エヴノ・アゼーフ

トロツキー/訳 志田昇

【解説】この論文は、有名なアゼーフ事件に関する裁判記録をもとに、オフラーナのスパイでありながら長年にわたってエスエル戦闘団の最高指導者として数々の政府要人暗殺に携わってきたエヴノ・アゼーフという人物の特異な個性について、鋭い分析力でもって叙述したものである。この中でトロツキーは、ある意味で後のスターリンとも共通するようなアゼーフの特徴について明らかにしている。

「知性と感受性は必ずしも長所ではない。もしアゼーフが、彼が出入りしていたような聡明で経験豊富なインテリゲンツィアの社会の中で、精緻な心理的編み物をつむぎ始めたとしたら、彼は一歩ごとに失敗せざるをえなかっただろう。思想に忠実な人間という仮面をかぶって、他の人々と対等につき合ったならば、きっと、まるではき古したエナメルの靴からきたない靴下がはみ出るように、スパイのおきまりの相貌が現われたにちがいない。しかし、アゼーフがそういった活動をまったく企てず、公然とその持ち前の肉体的・精神的な顔で通した場合に、問題は別である。彼は周囲に溶けこんだ。計画にしたがって考え出され作られた振る舞いによってではなく、もっぱら、自分を偽ることのできない愚鈍な無能さの自動的な圧力によって、人々を自分に慣れさせたのである。彼の仲間は彼を見て、心の中でつぶやいた(つぶやかざるをえなかった)。「なんて奴だろう。まったくの下司野郎だ。だが、奴の任務はまったくこいつにふさわしい」。もちろん、すべての人が彼のことを下司な奴と――もっとも腹の中でにすぎないが――呼ぼうとしたわけではない。しかし、すべての人がだいたいそのように感じたにちがいない。そして、これが彼を救ったのである。彼は、自分の周囲に調和せず公然と己れのアゼーフ的本質を持ち続ける可能性をしっかりと手中にしたのである。」

 同じようにスターリンも、周囲の人間の軽蔑と安心を醸成しつつ、しっかりと権力のテコを握ったのである。

Л.Троцкий, Евно Азеф, Сочинения, Том.8−Политическая силуэты, Мос-Лен., 1926.

Translated by Trotsky Institute of Japan


 パリで『アゼーフ事件に関する裁判調査委員会の結論』が108ページのパンフレットとして出版された。A・バフを議長とする裁判調査委員会は、75回の会議を開き31名を尋問した。取り調べの資料は、二つ折り版で1300ページ以上ある。公表された『結論』は、審理によって得られた最重要資料の短い報告とそこから引き出された基本的な結論からなっている。

 私はこのパンフレットを大いに興味をもって読んだ。社会革命党の戦闘団と中央委員会のメンバーであったエヴノ・フィリポヴィチ・アゼーフ(1)が、職業的挑発者だと宣言された1909年1月以来、この人物をめぐって膨大な国際的文献が現われた。こういった文献は主としてセンセーショナルな調子のものであった。それも当然だ。事実そのものがすでにあまりにも異常にセンセーショナルであったし、事実そのものがすでにあまりにも想像力を刺激したのであるから。ほとんどすべての人の頭の中には、とくに俗物の頭の中には、まるで絵に描いたようにこのロマン主義的な蛆虫が住みついている。この蛆虫は、日常の気苦労の中で麻痺しているのだが、ひとたびセンセーショナルな事件に刺激されると次々に新しい糧を、しかも、ますます異常なものを要求する。それは、うずくような好奇心である。現代の情容赦のない新聞の時代には、あらゆる事件が莫大な量の報道を読者にもたらす。そして、その報道はますます、もともとの源泉から遠ざかっていく。新しい糧をなくしたセンセーショナルな報道は、2次的、3次的……「N+1」次的な報道によって養われる。結局、一定の時間がすぎると、ロマン主義の蛆虫の心理的・生理的な性質に規定されて、センセーショナルな報道は飽きられ、このセンセーションを引き起こした事件は新聞紙の山の下に葬られる。

