カール・マルクス


「資本論」 (第1巻)

 

訳者  宮 崎 恭 一

(1887年にイギリスで発行された版に基づく)

 

 

カール・マルクス

資 本 論


第一巻 資本の生産過程

第六篇 賃金


第十九章 労働力の価値(とそれぞれの価格)
賃金への変換







  (1) ブルジョワ社会の表層を見れば、労働者の賃金は労働の価格として見える。ある一定量の労働に対して支払われるある一定量の貨幣として見える。それゆえ、人々が労働の価値について語る場合、その貨幣表現されたものを、当然の価格とか当たり前の価格と呼ぶ。(訳者注: 英文では、necessary or natural price となっている。これを向坂訳のように、必要価格・自然価格と訳すと多分混乱すると思う。)一方、労働の市場価格について語る場合には、そこではその価格はその当たり前の価格より上になったり下になったりと変動する。(natural)  

  (2) そもそも商品の価値とは何か? そのものの生産に支出された社会的労働の客観的形式である。さて、この価値量を我々はどのようにして計量するか? そこに込められた労働の量によって計量する。ならば12時間労働日の価値はどのようにして決められるのか? 12時間からなる一労働日に含まれる12時間による。これでは馬鹿げた同義反復に陥入る。*1

  本文注 *1: 「リカード氏は、彼の学説としてこう述べている。−価値はその生産に雇用された労働量に依存している。--もしこの原理を厳格に応用するならば、労働の価値はその生産に雇用された労働の量に依存していると云うことになる。これでは明らかに馬鹿げた同義反復となる。− この一見して窮地の恐れを呼び兼ねないやっかいな点をリカード氏は巧妙卓越なる方法で逃れる。そのために彼は頭の回転の妙を用いて、労働の価値は賃金の生産に要する労働量に依存すると言い換える。つまり、リカード氏は労働者に与えられる貨幣または商品の生産に要する労働量に依存すると云いたいのである。これでは次のように云うのと似たようなものである。布の価値はその生産に授けられた労働量によってではなく、布と交換される銀の生産に授けられた労働量によって判断されると。」−「価値の性質等に関する批判的論説」50、51ページ(訳者注: 向坂訳にはS. ペイリーと著者名が入っている。)  

  (3) 市場で商品として売られるためには、必ず、売られる前に、労働が、とにもかくにも存在していなければならない。とはいえ、労働者がそれを客観的な独立した存在として与えることができたとしたら、彼は労働を売るのではなく一つの商品を売ることになろう。*2

  本文注 *2: 「あなたが労働を一商品と呼ぶとしても、それは交換するためにとりあえず生産されそして市場に持ち込まれ、その時市場に居合わせた他の商品のそれぞれの量と交換せねばならないと云った種類の商品ではない。労働は市場に持ち込まれたその瞬間に作られる、いやそうではい、労働は作られる前に市場に持ち込まれる。」「ある種の口論に関する観察」他 75、76ページ

  (4) これらの自家撞着はともかく、貨幣すなわち具体化された労働と生きた労働の直接的な交換は、唯一資本主義的生産の基礎の上に価値法則を自由に発展させるに至った結果の産物であるその価値法則も、また賃労働の上に直に居座る資本主義的生産それ自体をも、廃除することとなろう。(訳者注: この部分の向坂訳は、価値法則を廃止するか、あるいはまさに資本主義的生産そのものを廃止するものであろう。となっていて、どちらなのか、どうしてという疑問を生じさせる。英文はeither ..or..と両方であることを明確に示しているので、誤解するところはない。)

  (本文が続く、訳者注を入れたので、段落とした。) 12時間なる労働日がそれを実体化する、すなわち6シリングの貨幣価値と云う実体となる。相互の等価が交換される。そして、労働者は12時間の労働に対して6シリングを受け取る。彼の労働の価格は彼の生産物の価格と同値であろう。この場合彼は彼の労働の買手になんの剰余価値をも作り出さない。買手が支払った6シリングは資本に転化されることはない。資本主義的生産の基礎は消失する。云うまでもなく、この資本主義的生産の仕組みの上で彼は彼の労働を売るのであり、彼の労働は賃労働なのである。さて、これとは別に、彼が12時間の労働の対価として6シリングより少ない金額を受け取る、すなわち12時間の労働より少ない価格を受け取るとしたら、12時間の労働が10時間とか6時間の労働と交換されるとしたら。この不等価を等価とするならば、価値の決定則をまさに廃棄することになる。このような自己破壊的な矛盾は法則として口にされることも理論化されることもできはしない。*3

