統一の諸問題

(編集部から)
トロツキー/訳 西島栄

【解説】この論文は、トロツキー派の独自機関誌であった『ボリバ』に掲載されたもので、解党派の中の左派の代表的論客であったラーリンの党統一論(連合制にもとづく党の統一)を体系的に批判し、党統一のための諸原則を明らかにしている。トロツキーはより初期の党統一論文の中では、政党活動の自由が厳しく抑圧された反動期であるがゆえに党の分裂が存在しているという立場をとっていたが(たとえば、「ロンドン党大会の教訓」など)、この論文では逆に、そうした立場を主張したラーリンを批判している。この数年間の経験は、分裂の原因が反動的抑圧という外的要因にもとづくものではないことをトロツキーは理解するようになったのである。

Л.Троцкий, Вопросы единства (оть редакции), Борьба, No.3, 1914.4.9.

Translated by Trotsky Institute of Japan


  1、民主主義的中央集権制と連合制

 社会民主党の組織形態ははなはだ多様である。それは国によってさまざまであるだけでなく、同じ国でも時期によってさまざまである。組織形態というものは常に、時間と場所の諸条件によって規定される。しかし、それにもかかわらず、すべての国で遅かれ早かれ労働者政党建設への道を切り開くうえで必要な基本的な組織原理というものを確定することはできる。この基本的な原理とは、民主主義と中央集権制である。この2つはどちらも、プロレタリアートの闘争の性格に深く根ざしている。労働者を意識性に目覚めさせ、現存するいっさいものに対する批判へと導いていくことを使命とする社会民主党は、労働者組織の内部関係をも、当然のことながら意識性と批判とにもとづいて打ち立てる。個々の指導者やグループによって外部から労働者組織を管理することはできない。労働者組織の自主管理だけが、その課題を全面的に実現することをその組織に保障する。そこにまだ至っていない場合、それは、労働者運動がまだ成熟していないことを意味する。そして、労働者の先進層が政治的自立に近ずくのは常に、個々の人物やサークルからの労働者の組織的自立性が増大することと軌を一にしてであろうし、それは、社会民主党内で民主主義的な自主管理が勝利をおさめることをも意味するだろう。

 労働者階級の政治組織に必要なもう1つの要素は中央集権制である。どの資本主義諸国の社会民主党も、もちろんのこと、社会の社会主義的改造を目的とした国家権力の獲得を最終目標としている。社会民主党のこの主要課題は、地域的・地方的な(州や県の)ものではなく、全国家的性格を有している。これは、国のすべての自覚的プロレタリアートを――職業、民族、性別にかかわりなく――単一の党の枠の中に団結させることを必要とする。しかし、最終目標のみならず、社会民主党のすべての日常的闘争も、中央集権制を必要とする。現代の資本主義国家は、その形態がいかに多様であろうとも、中央集権的性格を有している。法律、裁判所、行政、これらはすべて単一の中央から出発している。労働者の地位の立法的改良を達成することは、国家権力に対して組織された圧力を加えることなしには不可能である。そしてそのためには、労働者自身が全国家的枠組みで統一され、中央集権的な指導機関を持たなければならない。民主主義と中央集権制を結合するという課題を実践において最もうまく解決しているのは、ドイツ社会民主党である。党の地方組織は毎年、全国大会への代議員(代表者)を選出する。この大会は党の政策のすべての基本問題に関する決定を多数決で採択し、全党的な活動を指導するための党中央委員会を選出する。このようにして、党の指導機関は、民主主義的に選出された代議員の大会の前で責任を負う。全党はその政策の作成と実行に参加する。それと同時に、全党の力は分散することなく、中央の指導のもとに集中的かつ計画的に発揮される。中央の権威は、社会民主党の全構成部分によって承認されている。これこそ民主主義的中央集権制である。