 センセーショナルな報道に刺激された社会心理は、ますます異常なものを要求するだけでなく、こういった解説が事件を現実主義的な枠におさめていることに気づいて若干の腹立ちを感じさえする。一般に、社会心理がこうした場合に求めているのは、解説なのではない。それが求めているのは、謎めいた未解決のものなのである。警察局に通じた最強のテロリスト、最も信頼のおけるスパイ、内務大臣や大公の暗殺組織者。この人物は、内的な矛盾をもっているがゆえに、偉大で人間的なものの――人間的にすぎないものの――枠をはるかに越えた偉大な人物ではないだろうか。最も冷静に判断する人々でさえ、「最大のテロリスト」の問題を前に困惑しつつ、同時になにがしかの心理的満足感を感じている。彼らの場合には、こういった感情に民族的感情の若干のニュアンスが加わりさえする。つまり「アゼーフ事件でヨーロッパの鼻をあかしてやった」というわけだ。ヨーロッパのカフェの国際社会では、多くのロシア人が当時はまったく主役のような顔をしていた。

 抗議した人も、いや激しく抗議した人さえもいた。私の友人の一人は、怒りっぽい性質のために大学さえ卒業しなかった人だが、アゼーフの悪魔性を崇拝する風潮に対して、異常に反感を抱いていた。彼はこう言っていた。「アゼーフなんか知らないし、今まで彼のことを聞いたこともないが、彼にはいかなる悪魔的性質もあるとは思われない。なぜなら、本質的に彼はまったく間抜けであるにちがいないからだ。この考えをあえて口に出して言ってもかまわない。悪魔的な活動を17年の間やって、口をすべらすこともなく、ばれずに騙しつづけるためには、たいへん賢い天才であるか、あるいは反対に、極端に単純な構造の頭と心臓をもつ人間、つまり、単に愚鈍な人間であることが必要だ。この愚鈍な人間が、粗野に一徹に恥知らずに人の心理を気にせず細かいことに気を使わずに自分の仕事をやりとげ、まさにこのために、勝利者として現われるのである。しかし、アゼーフを天才とみなすよりも愚か者とみなす方がはるかに自然じゃないか。第1に、世の中には愚か者の方がはるかに多くいるものだし、第2に、そしてこれが重要なのだが、天才ならば自分の力を秘密警察の壁の外で使用するだろうからだ」。

 私には最初から魅力的なものと思われたこの逆説的な仮説は、アゼーフに関連してストルーヴェ氏(2)が語ったある有意義な逸話と対比するなら、非常に可能性が高いように私には思われる。この逸話は、赤い急進主義者のストルーヴェ氏がマルクス主義雑誌『ナチャーロ』を編集し、まだ、ユダヤ人について軽く云々する(もちろん、大いに反ユダヤ主義的な意味で)意図からまだまったく遠かった大昔のことである。当時、この将来の保守的な国家自由主義者は、警察局にとって魅力的なものであった。警察局はストルーヴェのところに「協力者」としてグロヴィッチを送りこんだ。この無学なスパイは尊敬すべきこの大部の雑誌の共同発行者になった。ちなみに、彼は発行費用を一銭も払わなかった。もっとも、彼が払うことになっていた分担金は、国庫から完全に受け取っていたと考えねばならない。これについては、今や暴露に従事している当時の大蔵大臣ヴィッテ氏(3)に問い合わせることもできるだろう。この失敗をストルーヴェ氏は、次のように述べて合理化した。グロヴィッチは非常に愚か者だったので、どんなに分別のある人も、警察局が最も教養ある文筆家たちを捕まえるために、こんな度し難い愚か者を使うとは思いもしなかったのだ、と。頑固な理論家の生真面目さをもって、ストルーヴェ氏は当時、このグロヴィッチの愚かさによって警察局の顔を次のように軽くつつきさえした。

「恥を知りたまえ。これが国家機関だというからあきれる。有能な人間を配置することはできなかったのか!」。

 しかしながら、グロヴィッチは、愚かであったにもかかわらず、教養ある賢明な人たちをだまし、彼らの仲間と呼ばれ、左翼雑誌に自分の名前をサインし、そのうえ発行の分担金を着服し、ついでに自分の雇い主にも損をさせたというのは、本当だろうか。つまり、愚か者はこの使命にはそれほど不適格ではなかったのである。そして、今や保守的国家のイデオローグとなっているストルーヴェ氏は愚か者どもを過小評価するべきではないし、まして、けなすべきではまったくない…。

 

紳士諸君、人間の愚かさに感謝せよ。

愚か者は勇敢だ。

愚か者を大言壮語で脅すことはできない。

山を丘とみなす。

そして、巧みな愚か者は道に砂粒を置き、

利口者はたちまちひっくり返る。

 

