云う日本語を持って来ると難解を通り越して把握困難性を創造する。) 同じ種類の機械がより安く生産されるとか、よりよい良い機械が競争に参加することによって、その機械は交換価値を失う。*64

  本文注: *64 この点に関する言い分には、すでに触れているが、ザ マンチェスター 紡績業者 (タイムズ 1862年 11月26日)は、「そのことも、(すなわち、機械の価値低下に対して、予め見込んで置くことも) また、常に、機械が全損耗する前に、新たなより良い構造を持った他の機械の登場によって、当該機械を廃棄するはめになる損失が考慮されていなければならない。」と。

 (本文に戻る) どちらの場合においても、機械がまだ若く、十分な寿命を有していても、その価値はもはやそこに現実に物質化された労働によって決められるのではなく、それを再生産するに要する労働時間または良い機械のそれによって決定される。それ故、その機械は多少の価値をすでに失っている。その総価値を再生産するに要する期間が短ければ短い程、陳腐化の危険性は少なくなる。そして労働日が長ければ長い程、その期間は短くなる。機械が産業に最初に持ち込まれるやいなや、それをより安く再生産する方法が次から次と続いた。*65 

 本文注: *65「新たに発明された一個の機械は、大雑把に見積もって、二番目の建造に比べれば、約5倍はするものと思われる。」(バベッジ 既出 349ページ)

 (本文に戻る) そして改良もされ、それは単に個々の部品や機械の一部分に影響するのではなく、機械全体に及ぶ。であるからこそ、機械の初期においては、労働日の延長化は特別なる動機としてそのことを最も敏感に感じさせるものとなる。*66

 本文注: *66「ある特許のベール地を作る機構に、ほんの少し前のことだが、改良が加えられた。その効果は甚大で、その良き改造状態の機械が1,200英ポンドもしたものだが、二三年後には60英ポンドで売られた。…. 改良が非常に早く繰り返され、機械はその改造が終わらないうちに、業者によって廃棄された。何故かと云えば、さらに新たな改良がそれらの機能を駆逐していたからである。」(バベッジ 既出 233ページ) この嵐のような展開を見せたこの時代では、当然ながら、ベール地の工場手工業者は、忽ち、二組の労働者群を配置して労働日を元の8時間から24時間へと拡大した。

 (7) 労働日の長さが与えられているものとして、他の全ての状況が同じに留まるならば、二倍数の労働者の搾取は、二倍数の不変資本、機械とか建物に投資されるそれらのみならず、原材料や補助的物資に関わるものをも含む資本額を要求する。一方、労働日の長さの延長ということになれば、機械や建物に注ぎ込む資本額を変えることなしに、生産の拡大が許される。*67

 本文注: *67「市場の干満や要望の拡大縮小が常に生じる状況にあって、工場手工業者が固定資本の追加的投入なしに、追加的な流動資本を用いることができるならば、…. もしも、建物や機械への追加的な支出を招くことなく、追加的な原材料の量をこなすことができるならば、そうしたことが繰り返されるのは云うまでもないことである。」(R. トレンズ 「賃金と組み合わせについて」ロンドン 1834年 64ページ)

 (本文に戻る) 従って、剰余価値の増大のみでなく、それを得るための必要な支出が減少する。このことは、労働日の延長に伴って多かれ少なかれ生じる事実であるが、ここでの考察におけるこの場合は、その変容は特に重要である。なぜならば、この、労働手段に転換された資本こそが、圧倒的に大きな意味を持っているからである。*68

 本文注: *68 ここに叙述した状況については、単に完結的に示したものにすぎない。というのも、私は利益率、すなわち前貸し総資本に対する剰余価値率については、第三巻までは取り上げるつもりがないからである。

 (本文に戻る) 工場システムの発展は不断に資本の一部を増加させる形式を確立する。この形式において、一方ではその価値の連続的な自己拡大を可能とする。同時に他方では、生きた労働との接触を失えばいつでもその価値を、使用価値と交換価値の両方を失う。「労働者がある時」と有力なる綿業者であるアッシュワース氏が、ナッソー W シーニョア教授に云った。「彼の鋤を地に放り出したら、その間、彼は18ペンスもする資本を無駄にする。我が雇用者達の一人が工場を離れたら、彼は10万英ポンドもした資本を無駄にする。」*69

 本文注: *69 シーニョア「工場法に関する書簡」ロンドン 1837年 13, 14ページ

 (本文に戻る) ただの思いつきというのか! ほんの一瞬が、10万英ポンドの資本を無駄にするのだ! まさに恐ろしいことなのである。一人の我が雇用者が工場から抜け出すということになれば! アッシュワースから授かった講義内容を明確に理解した後のシーニョアによれば、増加した機械使用が、常に、労働日の長さを増加させることは「望ましい」のである。*70

 本文注: *70「流動資本に対する固定資本の大きな比率は、… 長時間の労働を望ましいものとする。」機械使用他の増大に伴って、「長時間労働への動機は大きくなる。大きな比率を占める固定資本が利益を作り出すことができる方法だからである。」(前出 11-13ページ)
 「工場には、工場が短時間であろうと全時間であろうと、ある一定の支出がある。例えば、家賃、税金、火災保険、幾人かの長期奉公人の賃金、機械の損料、その他諸々の課金が工場手工業者には課せられる。この部分の利益に対する割合は、生産量が減少すればそれに応じて増大する。」(事実に関する調査報告書 1862年10月31日 19ページ)

 (8) 機械は相対的剰余価値を生産する。直接的に労働力の価値を下落させたり、間接的に、再生産過程に入ってくる商品を安くすることによって、労働力の価値を安くするだけではなく、最初に突発的に機械が産業に導入されれば、機械の所有者に雇用された労働をして、高密度かつより大きな効率的労働に転化することができ、生産された品物の社会的価値をその個別の価値以上のものに上げることもできて、かくて資本家は日生産物の価値の小さな部分をもって、日労働力の価値とすることができるようになる。(訳者注: 向坂訳では、「かくして、資本家が日生産物のより小さい価値部分をもって、労働力の日価値を補填しうるようにすることにもよっている。」 となっている。 補填とはなんぞや。 英文は and thus enabling the capitalist to replace the value of a day's labour-power by a smaller portion of the value of a day's product. なぜこの相対的剰余価値の搾取を補填と訳すのか、労働者が資本家に賃金を補填して貰っているかのような描写になり兼ねない。彼の思想になんらかの弱点があるのではと指摘する他はない。) この過渡期にあっては、機械の使用は一種の独占となるのであるから、その利益は例外的に大きい。かくて、資本家の搾取への努力は、「この彼の初恋の太陽が輝く期間」を通じて、出来得る限りの労働日の延長化によって完遂される。この利益の巨大さが、彼のより一層の利益をという貪欲を刺激する。  

  (9) ある特定の産業において、機械の使用がより一般的なものとなってしまえば、生産物の社会的価値はその個々の実体価値にまで低下し、剰余価値の法則はあたかも、機械によって排除された労働力から生じるのではなく、現実に機械といっしょに働く者として雇用された労働者から生じると法則自体が主張するかのように見えてくる。 (訳者注: 読者の皆さんは、機械の一般化によって生じる当初時点の価値から実体価値への低下がどうして起きるのか、生きた労働を排除した部分を、当初は排除した価値そのままを、まさに剰余価値として拾得することができていたが、実体価値への低下によって、剰余価値部分が消失することを十分把握できていると思うので、その確認点の注にとどめておく。) 剰余価値は不変資本のみから生じる。そして我々が見てきたように、剰余価値量は二つの要素に依存する。すなわち、剰余価値率と同時に雇用される労働者の数とに。労働日の長さが与えられているならば、剰余価値率は一日における必要労働と剰余労働の相互の関係時間数によって決められ、それと同様、同時に雇用される労働者の数は、不変資本に対する可変資本の比率による。さて、多量の機械の使用によって、労働の生産性の向上によって必要労働支出に対して、剰余労働が増加しうるとは云え、この結果は、ただ、与えられた資本量によって雇用される労働者数を減じたことによってのみ得られたものであることは明らかである。以前は可変資本であったものを、労働力に投資したものを、不変資本である機械に置き替えたのである。それは剰余価値を産まない。事実、 2人の労働者から、24人の労働者が産む剰余価値を絞り出すことは不可能である。仮に、各これらの労働者が12時間労働で、僅か1時間の剰余労働を提供するとしたら、計24時間の剰余労働が得られるが、一方、24時間は2人の全労働時間である。故に、機械を用いての剰余価値の生産はそこに内在する矛盾を意味することになる。なぜならば、与えられた資本量によって創出される剰余価値の二つの要素、一つは剰余価値率だが、もう一つの労働者数を減らすことなくしては増やすことができない。この矛盾は、ある産業において機械の使用が一般的ともなればすぐに気づくところである。機械生産された商品の価値は、同じような商品全ての価値を規定する。まさに、この矛盾が反射的に資本家をして、その事実を意識することもなく、*71

  本文注: *71 資本家、そして資本家の頭の中身を吹き込まれた政治経済学者もまた、なぜこの内的矛盾を意識しないかについては、第三巻の初めの部分に書かれるであろう。

 (本文に戻る) 労働日の一層の延長化に駆り立てる。搾取する労働者数の相対的な減少を相対的剰余労働ではなく、絶対的剰余労働の拡大によってこそ補完するために。 

 (10) それゆえ、もし、資本主義的な機械の採用が、一方で、新たな強力な より以上の労働日の延長化への動機をもたらし、そして急激な変化、労働方法や社会的な労働組織の性格と云ったものを、その流れに対する全ての反抗を壊滅させるようなやり方でもたらし、他方、その一つであるところの新たな労働者階級を資本家に開示した。以前は彼にとっては接近不能なものであった。またその一つであるところの、いつでも取って替ることができるような労働者たちの状態を作り出した。余剰労働人口である。*72

 本文注: *72 このことは、リカードの最大の功績の一つである。機械を単に商品生産の道具として見るばかりでなく、「余剰人口」を作り出すものとしても見ていたことである。

 (本文に戻る) その余剰人口なるものは、資本の指示に従うことを余儀なくされる。従って、近代工業の歴史における顕著な現象、機械があらゆる道徳的で自然な労働日の長さに関する制約を拭い去ったのである。また同様、従って、労働時間を短縮する最も有力な道具立てが、最も確実なる手段、労働者と彼の家族の全時間をして、資本家の勝手な使用に、彼の資本の価値を拡大する目的のための手段にしたのである。経済学上の逆説である。「もしも」古代の偉大なる思想家 アリストテレスは夢想した。「もしも、あらゆる道具が、あたかもダイダロスの創造物が自ら動き、またはヘファイトスの祭壇が自分の判断で聖餐を執り行うように、言われたように、または自らの判断で適切に仕事をしたならば、もし、織り手の梭が自ら織るならば、親方にとっては見習工の必要はなく、ご主人様は奴隷を必要とはしないだろう。」*73

 本文注: *73 F. ビーゼ 「アリストテレスの哲学」(ドイツ語) 第2巻 ベルリン 1842年 408ページ

 (本文に戻る) そして、キケロの時代のギリシャの詩人 アンティパトロスは、穀物を挽く水車の発明に歓呼したのである。その発明こそ、全ての機械の初期形式の発明である。女性奴隷に自由をもたらすものであり、古きよき時代への復帰をもたらすものである。*74

 本文注: *74 私は下に、この詩のストールベルグの訳を置いておくことにしよう。なぜかと云えば、古代人が分業ついて述べたこの詩句の精神が、古代と近代の観点を対照的に浮き彫りにするからである。
 「粉挽く手を控えて、粉挽く乙女たちよ、柔らかき眠りに身を委ねよう。雄鶏が朝を告げようともそのままに。神は乙女らの仕事を妖精によってなされるよう命じ、そしてすぐに妖精たちは軽々と水車に飛び乗り、車軸を揺すって、取っ手を回わし、石臼を回転させた。我が主のように生きよう。仕事から離れて休息しよう。そして神が与えてくれた贈り物を楽しもう。」(ギリシャの詩 クリスチャン ガルフ ツー ストールベルグ ハンブルグ 1782年)(訳者注: ここでは独文の詩そのものと、その英訳詩文がある。)

 (本文に戻る) おお、なんという多神教徒たちなのか! 彼等は何一つ理解していない。学識のバスティアが、そして彼以前の更に賢きマカロックが発見した、政治経済学とキリスト教を何一つ理解していない。一つを挙げれば、機械が労働日を延長する確実なる手段であることを把握してはいなかった。彼等は、多少は、地に ある者を置きそれが他の者の全発展の手段となる奴隷制を弁解していたことであろう。しかし、彼等には、僅かばかりの粗雑で、大した教育もない成り上がり者を、「突出した紡績業者」とか「大規模を誇るソーセージ業者」とか「影響力の大きな靴墨商人」にするために、一般大衆を、奴隷とすることを説教するには、キリスト教の諸々の尻ぐせを欠いていた。
 (訳者注:マルクスの表現はこれだから面白い。ここに登場する彼等はニンフを生んだギリシャ世界の人々のことである。そして勿論奴隷制度の上に市民がいた。この詩が、釈明のニュアンスを含んでいるかどうかはともかく、奴隷の乙女たちの労働に依存していたのである。でもキリスト教徒のような労働日延長化の確実なる道具として理解することはなかったであろう。そう理解するには、一神教、特にキリスト教が必要だと云う。多神教の連中の理解が及ぶものではないと、皮肉ったところである。我が日本は無神論的なんでも教徒であって、なんでも受け入れることができるから、結果としてキリスト教従属支部教徒といったところだろう。どうでもいいことを長々と書いてしまったが、気が向いたら、この部分の向坂訳も読んでみたらいい。誰が彼等なのか分けが判らなくなる。)


 

B. 労働日の延長化 (終り)





C. 労働の強化


  (1) 資本が手に入れた機械によって、際限なき労働日の延長化がはびこることになったが、そのことが、社会のある部分において反動を引き起こす。生命の源泉そのものが脅威に晒された。そして、それゆえ、標準労働日の長さが法によって決められるに至った。すると、どういう現象が生じるかと云えば、我々がすでに見て来たように、すなわち、労働の強化が、極めて重要なものとなる。我々の剰余価値に関する分析においては、以前は労働の延長化、または労働の継続時間として見て来た。その強度については与えられたものと云う前提で見て来た。此処では、我々は、より長く延長された時間の労働やその度合いという以前のものに替えて、より強化された労働というものについて考察を進めることにする。

  (2) 機械使用の広がりに応じて、また機械に習熟する特別な労働者階級の経験が積み上がるのに応じて、その結果として、労働の速度と強度が自然に増大するのは自明であろう。かくて、英国では、この半世紀、労働日の延長が工場労働の強度の増大と共に進んだ。読者の皆さんの目に明瞭に見えてくるかどうかに係わらず、我々は働く、適当にやり、適当に始めるのではなく、日々変わることなき単調な作業を繰り返すのであるが、ついには、労働日の延長と労働の強度とが互いに相手を排除する地点に必然的に到達する。その結果、労働日の延長がただ一つ、労働強度の低下によって両立するか、労働強度を高くして、ただ一つ労働日を短くするかという地点である。徐々に高まってきた労働者の反抗が議会に対して、労働日の短縮を強制する法を迫るに及んで、正式な工場での標準労働日を決めてこれを施行するに至って、当然のことながら、労働日の延長によって剰余価値の生産を増大させる方式はこれで一挙に停止するのであるから、この瞬間から資本は、相対的剰余価値の生産へと自身の渾身の力をもって機械のさらなる改良へと急ぐことになった。同時に、相対的剰余価値の性質に変化が生じた。一般的に云うならば、相対的剰余価値の生産様式は、労働者の生産的力量の増大化によるものとなる。彼をして、同じ労働の支出という与えられた時間でより以上の生産ができるようにすることにある。労働時間は前と同様に同じ価値を全生産物に移転し続ける、しかし、この以前と同じ量の交換価値は、より多くの使用価値の上に分配される。かくて個別の一商品の価値は低下する。とはいえ、労働時間の強制的な短縮が出現すれば、局面は一転する。この巨大な衝撃が生産的な力の発展をもたらし、そして生産手段の効率化をもたらし、労働者に与えられた時間内での増大した労働支出を押しつける、労働力に高度の緊張を、労働日の気孔すべてに隙間もなく充填し、別の言葉で云えば、短縮された労働日の限界一杯まであらんかぎりに凝縮された労働をただただそこに圧縮する。このように与えられた時間内に凝縮された厖大なる労働とは、一体いかなる存在なのか。云うまでもなく厖大なる労働量を意味する。労働延長の、すなわち労働時間の計量方法に加えて、労働は、その強度、または凝縮の程度、または労働密度と云う新たな計量方法を、今や、獲得したのである。*75

 本文注: *75 勿論、様々な産業における労働の強度については、常に、差が存在する。しかしこれらの違いは、アダム スミスが示すところによれば、僅かの状況によって生じる部分的な拡大であり、各種の労働における特異なものであって、それなりに補償されるものであるとする。この場合においては、労働時間、その価値を計量するもの、はなんら影響されるものではない。そうでない場合は、労働時間と労働強度という対立する両者が互いに一つの同じ労働量を排他的に表現する範囲を越えた場合である。と述べている。 

 (本文に戻る) より密度の高い10時間の労働日は、より以上の労働を含んでいる。すなわち、多少なりとも隙間を持っている12時間の労働よりも拡大された労働力を含んでいる。その結果、前者の1時間の生産物は、後者の1 1/5時間の生産物と同じかあるいはそれ以上の価値を持っている。高度化された労働の生産性を経て生じた、増大した相対的剰余価値という結果のことは後に触れることにして、今やこの同じ価値の総体は、資本家に言わせれば、3 1/3時間の剰余労働と、6 2/3時間の必要労働が生産されたと、以前は4時間の剰余労働と8時間の必要労働の生産であったものが、かくなったと。

 (3) さてかくて、我々は、ある質問に到達した。どのようにして労働は強化されたのか?

 (4) 労働日短縮の最初の作用は、云うまでもないことであるが、労働力の効率は、その支出時間とは逆比例関係にあるという法則から生じる。かくて、短縮された期間によって失われたものは、ある一定の限界においてではあるが、労働力の緊張度を高めることで確保される。すなわち、労働者は実際に、より以上の労働力をさらにその上に支出するのであるが、これこそ資本家が彼に支払うと云う その生産様式によって確実なものとされる。*76

 本文注: *76 特に、出来高払いによる。この形式については、本書の第六篇で詳細に論じる。

 (本文に戻る) 機械が殆ど何も仕事をしないか、そもそも機械が無いような工場手工業、例えば製陶業にあっても、工場法が導入されると、衝撃的なことが出現する。単なる労働日の短縮が驚くべきほどの度合いで、労働の規則性、画一性、序列化、連続性、そして労働の強度を増大させる。*77

 本文注: *77「事実に関する工場査察官調査報告書 1865年10月31日」を見よ。

 (本文に戻る) とは云うものの、その作用が、すでに機械の連続性・画一性と並ぶ労働者の依存関係が厳密に規範として作られているような該当工場から発したかどうかは疑わしい。1844年に労働日を12時間以下に削減することについて議論がなされた時から今日に至るまで、工場主らは、ほぼ満場一致でこう宣言してきた。

 (5) 「彼らの監督官は様々な作業場で労働者の作業が時間を無駄にしないように十分注意してきた。」とか「労働者のやり方に対する警戒と監視に関してこれ以上は増やすことはできない。」そしてそれゆえ、機械の速度とその他の状況に変更が無い限り、「よく管理された工場では、労働者に対する監視度を高めることでは何一つ重要なる結果を期待することは不条理である。」と。*78

 本文注: *78 事実に関する工場査察官調査報告書 1844年と4月30日で終了するその四半期 1845年 20-21ページ

 (6) この主張は実際の実施によって否定された。ロバート ガードナー氏は、彼のプレストンにある二つの大きな工場において、1844年4月20日以降、日12時間を11時間に、労働時間を短縮した。1年間の作業に関する結果は、「同じ量の生産物を同じ費用で受け取った。そして労働者は大体のところ11時間の労働で、以前の12時間分と同額の賃金を稼いだ。」*79

 本文注: *79 前出報告書 19ページ 出来高払い賃金は以後も変わらなかったのであるから、週給は生産物の量に依存していた。  

 (本文に戻る) 私は、紡績室と梳毛室での試みについては大目に見て置くことにする。そのワケは、彼等は機械の速度を2%高めにしてある機械と共に置かれていたからである。これとは違って、様々な嗜好に合う品物が織られる織布部門では、全くのところそのような僅かな変更も仕事の条件にはなかった。その結果は、「1844年1月6日から4月20日まで、日12時間労働で、週平均賃金は10シリング1ペンス半であったが、4月21日から7月29日までの間、日11時間労働で、週平均賃金は10シリング 3ペンス半であった。」*80

 本文注: *80 前出報告書 20ページ  

 (本文に戻る) ここでは、以前の12時間よりも11時間でそれ以上の生産を行った。そしてそれは労働者のより安定した集中と時間の節約の結果である。彼等が同じ賃金と1時間の自由時間を得た一方、資本家は同じ量の生産物を得て、また、石炭、ガス、他のものの1時間分の費用を省いた。同様の試験作業とその同様の結果が、ホロックスご主人やジャクソン旦那の工場でも確認された。*81

 本文注: *81 これらの実験的試行においては、モラル・気持ちの持ち方という面が重要な役割を演じた。労働者達は工場査察官に対して次の様に述べている。「我々はより高揚した魂と共に仕事をした。夜が近くなれば自由になれるという今までにはなかった報酬があり、それぞれの活気と喜びが全工場に広がった。最年少の使いっぱしりから年配の職工まで、互いに、大いに、助け合うことができる。」(前出報告書 21ページ)        

  (7) 第一に、労働時間の短縮は、一定時間に労働者をしてより以上の力を出すことを可能にすることによって、労働の凝縮のための主観的な条件を作り出す。労働時間短縮が強制的なものとなるやいなや、機械は資本家にとっては客観的手段となる。一定時間内においてより多くの労働を搾り取る手段として、体系的に用いられる。このことは、二つの方法によって実行される。一つは機械の速度を増大させることによって、もう一つは労働者により多くの機械を取り扱わせることによってである。構造的に改良された機械が必要となる。一つは労働者に対してより大きな圧力を掛けることができないことを排除するためであり、もう一つは労働時間の短縮が資本家をして生産コストへの最厳密なる認識を迫るからである。蒸気機関の改良はピストンの速度を早め、そして同時に、大きく力を節約することによって、同じ蒸気機関をして、石炭の消費を同じか、あるいはより減らして、より多くの機械の駆動を可能にした。伝達機構の改良は摩擦を減らし、そして驚くほど古い機構を近代化した。軸の 直径と重量を絶えず最小限にまで削った。最終段の作業機械の改良は一方でその大きさを減らし、それらの速度と効率を高めた。近代の力織機がその例である。または、他方それらの架体を大きくしてその作業機そのものの数とその広がりを増大させた。紡錘に見る如くである。またはそれぞれの作業機の速度を細部の変化を気づかせることもなしに加速した。かくて10年前のものと比べれば自動紡錘機の速度を1/5増加させた。

  (8) 英国では12時間への労働日の短縮は、1832年の日付を持っている。1836年ある工場手工業者は次のように述べている。

  (9) 「現在行われている工場での労働は、以前のそれよりも非常に激しいものとなっている。…. 30年ないし40年前と比べて…. 機械に与えられた非常に増大した速度によって、より大きな注意力とより大きな活動力が要求されるからである。」*82 

 本文注: *82 ジョン フィールデン 既出 32ページ

 (10) 1844年 アッシュレイ卿 現シャフツベリー上院議員が、下院で次のような陳述をした。文書によって立証されている。

 (11) 「それらの工場手工業の各工程の仕事に従事する労働者の労働は、その仕事が始まった頃に比べれば3倍も激しい。機械は疑いもなく百万人の筋肉を要する仕事をした。しかしまたその恐ろしいばかりの動きをもって支配した彼等の労働を並外れた何倍もの労働とした。…. 1815年では40番手の木綿を紡績する一対の紡績機を動かす労働は---12時間労働日において---8マイルの必要歩行を含んだものとして知られていた。それが1832年になると、一対の紡績機 木綿の同番手紡績で移動する距離では20マイルとなる。いや大抵はそれ以上である。1825年では紡績工は毎日それぞれの紡車に対して820個の糸を張る。全日では計1,640個の糸を張る。それが、1832年になると紡績工は各紡車に2,200個を、計4,400個となる。1844年になると各2,400個 計4,800個の糸を張る。そしてあるケースでは、それ以上の労働量が要求される。…. 私は1842年に私宛に送られて来たもう一つ別の文書も持っている。次のように述べている。労働は累進的に増大している。移動距離がより長くなっただけでなく、生産物の量も倍加された。その一方で人手は前よりも比例的に少なくなった。さらに加えて、紡ぐ綿の品質が悪くなった。それらは紡ぐのも困難で、…. だから梳綿室では労働が大きく増加した。織布室では非常に多くの人が雇用されている。そしてそこには主に女性達が雇用されているのである。…. 労働はこの二三年で10%も増加した。増加された紡績機械の速度による。1838年では週18,000巻の糸を紡いだが、1843年には21,000巻に達した。1819年では力織機は1分間に60回 梭を走らせるが、---1842年では140回であった。著しい労働の増加が見られた。」*83

  本文注: *83 アッシュレー卿 既出 6-9ページの各所。

 (12)  この明らかに異常な労働強度は1844年の12時間法の下ですでに到達していたものであるが、これを見て、当時の英国工場手工業者らの、これ以上のいかなる進歩も、このようなやり方では不可能であろうと云う主張、従って労働時間の短縮は生産の減少を意味するとの主張が正当であるかに思われた。彼らの述べる理由の明らかな正しさは、彼らの永遠の看視センサーである工場査察官レオナード ホーナーの次のような当時の陳述によって最もよく示されことになろう。

 (13) 「今では、生産量は主に機械の速度によって規定されねばならないのであるから、以下の条件に合致する最大速度において動かすことが工場所有者の意志でなければならない。その条件とは、すなわち、機械が急速に損耗しないように維持すること、生産される品物の品質の維持、労働者をしてその継続性を持続させるためにそれ以上の大きな労働支出のない範囲での作業に従事する能力の維持。従って、工場所有者が解決しなければならない問題は、前述の条件を考慮の上、彼がなしうる最大機械速度を見出すことでなければならない。しばしば、こうなる。彼は早過ぎる方に行き、増加した速度に対するカウンターバランスである破損や不良品を見ることになる。彼の速度を緩めることを余儀なくされる。そこで私はこう結論づけた。活動的で聡明なる工場所有者は安全なる速度を見出すことであろう。であるから、11時間で12時間と同じように生産することは不可能であろう。と。さらに私は、出来高払いの労働者は、自分自身をして、同じ作業率で継続できる力の範囲でのみ最大限の労働支出をするはずであろうと考えた。」*84

 本文注: *84 事実に関する査察報告書 1844年 四半期終了時点 9月30日と1844年10月1日から1845年4月30日まで 20ページ

 (14)  さて、ところで、我がホーナーは、12時間以下への労働時間短縮は必然的に生産の縮小になるという結論に行きついたのであろうか? *85

 本文注: *85前出 22ページ

 (本文に戻る) 彼は、彼自身、10年後に、1845年の彼の意見についてこう触れている。いかに当時、機械の伸縮性を過小評価していたことか、また人の労働力についても同様であった。これらはいずれも同時に、労働日の短縮という強制によって極限まで拡張されたのである。

 (15)  我々は今、かくて、1847年、英国の綿、羊毛、絹、そして亜麻の工場に10時間法が導入された以後の時代にやって来た。  

 (16) 「紡錘の回転速度はスロッスル機で1分間に500回転、ミュール機では同1,000回転増加した。すなわち、スロッスル機の紡錘は1839年では1分間に4,500回転であったが、今(1862年)では5,000回転/分、そしてミュール機の紡錘は、かっては5,000回転/分だったが、今は同6,000回転/分である。前者では1/10、後者では1/5分が加えられて増加した。(訳者注: この分数については、以前を基準とすれば、1/9 1/5であり、今を基準とすれば、1/10 1/6であることは読者にとっては明白であろう。訳者が計算を間違えているわけではなく、英文はドイツ語版のディーツ版のものをそのまま用いている。ちなみに向坂訳では、今基準の分数となっているのだが、この後者の1/6についてディーツ版では1/5となっているという注が付けてある。殆ど問題にする必要もない部分であるが、訳者の息抜きとして書いた。訳者余談の入れ場所がないのでつい。) *86

 本文注: *86「事実に関する査察報告書 1862年 10月31日」 62ページ  

  (17) 著名な土木技師、マンチエスターに近いパトリクロフトのジェームス ネエイスミスは、レオナード ホーナーに1852年手紙を書いて、1848年から1852年の間にかけて行われた蒸気機関改良の特徴について説明した。(訳者注: ジェームス ネエイスミスは蒸気ハンマーの発明家であって、civil engineer の訳語にあたる現在の範疇である土木技師でも、向坂訳にある民間の技術者というのも奇妙な訳。1820年高卒後17歳で蒸気機関を自作、ロンドンのモーズレィ機械工場の製図工となった。自分の貯金69ポンドで、23歳の時に独立、蒸気機関を試作したが壊れてしまった。1836年 パトリクロフトに居を変えて、共同経営者を得て、会社を設立。商売は成功し数々の機械を製作。鉄道や船舶の蒸気機関をも製作した。蒸気ハンマーもこの中の一つで、1848年に特許を取得した。1856年48歳で退職、その後は、趣味の天文観測用の20インチ反射望遠鏡を自作し、月の観測記でも知られている。言うなれば根っからの機械屋さんでなんでも屋さんなのである。われらが愛するレオナード ホーナーにこの手紙を送った経緯や理由の方こそ我々には興味があるのだが。) 蒸気機関の馬力数は、常に、官製方式に従って、1828年の蒸気機関と同様の力に従って見積もられており、*87

  本文注: *87 この件は、1862年の「議会答弁」で変更された。これによって、近代蒸気機関と揚水車の実際の馬力数が、名目馬力のところに表記された。二重撚り紡錘も同様で、もはや単紡錘の(1839年、1850年、1856年の議会答弁の場合のような)範疇には含まれなくなった。さらに羊毛工場の場合には、毛羽立て機数も加えられた。一方の黄麻と大麻の工場と、他方に亜麻の工場とには区別が設けられ、最後には、靴下編み工場が初めて報告書に挿入された。

  (本文に戻る) 単なる名目であって、それらの実馬力数の指標の役割だけであることを述べた後に、彼は次のように続けた。 

 (18) 「私は、同じ重量の蒸気機関から、我々は今では少なくとも50%の、より大きな効率と仕事内容を、平均して獲得していると確信する。そして多くの場合、同一蒸気機関が、220フィート/分の速度に縛られていた時代では50馬力であったものが、今では100馬力以上…. 」「100馬力の近代蒸気機関は、以前のものと比べればより大きな力をもって機械を駆動することができる。機構の改良、ボイラーの容量と構造他によりなし遂げられた。」「更に、以前は馬力に応じて同じ人数を雇用していたが、今ではより少ない人数で機械数に比例して雇用される。」*88

 本文注: *88 「事実に関する査察報告書 1856年10月31日」13-14ページ、20ページ、そして1852年の23ページ

 (本文に戻る) 「1850年、英連合王国の工場では、134,217名目馬力が用いられていて、25,638,580個の紡錘と301,445台の織機が稼働していた。 1856年では、それぞれ前者が33,503,580、後者が369,205であり、1850年と同じ比率で名目馬力の力が必要と見積れば、175,000名目馬力となるであろう。だが実際の力として報告されたものは、1856年では161,435馬力であり、1850年の報告に基づいて計算し1856年に全工場が必要としたであろう力の大きさに比べて10,000馬力以上少ないものであった。」*89

  本文注: *89 「事実に関する査察報告書 1856年10月31日」14-15ページ

 (本文に戻る) 「(1856年の)議会答弁からもたらされた事実はかくて、工場システムは急速に増大しており、当時は馬力に応じて人数が雇用されたが、今では機械に応じて少ない人数しか雇用されていない。すなわち、蒸気機関は節約された力やその他の方法によって、増大した機械の重量を動かすことができる。そして、より増大した仕事量が機械の改良によって、また生産方法、機械の速度、その他の様々な要因によって実現されることができた。*90

 本文注: *90 「事実に関する査察報告書 1856年10月31日」20ページ

 (19) 「あらゆる種類の機械に対してなされた大きな改良が、それら機械の生産力を圧倒的に高めた。疑いもなく、労働時間の短縮が、…. これらの改良の動機を与えている。もう一方で、これらの機械には、労働者の激しい仕事が組み合わされた。(2時間または1/6) 短縮された労働日で、少なくとも、以前のより長い時間で生産されるのと同じ量を生産することになった。」*91

 本文注: *91 「事実に関する査察報告書 1858年10月31日」0-10ページ。 「同様報告書 1860年4月30日」30ページ以下のものと比べて見よ。

 (20) 労働力のより強烈なる搾取によって、工場手工業者の富がいかに大きなものとなったを示すには一つの事実で十分である。1838年から1850年にかけて、英国の、綿その他の工場での富の平均的な増加率は32%、一方1850年から1856年では86%に達した。

 (21) 1848年から1856年の10時間労働日の影響下の8年間における英国産業界に大きな進展があったのではあるが、次の 1856年から1862年の6年間は、それをはるかにしのぐ進展となった。一例を挙げれば、絹の工場では、1856年では紡錘が1,093,799個であったが、1862年では 1,388,544個になった。同様、1856年では織機が9,260台であったが、1862年では 10,709台になった。紡錘数の増加率は従って、29% 織機台数は15.6%である。その一方で、労働者数は7%減であった。1850年 梳毛織物工場では、875,830個の紡錘、1856年では1,324,549個(51.2%増)、1862年では1,289,172個(2.7%減)が用いられた。但しもし、1856年時点の数には入っていて、1862年の数には入っていない二重撚紡錘数を考慮するならば、1856年以降紡錘の数としては殆ど変化がなかったことが分かるであろう。他方、1850年以降、紡錘や織機の速度は多くの場合二倍にされた。梳毛織物工場での力織機台数は、1850年では32,617台、1856年には38,956、1862年では43,048であった。労働者数は1850年では79,737人、1856年では87,794人、1862年では86,063人で、その中に含まれている14歳未満の子供たちの人数は、1850年では9,956人 1856年では11,228人、1862年では13,178人であった。1856年時点に比べて、1862年には織機台数は大きく増加したものの、いやそれゆえ、雇用された労働者数は減少し、子供たちという搾取対象数は増大した。*92

 本文注: *92 「事実に関する査察報告書 1862年10月31日」100と130ページ。  

 (22) 1863年4月27日 フェルランド氏は、英国下院で次のように述べた。

 (23) 「私は、ランカシャーとチェシャーの16地区の代表者達から聞いたことを、彼らに代わって話す。工場における労働は、機械の改良の結果として、確実に増大している。以前、一人の労働者が二人の助手とともに二台の織機の面倒を見ていたものが、今では、一人で助手なしに三台の面倒を見ている。そして一人で四台を見るのも稀ではない。こうした事実が証明するように、12時間労働が今や10時間より少ない時間の労働に圧縮されている。であるから、工場労働者の労苦が、ここ10年間の増大によって、いかに大きなものに至ったかは自明である。」*93  

 本文注: *93 二台の織機を用いて、一人の織工は、今では、週60時間で、一定の品質、長さ、巾のものを26巻 生産するが、古い力織機では同様の物を4巻以下しか作ることが出来なかった。その様な反物一つの織り賃はすでに1850年になる頃には5シリング1/8ペンスから2シリング 9ペンスに低落していた。    

 (本文注 93の続き)「30年前(1841)、一人の紡績工は三人の助手と共に、300-324個の紡錘を持つ一対の紡績機の面倒を見る以上のことを要求されてはいなかった。現在(1871)では、彼は、2,200個の紡錘を、5人の助手と共に、取り扱わねばならず、1841年の頃の7倍以上を生産せねばならない。」(工場査察官 アレックス レッドグレーブ -工芸ジャーナル 1872年1月5日 収録)  

  (24) それゆえ、1844年、1850年の工場法の成果について、工場査察官達は絶えず正義をもって、賞賛するものの、その一方で、労働時間短縮が労働強化の現実となり、労働者の健康と労働能力を阻害するに至ったことをも認めている。

  (25) 「綿、梳羊毛、絹の多くの工場では、機械の面倒を十分に見るために労働者をして狂騒的な労力の排出状態を必要とするに至った。機械の動きはここ二三年の間に非常に大きく加速されており、私には、グリーンハウ医師が彼のこの問題について指摘した最近の報告書にあるように、肺病による死亡率の異常とも云える増加の一つの原因ではない とはとても思えない。」*94

  本文注: *94 「事実に関する査察報告書 1861年10月31日」25, 26ページ 

 (26) 労働時間の延長化をきっぱりと禁止されるやいなや、資本自身としての埋め合わせのために、組織的に労働の強度を高めることによって、そして機械に対するあらゆる改良を取り込んで、労働者の労働をとことん搾り取る手段とするこの傾向は、直ぐに再び労働時間の縮小という事態を引き起こすに違いないと言うことについては いささかの疑念もあり得ない。*95

 本文注: *95 ランカシャーの工場労働者の間から、今や(1867) 8時間労働日の要求が始まった。

 (本文に戻る) また別の事実から見れば、10時間労働日制度の下にある1848年から現在の間の英国産業の急速な進展は、12時間労働日であった1833年から1847年の進展を凌いでおり、それは、労働時間に制限がなかった工場システムの導入後の半世紀の進展を凌いだ後者をさらに大幅に上回る。*96

  本文注: *96 次の表は、無いに等しい数字だが、1848年からの英王国の「工場」の進展について僅かながらもその徴候を示している。



年間輸出量表 [単位は、表側に]
 木綿工場
糸、布1848185118601865
綿糸[lbs.]135,831,162143,966,106197,343,655103,751,455
縫い糸[lbs.]-4,392,1766,297,5544,648,611
綿布[yds.]1,091,373,9301,543,161,7892,776,218,4272,015,237,851

 亜麻及び大麻工場
糸[lbs.]11,722,18218,841,32631,210,61236,777,334
布[yds.]88,901,519129,106,753143,996,773247,012.529

 絹工場
糸[lbs.]466,825462,513897,402812,589
布[yds.]-1,181,4551,307,2932,869,837

 羊毛工場
毛・梳毛糸[lbs.]-14,670,88027,533,96831,669,267
布[yds.]-151,231,153190,371,507278,837,418



年間輸出価値表 [単位: 英ポンド]
 木綿工場
糸、布1848185118601865
5,927,8316,634,0269,870,87510,351,049
16,753,36923,454,81042,141,50546,903,796

 亜麻及び大麻工場
493,449951,4261,801,2722,505,497
2,802,7894,107,3964,804,8039,155,358

 絹工場
77,789196,380826,107768,064
-1,130,3981,587,3031,409,221

 羊毛工場
776,9751,484,5443,843,4505,424,047
5,733,8288,377,18312,156,99820,102,259


 青書「英王国の統計概要」8号、13号 ロンドン 1961年、1866年を見よ。ランカシャーの、工場数は、1839年から1950年の間では僅か4%しか増加しなかった。1850から1856年では19%、1856年から1862年では33%もそれぞれ増加した。これら工場に雇用された労働者数は上記のそれぞれの期間で絶対的には増加したが、相対的には減少した。(「事実に関する査察報告書 1862年10月31日」63ページを見よ。) ランカシャーでは、綿工業が優位を占めている。この地域における綿工業の驚くべき状況は、次のことを知れば、よく内容を把握することになるであろう。連合英王国の繊維関係総工場数の45.2%を占め、紡錘数の83.3%、力織機の81.4%、機械の馬力数の72.6%を、そして総雇用労働者数の58.2%を占めている。(前出 62-63ページ)







[c. 労働の強化 終り]



[第三節 終り]





第四節 工 場



  (1) 本章の初めに、我々は工場の胴体と呼ぶべきものについて考察した。すなわち、機械がシステムへと形成されたことをである。その機械システムなるものが婦人労働や子供たちの労働を盗み取って、資本主義的搾取のための材料としての人間をいかに多数作り出したかも見た。労働時間の際限もない延長によって全労働者の自由な時間をどのように、機械システムが没収したか、そしてそれがいかにして、時間の短縮に次ぐ短縮の内に巨大なる生産増加を許す進展に行き着いたか、短時間により大きな労働を獲得する組織的な手段としてそれを許したか、別の言い方をすれば、いかに労働力搾取の強度を高めたかを見てきた。さて、我々は今、工場を全体的に考察することにしよう。それこそ工場の最も完成した形式なのである。

  (2) ユア博士、自動化工場のピンダロス、これを、一方では次のように書き出す。

  (訳者余談的注: ピンダロスはギリシャ貴族たちの競技や生活をよいしょする詩人 日本語で云えば金主をよいしょする懐かしき幇間である。彼の詩の一部を私が抄訳というかでっち上げというかをすれば以下のようになる。「そのようにわたしも文芸の女神たちの贈り物、流れる神々の清冽酒を、賞を得た男たちにわが心の甘美な果実として送り届け、オリンピアの勝者たちに、崇敬を表す。名声に恵まれる者は幸せである。そして生に花咲かせる美と優雅を司る女神は、ある時はある者に、またある時は別の者に、目を掛けつつ、そのようにしばしば甘い歌声の竪琴と花の香りあふれる音色の笛とによって祝福をなす。」 オリンピアの勝者を資本主義生産体制下で自動化機械を備えた工場の主と置き換えればぴったりだろう。さすがユア博士) 