  本文注 *3: 「労働を一つの商品として取り扱い、労働の産物である資本をももう一つの商品として取り扱うならば、もしこれらの二つの商品が同じ量の労働として調整されているならば、ある与えられた労働の量は、…. 同じ量の労働によって作り出された資本の量と交換されるであろう。以前になされた労働は、…. 現在の労働と同じ量のものとして交換される。しかし、他の商品群との関係においては、労働の価値は、…. 同量の労働によっては決められない。」E.G. ウエイクフィールド版 アダムスミスの「諸国民の富」第一巻 ロンドン 1836年 231ページのノート(訳者注: 上のしかし以下がブルジョワ経済学のブルジョワよいしょ理論の下司なところ。決められるならば、ブルジョワ爺の存在が失われる。まさに自己破綻的な学説をもって自己破滅を避ける。)

  (5) より多くの労働とより少ない労働との交換を、それらの形式の違いから、一つはすでに実現された労働で他方は生きた労働の違いから説明することは何の意味もなさない。*4

  本文注 *4: 「なされた労働となされるべき労働との交換においては、いつでもそこに新しい合意 (新版社会契約!)が なければならない。後者(資本家)は前者(労働者)よりも高い価値を受け取るものとなっている。」−シモンド(ドゥ シスモンディ)「商業の富について」ジュネーブ 1803年 第一巻 37ページ(訳者の驚嘆: なんと素朴なことよ。貴族がいなければ戦争ができない、という封建社会の貴族観と比べても少しも劣るところがない。)

  (本文に戻る) 商品の価値は、すでにそのなかに実現された労働の量によって決められるのではなくその生産に必要な生きた労働の量によって決められるのであるから、死んだ労働と生きた労働の価値の交換を持ち出すなどまったく馬鹿げている。ある商品が6時間の労働を表しているとしよう。もしある発明によって、それが3時間で生産できるとしたら、その価値は、すでに生産されている商品でさえも、半分に下落する。以前には必要であった6時間の社会的労働を表していたものが、それに代わって、3時間の社会的労働で表される。その生産に要する労働量によって、すでに形成された労働によってではなく、その商品の価値量が決められる。

  (6) 市場で貨幣の所有者に直接面と向かうことになるのは、実際には労働ではない。そうではなく、労働者である。(訳者挿入: 貨幣所有者は、労働と貨幣を直接交換するのでも、労働者と貨幣を交換するのでもない。)後者(訳者挿入: 労働者)が売るのは彼の労働力である。彼の実際の労働が始まるやいなや、それはもはや彼に属することを止める。であるから、それは彼によって売られることはできない。労働は実体でありかつそれは価値の基準であるが、でも、そのものに価値はない。*5  

  (訳者小注: 労働それ自体に価値がないと云うマルクスの言葉には愕然とするだろう。だがその意味が読んで行くと分かってくる。これがマルクスの楽しさであり、面白さなのだ。もし、労働の価値が決まっていたら、資本家はいかにして資本の拡大ができようか。正当な価格で買えば、正当な貨幣を支払う。利益半与など正当なる交換では生じない。ブルジョワ経済学ではやばい代物が。これである。読者の楽しみを多少先にかじってしまったが、これにとらわれず読み進めてもらいたい。)

  本文注 *5: 「労働は他とは替えられない価値の基準… あらゆる富の創造者であるが、商品ではない。」トーマス ホジスキン「一般政治経済学」186ページ  

  (7) 「労働の価値」と云う表現では、価値の概念が完全に抹消されているのみでなく、実際には全く逆のものを表す。まるで土地の価値と同様の想像上の表現となっている。とはいえ、このような想像的な表現は生産関係そのものから生じる。それらの表現は、本質的な諸関係の現象形式を表す言葉の選択である。それらの外観的表現においては、諸物はそれ自体とは逆転されて表現されることはあらゆる科学領域ではよく知られている形式である。だがどういう分けか政治経済学領域だけはそうではないようだ。*6