 知性と感受性は必ずしも長所ではない。もしアゼーフが、彼が出入りしていたような聡明で経験豊富なインテリゲンツィアの社会の中で、精緻な心理的編み物をつむぎ始めたとしたら、彼は一歩ごとに失敗せざるをえなかっただろう。思想に忠実な人間という仮面をかぶって、他の人々と対等につき合ったならば、きっと、まるではき古したエナメルの靴からきたない靴下がはみ出るように、スパイのおきまりの相貌が現われたにちがいない。しかし、アゼーフがそういった活動をまったく企てず、公然とその持ち前の肉体的・精神的な相貌で通した場合には、問題は別である。彼は周囲に溶けこんだ。計画にしたがって考え出され作られた振る舞いによってではなく、もっぱら、自分を偽ることのできない愚鈍な無能さの自動的な圧力によって、人々を自分に慣れさせたのである。彼の仲間は彼を見て、心の中でつぶやいた(つぶやかざるをえなかった)。「なんて奴だろう。まったくの下司野郎だ。だが、奴の任務はまったくこいつにふさわしい」。もちろん、すべての人が彼のことを下司な奴と――もっとも腹の中でにすぎないが――呼ぼうとしたわけではない。しかし、すべての人がだいたいそのように感じたにちがいない。そして、これが彼を救ったのである。彼は、自分の周囲に調和せず公然と己れのアゼーフ的本質を持ち続ける可能性をしっかりと手中にしたのである。

 『結論』の資料には、アゼーフが浅はかな人間に「見えた」という指摘がいたるところにある。ほとんどすべての人が彼の第一印象を悪く言っている。尋問された人物の一人はこの「第一印象」を次のように要約している。「見た目は鼻もひっかけたくないような人物だ」。「彼はもぐもぐ話す」と彼を非常に評価していたゴーツ(4)はアゼーフについて述べた。裁判調査委員会自身は、資料の選択に関しては非常に良心的なのだが、そのあらゆる結論において、極度に中途半端であり、アゼーフが知的には取るにたらぬ人物であるという意見を「極端なもの」とみなしている。委員会は、その際に、証言者の中の一人の証言を引き合いに出している。それによれば、アゼーフは、1901年にモスクワのマルクス主義者のサークルで、ミハイロフスキー(5)の思想を、そして、特に彼の「個人主義との闘争」を擁護して「興奮した口調」で演説した、というのである。しかし、1901年にミハイロフスキーの可否をめぐってどんな演説をしようとどうでもいいことだ! だが、アゼーフの知的履歴書には、入念な調査の後でも10年前のたった一度の「興奮した」演説しか書き込めなかったという事実だけでも、すでに、彼の知的創造性が噴水のようにほとばしるものではなかったことを何よりもよく示している。万事を――プレーヴェ(6)の頭も、ゲルシュニ(7)の頭も――ルーブル銀貨に置き換える習慣をもち、まるで上質のオリーブ油のように、ブローニング銃やダイナマイトを取引するような奴は、絶対に社会化とか協同組合とか個人主義との闘争に対して、いささかなりとも真剣な関心を持っているふりをすることはできなかった。したがって、彼はあらゆる党会議でも沈黙することが多く、時々、「やっともぐもぐ発言した」。そして、彼は自分の同志たちに感銘を与えはしたが、それは思想によってでもなければ演説によってでもなかった。反対に、彼はあらゆる種類の知的な問題に対する実務家的な軽蔑を隠さず、見栄をはってそういったものを無視しさえした。そして、このことは、党のイデオローグや理論家や文筆家によって、民間人の任務に対する真の軍人の関係を示す彼の一種の長所とみなされた。そのために、このしっかりと確立された彼に対する態度のおかげで、彼が何らかの理論的な意見を述べた場合には、それがまったくくだらない、ありふれたものであっても、すべての人が、オスタップが父のタラスについて考えたときのような皮肉な尊敬をもって、お互いに目配せをしたものである。愚か者のふりをしているだけで、どんな難問題もお手のものなのだ、というわけである。