 (3) ユア博士は一方で次の様に書き表す。「それは中央動力(主原動力)によって途切れることなく駆動される生産的な機械のシステムに対して、勤勉なる技術をもって協働作業する成人と青年の多くの階層の労働者を結合するもの。」その一方で、「多くの機械的な、また知能的な器官によって作曲構成され、必要な物の生産のための間断なき演奏を続ける巨大自動機械であって、ありとあらゆるものが一つの自己的規律で動く力に従属させられている。」と書く。

 (4) この二つの記述内容は同一のものと云うにはかけ離れている。一つは、集合的労働者、労働の社会的実体が、主な主体として表されており、機械的自動装置は客体として存在する。他方は、自動装置それ自体が主体であり、労働者は単なる意識のある器官にすぎず、意識がない器官である自動機械と混ぜ合わされたものであり、一緒くたにされたものであり、中央原動機に従属させられたものである。最初の記述は大規模に機械を採用するあらゆる可能性に適応する。二番目のものは、資本がそれを用いる特性を示しており、従って近代工場システムそのものと云える。それゆえ、ユアは、その動力がそこからやってくる中央機械を、単なる自動装置としてではなく、専制君主のごときものとして記述するのを好む。「これらのホールでは、慈悲深き蒸気権力が、己の回りに、彼の多数の追従者を召喚する。」*97

  本文注: *97 ユア 既出 18ページ

  (5) 道具が機械に取り込まれたように、それを扱う労働者の伎倆も機械に取り込まれる。道具が持っている力量が人間的労働力との離れがたき制約から解放される。かくて、その伎倆的基礎の上に成り立っていた工場手工業内の分業は一掃される。以後、工場手工業を特徴づけた専門的に特殊化された労働者の階層の中に、自動化工場では、機械の取扱い者として行う一人の同じような伎倆というだけの仕事へと均一化される傾向が入り込んで来る。*98

  本文注: *98 ユア 既出 31ページ。 カール マルクス 既出 140-141ページ

  (本文に戻る) 人為的に作り出された細目区分労働者の差異の世界から年令と性別の違いという生まれつきだけの差異の世界が入り込んで来る。

  (6) 工場に再現する分業について見る限りでは、特殊化された機械の間に労働者を分配すると云うのが主なものである。多くの労働者を分配する。とはいえ、様々な各工場部門の間にグループとして編成されてというものではない。彼らのそれぞれは、一緒くたに集められた 似たような多くの機械の処で働く。従って、彼らの協働作業はまことに単純なものである。工場手工業では特有なものであったあの組織だったグループは、今では労働者頭と彼の二三人の助手との間の関係に置き換えられた。そこにおける本質的な分業は、実際に機械に付随して雇用された労働者( 彼等の中には蒸気機関の面倒を見る僅かな者も含まれる。)と、これらの労働者の単なる助手たち (圧倒的に子供たち) によるものである。助手の中には、作業対象である原材料を機械に供給する「餌係り」だけをやる者も少なくはない。これらの二つの基本的なクラスに加えて、数的には取るにたりない人のクラスがある。彼の仕事は、全ての機械の看視と時々必要となる修理をすることである。エンジニア、メカニック、指物師、他である。これらの者は上級労働者のクラスに該当し、或る者は科学的な科目の教育を受けた者で、他の者は、それに適するように育てられた者である。このクラスは工場労働者のクラスとは全く違うものであるが、単に人数としては一緒にされているにすぎない。*99

  本文注: *99 まさに、統計の意図的誤導と云える。(この誤導は詳細に証明されることができると思われる。他の例も同様である。) 英国工場法はここに記述した上級労働者のクラスを工場労働者からは除外しているにもかかわらず、一方議会報告書でははっきりとエンジニアやメカニックのみならず、支配人、営業マン、メッセンジャー、問屋、卸売、他をも含めている。短く云えば、工場主自身を除く全てを含めている。

  (本文に戻る) これらの者に見られる分業は純粋に技術的・専門的なものである。

  (7) 機械の処で働くためには、自動化機械の一定な止まることなき動きに彼自身の動きを合わせることを学ぶために子供の頃から訓練されねばならない。機械が全体として多様な機械のシステムを形成しており、一斉に可動し互いに協調しており、それらに基づく協働作業は、異なる種類の機械群の中に様々な労働者達のグループの分配を要求する。しかし機械の使用は、特定の人を特定の機能に固定的に結びつけた工場手工業的方法による分配の結晶の必要性を取り除く。(色の変わった部分は大文字から始まるManufacture)*100

  本文注: *100 ユアは、この点について承諾している。彼は、「必要な場合」労働者はマネージャーの意志によって一つの機械から他の機械へと配置替えさせられることができると言う。そして勝ち誇ったように、「そのような配置替えは、昔の決まりきった方法、一人の労働者には針の頭を作る仕事をあてがい、他の者には針の先を研ぐ仕事をと云うやり方とは全く反対のものである。」と叫ぶ。何故この古い決まりきった方法が自動化機械工場から、唯一「必要な場合」に外されるのか自問して見るのがもっといいのではないだろうか。(訳者注: 色を替えた部分の英文は、in flat contradiction with である。ここに「明らかに矛盾する」という日本語を置くドイツ語版からの向坂訳はしっかり矛盾している。なにが矛盾しているのか全く判らないというユア的矛盾である。)

  (本文に戻る) 全システムの運動は労働者の指揮によって進行しているものではないのであるから、機械の指揮によって進行しているのであるから、人の配置替えはいついかなる場合であれ、作業を中断することなく行うことができる。この事の最も際立った証明はかのリレー システム(イタリック)が提供して呉れる。1848-1850年の彼等の狂乱時代、工場手工業主等によって採用された例のシステムである。(訳者注: いまでは、自宅待機とかアルバイト的待機とか、期間待機とかいう超リレーシステムが採用されており、原発では累積放射線量による超リレー システムがあり、マルクスも驚絶するにちがいない。)そしてついには、若き人々によってたちまち修得される機械作業が、機械使用専門に育まれる必要性、特別な作業者クラスを不要とする。*101

 本文注: *101 危難が重大場面であれば、例えば、アメリカ南北戦争の間、工場労働者はブルジョワジーによって、頻繁に、過酷極まる作業(英文はthe roughest Of Workと大文字が使われている) に投入される。例えば道路工事、その他である。英国の1862年及びその後年度「国立工場」(フランス語)が生活の糧を失った綿業労働者のためにと設立された。フランスの1848年のそれとは違う。後者は、国の支出によって、労働者は非生産的な作業をしなければならなかったが、前者はブルジョワジーの利益のために生産的な地方自治体の作業を行わねばならなかった。加えて、正規の労働者よりも安い賃金で、彼等との競争に投げ込まれた。「綿業労働者の肉体的外観はなんの疑問もなく改善された。…. 男性については。公共的業務の屋外労働に関しては。」(「事実に関する査察報告書 1863年 10月31日 59ベージ」) 報告者は、ここでは、プレストンの工場労働者についてさりげなく言及している。彼等は、プレストン ムーア(訳者挿入:綿工場)に雇用された者達であった。(訳者の小余談 : 色を替えた部分の英文は、Preston Moor である。工場の名前であり文面からはプレストン ムーア 綿工場 と読める。向坂訳は「プレストンの野」と詩的で可愛い名前の場所で働かされた労働者とある。労働の内容がぶっとんでしまう。)

 (本文に戻る) 単なる助手が行う作業に関して云えば、工場においては、かなりの範囲で、機械によって取り替え得る。*102

  本文注: *102 例えば、1844年の工場以後、羊毛工場には様々な種類の機械装置が導入された。子供たちの労働と置き換えるためである。工場主達自身の子供たちを工場内の助手としてその作業を修得させるために実際の作業をやらせねばならなくなれば、この殆ど未開拓である機械のとある分野はたちまち目覚ましい進歩が見られることになるであろう。「機械の危険性について云えば、恐らく、自動織機は、誰にとっても等しく危険である。それらの機械による多くの事故は小さな子供たちに降りかかる。動いている織機の下の床の掃除のために機械の下にもぐり込むことによる。何人かの機械「取り扱い者」がこの違反のために罰金刑を受けたが、結局何の効果もなかった。もし、機械制作者が簡単な自動掃除機を付け加えたならば、それによって、これらの小さな子供たちを機械の下に這い込ませる必要性を防止することができたであろう。それこそ我々の保護手段としての幸福なる追加部品となるであろう。(事実に関する査察報告書 1866年10月31日 63ページ)

  (本文に戻る) それほど簡単に機械に置き換えられるほどの単純な作業であるからこそ、その骨折りで単調な作業に対して、人の方を 忽ちそして常時 取り替えができるのである。


  訳者余談をついつい入れる。どうでもいい作業の一つに放射線量の測定がある。どんな数値がカウントされようと、許容基準以下とか、検出限界以下とか、安全安心値とか、公表権限者によって記されるならば、そんな測定はだれがどうやろうとどうでもいいことになる。測定技術も測定能力も測定器の管理も不要となる。まして基準を論じる必要すら消失させる。ちょっとしたシステムを作れば足りることを、政治的・資本主義的にさぼるのが全日本の正常的日常となった。一方で風評なるものを育成して、それを問題にする変なおじさんたちが忙しい。福島原発から21kmあたりの非避難区域に仮設基準に基づいて国会議事堂・議員会館他を建設すれば、見事な進展が見られるであろう。英国の工場査察官ならそう記述すると確信する。すぐにハワイとかに逃げるってか。心配はいらない。放射線が移るぞうとかいうから、直ぐに海外追放となる。


  (8) 更に、厳密に云えば、古い分業システムは機械によって投げ捨てられるのではあるが、それにもかかわらず、あたかも工場手工業から引き継いだ伝統的な習慣の如くに、工場の中に引っかかっている。そして、以後、体系的に改鋳され、資本によってより醜悪な形式として、労働力の搾取手段として確立される。終生を通じて一つの同じ道具を扱う専門性が、今では、一つの同じ機械に仕えることが終生の専門となる。機械は、労働者を彼のほんの幼児期から、細目機械の部分へと変形する目的のために悪用される。*103

  本文注: *103 ブルードンの驚嘆すべき思考はこんなところだ。彼は、機械を労働手段の合成物としてではなく、労働者自身に与えられる恩恵のための細目労働の合成物と「みなす」。

  (本文に戻る) これによって、彼の再生産にかかる費用が大きく低減されるのみならず、同時に彼の救いのない工場への最終的な従属、すなわち資本家への従属が完璧なものとなる。ここでは、いや何処であれ、我々は、社会的な生産過程の発達による生産性の向上と、資本主義的搾取過程の進展によるそれとは明確に区別しなければならない。手工芸や工場手工業では、労働者は道具を使いこなす。工場では、機械が彼を使い潰す。前者では労働の道具の動きは彼から発する。後者では機械の運動に彼は追随しなければならない。工場手工業では労働者達は生きたメカニズムの一部である。工場では、我々には、労働者からは独立した生命のないメカニズムがあるばかり。労働者はその単なる生きた付属品であるにすぎなくなる。

  (9) 「機械的な工程が何回も何回も行ったり来たりする中での、屈辱的な終りの無い決まりきった単調極まる骨折り仕事はシシュフォスの労苦のごときものである。疲れ果てた労働者の上に労働の重荷が、彼が積む岩の様に、止むこと無く必ず転がり落ちて来る。」*104

  本文注: *104 F. エンゲルス 既出 217ページ。並み以下で楽天家のモリナリ氏のごとき者でさえ、この程度のことは云う。「人は、日15時間も同一の機械の動きを見ていれば、彼の肉体的な力を同じ時間用いるよりも早く、疲れ果てる。この監視労働は、もしそんなに長時間にわたらなければ、精神的に有益な作業と場合によってはなるかもしれないが、長時間ともなれば過剰な使用により精神も肉体もともに破壊する。」 (G. de モリナリ 「経済学研究」 パリ 1846年) (フランス語)

  (10) 工場労働は、極限まで、神経系統を消耗させるとともに、同時に筋肉の多岐にわたる動きをも取り除き、ありとあらゆる自由の原子を没収する。*105

  本文注: *105 F. エンゲルス 既出 216ページ。

  (本文に戻る) 実際のところ、労働を軽減するはずのものがある種の苦痛の種となった。なぜならば、機械は仕事から労働者を解放したのではなく、様々な楽しみでもある労働を剥奪したのである。ありとあらゆる種類の資本主義的生産においては、それが単に労働過程のみならず、剰余価値の創出過程である限りは、この事を当然のこととしている。労働者が労働手段を使用するのではなく、労働手段が労働者を使用する。この転倒は工場システムにおいてのみ、初めて、学術的にも、知覚的にも実際の姿を得た。自動機械化されることによって、労働手段はその労働過程において、資本の形を取り、死んだ労働の形をもって、労働者の前にたちはだかり、生きた労働を搾り取る。手の労働から生産の知的能力部分を分離し、この能力を資本の労働支配の力に変換する。(この部分については、次の訳者余談で触れさせてもらう。)このことは既に見てきた通りであり、かくて、最終的に、機械の基礎の上に直立した近代工業によって完結された。取るに足りない労働者個々の特殊な技術は、科学・その巨大なる力の前には無限小量のごとく消えている。そして、労働の塊が工場メカニズムに実体化しており、それが一体となって、「主人」の力を構成している。従って、この「主人」の脳味噌の中では、この機械と彼のその独占が分かちがたく一体化しており、侮辱的に労働者に、次の様に吹く時はいつでも、その脳味噌と彼の「手」(訳者注:云うこととやることの意味、 "hands," ここは労働者の意味とも重なっている)とが一致しない。

 (11) 「工場労働者は、ありがたく次なる事実を頭に入れて置くべきである。お前たちが持っている熟練した労働伎倆は本当にとるに足りない程度の低級なものである。これほど容易に獲得されるものは他にはない。その質から見れば、これほど多くの報酬を得られるものも他にはない。また云うならば、僅かな短期トレーニングの初心者でもこれほど早く、広く、求められる労働は他にはないだろう。…. ご主人様のご機械様は、生産の商売において、はるかに重要な役割を実際に果しており、労働や労働者の伎倆とは比べものにならない。6ヶ月の教育でどの程度の労働者でも修得できるそんなものとは。」*106

 本文注: *106 「紡績業者と工場手工業者のための防衛的基金委員会報告書」マンチェスター 1854年 17ページ 我々は、これから後、このご主人が、彼の生きた自動機械を失う危機に直面すれば、全く別の歌を歌うのを必ず聴くことになろう。

  (12)  労働手段の一様な作動に対する労働者の技術的服従、そして、労働者大多数の特異なる構成、男女とあらゆる年令層の個々人からなる構成は、まるで兵舎的な規律を産み出し、それが工場における完全なるシステムとして凝固する。そしてさらに極限まで発展して、以前に述べた監督する役割をも産み出す。それによって、労働者は作業労働者と監督者とに分断される。産業軍隊内の一兵卒と軍曹に分断される。「主な困難[自動化工場における]は、…. 人間をして、彼らの散漫きわまる作業習慣を止めさせて、彼等自身を複合自動機械の不変の規則性に一致させるための訓練に、…. にある。工場兵舎の要求に適した有効な工場規則を考案し、施行することは、あのヘラクレス的事業であったのである。その高潔なる達成(訳者の余計なお世話なのだが、ここのnobleをなんで高潔と訳さねばならないのか大いに悩んだところなのである。この高潔なる意味は注で狡猾と分かる)となったのが、アークライト織機!であった。だが、システムが完璧に組織化され、その労働が最小限の軽きものに貶められている今日ですら、この方法によって人々を過去の青春期の工場の、あの使い勝手のよい手に、変換することは殆ど不可能と分かったのである。」*107

  本文注: *107 ユア 既出 15ページ アークライトの生涯を知る者は誰も、この天才理髪師を「高潔」とは決して呼ばないであろう。18世紀の偉大なる発明家達に関して云うならば、彼は論争の余地がないほどの偉大なる泥棒で、他の多くの人々の様々な考案を掠め取っただけの凡庸なる男であった。


  訳者余談: ここの部分の、向坂訳を読んで貰おう。彼の訳は、「これがすなわちアークライトの貴き業績である! この体系がきわめて完全に組織されている今日でさえも、年頃を過ぎた労働者のあいだに…. 自動的体系のための有用な助手を見出す事は、ほとんど不可能である。」ドイツ語が難しいのか、ドイツ語版訳者の文学的素養が豊かすぎるのか、狡猾期高齢者はかく楽しむ。

  続訳者余談: 一つ前の段落(10)に戻るが、訳していて、こう言うのかと思わず身が震えた部分があった。色を変えた部分で、後に触れるとした部分である。対象の文章を再掲すれば、The separation of the intellectual powers of production from the manual labour, and the conversion of those powers into the might of capital over labour, 「手の労働から生産の知的能力部分を分離し、この能力を資本の労働支配の力に変換する。」の部分である。はたと思い当たるからだ。工業デザイナーもそうだが、プログラマーや、会計士や、科学者もこの手の、人から奪って、資本の労働支配力となる者達であると分かる。ストレステストを実施する者も、資本の力の範囲で、資本の支配力である限りにおいて資本的に評価されるだけであると分かる。私の師匠にこの点に気づいたとメールした。ら、返事が来た。「資本論のご指摘の部分は、私にとっても、ここを読んだときの目の覚めるようなショックと同時にもっとも印象にのこっている箇所です。資本制生産様式での企業内での分割労働が、一方で肉体的単純労働に落とし込まれると同時に、他方でその労働の精神的・目的意識的な部分が、資本の目的意識を遂行する、頭脳労働という形で分離・成立するというマルクスの指摘は、デザイナーという職能が、そのような資本の目的意識の遂行者としての存在意義を持たされていると同時に、それは資本主義社会以前の職人労働における目的意識的な部分を、資本が彼らから奪い取った結果としてあるのだということを理解させてくれます。その一方で、デザイナーは、企業から独立した、小資本家としてデザイン企業を経営し、「社会的分業種」としてもデザイン活動をできるが故に、肉体労働者とは異なり、「自由な市民意識」を持った、普遍的なデザイン行為を行う職業であるという「デザイナー意識」を持つのだと思います。これまでに世の中にでている「デザイン論」関係の文献は、ほとんどそうした「デザイナー意識」で書かれたものといっても良いのではないでしょうか。これを徹底的に論破することが長いこと私自身の課題ですが、なかなか思うように筆が進みません。何とか「痴呆」が始まらないうちに纏めたいと思っております。」

  どうしても、読者の皆さんにもこの箇所がどのような意味をもっているか伝えたいのである。肝に命じて置いて頂きたい。


  (本文に戻る) 資本、私的な立法者であり、彼自身の善意のもとに、労働者に対する彼の専制が規定した工場法典は、責任の分担もなく、他はブルジョワジーによって承諾されるものばかりで、多くの者によって良く認められている代表的なシステムもなく、まさに、大規模な協働作業において必要となった労働過程の、当たり前ともなった労働手段の利用、特に機械の使用における社会的規範の資本主義的戯画である。奴隷監視人の笞に代わって監督者の違反記録簿がその位置を奪った。ごく自然に、全ての懲罰は罰金と賃金の減額に解消される。そして、リキュルゴス工場の立法者のとある才能は、彼の法を冒すことが、彼の法を守るよりも、できるならば、より利益が生じるように定める。*108

  本文注: *108「ブルジョワジーがプロレタリアートを縛り上げる奴隷状態が、工場システム以上に、白日の眼にさらされることは他にはない。そこでは、あらゆる自由が法的にも事実上も完全に無くなっている。労働者は5時半には工場に入っていなければならない。もしも彼が二三分でも遅刻すれば、罰せられる。もし10分遅刻すれば、朝食が終るまでは工場に入ることが許されない。そして日賃金の1/4を失う。彼は命令の言葉に従って食べ、飲み、そして眠らねばならない。…. 絶対君主のベルが彼をベッドから起こし、朝食や昼食を知らせる。そして工場内ではどうなっているか? 工場主が絶対的な法制定者である。彼は彼の好きなように規則を作る。彼は好きなように彼の法を変えたり、追加したりする。もしも彼がまったく馬鹿げた事項を挿入すれば、裁判所は労働者にこう言う。あなたはこの契約に自分の裁量をもって了承したのだから、今やあなたはそれを完全に実行しなければならない。…. これら労働者は9歳から死ぬまで、この精神的・身体的な苦行の下に生きることを宣告されたのである。」(F. エンゲルス 既出 217ページ以下)ところで「裁判所の云うところ」について二つの例を描いて見よう。一つは、1866年末 シェフィールドでの事である。その町の一人のある労働者がある鉄工所に2年間 彼自身を仕事に従事させると契約した。ところが成り行きから雇用主ともめたので、彼は仕事を離れた。そして彼は、こんな事情ではそのような工場主のためには金輪際働かないと宣言した。彼は契約違反のかどで告訴され、2ヶ月の刑務所拘留の刑に処せられた。(もし、工場主が契約を破れば、民事訴訟で事足り、金銭的な決着以外にはなんの実害もない。) 2ヶ月の務めが終ったのち、工場主は彼に仕事に戻り、かっての契約に従うようにと迫った。労働者は、自分は既に違反を償ったのでノーだと答えた。工場主は再び告訴した。裁判所は再び同じ判決をした。ただ前とは少し違っていた。判事の一人であるシー氏が、これは法律的におかしなことだと付記したのである。もしそう言うことになると、人は定期的に生きている限り、何回も繰り返してその一つの同じ違反や犯罪によって罰せられることになると。この判決はドッグベリー地区の「偉大なる無給名誉判事」によって下されたものではなく、ロンドンの最高裁判所の一つによって下されたものであった。− [ドイツ語版 第4版で追加された分−こうした事は今では無くなり、公益ガス事業の件のような例外を除けば、英国の労働者は雇用主と同じ立場において、契約違反に関しては民事のみで告訴される。−F. エンゲルス] 二つめのケースは、1863年11月末、ウィルトシェアーで起こった事である。ウェストベリー レィ地区のレオアーズの工場で布を織る工場手工業者であるハーラップなる者の一部に雇用された約30人の力織機の織工が、ストライキを起こして仕事を止めた。なぜかと云えば、ご主人様であるハーラップが、彼らが朝遅刻すると、彼らの賃金を減額するというご自分にとっては容易に合意し得る ( 訳者注: 英文はthe agreeable ) 習慣に励んでいたからである。2分で6ペンス、3分で1シリング、そして10分で1シリング6ペンスの減額である。これらの減額分を時間換算すれば、時間あたり9シリング、日当分換算すれば、4ポンド10シリング0ペンスに該当する。織工の週当りの平均賃金が年を通して、10シリングから12シリングを越えることはないのにである。( 訳者注: かなりの減額率であるが、ここの計算がどのように行われているのか少し計算してみた。時間当りに換算すれば、10分で1シリング6ペンスの減額が最も少なく、3分で1シリングの減額が最も大きい。前者で計算すれば、10分で18ペンスであるから、60分または6人分で、108ペンス、300人のうちの120人が10分遅刻すると、腹巻氏には20倍の9ポンド、週6日では、54ポンドが腹巻に入る。織工約100人分の賃金を不払いにできる。こんな厚かましき合意は他にはない。であるから、大多数が3分遅刻となるように設定する方法が最も合意的である。) そして一方で、開始時間を笛で知らせる少年を指名した。少年は朝6時前にたびたび笛を吹いた。労働者がもしもその笛が止む時点でそこにいなければ、扉は閉じられ、扉の外にいる労働者は罰金を課された。その場所には時計はなく、不運なる労働者はハーラップに仕込まれた若き時間管理係りの合意的恩恵に浴することになる。ストライキに参加した、家庭の主婦も少女も、時間管理係りを時計に置き換え、もっと合理的な罰金算定法が導入されるならば、仕事に戻ると申し出た。ハーラップは契約違反のかどで、19人の婦人と少女を治安判事の前に呼び出した。傍聴者の大きな憤激に至る中、彼女たちにはそれぞれ罰金6ペンスと裁判費用2シリング6ペンスが科された。ハーラップは人々のブーイングにつきまとわれて退出した。工場手工業者の大好きな泥棒操作は、作業中の原材料取り扱いミスを理由に罰として労働者の賃金を減額することである。この方法は、1866年英国の陶業業地域で大きなストライキを引き起こした。児童雇用調査委員会報告書(1863-1866年)が示した内容はこう云っている。労働者は賃金を受け取れないだけではなく、彼が労働することによって、ペナルティ条項によって、彼のご大層なご主人によって、借金漬けとなる。と。最近の木綿恐慌の最中でもまた工場専制者の抜け目のなさを示す例は沢山並べて示されている。工場査察官の R. ベイカー氏はこう云う。「私自身、最近、ある綿工場占有主に対して、その場で、起訴手続きを取った。この恐慌の最中の苦しい時期に、医師の年令証明書代 (工場主自身が支払った額は単に6ペンスなのだが) として、彼が雇った少年労働者から10ペンスを差し引いたからである。当時、法律によって許容されていた額は単に3ペンスであり、慣習的には何も差し引かれるものではなかった。…. さらに私は別の者のことも知らされている。法によらず、同様のことを得ようとする者のことである。彼は、貧しい子供たちから、医師が仕事に適し、ふさわしい者であるとの証明書が届くやいなや、一人1シリングを子供たちから徴収する。彼等が綿紡績の技術と秘法を学習するための費用としてである。であるから、ストライキと云った様な異常な出来事に至る底流がここにある。至る所で彼等が決起するばかりでなく、現在のそうした特異なる状況ではいつでも発生する。」彼はここでは1863年の7月 ダーウインで起こった力織機の織工たちのストライキのことについて言及している。(「事実に関する監視報告書 1863年4月30日」 50-51ページ) 報告書は常に、公式の日付を越えて記録されている。

  (本文に戻る) 我々は、ここでは単に、工場労働が行われる上での物質的条件についてのみ触れることにする。すべての感覚器官は、どれも同じように痛めつけられる。人為的に操作された高い室温や、原材料の屑埃で充満した空気、耳をつんざくような騒音があり、過密に配置された機械の中、身体・生命への危険もまた云うまでもない。各季ごとの通例報告書は、産業戦争の死者・負傷者のリストを提示している。*109

  本文注: *109工場法によってもたらされた、危険な機械からの保護は、有益なる効果を発揮した。「しかし…. 20年前には存在しなかった別の事故発生源がある。その一つは、まさに、機械の速度の増大である。車輪、ローラー、紡錘、梭等の動きは、今や加速され、加速度も増大し、指は切れた糸を拾い上げるために、素早く、かつ巧みに動かねばならない。もし、躊躇とか不注意があれば、指を持って行かれる。…. 多くの事故は、労働者の、仕事を手早くなしとげようとする熱心さによって起こる。工場主等の至上の命題は、このことはしっかりと頭に入れて置かねばならないことであるが、機械は常に動いていること、つまり布や商品を生産していることである。どの1分の停止も動力の損失ばかりでなく、生産の停止である。だから、労働者は監督から停止することなく仕事を続けることに駆り立てられる。監督者は、生産量しか関心がなく、機械を常に動かし続けることしか知らない。そしてまた、出来高の重量や個数で支払われる労働者にとっても、機械が動き続けるべきことが重要でないはずもない。それゆえ、多くの、いや殆どの工場では機械は動かしながら掃除すべきではないと厳しく禁じられているとはいえ、それにもかかわらず、殆どの日常的実施は、全てではないが、労働者は、それらの機構が動いている中で、屑を拾ったり、ローラーや車輪を拭いたり、等々を怒鳴られることもなく行う。このようなことからだけでも、6ヶ月間で906件の事故が発生した。…. 多くの清掃は毎日必ず行われているのであるが、しかも土曜日は通常機械の全清掃のための日として設定しているのであるが、多くのこの種の清掃作業は、機械を動かしている中で行われる。」何故かと云えば、清掃作業は支払われないし、労働者はできるだけ早くその仕事を済ませたいと思っているからである。故に、多くの事故は金曜日に起こる。そして特に土曜日には多くなる。他の曜日よりもかなり多い。前者は週始めからの4日間の平均と比較すれば、約12%以上多く、後者はその前の5日間の平均と比べて25%以上も多い。土曜日の作業時間も含めて計算すれば、− 土曜日は7 1/2時間で他の日は10 1/2時間であるから −土曜日のそれは他の5日間の平均と比べれば、65%以上も事故が多い。」( 「事実に関する査察報告書 1866年10月31日」 9,15,16,17 の各ページ)

  (本文に戻る) 社会的生産手段という経済体制はいはば工場システムなる温床によって成熟され、強行された。そして資本の手によって、システマティックな強奪手段ともなった。労働するときに労働者にとって必要なものを強奪した。空間の強奪、光、空気、そして危険きわまりなくそして不衛生きわまる生産工程の諸々から体を守るものを奪った。労働者の休み時間のための場所については云うまでもない。*110

  本文注: *110 本書第三巻の第一篇で、私は、最近、英国工場手工業者によって行われた、危険な機械から労働者を守る工場法の条項に対するキャンペーンの経緯を述べる積もりであるが、この時点では、レオナード ホーナーの公式報告書の一節で十分として置こう。「私は、何人かの工場所有者が、いくつかの事故について許しがたい軽薄さをもって語るのを聞いたことがある。例えば、指の損傷など取るに足りない事であると。私は、このような思いやりのない話を聞いた時は、いつも次のような質問をすることにしている。あなたが追加の労働者一人を必要としているとしよう、二人が応募してきたとしよう、いずれの二人も様々な点から見て十分な素質を持っているが、一人は親指あるいは人指し指を失っていた、あなたはどちらの者を雇うだろう。答えに躊躇する者はいない。….」この工場手工業主達は、偽博愛主義的法律そのものと言われるものに対して誤った偏見を持っている。(「事実に関する査察報告書 1855年10月31日」)これらの工場手工業主等は、賢き人達であり、理由もなく、奴隷所有者的な反逆に熱狂的に取り組んでいるはずもない。

  (本文に戻る) フーリエが、工場を「調整された避寒地」というのは、間違っているのだろうか ? *111

  本文注: *111 労働時間の強制的な制限やその他の規則をもって、最も長く支配した工場法にしばられる工場での、多くの古き乱用がここに至って消滅した。機械のまさにその改良が「ある程度の大きさの「改良された建物構造」を要求するからである。そしてこのことは労働者にとっても利益となる。(「事実に関する査察報告書 1863年10月31日」 109ページ を見よ。)


  ( 訳者の余談的注: 「調整された避寒地」と訳した部分の英文は"tempered bagnos"である。向坂訳は「緩和された牢獄」だが、「空想的社会主義者」とマルクスが批判した人物が工場をどのように見ていたかに係わる部分であることを知れば、自ずと内容が判って来るだろう。読者諸氏は奴隷制度維持の反逆をもって労働者の要求を屈伏させようとするブルジョワジーとの闘いは避けられないだろうというマルクスの言葉を忘れてはいないだろう。機械のための建屋が労働者にとっていい避寒地でもいい牢獄でもないのは当たり前の事である。英国工場査察官が報告しているのは、フーリエの評を不当と断じていよう。そして次節が来る。)




[第四節 終り]

 




第五節 労働者 対 機械 の闘争



  (1) 資本家と賃労働者との闘争は、まさに資本の起源そのものの日に遡る。全工場手工業時代を通して荒れ狂った。*112

  本文注: *112 いろいろあるが、中でも、ジョン ハウフトンの「農業と改良された商売」ロンドン 1727年、「東インド貿易の利益 1720年」、ジョン ベラーズ 既出 等を見よ。「主人等と労働者達の、不幸な、互いに終りなき闘い。前者の不変の主題は労働者が行う労働をできるだけ安く獲得する事であり、この目的のためにはありとあらゆるごまかしを弄して失敗することがない。一方の後者は、同様に、彼らの主人に対してより高い要求に同意させようとあらゆる機会を狙っている。」(「現在の穀物の高価格の原因に関する研究」61-62ページ 著者 ナザニエル フォースター師は、しっかりと労働者達の側に立っている。)

  (本文に戻る) だが、労働者が労働手段そのものに、資本の物質的な化身に対して闘うことになったのは、機械の導入以後のことにすぎない。彼は、資本主義的生産様式の物質的基盤である、この生産手段の特異な形式に対して反逆した。

 (2) 17世紀、ほとんど全ヨーロッパは、リボン織機や縁飾りを編む機械に対する労働者の反逆を経験した。ドイツでは、バンド編み機、レース編み機、椅子飾り編み機(ドイツ語 Bandmuhle, Schnurmuhle, and Muhlenstuhl) と呼ばれる。これらの機械はドイツで発明された。アッベ ランチェロッティは、1636年にベニスに現れたこの機械について次のように語っている。但しこれが書かれたのは1579年のことであった。

 (3) 「ダンチッヒのアンソニー ミュラー は、この町で約50年前、一台の非常に独創的な機械を見た。その機械は4本ないし6本のレースを一度に編んだ。しかし町長は、その発明が多くの労働者を街頭に投げ出すことになるだろうと考えて、発明者をこっそりと絞め殺すか溺死させることにした。」

  (4) ライデンでは、この機械は1629年までは使われなかった。リボン織工達の暴動が、とうとう町議会がそれを禁止するまでに追い詰めた。

  (5) ライデンへのこの機械の導入に関して、ボクスホルン(政治制度 1663年)はこう述べている。「この町では、約20年前、ある者等が一つの織機を発明した。たった一人で多くの布を簡単に織ることが出来る。多くの者が同じ時間を掛けて織るよりも多くの布を織る。その結果、織工たちの騒動と抗議が、町議会が最終的にこの機械の使用を禁止するに至るまで続いた。」(オランダ語)

  (6) この織機に対する更なる禁止条項が、1632年、1639年、その後にも作られた後、オランダ国家は、1661年12月15日、一定の条件の下で、その使用をついに法令によって許可した。1676年のケルンでもまた禁止された。同じ時期、英国への導入は労働者の間に混乱をもたらした。1685年2月19日の皇帝勅令によりその使用は全ドイツ領において禁止された。ハンブルグでは、議会の命令によって公衆の前で燃やされた。1719年2月9日カール6世は1685年の勅令を更新し、1765年ザクセン選帝侯領で一般に許可されるまで禁止されていた。ヨーロッパの基盤を揺るがしたこの機械は、事実、ミュール紡績機や力織機への先駆的な機械であり、18世紀の産業革命の推進力となった。この機械は、その改良された型は、全く経験もない少年をして、全ての織機に全てのシャトルをセットして、ロッドを単純に前後させることによって、忽ちのうちに40から50ピースの生産物を作り出すことができたのである。

  (7) 1630年頃、オランダ人によってロンドン近郊に設立された風力製材工場は、大勢の人々によって廃止に追い込まれた。18世紀の初めが過ぎる頃ですら、水力製材工場は、議会の支援があったにもかかわらず人々の反対をなんとか凌ぐのに、非常に困難が伴った。エバレットが最初の水力による羊毛の剪毛機を設置するやいなや、仕事から放り出された人々10万人によって火をかけられた。以前には羊毛の梳毛で生計を立てていた5万人の人々は、アークライトの荒梳機や梳毛機に反対して議会に陳情した。英国工場手工業地域において、この18世紀初頭の15年間にも渡る、大規模な機械破壊は、主に、力織機の使用によって引き起こされた。ラッダイト運動として知られるところである。これらの機械破壊運動は、シドマスやカッスレー及びそれら地方の反ジャコバン派政府に、強烈に反動的かつ暴力的な弾圧手段をとる口実を与えることになった。(訳者注: ジャコバン派とは、フランス革命を推進した人達の総称、反ジャコバン派とはそれに反対する人達の総称 ここではブルジョワ派市政と云える) 労働者達が機械と資本による機械の使用との違いを明確に学ぶには時間と経験を要した。そして明確に、生産機械を直接攻撃するのではなく、それが使用される様式に対して戦うことと知ったのである。*113

  本文注: *113 旧式な工場手工業では、労働者の機械に対する反乱が、今日ですら、時々、野蛮な形を取る。1865年に起こったシェフィールドのやすり工場の場合がその一つである。


  訳者余談: 私が大学の工業意匠学講座で受けた最初の講義は、ウイリアム モリスの作品に対するものであった。壁紙のデザインについてである。今見れば、その斬新さに改めて驚くのだが、当時の学生としては、間の抜けたどうでもいいデザインの一つに過ぎなかった。フォードのムスタングこそ現代のデザインであると思っていただけである。馬鹿な若さの見本であった。だが、そこにラッダイト運動が添えられる。機械打ち壊しというあってはならない時代錯誤の運動として登場する。我々はまさに機械生産、大量生産、新しい文化の創造局面に居て、そのような過去の運動を否定する地点に立ってデザインを追究していくことこそ我等が基盤であると淡々と語られて、まったく同感しただけである。単なる悪ふざけに近い手工業復帰願望としか理解しなかった。教授達はこれをデザインの歴史の戯画としてしか語らなかった。次の時間はバウハウスの講義である。機能主義デザインの話である。その一瞬後には、秋葉原の電器店の陳列場でのデザイン競争の世界に飛ぶ。売れないデザインはデザインが悪いとなる。最後者の論理で卒業する。デザイン労働者として生活を始めれば、なんのことはない、自分のデザインのモデルチェンジ作業ということになる。それは安く作れて、店頭で見栄えがして、沢山売れればいいだけのことで、結局は安く作り、ほどほどのもので足りる。利潤の追究以外の論理が消えて、その困難な状況の処理に追われる。儲からなければ、会社が潰れて、デザイン失業者が出来上がる。マルクスの資本論は、ラッダイト運動のなんたるかを明確に示して居る。さらに戦う相手は機械ではなく機械を使用する様式であり、労働者がそれを知るまでには時間と経験が必要だったと温かい。150年も前に書かれたものを教授達が読んでいたら、こんなデザイン論では済まないはずだ。読んでいて、革命の道へと踏み外さない様にと安全を祈ったのならば、それでもこうはならなかっただろうと思う。私にも相当の時間が必要だったのである。師匠に巡り合って、「資本論」を読めと言われて、その日本語訳がよく分からず、やむなく英語版「資本論」を翻訳するという大それた道に入り込むことになった。ヨーロッパを席巻したラッダイト運動を今度はユーロ通貨や国債を抱えたブルジョワ連中が労働者の生活・生存を破壊する運動として開始したのだから、歴史はめぐる。トイダッラ運動と仮称しておこう。建設稼働後40年までという資本家政府の原発運転年数規制という姑息な運動など誰が認めるものか。米軍の削減に日本軍の支援などというのも、トイダッラ運動と言うものだろう。そのために資本主義体制という様式を打ち壊す運動が、じっくりと資本家による打ち壊し運動を取り除くように進んでいる。そういう世紀に生きていることを労働者は知ることになるが、資本家にはそれが分かることは少しもないだろう。邪魔となった貴族制度を取り除くのは、貴族には考えも付かないことなのである。


  (8) 工場手工業内での賃金闘争は、工場手工業を前提条件としており、そこにはその存在そのものに反対すると言う直接的な視点はない。新たな工場手工業の立地への反対は、ギルドや特権を持つ町によるもので、労働者のものではない。従って、工場手工業時代の著者達は、分業を、主として、労働者の不足を補う実質的な手段として取り上げ、現実には労働者を仕事から駆逐する手段となっていることを取り上げない。この視点の落差を指摘すべきは必然必至である。仮に、英国において、今ではミュール紡績機によって50万人で足りる綿を、旧式の紡車で紡ぐとしたら1億人の人々が必要であると言うならば、このことは、ミュール紡績機がかって存在もしなかった9,950万人に取って代ったと言うことを意味してはいない。単に紡績機械に 替ってもそれなりの数の労働者が必要となるだろうと言う意味に過ぎない。他方、もし我々が英国において、力織機が80万人の織工を路頭に投げ捨てたと言うならば、当該の機械は一定数の労働者と置き換えられるであろうと述べているのではなく、その力織機によって実際に転職させられるか解雇されるであろう実在の労働者のことを述べているのである。工場手工業時代の期間においては手工の労働は、分業によって置き換えられたとはいえ、依然としてその基礎を成している。新たな植民地市場の要求を満足させることは、相対的には小さな町の労働者が中世から受け継いだ技ではできなかった。大手の工場手工業主達は、封建制度の解体によって土地から放り出された農業地域の人々のためにと新たな生産分野に進出した。そのため当時は工場内における分業や協同作業は肯定的な面がより強く評価された。労働者達をより生産的にしたからである。*114