 組織の連合的形態はまったく異なった性格を持っている。連合制は、独立した同等の諸組織の同盟ないし協約関係を意味する。これらの諸組織のおのおのの内部では、もちろんのこと、問題は民主主義的に、すなわち多数決で決定される。しかし、党全体の決定は、連合制のもとでは、投票によってなされるのではなく、独立した諸組織の協定ないし申し合わせによってなされる。党が、地方や州や民族単位の諸組織の連合である場合もある。この場合の党生活は、主として、地方、州、民族の範囲で展開され、その範囲で意見や決定が形成される。最小限に切り縮められた中央集権制は、この場合、共同行動のときに時おり示されるだけである。連合的党の中央委員会は、独立・同等の諸組織の代表者によって構成される。その代表者たちは、それぞれの組織によって適当な時期に召還される。言いかえれば、中央委員会は、調停委員会か仲裁委員会のようなものであって、党の全構成部分の活動を方向づけ党大会に対してのみ責任を負う強力な指導的中枢ではまったくない。したがって、連合制は、中央集権制と矛盾する組織原理であり、それに対して、中央集権制は、すべての力を全国家的規模で最も密接に結集しようとするプロレタリアートの不可避的な階級的要求を反映している。まさにこの理由から、ロシア・マルクス主義者の圧倒的多数は、組織の連合制原理を拒否しているのである。

 連合制一般が階級闘争の集権的傾向に対する障害物になるとすれば、諸分派――すなわち組織的な思想的潮流――の連合は、党内関係の正常で恒常的な形態としては、完全かつ無条件に受け入れがたい。このことはまったく明白である。閉鎖的な分派は、諸潮流の先鋭な内部対立(矛盾、敵意)の結果として形成される。どの分派も、党からできるだけ大きな独立性を勝ちとり、自分たちの独自の政策を最後まで押しすすめることに関心を向ける。それゆえ、対立しあう分派は、相互に助け合って1つにまとまらなければならないときでも、影響力の獲得を求めて相互に闘争する。まさにそれゆえに、統一的(連合的)行動は、ゼロとは言わないまでも最小限にまで切り縮められる。明らかに、こうした状況のもとでは、どの思想的潮流も、どの新しい色合いの相違も、自分の殻に閉じこもるようになり、連合制に庇護を求めようとする。少数派が自発的に多数派にしたがうことにもとづいた民主主義的規律は、完全に消えてなくなってしまう。党は、輪郭が曖昧でその数が絶え間なく変化する諸部分にもとづいた分派に、あっさり乗っとられることになる。

 

  2、過渡的形態としての連合制

 しかし、同志ラーリン(1)はその論文の中で、連合制を不変的な組織原理としてではなく、完全な分裂から完全な統一へ至る途中の一段階としての過渡的形態とみなしている。こうした提起に答えるためには、連合制が許容できないということに関する一般的な考察にとどまることはできない。というのは、分裂はなおいっそう「許容」できないからである。といっても分裂はすでに既成事実になっているのだが。本当に連合制はわれわれを統一に近づけるものなのか、もしそうだとすればいかなる条件においてなのかについて、具体的に検討しなければならない。

 すべての人々にギプスの包帯を常に手にはめておくよう助言する者はいない。なぜなら、これは事実上、手を使えなくすることを意味するからである。しかし、手が折れたときには、ギプスの包帯は、再び手が使えるようになるのに役立つ。骨がくっついたあかつきには、そのギプスの包帯ははずされる。同志ラーリンは、まさにギプスの包帯のような一時的な措置として連合制を推薦する。組織がちゃんとくっついたなら、連合制という包帯ははずされ、民主主義的中央集権制が確立され、党は正常な活動を開始する、というわけである。

 こうした観点から同志ラーリンの提起を評価してみよう。まず最初にここで問わなければならないことがある。実際のところ連合制には、過渡的形態としてどのような利点があるのか? この問いに対して同志ラーリンはこう答える。完全な統一は、当面は実現不可能である。2つの分派――同志ラーリンはいつでも2つの分派について語る――は、ロシアの今後の発展過程に対する異なった理解から生じた戦術的対立によって相互に分かれている。では、社会民主党全体としてどのような立場をとるべきか? これを決定することはできない。なぜなら、公然の党として存在する条件がなく、そのため、どの立場が多数派でどの立場が少数派になるのかを確定することができないからである。まさにそれゆえ、あからさまな分裂以外には、独立した2分派の連合しか選択の余地はない。わが国の政治的解放は、ラーリンの意見によれば、わが党の2つの分派の主要な戦術的意見の相違からその基盤を奪いとり、それとともに、個々の場合ごとに、どの意見が党の多数意見になるかを決定することができるようになるだろう。そうなれば、連合制は無用の長物となり、完全な統一の番がやってくるだろう、というわけである。