 しかし、『結論』が、ある程度は彼の影響力を説明できるはずのアゼーフの知的理論的業績についてあまりたいした確信もなく語っているが、こうすることによって、ますます精力的に調査委員会は、アゼーフを天才的な偽善者として擁護しているのである。真に党的な人間の役割をアゼーフがまるで「完全に」演じ、自分の計画をまるで驚くべき巧みさで実行し、でしゃばらず、前に出ることもなく、自分の考えを押しつけることはなかった、というのである。しかしながら、委員会自身の資料は、必ずしもこのような性格描写を裏づけていない。「しばしば」アゼーフは怒りを爆発させ、彼特有の残酷さと冷淡さを見せた。たとえば、拷問の悲惨さや牢獄での虐待に関する情報は、まったく彼の感情を動かさなかった。そして、このことは彼の友人たちに奇妙な印象を与えないわけにはいかなかった。しかし、自分の愚鈍な無表情によってすべての人を圧迫して、彼はあるがままの自分を受けいれさせた。彼の性格の奇妙さは、『結論』の言葉によれば、「ある程度までは戦闘団の責任を引き受けた人間の義務であるような不屈さと精神的な感受性の不足によって説明される」。ということは、それにもかかわらず、残酷さや冷淡さや他の「性格の奇妙さ」が、明るみに出て人を当惑させ、説明の必要を生み出したのであろうか。しかし、どこでどのような場合に「演技の完璧さ」があったのだろうか。

 委員会の資料も、まるでアゼーフがでしゃばらず意見を押しつけず自分の「計画」を実行したかのような委員会の主張をまったく裏づけていない。実際には、アゼーフはあらゆるスパイと同様におどおどしていた一番最初の時期にでしゃばらなかったにすぎないのである。しかも、とくにでしゃばる場所がなかったのである。というのは、社会革命党はまだ存在していなかったし、アゼーフは個々の人物やグループと関係を持たなければならなかったからである。しかし、何かうまい話がありそうになると、アゼーフはそのころにもすでに前に出てしかもきわめて不器用に意見を表明した。スイスで彼は1893年に自分を「極端なテロリスト」として吹聴していた。誰にも支持されていなかったブルツェフ(8)が90年代にロンドンからテロの再開を扇動したとき、当時まだあまり知られていなかったアゼーフは、手紙でこれを歓迎し協力を申し出た。つまり、自分を売り込みもしたし、意見を押しつけもしたのである。ずっと後で、すでに「プレーヴェ事件」が起こった後で、そのころアゼーフは戦闘団の長であっただけでなく、少なくとも組織的には党全体の党首でもあったのだが、彼は、うぬぼれたスパイのきわめて専制的なずうずうしさで行動しはじめ、頭がおかしくなったのではないかという真剣な危惧を若干の同志の間で引き起こした。つまり、やり過ぎたり度を越したりしたのである。

 ところが、彼は捕まらなかった! ここに最大の謎がある。驚愕をもって――そして、この驚愕は文字どおり世界のすべての新聞をかけめぐったのだが――アゼーフが一度も本音を、夢の中のうわ言でさえもらさなかったという事実が持ち出されている。これは超人的な自制心ではないだろうか? 悪魔的な力ではないだろうか? しかし、第1に、いったいアゼーフの夢の速記録を誰が作り裁判調査委員会の分析に付したというのか。第2に、はたしてこの点では不貞の妻は悪魔的な挑発者に匹敵することはできないだろうか。というのは、不貞の妻たちも夢の中で欺かれた夫に対する隠しだてのない告白をしているとは立証されていないからである。

 だが、アゼーフの夢の状態がいかなるものであったとしても、事実は事実である。長年にわたる挑発「活動」において、アゼーフは失敗しなかった。この一事だけでもすでに彼の並はずれた忍耐力の最良の証拠であるようにみえる。しかしながら、この「失敗しなかった」というこの神聖な事実をいかに理解するべきだろうか? これは、少なくとも重大な失敗をしなかったということを意味するのだろうか。それとも、単に、きわめてひどい失敗でさえ、アゼーフのまわりにつくられた状況においては彼を破滅させることができなかった、という意味に理解すべきなのだろうか。ここに問題全体の根源がある。この側面から謎に近づくやいなや、ただちに、一つの真に驚くべき事情が注意をひく。アゼーフの経歴のほとんど全期間に、彼が挑発者であるという噂や直接的な告発がつきまとっていたことである。アゼーフが学生であったダルムシュタートにおいてすでに、教授の一人は私的な会話の中で彼について「このスパイめ」という言葉で批評していた。