  本文注: *114 ジェームス スチュアート卿もまた、全くこの意味に機械を理解している。「従って、私は機械を(事実上)養う必要のない労働者を作り出す手段と考える。機械とそれに見合うこの新たな労働者との違いは何か? 」(フランス語) (フランス語訳 「経済学原理」第1巻 第1篇 第19章) 固執狂的なのはペティである。彼は、機械は「複婚」を解消すると言う。このような見解を容認するのはせいぜい合衆国のある地方のみである。(訳者注: 一夫一妻制度に固執するキリスト教的な婚姻制度を正道とするあまりの希望的な見解がいつも口に出る。今のアメリカ共和党の原点、いや、なんのことかさっぱり分からないので適当に注とした。すんません。) 別の見方についても見ておこう。「機械は一人の個人の労働を短縮することに成功するように使用されることはほとんどできない。その利用によって節約される時間よりも、その製造のためにより多くの時間が使われる。機械が唯一有用なのは、大勢の人々に働きかける時で、一台の機械が大勢の労働を助ける場合だけである。であるから、人口が非常に多い地区で、怠け者が沢山居て、最も失業者の多いところで使われる。….. 機械は、人が少ないことから使われるのではなく、大勢の人を働かせるための道具として使われるのである。」(ピアシー ラベンストーン 「資金調達システムとその効果に関する思考」ロンドン 1824年 45ページ) (訳者注: 機械とはなにか。わが大学での機械の講義を思い出す。機械というと旋盤とか研磨機とかの工作機械類が真っ先に思い浮かぶだろうが、今日の機械の代表的なものと云えば、それは自動車である。と、講師が述べた。なるほど。見回せば、冷蔵庫も洗濯機も楽器も機械と云える。つまり多くの商品は機械である。まったく天地不明 本末転倒、なんでも機械論であった。大学の講義がここで訳に立つとは思わなかった。マルクスもこんな見解を追加されるとは思わなかったろう。ごめんさい。)

  (本文に戻る) 近代工業の時代のずっと以前、僅かな者の手に協同作業と労働手段の集約が生じ、そしてその方法が農業に活用された多くの地域では、大規模な、急激で、強制的な生産様式の革命が起こった。そしてその結果、生存条件や地方の大勢の人々の雇用手段にもそのような革命が生じた。しかし最初に起こったこの闘争は、資本と労働者間に生じた闘争と言うよりは、大規模な地主と小さな土地の小地主の間に生じた争いと云えた。一方、労働者が労働手段である羊や馬やその他によって仕事を奪われた場合では、その反対運動がまず最初に産業革命への前段を形成した。労働者たちが最初に土地から追い出された。そして羊がやって来た。英国で行われたような大規模な土地の強奪は大規模農業の確立局面を作る最初の段階なのである。*115

  本文注: *115 [ドイツ語版 第4版 への注:--- ドイツでも同じことが云える。我国ドイツでも大規模農業が存在する。これらは、特に東部では土地を清浄化する(黒い血を排除する)ことによってのみ可能となった。(ドイツ語) このやり方は16世紀には広く行われ、1648年以降は特に激しかった。F. エンゲルス]

  (本文に戻る) それゆえに、この農業破壊はその最初においては、むしろ政治的革命の様相を呈する。

  (9) 労働手段が、機械の形式を取るならば、それは立ちどころに労働者にとっては競争相手となる。*116

  本文注: *116「機械と労働は常に競争関係にある。」リカード 既出 479ページ

  (本文に戻る) 機械による資本の自己拡大は、それ以後、直接的に、その機械によって生活手段が破壊された労働者の数に正比例する。全資本主義的生産システムは、労働者が彼の労働力を商品として売るという事実で成り立つ。分業はこの労働力をある特定の道具の取り扱い技能に縮小することによって専門化する。この道具の使用が機械の仕事になれば、どうなる。労働者の労働力は使用価値も交換価値も共に消える。労働者には売るものがない。丁度、紙幣が法律改正によって流通から外され、紙屑となるようにだ。そのように機械によって余剰となった労働者階級の一部は、すなわち、資本の自己拡大のために忽ちにして不要となった部分は、古き手工業や機械を使うものの古き工場手工業の不安定な競争条件・賃金の壁の中に行くか、より容易に入れる産業部門へと溢れ出るか、労働市場に淀む。そして労働力の価格はその価値以下に下がる。


 今この部分を訳している日付は、2012年1月11日(水)である。日付を書く理由は、現在私が生きている状況と大きく関連するであろうからである。訳者余談が少し長くなるが、まあ大目に見て貰いたい。さて、上の本文に続く部分の向坂訳を先に示しておく。「貧民化した労働者にとって、一つの大きな慰めともなるべきものは、一部は彼らの苦悩が単に「一時的」("a temporary inconvenience") であるということであり、また、一部は機械の一生産部面全体の占領がただ漸進的にのみ行われることによって、機械の破壊的な作用の範囲と強度とが殺がれるということである。一つの慰めは他の慰めをあだにする。」岩波文庫版で約4行分を着色して示した。英文も同様に色付して示しておく。It is impressed upon the workpeople, as a great consolation, first, that their sufferings are only temporary ("a temporary inconvenience"), secondly, that machinery acquires the mastery over the whole of a given field of production, only by degrees, so that the extent and intensity of its destructive effect is diminished. The first consolation neutralises the second. さて、読者には、向坂訳で意味が通じるはずもないと思う。なにが慰めなのか、なぜ慰め間に仇討ちが登場するのか、さっぱりだろう。当該訳者がこれをどう訳すか、読者にも見ものとなるであろう。段落(11)の後に訳者余談を書くつもりで、その前段として触れたところである。


 (本文に戻る) この状況は、労働者に、まず第一に、この災難が単に一時的(当座の不便)なものであるというごく普通の希望的観測を広げる。第二には、機械はその与えられた生産領域全体を確保はするが、少しずつで、その破壊的な広がりと激しさは先細りとなるだろうという希望的観測である。最初の希望的観測が(訳者挿入 結果的に) 第二の希望的観測を無に帰する。機械が少しずつ産業領域を捉える時、それと競合する労働者には、長期的な窮乏状況が生じる。機械への転換が急激な地域ではその影響は深刻で、大勢の人間が影響を受ける。歴史が示したこれ以上の悲劇はない。英国の手織り工達に降りかかった徐々に進行する絶滅以上の悲劇はない。数十年もかけて絶滅は進行し、1838年に終止符を打った。多くの者が飢死した。多くの家族が日2 1/2ペンスでくる日もくる日も命をつないだ。*117

  本文注: *117 英国に於ける手織りと機械織りとの間の競争は、1833年の救貧法が議会で承認される以前は、大きく最低限を下回った賃金を教区の補助金が多少の補足をすることで、長引くことになった。「ターナー師は、1827年 工場手工業地区であるチェシャー地区 ウイルムスローの教区牧師であった。転出移住に関するの委員会の質問と、ターナー師の回答は、機械に対する人間の競争がどのようにして維持されたかを示す。"質問: 力織機の使用が手織機の使用を駆逐しなかったのか? 回答: 確かに。もし、手織り工達が賃金の減額に応じなければそれ以上に駆逐したであろう。質問: しかし、彼の生活を支えるに足りない賃金額を受け入れたことと、その不足分を小教区の給付が支えているということか? 。回答: その通り。事実、手織りと機械織りとの間の競争は救貧税の支給によって維持されている。"この様な屈辱的な生活困窮者を続けるか、国外に移住するかが、機械導入から勤勉なる人々が受けた恩恵なるものである。自らの尊厳をあきらめ、それなりの独立した技能者であることをあきらめ、慈善の品質の悪いパンのためにへつらう恥知らずとして生きる恩恵とは。これが、彼らの言う当座の不便なのである。」 (「懸賞論文 競争と協同作業の利点に関する比較」ロンドン 1834年 29ページ)

  (本文に戻る) もう一つの面で、機械による英国綿織物業は、激烈な影響をインドに造り出した。インド総督は、1834-35年に次のような報告をした。

  (10) 「この悲惨さは、商業史において、同様のものを見出すことはできない。 綿手織工の白骨がインド平原を漂白している。」と。

  (11) まさに文字通り、この束の間の現世からの彼等の追い出しは、「当座の不便」以上のものを彼等にもたらしてはしていない。このこと以外で云うならば、機械が新たな生産領域を確保すれば、その当座的な影響は、実際には永久的な影響となる。この様にして、資本主義的生産様式の独立した、他を寄せつけない性格が、全体として労働手段や生産物に係わり、労働者をはじき出して、機械によって発展させられて、絶対的な敵対物となる。*118

  本文注: *118「国の収益を増加させるであろう同じ原因」(すなわちリカードが同じ文節で説明しているようにその収益とは、地主や資本家の収益であり、彼らの富が、経済学的視点から、国家の富を形成する。)「その同じ原因が、同時に、人口を過剰にし、また労働者の生活条件を悪化させるかもしれない。」(リカード 既出 469ページ)「機械のあらゆる改良の変わらぬ目的と傾向は、事実、人の労働をことごとく不要にする。または、その価格を低下させる。成人男子の労働を婦人や児童の労働に置き換え、熟練労働者のそれを非熟練労働者の労働に置き換えることによってその価格を低下させる。(ユア 既出 第1巻 第1章 35ページ)

  (本文に戻る) 従って、機械の出現により、初めて、労働者は労働手段に反対して獣のように反逆するのである。


  訳者余談: 現在ヨーロッパ ユーロ圏における国債の売買価格が低下し、その利子率は上昇している。ギリシャ・イタリア・スペイン・ボルトガルの国債の償還が迫っていて、フランスやドイツがそのための資金を積み立てるのに首脳会議等を頻繁に開いて、協議にいとまがない。また通貨ユーロの低下も止まらない。日本から見れば、円高ユーロ安で日本商品が売れない。中国や東南アジア各国でもユーロ融資が減少し、ヨーロッパからの発注も減少し、景気低迷が顕著になっている。アメリカ経済も縮小しており、ドルの価格も低下、円高ドル安で商品を売ってもその売上は安いドル価格に化けてしまい経済活動の縮小を余儀なくさせられている。資本のかっての蓄積は、いまやこれらの国の国債やら、その国債関連の証券・手形に置き換わっており、それが現金には戻らない恐れが出て来た。商品に変換しても、現金への再変換が滞り、証券ばかりに群がらざるを得なくなった状況が破産を加速している。この証券類と現金との相殺処理が不能となれば、グローバル恐慌、資本の破滅的な崩壊しか残ってはいない。資本家達が自らの生存をかけて荒れ狂うのもこれが明らかになってしまったからである。資本家が真っ先にかつそれだけを継続して実施するのは、資本家以外の手にある貨幣、つまり一般大衆、労働者階級の持つ財産を、国家的に収奪することであって、税率をあげ、国家支出を極限まで減らし、その現金相当分をこの全資本の証券類を現金類へと相殺し続けることであり、それが増税と支出減との、なかでも社会福祉の支出減との一体改革ということになるのである。社会福祉のための消費税増税という作戦形態を資本家国家はとるが、社会福祉は低下し、この長期間続く償還のための莫大な現金以外に使われることはない。そして償還が破綻するまでに、労働者階級の生活は急速に白骨化をもって終了し、この当座の悲劇を再度繰り返すことももうない。同時に資本家も大きな破綻額を知りつつ白骨化する。グローバル世界はそれらの白骨によって漂白される。すぐに経済は回復するとか、この経済状態はこれ以上悪くならないだろうという希望的観測はいずれも実現しないし、すぐに回復するだろうという感覚では、この社会状況は忽ちにして悪化していく。資本主義的生産体制を廃棄して新たな共産主義的生産体制による、労働力の商品化を排除した社会へと革命的に変革すること以外にはなんの対応策もありはしない。マルクスが機械打ち壊し運動の歴史をもって、現在の状況を解説予告している。


  (12) 労働手段が労働者を打ちのめす。この両者間の直接的な対立は、新たに導入された機械が手工業や工場手工業と競い、その古き時代に引導を渡す時はいつでも最も強烈なものとなる。さらに同様、近代工業の内部においてさえも、機械の絶え間なき改良と自動化システムの進展が類似の対立をもたらす。

  (13) 「改良された機械の目的は、手の労働を減らすことであり、人間器具に代わって、鉄を用いて、工程を遂行し、工場内の各連結を完成させることにある。」*119

  本文注: *119「事実に関する工場査察報告書 1858年10月31日」43ページ

  (本文に戻る) 「これまでは手によって動かされていた機械への動力の採用は、殆ど日常的な事柄であり、…. 動力を節約したり、生産方法を改良したり、同一時間内により多くの物を作り出したり、子供、婦人、成人男子の仕事にとって替えたりといった小さな改良が機械には常に生じている。時には、あまりたいしたことではないものが、かなり重要な結果をもたらすことがある。」*120

 本文注: *120 「事実に関する工場査察報告書 1856年10月31日」15ページ

 (本文に戻る) 「ある工程が特別なる手の器用さや定常性を求める時はいつでも、様々な不安定要素を持った小賢しい労働者の手からできるだけ速やかに取り上げて、子供でも監視できるような自動補正メカニズムを持った装置に置き換える。*121

  本文注: *121 ユア 既出 19ページ「煉瓦製造に使用される機械の大きな利点は、次のような点にある。すなわち、雇用者を全く熟練労働者から独立させることができる。」(「児童雇用調査委員会 第5次報告書」 ロンドン 1866年 130ページ ナンバー 46 ) グレート ノーザン鉄道の機械部門の監督であるA. スタロック氏は機関車その他の製作に関して、こう言う。「賃金の高い英国の労働者は日々に使われることが少なくなっている。英国の工場での生産は、改良された道具の使用によって増加しており、これらの道具は低級労働者によって一層使用される。…. 以前はそれらの熟練労働者がエンジンのあらゆるパーツを生産するのに必要であった。いまではそのエンジン パーツは低技能労働者によって、但し、良き道具によって作られる。私が道具と云っているのは、エンジニアが使う機械のことで、旋盤、平削り盤、ドリル等のことである。」(「鉄道に関する王室委員会」ロンドン 1867年 証拠細目 ナンバー 17,862 及び 17,863 )

  (本文に戻る) 「自動化計画が、漸次、熟練労働者にとって替る。」*122

  本文注: *122 ユア 既出 20ページ

  (本文に戻る) 「機械改良の効果は、以前と同じ数の成人労働者の雇用の必要性を排除するのみでなく、ある結果を作り出すことにある、一つの明確なる人間の労働を他のものと置き換え、熟練工を非熟練工に、大人を少年に、男性を女性に。この事が、賃金体系にあらたな変動をもたらす。」*123

  本文注: *123 ユア 既出 321ページ

  (本文に戻る) 「普通の紡績機を自動紡績機に置き換えることによる効用は、成人男子紡績工の大部分を解雇して、若年者や児童を雇うことにある。」*124

  本文注: *124 ユア 既出 23ページ

  (14)  積みかさねられた実地の経験や、既に獲得している機械的手段や、絶え間ない技術の進歩等に起因する工場システムの拡大という異常とも云える大きな力は、労働日短縮の圧力下、そのシステムの大きな進展を見せつけることで我々にはっきりとその実力を認識させた。だが、1860年、英国綿産業の絶頂期に、その後の3年間に、アメリカ市民戦争の刺激を受けて、生じた機械改良の急速な進展とそれに伴う労働者の解雇は、誰が予想したであろうか? この点に関しては、工場査察官の報告書から二三の例を挙げれば十分であろう。あるマンチェスターの工場手工業主はこう述べている。

  (15) 「我々は以前は75台の梳綿機を持っていたが今では12台だ、それで同じ量の生産をしている。労働者は14人で、週10ポンドの賃金を節約できている。我々は屑綿量を綿消費総量に対して約10%程度に減らしていると見ている。」「マンチェスターの別の細糸紡績工場で、私はこう言われた。増速され、かつ、ある自動化工程の採用によって、ある部門では人数を1/4減らすことができた。他では1/2以上も。そして第二梳綿機(second carding)に替えて新梳綿機(combing machine)の導入で、以前梳綿機室で雇用していた人数を、大きく減らすことができた。」

  (16)別の紡績工場では、労働者の節約効果は10%と見積もっている。マンチェスターの紡績業者ギルモア氏はこう言う。「ボイラー室部門では、我々は、我々の出費を新しい機械にすることで、賃金も人数も完全にその1/3を減らせると考えている。…. 抜き型染めや描き染め室では、約1/3出費を減らした。そしてその上に労働者数をも1/3減らした。紡績室でも約1/3出費を減らした。しかしこれだけが全部ではない。我々の撚糸が工場手工業者の所に行けば、我々の新しい機械で作ったものが、よりよい結果をもらたす。より大量の布を生産したり、古い機械で作った撚糸よりも安く生産することができるであろう。*125

  本文注: *125 「事実に関する査察報告書 1863年10月31日 108及び109ページ

  (本文に戻る)レッドグレーブ査察官は、この同じ報告書でさらなる記述をしている。

  (17)「生産の増大に対して労働者の減少は、実際に、絶え間なく起こっている。羊毛工場では少し前に削減が始まり、今も続いている。二三日前、ロッチダール近隣にある学校の校長は私にこう述べた。女子校での大量の退学はこの不況によって生じたものではなく、羊毛工場における機械の変更によるもので、その結果70人の短時間工が解雇された。*126 

    本文注: *126 前出109ページ 綿花恐慌の期間にも、機械の改良が急速に進んだが、アメリカ市民戦争の終結後忽ちにして、殆ど直後から世界の市場に商品を溢れさせた。布は、1866年の最後の6ヶ月間は、殆ど売れなかった。そこですぐに商品はインドや中国に転送された。当然ながら忽ち市場に溢れかえった。1867年の初め、工場手工業主等は、この困難をなんとかするために、いつもの手を取りだした。すなわち、賃金の5%減額である。労働者達は抵抗し、唯一の治療策は、週4日への労働時間短縮であると主張した。彼らの理論は正当なるものであった。かなりの時間が経過した後、産業の自選代表者等は、労働時間短縮を、賃金減額を伴うにしろ伴わないにしろ、受け入れると心を決めざるを得なかった。

  (18)次の表は、アメリカ市民戦争に起因するところの、英国綿産業における機械改良の全結果を示す。

表 工場数 力織機台数 紡錘数 雇用者数 の推移
工場数[ヶ所]1857年1861年1868年
イングランド・ウェールズ2,0462,7152,405
スコットランド152163131
アイルランド12913
英王国全体2,2102,8872,549

力織機台数[台]1857年1861年1868年
イングランド・ウェールズ275,590368,125344,719
スコットランド21,62430,11031,864
アイルランド1,6331,7572,746
英王国全体298,847399,992379,329

紡錘数[本]1857年1861年1868年
イングランド・ウェールズ25,818,57628,352,12530,478,228
スコットランド2,041,1291,915,3981,397,546
アイルランド150,512119,944124,240
英王国全体28,010,21730,387,46732,000,014

雇用者数[人]1857年1861年1868年
イングランド・ウェールズ341,170407,598357,052
スコットランド34,69841,23739,809
アイルランド3,3452,7344,203
英王国全体379,213452,569401,064

  (19)この表から分かるように、1861年から1868年の間に、338ヶ所の綿工場が消失した。他の言葉で云えば、より生産的な大きな規模の機械が少数の資本家の手に集中されて、多くの力織機が減少した。その減少台数は20,663台。しかし彼らの生産物は同じ期間内で増加しているのであるから、一台の改良された力織機は古いもの以上に生産を上げたことになる。最終的には、雇用者数が51,505人減る一方で紡錘数は1,612,547個も増大したのである。綿恐慌が「一時的」な困窮を労働者押しつけたが、それが一層ひどいものとなった。一時的なものは永久化したからだし、機械の急速な絶え間なき進歩が続いたからである。

 (20)確かに、機械は常に労働者を不必要にする巧みな作業方という労働者の競争相手を演じるが、単にそれだけではない。彼に敵対する力でもある。そのように、資本はそのことを屋根の天辺から公言してはばからず、またそのように使用する。資本の専制に抗議する労働者階級の定期的な反乱、ストライキを抑圧する最も強力な武器である。*127

 本文注: *127「手吹き硬質ガラス瓶業の主人と労働者の関係は、慢性的なストライキ状態にある。」 その結果として工場手工業主にはプレス式瓶製造法への転換が勢いとなる。そこでの主作業者は機械なのである。ニューカッスルのある工場では以前、350,000重量ポンドの手吹き硬質ガラス瓶を生産していたが、いまではそこで、3,000,500重量ポンドのプレス式硬質ガラス瓶を生産する。(「児童雇用調査委員会 第四次報告書) 1865年 262-263ページ」

  (本文に戻る) ガスケルによれば、蒸気エンジンはことの初めから人間力に対する敵対物であり、資本家をして、新たに生まれた工場システムを危機に至らしめる労働者の増大する要求を足で踏みにじることを可能にした敵対物なのである。*128

  本文注: *128ガスケル「英国の工場手工業人口」ロンドン 1833年 3および4ページ

  (本文に戻る) 1830年以後の発明については、労働者階級の反乱を鎮圧する武器を資本に供給するだけの目的のためになされたという歴史を書くことができるやも知れない。この歴史の最初で重要なことは、自動紡績機の登場である。なぜならば、自動機械という新しい時代の扉を開いたからである。*129

  本文注: *129 W. フェアバイルンは、彼自身の工場でのストライキに直面した結果、機械構築のための極めて重要なる器具のいくつかを発明したのであった。

  (21)蒸気ハンマーの発明家であるネイスミスは、業界労働組合委員会で、彼が機械に施した改良や、1851年の技術者達の広くかつ長期のストライキの影響を受けて行ったことなどについて、次の様に証言をした。

  (22)「我々の近代的機械改良の際立った特徴は、自動化道具機械の導入である。全ての機械労働者が今日しなければならないことは、全ての子供たちができることである。彼自身が仕事をする分けではなく、機械の素晴らしき労働を見守ることである。彼らの技能に依存していた全労働者階級は、今では、その技能と共に追い出された。以前は、私は全ての各機械工に4人の少年を雇用していた。この新たな機械の組み合わせに感謝するのだが、私は成人男子工を1,500人から750人に減らした。その結果はまことにもって、利益の大きな増加を私にもたらした。」

  (23)ユアは、更紗捺染で使われる機械についてこう云う。

  (24)「遂に、資本家達はこの我慢ならない屈従 [即ち、彼らの目には、彼等が労働者たちと交わす煩わしい契約条項のことであるが] から抜け出す方法を、科学の利用に見出し、そして彼らが正統とする支配を急速に再興したのである。下の階級の者どもに対する頭の地位を確保したのである。」

  (25)縦糸に糊づけする機械の発明については、こう云う。

  (26)「その結果、古き分業前線陣地という難攻不落の塹壕の中にいると思っていた、不平結合連中が、連中の横腹に、新たな機械の戦術を受けて、彼らの防御が無効なものとなり、無条件降伏する他ないものとなったのを知ったのである。」

  (27)自動ミュール紡績機の発明については、彼はこう云う。

  (28)「産業における各階級に秩序を回復するよう運命づけられた創造物であり…. この発明は、資本が科学を彼女の活動に徴兵する時、手に負えない労働者は常時従順を教育されることになるであろうという既に提出された偉大なる学説を確認するものである。」*130

   本文注: *130 ユア 既出 268ベージおよび370ページ 

  (29)ユアの著作が登場したのは30年も前のことで、工場システムは今と較べるならば、殆ど発展しては居なかったのであるが、工場のなんたるかをすでに完璧に表現しているのは、あからさまな皮肉屋の故のみではなく、資本家的頭脳の愚かな自己矛盾をうっかりしゃべるという純朴さ(フランス語)の故でもある。例えば、上に述べたような「学説」つまり資本が、科学の助けにいくらかを支払うことによって、いつも手に負えない労働者をおとなしくさせたというものだが、それを提出した後に、彼は憤慨を禁じ得なかった。なぜならば。

  (30)「それが(機械物理学)が、それ自体が、貧乏人を困らせる道具として、富裕な資本家に手を貸すと非難された。」からである。

  (31)労働者階級にとって、急速な機械の発展がいかに有益かという説教をながながと力説した後、彼は彼等に警告した。彼らの頑迷さとストライキが、その発展を早めたと。 

  (32)彼は云う。「暴力的な反乱へと向かうその気質こそ、自らを苦しめる浅はかな人間の卑劣なる特徴を示すものである。」 

  (33)その二三ページ前では、彼は正反対のことを云っている。 

  (34)「工場労働者に見られる誤った見解に起因する暴力的な衝突や妨害がなかったならば、工場システムはより以上に急速に発展し、全ての関係者にとってより有益なものとなったであろう。」そして、彼は再び叫ぶ。「幸いにして、英国の綿工業地域社会においては、機械に関しての改良は緩やかである。」「それは(機械の改良は) 成人労働者のある部分を解雇し、彼らの賃金率を低下させ、またその結果として彼らの数を彼らの労働需要数に較べて過剰足らしめる。明らかにそれは(訳者挿入 機械の改良は)児童の労働需要を増加させ、彼らの賃金率を増加させる。」(イタリック)

  (35)その一方で、この同じ慰め係りが、両親をして彼らの子供たちを早々に工場には送り出さないようにさせる程の子供たちの低賃金を擁護する。彼の著作の全体が、無制限労働日の擁護論なのである。すなわち、議会が日12時間労働によって13歳の子供たちを使い切ることを禁止すべきと云う時、彼の自由な魂には中世の暗黒の日々が思い出されるようだ。かくて、彼は、工場労働者に向かって、神のご意志に感謝するよう呼びかけることに躊躇がない。機械が彼等に与えた「永遠の利益」という自由なる時間のことを考えても見よと。*131 

    本文注: *131 ユア 既出 368ベージおよび7,280,281,321,370,475ページ 

 


     

[第五節 終り]






 

第六節 機械によって
解雇された労働者に対する 補償説



  (1)ジェイムス ミル、マカロック、トレンズ、シーニョア、ジョン ステュアート ミル、 そしてこの系列に並ぶ全てのブルジョワ政治経済学者は、労働者を解雇するすべての機械について、同時に、そして必然的にその同じ解雇された労働者を雇用するに十分な大きさの資本を自由に使えるように準備しているはず (訳者余談で触れる) と云って、そのことに固執する。*132

  本文注: *132 リカードは、元々はこれと同じ意見であったが、後になって、科学的な公平さと真理を愛する彼の性格から、この見解を明確に否定した。既出 第31章「機械に関して」を見よ。

  (2)どう言うことをいわんとしているか考えて見よう。ある絨毯工場で一資本家が一人当たり年30ポンドの賃金で100人の労働者を雇用すると想定してみよう。年間の可変資本は従って、3,000ポンドが計上される。そしてここで、50人の労働者を解雇すると想定して見よう。そして残った50人の労働者を雇用し、資本家が支払った1,500ポンドの機械がそこにあるとしよう。計算を簡単にするために、建物や石炭他を勘定には入れないことにする。さらに、年間3,000英ポンドの原材料を使用するが、条件変更以前も以後も同じとしておこう。*133

 本文注: *133 注意せられたし (ラテン語) 私が取り上げているこれらの内容は、上に名前を挙げた経済学者達によって書かれたものなのである。

 (本文に戻る) この資本の変成によって、自由に使えるように準備された (訳者余談で触れる) 資本は本当にあるのか?変成以前の資本総額は、6,000英ポンド うち半分が不変資本で、あとの半分が可変資本である。変成後は、4,500英ポンドの不変資本(3,000英ポンドの原材料と1,500英ポンドの機械)、それと 1,500英ポンドの可変資本である。可変資本に関して云えば、半分に代わって全資本のわずか1/4になった。自由に使えるように準備されたものに代わって、その資本の一部は、ここでは、労働力に対して交換されることを止めていわば固まってしまった。労働力に用いられる可変資本は固定資本に変えられている。他になにも変わらないならば、6,000英ポンドの資本は、将来50人以上の労働者を雇用することはできない。機械の改良の度に雇用者数はより少なくなる。仮に、新たに導入された機械が、それによって置き換えた労働力や道具よりも費用が安すければ、もし例えば、1,500英ポンドに代わって、僅か1,000ポンドになるとすれば、可変資本1,000ポンドは不変資本に転化され、そして500ポンドが自由に使えるものとしてそこにある。 (余談で触れる) 賃金が変わらないとすれば、後者の総額は、解雇された労働者50人の中の16人を雇用するに足る基金を形成するであろう。いや、資本として雇用されるためには16人以下であろう。この500ポンドのある部分は雇用のためには、直ぐに不変資本とならざるを得ない。かくて労働力用として残されたものは僅かな部分のみである。

  (3)これとは違うが、他の点についても考えて見よう。新しい機械の製作が大勢の機械工の雇用をもたらすだろうか。それが街頭に投げ出された絨毯織工を救済する補償と呼べるものだろうか? どんなに多く見積もっても、機械製作の雇用者数は解雇した労働者数より少ない。前の話で見て分かるように、解雇された絨毯織工の賃金総額は、1,500ポンドは、今では機械の形として存在している。(1)その一部は機械製作のために使用された生産手段の価値として、(2)その製作に雇用された機械工の賃金、(3)「ご主人様」の取り分として消えた剰余価値として存在している。さらに云えば、機械は寿命が尽きるまでなにも新たにする必要はない。従って、増加する機械工を常に雇用するためには、絨毯工場主等は、次から次と機械によって労働者を解雇せねばならない。

  (4)本当のところ、この弁護論者達は、これを、自由に使えるものを準備する(余談で) とは考えてはいない。

  (5)彼等は心の中では、自由にされた労働者の生存手段のことであると知っている。上の例で分かるように、機械は単に50人の人を自由にするだけではなく、他の誰でもが自由に使える者にするだけでなく、云うまでもないが、同時に彼らの消費を止めさせる。そして全くの自由なる者とされる。1,500ポンドの生存手段から自由な者とされる。このことを否定することはできはしない。新しくもない単純な事実は、機械は労働者達を彼等の生存手段から切り離す。従って、経済学的専門用語で同等の内容を表せば、機械は労働者の生存手段を自由にする。または、これらの手段を彼の雇用という名の資本へ組み込む手段に転化する。お分かりのように、表現様式と云うだけのこと。大した顎がなんでもを柔らかくして見せる。(ラテン語)


  (訳者余談) 「自由」用語法のオンパレードで、機械導入の自由と生存手段からの自由という資本主義的自由が、実は同じ set free というたった二つの単語で示されているのである。これをどう訳すかだが、私の場合は、二つの自由の違いを、多少は異なるが、ほぼ同じ長々しい文字群で表すことにしたのであるが、向坂先輩はこれを「遊離」させる と云う文字で統一して訳している。遊離と自由とset free を並べれば、ここで自由を遊離とする特別の理由や表現技術や芸術を見出すことはまず必要もないことと思う。むしろ珍論化して、理解を妨害している。
  二つの遊離では、二つの自由を少しも感じさせてくれない。生存手段からの自由が、自由な雇用(安い雇用)という欲求にも対応しているので、消費が自由になったからといって嘆く資本家はいないのが分かる。英語のfree には日本語を超越した自由の意味がある。なかなか使えたものではない用法なのだが。余談でと振って、長々と来て、これだけで申し訳ないのだが、実は次の余談が待っているのだ。


 

  (6) 自由に使えるものとして準備された云々なるこの理論は次のことを言おうとしている。つまり、生活手段の価値 1,500ポンドは解雇された50人の労働によって拡大されるはずの資本であった。であるから結果として、その資本は資本の休日状態を強いられるやいなや雇用局面から脱落する。だが、新たな投資先を見出すまでは休まるものではない。再びこれらの同じ50人を生産的に消費できるような投資先を求め続ける。従って、遅かれ早かれ資本と労働者は必ず再会せねばならない。そこで、だから、補償は完成する。つまり、機械によって解雇された労働者達の受難は、この世の富者達の世界と同様、一過性のものである。

  (7) 解雇された労働者達から見れば、この1,500ポンドなる生活手段の価値は、資本であるはずもない。実際に労働者にとって資本として直面しているものは、今やそこに鎮座する総額1,500ポンドの機械であった。もっと詳しく見れば、この総額は50人の解雇された労働者によって一年間で生産される絨毯の一部を意味しており、労働者が現物に代わって貨幣で雇用主から賃金として受け取る部分であった。彼等は貨幣形式の絨毯でもって1,500ポンドの価値となる生活手段を購入した。と、見えてくるであろう。であるから、これらは、彼等にとっては、資本ではなく、商品を意味する。そしてこれらの商品に関して云えば、彼等は賃労働者達ではなく、買い手達なのである。機械によって自由にされた、購入手段から自由にされた彼等の状況が、彼等をして、買い手から、買い手にあらざる者・買えない買い手・名ばかり買い手 (英文は non-buyersと簡潔だが、ここを訳者は適切な単語が浮かばなかったので長い訳にした) に変えた。かくて、それらの商品の需要も減る。---さらに航路が続く。(フランス語) もしこの需要縮小が他のどこかからの増加によって補完されなければ、商品の市場価格は低下する。もしこの状況がしばらく続くならば、そして広がるならば、これらの商品を生産するために雇用された労働者の解雇が始まるだろう。以前から必要なる生活手段の生産に取り組んでいた資本のいくつかは、別の形の生産を余儀なくされよう。価格が低下し、資本が転出を余儀なくされている間は、必要な生活手段の生産に雇用されている労働者達が、彼等の賃金部分から「自由にされる」と言う順番になる。従って、機械が労働者を彼の生活手段から自由にする時、同時にこれらの資本が自分等のより一層の雇用に変換されると云うことを証明することに代わって、我が弁護者達は、全く逆に、月並みの需要と供給の法則を用いて、機械が労働者達を街頭に投げ出すのは、機械が導入された生産部門のみではなく、機械が導入さてもいない諸部門もであることを証明する。

  (8) 経済学者の楽観論によってでっちあげられたものの真実の方は以下の通りである。機械によって作業場から追い出されると、労働者達は、労働市場に投げ入れられる。資本家達の使い捨て労働者数の上に加えられる。この本の第7篇では、ここに示されているような労働者階級への補償があると云う、機械によるこの影響が、それとは全く逆に、最も恐ろしい笞となることを読むことになろう。ここでは私は単に次のように云うに止める。産業のある部門から投げ出された労働者達は、なんの制約もなく、他のある部門に職を捜すことはできる。もし、彼等がそれを見つけたならば、そして彼等と自分達の生活手段との間に新たな連結が生じるとしたら、それは新たなそして追加的に加わった、投資先を求めていた資本を介して成されたものであって、以前彼等を雇用していた資本によるものでも、その直後に機械に転化された資本によるものでも全くない。そして職を見つけた者の目にする状況のなんと貧弱極まることか!分業によってかたわにされたこれらの貧しき変人達は彼等の以前の仕事以外では殆ど価値がない。彼等はいろいろな産業で実力を示すことはできず、誰にでもできるような仕事しかない。つまりは僅かな賃金に甘んずるその他大勢の労働者となる。*134

  本文注: *134リカード派のある弟子は、J. B. セイのこの無意味な論述に対して、次のように述べた。「分業がよく発達したところでは、その労働者のその技能はそこで獲得した特殊な部門でしか役には立たない。彼がいはばそんな機械なのである。従って、ものごとには彼等の技能レベルを見つけ出す傾向があると云う一文句を鸚鵡のように繰り返してもなんの助けにもならない。我々の回りを見れば、いつまでたっても彼等が彼等の技能レベルを見出すことができず、見つけたとしても、そのレベルは彼等がその工程を始めた頃よりも常に低級であることだけはしかと知っている。」(「自然の要求に関する諸原理の考察) 他 ロンドン 1821年 72ページ)

  (本文に戻る) さらに、毎年、あらゆる産業部門は新たな人の流れを引き起こす。その者達は欠員を補充したり、拡大のための必要を満たすための予備的人員となる。産業のある部門で、機械が、雇用していた労働者を自由に放り出すやいなや、予備的人員群もまた新たな雇用の通路に細分化されて、他の部門に吸収される。だが一方、最初の失業者の殆どは、この転換期間の間に、飢えて消え去る。

  (9) 云うまでもなく、機械はその様に、労働者をして彼の生活手段から自由にしてしまう様なことについては、なんの責任もない。機械は、その部門の生産物の価格を安くし、生産物の数量を増やすが、他の部門で生産される生活手段の量を直ぐには変化させない。かくて、機械が導入された後も、その社会は、より多くはならないかもしれないが、以前と同じ量の生活必需品を、街頭に投げ捨てられた労働者の分をも含めて保持している。労働者以外の者によって浪費される年間生産物の巨大なる量を全く別にしてもである。そしてこのことが、我等が経済学的弁解者達の寄り掛かる論点なのである! 機械を資本家的に用いることから切り離すことができない矛盾や対立を、彼等は、そんなものは機械から生じることはないのだから、あり得ない、と云うのである。だがそれこそ資本家的使用から生じる他には生じはしない! (訳者が色を付けた。これが道具論者達には見えないのだ。機械は機械、道具は道具で独立しているというとんでも観念論から自由になれない。セメントに漬かった自分の頭脳から自由にはなれない。そこに自分達の都合のいい寄生手段があるからでもある。) かって機械は独力で労働時間を短縮する存在と見なされていた。しかし、資本の御用ともなれば、それを延長する。かって機械はそれ自体で労働を軽減すると考えられたが、資本に用いられれば労働の強度を高める。かって機械はそれ自体、自然力を超える人間の勝利であると見られたが、資本の手に掛かれば、人をしてそれらの力の奴隷とする。機械はその存在自体で、生産者の富を増大させると見なされたが、資本の手の中にあっては、生産者を困窮者にする。これらの根拠や他の諸関連を目の前にしながら、ブルジョワ経済学者達は、なんの思別もなく、こう言う。これらの全ての矛盾は単なる実体の外観であり、事実として、現実的存在でも理論的存在でもないことは白昼日を見るごとく明らかである。と。かようにして、彼等は彼等の頭脳をさらなる難問から救出する。そして、あろうことか、彼の敵対者に対してついつい云うつもりもなしにこう宣告する。お前等は資本家的機械使用と戦うのではなくて、機械そのものと戦う大馬鹿ものだ。と。




  訳者余談の出番がやってきた。機械から自由にされた労働者と、機械によって労働者から自由的独立をはたした資本家がいる。機械とは何かを道具論者に十分に教えている。人によって道具(機械)が道具(機械)になったり道具(機械)でなくなったりするという論の珍妙さに多少のわだかまりを感じるだけでなく、社会の資本主義的生産体制からくる道具(機械)の矛盾を把握する頭脳が必要だと云うことなのだ。そして今や、過剰な資本という資本家独特の道具の資本家的使用がいかなる事態を引き起こすかの問題が迫っている。各国政府の財政支援という道具なしには立ち行かなくなった状況がいかなる事態を招きつつあるかの問題として迫っている。日銀券の印刷という道具に期待するしかないという事態も異常そのものである。労働者にとって無縁だったこれらの道具をどう取り上げて、無用な道具とするかの問題提起こそ、求められる階級的道具論への道なのである。そして、ここでは、向坂訳から遊離したままで通り過ぎるわけには行かないのだ。(9)の最後の部分である。彼はこう訳している。「なおそのうえに、機械装置の資本主義的使用を攻撃しないで、機械装置そのものを攻撃するという愚を、彼の反対者に負わせるのである。」なんか遊離してはいないか。愚を負わせるは意味不明だが、ここはついつい混乱して弁解者達が事の本質に触れてしまったところなのだ。ブルジョワ経済学者達も云ってはならないこととうすうす知っているからだ。我国の道具論者も少しは、歴史に学んだ方がいい。うすうす(臼々)でも。もっともその理解の程度についてはマルクスが次の文節で見事に喝破している。


 

  (10) 疑うまでもなく、ブルジョワ経済学者は、今日の不合理な状況が機械の資本家的使用から生じているであろうことを否定はしない。ところで、裏のないメダルなどどこにあると云うのだ!彼にとっては、いかなる機械をも資本以外が使用することなどあり得ない話なのだ。機械による労働者の搾取は、であるから、彼にとっては、労働者による機械の搾取と同じなのである。従って、機械の資本主義的使用と言う現況を曝露する者は誰でも、とにもかくにも機械の利用に反対しているのであって、社会の進歩の敵なのである。*135

 本文注: *135 他にも大勢いる中の一人、このてらったクレチン病患者の昔の達人、マカロックは8歳のこどもの純朴さを気取ってこう言う。「もし、もしも、それが労働者の技能を更に、更に、発展させ、同じかあるいは少ない労働量をもって、商品の量を絶えず増加させることができるのに役立つならば、彼をしてこの結果を最も効果的に支援する機械の援助を彼が利用することは必ず有益であるに違いない。」(マカロック 「政治経済額の原理」ロンドン 1830年 166ページ

 (本文に戻る) まさに、著名なる ビル サイクスの論法である。「寛大なる陪審員の皆さん、疑いもなく、この行商人の咽は切られています。しかしそれは私の罪ではありません。それはナイフの罪です。このような一時的な不都合で、我々はナイフの使用を止めなければならないのでしょうか? ここが考え処です。ナイフなしの農業や商売があり得るでしょうか? 外科手術は成り立たないし、解剖して調べることはどうなります? そして更に加えて、宴卓の演出を助けるのでは? もしナイフを廃止するならば、--あなた方は我々を野蛮時代の深淵に追い返すことになります。」*136

  本文注: *136 「紡績機械の発明はインドを崩壊させた、事実である。とはいえ、そのことに関しては我々にはなんの関係もない。」 A. ティエール 財産について(フランス語) -ティエール氏のここは、紡績機械と力織機とを混同しているが、「事実ではあるが、とはいえ、そのことに関しては我々にはなんの関係もない。」(同じ英文を繰り返しているのである 訳者付記 前段の我々はティエール氏たちで、最後の我々はまさにマルクスとその読者である我々。英文笑点)