※原注 ここで次のことを指摘しておくのも無駄ではあるまい。同志ラーリンは、8月協議会の決議があたかも解党主義やメンシェヴィズムの立場と同一であるかのようにみなすことで、問題を単純化しようとしているが、それはまったくもって無駄な努力である。同志ラーリンはおそらく知っていると思うが、8月の決議は、当時、6人のメンシェヴィキ(うち2人は解党派、1人は「党維持派」)、4人のボリシェヴィキ、9人の「非分派」派によって採択された。審議権をもっていたメンバーの中でも、比率はだいたい同じであった。協議会のこうした構成と完全に一致して、8月決議は、特殊メンシェヴィキ的特徴からも、特殊ボリシェヴィキ的特徴からも完全に自由であった。8月決議のまさにこのような性格こそ、いわゆる8月ブロックの各部分の結びつきを支えているのである。

 

  3、分裂の基本的原因

 われわれは、分裂の原因と統一の障害に関する同志ラーリンの規定は、誤りであるか、あるいは少なくともきわめて一面的であると考える。

 疑いもなく、近い将来におけるロシアの発展がどのような道をたどるかの評価をめぐって意見の相違が存在しており、それは、ある時期には分裂にとって大きな意義を持っている。同じく、発展の道筋の問題が歴史そのものによって解決された場合には、この意見の相違が消えてなくなることも疑いない。しかしこの意見の相違ははたして唯一のもの、あるいは考慮すべき最初のものだろうか? この意見の相違が解決されても、それに代わって別の意見の相違が現われうるのではないだろうか? 新しい意見の相違――それは大衆政党にとっては避けられない――が、古い意見の相違とまったく同じく社会民主党を分裂させることはないという保障はいったいどこにあるのか? このまったく当然の疑問に対して同志ラーリンは、将来、党が公然たる存在になるということを持ち出している。彼は、この公然性ということに、分裂を防ぐ最も確実な手段を見出している。

 われわれは、このような議論は正しくないと考える。ブルガリアでは、党は完全に公然の存在になっているにもかかわらず、社会民主党は相互に敵対的な分派に分裂しており、それらは、われわれロシアの分派とタイプ的に非常に近い。共和制フランスにおいても、社会民主党は長年月にわたって分裂していたし、階級的労働運動は現在も分裂したままである(サンディカリストと社会主義者)。

 自由イギリスにおいて、社会主義勢力は、長期間の分裂を経た後にようやく最近になって統合しはじめたところである。

 北アメリカ共和国はいつでも社会主義者の分裂の舞台となってきた。

 反対に、ドイツでは、長らく敵対していた2つの分派が1875年に合意に至り、例外法(2)の時代に、すなわち党が地下的存在であった時期に、完全に統合した。もちろんのこと、この例から、地下活動的状況が統一にとって最も好都合な状況であるという結論を引き出すことはできない。反対である。党を抑圧し、党の発展を押さえつけることになる地下活動的状況は、党のあらゆる内的困難をいっそう深刻化させるのである。しかし、地下活動的状況それ自体が分裂の原因ではないのは、党の公然たる存在が万能薬でないのと同じである。

 われわれは、このことをできるだけ精力的に強調しておく必要があると考える。なぜなら、救いの手段のように「公然たる」党をいつでも持ち出してくることは、現在の分裂状態に受動的に適応する心理を醸成することになるからである。