  本文注 *6: 他方、このような単なる詩的免許を振り回すような表現で説明を試みることは分析の無能を示すだけのものにすぎない。であるから、プルードンの言葉「労働が価値と呼ばれるのは、それがあたかも商品そのもののように見えるからではなく、価値と云う概念から見て、それがそのなかに潜在的に包含されていると思われているからである。云々」に対する答えとして私はこう云う。「労働、商品はおぞましき現実なのであるが、彼(ブルードン)は何も見ておらず、単なる文法上の省略記号だけを見ている。ありとあらゆる実存する社会は、労働商品の上に成り立っているのだが、それがこれでは詩人免許者のことば遊びの表象表現の上に成り立つことになる。社会はトラブルのもとになる不都合なことを除去しようと欲するのか。ならやることは簡単、あらゆる不快な音となる単語の全てを排除することである。言葉を取り替えよう。そのためには、アカデミーにそのことを伝えねばならない。そして新たな辞書への改版を求めればよい。」(カール マルクス 「哲学の貧困」(フランス語) 33、34ページ)価値と云う概念をもってものごとを理解しようと全くしなければ当然ながらより以上に心地よかろう。かくて何の困難もなく全てのものをこの範疇に取り込むことができる者が現れる。以下のようにすなわちJ. B. セイはかくおっしゃる。「価値とは何か? 」 答え 「それは価値のある物のことである。」そして「価格とはなにか?」答え 「貨幣によって表される物の価値である。」そして,なぜ農業は価値があるのか? 答え 「それはそれに価格を付けたからである。」かくて価値は価値があるところの物であり、そして土地はその「価値」を持つ。なぜならその価値が貨幣で表現されるからである。」これは、なにはともあれ、ふざけ半分の、物事の何故とかどうなるかを説明する際の非常に単純な方法となる。

  (8) 古典政治経済学は毎日の生活から「労働の価格」という範疇をなんの批判もなしに借用した。そして単純にこう質問した。どのようにしてこの価格は決められたのか? そしてすぐに気づく。他のあらゆる商品と同様にある中央値を上下する市場価格の変動のように労働の価格が需要と供給の関係における変化として説明されても、その変化以外はなにも分からないと気がつく。もし需要と供給がバランスし、他のすべての条件も不変のままなら、価格の変動は止まる。ゆえに、需要と供給は同様になにかを説明することもやめる。労働の価格は、需要と供給の平衡がとれた瞬間、その当たり前の価格は需要と供給の関係から独立して決められる。さて、どのようにしてこの価格は決められるのか、まさにこの質問となる。また例えば1年と云う長い期間の市場価格の変動から見れば、平均的な値からはずれる上下のそれぞれを相殺して、相対的な一定値が見出される。当然ながらこのことはそれらの自己補正的な変動とは別のものとして決められなければならない。この価格は、労働の偶然的な市場価格を、常にそして決定的に支配し、それを規定し、労働の「当然の価格」(重農派) または労働の「当たり前の価格」(アダム スミス)は、他の全ての商品と同様、その価値を貨幣において表される以外のなにものでもない。これについて政治経済学は、偶然的な労働の価格に縦横に分けて中に入り込み労働の価値を見つけ出せると考えた。他の商品について云えば、その価値は生産のコストによって決められた。そこで、労働者の生産コストとはなにか、つまり労働者自身の生産または再生産のコストとはなにか? この問題は政治経済学において無意識的にその最初の問題が別のものにすり替えられた。なぜならば、労働の生産コストを追及しても同じところを堂々巡りするばかりでそこを離れられなかったからである。そこで、その結果として、経済学者が労働の価値としたものは事実上労働力の価値である。それは労働者の個体の中に存在しており、その機能とは別のものである。あたかも機械と云うものが、その動くという作業とは別のものであるのと同じである。労働の市場価格とそのいわゆる価値と呼ぶものとの違いに、また価値とその利益率の違いに、また労働によって生産された商品たちの価値との違い等々に忙殺される限りは、彼等はその分析コースにあっては、その価値と思われる労働の市場価格からなにも引き出せないのみならず、ただただ、労働の価値そのものを労働力の価値に溶解させることにならざるを得ない。古典経済学はそれ自体の分析の結果の意識的認識にたどり着くことがなかった。なんの批判もなしに、「労働の価値」「当たり前の労働価格」などなどの範疇を受け入れた。そして最終的に、そして適当な表現として、価値関係を考察し、そして後に見るように、脱出不能の混乱と矛盾へと導かれた。基本的には外観のみを崇拝するかれらの浅薄な考察の停止状態ばかりが、この間延々と俗流経済学者らに提供された。