  (11) 機械が導入されたそれらの産業では、労働者を必然的に仕事から投げ捨てるのであるが、それにもかかわらず、他の産業においては依然として雇用の増大をもたらすことはありうる。とはいえ、その効用はいわゆる補償理論とはなんの関連もない。なぜならば、機械によって生産されるあらゆる品物は、手加工で生産される同様のものよりも安い。我々は以下のごとき明確なる法則を引き出す。もし、機械によって生産される物の全量と、以前手加工または工場手工業で生産されていた全量とが同じならば、そして今ではそれらが機械で作られているのであれば、そこで支出される全労働量は縮小される。労働手段、機械や、石炭やその他のものに費やされる新たな労働は、機械の使用によって解雇された労働よりも必ず小さくなければならない。そうでなければ、機械による生産物は手加工による生産物よりも貴重なものに、より高いものになってしまうだろう。そうではなくて、実際のところは、機械と縮小された労働者数とで生産される物の量は、同量に留まるものではなく、今は消え去ってしまった手加工の生産物の全量を遙かに超える量となるのである。さてここで、布10万ヤードを手織機で織る職工数よりも、より少ない職工数と力織機とで40万ヤードの布が生産されたと考えて見よう。4倍もの生産物には4倍の原料が用いられている。ならば、原材料の生産も4倍にしなければならない。しかし、労働手段に関して云えば、建物とか、石炭とか、機械その他付属品等々は、原材料とは違う。これらの生産を増加させるに要する追加的労働には限界がある。それは、機械によって生産される量とその同じ品物を手加工で同数の労働者によって生産できる量との関係によって規定され、変動する。

  (12) かくして、ある既与の産業において機械の使用が拡大するに従って、まずは直接的なその効果は、生産手段を供給する他の産業の生産物を増大させるということになる。そこでどの程度の雇用が労働者の増加数として見出されるかは、労働日の長さと、労働の強度が与えられているとすれば、投入される資本の構成に依存する。すなわちその資本の可変部分に対する不変部分の比率に依存する。その比率はと云うことになれば、機械がどの程度それらの職種においてすでに用いられているか、また採用されつつあるか、その広がりの度合いによって大きく異なってくる。英国工場システムの進展に応じて、炭鉱や金属鉱山へと追いやられた労働者の数は莫大な数へと増大した。とはいえ、ここ二三十年ではその増加がやや急速ではなくなって来た。新たな機械が鉱山に採用されたことによる。*137

  本文注: *137 1861年の国勢調査(第二巻 ロンドン 1863年)によれば、英国及びウェールズの炭鉱に雇用される労働者数は、246,613 人で20歳未満の者が73,545人、20歳以上の者が 173,167人であった。さらにその20歳未満の者の20,835人が5歳から10歳の子供であり、10歳から15歳の者が30,701人 15歳から19歳の者が42,010人であった。鉄、銅、鉛、錫、その他 記載された鉱山の全労働者数は、319,222人であった。(訳者注: 労働者数の増大の中に、このような安い労働力数の雇用もまた増大しているのである。機械の導入が遅れる原因でもあり、また安い労働力をより安く使う機械が求められていることが分かる。機械とはなにか、ここでもその解答例が示されている。) 

  (本文に戻る) 新たな種類の労働者が機械とともに誕生した。すなわち、機械を作る労働者である。我々はすでに学んだところであるが、機械もまた自身機械にとりつかれる。この生産部門の規模も日々大きく成長する。*138

  本文注: *138 英国及びウェールズでは、1861年、機械の製造に、支配人や事務員等も含めて、60,807人が雇用されていた。この数字には、これらの産業の機械販売代理人や販売員が含まれているのであるが、ミシン等の小さな機械の労働者等は含まれておらず、また紡錘といった機械部品の労働者も含まれていない。これらのうちの技術者総数は、3,329人であった。

  (本文に戻る)さらに、原材料について見るならば、*139 

  本文注: *139 以下のことにも触れておく、英国及びウェールズにおいて、1861年、鉄は最も重要な原材料の一つであって、125,771人の製鉄労働者がいた。うち123,430人は男性であるが、2,341人は女性であった。20歳未満の者が30,810人、20歳以上が 92,620 人であった。

  (本文に戻る) 疑う余地もなく、綿紡績の急速な進展は、合衆国に、熱帯熱に冒されたかのような綿の生育を、アフリカ奴隷商売ともども押し進めるとともに、奴隷制諸州の境界諸州での奴隷飼育を彼等の主な商売にまで仕上げた。1790年に合衆国で最初の奴隷の調査が行われたが、彼等の数は 697,000人であった。それが1861年ではほぼ4百万人に達していた。一方、前者に少しも劣るものではない事実として、英国羊毛工場の増大は優良耕作地の牧羊地への転換が徐々に進むことから余剰農業労働者を大勢、都市へと追い出すことになった。アイルランドでは、ここ20年間で人口をほぼ半分に減らし、今もさらに住民を減らす過程が進行している。それはまさに、そこの地主等と英国羊毛工場手工業者等の要求そのものだからである。

  (13) 労働の対象が、その完成に至る過程として通過せねばならぬ最初のまたは中間のいかなる段階であろうと、そこに機械が採用されれば、それらの各段階への原材料の生産が増大し、同時に、また、機械の生産物の供給を受ける手工業または工場手工業における労働の需要も増大する。例えば、機械による紡績が撚糸を安く大量に供給したので、手織工達は、その初期の時点では、余計な出費もなしに時間の許す限り働くことができた。彼等の稼ぎもそれに応じて増大した。*140

  本文注: *140「4人の成人と、糸巻役の二人の子供の一家族が、前世紀の終りから今世紀の初めにかけての頃、日10時間労働で、週に4ポンドを稼ぎ出した。もし仕事がもっと立て込めば、それ以上を稼いだ。…. それ以前は、彼等は常に、撚糸の供給不足に悩まされていた。」(ガスケル 既出 25-27ページ)

  (本文に戻る) かくて、綿織物業に人々が流れ込んだ。そして80万人もの織工が、ジェニー、スロッスル、そしてミュールと云った織機のために集められた。が、結局は力織機によって絶滅へと追いやられた。また、同様、機械による多量の布の生産の結果として、仕立職人、女性裁縫工、そしてお針子女工がミシンの出現までの間増大し続けたのである。

 (14)比較的小人数の労働者で足りる機械の導入が進むにつれて、原材料や中間生産物や労働手段等の量を増大させ、これらの原材料や中間生産物の量が登場するに及んで、それぞれが様々な部門へと分化する。社会的生産が多種多様なものへとその巾を拡げる。工場システムが、かって工場手工業が作り上げた社会的分業を遙かに超える分業種域へと押し進める。機械が機会を得た産業の生産性を、今までとは較べることのできない程の遙かに高い水準にまで増大させるからである。

 (15)機械の直接的成果は、剰余価値と、その剰余価値を実体化する生産物の量を大きなものにしたことにある。そして、資本家どもが消費するもの、彼等が依存するものがより大きなものとなり、社会のこれらの階級も大きなものとなる。




  訳者余談を途中挿入しておきたい。資本家どもが消費云々の部分は向坂訳を参考にしながら訳した部分なのだが、これが難しい。なぜなら、まず向坂訳である。
  「したがって、資本家階級とその眷属とが衣食する物質とともに、この社会層そのものを増大させることである。」英訳の方は「And, as the substances consumed by the capitalists and their dependents become more plentiful, so too do these orders of society.」となっているところである。
  機械が作り出した大量の原材料や中間生産物やその最終品は資本家が衣食するものかと云えばそうではなかろう。またそれとともに増大させた社会層、つまり資本家階級とその眷属という社会層とも取れる社会層と云うのも奇妙なものである。向坂訳は、こんな訳では不合格だろう。
  英文も、なんで、はっきりと労働者の増大や資本家と労働者の階級社会と明確に言わないのかと思う。のだが、読めばそれ以外に訳せないものであり、その消費とか依存とか社会秩序とか言っている内容になんらの誤解も生じないではないか。では、そのものづばりではなくかつそう読める訳をしなければならないところとなる。荷が重い。結局、英文直訳となった。マルクスの読ませる技をこれでは十分に示すことができてはいない。余談をもって釈明する。読者方のご賢察を求める他はない。


  (本文に戻る) 彼等の成長する富が、そして生活必需品の生産を行うべき労働者数の相対的な減少ということから、新たなそして贅沢なるものへの渇望を一斉に沸き立たせて、それらの欲求を満足させる手段を生じさせる。社会的な生産物のかなり大きな部分が剰余生産物へと変化させられる、そしてその剰余生産物のかなりの部分が緻密なる形状の多様なる物の消費のために供給される。別の言葉で云えば、奢侈品生産が増大する。*141

  本文注: *141 F. エンゲルスは、「イギリスの労働者階級の状態」で、これらのまさに奢侈品生産で働く多くの労働者の悲惨な状態を指摘している。また、「児童雇用調査委員会報告」の多くの例を見よ。

  (本文に戻る) 緻密で様々な形状の生産物がまた、新たな世界市場との関係を、近代工業によって創出された関係を、もたらす。大量の外国の奢侈品が国内の生産物と交換されるだけではなく、外国から大量の原材料、混成物、そして中間生産物が国内産業の生産手段として用いられる。これらの外国市場との関係から、運搬業種における労働需要が増大し、それが更に多種類へと細分化する。*142 

  本文注: *142 1861年、英国とウェールズで、94,665人の船員が海運業に雇用されていた。

  (16)労働者数の相対的な減少を伴う、生産及び生活手段の増加は、運河、港湾施設、隧道、橋梁等々の、かなり先になって成果が得られる産業に係る労働需要を引き起こす。機械によるかまたは機械によってもたらされた全般的な産業上の変化の直接的な成り行きとして、新たな労働領域を生む全く新たな生産部門もまた造り出される。とはいえ、全産業において、これらの産業部門によって占められる部分は、最も発達した国々においても重要と云うには程遠い。これらに雇用された労働者数は、これらの産業によって創造されたのであるが、最も粗雑な形式の肉体労働の需要に比例する。この種の産業の代表的なものは、現在のところ、都市ガス業、電信業、写真業、蒸気船運航業、そして鉄道業である。1861年の英国とウェールズの人口調査によれば、次のデータを見出す。都市ガス業(都市ガス業、ガス器具類の生産業、ガス会社の従業員他)が 15,211人、電信業 2,399人、写真業 2,366人、蒸気船運航業 3,570人、そして鉄道業 70,599人、半長期雇用の非熟練「工夫」達と、管理者と事務スタッフ全員 28,000人を含む。従って、これらの5種類の新たな産業部門に雇用された人数は計 94,145人となる。


 

  訳者余談である。我々工業デザインを学んだ大学の同期の連中は、大企業の工業デザイン部門で約半数が仕事をしたが、あとの半数は商業部門でグラフィックデザイン等の広告等を担当した。僅かな人数が、服飾家や写真家として独立して自営業を営んだ。自営業を除き、多くの者は定年退職して、後期高齢者という範疇で年金ぐらしとなった。何が云いたいのかと問われていると思うが、ここに登場する写真業工夫とわが友カメラマンとの違いがあるのかないのかという問題である。当然ながら、彼が未熟なる肉体労働者であるはずはないが、事務スタッフか管理者の範疇に入るのか入らないのかの点である。いやそれはどうでもいいのである。このように新たなる産業部門が生まれ、多くの労働者が雇用されたが、今もその延長上に我々以下後輩達がそれらの部門の非熟練作業員の一角に雇用され、失業し、さらに熟練を問われもしない部門に非正規社員として契約して働いて生活していることの確認なのである。今の国勢調査結果からそうした分析ができるかどうかは知らないが、この現状をいかに把握するか、改めて資本論から課題を与えられていないかと思う野田枝野。議事録にはないんだろ。ごめんなさい、飛んだ余談になっちまったな。新たに創造された「最も粗雑な形式の肉体労働の需要」が今どうなっているのかが、云いたいことなのであった。。「頭脳労働はその最も粗雑な単純化された形式の片肉体労働としての需要だったかどうか」についてもだ。


 

  (17)そして最後に、次の点にも触れておこう。近代工業の桁外れの生産性が、他のあらゆる生産全域におけるより広範かつより強烈というべき両面からの労働力の搾取を伴いながら労働者階級のより大きなかつ大部分をして、非生産的な雇用へと向かわせる。すなわち、下男、下女、従者、他からなる召使階級 (この名称については、訳者余談で書くことにした。)と言う名の、昔の家内奴隷のような雇用を、恒常的に拡大再生産させる。1861年の人口調査によれば、英国とウェールズの人口が 20,066,244人、うち男性が 9,776,259人 女性が 10,289,965人であった。仮に、ここから働くには年寄り過ぎる者や若過ぎる者を除外し、非生産的な女性、年少者や児童を除外し、政府高官とか僧侶とか法律家とか兵士などの「観念的」な階級を除き、さらに地代や利子という形式で他人の労働を消費するだけで仕事を持たない者や、そして最終的に生活困窮者、浮浪者、犯罪者を除けば、およそ8,000,000人の男女の各年令の者が残り、このなかには産業や商業や金融に係わる全資本家も含まれている。その内訳を見れば、

 (18)以下の表となる。

表 労働者の区分とその人数
労働者の区分人数[人]
農業労働者(羊飼い、農業主の家に住む農業労働者、同女性労働者を含む)1,098,261
綿、羊毛、梳毛、亜麻、大麻、絹、黄麻の各工場、靴下とレースの機械織り工場に雇用される労働者642,607
*143
炭鉱、金属鉱山に雇用される労働者565,835
金属鉱業(溶鉱炉、圧延工場、他)に雇用される労働者と、あらゆる金属加工業に雇用される労働者396,998
*144
召使階級1,208,648
*145

 表中の人口数に関する注: *143 このうちの僅か 177,596人が13歳以上の男子である。
 表注: *144 このうちの30,501人は、女性である。
 表注: *145 このうちの137,447人が、男性である。この1,208,648人には個人宅以外で仕える召使は含まれていない。1861年から1870年の間に、男性召使の数がほぼ2倍の267,671人に増えた。1847年には、(地主の保護地のための)猟場番人が 2,694人いたが、1869年には 4,921人となった。ロンドンの中流の下の家庭で働く少女召使は一般用語としても「奴隷ちゃん」と呼ばれた。




  訳者余談 召使階級なる珍訳で申し訳ないのだが、英文のservant class をどう訳したらいいのか分からないのだ。向坂訳では、「僕婢階級」とある。下僕・下婢という日本語文字もあるのは分かるが、「お手伝いさん」とか「子守」とか「小僧」とか「丁稚」とか「執事」とか「爺や」とか「婆や」とかの方がなんとか馴染みがある。困った。一方英語で servant とくれば、先ず第一に public servant が浮ぶ。文中にもservants of . the gas companies というのもあり、道路や水路や電信や写真業、蒸気船運航業、鉄道業等で増大した従業員を指していると考えれば、召使よりは従業員階級のことかなと思わせるが、官吏等を除いた上で、とあり、猟場番人とか中流の下の家庭でとかの説明も出てくるし、農業労働者に含まれるmaidservants もありで、次第に召使階級なる集約化が我が頭脳内で進んだ。None are included in the 1,208,648 who do not serve in private housesとか .the number of modern domestic slavesなる説明で、それ以外の訳が消え去った。そして、そう云えば秋葉原とかでメイド サーバント喫茶というのがはやっていると聞いた。それに電力会社から銭を貰って、原発推進とか、安全基準とかに係わった学者先生なる スモール・ボーイ・サーバント(ここでは向坂訳の「小奴隷」を借用した。) の存在も明らかになった。最近では君が代斉唱の監視員というマイクロ・シーベルト・サーバントもいるらしい。こうしてみると、実質的なるサーバント階級の存在も明白になってきたようだ。大小資本家成り金御用達奉公人階級というのが正しい訳なのではないかと思うところである。長過ぎるか。東南アジアからの家政婦階級とか、介護士階級とか、いろいろあるわい。


  (19 )繊維工場と鉱山に雇用される労働者を合計すれば、 1,208,442人、繊維工場と金属工業に雇用される者を合計すれば、1,039,605人、この二つの場合でも、近代家庭奴隷の人数よりは少ない。機械による資本主義的搾取のなんと素晴らしき結果であろうことか!




     

[第六節 終り]

 




第七節 工場システムによってもたらされた
労働者の排除と吸引 綿商売における恐慌



  (1) 出自がどうであれ、全ての政治経済学者は次のことを認める。すなわち、新たな機械の導入は、この機械の最初の競争相手となった古き手工業や工場手工業の労働者に破滅的な影響を及ぼした。と。そしてほとんど全ての学者達は、工場労働者の奴隷労働に同情する。さて、ここで、彼等が遊ぶカードゲームで取りだす偉大なる切り札は何か?それは、その導入と発展というどうなるのか分からない期間の後に、労働奴隷の数を、減らすのではなく、長い期間を経て、増やしたことがはっきりしたというものである!そしてそう、政治経済学者はこう浮かれる。醜悪極まる論理として、資本主義的生産に不可欠な永遠の聖なる自然と信ずる醜悪極まる完全なる「博愛主義者」として、おほざきなさる。成長と移行の時期を経て、実に王冠を被せたような成功において、機械に基づく工場システムは、最初の導入期に街頭に放り出した労働者以上の労働奴隷を挽き出した。と。*146  

  本文注: *146 1861年、ガニイは、全く逆に、工場システムの最終的目標は労働者数の絶対的縮小であると考える。労働者数の減少によって、「名誉ある人々」の数が増加し、生活をしまた彼等の「完全となりうる完全なるもの」を身に付ける。(フランス語)彼は、生産の進展をまるで理解しておらず、感じるだけなのであるが、もし機械の導入が、忙しく働く労働者を困窮者に変換するならば、もし機械の発展が、かって抑圧された状態よりもさらなる奴隷労働という状態にしてしまうならば、機械はまさに致命的な制度と云わねばならないと言う。彼の視点のお馬鹿さ加減は彼自身の言葉以外では表しようもない。「生産し消費するよう宣告された階級は縮小し、労働を指導し、全人口の苦難を取り除き、慰め、活気づける階級が倍増し、…. 労働コストの削減、潤沢なる生産物、生活用品の低廉化から生じるすべての便益を私有化する。この方法で、人類は天才的創造の高みへ登り、宗教的な深淵なる深みを極め、そして滋愛に満ちた道徳の原理を確立する。自由を守る法を、正義と従順のための権力を、義務と人間性のための権力を確立する。」このどうにもならないたわ言は、「政治経済等のシステム Ch. ガニイ 著」第二版 パリ 1821年 第一巻 224ページと、212ページを見よ。(フランス語)


 

  訳者余談的追究をしておきたい。ガニイ氏の戯言の原因は、頭脳だけの単純粗雑労働の結果である。文字の並べ方にその欠陥が現れる。その別例を示して置きたい。内田 樹 (うちだ たつる)著作家、名誉教授の文字列である。「学生たちは、消費者として行動します。最低の学習努力で最高の学歴を手に入れたものが一番賢い学生だと。消費者基準で、60点で合格できるなら70点とることは無駄であると。そして、最小の努力で最高の評価を受けるような仕事をしたいと云うのです。自分が持っている能力や知識を高い交換比率で換金したいと考えて入るのです。自分が労働を通じて成長し別人になるということを求めない人のためのキャリアパスは存在しないのです。」多少の教訓がないではないが、この消費者マインドがどこから生じたのかを追究する自分の労働を省略して、頭脳の単純粗雑労働そのままに書いているからです。労働力を消費する者の労働力購入態度、労働力使用態度がそのまま反映されていることを、その資本家的思考形式の蔓延を見つけ出さない限り、頭脳の退廃を治療することはできない。彼の学生は多分10点の余分程度のものとは何かと質問するでしょうね。彼に代わって答えておきましょう。資本家のための剰余学習。どうでもいい学習にもっと学費を払いなさい。学問詐欺。


 (2) 我々が英国の毛糸及び絹工場の例から知っているように、あるケースでは、工場システムの並外れた拡大は、ある一定の発展段階において、雇用される労働者数の相対的な減少のみではなく、絶対的な減少を伴った。1860年 議会命令によって行われた英連合王国のすべての工場に対する特別調査では、工場査察官 ベイカー氏の管轄域に該当する ランカシャー、チェルシャーそしてヨークシャー の工場数は、652,570ヶ所、力織機台数は 85,622台、 紡錘数 6,819,146個(複撚紡錘を除く) で、使用蒸気力 27,439馬力、同水力 1,390馬力、そして雇用者数 94,119人であった。1865年 これらの同じ工場群は力織機 95,163台、紡錘 7,025,031個、 蒸気出力 28,925馬力 水力1,445馬力、雇用者数 88,913人となっていた。従って、1860年から1865年の間、力織機は11%増え、紡錘は3% そして機関出力は3%増加したが、雇用者数は5 1/2%減少した。*147

 本文注: *147 「事実に関する査察調査報告 1865年10月31日」58ページ以下。 だが、このとき同時に、雇用者数を増やす雇用手段が、新たな110工場で、力織機11,625台、紡錘628,576個、蒸気力・水力合計出力 2,695馬力が準備されていた。(前出)

 (本文に戻る) 1852年と1865年の間に、英国羊毛工場手工業の顕著な拡大が起こった。だが、そこでの雇用者数は殆ど増加しなかった。

  (3) 「新たな機械の導入が、前代の労働者を駆逐するのだが、それがいかに凄いかまざまざと見せつける。」*148

 本文注: *148 「事実に関する査察報告書 1862年10月31日」79ベージ 1871年末 工場査察官のレッドクレーブ氏は、ブラッドフォードで行った新機械協会の講演で次のように述べた。「しばらく前のことであるが、羊毛工場のすっかり変わってしまった様子には驚かされた。以前そこは、女達と子供たちで溢れていたが、今では機械が全てに取って変わったかに見える。この事について工場主に説明を求めたところ、彼は、次のようなことを教えてくれた。古いシステムでは、私は63人を雇っていたが、改良された新たな機械を導入してからは、人手を33人に減らした。そして最終的には、さらなる新たな拡大的な更新の結果、この33人を13人に減らすことにした。」

  (4)  あるケースでは、雇用労働者数の増加は単なる外観にすぎず、すでに操業している工場の拡大からではなくて、関連商売の少しずつの合併化であったりする。例えば、1836年から1856年にかけての綿工業で、力織機の増加とそれらに雇用される人手の増加があったが、その内容は分岐部門の単純な拡大によるものであった。他の工業では、以前は人力でやっていた絨毯織り、リボン織り、亜麻布織りへの蒸気力の採用であった。*149

  本文注: *149 「事実に関する査察調査報告書 1856年10月31日」16ページを見よ。

  (本文に戻る) 従って、後者の工業における人手の増加は、単なる総雇用者数の減少の徴候でしかない。最後に、これらの減少という事実とは全く別に、あらゆるところで、金属工業は例外だが、若い人(18歳未満)、 女性、そして子供たちがこれらの労働者階級の主要な要素になっているという問題にも目を向けて置こう。


 訳者余談: 難解挫折の原因を示して置くことにした。向坂訳「ゆえに、これらの工場労働者の増加は、従業労働者の総数における減少の表現にすぎなかった。最後に、金属工場以外ではどこでも少年労働者(18歳未満)、婦人、および児童が、工場従業員のきわめて重要な要素をなすのであるが、このことは、ここでは全く別問題とされているのである。」(色を変えた部分は私の訳とは大きく違う部分である。やはりこれでは内容把握を妨げているだろう。


  (5) とはいえ、機械によって解雇されたり、排除されたも同然の多数の労働者がいるにもかかわらず、我々は次のような事も理解できる。より多くの工場の建設や、ある工業の古い工場の拡大によって、工場労働者の数が、解雇された工場手工業労働者や手工職人数よりも多い存在となると云うことを。例を上げて捉えて見よう。古い様式の生産においては、週500英ポンドの資本が投じられて、その内の2/5は不変資本として、そして3/5が可変資本として用いられたいたとする。すなわち、200ポンドは生産手段として、そして300ポンドが、一人1ポンドとして、労働力に用いられたとしよう。機械の導入によって、この資本の構成が変化する。そこで、4/5が不変資本、1/5が可変資本となったと想定すれば、ここでは、100ポンドが労働力に用いられる。その結果は、2/3の労働者が解雇される。もし、商売が拡大して、用いられる総資本が、1,500ポンドとなり、以前の条件が変わらないものとしたら、機械導入前と同じ、300人の雇用となるであろう。もし用いられる資本が2,000ポンドと大きくなったとしたら、400人が雇用れさるであろう。または古いシステムの場合よりも1/3多い雇用となるであろう。この雇用者の増加数100人なる事実は、よく見れば、相対的なもので、投下された総前貸し資本額に比例しており、古き状態ならば、2,000ポンドの資本は、400人ではなく、1,200人を雇用したであろうものが、800人を減らしての400人なのであると分かるはずである。かくて、労働者数の相対的な減少は、現実の増加と一体のものなのである。これらの想定においては、我々は資本総額が増加しても、生産条件が不変として、その構成比は同じに留まるものとした。しかし我々は既に見てきたように、機械使用の絶え間なき発展があり、機械や原材料等の不変資本部分は増加し、他方の可変資本部分は縮小する。我々はまた、次のこともよく承知している。工場システムと同じように、他の生産システムの改良は連続的なものではないし、そこに用いられる資本の構成も常に変化するものではないと。さらに、これら諸々の変化といえども、いつものことながら、現存する技術的基盤による単なる量的な拡大に留まる停滞期によって中断を余儀なくされる。そうした時期には労働者数は増大する。数字で見れば、1835年 英王国における、綿、羊毛、梳毛、亜麻、絹の工場にはわずか 354,684人の労働者しかいなかった。が他方、1861年では力織機の織り手だけで、(男女、あらゆる年令、8歳以上で) 230,654人である。おっしゃる通り、この増大は、1838年で、彼等の家族を含めて、手織り職人の数が、800,000人も居たのから見れば、大して重要なことでもない。*150

  本文注: *150 「手織り職人の困窮が王立委員会の調査対象になったが、しかし、彼等の窮乏が認識され慨嘆されたが、にもかかわらず、彼等の生活状態の改善は先送りされた。今こそ援助が求められたのに、そのようになるであろう機会と時の変化に任された。」[20年後の! ] 「この悲惨さはその頃には消滅しているだろう、だがこれこそ、現在の力織機の偉大なる大拡張が、引き起こしたものなのだ。」(事実に関する工場査察報告書 1856年10月31日 15ページ)

  (本文に戻る) 言って置くが、ここでは、仕事を追われたアジアの労働者数やヨーロッパ大陸の労働者数には触れていない。

  (6) この点について、以下の二三の記述をもって触れて置きたい。私はある実際に存在している関係について述べることにする。この存在関係については、我々の理論的な追究はまだその解明に至ってはいない。

  (7) ある工業部門の工場システムが古き手工業や工場手工業を踏みつぶして自己拡大をする限りにおいては、その結果は機関砲を装備する軍隊と弓矢しか持たない集団との交戦結果と確実に同じである。機械がその戦闘領域を制圧する初期期間は、その戦闘を作り出す元となる莫大な利益のための決定的に重要な期間である。これらの利益は加速的な蓄積の源泉を形成するのみではなく、定常的に創造される追加的な社会的資本の大きな部分を生産局面へと誘引し、新たな投資先へと向けさせる。この初期期間の狂うがごとくすざましい活況による特別なる利益は、機械が侵略を果たしたあらゆる生産部門で実感された。だが、工場システムがある一定の頭打ちに、ある程度の完成レベルに達するやいなや、そして特に、その技術的な基盤、機械が機械によって生産される状況に達するやいなや、炭鉱や鉄鉱山、金属工業や運搬手段に大変革が起きるやいなや、もっと端的に云えば、近代工業システムによる生産に必須の一般的条件がはっきりして来ればすぐに、この生産様式は、伸び縮みする性質を取得する。障害物知らずだった飛び跳ねるがごとき急拡大能力が、原材料の供給と生産物の売却という障害物に直面する。  

  (訳者小余談: 向坂訳「一般に大工業に相応する一般的生産条件が創出されるや否や、この経営様式は、原料と販売市場にかんしてのみ制限を見出す一つの弾力性を、突発的飛躍的な拡張能力を、獲得する。」は、内容を把握していない珍迷誤訳である。)  

  (本文が続く) 一方において機械の直接的な影響は、例えば綿繰り機が綿の生産を増大させるのと同様に、原材料の供給を増大させる。*151

 本文注: *151 その他の、機械が原材料の生産に影響を与える様々な点については、第三巻で記述されるであろう。

 (本文に戻る) 他方、機械によって生産される品々の安価なることや、改良化された交通・通信手段は外国市場を席巻する武器となる。他国の手工業生産物を破滅させることによって、機械はそれらを強制的にその原材料の供給地に変えてしまう。この様にして東インドは大ブリテンのための 綿、羊毛、大麻、黄麻、そして藍の生産を強要された。*152

 本文注: *152

インドから大ブリテンへの 綿 輸出量
1846年34,540,143lbs
1860年204,141,168lbs
1865年445,947,600lbs
 
インドから大ブリテンへの 羊毛 輸出量
1846年4,570,581lbs
1860年20,214,173lbs
1865年20,679,111lbs

 (本文に戻る) 近代工業が蔓延るあらゆる国では絶え間なく労働者数の一部分を「過剰労働者数」にすることで、移民に拍車をかけ、外国地の植民地化を押し進める。その結果、外国地は母国の原材料を増大させるための開拓地へと変換される。丁度、例えばオーストラリアが羊毛増産の属領に変換された様にである。*153

 本文注: *153

南アから大ブリテンへの 羊毛 輸出量
1846年2,958,457lbs
1860年16,574,345lbs
1865年29,920,632lbs
 
オーストラリアから大ブリテンへの 羊毛 輸出量
1846年21,789,346lbs
1860年59,166,616lbs
1865年109,734,261lbs
 

  (本文に戻る) 急激に成長した近代工業の支配領域の要求に応える、新たな、国際的な分業が、世界の一隅を主に農業生産地域へと変えて行く。主に工業地域になっている他の一隅のために食料を供給する為である。この両方に係わる変革は急進的な変化で、農業にも同じ様に作用する。だが、 農業への作用については、本章では、これ以上追究する必要はない。*154

 本文注: *154 その他の、アメリカ合衆国の経済的発展は、ヨーロッパ、いや、より以上に特別なるものと云うべき英国近代工業の生産物そのものである。1866年現在の合衆国は、依然として、ヨーロッパの植民地と云わねばならない存在なのである。[ドイツ語版 第四版には次のような記述が付け加えられている。−「その後、アメリカ合衆国は、工業において、世界第二の地位にまで発展したが、彼等の植民地的な性格は、その数字がどうであれ、、全くのところ失われてはいない。」−F. エンゲルス」

合衆国から大ブリテンへの 綿 輸出量
1846年401,949,393lbs
1852年765,630,543lbs
1859年961,707,264lbs
1860年1,115,890,608lbs
 

合衆国から大ブリテンへの 穀類等の 輸出量[cwts]
1850年1862年
小麦16,202,31241,033,503
大麦3,669,6536,624,800
オート麦3,174,8014,496,994
ライ麦388,7497,108
小麦粉3,819,4407,207,113
米そば粉1,05419,571
玉蜀黍5,473,16111,694,818
ビーア麦2,0397,675
えんどう豆811,6201,024,722
豆類1,822,9722,037,137
35,365,80174,083,441

 (訳者注: 単位cwtsは、合衆国単位で 100ポンド(=112英ポンド) またビーア麦は、表中では、ビーアまたはビッグ(大麦の一種)と書かれているのを短縮してこのように示している。)

  (8 ) グラッドストーン氏の動議で、英下院は、1867年2月17日、英連合王国の、1831年から1866年の間の、あらゆる種類の種子、穀類、穀粉の、輸入量・輸出量統計の作成を命じた。その結果の概要を下に示す。穀粉は穀類換算である。数字の単位は1/4トン(800ブッシェル)単位。 各5年ごとの年平均数値と1866年(単年)のものがある。(訳者注: ブッシェルは容量の単位ではあるが、重量単位としても穀類について用いられている。)

各項目
/各5年,単年
年平均
輸入量
年平均
輸出量
輸出分以上
の輸入分
年平均
人口[人]
一人当た
り超過分
1831-18351,096,373225,263871,11024,621,1070.036
1836-18402,389,729251,7702,137,95925,929,5070.082
1841-18452,843,865139,0562,704,80927,262,5690.099
1846-18508,776,552155,4618,621,09127,797,5980.310
1851-18558,345,237307,4918,037,74627,572,9230.291
1856-186010,913,612341,15010,572,46228,391,5440.372
1861-186515,009,871302,75414,707,11729,381,4600.501
186616,457,340216,21816,241,12229,935,4040.543
 
(訳者注: 一人当たり超過分とは、平均輸出分以上の輸入分/平均人口)
 

  (9) 工場シテスム生来の飛躍的な拡大という巨大なる力と、そのシステムの世界市場への依存は、必然的に、熱狂的な大量生産をもたらす、がすぐに市場に溢れかえることが伴う。その結果、市場は縮小し、生産が損なわれる。近代工業のライフサイクルは、適度期、繁栄期、過剰生産期、恐慌、停滞期という各期間の繰り返しとなる。かくて、機械が支配する雇用の不確実性と不安定性が、この工業サイクルの定期的な変化が、労働者の生活そのものを翻弄する。それが労働者にとっての普通の生活となるに至る。繁栄期を除き、資本家間ではその他の期間中、市場のシェアを争う激烈な闘いが続く。シェアはその商品の安さに直接比例する。この闘いの上に、その闘いは労働力を減らす改良型の機械の採用と、新たな生産方法の採用という競争を生じさせる。そこでは、また全ての工業サイクルが伴い、商品を安くするために、賃金の、労働力の価値以下へとする強制的な賃金の縮小がいつでも狙われる。*156 (訳者注: 注155は欠番となっている)  

  本文注: *156 1866年7月 工場ロックアウトによって街頭に投げ出されたレスターの製靴労働者達の、英国商工協会に提出した抗議書は、次のように述べている。「20年前、レスターの靴づくりは縫いの部分に鋲を打つ方式を導入したことで大改革された。その時はよい賃金を稼ぐことができた。各それぞれの商会で、どこが最もきちんとした物を作れるかの大競争が見られた。だが直ぐ後に、立ちの悪い競争が始まった。すなわちあちこちの市場での安売りである。その不当な結果がすぐに賃金縮小という形で明らかになった。そして労働の価格の下落が一遍に進み、多くの商会は元の賃金の1/2しか払わない。ところが、賃金は下がりに下がったが、賃金率が下がるにつれて、利益は増加となっている。」不況期すら、工場手工業者等によって、賃金を過度に下げることで、労働者の生活手段の直接的な窃盗で、法外な利益を作り出すために利用される。一例として示す。(コベントリーの絹織物業の恐慌に言及しているものである。) 「私が、労働者達から得た情報と同様に、工場手工業者等から得た情報によれば、疑いもなく賃金は、外国商品との競争やその他の必要と思われる状況から見ても、より過剰に削減されたと思われる。大部分の織り工たちは彼等の賃金の30-40%も削減されて働いている。5年前のリボン織りでは、織り工たちは6シリングないし7シリングを得ていた。だが今では、わずか3シリング3ペンスないし3シリング6ペンスである。他の仕事では以前は4シリングないし4シリング3ペンスであったものが、今では、2シリングないし2シリング3ペンスである。賃金の削減が、そのような需要の増大による必要性に較べて遙かに大きな額で決められているものと思われる。本当のところ、多くのリボンについて見るならば、織りコストの縮減は、生産されたそれらの品物の売値の低落とは実際に何の関連性もない。(F. D. ロングス氏の 報告「児童雇用に関する調査委員会 第五次報告書 1866年」114ページ の1)  

  (10) それゆえに、工場労働者数の増大の必要条件は、工場に投資される資本のより以上に早い拡大に大きく比例する。とはいえ、この資本の拡大は、工業サイクルなる干潮と満ち潮に左右される。その上、それは時にそれなりの新人労働者の雇用を供給したり、別の時には、現実として、古い労働者を排除する技術の進歩によっていつも制約される。この機械工業における質的変化は、絶え間なく工場から労働者を解雇する、またはフレッシュな新人労働者の流入に門戸を閉じる。純粋に工場の量的拡大期には仕事から投げ出された労働者のみでなく、新たな分隊をも吸収する。この様に、労働者達は、常に、排除されたり、吸引されたりする。あっちこっちと、小突かれる。と同時に、常に性別、年令、金銭取り立ての技能に変化が生じる。
  (訳者小余談 このフレーズの向坂訳は困る。 着色部分の訳を順に示す。制約されている。の中でのみ実現される。これでは雇用すなわち経済成長とのたまうだけの資本家のせりふを払拭できない。最後のところは、skill of the levies と英訳された部分なのだが、熟練度もその一つの訳ではあるが、工場手工業とも違ってきた近代工業の要求はそうではなく、まさに資本への従属度とか手先度に近い意味があるのではなかろうか。)




 その上で、訳者本格余談となる。ここで示されている一つの法則は興味深い。工場労働者雇用数の増大は、資本投資額の増大速度に比例する、(A necessary condition, therefore, to the growth of the number of factory hands, is a proportionally much more rapid growth of the amount of capital invested in mills.)と述べているところである。必要条件として述べられてはいるところだが、その部分を捨象し、より早い成長を速度と見なせば、このようになるだろう。ここは私の勝手な思考であって、なんらの検証も伴ってはいないが、単純に経済成長が雇用に繋がっていない現実から見て、妥当性があると感じるところである。かくて、資本投資額がもう頂点に達していて、あるいは等速性に帰着していると考えれば、雇用の増大は絶望的と直ぐに解答される。資本家にとってはなにも雇用拡大は単に安い労働力への更新以外のなにものではないから、経済成長とお題目を唱えれば十分それなりの効果、税金からの直接援助、商品購入に対する税金援助という間接援助等が政府・日銀から提供され、多少の投資と多くの金融市場や原料等の商品先物取引等の儲けが得られる。資本家の云う経済成長とはむしろ労働力の雇用を単に更新するか、排除することそのものとなる。経済成長と雇用の関係式は資本家にはその概念も論理も裏付けもない。スペインの失業率が24.6%と報道された。スペインの失業者達がどのようにして生活を継続できるのかはもう不思議の世界の話となる。スペイン資本のスペイン国内への資本投資額の増大速度はどうなっているか知りたいもんだ。日銀がいくら屑証券を日銀券に交換したとしても、日本資本投資額の増大速度が仮に増大したとしても、日本の失業率が多少なりとも改善されるのかは、政府・日銀の説明圏外の事項であろう。資本間の決済援助ではなんの雇用も生まない。大した本格性はなかったが、勘弁してね。いつものことだが。


 

 (11) 工場労働者達のこの先は、英国綿工業の経過を一瞥することで、最もよく表されることになろう。

 (12) この綿工業の不況または沈滞は、1770年-1815年では、僅か5年間である。この45年間英国工場手工業者達は機械と世界市場を独占した。1815年から1821年不況、1822年と1823年は繁栄、1824年 商売組合を規制する法律の廃止、いずこの工場も大拡張、1825年恐慌、1826年工場労働者達には悲惨と暴動が、1827年僅かながら改善、1828年 力織機の大増加、輸出の大増加、1829年輸出 特にインド向けは以前のすべての年度を上回った。1830年市場が飽和、そして大苦難、1831年から1833年引き続き不況、東インド会社はインド及び中国の商売独占から撤退。1834年は、工場や機械が大増大、労働者が不足、新救民法が農業労働者を工場地域に移住を促進した。田園地帯から子供が一掃された。白人奴隷売買も、1835年大繁栄、その裏で手織り工達の餓死。1836年大繁栄、1837年と1838年不況と恐慌。1839年 回復1840年大不況、暴動、軍隊の出動。1841年と1842年は工場労働者にとっては恐ろしき受難。1842年 工場手工業者等は、穀物法の取り消しを求めるために工場をロックアウト、労働者を放り出した。(訳者注、:穀物法反対とは、今云うならTPP促進。現状をマルクスが要約すればどう書くか、私が書きたいところだが、ひとまず読者諸氏に譲っておこう。) 労働者達はランカシャー、ヨークシャーの町に数千名の集団となって流れ込んだが、軍隊によって押し戻された。デモのリーダーはランカシャーの裁判に付された。1843年大悲惨、1844回復、1845年大繁栄、1846年初めの内は改善継続だが、直ぐに穀物法廃止の反動。1847年恐慌、「でぶ」の名誉のために、賃金の10%からそれ以上の%分を一斉にカット。1848年不況が続く。マンチェスターは軍隊の保護下に置かれる。1849年回復、1850年繁栄、工場数 増加。1851年価格下落、低賃金、度重なるストライキ。1852年改善始まる、ストライキは続く、工場手工業主達は外国人労働者を受け入れるぞと嚇す。1853年輸出増加、プレストンで8ヶ月のストライキ、そして大悲惨。1854年繁栄 市場飽和。1855年 合衆国、カナダ、東アジアから破産連鎖のニュース。1856年 大繁栄、1857年 恐慌 1858年改善、1859年 大繁栄、工場数増。1860年 英国綿商売の絶頂期、インド、オーストラリア、その他市場では商品が溢れかえっていて、1863年ですら、その全部を吸収できなかった。フランスと通商条約、工場と機械の巨大成長。1861年 繁栄がしばらく続く、がその反動、アメリカ南北戦争、綿飢饉、1862年から1863年 完全なる崩壊。