 1903年には、ある学生はアゼーフが挑発者であると告発している。1903年の8月には著名な社会革命党員が匿名の手紙を受け取った(この手紙は今日知られているところによれば、メニシチコフによって書かれたものである。『新時代』に勤務していたメニシチコフではなく、警察局に勤務していた方のメニシチコフである)。この書簡は、「技師アゼーフ」が挑発者であることをきわめて明確かつ説得的に指摘していた。アゼーフは手紙を見せられると、驚いてヒステリーを起こした。感情を爆発させ、しゃくりあげて泣いた。しかし、彼の幸運が揺るぎないものであることを確信すると、「ふざけた気分」になった。1906年の初めに、サラトフの秘密警察のスパイからアゼーフを告発した証言が党の手に入った。1906年の秋には、南部の一都市の秘密警察の官吏からの同様の証言があった。1907年の秋には、いわゆる「サラトフ書簡」(9)が現われた。この書簡は、完全に明確で、事実に関して容易に検証できる指摘を含んでいた。しかしながら、すべてのこれまでのものと同様、これも検証されなかった。最後に、このすべての後で、ブルツェフが1908年に暴露キャンペーンを始めた時に、ブルツェフは党指導部の側からの必死の抵抗にあった。さらに、ロプーヒン(10)がブルツェフの疑いの正しさを完全に証明し、ブルツェフが、アゼーフが挑発者であることを新聞紙上で公表しようとしたとき、中央委員会の一メンバーは「アゼーフと党は同一である……それでもやるというなら、どうぞお好きなように」という言葉とともにブルツェフの新聞の校正刷を彼に突き返した。

 こうしたすべての事実を考慮すれば、こういった直接的な告発に比べたら、アゼーフのあれこれの副次的な失敗がいったいどんな意味を持つのかと問わざるをえない。もし、事のいきさつを説明したきわめて説得力のある秘密警察の密告を信じないとすれば、メニシチコフやバカーイ(11)やロプーヒンの資料を信じないような雰囲気があるとすれば、アゼーフ自身の行動の欠点や彼のぎこちない振る舞いや彼のひどい間違いでさえ、気づかれることがありえたであろうか?

 アゼーフの成功の秘密は、悪魔的な巧妙さにあるのでもなければ、彼の個人的魅力にあるのでもないことは明白である。われわれがすでに知っているように、彼の外面は人を反発させるものであり、彼が引き起こす第一印象は常に不愉快でときには嫌悪をもよおすようなものであった。彼は思想的な関心を持っておらず、かろうじてもぐもぐ言うだけであった。彼には感受性が欠けており、感情と表情は残酷で粗野なものであった。彼は初めは恐怖のためにしゃくりあげて泣き、おちつくと「ふざけた気分」になった…。

 アゼーフ主義の秘密はアゼーフ本人の外にある。それは、彼の党の仲間が挑発という潰瘍に指を触れながらこの潰瘍を否定するようにさせた催眠状態にある。この集団的催眠状態はアゼーフによってつくられたのではなく、システムとしてのテロによってつくられたのである。党の上層部がテロに与えているような意義は、『結論』の言葉によれば「一面ではアゼーフの手中の従順な道具であり、党の上に立つ完全に独立した戦闘団の建設をもたらし、他面では首尾よくテロを実践した人物、すなわち、アゼーフの周囲に崇拝と無制限の信頼の雰囲気をつくりだした」…。

 すでに、ゲルシュニは自分の地位を党の目からすれば半ば神秘的な後光でつつんだ。アゼーフは、戦闘団の指導者の地位とともにこの後光をゲルシュニから相続した。その数年前にテロルの依頼にこたえて、ブルツェフに協力を申し出たアゼーフは今やゲルシュニを見出した。これは当然である。しかし、ゲルシュニがアゼーフに助力したということも当然である。何よりも、当時の選択範囲はまだきわめて限られたものであった。テロリストの潮流は弱体であった。主要な革命勢力は対立するマルクス主義の陣営にあった。そして、原則的な疑問も抱かず政治的な動揺もせずに、あらゆることに覚悟ができている人間はゲルシュニのようなテロリズムのロマン主義者にとっては真の宝であった。それにしても、理想主義者であるゲルシュニがいったいどうしてアゼーフのような人物を道徳的に信頼することができたのであろうか? しかし、これはロマン主義者とペテン師との関係についての昔からの問題である。ペテン師は、常に、ロマン主義者に感銘を与えるものである。ロマン主義者はペテン師の些細で月並みな実務主義にほれこみ、自分に過剰な性質とは違ったものをペテン師に期待する。ロマン主義者がロマン主義者であるのは、自分の姿に似せて想像された人々と状況から自分のための舞台装置をつくりだすからこそである。