  (9) それでは次に、我々は、いかにして労働力の価値(そして価格)それ自体が、変換された状態として、賃金として現れるのかを見ていくことにしよう。

  (10) 我々は、労働力の一日の価値が ある一定の長さの労働者の生涯を元に算出されることを知っており、また繰り返すが、労働日のある一定の長さに相当することを知っている。習慣的な労働日が12時間であると仮定する、一日の労働力の価値が6時間の労働を実体化した価値の貨幣表現である3シリングであると仮定する。もし労働者が3シリングを受け取るならば、それは彼が12時間は働く彼の労働力の価値として受け取ることになる。今もし、この一日の労働力の価値が一日の労働そのものの価値として表されるならば、我々は次の公式を得る。12時間の労働は3シリングの価値を有する。かく労働力の価値は労働の価値を決定する。またはその当然なる価格が貨幣として表現される。もし、他方、労働力の価格がその価値と異なるならば、当然ながら、労働の価格はそのいわゆる労働の価値とは異なる。  

  (11) このように労働の価値は労働力の価値を表す単なる不合理値なのであるから、当然以下のように相成る。労働の価値はそれが生み出す価値よりも常に少なくなければならない。なぜならば、資本家は常に、労働力をそれ自身の価値を再生産するために必要な時間よりも長く働かせるからである。上の例では、12時間働かせる労働力の価値を3シリングとする。再生産に必要とされる6時間の価値とする。労働力が生産する価値は他方、6シリングである。なぜならば、事実として、12時間の作業とその価値は、それ自身の価値ではなく、働くことになる時間の長さに依存する。このように我々は、ただ眺めるだけでは、6シリングの価値を作り出す労働が3シリングの価値を持つと云う馬鹿げた結論に至る。*7

  本文注 *7: 「経済学批判」40ページ を見よ。そこで私は資本によって取り扱われる仕事のある部分について、以下の問題がいずれ解き明かされるであろうと述べた。「単純に労働時間によって決められる交換価値の基礎の上で、どのようにして、生産が、労働の交換価値がその生産物の交換価値よりも少ないと云う結論を導きだすのであろうか?」  

  (12) さらに突っ込んで見ていくことにしよう。労働日の一部分すなわち6時間の労働に対して支払われる3シリングの価値が12時間労働日の全体の価値または価格であるかのように現れる。かくしてその中には支払われない6時間の労働が含まれる。その結果として、賃金形式が労働日が必要労働と剰余労働とに、支払い労働と不払い労働とに分けられる痕跡を覆い隠している。全ての労働が支払い労働のごとくに現れる。賦役労働の時代にあっては労働者自身のための労働と、彼の領主のための強制的な労働は、場所も時間も違っているので最も分かりやすいものであった。奴隷労働においては、彼自身の生存のための価値とするわずかな部分でさえも、彼のご主人様のための労働として現れる。であるから、全ての奴隷労働は不払い労働として現れる。*8

  本文注 *8: モーニング スター紙は、ロンドン自由商売連の機関紙だが、素朴を通り越して愚かと云うものだが、アメリカ市民戦争(訳者注: 南北戦争)の間、繰り返しくり返し、有らん限りの道徳的な怒りを込めて、労働者たちに向かってこう叫んだ。「南部同盟州」の黒人たちはなんの報酬をも求めずに働くと。 (訳者挿入: ジャーナリストのはしくれを担う者としては) そのような黒人の日々のコストとロンドンのイーストエンドで働く自由労働者の日コストを比べるべきであった。

  (本文に戻る) 賃金労働においては、奴隷労働・全不払い労働とは逆に、剰余労働、不払い労働すらも支払い労働として現れる。奴隷労働においては、奴隷自身のための労働を所有関係が隠蔽している。賃金労働においては、賃金労働者の報酬なしの労働を貨幣関係が隠蔽している。

  (13) それ故、労働力の価値と価格を、労働そのものの価値と価格を賃金形式に変換することが (訳者挿入: 資本家どもにとっては) 極めて重要であることを理解することになろう。この変換現象が、現実の関係を見えなくし、そしてそれどころかその関係を直接的に反対物として示す。そしてこれが、労働者に対する資本家の全法律的詐欺の基礎を形成する。資本主義的生産様式を全面的に神聖化する基礎を形成する。自由に関する全ての勘違いの基礎を形成する。俗流経済学のあることないことのふざけた言い逃れの基礎を形成する。