 訳者の大余々談: 英訳ソフトの上記部分の訳をお見せしておく。無駄の一言なのだが、我が訳の護衛役として。一部を。(着色部分はその面白いところ)
 新救貧法は、工場地区への農業労働者の移行を促進する。国地区は、子どもの総なめにした。白い奴隷貿易、1835偉大な繁栄、手織機の織工の同時飢餓、1836偉大な繁栄、1837年と1838年恐慌と危機、1839年復活、1840年世界大恐慌、暴動、軍事外の呼び出し。の間で1841年と1842年恐ろしい苦しみ工場の工員、1842年のメーカーはトウモロコシ法の廃止を実施するために、工場の手をロックアウト。ランカシャーとヨークシャーの町に数千の協同ストリームは、軍によって撃退し、その指導者はランカスターで裁判にかけされています。1843偉大な不幸、1844年復活、1845年の偉大な繁栄をしてから、最初は1846年の継続的な改善、反応します。穀物法の廃止、1847年危機、10%以上、賃金の一般的な削減。1848継続的なうつ病;-----"大きなパン"の名誉----軍の下のマンチェスター---
 英訳ソフトの能力になんの進歩も見られないが、褒めて遣わす。私の訳の格段に優れていることを証してくれている。「大きなパン」の名誉のためにと向坂訳もなっており、大きなパンの比喩とその不名誉が分からないと面白くはない。メタボ賃金カット発想といい勝負。笑点向き。6代目円楽に資本論を読み込ませて置きたいもんだ。翻訳に詰まると余談でページを稼ぐ悪癖王


  (13) 綿飢饉の歴史は余りにも特徴的なので、しばらくは、ここに留まって時間を使うことにする。1860年と1861年の世界市場の状況に関する指標から見れば、綿飢饉は、工場手工業者にとってはちょっとした節目であり、彼等にとってはそれなりの利益があったように我々には見える。事実は、パーマストンとダービーによって、議会において、宣言された内容や各行事でも確認されたことが、マンチェスター商工会議所報告の中に認められる。*157  

  本文注: *157「事実に関する査察報告書 1862年10月31日」30ページ を確認せよ。  

  (本文に戻る) 確かに、1861年 英王国には2,887の綿工場があって、その中には、小規模工場も沢山あった。A. レッドグレーブ氏の報告によれば、彼の管轄下の2,109工場のうち392工場 または19%はそれぞれ10馬力未満のものを使用し、345工場 または16%は10馬力から20馬力未満を使用、他方1,372工場は 20馬力以上を使用した。*158

 本文注: *158 前出19ページ

 (本文に戻る) 小さな工場の大多数は織物小屋で、1858年後の繁栄期に建てられたもので、殆どが投機家によって建てられた。投機家等は、あるものは撚糸に、他のものは機械に、三番目のものは建物に投機した。これらの小工場は前監督者や、僅かに銭をだした他者によって仕事が進められた。これらの小工場手工業者等はみな事業に失敗した。綿飢餓からなんとか生き残った小工場主もいたが、商業恐慌は彼等に同じ運命を課した。彼等が全工場手工業主の1/3を形成したいたとはいえ、彼等の工場が吸収した資本は綿商売に投資された資本のごく小さな部分でしかない。機械停止の広がりについては、信頼できる推定から、1862年10月で、紡錘の60.3%、織機の58%が休止していた。この事は綿商売全体として示したもので、勿論、個々の地域では、それなりの違いが求められる。ほんの僅かとはいえ、ある工場はフルタイム(60時間/週)で作業をしていた。その他の工場は断続的な作業をしていた。その僅かなフルタイム工場でさえ、通常の出来高払い賃金率は、労働者の週賃金は、必然的に収縮した。それは、良い綿が悪い綿で置き換えられたからである。シー アイランド産(訳者注: 西インド諸島産)の綿がエジプト綿に(極細糸紡績工場の場合)、アメリカ綿やエジプト綿がスラート綿(インド西部産の粗い綿)に、そして純綿がごみやスラート綿混じりのものに置き換えられるからである。スラート綿の短い繊維とその汚れた条件、糸の極めて弱いこと、縦糸の糊に用いる小麦粉に換えてあらゆるものから出来上がった重い混合物の使用、これらが機械の速度を落とさせ、または一人の織工が監視できる織機の数を減らし、機械の不具合増による労働が増え、それらの結果生産量が減り、出来高払い賃金も減らされた。スラート綿が使用されるならば、フルタイムとして労働者の損失分は20%、30%、あるいはそれ以上に達した。しかし その上、多くの工場手工業主等は出来高払い賃金率をも、5%、7 1/2%、10%と下げた。これらのことから、我々は、週 3日、3日1/2、4日、または1日の6時間しか雇用されない労働者たちの状況がいかなるものかを想像することができよう。比較的改善が始まった1863年でさえ、紡績工や織工たちの週賃金は、3シリング4ペンス、3シリング10ペンス、4シリング 6ペンス そして 5シリング 1ペンスであった。*159

 本文注: *159 「事実に関する査察報告書 1863年 10月31日」41ページから45ページ

 (本文に戻る) このような悲惨極まる状況にあっても、それにもかかわらず、ご主人らの創意精神 (訳者小余談: 英文で示せば、the inventive spirit である。労働者やデザイナーの創意工夫精神は、資本家の許可を得なければなんの実現も見ないが、彼の創意精神は直接的に、あらゆるものに、作用する。商品、政府、軍隊、通貨、世銀、科学、政治的万能判断、司法、労働者、デザイナーにまでもその力は及ぶ。) は休すむことなく、賃金からの差し引き額づくりに励んだ。彼の悪い綿品質、彼の機械の不適切さによる最終製品の不出来に対してまでも、そのような罰則を課した。さらに加えて、工場手工業主が労働者たちの小屋を所有している場合は、その家賃を悲惨なる賃金から取り上げることで、勝手に彼は彼自身に支払った。レッドグレーブ氏は、自動機監視工たち(一対の自動織機を扱う労働者たち)のケースについて、我々に次のように語っている。

 (14) 「14日のフルタイムの仕事の稼ぎは8シリング 11ペンスである。そしてそこから下宿家賃料が引かれて、もっとも、その半額はギフトとして工場手工業主が戻してきたが。監視工は計6シリング 11ペンスを持って帰った。1862年後半期では、多くの工場の、自動機監視工は週5シリングから9シリングの範囲、そして織工は週2シリングから6シリングの範囲であった。」*160

 本文注: *160前出41ページから42ページ

 (15)  ショートタイムの仕事でも労働者の賃金から家賃が差し引かれることは度々であった。*161

 本文注: *161 前出57ページ

 (本文に戻る) ランカシャーのある地方では一種の飢餓熱病が発生したのも驚くには当たらない。この全てよりも特徴的なことは、生産過程において労働者の犠牲による実験がなされた事である。その実験とは、解剖学者が蛙で行うような、体を痛めつけて試すようなものが(ラテン語)、日常的に行われた事である。(実験とある着色部分の英文は、revolution である。向坂訳は 革命 である。資本家の革命がどのようなものか読み取れるところだが、革命と訳してしまうとそれが消えてしまい、後段の文章を読んでも意味不明だろう。 革命的実験の内容やその結果がいかに無意味なものかここでは分からないが、盲腸を除去するか、小腸の腺毛を痛めるような意味合いがラテン語にはある。 すぐ先でその内容を読むことになる。)

 (16) 「私はいくつかの工場労働者の実際の稼ぎについて述べたが、さらに加えて、」とレッドグレーブ氏は言う。「その同じ額を今週、翌週と稼いでいると言うことにはならない。労働者たちは、工場主の絶え間ない実験という大きな変動を受け入れることを余儀なくされる。…. 労働者の稼ぎは綿混合物の品質によって上下する。そきにはそれが以前の稼ぎの15%以内に届くこともあれば、1週か2週後は、以前の50%から60%に落ちる。」*162

 本文注: *162 前出50-51ページ

 (17)  これらの実験は、労働者の生活手段の持ち出しのみでなされたのではない。彼の五感もまた罰金を支払った。

 (18) 「スラート綿を使用する工場で働く人々は激しく苦情を言う。彼等は私にこう言う。綿の梱包を解く時、耐えがたい悪臭がする。それが病気を引き起こす。…. 混合室、粗梳き室、梳綿室では、埃や異物が舞い上がり、通風を阻害し、咳が激しくなり、呼吸が困難となる。…. 疑いもなく、スラート綿に含まれる汚染物質の刺激による皮膚炎、その他にも、…. 繊維が非常に短いので、大量の糊付けをする。動物性のものも、植物性のものも使われる。…. 気管支炎が埃からより広く蔓延する。同じ原因で、誰もが炎症性咽頭炎に罹っている。横糸の切断が頻繁に生じ、それによって吐き気や消化不良が発生する。「小麦粉の代用品が糊として使われるその裏で、糸の重量が増加することによって、工場主に運命と偶然の女神の財布がやってくる。15ポンド重量の原材料が織り上げられるとその重量は26ポンドとなる。*163

 本文注: *163 前出62-63ページ

  (19)  1864年4月30日の工場査察報告書に、次のように書かれているのを我々は読む。  

  (20) 「この商売は、現時点でも、この種の方法を、まったく信じ難いことにまで拡げている。私はこう聞いている。ある優良な権威もある8ポンド重量の布が、5 1/4ポンドの綿と2 3/4ポンドの糊で出来ており、他の布 5 1/4ポンドは2ポンドが糊であった。これらは通常の輸出用のシャツ地であった。その他の記述された布では、時には、50%もの糊が加えられていた。そう言うことであるから、工場手工業者は、彼が支払ったそのままの糸に較べてポンド当たりではより安い生地を売ることで富を成すことができたであろうし、そうしたと碑にしっかりと刻んだ。」*164  

  本文注: *164「事実に関する工場査察報告書 1864年4月30日」27ページ

 (21)  しかし労働者は、工場内において、工場主の実験のみによって苦難を受け入れねばならなかったのではなく、同様に、工場外の行政当局からの苦難をも受け入れねばならなかった。賃金の減額、仕事の欠乏のみではなく、日用品やら、慈善やら、上院・下院の称賛溢れる演説やらの受難が待っていた。

 (22) 「綿飢餓の結果、その労働開始の矢先に雇用から投げ出された不幸な女性たちは、どうにもできず、社会から除け者にされ、そして現在、景気が立ち直り、仕事は沢山あるものの、不幸な階級のメンバーを続けているか、続けているような状態にいる。街中には、私がここ25年間で見てきた以上に多くの若い売春婦たちがいる。」*165

 本文注: *165 ボルトン管区警察本部長 ハリス氏の手紙から「事実に関する工場査察報告書 1865年10月31日」61-62ページ

 (23) 英国綿業の、1770年から1815年の最初の45年間においては、僅か5年間の恐慌と停滞であったことを見出す。但しこの時期は独占の時代であった。ところが、第二の時期 1815年から1863年では、48年間で、僅かに20年間の復興と繁栄に対して28年間の不況と停滞を数える。1815年と1830年の間には、ヨーロッパ大陸やアメリカ合衆国との競争が始まった。1833年以後は、「人類の破壊」(大量販売がインド人手織り工たちを絶滅した。)によるアジア市場の拡大があり、1846年から1863年 穀物法の撤廃後は、8年の穏やか期と繁栄期があり、これに対して9年の不況・停滞となった。成人男子労働者の状況については、この繁栄期にあってすら どのようであったかは、追記された注より判断されよう。*166

 本文注: *166 1863年の日付がある ランカシャー他の工場労働者たちの、組織的な移民のための協会設立に関する請願書には、次のように書かれているのを我々は見出す。「今日においては、工場労働者たちの大規模な移民は、彼等を現在の打ちのめされた状況から救出するためには絶対的必要事項であり、否定する者はいないだろう。だが、我々は皆さんに、次のような付加的事実に注目してもらいたいのである。いつの時代にあっても継続的な移民の流れが必要であり、通常時にあっても彼等の地位を維持するためには移民なしでは不可能だということを。−事実はこうである。1814年輸出綿商品の公式価値は、17,665,378英ポンドであった。一方実際の市場で売られるはずの価値は、20,070,824ポンドであった。が、1858年では、輸出綿商品の公式価値は、182,221,681ポンドで、実際の、または市場で売られるはずの価値は僅か43,001,322ポンド、つまり以前の10倍の量が、以前の2倍以下の価格で売られたのである。様々な原因が連動して生じたこの様な結果は、一般的に、国にとっても、そして特に工場労働者にとっても不利益なことであり、それらの原因について、状況が許されるならば、我々は皆さんの目前によりはっきりと示していきたい。現時点では、労働の不断の過剰が最も明白な原因であるということで十分足りていよう。労働過剰なしでは、商売は余りにも破滅的で、続けて行くことができない。そしてまた商売は、全滅から自身を守るためにも絶え間なき市場の拡張を要求する。我々の綿工場は周期的な商売の沈滞によって休止に直面させられるであろう。現在のような 決着方法 (arrangements)では、商売そのもの死は避けられない。しかるに人間の 願望 (mind)は常に作用(at work)する。そしてにもかかわらず、我々は、この25年間で6百万人もの人がこの国を離れたと言う状況の流れ(mark)の中にいると思っている(believe)。人口の自然増加があるとはいえ、また生産を廉価にするための労働解雇であるとはいえ、成年男子の大部分は最も繁栄した時ですら、いかなる条件であれ、工場に仕事を得ることは不可能であると分かる。」(「事実に関する査察報告書 1863年4月30日」 51-52ページ)我々は以後の章で、我々の友人達、工場主達が綿商売の破局にあっても、あらゆる手段を用いて、国家的な妨害をも含めて、労働者たちの移住の阻止にどのように努力したかを見ることになろう。(訳者注: 色を付した部分の訳は難しい。英文を添えたが、英文からかなり遠い訳であることが分かるであろう。これは労働者たちの要請文であり、マルクスの概念とは違う文字になっている。決着方法はいうまでもなくマルクスなら資本主義生産様式であろうし、人間の願望は資本家の欲望であろう。作用も渇望であり、阻止があろうと流れは事実である。向坂訳では、現在の制度、 人間の発明心が休止することはない、とある。)




[第七節 終り]

 




第八節 近代工業による 工場手工業、手工業、
そして家内工業に 及ぼした大変革



A. 手工業と分業とを基礎とした協働作業の破壊


  (1) どのようにして、機械が手工業に基づく協働作業を破壊したか、また手工労働の分業に基づく工場手工業の協働作業を破壊したかを今まで見てきた。その第一分類の例は、草苅機で、草苅労働者の協働作業に取って代る。第二分類種の驚くべき例は、縫い針作り機である。アダム スミスによれば、彼の時代、10人の男子らが協働作業によって、一日 48,000本以上の縫い針を作った。一方、一台の縫い針作り機は11時間作業日一日で145,000本を作る。一人の婦人または一人の少女がそのような機械を4台監視し、従って、日に600,000本近くを作り、週に3,000,000本以上を作る。*167  

  本文注: *167 「児童労働調査委員会 第三報告書 1864年」108ページ 注 447  

  (本文に戻る) 一台の機械が、工場手工業の協働作業に取って代るなら、それ自体が手工業的性格の工業の基礎の役割を務めることになろう。そのような手工業への回帰である限りは、それは工場システムへの過渡期でしかない。工場シテスムは、大抵の場合、機械的な原動力、蒸気とか水とかが機械を駆動する力として、人間の筋肉に取って代るやいなや、自身を実現する。とはいえ、あちらこちらで、最初のうちは、いずれも機械的原動力を使った小規模な工業が行われたにすぎない。バーミンガムの商売人達のいくつかで行われていた蒸気力の賃借りもその一つであり、ある織り工業部門のいくつかでは小型熱機関を用いたりした。*168

 本文注: *168 合衆国では、この様な、機械による手工業の再現が、数多く見られ、それゆえ、工場シテスムへの避けようもない移行が始まるだろう。その集中度はヨーロッパはおろか英国と較べても長足の進展となる (stride on in seven-league boots 英文は一足で21マイルを跳ぶ靴でとある ) のは確実であろう。

 (本文に戻る) コベントリーの絹織物工業では、「小屋掛け工場」の実験が試みられた。小屋の列に囲まれた正方形の空間の中央にエンジンハウスが設置され、エンジンは複数のシャフトによって各小屋の織機と連結されていた。いずれの場合も、その原動力は各織機ごとに賃貸され、織機の稼働・不稼働によらず、賃貸料は週単位で支払われた。各小屋は2台から6台の織機を持っていて、あるものは織り工に属するものであり、あるものは借金で買われたものであり、あるものは賃借りされたものであった。これら小屋掛け工場群と単独所有の工場との間の闘争は12年以上にも及んだ。 が、300の小屋掛け工場群の完全なる崩壊をもって終った。*169

 本文注: *169「事実に関する査察報告書 1865年10月31日」64ページ を見よ。

 (本文に戻る) 工程の性質が大規模生産を伴わない場合では、新たな工業は最近の二三十年になって出現した。例えば、封筒づくり、鋼製ペン作り等で、一般的な経過として、最初は手工業段階を経て、ついで工場手工業段階に入り、短い移行期間の後、工場段階へと進んだ。ここに挙げたような業種は、品物を作る上で、段階的に進められる一連の工程から構成されておらず、連結されない多くの工程で構成されているため、その移行が極めて困難なのである。このような事情が、鋼製ペン工場の成立にとって大きな障害となった。それにもかかわらず、約15年後前に、6工程の別々の作業を一辺に自動的に行う機械が発明された。1820年の手工業システムによって供給された鋼製ペン1グロスは7ポンド4シリングであった。1830年それらは工場手工業によって1グロス8シリングで供給され、今日工場システムは1グロス2ペンスから6ペンスで仲間内の取引に入る。*170

 本文注: *170 ジロット氏が、最初の鋼製ペン大工場を、バーミンガムに設立した。1815年という早い時期に、年間 1億8千万本以上のペンを作った。120トンの鋼材を消費した。バーミンガムは、英王国においてこの産業を独占しており、現在では、10億本のペンを生産する。1861年の国勢調査によれば、1,428人の労働者を雇用しており、その内の1,268人は5歳から上の年令の女性であった。(訳者の驚嘆 一昔前はアッと驚く為五郎と云ったもんだった。)




[A. 手工業と分業とを基礎とした協働作業の破壊 終り]

 




B. 工場手工業、家内工業への 工場システムの侵入


  (1) 工場システムの発展とそれに伴う農業の大変革によって、その他の全ての工業部門における生産が単に拡大するのみならず、その性格をも変える。工場システムにおいて遂行される原理があらゆる場面で判断を下す原理となる。生産工程をその構成段階ごとに分解して、機械、化学、そして自然科学のあらゆる領域を応用することによってその問題を解決しようする。かくして、機械はまず初めに、工場手工業のほんの僅かな部分に自分自身を割り込ませ、そしてさらに他の部分にも割り込んで行く。そのようにして、古き分業に基づく固いその結晶、彼等の組織は、次第に溶解され、そして不断に変化する道を余儀なくされる。これとは全く別に、協働作業の構成に、急激な変化が起きる。結合的に働いていた労働者たちに変化が生じる。工場手工業時代とは対照的に、それ以後、分業は、どこであれでき得る限り、女性の、あらゆる年令の児童の、そして非熟練の労働者の、はっきり云えば、英国内で独特の言い回しの、安い労働(cheap labour)の雇用に行き着く。(着色部分 英文挿入は訳者による。多分ドイツ語版にもこの英文が同様に挿入されているものと思う。向坂訳もこうなっているので、入れることにした。いまやグローバル的にチープ レーバーとして知られており、低所得消費税納税者(チープペイヤー)の別名も知られている。 訳者の割り込み余談となるのだが、このチープなんやらがなければ、資本が立ちどころに死滅する状況に立ち至っている。その資本の必死さは、連日資本家・政治家合同世界金策会議で、よりチープピープルの創出に余念がないことでも明らかである。また資本家政権をどのように維持するかの選挙対策でも、また選挙で選出された新政権の取り込みにも、必死で取り組んでいる。日本では大阪市長選挙のように、チープ選挙民創出の努力に対する資本側政党の容認という支援方式が発見された。)(以下本文が継続している) このようなこと(チープレーバー化のことを指している 訳者の頭脳容量外のメモ)は、機械使用の有無に係わず、全大規模生産には伴うものであるが、それのみではなく、いわゆる家内工業、それが労働者の家または小さなワークショップであれ、そこにおいてもそれが現実化している。この近代的家内工業と呼ばれるものは、その名前以外は、かって知られたような、古き時代の家内工業とも、それなりに独立を前提とした都市の手工業者や、農園手工業者の存在とも異なる。とりわけ、労働者や彼の家族の住居としての存在とも無関係である。古き時代の家内工業は今では、工場の、工場手工業の、倉庫業の外部部門となっている。工場労働者、工場手工業労働者、そして手工業職人等を一ヶ所に大勢集めて直接的に指揮する他に、資本は、見えない糸を用いて、別の大群をも支配する。すなわち家内工業労働者を。彼等は大きな町や田園のあちこちに散らばって住んでいる。一つの例を挙げる。ロンドンデリーのティリー旦那のシャツ工場は、1,000人の労働者を自身の工場で雇用する他、また9,000人の人々をも使用する。これらの人々は国中のあちこちに散らばっており、彼等自身の小屋で働く。*171  

  本文注: *171「児童雇用調査委員会 第二次報告書 1864年」68ページ 注 415  

  (2) 近代工場手工業におけるチープかつ未熟労働力の搾取は、一般工場におけるよりもより恥知らずな方法で行われる。それは何故かと云えば、近代工場手工業には、ほとんど全くと言っていいほど、工場システムの技術的な基盤がない。すなわち筋力に代る機械の代置も、労働の軽減という性格もないからである。そして同時に、女性や年長児童は最も非良心的なやり方に服従させられる。有毒であるとか有害である物質に晒される。いわゆに家内工業における搾取は、工場手工業よりもさらに恥知らずなものとなる。なぜというなら、そこの労働者の抵抗力が、彼等のばらまかれている状況から言っても少なくされている。また、様々な多くの略奪的な寄生者が自身を菌のように雇用者と労働者の間にもぐり込ませてくる。また、家内工業はいつも工場システムと、または同じ生産部門である工場手工業と競合させられる。また、その貧弱さが労働者から、彼の労働にとって最も本質的なもの、空間とか照明とか通風とかの条件を強奪する。また、その雇用状況はますます不規則なものとなる からである。そして最後に加えるすれば、近代工業と近代農業によって「過剰」とされた人々の最後の楽園において、仕事を求めての競争がその最高度レベルに達するからである。このような生産手段における経済体制は、最初は、工場システムとして実行されるが、その初めから、まさにコインの表裏のように、もっとも野蛮な労働力の浪費と一体であり、労働に通常必須の条件の強奪を伴っている。−この経済体制は今や、労働力の社会的生産性が低ければ低いほど、そして工程を結合する技術的な基礎の発展が少なければ少ないほど、そのような一工業部門では、その敵対的で残忍な側面をより強烈に示す。


[B. 工場手工業、家内工業への 工場システムの侵入 終り]

 




C. 近代工場手工業


  (1) さて、私は、上に述べたことに横たわる原理を説明するために、二三の例を上げて話を進めて行くことにする。すでに読者の皆さんは労働日の章 (訳者挿入 第10章)で、読まれた多くの事例をよくご承知であることは言うまでもなかろう。バーミンガムとその周辺地域の金属工場手工業では、多くの非常に困難な作業に、三万人の児童と年少者が雇用されている。さらに加えて一万人の女性も雇用されている。そこでは、彼等は、真鍮鋳造、金属ボタン工場、エナメル引き、亜鉛メッキ、ラッカー塗装などの健康にとって問題のある作業に就いているのが見られるであろう。*172  

  本文注: *172 そして、今や信じ難いことだが、シェフィールドでは、子供たちが、ヤスリの目立て作業に使われる。  

  (本文に戻る) 成人であろうとなかろうと、とあるロンドンの家は、そこでは新聞と本が印刷されているのだが、労働者の過重労働の故に、不運なる呼称 「食肉解体処理場」を頂戴している。*173

  本文注: *173 「児童雇用調査委員会 第五次報告書 1866年」3ページ 注 24、6ページ 注 55 56、7ページ 注 59 60

  (本文に戻る) 同様の過重労働は製本工場でも行われており、ここでの犠牲者は主に、婦人、少女、そして子供たちである。年少者は、塩鉱山、蝋燭工場手工業、そして化学工場で、ロープ作業、夜間作業のきつい仕事をしなければならない。絹織物工場では、まだ機械によって運転されていない頃は、年少者たちが、織機を回す作業という死の作業をさせられた。*174

  本文注: *174 前出114、115ページ 注 6、7

  (本文に戻る) 最も恥ずべき労働の一つに、最も不潔な、最もひどい賃金の労働の一つに、ぼろ切れの選別が挙げられるが、そこでは婦人や年少の少女たちを好んで雇用する。大ブリテン島は、自身自分のぼろ切れの巨大なる倉庫なのだが、それはそれとして、全世界のぼろ切れ商売の一大商業地としてよく知られている。ぼろ切れは、日本から、最も遠く離れた南米の州から、カナリア諸島から、流れ込む。しかしぼろ切れの主要な排出元は、ドイツ、フランス、ロシア、イタリー、エジプト、トルコ、ベルギー、そしてオランダである。それらは肥料、ベッドの詰め物、打ち直し糸、そして紙の原料として用いられる。ぼろ切れ選別工たちは天然痘を蔓延させる媒介者であり、またその他の伝染性の病気の媒介者となる。そして彼女たち自身が最初のいけにえとなる。*175

  本文注: *175 公衆衛生 第8次報告書 ロンドン 1866年 付録 196、208ページ ぼろ切れ商売についての報告と多くの詳細を見よ。

  (本文に戻る) 幼児期から続く、労働者の 長時間労働、過重労働、不適切労働の古典的な例とその残酷な影響は、炭鉱やその他の鉱山のみではなく、瓦工場、レンガ工場でもしばしば見られる。こうした工場等では、最近発明された機械は、英国では、わずかにあっちに一つこっちに一つといった程度でしか使われていない。5月から9月の間、仕事は朝の5時から晩の8時まで続く。そして乾燥が屋外でなされる場合は、しばしば朝4時から夜9時まで続く。朝5時から晩の7時までの作業は、「短縮された労働」または「適度な労働」と考えられている。少年も少女も6歳から、中には4歳の子供も雇用されている。子供たちは成人と同じ時間働き、しばしばそれ以上長く働く。仕事はきつくそして夏場の熱気は消耗を一層激しいものにする。モーズレーのある瓦づくりの現場では、例を挙げると、24歳の若い女性は日に2,000枚の瓦ををきっちりと作る。二人の小さな少女を助手に使う。少女二人は彼女のために粘土を運び、出来上がった瓦を積む。少女たちは日に10トンの粘土を、滑りやすい穴沿いの傾斜路を登り、粘土ピット 深さ30フィートから運び上げ、さらに210フィートの距離を運んだ。

  (2) 「子供たちにとっては、瓦づくりの現場の煉獄を、道徳心の大きな堕落もなしに通過することは不可能な事である。….卑猥な言葉、子供たちは最も感じやすい年頃からそんな言葉に習慣づけられる。不潔で、不適切で、不遠慮な習慣、無知で半野蛮な中で成長すれば、それが彼等をしてその後の人生で、無法、無頼、放埒を作り上げることになる。…. 退廃の恐るべき原点は、生活様式である。型づくり工それぞれは、彼等は永遠の熟練工であり、グループの長であるが、彼等それぞれは7人の手下を彼の小屋に食事付きで宿泊させる。彼の家族であろうとなかろうと、成人男子、少年、少女 全員がその小屋で寝る。小屋は通常部屋が二つ、例外的に三部屋で、全て一階で通風が悪い。これらの人々はその日の重労働で疲れ果てていて、健康のルール、清潔さのルール、礼儀正しさのルールは少しも見られない。この様な小屋多くのは乱雑で、汚れていて、埃も…. の見本である。この様な作業に年少少女を雇うことの最も大きな悪影響は此処にある。通例として彼女たちを幼児期の初めからその後の一生をこの最も破廉恥ななべに繋ぎとめる事にある。自然が彼女たちに、自身が女性であると教えて呉れる前に、彼女たちは粗雑で、口ぎたない少年となる。わずかなぼろ切れを身にまとい、脚は膝のかなり上までむき出しで、髪や顔は汚れにまみれ、上品さや恥といった感情の全てを軽蔑することを学ぶ。食事の時は地面に長々と寝そべるか、近くの運河で少年たちが水浴びするのを眺める。彼女たちの一日の長い重労働が終ると、よりましな服を着て、男どもと連れ立って居酒屋に行く。」

  (3) この種の連中全てにおいて、子供の頃からそれ以後も、大酒飲みが蔓延するのは、ごく当たり前の事である。

  (4) 「最悪なのは、瓦工自身が自暴自棄になっている事である。よりましな方の一人がサザールフィールドの牧師にこう云った。先生! 瓦工にやるのと同じように、悪魔を元気づけて改善して見ればいいんじゃない。」*176

  本文注: *176 児童雇用調査委員会 第5次報告書 1866年 14-18 ページ 注 86-97 130-133ページ 注39-71. さらに第3次報告書 1864年 48,56ページ を見よ。

  (5) 近代工場手工業 (ここでは大規模な作業場全てを含め、厳密な意味での工場(訳者注 工場システムのみで成立している工場) は別にしている。) における必須の労働をいかに経済的なものとするかの資本のやり方については、公的な最も豊富なそのことに関する材料が、公衆衛生報告書 第4次(1863年)、第6次(1864年)に見出される。作業場の記述、そのより特別なるものに、ロンドンの印刷工と仕立工のそれがある。我等が小説家の最も忌まわしい想像すら絶する。労働者の健康への影響は自明である。英枢密院の首席医務官であり「公衆衛生報告書」の公式編集者であるサイモン医師はこう述べる。

  (6) 「私の第4次報告書(1863年)で、私は、労働者たちが彼等の最も重要な衛生上の権利を主張することが、実際的にはどれほど不可能なことであるかを示した。即ち、彼等の雇用主が労働者を集める理由がなんであれ、そしてその雇用主に従属する限りにおいて、排除できうる不適切な状況の全てから解放されていなければならないとする権利の主張に関することである。私は、労働者が実際的に彼等自身のこの衛生的正義を行使することはできない一方、有給衛生警察行政官からいかなる効果的な援助を得ることもできないことを示した。…. 無数の成人男子労働者と成人女性労働者の命が今、無駄に苦しめられており、また彼等の単なる職業から受ける 終ることのない肉体的な労苦によって命が縮められている。」*177

  本文注: *177 公衆衛生 第6次報告書 ロンドン 1864年 29-31 ページ

  (7) 作業室が健康状態にいかなる影響を与えるかの説明に、サイモン博士は、次のような死亡率に関する表を示す。*178

  本文注: *178 前出 30ページ サイモン博士は次のように記している。25歳から35歳にかけてのロンドンの仕立職人や印刷工の死亡率は実際にはもっと大きい。なぜならば、ロンドンの雇用主らは、30歳までの若い人々の多くを、「見習い工」とか、手職の仕事をより完全なものにするためにと云う「徒弟」としてロンドンから離れた田舎から獲得する。これらの数値は国勢調査ではロンドン人としてカウントされる。ロンドンの死亡率を計算する場合にはこれらの労働者数が膨れあがるのだが、そこでの死者数を比例的に加えることはない。彼等の多くは実際には田舎に帰っている。重病の場合は特にそういうことになる。(前出*177)

  (8)

各産業に雇用されたすぺての年令の労働者数健康に関して
比較対象となる各産業
年令別 各産業別
10万人あたりの死亡率
25歳から35歳35歳から45歳45歳から55歳
958,265イングランドとウェールズの農業7438051,145
男 22,301
女 12,379
ロンドンの仕立職人9581,2622,093
13,803ロンドンの印刷工8941,7472,367

 




[C. 近代工場手工業 終り]

 




D. 近代家内工業


  (1) 私は今、いわゆる家内工業の実状を示すところに帰ってきた。近代機械工業の裏庭で資本家が励むその搾取局面の恐怖に満ちた状況を知るためには、釘づくり商売の、外見上はまったく田園風景としか映らない現場に行って見なければならない。*179  

  本文注: *179 私がここで取り上げるのは、ハンマー打ちの釘のことである。機械によって切断されて作られる釘とははっきりと区別されている物である。「児童雇用調査委員会 第三次報告書」まえがき9-19ページ 注 125-130、52ページ 注11、114ページ 注487、137ページ 注674 を見よ。  

  (本文に戻る) それは英国の遠く離れた二三の村々で行われている。その釘づくりの実状も述べたいところなのであるが、ここでは、レースづくりと麦わら編みの家内労働から二三の例を述べることで十分であろう。(訳者注: 釘づくりはかなりの力仕事で、成人男性労働者を基本に児童労働等を付着させており、その恐ろしき実状が浮かんでくるが、後者に注目すれば、まさに婦人・子供の家内工業の最も過酷な場面がより明確になるであろう。また釘は機械との競争では継続性がなく、それゆえなおさら問題も恐ろしいものになったであろうが、後者の時間的経過とその悲惨さの継続という圧倒的な大きさは我々の頭脳をも一瞬にして固まらせる。)これら後者の産業は未だに機械の助力によって行われてはおらず、また依然として、工場や工場手工業による部門にも打ち負かされるには至っていない。

  (2) 英国で、レース織り生産に雇用される15万人のうち、約1万人は1861年の工場法の適用を受ける。残りのほとんどの14万人は婦人、及び男女の若年層と子供達である。とはいえ、男性とあるのはは虚弱者を意味している。この安上がりの搾取材料の健康状態については、ノッティンガムの一般無料診療所に所属する医師 トルーマン博士が計算した下記の表から分かる。レース織り女工の患者686名、多くの者は17歳から24歳で、そのうちの、末期的患者数の割合を示したものである。

末期的患者の割合
185245人中 1名
185328人中 1名
185417人中 1名
185615人中 1名
185713人中 1名
185815人中 1名
18599人中 1名
18618人中 1名

                                    *180

  本文注: *180 児童雇用調査委員会 第二次報告書 (ローマ数字)22ページ 注166

  (3) 末期的患者率の推移は、最も楽観的な進歩主義者が見ても、またドイツの自由商売受け売り主義者仲間の中の最もとんでもない嘘つき野郎が見ても、理解するに足りるものであろう。(訳者の小注: 向坂訳はこうある。満足させるに違いない。多分奴らのブルジョワ脳腫麻痺感覚から云えばそうであるとしても、それを先取りしての、この訳はないだろう。)

  (4) 1861年の工場法は、英国内において、機械を用いて行われる限りにおいて、現存のレース織り業を規制する。我々が調べようとしている支部は、もっぱら家庭において働いているそれらの人々に係わるものであって、工場手工業または問屋で働く者たちではない。それらの支部は二つの区分に分かたれる。すなわち、(1)仕上げ、(2)小物づくり である。前者は機械編みレースの仕上げの手作業を行うもので、様々な細支部門が存在する。

  (5) レース織りの仕上げは、「女主人の家」または 婦人たちの自分たちの家のいずれかで、彼女らの子供たちの手伝いがあろうとなかろうとに関係なく、行われる。「女主人の家」を持っている婦人たち自身も貧乏である。作業室は個人の家の中にある。女主人は工場手工業者とか問屋主人から注文をとり、部屋の大きさと増えたり減ったりする仕事の量に応じて、婦人たち、少女たち、年少の子供たちを雇用する。これらの作業室に雇用される女性たちの人数は、ある場所では20人から40人となり、別の場所では10人から20人となる。仕事を始める子供たちの開始年令は平均6歳からであるが、多くは5歳以下からなのである。通常の作業時間は、朝8時から夕方8時までで、うち食事時間が1時間半だが、その時間間隔は不規則で、しばしばほこりっぽい作業室での食事となる。仕事が忙しくなると、朝8時から、時には朝6時からとなり、夜の10時、11時、12時までも続くことになる。英国兵舎では各兵士当たり500-600立法フィートの空間が法で割り当てられている。そして陸軍病院では、1,200立法フィートである。しかしそれらの仕上げ場では一人当たり67-100立方フィートである。同時に、酸素がガス灯で消費される。レース織りが汚れないようにするために、床はタイル張りや開口部があったりするが、それにも係わず、子供たちはたびたび、冬でさえも、靴を脱ぐように強いられる。

  (6) 「ノッティンガムでは、14 -20人の子供たちが小さな部屋に、それは多分、12フィート平方よりは大きくないが、そこに、ごちゃごちゃと詰め込まれて、24時間のうちの15時間 退屈極まりない単純作業にこき使われ、それに加えてありとあらゆる有害な条件の下に置かれているのを見ることは全く当たり前のことなのである。…. 最年少の子供でさえ、張りつめた注意力とおどろくべき速度で作業をする。指は休むこともなく、またはその動きが鈍ることもない。もし、かれらは何か質問されたとしても、彼等は目を上げることはしない。その一瞬をも失うのを恐れている。」

  (7) 女主人の「長いステッキ」が、労働時間が長くなればなるほど、ますます刺激剤として使われる。

  (8) 「子供たちは次第に飽きて、その単調な、目が疲れる、同一姿勢を保つことで消耗する仕事の長い拘束が終る頃ともなると、鳥のように落ち着かなくなる。彼等の仕事はまるで奴隷の苦役である。*181

  本文注: *181 児童雇用調査委員会 第二次報告書 1864年 (ローマ数字の) 19、20、21ページ

  (9) 婦人たちと自分たちの子供とが自宅で作業する場合、今日の意味では借り上げられた家のことで、多くは屋根裏部屋なのだが、そこでの作業等の状態は、その他のことも加わって、よりひどいものとなる。この種の仕事は、ノッティンガムから半径80マイル以内に出されている。その問屋の作業場から家に帰る夜9時または10時に、子供たちには大抵 家に持って帰って仕上げるレースの束が渡される。資本家のパリサイびとは、彼の下僕に代理させて、この束を渡す時に、勿論のことだが、例の脂ぎった言葉「それはお母さんへの分」と云い添えるのだが、彼は、この貧しい子供たちが寝ずに起きて手伝うことはよく分かった上でのことなのである。*182

  本文注: *182 前出 (ローマ数字の) 21、22ページ

  (10) 枕飾り用のレースづくりは、主に、英国の二つの農業地域で行われている。一つはホニトンのレースづくり地区で、デボンシャーの南海岸に沿って20-30マイルに広がっている。そして北デボンのいくつかの小さな場所をも含んでいる。もう一つは、バッキンガム、ベドフォードとノーサンプトン各州の大部分と、隣接するオックスフォードシャーとハンティンドンシャーの一部から成り立っている。通常は、農業労働者たちの小屋で、仕事が行われている。多くの工場手工業者らは 3,000人以上のレース織り工を雇う。子供たちと年少女性ばかりを雇う。もろもろの状況は、レース仕上げのところで述べたのとおんなじであるが、「女主人の家」に代わって、「レース学校」と呼ばれるものが登場する。彼等の小屋の中にあり、貧しい婦人たちによって仕切られる。子供たちは、5歳 いや多くはより早くから、12歳または15歳になるまでこの教室で働く。特に若い者は最初の1年間は、4時間から8時間を、以後は、朝6時から夜の8時までそして夜10時まで働く。  

  (11) 「部屋は通常、小さな家の普通のリビングルームで、煙突は気流を防ぐために塞がれていて、収容者が暖をとるには自分の動物としての熱によるしかなく、冬でも大方そのようなものである。その他の場合では、いわゆる教室は暖炉のない小さな物置といったところである。…. これらのむさくるしい部屋に人を過剰に詰め込むため、空気は極端に汚染する。さらに加えて、この小さな小屋の周りから、廃水、トイレ、腐敗物や、その他の汚物の有害な影響を受ける。」空間に関しては、「あるレース学校では18人の少女と女主人が一人で、一人当たり35立方フィートであり、他の学校では匂いが耐えがたく、18人で、24 1/2立法フィート/人である。この種の産業では2歳や2歳半の子供たちの雇用も見出される。」*183  

  本文注: *183 前出 (ローマ数字の) 29、30ページ

  (12) バッキンガムやベドフォード州内で、小物のレースづくりが終ってしまった処では、麦わら編みが始まる。そしてハートフォードシャーの大部分に広がり、そしてエセックス西部・北部にも広がった。1861年 そこでは、40,043人が麦わら編みや麦わら帽子づくりに雇用されていた。そのうち3,815人があらゆる年令の男性で、その他が女性、7,000人の子供たちを含めて20歳以下が14,913人であった。レース学校に代わって、「麦わら編み学校」が登場。子供たちは、一般に4歳から、多くは3歳から4歳の間に麦わら編みの教育を受ける。教育、勿論 なんの教育も受けはしない。子供たちは自分たちでは、小学校を「普通の学校」と呼んでこれらの血を搾り取る施設とは区別している。後者の学校では、子供たちは、目標を達成するために、通常は日30ヤードと、半分飢えた母親たちに命令されて、単純な作業を続けさせられている。これらの同じ母親たちは、大抵は、家でも子供たちを働かせる。例の学校が終った後、夜10時、11時、12時までも働かせる。麦わらが子供たちの口や手を傷つける。麦わらに息を吹きかけて湿らしながらやるために口を切る。バラード博士は、ロンドンの医学官団体の総意として次のように述べている。寝室や作業場では一人当たりの最小空間は300立方フィートであると。しかしこの麦わら編み学校の空間は、レース学校よりも乏しく、「12 2/3、17、 18 1/2 ないし22立方フィート/人以下である。」

  (13) 「これらの数字の小さい方は、調査委員の一人であるホワイト氏はこう言う。一人の子供がもし3方向3フィートの箱に入れられるとするなら、その半分の空間よりも小さい。」

  (14)  子供たちが12歳から14歳に至るまでの生活を享受する実状がこの様なことなのである。哀れな半分飢えた両親は、何も考えることはなく、彼等の子供たちからできる限りのものを得ようとするばかり。であるから、子供たちは成長するやいなや、彼等の両親のことはほんの1ファージング銅貨程度もかえりみず、それが、そうするのが当たり前として、両親を放棄する。

  (15) 「そんなふうに育てられた人々に、無知や不道徳が広がっているとしてもなんの不思議もない。…. かれらの道徳性はまさに干潮のごとき状態である。…. 多くの女性は私生児を持っており、犯罪統計に最も詳しい者でさえも驚かされるほどの幼年少女がそうした私生児を抱えているのである。」*184

  本文注: *184 前出 (ローマ数字の) 11、12ページ

  (16)  それでもって、こうした典型家族の故郷は、ヨーロッパの模範的なキリスト教徒の国なのである。すくなくともモンタランベール伯、確かキリスト教精神の申し分なき権威を持っているお方が、そのようにおっしゃる国のことなのである!