 問題の核心は、労働者階級の指導層の意識性と自立性の程度にある。

 社会主義がようやくその最初の数歩を歩み始めたばかりで、大衆的労働運動への道を進み始めたばかりの時代は、自由に活動できる状況であろうと、地下活動的な状況にあろうと、必然的に、大衆に対する影響力の獲得をめぐって激しく争いあう閉鎖的なプロパガンダ団体、社会主義的セクトが労働者階級の上に形成される。これらのセクトのいずれも、社会主義運動の何か1つの側面、階級闘争の何か1つの要求、社会主義の何か1つの理念を前面に押し出し、全力でそれにしがみつく。意見の相違の中身は変化するが、分派の一面性、狂信性、分裂主義的不寛容はそのままである。運動が広がり、成長しても、その指導的諸組織のセクト的性格は変わらない。いったいいつまでか? 労働者階級の先進層が思想的・政治的に強化され、ついで運動の指導権を自分の手に握るまで、である。彼らが大衆との結びつきを失う恐れはない。彼らは、中央集権主義を、幅の広さや柔軟性と結びつけること、大衆の当面する諸要求のための闘争と全面的なスローガンのための闘争とを結びつけることを、一言でいえば、社会民主主義的戦術を全面的に遂行することを習得するだろう。

 

  4、連合制と過去の経験

 同志ラーリンは、統一の問題を実践的に立てている。すなわち、歴史的な展望としてではなく、当面する課題として、インターナショナルのイニシアチブにとってとりわけ先鋭な課題として立てる。われわれとしては、このような実践的な問題設定を歓迎するのみである。だが、その価値は、われわれにとって、社会民主党の発展と成長の条件に対する全般的な評価にもっぱら依存している。われわれは、階級運動の全戦線にわたって分派間対立がさらにいっそう先鋭化する時代を前にしているのだろうか? それとも、反対に、分裂と分裂主義に対する先進労働者の反対行動が成長する時代を前にしているのだろうか? この問題に対する答えにもとづいてはじめて、他の統一形態や統一に向けた試みと同じく、連合制の意義をも明らかにすることができる。

 同志ラーリンは、自分からすでにこの問題に答えている。われわれはすでに彼から次のように聞いている。「解党派」と「レーニン派」との分派的に固定化された分裂は、ロシア・プロレタリアートの階級闘争の自由という問題が実践的に解決されてはじめて消え去る、と。彼の意見によれば、その時までは、不可避的でますます昂進する分派闘争を連合制の軌道に引き入れることができるだけである。社会民主党の今後の発展に関して、同志ラーリンは、あいかわらず、労働者運動での優位性をめぐる解党主義とレーニン主義との組織的闘争として想定している。彼にとって、社会民主党の思想生活は基本的にこの過程に尽きている。彼は言う、今やレーニン派はペテルブルクで解党派を押しのけた、と。しかしこれは一時的な現象である。政治的経験は増え、力関係は変わる。この予測に関して、同志ラーリンはもちろん、確信を持っている。周知のように、わが党の諸分派の力関係は一度ならず変化した。変わらないのは、内紛という事実そのものである。2つの分派への分離が生じたのは1903年の大会のときである。ボリシェヴィキとメンシェヴィキとの関係はたちまち――名称の上ではそうではないとしても、実質的に――敵対的な連合的性格を帯びるようになった。どの分派もそれ自身の内部規律を持つようになり、党全体の規律は消失した。1905年はじめ、これらの敵対的な連合は、完全な分裂に至った。1905年の終わりに、事態の強力な圧力を受けて、2つの相互に分裂した分派は、再び連合制に至った。連合制は1906年の統一大会をもたらした。その後、両分派の関係は――形式的な統一の枠内で――、再び実質的に敵対的な連合制に至った。1907年の[ロンドン]大会は、この関係を先鋭化させただけであった。1912年に再び完全な分裂が生じた。1913年にこの分裂は国会議員団にまで広がった。現在、インターナショナルは統一の問題を提起している。同志ラーリンは、統一の組織形態として、連合制を提案している。そして、それと同時に、まったく明確にこう指摘している。この連合制は、あらゆる分派闘争の秩序だった形態にすぎない、と。しかし、その場合、この連合制が「より小さな悪」である保障はどこにあるのか、しばらくたって、再び分裂という「より大きな悪」に至らないどのような保障があるのか? ボリシェヴィズムとメンシェヴィズム、ないし、「レーニン主義」と「解党主義」という2つの分派の闘争は、それ自身のうちにこのような保障を内包していない。このことは、過去の経験のすべてがこのうえなく雄弁に物語っている。