 裁判調査委員会は、客観的な事情を犠牲にして「主観的な要因」にできるだけ広い領域を割り当てようという志向を明らかに示している。とくに、委員会は、戦闘団の独立性と閉鎖性が、アゼーフによって意識的に考えだされ巧みに実行された政策の結果であったと執拗に繰り返している。しかしながら、同じ委員会からわれわれが先に聞いたところによれば、戦闘団の独立性はテロリズムという超陰謀的で閉鎖的なサークルの実践から生じたものであった。そして、このことは調査資料によって、このうえなく裏づけられている。アゼーフの組織的な陣地を準備しただけでなく、それを完全な形でつくり上げたのはゲルシュニである。『結論』の言葉によれば、彼自身が独裁者であった戦闘団の創始者ゲルシュニは、純個人的な絆でもって戦闘団を中央委員会に結びつけ、このことによって、戦闘団を党の上に立つ機関にかえた。その後、彼が自ら体現した戦闘団のすべての権威によって、ゲルシュニは中央委員会においても決定的な影響力を獲得した。メカニズムがつくられたとき、ゲルシュニは逮捕された。ゲルシュニ自身が自分の後任に予定していたアゼーフが彼にとって代わった。党から独立し党の上にそびえ立つ地位を占めたことによって、アゼーフは防壁つきの要塞にいるようなものだった。党の残りのすべてのメンバーにとって、彼は近づきがたい存在となった。こうした地位の確立をわれわれはアゼーフの個人的な「創造」とはみなさない。彼は単にシステムが彼に与えたものを手に入れたにすぎない。

 「偉大な実践家」であるアゼーフへの信頼が生じた。彼の唯一のではないにしても主要な実践的才能は、政治警察の手中に落ちなかったことにあった。この長所は彼の個性にではなく彼の職業のおかげである。しかし、この長所は彼の器用さや機転や忍耐力のおかげにされた。「戦闘員」の評価にしたがえば、アゼーフは「恐怖というものをまったく知らない」。ここから、アゼーフに対する崇拝が生じた。アゼーフは彼らの目からすれば「戦闘員」の理想を体現しており、党の残りの部分から見れば戦闘団全体を体現していた。その後は、いっさいが自動的に進行した。アゼーフの協力のもとで暗殺を実行した人は、破滅した。アゼーフの協力があってもである。実行されたことの栄光のなごりは表に出ない組織者であり指導者であるアゼーフのもとに残る。外国にいる党の思想上の指導グループのあいだでは、アゼーフは、委員会の言うところでは「流れ星のように現われ偉業の後光につつまれていたが、この偉業の詳細に関してはきわめてわずかなことしか論じられなかった」。

 彼に対立して抜擢された人々や彼にかかわりなく仕事をしていた人々を、アゼーフは裏切った。これは、当たり前でほとんど反射的な自衛行為であった。その結果、2つの陣営でアゼーフの権威は大きくなった。あまりにも巨大な裏切りを行なった後に、彼は――おそらく、右側の最も近しい取引相手の同意をえて――、テロの指令を与えた。このテロは、左側の取引相手に対して自分の権威を強くするにちがいないものであった。彼は裏切ったが、彼の背後には彼の上司が働いていた。彼の上司は自分の「協力者」を維持し、その足跡を消すために全力を尽くした。そして、このスパイはほとんど運命的な力とともに高みに引き上げられた。

 以上述べたことを、エヴノ・アゼーフの個性のいかなる側面も、彼を歴史的人物にした非個人的な政治的力の作用の中で役割を果たさなかったという意味に理解する必要はない。すなわち、アゼーフを、彼に劣らず低劣であるが、ずっと取るにたらないユダたちから区別するような何かが彼にはあった。より自信をもった愚鈍さ、より大きな狡猾さ、より高級な社会的肩書(外国で資格を得た技師)、こういったものすべてが、テロリストの歯車と警察の歯車がこの人物の中でかみ合い、この人物を悲惨さと不名誉のこれほどの高みに高めるためには、必要だったのである。しかし、この驚くべき運命の謎を解く鍵は、人物そのものにあるのではなく、2つの歯車の構造と両者のかみ合い方の中にあるのだ。驚くべきものは、アゼーフ体制の中にあるのであって、アゼーフの中にはない。「最大の挑発者」は自分の中にいかなる悪魔的なものも持っていない。彼は単なるろくでなしであったし、ろくでなしのままである。