  (17)  ここに述べて来たこれらの産業の賃金は、惨めなものである。( 麦わら編み学校のこどもの最高額は、まれにみる高額の場合でも3 シリングである。) 賃金は、どこでも行われている現物支給システムの蔓延によって、名目賃金にくらべて遙かに低い額に引き下げられている。なかでもレース織り地域は特にひどい。*185

  本文注: *185 児童雇用調査委員会 第一報告書 1863年 185ページ




[D. 近代家内工業 終り]

 




E. 近代工場手工業、近代家内工業の近代機械工業への移行
それらの産業に対する工場法適用によるこの変革の加速


  (1)  まぎれもなき女性と子供たちの労働の乱用、まぎれもなき仕事や生活のためのあたりまえの様々な必須の条件の強奪、まぎれもなき過重労働や夜間労働の野蛮さ によってなされた労働力の低廉化も、ついには乗り越えられることができない自然の障害物にぶつかる。そのように、これらの手法による商品の低廉化も、資本家の搾取も当然とはいえ、同じものにぶつかる。この点に到達するやいなや、−実際には長い年月が掛かるのであるが、−まさに時代が機械導入の鐘を鳴らす。そして、それゆえ、地方に散らばった家内工業やまた工場手工業を工場工業へとの急速なる移行の鐘を鳴らす。  

  (2)  この移行の動きの最も大きな規模の一例は、服飾品の生産から与えられる。児童雇用調査委員会の分類によれば、この産業は、麦わら帽子メーカ、婦人帽メーカ、縁無し帽子メーカ、仕立業、頭飾りや外套やドレス等のメーカ、シャツメーカ、コルセットメーカ、手袋メーカ、靴メーカ、それに加えて多くのマイナーな枝部門がある、ネクタイとかカラーづくり等々。1861年 英国及びウェールズで、これらの産業に雇用されていた女性は、586,299人で、このうちの115,242人は少なくとも20歳未満で、16,650人は15歳未満であった。1861年 英王国でこれらの女性労働者の数は、750,334人であった。一方、英国及びウェールズで、雇用される男性の数は、縁無し帽子メーカ、靴メーカ、手袋メーカ、そして仕立業で、437,969人、うち14,964人が15歳未満、15歳から20歳までが、89,285人、20歳以上が 333,117人であった。但し多くの小さな枝部門はこれらの数字には含まれていなかった。さて、ここにあるままの数字 ( 訳者注: 586,299+437,969=1,024,268 ) を見れば、英国及びウェールズのみで、1861年 国勢調査によると、これとほぼ同じ人数の 計 1,024,277人が農業と牧畜業で仕事をしているのが分かる。我々はやっとこのことの意味が分かって来た。この厖大な量の商品が機械の魔法によって生み出され、この厖大な労働者たちを機械が解雇することの。  

  (3)  服飾品の生産は、一部は工場手工業で行われるが、その作業室にはその分業の部分的再生産しかなく、その骨のない皮膚がただ散らかっている(ラテン語)のを見るばかり。他の一部は小規模手工業者によって行われるが、以前とは違って、個々の消費者のために仕事をするのではなく、工場手工業者や卸問屋のために仕事をする。町全体や地方域までにも広がった、ある一つの支部となることも多い。例えば、靴メーカである。特別に、そして最終的には非常に大きな規模で、家内工業労働者と呼ばれる人々によって行われる。彼等労働者は、工場手工業者、卸問屋、そして小さな仕事場の主人すらをも含む、その外部部門を形成する。*186

  本文注: *186 英国の、頭飾りや外套やドレスづくりは殆どが雇用者の作業所内で行われ、一部は、そこに住む女性労働者によって行われ、他は、その作業所とは別に住む女性労働者によって行われる。

  (4)  原材料他は、機械工業から供給され、大勢の安い人間材料 (感謝と憐憫の尾ひれがついた (フランス語)) は、機械工業や改良された農業によって「自由とされた」個人から造られた。ここに集まった工場手工業者達は彼等の主なる資本家としての必要から、いかなる需要の増大に対しても備えとするための一群を手元に確保しておきたいとする必要から、これらの労働者群を支配したのであった。*187

  本文注: *187 調査委員の一人である ホワイト氏が、軍服をつくる工場手工業を訪ねた。そこには 1,000人から1,200人の労働者が雇用されており、殆どが各年令層の女性であった。靴の工場手工業は、1,300人が雇用されており、ほぼ半数が子供と少年であった。

  (本文に戻る) 需要に対する補完的なものとしてにも係わず、これらの工場手工業者らは、あちこちに散らばった手工業や家内工業を、広大な基礎として、継続して存続させることにしたのである。これらの支枝細々に及ぶ厖大なる剰余価値生産の仕組み、彼等の品物の一層の低廉化の仕組み、昔も今も最低限の賃金払いのための最主要なる仕組みであり、惨めな生存のための必須の条件以上のなにものでもなく、また人間器官の耐えうる最大の作業時間の拡張を図る以上のなにものでもない。まさに事実はこうであった。人間の汗と人間の血を値切ることによって、それが商品に転換されて、市場は常に拡大され、そして日々その拡大が続いたのである。そのより顕著な例は、英国植民地の市場である。そこでは、それらに加えて英国趣味や英国習慣も蔓延した。そうしてついに、最終点に到達した。その古き手法の基礎、これでもかの激しい労働者の搾取、そのための多くの組織的な分業、は、もはや、拡大する市場に対応できず、より一層急速な拡大を見せる資本家間の競争にも対応できなくなった。機械降臨の時の鐘が鳴った。決断を下す革命的な機械、その機械は、ドレスメーカー、テイラー、靴メーカー、縫製業、帽子づくり、その他多くの、あらゆる同様の生産部門の支部細部に至るまで全く同様に襲い掛かかったその機械とは、ミシンである。(訳者小余談: 資本家は決断を下すのが大好きである。多くの場合、自らの手足である政府に決断するよう迫る。消費税率を上げる政策をば、決断する政治と云うのである。政府も資本家の一翼を自慢げに、決断する政治と自ら謳う。資本家の翼賛組織であるマスコミも同様に、決断する政治と絶賛する。「決断を下す革命的な機械」の訳は、単に「決定的で革命的な機械」で十分であるが、資本家的表現を使えばこうなるんだろう。貧しい労働者たちが決定した話ではないのだし。)

  (5)その即時的な労働者への影響は、全ての機械のそれと同様である。近代工業の始まり以降、商売の新たな部門を機械が獲得して行ったのと同じである。幼い子供たちは不要とされた。ミシン工の賃金は、貧困中の最も貧困に属する多くの労働者である家内工業労働者のそれと較べればやや上となる。ミシンが競いあうようなかなり良い地位にあった手工職人の賃金は没落する。新たなミシンの使い手はもっばら少女と若い女性に限られる。機械力の助力を得て、資本家らは、重労働を担っていた男性労働者の独占を崩し、老婦人や幼い子供たちの大勢を軽労働から放り出す。この圧倒的な力の競争が、か弱き手工労働者たちを粉々にする。ここ10年間のロンドンでの飢餓による死者の恐るべき増加は、ミシンの拡大と平行して進行した。*188

  本文注: *188 一例として、戸籍官による1864年2月 26日付死亡週報には、5件の餓死が含まれている。同日のタイムス紙は、 別の1件を載せている。週に6人の餓死犠牲者とは!

  (本文に戻る) 機械を手と足 または手だけで動かす新たな女性労働者は、時には腰掛けて、時には立ったままで、ミシンの重量や大きさや特別なる型に応じて動かし、そして多大な労働力を支出する。彼女たちの業務は、古いシステムでの時間よりそれほどは長くないにもかかわらず、その大きな消耗が長時間に及ぶため健康を損なう。ミシンがおのれを設置する場所がどこであれ、狭く、すでに混み合った作業場であって、健康を損なうような悪影響を追加する。

  (6)「その影響は」とロード氏は云う。「天井の低い30人から40人のミシン工が働いている作業場に入れば、とても耐えられない。…. 熱気が、アイロンを加熱するガスストーブも一因だが、ひどいものである。…. このような場所では通常の一般的な朝8時から夕方6時までの作業時間であってさえ、それでも毎日決まって3名ないし4名の者が卒倒する。」*189

  本文注: *189 「児童雇用調査委員会 第二報告書 1864年」 ページlxvii ノート406-9、 84ページ ノート124、ページlxxiii ノート441、68ページ ノート6、ページ84 ノート126、78ページ ノート85、76ページ ノート69、ページlxxii ノート483

  (7)  生産器械変革の必然的結果であるこの工業的方法の大変革は、一連の様々な移行形式を通じて実現される。これらの形式は様々で、ミシンがある産業の一部門またはその他の産業への普及の程度お応じて、それらが稼働した期間に応じて、労働者の以前の状況に応じて、工場手工業の 手工業の 家内工業の下準備状況に応じて、または作業場の賃貸料 *190 に応じて、その他諸々に応じてで、いろいろと多様なものとなる。  

  本文注: *190「作業場に必要な土地・建物の賃貸料は、その決断のための究極の要素と思われる。そしてその結果として、この古きシステム、小雇用主や家庭に仕事を出すことが、首都においては最も長く維持され、最も早く消滅することになったのである。」( 前出 83ページ ノート123 ) この「 」の中に述べられたまとめの文章は、他でもなく、靴メーカーについて書かれたものである。  

  (本文に戻る) 例えば、婦人服仕立業の場合、すでに多くの労働が概ね単純な協働作業として組織されていたので、ミシンは最初の段階では、その工場手工業的な産業内においては単なる新しい要素となっただけである。テイラーやシャツメーカーや靴メーカー、その他においては、あらゆる形式が混在させられていた。工場システムそのものもここにはあり、大親分(ラテン語)の資本家から原材料を受け取って、「借り小屋」とか「屋根裏」とかに10人から50人以上の労働者を、自らのミシンの周りに集めた中間業者も居る。そしてさらに、これが最終的な存在だが、そしていつもながらの機械の存在形式なのだが、システムとして組織されず、かつ矮小なる部分で使われ、手工業者、家内労働者、そして彼等の家族といっしょに、ミシンが用いられる場合、それに加えてミシンから見放されたわずかばかりの労働者を引き込んでミシンを使わせる場合など。*191

  本文注: *191 救済を受ける生活困窮者とほとんど区別が点かないような労働者の状態にある手袋メーカーやその他の業種ではこの様な(訳者注:ミシンの利用や他人にミシンを使わせるような )ことは起こらない。

  (本文に戻る) 英国で当時実際に広く用いられていたシステムは、資本家が数多くのミシンを彼の建物に集め、そしてそのミシンで出来上がった物をさらに手縫いして仕上げるために家内工業労働者たちに分配する。*192

  本文注: *192 前出 83ページ ノート122

  (本文に戻る) 確かに様々な移行形式があるが、それが工場システム集中への転換傾向を覆い隠しはしない。この流れは、ミシンの性質そのものによって成長する。その多様な使用が集中を促進する。一つの屋根の下に、一つの管理体制の下に、以前はその業種が様々に分かれていたものを集める。また同様、ミシンを掛ける前の待ち針作業やその他の作業もミシン作業の建物内にあれば最も便利であることから、一層その傾向が強まる。云うまでもないが、縫工労働の、そして自分のミシンで作業する家内工業労働の搾取という狙いからも当然ながらそのような展開となる。彼等労働者たちの運命はすでに殆どその津波の中に置かれて居る。(訳者注: 津波という訳語をあえて用いたのは、3.・11の状況をやはり忘れ得ないからである。) 増大が続くミシンへの資本投入は、*193

  本文注: *193レスターの深靴と短靴の卸売品向け商売だけで、1864年時点で、すでに800台のミシンがすでに使われていた。

  (本文に戻る) ミシン生産への拍車をかけていたし、一方で市場はそれが供給過剰となっていた。ゆえ、自前ミシンによる家内工業労働者対してはその自前ミシンを売りに出す合図ともなった。ミシンそのものの過剰生産は、ミシン生産者に対しても、売上の減退から、多くのミシンを週それなりの賃料で貸し出しせざるをえず、ミシンを抱えた小業者との究極の闘いに突入して行くことになった。*194

  本文注: *194 前出 84ページ ノート124

  (本文に戻る) ミシンの構造の絶えざる改良、そして絶えざる一層の低廉化が日々古い型の価値を下落させ、その大量のミシンを大きな資本家らにバカみたいな値段で売るはめとなる。資本家らは嬉々としてそれらを使って儲けを得る。そして最終的には、人間に替る蒸気機関がここにもやって来る。全ての同様の大変革で起きたように、最後の一吹きがやって来る。最初のうちは蒸気力の利用は純技術的な困難に遭遇する、その不安定さ、速度制御の困難性、軽量機械の早い損耗等が問題となる。だが、それらの多くは忽ち経験によって克服される。*195

  本文注: *195 例えば、ロンドンのピムリコ陸軍被服工廠、ロンドンデリーのティリー・&・ヘンダーソンのシャツ工場、そして1,200人の労働者を雇用するリメリックのテイト諸氏らの衣服工場。

  (本文に戻る) 一方で、多くのミシンが大きな工場手工業へと集中することが蒸気力の導入となるならば、他方、大きな工場では、蒸気と人間筋力との競争が労働者とミシンの集中をせき立てる。かくして、現在、英国は、巨大なる服飾産業ばかりでなく、あらゆる産業が、この変革を経験しつつある。工場手工業、手工業、そして家内工業の工業システムへの変換、これらの生産形式の変換が、全面的な変化や分解が、近代工業の影響(大文字)の下に、何年も前から再生産され、それ以上のことを成す。当然あるべき社会的進歩のいかなる要素も参加させずに、この恐怖の工場システムが突き進む。*196

  本文注: *196 「工場システムへの傾向」( 前出 ページlxvii ) 「現時点、全雇用は、移行状態にある。レース産業、織物産業、他で生じた同じ変化(大文字)が進行しつつある。」( 前出 ノート 405 )「完全なる大変革」( 前出 ページxlvi ノート 318 ) 1840年の児童雇用調査委員会の頃は、靴下づくりは依然として手作業によってなされていた。1846年以降、様々な種類の機械が導入された。いまではそれらは蒸気によって動かされる。男女の3歳以上のあらゆる年令の、靴下づくりに雇用された労働者の総数は、1862年 英国で約129,000人であった。これらのうちのわずか4,063人が、1862年2月11日の議会公式報告書によれば、工場法の下で働いていた。

  (8) まさにこの工場法が、婦人たち、若者たち、子供たちが働くあらゆる工業に適用されることになって、この自然発生的に起ったかの様な工業革命は、人為的に助長されるところとなった。労働日の強制的な規制、その長さ、休息、始業と終業、子供たちのリレーシステムの廃止、一定年令以下の子供たちの就業禁止、等々は、一方では機械のより以上の利用を余儀なくし、*197

  本文注: *197 一例を挙げれば、製陶業、グラスゴーのコクレン諸氏らの英国陶器製造所はこう報告する。「量を維持して行くためには不熟練労働者が使用する機械利用を拡大することにした。そして古い方法によるよりもより多くの量を生産することができると日々確信するところである。」(「事実に関する査察報告書 1865年 10月31日」13ページ) 「事実、結果として、工場法は一層、機械導入を強いることになった。」(前出 13-14ページ)

  (本文に戻る) そして、筋力に対して、原動力として蒸気が取って替る。*198

  本文注: *198 かくてこのように、製陶業への工場法施行後は、多くの手ろくろ作業場に機械ろくろが増加した。

  (本文に戻る) そして、一方で機械利用が進められ、他方では、時間のロスを補うために、一般的生産手段である、炉、建物等、の拡大が生じる。一言で云えば、生産手段の一層の集中化とそれに対応する労働者一層の集合となる。工場法に脅かされるそれぞれの工場手工業者の、利益を守ろうとして喘ぎ、繰り返し、激しく主張する反対の主な点は、事実こうである。つまりは、以前の規模の商売を続けるためには、より大きな資本の支出が必要になるであろうと云う事である。さて労働に関して云えば、工場手工業(頭文字が大文字)といわゆる家内工業及びその中間的な労働形式の間に関しては、労働日や児童雇用の制限が決まるやいなや、それらの中間形式は壁にぶつかる。安価極まる労働力の無制限な搾取が彼等の力を完結させる唯一の基礎なのだから。

  (9) 工場システムの存在のための一つの必須の条件は、労働日の長さがまさに決まった時に、結果として確実となったことは以下のことである。すなわち、与えられた時間で、与えられた量の商品、または与えられた有益なる結果の生産であると。そしてそれ以上に、労働日内における法的な休止が、定期的かつ突然の作業の中断が生産過程にある品物に損害を与えないと云う前提を意味する。この結果としての確実性は、つまり作業中断によるこの可能性は、当然ながら、純機械的な工業においては、他の、化学的な、そして物理的な過程が主要であるところの、例えば、製陶業、漂白業、染色業、製パン業や多くの金属工業と較べれば、より容易に達成されよう。労働日の長さの制限がない世界なら、夜間作業が続けられ、人間の命の浪費に制限がない世界なら、どこであれ、作業の性質(the nature of the work) から生じるその内容をより良いものにしようとするほんの僅かな試みも直ちに大自然(頭文字が大文字のNature この二つのnature について訳者余談で触れる)によって築き上げられたものに対する永久的な障壁と見なされる。工場法がこのような永久的障壁を取り除くが、これ以上に確実に害虫を殺す毒薬はない。製陶業者連中ほど「不可能」と大きく怒鳴った人はいない。とはいえ、1864年、彼等も法の下に置かれ、16ヶ月のうちにはあらゆる「不可能」は消滅した。  

 


  訳者余談: 工場法は、労働者と資本の闘いの中から生まれた。当然当時の英国議会の怒号の中から生まれた。英国議会や政府がいかなるものであろうと、結果として、工場法を制定したのである。そして、実効あらしめた。改めて平成の日本国会・政府が労働者派遣法という安い賃金労働者を生み出し、労働者の生活を大きくゆがめた。労働者の自由な職業選択を可能とし、働く形式をより増やし、労働者の要望に答えたものと説明されるが、結果としては、非正規労働者、低賃金労働者、解雇の自由、不安定雇用労働者、生活困難労働者の大量生産となり、過労、鬱、自殺の大きな原因となっている。この近代英国と現代日本の議会の違いは一体どこにあるのか。云うまでもなく、我国の労働者の団結の低下、労働者の力を削ぐために資本が資本を大きく使ったこともあるが、日本に大きく欠けるものがある。工場がなくなったのである。元工場程度のものしかなくなった。工場法の下に置かれる存在の消失である。殆どの労働が、外国の労働者が外国で生産した商品をいかに売るかに用いられている。そのためのコンピュータ・プログラムづくり、宣伝、輸送、代金回収に配置され、工場外労働者であり、労働日の制限も、深夜作業制限も、労働災害対処の仕組みもなく、自由に働かされていると分かる。新たな法律も不要な大自然がそこにあるではないか。資本論を齧ったことがある人は少なくはないだろうが、この長い15章で、工場法をどう読んだかは知らないが、労働者派遣法を作り出した議員さん方は、資本の自由にどうして巻き込まれることになったかを、後々知ることになるであろう。工場法を資本が受け入れた理由を知れば、労働者も派遣法をいかにして受け入れたかにも思い及ぶことになろう。資本間の競争、労働力間の競争がいかなるものだったのかと。  

  訳者として訳に係わる余談を記すつもりが、議会が出てとたん後回しになってしまった。nature については、以前にも性質と自然という内容を表す文字としてとりあげたが、ここではさらに労働の本来の性質が資本家の指揮下で消えてしまうことを表す時の労働の性質と、中小資本家の喚く疑似的な自然という叫びとを表す文字として用いている。これだからマルクスは面白い。改めて、労働の性質がどう言うものなのか分かるところである。労働こそ社会の改革の起点になるし、自然に働き掛ける人間の労働こそ本来の労働であり、自然なのであることを確認させて呉れる。工場法こそ自然であり、人間の労働が見えているではないか。労働が価値(交換価値)でもあり、労働が単に有益なものを造るが、価値のない(自分にとっては使用価値があるが、交換価値がない)労働もまたそこにあることを再確認させて呉れる。資本家にとっては、交換価値がない労働は存在しない労働なのだが、人は労働によって、交換価値とは無関係に、有益なものを自然から獲得する。ブルジョワ経済学者やブルジョワ論理学者には、この価値が分からず、価値とは価格であるという一元的な定義や価値感から抜けられない。工場法でぶっとんだ大自然のように、人間労働法によって、その価値観もぶっとぶのはすぐ先のことである。向坂訳、「無制限な労働日、夜間労働、自由な人間濫費の慣行のもとでは、いかなる自然発生的障害も、ただちに生産の永久的「自然限界」とみなされる。」かなり強引な難解さである。多分、ドイツ語のNaturはドイツイデオロギー的難解さを幾重にも含んでいるのであろう。


  (10) 「陶器用粘土をつくる改良された方法」工場法によって呼び出されたその方法は、「蒸気に替わって、圧力によるもので、またその他、形づくったものを乾燥させるための新たな構造の竈等、製陶技術上の大いなる改良のそれぞれは、前世紀ではこれらに立ち打ちできなかったような進展が打ち出されている。竈の温度を相当に低くし、明らかに燃料を節約し、焼成前品への順応的効果もある。*199

  本文注: *199「事実に関する調査報告書 1865年10月31日」99ページ、127ページ

  (11) あらゆる想定 (prophecy(予言)でいいのだが、福島第一原発事故以後は、こう訳すのがふさわしいだろう。) にも係わず、陶器の値段は上がらなかったが、その量は増大した。その結果は、1865年12月までの12ヶ月の輸出の進捗に表れており、前3年の平均額よりも138,628英ポンド上回った。マッチ工場手工業では、少年たちが、彼等の食事を噛まずに飲み込む時間でさえ、マッチを溶けた燐に浸しに行かねばならないということが、絶対に欠かすことができないことと考えられていた。そこでは燐の有毒な蒸気が少年たちの顔に襲いかかる。工場法(1864年)は、必然的に時間の節約が図られており、その結果浸し機の導入が強いられ、労働者たちはその蒸気に接触せずに済むこととなった。*200

  本文注: *200 この機械の導入やその他の機械をマッチづくりに導入した結果、230人の若い労働者たちが14歳から17歳までの少年少女たち32人に置き換えられた。この労働の節約は、1865年、蒸気力の採用によって継続的に一層進められた。

 

  (本文に戻る) 同様のことではあるが、現時点では、未だに工場法の下に置かれていないレース編み工場手工業部門においては、食事時間を決めることができない状態に留まっている。レース乾燥の様々な工程がそれぞれ違った時間であるためである。その時間は3分から1時間そしてそれ以上と様々なのである。これについて児童雇用調査委員会委員はこう答えた。

  (12) 「この場合の事情は、正確に、我々が最初の報告書で取り上げた壁紙印刷業の事情と同じである。この商売のある主だった工場手工業主等は、使用材料の性質とか、彼等の様々な工程とかの状況があり、そのため、食事のためのいかなる与えられた時間であれ、重大なる損失なしには、作業を中止することはできない、と繰り返し喚いた。しかし、懸念されるような困難は、当然とるべき見直しや事前の準備等によって克服されるであろうことは証拠から云っても明らかであろう。今国会開会期間中に可決された工場法付帯法第六節第六条に従って、この付帯法が可決されてから、工場法で決められた、食事時間の確定を求められるまでに、18ヶ月の期間が与えられた。」*201

  本文注: *201「児童雇用調査委員会 第二次報告書 1864年」ページ ix ノート50

  (13) 工場法が議会を通過するかしないかという時期に、我が友、工場手工業主等は以下のことを見出していた。

  (14) 「工場法の我が工場手工業部門への施行で生じると思われた不都合は、こう言えるのは幸いだが、起こらなかった。我々は生産において、問題になることは何も見当たらなかった。あっと云う間に、同じ時間で今まで以上を生産した。*202

  本文注: *202「事実に関する調査報告書 1865年 10月31日」22ページ

  (15) 英国立法府は、経験によって、単純な強制法が、労働日の縛りと規定に対する工程上の性質による反対、云うところの障害物を取り去るに十分足りると結論を出していたのである。誰もこの天才的なやや過激な先取りを非難しようとは思わないだろう。かくて、工場法導入に際しては、工場法の執行のための技術的な障害を除去する義務をはたすために工場手工業主等には6ヶ月から18ヶ月の様々な期間がそれなりの産業に応じて与えられた。ミラボーの言葉「不可能! そんなことを云うなんて、むしろ感謝すべきものを! 」(フランス語) こそ、近代技術には特に適切なものと言える。とはいえ、このような経過を経て、工場法はかくて、工場手工業システムを工場システムに転換するに必要な物質的要素を人工的に熟成したのであり、またさらに同時に、より大きな資本の支出を迫られるという必須の条件から、小さな事業主の没落を急がせることにおいて、まさに資本の集中化を促進するのである。*203

  本文注: *203「しかし、はっきり云って、それらの改良は、大きく実行できる事業者は僅かに限られ、一般的な事業主にとってはとてもできはしない。多くの古くからの工場手工業主にとっては現に抱えている多くの生産手段全額を越える投資なくしては、それらを持ち込むことはできはしない。」「だから、私は、」と調査官補であるメイは、こう書いている。「この様な方法の、(工場法及び工場法付帯法のごときものを) 導入にあたっての不可避な一時的な混乱だとしても、喜ぶことはできない。そしてまさにそうなのだが、対処しようとした問題そのものになっている。(事実に関する調査報告書 1865年10月31日 ) (訳者小余談: メイ氏は工場法の化けの皮をめくって見ているのである。早くもこの展開とは。さて、言わずもがなだが、向坂訳か弟子訳かは知らないが、この注の岩波本の訳は役にも立たない。「この混乱の程度は、除去されるべき不都合の大きさに正比例する」では何も見えてこないどころではない不都合さである。)

  (16) 技術的な方法によって除去できる純粋に技術的な障害はそれなりに解決できるが、労働者自身のへんてこな習慣が、労働時間の規則を妨げる。このことは、特に、出来高払い賃金が支配的なところに見られる。そこでは、日または週の一部で失った時間のロスを、その後の超過時間とか夜間労働で埋め合わせる。その工程が成人男性労働者をして残酷なる野獣に化す。そして彼の妻や子供たちの命をすり減らす。*204  

  本文注: *204 例えば溶鉱炉の場合、「週末に向かう時期は一般に仕事時間が長くなる、それは月曜日と時々は火曜日の一部またはその全体も同じ様に、仕事をしないという労働者の習慣の結果である。」(「児童雇用調査委員会 第三次報告書」 ページvi) 「小親方らは大抵、時間を不規則に使う。彼等は二三日を無駄にしてから、徹夜でそれを取り返す。もし彼等が自分の子供たちを持っていたら、常にそう使う。」(前出 ページvii.) 「仕事が生じる規則性の欠如を長時間労働でなんとかすると云う可能性とその実行がこれらの不規則性をさらに助長する。」(前出 ページxviii) 「バーミンガムでは、…. 莫大な量の時間の損失…. 仕事をしない時間、それ以外の奴隷的時間」(前出 ページxi)  

  (本文に戻る) この労働力の支出にかかる規則性の不在は、単調なきつい仕事の倦怠からくる自然かつ粗暴な反作用であるばかりではなく、それはまた、生産の無秩序に大きく起因している。その無政府的な状況とは、資本家による労働力の搾取のし放題という前提条件ゆえの無政府性から生じている。一般的には、定期的な産業サイクルの変化、そして特に各産業が対処する市場の特別な変動、我々はそれを「季節」として認識できるのだが、航海のための年に於ける定期的な適切な季節や、または流行といったものに依存する。これとは別に、最小限の時間でなんとかしなければならない突然の大きな注文がある。このような降って湧くような注文の習慣は鉄道と電信の広がりに応じてより頻繁になってきた。

  (17) 「国中に張りめぐらされた鉄道の広がりは、短期日の注文を出すのを少しも躊躇させなくなった。買い手達は、グラスゴー、マンチェスターそしてエジンバラから二週間毎にやって来るか、または我々が供給している市の卸売店の倉庫に行く。だがいつも彼等がやっていたように在庫品を買うのではなく、小さな注文を出し、直ぐに造れと要求する。以前我々は、いつも売れ行きが鈍る時期でも働くことができるようにと、次のシーズンの需要に備えているのだが、今や先の需要がどうなるのか事前に誰も云うことができない。」*205

  本文注: *205 「児童雇用調査委員会 第四次報告書」ベージxxxii 「鉄道システムの拡大は突然的な注文の習慣に大きく貢献したと言われる。そしてその結果として、大急ぎとなり、食事時間の無視や労働者の時間外労働となる。」(前出 ページ xxxi)

  (18) 依然として工場法に服属しない工場や工場手工業においては、季節(訳者注: 繁忙期)と呼ばれる期間中は、突然の注文がやってくるため、最も恐るべき過重労働が頻繁に襲いかかる。工場、工場手工業、卸問屋の外には、いわゆる家内工業労働者たちがいて、かれらの仕事は最も不規則極まりなく、全くのところ、彼等の原料や資本家の気まぐれな注文に依存している。この家内工業に関しては、資本家は、建物や機械の償却を心配することもないし、仕事が無くなるリスクも考えなくていいし、ただ彼自身が身に被った皮膚とも云うべき金儲け略奪仕事以外はなにも気にしない。かくして、彼は、彼自身をもって、何かの時に使える産業予備力を作るために組織的に例の仕事をする。年のある時期、彼はこの産業予備力を最も非人間的な労苦で殺傷し、それ以外の時期では、仕事飢餓に喘がせる。




  訳者余談: 上記(18)の英文と、向坂訳について触れることにした。まずは英文である。In the outside department of the factory, of the manufactory, and of the warehouse, the so-called domestic workers, whose employment is at the best irregular, are entirely dependent for their raw material and their orders on the caprice of the capitalist, who, in this industry, is not hampered by any regard for depreciation of his buildings and machinery, and risks nothing by a stoppage of work, but the skin of the worker himself. Here then he sets himself systematically to work to form an industrial reserve force that shall be ready at a moment's notice; during one part of the year he decimates this force by the most inhuman toil, during the other part, he lets it starve for want of work. 長くて申し訳ないが、肝心のところは、 he と himself で、それが労働者なのか資本家なのかと云う点である。向坂訳は「資本家は、ここでは建物、機械等の利用法を顧慮する要なく、また労働者自身の皮膚以外には何物を賭することもないのであるが、この家内労働の領域では、いつでも使用されうる産業予備軍が極めて組織的に大量に培養され、一年のある期間は、もっとも非人間的な労働強制によって殺傷され、他の期間は仕事の欠乏によって廃物化される。」 皮膚以下労働者の有様と訳しているのである。労働者にそれほどの自己形成はできはしない話である。皮膚も以下も資本家のいつものきたない手法を書き示しているのが見えていない。たしかに訳の難しいところではあるが、労働者のDNA の薄さを感じる。資本家が労働者の皮膚を心配するかって。予備軍の皮膚など、どんなに被曝しようと、賃金や補償を減らす工夫だけの輩だぞって。


  (19) 「雇用者らはこの習慣的なる家内労働の不規則性に悪のりする。至急を要する臨時作業があれば、作業は午後11時、12時、午前2時までにも及ぶ。さらにいつもの決まり文句「全時間」にも及ぶ。」そしてその場所は、「悪臭 人を昏倒させるに足り、もしあなたがドアーのところに行き、それを開ければ、多分、それ以上は身震いするばかりで踏み込めない」ところ。*206

  本文注: *206 「児童雇用調査委員会 第四次報告書」ページxxxv ノート 235, 237

  (本文に戻る) 「彼等の頭の中はどうかしている。」と一人の証人、靴づくり職人が、主人らのことについてこう述べた。「彼等は、少年をして、年の半分を猛烈に働かせ、あとの半分を殆どぶらぶらさせても、なんの損傷も受けないと思っている。」*207

  本文注: *207 「児童雇用調査委員会 第四次報告書」127ページ ノート 56

  (20) 技術的な障害と同様に、それらの「商売の成長とともに成長したそのしきたり」もまた、以前も今も、依然として、利益追究ばっかりの資本家によって、仕事の正当なる性質にとって障害であると主張される。(訳者注: 色を変えた部分の英文は、usages である。これを好きなように注文を出す慣例と向坂訳のように訳してしまうと、慣例を作った資本家がその慣例を自ら仕事上の障害と認めるという自己矛盾に遭遇する。当然工場法のことと読まねばならないところである。)この文句は、当時、最初に工場法によって脅かされた綿君主らのお気に入りの叫びである。彼等の産業は他の産業よりも大きく航海に依存しており、すでに経験がそのうそをうそとしているのに、である。かくて以来、商売に関するあらゆる障害を工場査察官は単なる言いがかりとして取り扱っている。*208  

  本文注: *208 船便の調達が間に合わなかったための未就航で生じる商売上の損失については、私は、1832年と1833年の工場主らの愛玩したご議論を思い出す。このご議論についてはなんの進歩もない。蒸気が全ての距離を時間的に半減し、運搬に関する新たな調整法が確立される以前なら多少の力はあったろうが。当時ですら、そのことが調査された時に証明に失敗していた。改めて調査すべきとなれば、はっきりと失敗することになろう。(「事実に関する調査報告書1862年10月31日」54, 55ページ)  

  (本文に戻る) 児童雇用調査委員会の非常に良心的な調査によれば、労働時間規制によって、ある産業においては、以前に雇用された労働者の労働量に対しても全年間を通してより平均化される効果が広がったと証明されている。*208a

  本文注: *208a 「児童雇用調査委員会 第四次報告書」ページxviii, ノート 118

  (本文に戻る) そのことこそ、殺人的で無意味な気まぐれの習慣に対する最初の理性的な拘束であった。*208b

  本文注: *208b ジョン ベラーズは、はるか以前の1699年にこう述べている。「流行の不確実性が必然的貧困を増加させる。そこには二つの大きな災難がある。第一は、旅職人たちには冬場は仕事が無く悲惨である。呉服商や織物業主は春が来て、彼等が流行なるものがどうなるのかが分かるまでは旅職人たちを雇うために彼等の財を投じようとはしない。第二に、春ともなれば、旅職人たちでは不足となり、織物業主らは多くの未熟労働者を引っぱってこなければならない。王国の需要を四半期か半年で満たすそのような者をである。つまりは農民を狩り出す。農業地域の労働者は枯渇する。そうして都市には多くの乞食なる大きな貯留物を作り出す。そうして、冬には、物乞いを恥じる者の何人かを餓死させる。」(「貧困、工場手工業、その他に関する論考」9ページ)

  (本文に戻る) (訳者注: 報告書はさらに、以下のことも証明している。) 流行は近代工業システムにとっても非常に始末の悪い存在であったこと、大洋航海や通信手段の発達が一般的なものとなって、季節作業を実際に支えていた技術的な基礎を一掃したこと。*209

  本文注: *209「児童雇用調査委員会 第五次報告書」171ページ ノート 34

  (本文に戻る) (: 報告書の証明が続く。) そして、その他の全ての、いわゆる克服しがたい困難が、大きな建物、追加的な機械によって霧消したこと。労働者の雇用数が増大したこと。*210

  本文注: *210 ブラッドフォードのある輸出商会の証言は、次のようなものである。「これらの状況においては、少年たちが朝の8時から午後7時とか7時半まで、仕事を仕上げるために働かされる必要は全くない。それは単なる追加的な人手と追加的な支出の問題である。もしあるご主人がそれほどに強欲でなかったならば、少年たちが遅くまで働かないだろう。追加する一台の機械の価格は僅か16ないし18英ポンドである。そのような追加労働時間は機械の不足と空間の不足で生じている。」(「児童雇用調査委員会 第五次報告書」171ページ ノート 35, 36, 38)

  (本文に戻る) (: 報告書の証明が続く。) そして卸売り商売の対応様式上の諸々によって様々な措置変更がなされる。*211

  本文注: *211 ロンドンのある工場手工業主、彼は別の視点からこの労働時間規制の強制を、工場手工業主達に対する労働者たちの保護と見なしており、また卸売り商売に対する工場手工業主自身の保護とも見なしているのだが、こう述べる。「我々の商売上のプレッシャーは船便業者によって引き起こされる。彼等船便業者は、商品を帆船で与えられた季節に彼等の目的港に届くようにしたがる。つまりは、帆船と蒸気船の船賃の差額をポケットに入れたがる。あるいは、彼等の競争相手よりも早く外国市場に届けるために二つの蒸気船のうち出航の早い方を選ぶ。」

  (本文に戻る) (: 報告書の証明が続く。) とにかく、資本はそのような変化に甘んじるものではない。− そしてこのことを彼等の手の内の代表者を通じて繰り返し繰り返し認めさせる。− 但し、「議会の一般法の圧力のもと」*212 

  本文注: *212 「このことは、なんとかできるだろう。」と、ある工場手工業主は云う。「議会の一般法の圧力のもとで、工場拡大の支出によって。」(前出 ページx ノート38)

  (本文に戻る) (: 報告書は、こう述べている) 法の圧力のもとでのみ、彼等が、労働時間の強制的規制に、従うこと証明する。




[E. 近代工場手工業、近代家内工業の近代機械工業への移行
それらの産業に対する工場法適用によるこの変革の加速 終り]




[第八節 終り]

 




第九節 工場法 その衛生と教育条項
それらの英国全土への拡大



  (1) 工場に係る立法、それは、自生的に発展してきたかのような生産工程に対する、社会の、最初の、意識的・方法論的な反応で、我々が見て来たように、綿の紡ぎ糸、自動機械、そして電信のように、近代工業の必然的生産物と同じである。英国全土に広がったこの立法について考察する前に、我々は工場法に含まれた、労働時間とは関係がない、ある条項について簡単に触れて置くことにする。  

  (2) 法文の単語が、資本家が簡単にその法の網をくぐり抜けうるものであることは言わずもがなであるが、その点を脇に置いたとしても、衛生条項は極めて貧弱なものである。事実、壁を白く塗ることとか、ある物を清潔にしておくこととか、換気とか、危険な機械からの保護といった項目に限られる。労働者の手足を保護するための装備に関する僅かな支出を工場主に課している条例に対しての彼等の気が狂ったような反対、自由商売原理主義への幼稚で際立って狭い見解からの反対、 ( 訳者注:.英文はこうなっている。an opposition that throws a fresh and glaring light on the Free-trade dogma, 向坂訳は、「自由貿易論の信条は、ここにも輝かしく現れている。」 我ながら訳もまた楽しである。) そこには、利害の衝突が伴う社会では、他でもなく、各個人はただ自分自身の個人的利益を追究することによってのみ必然的に共通の福得を増大する! という論法からの反対である。この反対については、我々は第三巻で改めて取り上げることにする。  




  訳者余談: を挿む。印刷会社の労働者が胆管がんを発症して若くして死亡した。というニュースが報道された。原因は有機溶剤である1.2ジクロロプロパンと特定された。シンナーとかトリクロロエチレンとかの有機溶剤を使用する職場では、労働安全衛生法による規制が課されている。環境計量士の国家試験には当然ながら当該安全衛生法に関する問題群に解答し、これらの問題に関しても、平均点以上を取らねばこの資格は得られない。特に法律問題はほぼ100点満点を取らねばならない。法律を読めば、誰でも分かる正しい答えが書いてあるわけで、平均点はほぼ100点だからである。大抵は、有機溶剤を使用する職場では、衛生管理者が配置され、年に何回かは労働環境の測定を環境計量士に依頼するはずである。結果として環境計量士はこの事件を防ぐことができなかったことになる。私は、環境計量士の資格を持っている。余談の余談だが、この環境計量士の国家試験は、誰でも受験できる。そして一問について6個の文章が書かれており、そのうちの正解一つに○を付ければいいので、○さえ書ければ解答が成立する。文章が分からなくても、解答はできる。だが、余程の偶然でもなければ、合格はしない。問題数も半端じゃない。それに全科目が平均点以上でなければ合格できない。弱点科目があれば、それだけで不合格になるはずである。この合格率は8%程度なのである。資格を得れば、若干 給料は高くはなるが、実際にはそれを支払う会社は少なく、また会社で1名居ればいいので、その他組ではどうということもない。資本主義社会の会社勤務は知れたものである。つまりは、環境計量士という産物は、資本主義社会の道具であって、独立してもいないし、時に資格剥奪という制裁の文字もあるが、それで失うものも若干につきる。単なる労働者に戻るだけのことであって、僅かな損失しかないはずである。胆管がんを防止できるものではない。マルクスが記述しているところから大した進歩はないのである。測定はできる。報告書は書ける。それ以上の主張はできない。相手は読むかも知れないし、質問するかもしれないし、対応についても問うてくるかもしれないが、個人の自由の資本家が、己の自由な判断で無視するだけである。労災補償をいかに小さくするかが政府の仕事になるだけである。なにがあろうと、他のことは放って、彼等は、もっと自由と減税を、さすれば、雇用が増えると呪文を唱える。政府は資本家減税と消費税を唱える。なんとかとの一体改革とか云う。これを政治改革と云ったりする。労働安全衛生法の貧弱さは現実のことなのである。派遣社員とか非正規とかの労働者はこの法律の範囲にも入らない。こんな自由は滅多にない。資本家だけの物である。資本家の手の内の政府がそれを守る。法も環境計量士国家試験の問題も国が作り採点する。骸化法、骸化資格の羅列という華々しき儀式。君が代の口パク実技はないが、そのうち入るかも。余計なことも書いたが、「今も貧弱」は理解できただろう。