  (訳者挿入: 向坂訳を合わせて示す。ここは怒りにまかせて、我が訳文はかなりえげつない。読者の皆さんの気分をあらためる必要があろう。以下多少難渋性がなくもないが、向坂訳 「かくして、労働力の価値と価格を労働賃金の形態に、あるいは労働そのものの価値と価格に転化させることの、決定的重要性が理解される。現実の関係を隠蔽して、その正反対を示すこの現象形態こそは、労働者と資本家のあらゆる法律的観念、資本主義的生産様式のすべての瞞着、そのあらゆる自由の幻想、俗流経済学のすべての弁護的空論が、その上に立つ基礎なのである。」) 

  (14) 賃金の秘密の最後まで行き着くのに歴史は多くの時間を費やしたとしても、他方、この現象の必然性、存在理由(フランス語)を理解する以上に簡単なものは他にはない。   

  (15) 初めて見る限りは、資本と労働間の交換は、あたかも他の全ての商品の買いと売りと同じ様なものとして表れる。買手はなにがしかの貨幣を与え、売り手は貨幣とは性質の違うなにがしかの品物を与える。法学者の意識としては、これを、大抵の場合、物こそ違え、法律的な等価公式を表すものと認識する。「望むならあたえ、つくりしものを与える。望むなら捧げ、つくりしものを捧げる。」(ラテン語) *9 

  本文注 *9: あなたが与えるであろうものに応じて私は与える。あなたがつくるであろうものに応じて私は与える。あなたが与えるものに対して私はつくる。あなたがつくるものに対して私はつくる。(訳者注: 上のラテン語の英訳の邦訳) 

  (16) さらに加えて云えば、交換価値と使用価値は本質的に比較しえない大きさであるのみならず、「労働の価値」「労働の価格」と云う表現は、「綿花の価値」「綿花の価格」と云う表現に較べてなにも不合理であるようには見えない。その上、労働者には彼の労働を与えた後に支払われる。支払い手段の機能として、貨幣は供給された品物の価値または価格をそれらの交換の直後に実現する。すなわちこの特殊なケースでは、労働が供給された後で労働の価値または価格が実現れさる。最終的に、労働者によって資本家に供給された使用価値は、事実、彼の労働力ではなくその機能であり、ある明確な有益労働である。仕立屋とか、靴づくりとか、紡績とかその他の仕事である。他方この同じ労働が、全世界共通の価値創造要素である、従って、他の全ての商品とは異なる特性を持っているのであるが、普通の知力による認識レベルを越えている。 

  (17) さて、それでは我々自身を、12時間の労働の報酬を受け取る労働の立場に立たせて見よう。そうすれば、6時間の労働で生産された価値、すなわち3シリングを受け取る。彼にとっては、事実、彼の12時間の労働は3シリングの購買手段である。彼の労働力の価値は変化するであろう。彼の生活手段の価値によって、3シリングから4シリングへ、あるいは3シリングから2シリングへと。または、もし彼の労働力の価値が一定に保持されるとすれば、価格が需要と供給の変化する関係に応じて変化するであろう。4シリングに上昇したり、2シリングに低下するであろう。彼は常に12時間の労働を与える。かくして、彼が受け取る等価の量における変化は、彼にとっては、彼の12時間の仕事の価値または価格の当然の変化として表れる。この状況がアダム スミスを誤らせる、彼は労働日を一定の大きさのもののごとく取り扱う。*10

  本文注 *10: アダム スミスは、彼が出来高払い賃金を取り上げる際に、労働日の変化に、偶然のニアミスで言及しているにすぎない。 

  (本文が続く) そして、生活手段の価値が変化したとしても、労働の価値は一定であるとの主張に至る。その結果、同じ労働日が、労働者対しては、それ自体を、多いか少ないかの貨幣で表わすことになる。(訳者注: アダム スミスの矛盾した論理ではのことで、不払い労働をブルジョワ的に隠蔽する 振り込まず詐欺論法)