『キエフスカヤ・ムイスリ』126号、1911年5月8日

『トロツキー著作集』第8巻『政治的シルエット』所収

『トロツキー研究』第17号より

  訳注

(1)アゼーフ、エヴノ(1869-1918)……ロシアのテロリストで秘密警察のスパイ。エスエル戦闘団の指導者として、内相プレーヴェ、セルゲイ大公などの暗殺を組織。1908年に、スパイ摘発の専門家ブルツェフによってスパイであることが暴露され、翌年1月にエスエル党中央委員会により死刑を宣告。1915年にドイツで捕らえられ、ベルリンで没。

(2)ストルーヴェ、ピョートル(1870-1944)……ロシアの経済学者、政治家。最初、合法マルクス主義者として活躍し、ロシア社会民主党の創立大会の宣言を起草。その後転向し、ブルジョア議会政党であるカデットの指導者に。10月革命後、ウランゲル政府のメンバーに。その後亡命。

(3)ヴィッテ、セルゲイ(1849-1915)……ロシアのブルジョア政治家。資本主義育成策に力を注ぎ、1905年革命のさなかに首相となって、国会開設などの一連の改革を指導。その後、反動化とともに失脚。

(4)ゴーツ、アブラム(1882-1940)……エスエル幹部。兄は1906年までエスエルの指導者。1905年革命で逮捕され、1907年、懲役刑を宣告。1917年の2月革命後、ペトログラード・ソヴィエトにおけるエスエル会派の指導者。6月の第1回全ロシア・ソヴィエト大会で中央執行委員会副議長に。10月革命後、ボリシェヴィキ政権に激しく武力抵抗し、1920年に逮捕され、公開裁判で死刑を宣告されたが、その後釈放され、ソヴィエト機関で働くことが許可される。粛清期に逮捕され、1940年にアルマアタで銃殺。

(5)ミハイロフスキー、ニコライ(1842-1904)……ロシアの社会学者、ナロードニキの理論家。農民社会主義を唱えてマルクス主義と対立した。レーニンによって批判される。

(6)プレーヴェ、ヴャシェスラフ(1846-1904)……帝政ロシアの政治家、警察官僚。1881年より警察局長。1902年に内相兼憲兵長官として、各地の農民一揆や労働運動の弾圧に辣腕を振る。エスエル戦闘団のサゾーノフによって暗殺。

(7)ゲルシュニ、グリゴリー(1870-1908)……ロシアの革命家、社会革命党の「戦闘団」の創設者の一人。1902年、彼の指導のもと、内務大臣シピャーギンの暗殺が実行された。1903年5月にキエフで逮捕され、無期懲役を言い渡される。1906年にシベリアから国外に脱走。1908年死去。

(8)ブルツェフ、ウラジーミル(1862-1942)……ロシアの古参ナロードニキ、「人民の意志」派。第1次世界大戦まで、挑発分子を暴露する専門家として活躍。1908年に最大のスパイ挑発者アゼーフを暴露。10月革命を受け入れず、亡命。1923年にパリで回想録を執筆。

(9)「サラトフ書簡」……1907年秋に、サラトフのエスエルの活動家からエスエル中央委員会に宛てられた書簡で、その中でアゼーフがスパイ挑発者の役割を果たしていることが述べられていた。この書簡はセンセーショナルを引き起こした。

(10)ロプーヒン、アレクセイ(1864-1928)……ロシアの警察官僚。1902〜05年、ロシア内務省の警察局長。1906年のペテルブルク・ソヴィエト裁判で、ポグロム活動における政府の関与を暴露。また、アゼーフ事件における政府の挑発活動も認める。1909年に逮捕され流刑。

(11)バカーイ、ミハイル……著名なスパイ挑発分子で、スバトフ主義の時代からすでに秘密警察のスパイだった。オフラーナの命を受けて、エスエルの地下活動家に。1907年に逮捕されるも、国外に脱出。国外で、ブルツェフとともに、自らがスパイ挑発者であった経験を生かして、アゼーフなどの挑発者を暴露することに尽力した。


  

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