  (本文に戻る) 一例で足りよう。読者諸君は、ここ20年の間にアイルランドで、亜麻産業が非常に増加し、また亜麻打ち工場も相当数に増えた。1864年ではそこに1,800ヶ所のこの種の工場があった。いつも秋・冬になると機械に全く無縁な階級の人々が、婦人たち、「若い人たち」、近隣の小作人たちの妻たち、息子たち、娘たちが、畑仕事から亜麻打ち工場のローラーに亜麻を噛ませる仕事に連れ込まれる。事故、それは数においても、種類においても、全く機械の歴史上に前例がない程であった。コーク近傍のキルディナンにある亜麻打ち工場では、1852年から1856年の間に、6件の死亡事故と60件の手足を失うような重傷事故が発生した。そのいずれも、簡単そのものの、2、3シリングの器具によって防ぐことができたであろうものだった。W. ホワイト博士、ダウンパトリックにある工場群の公認外科医は、1865年12月15日の彼の公式報告書で次のように記している。

  (3) 「亜麻打ち工場での重大事故は、最も恐るべき性質のものである。多くの場合、四肢の一本が胴体からちぎり取られる。そして死亡か、不具と苦痛の将来かが待っている。この国の工場の増加は、当然ながら、このようなひどい結果を拡大する。そして、法の下に置かれることになれば、その恩恵は大きいであろう。私は、亜麻打ち工場に対する適正な監視がなされることによって、生命の損失や不具と云う大きな犠牲は避けられるものと確信している。」*213

  本文注: *213 前出 ページ xv ノート72 以下。

  (4)  清潔と健康を維持するための最も簡単な器具のために、議会の法律をもって、それを強制しなければならないということほど、資本主義的生産様式の性格を明確に示すものが他に何かあるか? (余談を追加する) 製陶業においては、1864年の工場法が、「200工場以上を白塗りにして清浄なものとした。多くの場合、何とかして、全く、20年間 このような清浄化を節制した後のことであった。」(これが 資本家の「節制」なるものである! ) そこには、27,800人の職人が雇用されており、これまで、長引かされた昼間の労働とたびたびの夜間労働を通して有害な空気を呼吸させる。他と比較すれば無害な仕事と見られていた場に、病気と死を孕ませた。法は換気装置を驚くほど改良した。」*214

  本文注: *214 「事実に関する調査報告書 1865年10月31日」127ページ




  訳者余談: 余談続きで申し訳ないが、英文はこう云っている。What could possibly show better the character of the capitalist mode of production, than the necessity that exists for forcing upon it, by Acts of Parliament, the simplest appliances for maintaining cleanliness and health? ホームレスで、所持金13円の若者を、寮と食事が付いている仕事があるとして、ハローワークが、ある建築現場に紹介した。若者は生活が多少は成り立つとほっとしたのだが、直ぐに、大きな借金が若者に降りかかった。作業服、作業靴、帽子、等々が支給されたが、それは有料で、しかも街で買えばその半値近くで買える程度のものであった。安全靴と称されたものは、2日で底がはがれ、踵もすり切れてしまう程度のものであった。マルクスも範疇と云う前に、当時から見て、資本主義的生産様式の大きな発展に仰天することだろう。若者は職場を逃げ出せない。また買わされ借金が上乗せされたからである。逃走用の衣服もない。ハローグルに嵌められた。法はグルのグルみたいなもんになった。どうだ、マルクス、他にもあるだろうって。ハローグルは二度とこの若者にハローとは言わない。でも次を読むと、もっと見事な指摘に肝を潰すだろう。


 

  (5) 法のこの部分は、同時に、資本主義的生産様式を、その根源的性質から、ある一点を越えるあらゆる合理的な改良を排除することをもってはっきりと示す。英国の医師達は、繰り返し繰り返し、全員が、継続的に作業する場所では、一人当たり500立方フィートが最低限の空間であると断言している。さて、もし工場法が、その強制的な条項をもって、間接的に小さな作業所を工場へと変換を急ぐならば、すなわち、間接的に小資本家の財産権を攻撃し、大資本家の独占を保証するならば、そのように、あらゆる作業場で各労働者に適切なる空間を与えるように義務づけられるとすれば、数千の小雇用者等はたちまち一挙に財産を収奪されるであろう! まさにここは、資本の大小に関係なく、資本主義的生産様式の根源とも云うべき、「自由な」労働力の買いと消費による資本の自己拡大そのものが攻撃されることになるであろう。工場法は、故に、これらの500立方フィートの呼吸スペースを前にして立ち往生する。衛生管理官達、工業調査委員達、工場査察官達は、この500立方フィートの必要性と、資本のそれを縛ることの不可能性について幾度も口にする。彼等は、かくて、こう宣言する。労働者が被る消耗と疾患は資本の存在の必要条件である。と。*215

  本文注: *215 健康な平均的個人の普通の強さの一呼吸では、約25立方インチの空気が消費される。そして1分間に約20回の呼吸がなされる。これは実験によってはっきりした。従って、各個人は24時間では、720,000立方インチ、または416立方フィートの空気が肺に入る。云うまでもないだろうが、一度呼吸された空気は、大自然なる偉大なる作業場で清浄化されないうちは、同じプロセスにはもはや使えはしない。バレンタインとブルンナーの実験によれば、健康な一人の成人は、1時間当たり1,300立方インチの炭酸ガスを吐き出す。これは24時間で肺から吐き出される炭酸ガスが固形炭素換算で約8オンスとなる。「全ての人間は少なくとも800立方フィートを確保していなければならない。」(ハクスレー)

  (6) 工場法の教育条項として示されたものは全体の中では僅かなものであるが、ともかく、初等教育は児童雇用の分かちがたい条件であると宣言している。*216  

  本文注: *216 英国工場法に従って、両親は彼等の14歳未満の子供たちを、この法の支配の下にある工場に送りこむことはできない。但し例外として、法は、同時に、両親は、子供たちが初等教育を受けるためならば、そこに、送り出すことができるとしている。工場手工業主は法を応諾するにあたっては責任をもつ必要がある。「工場教育は必須である。であるから、労働の一条件となる。」(「事実に関する調査報告書 1865年10月31日」111ページ)  

  (本文に戻る) それらの条項は、初めて、教育と体育を*217

  本文注: *217 強制的な、工場児童及び貧困学生の教育に、体育(少年の場合は教練が加わる)を組み合わせることの非常に有益な結果については、第七回「全国社会科学推進協会」年定例会議での、N. W. ショーニアの演説を見よ。「議事 その他の報告」ロンドン 1863年 63、64ベージ。また、「事実に関する調査報告書 1865年10月31日」 118、119、120、126ページ以下

  (本文に戻る) 手作業と組み合わせることの成果を証明した。かくて、その結果として、手作業に教育と体育を組み合わせることの成果をも証明した。工場査察官達は直ぐに学校教師に質問することで、以下のことを見出した。すなわち、工場児童は普通の全日生徒のわずか半分の教育しか受けていないにも係わず、同じ程度か、時にはより以上に学んでいた。と 云うこと見出した。

  (7) 「このことは、半日しか学校にいない生徒は常に新鮮で、また常に授業を受ける用意ができていて、その意志も強い、と云う簡単な事実によるものと思われる。このシステムでは、半日を手作業で、半日を学校でとなるが、それぞれの活動が他方の休息と気晴らしになっており、その結果として、この二つの組み合わせが子供たちにとって非常に快適で、常に一ヶ所に置かれっぱなしの子供たちよりも良い結果を生むということである。午前中通して学校にいる少年は、(特に暑い日の場合は)仕事をしてからやってくる新鮮で快活な少年たちに、対等に競争して勝つことができない。」*218

  本文注: *218 「事実に関する調査報告書 1865年10月31日」118ページ ある絹工場手工業主は児童雇用調査委員会に、無邪気にも次のように語った。「労働者の生産効率の真の秘密は、子供の頃からの教育と労働の結合に見出されるものとしっかり確認している。勿論 仕事は余りに厳しかったり、うんざりのものだったり、健康によくないものであってはならない。だが、結合の利点については疑いがない。私は、自分の子共たちが、彼等の学校にバラエティを与える遊びと同様に仕事が多少でもできれば良いと思う。」(「児童雇用調査委員会 第五次報告書 82ページ ノート 36)

  (8)  この点に関するうんざりな話は、1863年 エジンバラで開催された社会科学会議のシーニョアの演説に見出されよう。そこで彼は、とりわけ、上級中級クラスの児童の単調で無益な長い学校の時間が、どれほど、教師の労働に無益なものを加えているかを説明する。「教師には何のやりがいもないばかりでなく、子供たちの時間、健康、そして活気を奪う、絶対的な害悪ですらある。」*219

  本文注: *219 シーニョア 前出66ページ ある程度の確かなレベルに到達した時点で、近代工業が、その生産様式や社会的生産条件への革命的な影響において、さらにまた人間の心への革命的な影響において、どの程度のことができたのかは、シーニョアの1863年の演説、彼の1833年の工場法に対する反対の攻撃的な演説、またさらに工場法に関する会議での論文から見ても、また英国のある農村地区では、貧乏人が、彼等の子供たちに教育を与えることを、飢餓死の罰を与えるぞと嚇して、禁じた事実から見ても、驚くべきものであると分かる。以下の様に、すなわち、スネール氏はその様なことを報告している。サマセットシャーで起こったことは全く普通のことで、貧乏人が地区行政に救済を求めると、彼は彼の子供たちの退学を強要される。フェルザムの牧師 ウッラートンもまた、次のようなケースについて話している。あらゆる救済がある多数の家族に対して拒否された。「なぜならば、彼等は彼等の子供たちを学校に送っていたから!」

  (本文に戻る) ロバート オーエンが、詳細にわたって我々に示したように、未来の教育の萌芽はこの工場システム ( 訳者注: .云うまでもないことだが、この工場システムは、工場法のそれである。)から発芽した。教育とは、あらゆる子供のあらゆる与えられた年令に応じて、生産的労働に学習と体育とが組み合わされたものであろう。単に生産の効率を増大させる一方法のみではなく、全面的に発達した人間を作り出す唯一の方法であると。( 訳者小余談: 私は、ここの英文が大いに気に入っている。生産的労働、全面的に発達した人間、あらゆる子供のあらゆる与えられた年令に応じて、等の語句はこの歳になった子供に帰って、それらの教育を受けたいと思うことしきりである。From the Factory system budded, as Robert Owen has shown us in detail, the germ of the education of the future, an education that will, in the case of every child over a given age, combine productive labour with instruction and gymnastics, not only as one of the methods of adding to the efficiency of production, but as the only method of producing fully developed human beings.)

  (9) 我々が見てきたように、近代工業は、それぞれの人間が、一つの細目作業に手足を生涯にわたって縛りつけられる工場手工業の分業を技術的手段によって一掃する。と同時に、その近代工業の資本主義的形式が、より以上に怪獣のような体型でこの同じ分業を再生産する。その近代工業の工場では、人を機械の生きた付属部品に改造することによって、そしてそれらの工場(頭文字が大文字)以外の様々な工場での、その一つは、機械と機械労働者の勝手極まる使い方によって、*220

  本文注: *220 人によって可動されるあらゆる手工芸的機械は、直接的に、または間接的に、機械力によって可動するより発展した機械と競合する。機械を可動する労働者には大きな変化が出現する。最初は蒸気機関がこの労働に取って代ったが、その後、彼がその蒸気機関に取って代らねばならなかった。その結果、その強度と労働力の量は、とんでもない大きなものとなった。そして特に、この労苦に運命づけられた子供たちの場合は云うまでもなかろう。このことを、児童雇用調査委員の一人であるロング氏は、コベントリーとその周辺の10歳から15歳の少年たちがリボン編み機を動かす仕事に使われていることを見つけた。比較的小さな機械を動かさねばならなかった年少の子供たちのことについては触れないが、「それは普通ではあり得ないくらい疲れる仕事である。その少年はまさに、蒸気力の代理以外のなにものでもない。」(「児童雇用調査委員会 第五次報告書 1866年」114ページ ノート6 ) この絶望的な「現奴隷システム」の経過については、この本の114ページ以下を見よ。

  (本文に戻る)また他の一つは、新たな基盤、婦人たち、子供たち、そして安い未熟労働者の全般的な導入の上に、分業を再建することによって、特殊な分業を再生産する。

  (10) 工場手工業の分業と近代工業の方法との両者の極端な違いが、いよいよはっきり分かるようになる。その違いを、他でもなく、それ自体の、次のような驚くべき事実によって証明する。近代工業や近代工場手工業に雇用される多くの子供たちは、早くから最も簡単な操作にリベットを打ち込むように嵌め込まれる。そして何年も搾取される。そこでは、仕事に関しては、彼等が将来同じ手工業工場や工場の仕事の役に立つであろうことすらなにも教えられることがない。例えば、英国凸版印刷商売を見れば、昔はシステムが存在した。現在のそれに匹敵する古き工場手工業や手工業では、見習い工が簡単な仕事から相当難しい仕事に進ませるシステムがあった。彼等はその教育コースを経て、印刷工として一人前になった。読み書きができるようになることは彼等の商売の要求でもあった。これとは違って、11歳から17歳の多くの少年たちは単一なビジネスに付く。紙を印刷機械の下に拡げて置くか、印刷された紙を取り出すかである。彼等はこの単調な作業を行う。ロンドンでは、日 14時間、15時間、そして16時間一杯、週5日から6日、時には36時間、それもたった2時間の食事と仮眠で。*221  

  本文注: *221前出 3ページ ノート24  

  (本文に戻る) 彼等の大部分は、文盲で、大抵は、全く粗暴で、実に異常な生き物となる。

  (11) 彼等がしなければならない仕事に彼等自らを適応させるには、彼等として何の知的訓練の必要もない。技能の余地も殆どない。判断することもない。彼等の賃金は、少年としては多少高いが、彼等が成長するに応じてのそれに見合う昇給もない。そして、彼等の大部分は、より良い給料や機械専任工というより責任のある地位への昇進を望むこともできはしない。なぜならば、各機械にわずか一人の専任工がいる一方で、その機械には少なくとも2名、大抵は4名の少年たちが張り付けられているからである。*222

  本文注: *222前出 7ページ ノート60

  (12) そのような子供の仕事には歳を取り過ぎるやいなや、それは17歳になるやいなやのことであるが、この印刷会社から解雇される。彼等は犯罪新兵になる。彼等をいずれかの雇用にと斡旋するいくつかの試みは、全くのところ、彼等の無知と粗暴により、また彼等の精神的及び肉体的な退廃のため何の役にも立てられなかった。

  (13) 工場手工業の工場内部における分業は、社会内部の分業と同じである。手工業や工場手工業が社会的生産の一般的な基礎を形成している限りでは、生産者が排他的に一つの部門を支配することや、彼の種々にわたる雇用の細分化は、*223

  本文注: *223「スコットランド高地のある地方では、何年も昔のことではなく、統計報告書によれば、全ての百姓は自分自身の革靴を自分でなめして作った。多くの羊飼いと小屋住農夫もまた、彼の妻や子供たちを連れて教会に現われる時の、その衣服は、他の手で作られたものではなく、自分の手で作ったものである。それらの衣服は、羊から刈り取られたものや、亜麻畑に撒いた種から作られている。これらを用意するに当たっては、僅かなほんの簡単なものが買われる以外には何も追加されない。その例外的なものとは、穴あけ錐、針、指貫、そして織りに使うほんのいくつかの鉄製部品だけ。染料、黒染め剤 (訳者注: 英文ではtoci この単語の訳は分からない。媒染剤とか助染剤とか漂白とかなめしとかいろいろと想定される。が、仮の訳としてこれを置く。) は主に、女性たちによって木、低木、ハーブなとから抽出された。」( デュガルド スチュワート「著作集」ハミルトン編 第8巻 327,328ページ)

  (本文に戻る) ( 本文途中の注だったため、以下括弧内 訳者追加: 生産者が排他的に一つの部門を支配することや、彼の種々にわたる雇用の細分化は、) 発展における必要なステップである。そのような基礎の上で、各分断された生産部門は、それに適する技術的な形式を経験から修得する。ゆっくりと完全化する。そしてある与えられた成熟度に達するやいなや、その形式を結晶化する。時々そこに変化をもたらすものは、市場で供給される原材料によるもの以外は、唯一つ、労働手段の漸進的な更新のみである。とはいえ、それらの形式は、ひとたび経験によって絶対的なものとして固定されれば、それらが一つの世代からさらに千年も続けて同じ形式で、多くの場合で、人の手を通じて伝えられることで証明されたように、ちょっとやそっとのものではない強固なものとなる。その特有なる特徴は、18世紀に入ってさえ、その特異な商売は「秘伝」(秘儀)(フランス語)と呼ばれた。*224

  本文注: *224 エティエンヌ ボワローの著名な「手工芸の奥義」(フランス語) の中に、我々は次のように記述されていることを見つける。すなわち旅職人は親方たちの門下として認められるにあたって、こう誓わねばならない。「彼の仲間を兄弟愛をもって愛し、彼等のそれぞれの商売とともに彼等を支え、商売の秘密を故意に洩らさず、そして、その上、全ての者の利益のために、買い手に、他の者が作った物を悪く云って注意を引きつけ、彼自身の物を、推奨するようなことはしない。」

  (本文に戻る) 彼等の秘密の内部には、正式に加入を許された者を除いては誰も入ることができない。近代工業は、彼等自身の社会的生産過程を、その過程が様々に自然発生的に生産部門を分け、多くの謎にしていて、外部に対してのみでなく、正式な職人にとってすらも謎としていたものを、人々の目から隠していたものを、そのベールを切り裂いた。その原理が、各過程を動きの構成要素に分解し、それらが人の手によって実行できるかどうかについては一切考慮せず、新しく、技術に関する近代科学を創造した。種々雑多で、明らかになんの連携もなく、固まった工業過程の形式が、今、それらを、与えられた有益な効果の達成のために、多くの意識的かつ系統立った自然科学の活用へと分解された。科学技術は、また、かって使われていた多種多様な道具にも係わず、人間の体のあらゆる生産的活動で必然的に用いられているいくつかの主な基本的な動きを発見した。それはあたかも機械科学が最も複雑な機械を、他でもなく、単純な機械力の連続的繰り返しに他ならないと見破ったのと同じである。

  (14) 近代工業は、存在している過程形式を最終的なものとも見ていないし、そのようにも取り扱わない。従って、工業の技術的基礎は革命的であり、一方の初期の様式は、根本的に保守的である。*225

  本文注: *225「ブルジョワジーは、生産手段を絶えず革新し続けねば存在することができない。そしてそれゆえ、生産関係を、そして全ての社会関係を改革し続けねば存在することができない。これとは逆に、古き生産様式の、不変の形式の維持は全ての前期の諸産業階級にとっては第一の存在条件であった。生産の絶えざる変革、全ての社会的条件の防ぐことができない混乱、永遠の不安定さと騒動、これらがあらゆる以前の時代から ブルジョワ時代を識別する。固定化した、硬く氷ついた関係、彼等の古き昔の連鎖、古びた偏見と信念は掃き捨てられ、全ての新しく形式化されたものも、それが硬直化する前に時代遅れとされる。あらゆる固形物は空気に溶け、ありとあらゆる神聖なるものは異端とされ、そして遂に人間は、彼の現実の生活条件や、彼の仲間との関係をありのままに受け入れることを強いられる。」(F. エンゲルス と Karl マルクス 「共産党宣言」ロンドン 1848年 5ページ)

  (本文に戻る) 近代工業は、機械、化学的プロセス、その他の方法によって、絶え間なく、生産の技術的な基礎にばかりでなく、労働者の仕事にも、労働過程の社会的な構成にも変化を引き起こす。(訳者注: 色をつけた部分の英単語は、それぞれ、functions of the labourer social combinations of the labour-process である。労働者の機能、労働過程の社会的結合 とした向坂訳は正訳なのだが、敢えて簡単な日本語に置き換えた。以後の読みによって、この機能とか結合が持つ概念が要求されているのかもしれないので、メモを添えて置く。)それゆえ、同時に、社会内部の分業をも変革する。そして、絶え間なく、大量の資本と大量の労働者を一生産部門から他の生産部門へと送り出す。だが、近代工業が、その根源的な性格から、それゆえに、労働の変化、労働内容の流動性、(ここにも同じ英単語がある。fluency of function 向坂訳は、機能の流動) 労働者のどこへでもの移動性を必要としているはずなのに、他方で、その資本主義的形式では、それが、硬直化した特異性そのものの古い分業を再生産する。我々はすでに、この、近代工業の技術的な必要性と、その資本主義的形式の固有とも云うべき社会的な性格との間の絶対的矛盾が、どのように労働者の状態の安定と安心を吹き散すかを見てきた。どのように、それが、絶え間もなく、労働手段を奪い去り、彼の生活手段を彼の手から、ひったくろうと脅すのかを、 *226

  本文注: *226「命を取りあげるも同じことでございます。命をつなぐ財産を取り上げるとおっしゃるのですから。」シェークスピア

  (本文に戻る) そして、どのようにして、彼のちっぽけな仕事 (detail-function 部分機能) を廃止し、彼を無駄な存在とするのかを見て来た。我々は同様に、この対立関係がいかにして、その猛威をさらけ出して、とんでもないものを作り出してきたかも見て来た。産業予備軍しかり。資本の勝手な取捨のために作られた悲惨である。労働者階級の中からの絶え間なき人間御供、労働力の途方もない濫費、そして社会の無政府状態が作り出す荒廃はあらゆる経済的な進歩を社会的災難に変えてしまう。これらは ( 訳者の挿入: この対立関係の) 否定的な側面である。しかし、仮に一方で、現在の仕事の変化が圧倒的な自然法則のごとく立ち現れ、そして盲目的で破壊的な自然法則の作用を果たすとしても、あらゆる点で抵抗に、*227

  本文注: *227 サンフランシスコから帰る途中のあるフランス人労働者は、次のように書いている。「私は、カルフォルニアで雇われてやった様々な仕事ができる等とは思ってもいなかった。私は凸版印刷以外の仕事には適していないと固く信んじていた。.... この冒険者たちの世界に一度入れば、彼等はシャツを取り替えるのと同様に何回も彼等の仕事を変える。即ち、私もそう言った者たちと同じ様にした。鉱山の仕事の報酬が十分ではなかったので、そこを離れて街に出た。そこで、次々に、印刷技術者、スレート葺き、配管工他になった。この結果、私はあらゆる種類の仕事に適することを見出した。私は、軟体動物の一種とは少しも思わないが、人間なんだなと強く感じる。」(A. コルボン 「職業教育について」第二版 50ページ) (フランス語)

  (本文に戻る) 直面する。他方、近代工業は、その破壊的な作用を通じて、生産の基本的な法則として、仕事の変化を認識する必要性を知らしめる。その結果、労働者は様々な仕事の適応性を、その結果、彼の様々な適性をでき得る限り発展させることの必要性を知らしめる。このことが、この生産様式をこのような法則として当たり前のように作用させることが、社会にとっては生きるか死ぬかの問題となる。近代工業は、明らかに、死の刑罰をもって社会にかく強要する。今日の細目労働者を、一つのそしていつも変わらぬ取るに足らない作業のくりかえしに生涯をがんじがらめにされている労働者を、そして単なるどうでもいい人間にまで追いやられた労働者を、個人として完全に発達させられた者、労働の変化に適応した者、生産のいかなる変化にも対応するように準備できている者に置き換えるよう社会に迫る。そして、彼が行う異なった社会的機能を果たす者に置き換えるよう社会に迫る。だが、このことが彼自身の自然な能力、獲得した能力に、自由な視野を与えるまことに多くの様式なのである。( 訳者注: ここの向坂訳は、無限回挫折の最たる部分である。興味があれば比較されたい。)

  (15) この革命を効果的なものとしたのは、自発的に既に実行された一ステップ 技術学校、農業学校の設立である。この職業学校(フランス語) で、労働者たちの子供たちが労働の様々な用具の実用的な取り扱いとか、多少の技術とかの授業を受けることである。工場法は、資本からもぎ取った最初の僅かばかりの譲歩とはいえ、工場内の仕事に初歩的な教育を混ぜ合わせたものに限られるとはいえ、労働者階級が権力に参加したことには疑いがない。そしてそれは、避けようもなく、技術的な教育であり、理論的にも実際的にも労働者階級の学校として、将来、適切な位置を占めることになるに違いない。同時にまた、この革命的な酵素が、最終的に過去の分業を廃止するものが、生産の資本主義的形式に、そしてその形式に呼応する労働者たちが置かれた経済的状況に、真っ向から対立するものとなることも疑いようがない。ではあるとしても、この対立関係の歴史的発展、与えられた生産形式に内在するものこそ、そのような生産形式が解消されて、新たな生産形式を確立する唯一の道なのである。「基礎となる型を越えて何ものも縫い合わせるな」−(ラテン語) この他を寄せつけぬ上に極端とも云うべき手工業の智恵をば、時計屋のワットが蒸気機関を、床屋のアークライトが織機を、宝石工のフルトンが蒸気船を発明した瞬間から、完全にナンセンスなものとした。*228  

  本文注: *228 ジョン ベラーズ、政治経済学の歴史において特に非凡さを示した彼は、17世紀末にあって、最も明確に現在の教育システムと分業を廃止する必要性について述べた。それらがもたらす社会の両端に生じた二つの正反対の、肥大と衰退のゆえである。なかでも、彼はこう言った。「怠惰な勉強は怠惰を学ぶことと代わりはなく、.... 肉体労働は、神のいにしへからの教えである。....労働は、肉体的健康にとって適切なるもので、生きるために食事するのと同じである。安逸によって得たものを、人は病気の時に苦痛として見出す。労働は人生のランプにオイルを加える、丁度それに灯を点す様なもの。.... 子供じみた馬鹿げた仕事は、」(この言葉についての注意、これは彼の予感からの、俗悪なの人達に対して、また彼等の現代の模倣者に対しての言葉) 「子供たちの心をもバカにする。」(「全ての有益なる商売と倹約のための産業大学設立に係る提案」ロンドン 1696年 12, 14, 18ページ)  

  (16) 工場立法が工場、工場手工業、他の労働を規制する限りでは、それは単なる資本の搾取する権利の邪魔物としか見られなかった。が、それがいわゆる「家内労働」を規制するに及んで、*229

  本文注: *229 この種の労働は、多くは小さな仕事場で続けられており、我々がすでに見てきた、レース作りや、麦わら編みがあり、シェフィールドやバーミンガムの金属細工商売をより細かく見て行けば見ることができるであろう。

  (本文に戻る) 忽ち、祖国の権威 (ラテン語) への直接的な攻撃と見なされる。 つまり、親権への直接的な攻撃と。優しき心を持った英国会が、長い間、このステップに踏み出すのを躊躇していたものであった。しかしながら、事実の力はそれを強く押し進め、近代工業が、伝統的な家族が成り立っていた経済的基礎を覆すことによって、またそれに対応する家族労働をも覆すことによって、伝統的な家族の絆をもまた、解き崩すことを最終的に知らしめた。子供たちの権利は、かくて宣言されねばならないものとなった。1866年の児童雇用調査委員会の最終報告書は、以下のように述べている。

  (17) 「誠に不幸なことであるが、それもかなりの苦痛を伴うものであるが、証拠の全体を通して見て明らかなことは、男女の子供たちに保護が必要なのは、彼等の両親からに対してであって、他の誰からに対してでもない。」一般的に子供たちの労働の無制限の搾取シテスムと、とりわけ言えることであるが いわゆる家内労働システムは、「ただ一つ、両親は何のチェックも受けずに、彼等の若くもろい子孫たちに、この横暴で悪辣な力を振るうことができるが故に維持されている。…. 両親は彼等の子供たちを 「多くの週賃金を稼ぐための単なる機械」にする絶対的な権力を持つべきではない。…. 子供たちや若い人は、であるから、全てのこのようなケースにおいて、正当にこの立法の権利を要求することを、自然の権利として認められている。すなわち、彼等の肉体的な力を早々に損なうことや、彼等の知的な状態、道徳的状態を低下させられるようなことから、免れていることを、彼等のためにもしかと確保すべきである。」*230

  本文注: *230 「児童雇用調査委員会 第五次 報告書」 ページxxv ノート162、ページxxxviii ノート285, 289 ページxxv, xxvi.ノート. 191.

  (18) とはいえ、直接的であろうと間接的であろうと、子供たちの労働の資本主義的搾取を作り出したのは親の権利の誤用のゆえではない。そうではなくて、逆であって、親の権利の経済的基礎を一掃する搾取の資本主義的様式が、その権利のとんでもない誤用へとその行為をねじまげたのである。かように資本主義システム下における家庭の絆の分解が、恐ろしくかつ情けないものであるとも、それにも係わらず、近代工業は、生産過程における重要な役割を果たすがごとく、家庭領域の外で、女性たちを、若い人々を、そして男女の子供たちを仕事に就かせることによって、より高度な家庭の形式や男女の関係の形式のための新たな経済的基盤を作り出す。ゲルマン−キリスト教的な家族形式が絶対的、最終的なものであるとするのは、丁度、古代ローマとか、古代ギリシャとか古代東洋とかの、その上、歴史的発展の経過とともにある形式の特徴を現在に適用することと同様に、勿論のこと、馬鹿げている。さらに云えば、あらゆる年令の両性の個人で構成される協働作業グループは、適切な条件下で、必ず必要で、それが人間発展の源泉となるという事実は明白なのである。それが自然発生的に発展した、残酷な、資本主義的形式下で、そこでは労働者は生産過程のために存在し、労働者のための生産過程ではなく、事実上、堕落と奴隷と云う伝染病の生産過程となっているとしてもである。*231

  本文注: *231 「工場労働は家内労働と同様、純粋で卓越したものと言えよう。そして多分それ以上であると。」(事実に関する調査報告書 1865年10月31日 129へージ)

  (19) 機械紡績や機械織り−それらが最初の機械の創造物−に対する例外的な法から、社会的生産全体に及ぶ法への移行という、工場法の一般化への必要性は、我々が見てきた様に、近代工業が歴史的に発展させられたその様式から現われた。その産業の後尾でも、工場手工業の、手工業の、そして家内工業の伝統的な様式は完全に変革される。工場手工業は確実に工場システムに向かい、手工業は工場手工業へ、そして最後には、手工業や家内工業の領域も、比較して云えば、驚くべき短き時間のうちに、資本主義的搾取の最も野蛮で暴虐な自由競技が行われる悲惨な檻の中に移った。最終的に決定的なものとしたのは、二つの理由がある。その一つは、資本は、ある一つの点で、自分自身が法の支配に置かれることを知るやいなや、自分自身を他の点ではより勝手に補填するという悪癖をいつも繰り返すことであり、*232

  本文注: *232 「事実に関する調査報告書 1865年10月31日」27-32ページ

  (本文に戻る) その二番目は、競争条件の平等性を求める資本家らの嘆願である。即ち、労働の搾取の全てに関して平等性が保持されるべきと云う叫びである。*233

  本文注: *233 「事実に関する調査報告書」の中に、極めて多くの例が発見されるであろう。

  (本文に戻る) この点については、二つの、心臓も張り裂けんばかりの叫びに耳を傾けて見よう。ブリストルの釘と鎖他の工場手工業主ら、クックスリー旦那らの、彼等の工場への工場法の規制を自発的に受け入れた時の、叫びである。

  (20) 「古い反則的なシステムが近隣の工場では支配的なので、クックスリー旦那衆の会社は被害を被っている。彼等の少年たちは彼等の労働を午後6時以降、他でさらに続けるよう唆される。これは彼等はごく当たり前のようにこう言う。不正であり、我々にとっては損害である。少年の力の余分はそこで使い果たされる、それは我々が全部の利益を受け取る権利があるものなのだ。」*234

  本文注: *234 「児童雇用調査委員会 第五次報告書」ページx ノート35

  (21) J. シンプソン氏 ( 紙箱と紙袋のメーカー、ロンドン) は、児童雇用調査委員会の委員達の前で次のように述べる。  

  (22) 「彼は、それ(法的な干渉)に対するどのような嘆願書にも署名するであろう。… 何故かと云えば、彼は、夜中気持ちが休まらない、彼が彼の工場を閉めた後、残りの誰彼が彼よりも遅くまで仕事を続け、彼の注文を奪い去るかも知れないというわけで。」*235  

  本文注: *235 「児童雇用調査委員会 第五次報告書」ページix ノート28

  本文注: *229 この種の労働は、多くは小さな仕事場で続けられており、我々がすでに見てきた、レース作りや、麦わら編みがあり、シェフィールドやバーミンガムの金属細工商売をより細かく見て行けば見ることができるであろう。

  (23) 児童雇用調査委員会は、以下のように要約する。

  (24) 「大手の雇用主らにとっては、彼等の工場が法の支配下に置かれるべきものである一方で、彼等自身の商売部門でもある小さな作業所では労働時間がなんら法的制限を受けないというのは、不正なのであろう。それに、労働時間に関する不公平な競争条件から生じる不公平、小さな作業所の労働が除外されるならば、法から除外されたそのような場所に引き抜かれた年少労働者や婦人労働者を彼等のところにいかにして連れ戻すか、その方法を見出すことが困難と云う不利益が大手の工場手工業主らには加わると云うのであろう。さらに、こう云いたいのであろう。このような小さな作業場所の繁殖への刺激が賦与され、その小さな作業所群は、人々の健康、安楽、教育、そして一般的な改良にとっては、殆ど不変のもっとも好ましからざる場所であると。」*236

  本文注: *236 前出 ページxxv ノート165-167 大規模工業の、小規模工業との比較における 有利さについては、以下のところで見ることができる。「児童雇用調査委員会 第三次報告書」13ページ ノート144、25ページ ノート 121、26ページ ノート125、27ページ ノート140、等

  (25) 児童雇用調査委員会は、その最終報告書で、子供たち、若い人々、及び婦人の1,400,000人以上の人々を工場法の規制下に置くように提案している。これらの人々の約半分は小さな工業そしていわゆる家内工業において搾取されている。*237

  本文注: *237 法の下に置くようにと提案された商売は、次のものである。レースづくり、靴下編み、麦わら細工、衣服織り工場手工業とその数えきれない程の下部部門、造花づくり、靴づくり、帽子づくり、手袋づくり、洋服仕立、全ての金属工場、溶鉱炉から針づくり、他に至る工場、製紙工場、ガラス工場、煙草工場、消しゴム工場、織り用の組紐づくり、手作りカーペット、雨傘とパラソルづくり、紡錘と糸巻づくり、凸版印刷、製本、文具工場手工業(紙袋、カード、色紙、他を含む)、ロープづくり、黒珠石装飾品工場手工業、煉瓦づくり、手作りによる絹織物工場手工業、コベントリー織り、製塩工場、獣脂蝋燭工場、セメント工場、精糖工場、ビスケットづくり、多くの木材加工に係わる工場、そしてその他のいろいろのものが混ざり合った商売に関係する工場

  (本文に戻る) 上の最終報告書はこう云っている。

  (26) 「もし、そのような多くの子供たち、年少者たち、そして女性たちの全てを、前に述べたように法の保護の下に置くことが、議会の意向に沿うものであるべきというならば、…. そのような法の制定は、若くそしてか弱い者たち、彼等がその法のより直接的な対象であるが、彼等に最も有益な効果をもたらすであろう。さらに、彼等のみではなく、依然として大多数を占める成人労働者たち、彼等はこれらの雇用全体に含まれる者たちであり、それが直接的雇用であろうと、間接的雇用であろうと、直ちにその法の影響下に入るであろう。この全体に及ぶ影響を疑うことはできない。法は彼等に正式で適切な労働時間を実施するであろう。法は彼等の作業場を健康的で清潔な状態に維持するよう仕向けるであろう。従って、法は彼等自身の安寧と国の安寧が非常に大きく依存する肉体的な力の貯蔵を大事にしかつ改良することであろう。法は成長期にある世代を、早くから彼等の体を痛めつけ早過ぎる衰弱をもたらすような過重労働から救出するであろう。そして最終的には、法は--少なくとも13歳に至るまでの者に-様々な教育を受ける機会を保証するであろう。それによって、あの驚くべき無知を終わらせるであろう。…. わが調査委員会の補助調査員が忠実に示したように、深き痛みと深刻なる国家的退廃の感覚なしには見ることができないその無知を終わらせることであろう。」*238

  本文注: *238 前出 ページxxv ノート169

  (27) トーリー内閣は、*239

  本文注: *239 ここは、(トーリー内閣から…. ナッソー W. シーニョア宛の) 英文テキストがドイツ語版第四版と一致するように改変されているものである。−エドワード(ネット版英文資本論の収録者が、付けた注である。)

  (本文に戻る) 1867年2月5日の国王臨席の英国国会開会演説で、工業調査委員会の提案を*240

  本文注: *240 工場法拡大化法は、1867年8月12日に議会を通過させられた。それは、全ての鋳造所、鍛冶屋、そして金属工場手工業を規制するもので、機械製造工場をも含み、さらにガラス工場、紙工場、ニューギニア産ゴムやインドゴムの工場、タバコ工場手工業、凸版印刷や製本の工場、そして最後に、50人以上を雇用する工場が含まれる。1867年8月17日に通過した労働時間規制法は、小さな作業所といわゆる家内工業を規制する。
  (訳者注: 本文注に改行・行送りがある。)
  私はこれらの法と1872年の新たに制定された鉱業法については、第二巻でもう一度捉えなおして見るつもりだ。

  (本文に戻る) 法案にすると公表した。そこに至るには、20年間の人体実験細胞 (ラテン語) が必要とされる。すでに1840年には児童労働に関する議会内調査委員会が任命されている。その報告書は1842年、ナッソー W. シーニョアの言葉によって明らかにされている。

  (28) 「一方に、工場主や両親の、最も恐ろしい貪欲、勝手、残虐の絵が、そして他方に、年少者や幼児の悲惨、退廃、破滅の、あり得ないような絵がそこにある。…. この絵は過去の時代の恐怖を描いているかのように見えるかも知れない。だが、過去と同じくらいおぞましく、これらの恐怖が続いているというべき不幸な証拠が歴然として存在する。約2年前にハードウィックによって出版されたパンフレットは1842年に告発された虐待が今日満開の季になっていると述べている。これは労働者階級の子供たちのモラルや健康を世間全般が見殺しにした異様な証拠である。この報告書は20年間も省みられることなく、放置されている。この間、そこにいた子供たちは、' モラルなる単語が何を意味するのかほんの僅かな理解の欠片も持つことなく育ち、何の知識も、宗教も、自然の情愛も持つことは無かった' その子供たちが現世代の両親になることを許されたのであった。」*241

  本文注: *241 シーニョアの、「社会科学会議」55-58ページ

  (29) 社会的条件が変化して行き、議会は1840年に委員会の提案を棚上げしたようには、1862年のそれを敢えて無視することはできなかった。かくて、1864年委員会は依然としてその報告書の一部以上のものを公表してはいなかったが、土器類工業(製陶業を含む)、壁紙張りメーカー、マッチ、弾薬筒、雷管、そして繊維工業の中の粗織ビロードの剪毛業が工場法の規制下に入った。1867年2月5日の国王臨席下、トーリー内閣は法の概要説明を行った。それは1866年にその作業を ( 訳者注: この作業と訳したところの英文は labours (労働)なのである。) 完成した委員会の最終的な勧告文に基づいたものであった。

  (30) 1867年8月15日工場法拡大化法が、8月21日には作業所規制法が国王の同意を受けた。前者が大きな産業を、後者が小さい産業を規制する。

  (31) 前者は溶鉱炉、鉄工場と銅工場、鋳造工場、機械工場、金属工場手工業、ニューギニアゴム工場、製紙工場、ガラス工場、タバコ工場手工業、凸版印刷(新聞を含む)、製本、端的に云えば、上記の全ての工業の事業所で同時に、少なくとも年100日を超えて50人かそれ以上の労働者を使用する工場等に適用する。

  (32) 作業所規制法の適用が包含する領域の広がりがどの程度のものかを示すために、我々は、その条項の解釈を以下引用する。  

  (33) 「手工業とは、商売として、または利益を得る目的のために、またはそれに付随するあらゆる品物または品物の一部を作ること、またはそれに付随するあらゆる品物を売るための改造、修理、装飾、仕上げ、またはその他のため  

  (34) 「作業所とは、屋外であろうと 覆われた処であろうと、その内部であらゆる手作業が、あらゆる子供、若年者、婦人によって行われ、その子供、若年者、婦人が雇用されていて、ある者が彼等を利用しかつ支配する権利を保有する あらゆる部屋または場所を意味するものである。」

  (35) 「雇用されているとは、賃金のためであろうとなかろうと、あらゆる手工業に、主人または、以下に定義された両親の下に、占有されていることを意味するものである。」