  (18) さて、それでは他方の、資本家の立場を考えて見よう。彼はできるだけ少ない貨幣でできるだけ多くの労働を受け取りたいものだと欲している。であるから、実際に彼が興味を持つことはただ一つ、労働力が創り出す価値と労働力の価格の間の差額のみである。要するに、彼はあらゆる商品をできる限り安く買いそして常に彼の利益を単純なる詐欺によって得ようと考える。価値以下で買いそれ以上の価値で売る。そればっかりゆえに、資本家は、もし労働の価値が実際に存在しているとして、そして彼が実際にその価値を支払うならば、資本は存在することがないだろうし、彼の貨幣が資本に転化されることがないだろうと云うことには少しも気が付かない。  

  (19) さらに加えて、賃金の現実の動きは、労働力の価値が支払われるのではなく、その機能の価値、労働そのものに支払われるように見える現象を示す。我々はこれらの現象を二つの大きな区分に集約することができよう。1.) 労働日の長さの変化に応じた賃金の変動。ある者はこう結論づけるかもしれない。機械の価値が支払われるのではなく、その動きのそれに対して支払われるのであると。なぜならば、一日機械を賃借りするよりも一週間賃借りする方が高く付くからである。2.) 同じ種類の仕事をする異なる労働者の賃金における個人的な相違額。奴隷制度においてはこの個人的な相違額を見つけるが、それによって詐欺に会うことはない。そこではあからさまに、そして公然と、なんの婉曲的表現も抜きに、労働力そのものが売られる。ただ一つ、奴隷制度では平均以上の労働力の利益も、平均以下の労働力の不利益も奴隷所有者に影響する。賃金労働システムでは労働者自身に影響する。なぜならば、この賃労働システムでは、彼の労働力は彼自身によって売られるからであり、奴隷制度では第三者によってそれが売られるからである。

  (20) そして最後に、「労働の価値と価格」または「賃金」の現象形式を、そこで明かされようとしている本質的関係を対比的に表しているとて考えると、つまり、労働力の価値と価格は同様に、上と同じものを持っており、あらゆる現象とそれらの隠された実体があるのである。前者(訳者注: 現象) は世俗的な常識的な思考のごとく直接的に、無意識的に表れる。後者(訳者注:その本質) は科学によってまずなによりも発見されねばならない。古典政治経済学は物事の真の関係にほとんど触れかけてはいるが、それでもそれを意識的に明確な言葉で示せていない。この論理的追及はブルジョワジーの皮膚を身に纏っている限りはできはしない。


 

  訳者余談: ここには労働の価値・価格、以下労働力の、そしてその作動のそれが取り上げられて、追及されている。多分私は、これらの言葉を正確には把握し得てはいないと思っている。だから訳においても充分に表せてはいないと思う。読者の皆さん方には、先輩たちの訳やその他の関連をも見ながら、できるだけ正確に把握して貰いたい。

  とはいえ、多少私の思考も参考にして貰いたい。科学の粋であるロボットを登場させよう。その労働は、労働力は、その作動は、その価値・価格と労働者のそれとを較べてみよう。前者は自分を再生産するための機能を有するとは思わない。後者は再生産しないかぎり存在しつづけることはできない。自分で自分たちを生産する他ない。当然ながらハイブリッド ロボットが考えられる。半分人間半分機械である。だがこれも人間の発想による娯楽映画では、資本主義的な発想、ブルジョワ皮膚をまとった商売の自由範疇の作品でどうにもならない。だが、見えてくるのは限りなく人間に近づく。経験を持ち、判断とその結果を蓄積し、真実に近づく。ブルジョワ経済学を越えるのも時間の問題だ。将棋はもうブロ棋士の能力を越えて、将棋界に新定跡すら提供する。話がおかしくなったかな。ハイブリ棋士はそれを生み出す労働の価値以上のなにものでもない。しかも自分で自分を売ることはできない。半分の価格で取得することはできない。多少の詐欺要素はあるとしても、法律的詐欺の対象にすることはできない。仮に半分で取得したとしても、剰余労働で、同様ハイブリ棋士を脇に置いた対戦相手から勝利を得ることなどできない話である。吹けば飛ぶような将棋の駒しか持てない労働者兼業の対戦相手に勝ったとしても、昇段は許されまい。まあ詐称の段の効果は知れたもの。ましてなんとかステーXで勉強してもどういうわけかなかなか強くならない。覚えないからである。覚えられないのだ。ハイブリ化の誤作動、何の話だったっけ。将棋労働の価値の話なら、金か銀に聞け。なに歩切れ。秒読み。投了の瞬間だ。うるさい余談だったな。申し訳ない。







[第十九章 終り]