  (36) 「両親とは、あらゆる子供または若年者の両親、保護者、または後見者や監督者、その他、を意味するものである。」

  (37) 第七条は、法の各条項に反して子供、若年者、婦人を雇用することに対して罰則を課している。その作業所の所有者に、その者が両親であろうとなかろうと、罰金を規定しているのみでなく、

  (38) 「子供、若年者、婦人の両親、彼等の労働から直接的になんらかの利益を引き出す者、彼等を監督する立場にある者にも罰金を規定している。」

  (39) 大きな会社等を取り締まる工場法拡大化法は、悪質な例外規定の混ぜ合わせと資本家どもとの卑劣な妥協によって、工場法から見れば劣化したものとなっている。

  (40) 作業所規制法は、その全細則が貧弱で、これを施行するよう命じられた都市または地方官庁の手の内で死文化されたままにされた。1871年 議会はこの権限を工場査察官に賦与するために、それら官庁から引き上げた。工場査察官の査察範囲はかくて一挙に10万を越える作業所が加わり、さらに300の瓦作業所も加わった。この時、これを査察するに要するメンバーとして、既に人手不足状態のメンバーに加えて、8人以上の助手が配属されることはなかった。*242

  本文注: *242 このスタッフの「人事構成」は、査察官2名、査察官補佐2名、助手41名である。追加された8人の助手は1871年に任命された。英国、スコットランド、アイルランドにおける工場法施行の全コストは1871−1872年間で:25,347ポンドを越えず、資本家の攻撃的な訴訟に対する裁判費用をも含んでいた。

  (41) かくして、1867年の英国立法において、我々に気付かせるものは、一方において、資本主義的搾取の過剰に対して、支配階級の議会に、普通では考えられない程の原理原則を採用し、その範囲も広く、その制定の必要を負わせたことであり、その反面で、その立法の実施に向けてそれを支える場面では、躊躇、反抗、不誠実だったことである。

  (42) 1862年の調査委員会は、鉱業に対する新たな規制をも提案していた。この独特なる産業は地主と資本家の利益がここでは手をにぎりあっているという例外的な性格によって他の産業とは区別される。工場法にとっては、これら二つの利益の対立は都合がよかった。だが、そうではなかったので、そのような対立関係の不在こそ、鉱業に対する規制の遅れと言い逃れを説明するに十分なのである。

  (43) 1840年の調査委員会は、非常におぞましく、ショッキングな事実を曝露して、全ヨーロッパをしてそのスキャンダルに巻き込んだ。英国議会は自らの良心の呵責を多少なりとも軽減するために、1842年鉱業法を通過させた。とはいえ、その内容は、10歳未満の子供たちと女性たちの鉱山の地下作業への使用を禁じることのみに限られていた。

  (44) かくて、もう一つの法、1860年の鉱山査察法が規定され、鉱山は、それらの目的のために特別に任命された公的職員によって査察を受けねばならず、10歳から12歳にある少年たちは、彼等が学校の証明書を持っていなければ雇用されてはならないか、または一定時間を学校に行かせねばならないと規定された。この法は完全なる死文であった。なぜならば、全く馬鹿にした少数の査察官と貧弱な権限しか与えず、他にも理由がある。このその他の理由については以下我々が見て行けば明らかになろう。

  (45) 鉱山に関する最近の青書(訳者注: 日本語で云えば鉱山白書)は、「1866年7月23日の鉱山に関する特別委員会からの報告書とそれに加えてその他の報告書及び証拠書類」である。この報告書は、上院議員から選ばれた者、証人を喚問し精査する権限を持つ者による議会の委員会の労作である。その報告書は分厚い見開き版の大冊なのであるが、その中の報告そのものは、たった5行しかなく、そこに書かれている文字は、委員会は何も云うことはない。さらにより多くの証言を精査しなければならない!とあるばかり。

  (46) 証人を訊問するやり方は、英国裁判所での証人に対する反対訊問そのものを思わせる。反対訊問者は遠慮もなく、予期せぬことを、曖昧で、複雑怪奇な質問を用いて、なんの脈絡もなしに、脅迫したり、不意打ちを喰らわしたりして、証人を混乱に陥れる。そして無理やりな回答を証人から引き出そうとする。この訊問では、委員会メンバー自身が、反対訊問者であり、彼等の中には鉱山のオーナーらや採掘業者らが居り、証人は殆どが炭鉱で働く者達なのである。この茶番劇全体がまことに資本家精神のあまりにも明確な特性を示すところであり、この報告書から二三を引用しないで済ます分けには行かない。簡明化のために、私はそれらを分類化して示す。また、私は、全ての質問とその回答に清書では番号が付けられているので、それを加えることにするが、この点もご容認いただきたい。

  (47) Γ教騎鎧.鉱山における10歳以上の少年の雇用について−
 鉱山の仕事は、行き帰りを含めて、通常14時間か15時間続く。時には、朝の3時、4時 そして5時からさえも始まり、夕方の5時か6時までに至る。(n.6,452,83) 成人労働者の仕事はそれぞれ8時間の2交代、だが少年たちには交替はない。出費がその理由である。(n.80,203,204) 年少の少年たちは主に、鉱山の様々な場所で換気扉の開閉の仕事に当てられる。年長少年は、石炭等の運搬と云うきつい労働に当てられる。(n.122,739,1747) 彼等はこれらの長い時間を地下で働き、18歳か22歳になると、鉱山作業の本業に配置される。(n.161) 子供たちや若年層の者たちはかってのいかなる時期よりも現在、待遇は悪化し作業はきつくなっている。(n.1663-1667) 鉱山労働者は、14歳未満の子供たちの鉱山への雇用を禁止する議会の法を殆ど満場一致で要求する。さて、そこで、ハッシー ビビアン(彼自身は採掘業者の一人) はこう質問する。

  (48) 「そもそも子供たちを働かせたいのは労働者の家族が貧乏だからというのとはちがうんかい?」(訳者注: 鉱山資本家は、向坂訳のように、「この要望は両親の貧乏の程度によるものではないか? 」と云う何を云いたいのか分からないような学術的な台詞を使いはしない。雇用提供への感謝の強要しか頭にはない。) ブルース氏はこう言う。「片親が負傷した場合とか、父親が病気または死亡して、母親だけになった場合とかでは、12歳から14歳の子供が日1シリング7ペンスで家族を助けるのを妨げるのは非常に厳しいやり方ではないと云うんかい? …. 規則通りにせねばならんのかい?.... 彼等の両親の状態がどうであれ、12歳未満と14歳未満の子供たちの雇用を禁止すると云う法を貫き通す覚悟があるんかい?」「そうだ。」(ns.107-110) ビビアン「14歳未満の子供たちの雇用を禁止する法案が通ったとしたら、子供たちの両親は子供たちのために他の方向で、例えば工場手工業で雇用を探す…. というようなことにはならないんのかい?」「普通、私はそうは考えない。」(n.174) キンナード「何人かの少年たちは換気扉の係りなのか?」「そうだ。」「扉の開け閉めというのはいつも一般的には大した苦労なんかないんだろう?」「いや、一般的には、ある。」「なんか簡単な作業に思えるが、事実は多少骨が折れるのか?」「彼はそこに閉じ込められる。あたかも牢獄の独房に入れられるのと同じである。」ブルジョワのビビアン「少年のところには灯火があるだろう、彼は本を読めないのか?」「勿論彼は読むことができる。もし彼が彼自身を蝋燭のところに置くならば:…. 彼がもし本を読んでいるところを見つかれば、罰を与えられるものと私は思う。彼はその場所で彼の仕事に専念せねばならない。彼にはそれを行う義務がある。なにはともあれ、その仕事に当る。そして、そこを離れることが許されているとは思わない。」(ns. 139,141,143,158,160)

  (49) Γ教騎鎧.教育−
 鉱山労働者たちは、工場手工業と同様の、彼等の子供たちの必修の教育に関する法を求めている。彼等は、10歳から12歳の少年を雇用する前に履修されねばならないとして学校終了証書を求めている1860年の法の条項については、全く実体のないものであると断言している。この主題に関しての証人尋問は全くの茶番である。  

  (50) 「それは(法は)より工場主に対して要求しているのか、またはより両親に対してなのか?」「両者に対してであると私は思う。」「あんたは一方に対して他方よりもより強く要求しているかどうか答えることができないんか?」「できない。私にそのような質問に答えさせるとはどう言う意味。」(ns.115,116) 「子供たちが学校に行けるような時間を与えると云う雇用主たちの側にそのような何らかの欲求があるのかね?」「ない。そのようなことのために時間が短縮されることなどあり得ない。」(n.137) キンナード氏「炭鉱夫らは彼等の教育を全般的に改良するとか、仕事に就いて以降全般的に彼等の教育を改良した仲間の例があるとか、あるいは仕事から離れず、得るべき利益というあらゆる機会を失うことが無かったとか云うべきではないんか?」「彼等は概して悪くなる一方である。彼等は改良などしない。彼等は悪い習慣を修得する。彼等は飲酒、ギャンブルとかそのようなものに嵌まる。そうして彼等は完全にボロボロとなる。」(n.211) 「彼等は、夜、学校へ行きその種(用意されている授業)のものを得ようとなんらかの試みはするんでは?」「学校はあっても、そんな炭鉱夫はまずいない。そして多分そうした炭鉱夫の中には、僅かながら学校へ行く少年も多少は居る。だが、彼等は肉体的に疲れ果てていてそこに行く目的が失われている。」(n.454) 「そう言うことなら、お前たちは」とブルジョワは決めつける。「教育に反対なのか?」「全然、そうではない。だが」云々。(n.443) 「しかし、彼等(雇用主達)はそれら(学校修了証書)を要求するよう強制されていないとでも?」「法ではその通り、しかし雇用主から要求された者を私は知らない。」「そう言うならば、お前の意見としては、修了証書を要求するとある法のこの条項は、一般的に炭鉱夫においては実施されていないと云うのか?」「実施されていない。」(n.443,444) 「人々はこの質問(教育)に大きな関心を持っているのか?」「彼等の大多数はそうだ。」(n.717) 「彼等は法が実施されるよう強く切望しているのか?」「大多数はそうだ。」(n.718) 「お前たちは、お前たちが通したこの国のいかなる法律であろうと、…. 国民自体の、それを実施させるための協力なしに実際に効力が発揮されると思うんか?」「多くの者は少年の雇用に反対したいと思っている。だが、そうしたら多分マークされることになる。」(n.720) 「誰によってマークされるのか?」「彼の雇用主によって。」(n.721) 「お前たちは、雇用主たちが、法律に従う者に対して何か過失があると云うとでも思うんか?」「私は彼等がそうすると信じる。」(n.722) 「お前たちは、今までに、読み書きもできない10歳から12歳の子供たちの雇用に対して反対した者がいたことを聞いたことはあるんか?」「そんな選択の余地はない。」(n.123) 「お前たちは、議会の干渉が必要だと云うんか? 」「私は、炭鉱夫の子供たちの教育が有効に実施されることになるのなら、議会の法によって強制的にそのようになるべきものと思っている。」(n.1634) 「お前たちは、その責務を炭鉱夫の子供たちだけに向けさせようというのか、それとも全ブリテンの労働者らに果たせというのか?」「私は炭鉱夫のために証言する者として来ている。」(n.1636) 「なぜお前は彼等(少年炭鉱夫)と他の子供たちとを区別すべきと云うのか?」「それは彼等が規則から外されていると私が考えるからである。」(n.1638) 「いかなる点でか?」「肉体的な点で。」(n.1639) 「なぜ彼等の教育が他の若者の集団よりもより価値が高いものであるべきと云うんか?」「私はそれがより価値が高いかどうかは知らない。しかし、炭鉱での激しい労働が続く中では、そこに雇用されている少年たちにとっては、教育を獲得するために日曜学校に行くのも、昼間の学校へ行くのもその機会はほとんどない。(n.1640) 「法に基づいてこの様な要求を受け入れることは絶対に不可能ではないか?」(n.1644) 「学校は十分にあるのか?」−「ない。」….(n.1646) 「仮に国家が全ての子供を学校にやるべきだと要求されるならば、その子供たちが行く学校はあるんだろうか?」「ない。しかし私は、その状況が明確に存在するならば、学校は必ず設立されるものと思う。」(n.1647) 「彼ら(少年たち)のある者は全く読み書きができないと思うのだが?」「大部分はできない。…. 大人たちの大部分自体もできない。」(ns.705,725)  

  (51) Γ教騎鎧.婦人の雇用−
 1842年以降、婦人たちは地下の労働に雇用されてはいない。しかし彼女たちは地上で石炭の荷役その他に回されている。運搬車を引いて運河や鉄道の無蓋貨車へ運んだり、選鉱、他 の仕事をさせられる。ここ3-4年の間、彼女たちの数はかなり増大してきた。(n.1727) 彼女たちの大半は炭鉱夫として働いている者の妻たち、娘たち、そして寡婦たちで、彼女たちの年令は12歳から50または60歳までの巾がある。(ns.645, 1779)

  (52)「婦人たちの雇用については炭鉱夫の間ではどう感じているのか?」「私は、彼等は一般的にそれを非難していると思う。」「お前はそれに対してどのような反対意見を持っているのか?」「私は、それが女性の品位を汚していると思う。」(n.649) 「特異な衣服のことか?」「そうだ。… それははっきり云えば男の服装だ。そしてそれが多くの場合、上品さの全ての感覚を流し去っていると信じている。」「婦人たちは喫煙するか?」「何人かはする。」「で、わしはその仕事がかなり汚い仕事ではないかと思っているのだが、そうなのか?」「非常に汚い。」「彼女らは黒く汚れ、垢にまみれるのか?」「炭鉱地下に入る者と同じように黒くなる。…. 女性は子供を持っている (だからそっち側で、やることが沢山ある) でも彼女の子供にしてあげなければならないことを何一つできない。」(n.650-654, 701) 「先程の寡婦たちのことだが、彼女たちは他のどこかで仕事を見つけることができると思うのか、すなわち彼女たちと同じ程度の賃金(週8シリングから10シリング)をもたらすような?」「私はその点については話すことができない。」(n.709) 「お前たちは、それによって彼女たちが生計を手に入れているのを妨害しようとし続けるのか、そうだろう?。(このガチガチ頭め!)」「そうしたい。」(n.710) 「地域としてはどう感じているんか、... 婦人の雇用については?」「品位を貶めると感じている。そして、我々は炭鉱夫として、炭鉱に置かれる彼女たちを見るよりも、けがれのないしとやかな女性を敬いたいと望んでいる。...ある仕事は非常にきつい、その少女たちは日に10トンもの鉱石を持ち上げる。」(ns. 1715, 1717) 「お前たちは、炭鉱に雇用れさている婦人たちの方が、工場に雇用されている婦人たちよりも道徳観が低いと思うのか?」「… .低い方の比率が… 工場で働く少女と較べて多少大きいかもしれない。」(n.1732)「しかし、お前たちは工場における道徳状況にすっかり満足しているわけではないんじゃないか?」「満足などしていない。」(n.1733) 「お前たちは、工場での婦人の雇用も同様禁止したいと思うのか?」「そうしたいとは思わない。」(n.1734) 「なぜ、そう思わないんだ?」「工場での婦人たちの仕事はより誇らしいものと私は思う。」(n.1735) 「それでも依然として彼女たちの道徳性を傷つける、そう思うだろ?」「炭鉱の仕事に較べれば少ない、いや、それよりも、それは社会的地位に係わることとして私は取り上げたい。 単に道徳性だけの地点で取り上げたくはない。少女たちに対する社会的な位置づけと云う点でも、その退廃は極めて嘆かわしい。これらの400ないし500人の少女たちが炭鉱夫の妻になれば、男たちはこの退廃から大きな苦痛を受ける。そして男たちをして彼等の家庭を放棄させ酒に走らせる原因となる。」(n.1736) 「お前たちは、炭鉱での婦人たちの雇用を停止すると云うなら、同様に製鉄所での婦人たちの雇用をも停止すると云うはずである。違うんか?」「私はいろいろある他の商売について話すことはできない。」(n.1737) 「お前は、製鉄所に雇用される婦人たちの境遇と、炭鉱の地上の仕事に雇用される婦人たちの境遇にどんな違いがあると云うのか?」「それについて私は、なにも確かめたことはない。」(n.1740) 「お前は、ある一つの集団と他の集団との間に違いを作り出すものを見い出すことができるのか?」「それを確かめたことはない。だが、家から家と訪ねれば、我々の地域は嘆かわしい状態にあると分かる。…」(n.1741) 「お前たちは婦人たちの雇用が品位を貶めていたならそれをことごとく邪魔すると云うのか?」「その事が悪い状態を作り出すと私は思う。英国男性たちの最上の感情は母親の愛育から与えられて来たものである。…. (n.1750) 「農業の雇用についても同様に適用するのか、そうではないのか?」「適用する。しかしそれは二季節のみであって、我々は全四季節働く。」(n.1751) 「彼女たちは度々昼も夜も働く、皮膚までずぶ濡れになり、彼女たちの体を傷つけ、彼女たちの健康は破壊される。」「お前たちは、そのようなことについては多分、なにも調べてはいないんだろう?」「私は、私が働いてきたことについてはしっかりと分かっている。だから、はっきり云うが、炭鉱での婦人たちの雇用の影響に匹敵するようなものは他では何も見たことはない。… それは男の仕事… それも力のある男の仕事なのだ。」(ns. 1753, 1793, 1794) 「お前たちの諸々の提起についての感触は、炭鉱夫のより良い層の者たちは自分たちを向上させ、自分たちが人間らしくありたいと望んでいる。なのに、婦人たちからの援助を受け取るのではなくて、彼女たちによって足を引っ張られていると云うのか?」「その通りだ。」(n.1808) これらブルジョワらの、ひねくりまがった質問がいくつか続いた後に、彼等の寡婦や貧しい家庭 他に対する「同情」の秘密が最後になって現われる。「鉱山所有者は、ある紳士達をこの仕事を監督するために任命する。そして彼等紳士達のやることは、雇用主の意図を見抜いて、出来得るかぎり最も節約的な支払い法を採る。これらの雇用された少女たちには、日1シリングから1シリング6ペンスを。これが男性ならば日2シリング 6ペンスで雇用されねばならないものを。」(n.1816)

  (53) Γ教騎鎧.検死官の査問−

  (54) 「お前たちの地域での検死官の査問について、事故時のそれらの査問の進め方に労働者たちは信頼を置いているか?」「信頼していない。」(n.360) 「なぜ?」「主な理由としては、通常選ばれる人は、鉱山について何も知らないか、そのようなものだからだ。」「労働者たちは陪審員として全く召喚されないのか?」「呼ばれることは今まで無かった。私の知る限りでは、ただ証人としてである。」「通常はどういう者がこれらの陪審として召喚されるのか?」「大抵は、近隣で商売している者たちである。…. 彼等の置かれた状況から云えば、時には彼等の取引先… 鉱山所有者 から言いくるめられて嘘をつく。」彼等は一般的に云って何の知識もなく、彼等の前に呼び出された証人の証言を殆ど理解できず、また使われる用語の意味も理解できない。そう言うことだ。」「お前たちは鉱山に雇用されたことがある者たちによる陪審員たちとしたいのか?」「何人かはそうして欲しい。…. 彼等 (労働者)は、多くの場合、与えられた証拠に基づかない評決であると思っている。」(ns.361, 364, 366, 368, 371, 375) 「査問における一つの大きな反対は、陪審員が公平でないと。それともそうじゃないのか?」「公平ではないと 私はそう思っている。」「もしも陪審員を労働者にも拡げて選ぶことになったとしても、彼等は公平でないと思うか?」「労働者が公平でない振る舞いをするいかなる動機も見出さないが、… 必要なことは彼等が鉱山の一連の作業について良く知っていることである。」「お前たちは、労働者の側に立った不公平な厳しい評決を下す傾向があるとは思わんのかね?」「いいえ、私はそうは思わない。」(ns.378, 379, 380)  

  (55) Γ教騎鎧.不正な重量と容量−
 労働者たちは二週間払いに代わって、週払いを要求する。そして運搬桶の大きさに代わって重量での支払いを要求する。彼等はまた、不正な重量 その他 の使用防止を要求する。(n.1071)

  (56) 「もし、運搬桶が詐欺的に大きくなれば、誰でも14日通告によって仕事を止めることができるのではないか?」「しかし、そうは云っても他の場所へ行けばそこでも同じことがまかり通っている。」(n.1071) 「しかし、彼は不正が行われている場所を離れることができるだろ?」「それが一般的に行われている。どこへ行っても。彼はそれに従わねばならない。」(n.1072) 「14日通告によってそこを去ることができるだろ?」「できる。」(n.1073) でもだからと云って彼等は依然として納得してはいない!

  (57) Γ教騎鎧. 鉱山の査察−
   爆発による人身事故だけが労働者が被る被害ではない。(n.234 以下)

  (58) 「我々の仲間たちは炭鉱の換気が悪い点について多くの不満を述べていた。…. :全般的に換気が非常に悪く、呼吸すらままならない。それらは全くあらゆる仕事において不適切で、彼らの仕事の諸々において長い時間そこにいれば、実際のところ、私が働いている炭鉱のそのような場所では、仲間たちはその仕事を放棄して家に、そのために、帰らねばならない。… ある者は数週間も、爆発性のガスがないのに、換気が悪い状態のため、仕事をしていない。主坑道には通常多くの空気があるが、依然として、仲間が働いている場所へは空気が送り込まれないため、苦痛は取り除かれてはいない。」「何故、査察官に申し出ないんだ?」「本当のところ、多くの仲間たちは、その点に関しては、躊躇する。そうする仲間がいないわけではないが、犠牲にされる。査察官に訴えることの結果として彼らの仕事を失う。」「なぜ苦情を述べることで彼がマークされるんだ?」「わかった。… その結果、彼は他の炭鉱でも仕事を得ることが困難になるんか?」「そうだ。」「お前たちは近隣地区の炭鉱では法の条項に基づく苦情を確認するための査察を十分に受けていると思うか? 」「思うはずがない。全く査察を受けていない。… 査察官は一度坑道に降りた。が、7年間が過ぎた。… この地域では、私が属する地域では、十分な数の査察官がいない。一人の70歳以上の老人がいるが、査察する炭鉱が130ヶ所以上ある。」「お前たちは査察官補クラスの者を望むのか?」「そうだ。」(ns.234, 241, 251, 254, 274, 275, 554, 276, 293) 「ところで聞くが、労働者からの申し出でもないのに、お前たちが欲するもの全てに対応するそのような一群の査察官を維持することが政府にとって可能であると考えるのか?」「そうは思えない。ほとんど不可能だろう。…. 」「査察官が度々来るべきであるというのが望ましいのか?」「そうだ。そして呼ばれなくてもだ。」(n.280, 277) 「お前たちは、これらの査察官たちが炭鉱を何度も調べると云うことが、適切な換気を供給する責任(!)を炭鉱の所有者から政府の役人に転嫁することになるとは考えないのか?」「私はそのようには考えない。私は、かれらはすでに存在している法を執行するために彼らの仕事をやるべきであると思う。」(n.285) 「お前たちが云う査察官補のことだが、給料が安くそして現査察官よりも劣るとされる人のことを云っているのか?」「私は劣っている者を欲しているわけではない。そうならあなたが他の方法で選ぶことができるはずでは。」(n.294) 「お前たちは単により多くの査察官を望んでいるのか、それとも低いクラスの者を査察官として求めているのか?」「自分でドアーをノックして回り、ものごとが正しく維持されているかどうかを見る人間をである。そして自分が解雇されるかどうかにびくびくすることのない人間をである。」(n.295) 「もし、お前たちが劣ったクラスの任命された査察官を求めていて、それが得られたとしたら、技能他の欠如からの危険はないと考えるんか?」「危険があると私は思う。私は、政府がそれを管轄し、その職位に適う者を任命するものと思う。」(n.297)

  (59) このような尋問はついには委員会の議長にとっても聞くに耐えないものとなる。そして助言をもって割り込む。

  (60) 「あなたたちは、炭鉱の詳細すべてを見に来て、その全ての坑道や隅々まで見に行き、真の事実を調べ、…. 彼らはそれを主任査察官に報告し、主任査察官は彼の科学的知見をもって、彼らが報告したものを把握する。そのようなクラスの者を求めているのですね?」(ns.298, 299) 「もしこれらの古い仕事場の全ての換気を維持するのに莫大な費用が伴わないとでも思うんか?」「確かに費用を要するだろう。しかし同時に、生命が維持される。」(n.531)

  (61) 炭鉱労働者は,1860年の法の17節に異議申し立てをして、こう云う。

  (62) 「現時点で、もし炭鉱査察官がそこで働くのに不適切な箇所を見たとしたら、それを炭鉱所有者と内務大臣に報告しなければならない。その後、所有者に20日間がそのことを調べるために与えられる。20日間経過時点で炭鉱内のいかなる変更も拒否する権利が彼にはある。しかし、拒否する場合は、炭鉱主は内務大臣宛に書面を提出し、また同時に5人の技師を推薦し、鉱山主が名前を記したそれらの5人の技師の中から、内務大臣が一人を任命する。私は思うのだが、調停人または彼らの中から任命された調停人は、この場合、我々は思うのだが、炭鉱主が彼自身の調停人を事実上任命しているのではないか。」(n.581)

  (63) ブルジョワ尋問官、彼自身とある炭鉱のオーナー、が云う。

  (64) 「いや、それは…. それは単なる推測的な言いがかりではないか?」(n.586) 「ということは、お前さんは炭鉱技師の誠実さに関しては随分つまらんご意見をお持ちのようじゃないか?」「それは最も確かなる不正と不公平である。」(n.588) 「炭鉱技師たちは一種の公的な性格を持たないというのか。であるのに、お前たちは、彼らがお前たちの懸念に対して不公平な判断をするはずもない人達であるのに、そうは思わんのか?」「私は、その種の質問には答えたくはない。それらの人々の個人的な性格には敬意を払っているのだから。だが、多くの場合、彼等は非常に不公平に扱う。明確にだ。そして労働者の命が危うくなっている場合は、彼等にその件を取り扱わせるべきではないと私は信じている。」(n.589)

  (65) この同じブルジョワは恥ずかしげもなく、この質問を口にする。「お前たちは、炭鉱主もまた爆発によって被害を被るとは考えないのか?」 最後に、「ランカシャーの労働者諸君は、政府に助けを求めずに、自分の利益は自分でけりをつけることはできんのか?」「できない。」(n.1042)

  (66) 1865年時点で、英国には3,217の炭鉱があって、査察官は12人であった。あるヨークシャーの炭鉱主は自身次のように計算している。 (タイムス 1867年1月26日) 査察官らの全時間を費やすところのオフィスワークを別に置いておくとしても、各炭鉱は一人の査察官によって10年に1回しか訪問されることはないと。爆発事故が数においてもその度合いにおいても ( 時には200-300人の人命が失われるほどの ) ここ10年の間で加速度的に増加しているのも不思議ではない。これらは「自由」資本主義的生産の美学なのである! (訳者英文挿入: These are the beauties of "free" capitalist production!) [この文言は、ドイツ語版第四版に準じて英語版に追加されている。−英語版のネット版編集者]

  (67) 1872年に通過した法は非常に欠陥の多いものではあるが、炭鉱に雇用される子供たちの労働時間を規制した最初のものであり、またある程度はいわゆる事故の責任が採炭業者や炭鉱所有者にもあるとしている。

  (68) 1867年に、農業に雇用されている子供たち、若年者たち、そして婦人たちについて調査するよう任命された王立委員会はある非常に重要な報告書を発行した。工場法の原則を適用するいくつかの試み、とはいえ修正版なのだが、は、農業に関しては何の結果ももたらすことなく、完全な失敗に帰した、とある。私がここで特に注目してもらいたいと思う点は、それらの原則を一般化するという抗しがたい傾向が存在していると云うことなのである。  

  (69) もし、労働者階級の心身ともどもを保護するために、工場法の全商売への一般的拡大が避けられないものとなるならば、他方では、既に我々が指摘したように、多数の散在する小さな工業の、大きな規模で操業させられる数少ない結合的工業への一般的転換も急速に拡大する。かくして、それは資本の集中と工場システムの排他的で圧倒的な支配を加速する。それは、資本の古くからのかつ移行形式を破壊する、その背後に依然としてある部分は隠されていた資本の支配ではあったが、資本直接の露骨な支配力をもってそれら形式を置き換える。であるからはっきりと、この支配力に対する直接的な敵対もまた一般化することになる。かくして、各工業の作業場は、画一性、規則性、秩序、そして節約を強要し、労働日の制約と規制という巨大な拍車によって技術的な改善、全体的には資本主義生産の激変と無政府性、労働の強度化、機械はと労働の競争を増大させる。小さな家内工業の破壊は、「余剰人口」の最後の避暑地を取り潰し、唯一残っていた全社会的メカニズムの安全弁をも失わせた。それはさらに、生産過程の社会的規模における物質的条件とその結合を成熟させ、資本主義的生産形式の矛盾と対立を成熟させ、かくて新たなる社会形式のための各要素とともに、その古き形式を爆破するための力を供給する。*243

  本文注: *243 ロバート オーエン、協同工場・協同商店の父、は前にも触れたが、彼の後継者たちが描き出したような以下の点については全く関知していなかった。これらの孤立的な移行要素の位置づけを、単に工場システムが彼の実験の唯一の実際的な基礎であるばかりでなく、そのシステムこそが理論的に社会革命の出発点であると宣言していることを。ライデン大学の政治経済学教授 フィッセリング氏は、彼の「実用経済学ハンドブック 1860-62」で、といっても全くの俗流経済学の俗語を再生産したものであるが、この点になにか気がつくことがあったらしく、彼は、工場システムに対峙する手工業者たちを強く支持している。(訳者注: この部分の向坂訳は、オーエンも、工場システムが新たな社会の出発点であることも、フィッセリングの気づきも、その気づきの必然性も、その気づきの時代背景も把握していない。)

  (訳者注: 以下終りまで段落を加えながら注が続く)[ドイツ語第四版に追加された部分−各法律間の矛盾というこの「絶望的な困惑の絡まり」(ドイツ語初版 314ページ、第二版(現在版) 284ページ 訳者注: 向坂訳の括弧書きから、岩波文庫の第二分冊の211ページとなっており、そこからたどれば、本編の第十章 労働日 第七節標準労働日のための闘争。英国工場法に対する、他各国での反動 の(3) 第二 ある生産部門の労働日の規制の歴史は、のところにたどり着く。この経過のことを改めて確認させてくれるところ。)工場法、工場法拡大法、作業場法の各相互間の紛争が呼び込んだその絡まりは、最後にはもう我慢できないものとなった。かくてこの事柄に関する立法機関による全法律は1878年の工場法と作業所法に再編纂された。当然ながら、今ここではこの英国工業法典に対する詳細な批判を示すことはできない。次のいくつかの指摘で十分であろう。法は以下の事項を含んだものである。

  1) 織物工場 これらの工場については、ほとんど全てが以前のまま残っている。10最以上の子供たちは日5時間半、または6時間。土曜日は休み。年少の者と女性は平日は10時間、土曜日は最長6時間半である。

  2) 織物工場に該当しない工場 これらの工場に関する事項は以前に比べれば、1)のそれとほぼ近いものが当てはめられた。だが、いくつかの例外があり、資本家の都合とか、あるケースでは英国内務省の特別許可によって労働時間が延長された。

  3) 作業所 以前の法に沿って規定された。子供たち、年少労働者、女性たちが雇用される場合、そこでは2)の規定と同様であるが、細かく見れば、条件は再び緩んだものとなった。

  4) 作業所 子供たちや年少者が雇用されておらず、男女18歳以上のみ雇用されている場合では、依然としてゆるい条件を楽しんだ。

  5) 家内作業所 家族の者のみが家族の家に雇用される場合は、依然としてより弾力的な規制と、同時に、工場査察官は、内閣か裁判所の特別の許可なしには、住居目的で使われてはいない部屋のみにしか、立ち入ることができないという制約がある。かくて、束縛されることのない自由が、家族の者による 麦わら編み、レース編み、手袋づくり で続くことになった。この法はその全ての欠陥によりこの分野の法の最上のもの、1877年3月23日のスイス連邦工場法に比べれば、遥かに遠く隔たっている。ここに挙げたスイス連邦法との比較は特別に興味を引く。なぜかといえば、その二つの法の立法過程のメリットとデメリットを明確に表示するからである。英国の場合の「歴史的」方法は様々な要求が介入する。大陸のそれは、フランス革命の伝統の上に作られた、そしてより一般化された。不幸にして、不十分な査察官の配置のため、英国法典は依然としてその作業所への適用に関しては、大きな死文のままである。− フレデリック エンゲルス]

 




[第九節 終り]

 




第十節 近代工業と農業



  (1) 近代工業によって引き起こされた農業部門での大変革と農業生産者の社会的関係の大変革についてはこの先で調べていくことになろう。ここでは、いままでの経過からの予期されるいくつかの成り行きを示すだけにしておきたい。農業への機械使用が多くの場合、工場労働者に降りかかったような肉体的な悪影響を免れ得たのか、取って替わった機械の動きが労働者たちにより強度に作用したのかまたより少ない抵抗を見いだしたのかは、この先で詳細に見ていくものとなろう。例えば、ケンブリッジやサフォーク州では耕地はここ20年(1868に至る間) 非常に拡大した。その同じ期間で農業人口は、単に相対的にではなく、絶対的に減少した。合衆国では、農業機械は依然として単に労働者たちを事実上置き換えただけに留まり、別の言葉で云えば、大きな面積を耕すことを農業者に許したが、実際に雇用した労働者を放り出しはしなかった。1861年英国とウェールズで、農業機械の工場手工場に雇用された人の数は1,034人、その間、蒸気機関を装備する農業機械の使用に雇用され農業労働者の数は1,205人を超えてはいなかった。

  (2) 農業領域においては、近代工業は他のどこよりもより革命的な影響を及ぼした。その理由は、古い社会の城壁でもある農民を、壊滅させた。そしてかれを賃金労働者と置き換えた。かくて、社会的変化と階級対立への衝動が田園においてもまるで都市と同様に持ち込まれた。資本主義的生産は、共に維持していた農業と工場手工業の初期的な結合の古き紐帯を完璧なまでにばらばらに切り裂いた。しかし同時にその破壊が未来へのより高度な結合への物質的条件を作り出すのである。すなわち、かれらの一時的な分離において互いに熱望された形式のより完全な基礎の上に農業と工業の結合がと云うことである。資本主義的生産は、人口を大きな中心地に集中させ、都市人口の絶えざる増加を準備することによって、一方で社会の歴史的推進力を凝集し、他方で人と土壌間の物質的循環を阻害する。つまり、人が食料や衣料の形で消費した土壌要素類が再び土壌に戻る過程を妨げる。従って土壌の豊穰を末長く維持するための必要条件を侵害する。この行為によって同時に、都市労働者たちの健康と田園労働者の知的な生命を破壊する。*244  

  本文注: *244 「あなた方は、人々を互いに敵対する二つの野営軍に分断する。半馬鹿の田舎者と無気力な小人に。まったくもう! 国が農業と商業の利益に分断され、それを正気と云う。いや、それを教化され文明化されたとかっこよく云う。この奇怪で不自然な分断にもかかわらずというのみでなく、その結果をそのような当たり前なものとして云う。」(デビッド アーカート 前出 119ページ) この一節は強さと同時に弱さを見せている。いかに判断し現実をとがめるかを知っているものの、その現実をどう理解するかを知らない批判の辛辣さともろさを持っている。(訳者の追加的小余談: 多くの哲学や、諧謔、川柳、俳句でもこの例が山ほどある。労働を知らず、労働の状況を知らず、資本主義的生産体制を知らないために、本当のところ、益するところも、また楽しませるところもない。)

  (本文に戻る) このような天地動転が生じても、しかし、まただからこそ、物質循環を維持する自然的条件もまた成長する。その復旧をあたかもシステムが起動するかのように呼び出す。社会的生産を規制する法のごとく。そして人類の全的発展のための適切な形式の下に復旧を呼び出す。農業においては、工場手工業と同様に、資本の支配の下 生産の転換は、同時に、生産者の殉教を意味し、労働手段は労働者の奴隷化の、搾取の、そして貧困化の手段となる。社会的結合と労働過程の組織化は労働者の個人的バイタリティ、自由、そして独立を粉砕する組織様式へと転化させる。広い地域に散在していることが、農業労働者の抵抗の力を削ぐ。一方の集中は、都市労働者のそれを増大させる。近代農業においては、都市工業と同様、増加した生産性とそこで直ぐに使われる労働者の量は、労働力そのものの退廃的な消費と廃棄の費用で購入される。それ以上に、資本主義的農業のすべての進歩はとんでもない進歩芸術で、労働者を略奪するのみではなく、土壌の略奪をも含んでいる。与えられた時間において獲得された土壌の豊穰度の全増大はその豊穰度の末長く続くであろう源泉の荒廃への行程である。国土がその発展を近代工業の基礎の上に置くと云うことがより激しいものとなれば、例えばアメリカ合衆国のように、破壊のこの行程がより急速に進むこととなろう。*245 従って、資本主義的生産が技術を発展させ、社会全体に様々な過程をなにもかも結合すれば、与えられた全ての天来の富の源泉を枯渇させるのみではなく、−土壌と労働者をも失うこととなろう。

  本文注: *245 リービッヒの「化学の農業と生理学への応用」第七版 1862年、そして特に、「農耕自然法則概論」第一巻を見よ。自然科学の視点から展開された、その否定的な側面、すなわち近代農業の破壊的な側面への言及は、リービッヒの不朽の功績である。また、彼の農業の歴史に関する要約はひどい間違いから免れていないものの、光輝くものを含んでいる。とはいえ、次のようなでまかせ仮説からの冒険は残念である。「より多くの粉砕と何回もの鋤き返しによって、多孔性土壌内部の空気の循環が助長され、そして表面が外気の作用に晒されることが増加し、沃土へと更新される。だが、その土地の 増加した生産量は、その土地に費やした労働に比例したものにすることはできないことは容易に分かる。しかしより小さな率で増加はする。(訳者注: リービッヒが叙述している法則がこれである。ここで色をつけた単語は後に本文注に再登場するものであるから、頭の片隅にでも置いて、以下読み進めてもらいたい。端的に云えば、労働も法則も分かっていないことを、マルクスは指摘する。) この法則は」とリービッヒは追加する。「ジョン スチュアート ミル が、彼の「政治経済学原理」第一巻 17ページで、次のように述べたことが、その最初の発表である。「土地の生産量は、つまるところ(ラテン語で、全ての支払いを済ませればの意) 、雇用労働者の増加率を縮小することで増加する。」(ミルがここで間違った形式で紹介したのは、リカード派が唱えた法則で、以前から農業の進展とともに「雇用労働者の減少」が英国では同じようなペースで続いており、そこで法則が発見され、そこに応用したが、当の英国においてはそのような法則の適用などいずれにしてもできはしない話である。) (訳者注: 以下の着色「 」部分は、前段のリービッヒのミルに関する記述を繰り返し書いたところであるが、途中に長い括弧書きが入ってしまったので、改めて後段とのつながりを図ったもの) 「土地の生産量は、つまるところ、雇用労働者の増加率を縮小することで増加する。」というのが農業産業部門の世界的法則である。」このことは非常に驚くべき事である。なぜかと云えば、ミルはこの法則の理由を知らなかったからである。」(リービッヒ 前出 第一巻143ページ と注書き) リービッヒの「労働」(訳者注:前段の記憶があればこれらの部分に繋がる。) という言葉の誤訳は別としても、その言葉によって政治経済学がやっていることから全く別のなにかを理解し、それがどうであれ、非常に驚くべき事に、彼はA.スミス時代にジェームス アンダースンが最初に発表した一理論を、ジョン スチュアート ミル氏が最初に発表したとしてしまったらしい。この理論はいろいろな著作で、19世紀始めに至るまで繰り返され、そんな理論をマルサス 剽窃名人 (彼の人口理論の全てが恥知らずの剽窃もの) も自分の1815年の著作に流用した。ウエストは、アンダースンとは別に同時期この理論を発展させ、1817年に発表し、それがリカードの一般価値理論と繋げられ、リカードの理論として世界を一周した。そして1820年ジェームス ミル 彼の息子が ジョン スチュアート ミルだが、に よって俗化され、そして最終的にジョン スチュアート ミル 他 によって再生産され、学説として、全くの陳腐ものとなり、どこの学生でも知らぬものはいない。ジョン スチュアート ミルの、いずれにしても、彼の「驚くべき」権威は全くのところ、このような借用品 (ラテン語: 貸し借り)から出来上がっていることは否定されえない。

  (訳者注: いつもは、本文注*245のことろでは、切って、注を置いて、本文に続くとしているのだが、ここでは、そうせずに、本文を続けたのは、この注が、リービッヒから始まって、ジョン スチュアート ミルの驚くべき権威に終わる冗長さからで、マルクスの狙いが隠されていると思うからである。それは次章への導入部になっていると思うからである。かくて第十五章は、ジョン スチュアート ミルの機械からはじまって彼の驚くべき権威で終わると云うことになった。いずれにしても、長い十五章を終えることができた。後期高齢者区分はなくならず、なくすと云った政権の方がその廃止を廃止して、自らすっころんだ。翻訳に長い時間が掛かっているつうこった。日付も入れて置こう。2012/12/31)

 




[第十節 終り]





[第十五章 終り]