 

  5、社会民主党の現状と統一への道

 しかしながら、問題は、本当に社会民主党が現在、1903〜1907年の時期のように、結束した2つの分派によって構成されているのか、という点にある。いや、幸いなことにそうではない。労働者運動の新しい形態が発展したこと(議会闘争、労働組合運動、社会保険運動、協同組合運動)、および、労働者の先進層の自立性が増大したことは、閉鎖的な分派とその内部の結束に鋭い亀裂をもたらした。極端な「解党派」の立場と「プラウダ派」(3)の立場とのあいだには今や、党意識のきわめて多種多様な中間的諸形態が広がっている。この事実は以前には見られなかったものである。この事実はどこに表現されているか? 社会民主党員の思考がしだいに分派主義的くびきから解放されつつあることに、である。

 議会活動においても、労働組合においても、社会保険運動においても、旧来の諸分派は、原則的に異なった2つの戦術的路線を提起していないし、そうすることもできないでいる。すでに自立した労働者運動の論理がその本領を発揮しはじめているのである。この労働者運動は、旧来の分派からあれこれの思想を感謝を込めて学んだが、組織的・政治的には、これらの分派のいずれかに従属することはない。労働組合運動、社会保険闘争、国会議員団における分裂は、その当該の労働組合活動・社会保険活動・国会活動における非和解的な意見の相違にもとづくものではなく、外部から持ち込まれたものである。過去の楔が今になって突き刺さり、それらを分裂させたのである。この事実のうちに、分派闘争と現在の労働者運動全体との非和解的な矛盾がこの上なくはっきりと示されている。疑いもなく、運動のその後の一歩ごとに、労働者運動のあらゆる形態は分派的後見からの独立性を強めていくだろうし、自覚的な非分派的分子の数も増えていき、分裂に対する彼らの思想的抵抗力も増大していくだろう。まさにそれゆえ、われわれは現在、インターナショナルの権威ある代表者たちの協力のもと、まず何よりも国会議員団の当面する政治活動の共通の綱領を作成することにこれほど大きな意義を付与しているのである。統一に向けたこのような政治的解決策――ここに入るのは、物事の本質そのものからして社会民主党全体の政治活動の諸要求から生じているものだけである――は、ただちに、運動の他のすべての分野にも波及するだろう。そして、われわれの陣営全体にとって、教訓を与える巨大な教育的意義を持つようになるだろう。運動の内的な求心的傾向に精力的にてこ入れするこのような政治的解決策だけが、統一に向けた組織的な試みにとっての足場をつくりだすことができるのである。

 しかしながら、同志ラーリンによって提案されている組織形態――連合制――は、問題の解決にとって最も好都合なものとみなすことができるだろうか? われわれは、この解決策に有利になるようないかなる真面目な論拠も見出さない。同志ラーリンによって提案された分派連合が、不確定の長期間にわたって、公認された分裂の隠蔽された形態にならないためには、2つの主要な陣営において、すでに今現在、全体に対する配慮を部分に対する配慮よりも優先させる自覚的な党的分子が十分多く存在するのでなければならない。しかし、もしこの条件がすでに存在しているのなら、われわれは、あらゆる危険性をはらんだ連合制にとどまることにいかなる根拠も見出さない。連合制は何といっても、統一に向けた包帯であるだけでなく、楔でもあるからである。それは、相対立する陣営の統合をもたらすだけでなく、2つの分派のかたわらに非分派的な統一志向の分子を形成し、人為的にこの非分派分子を2つの極端派の付属物とし、そのことによって、統一した社会民主党のうちにすべての潮流を統合する過程を困難にする。同志ラーリンは、このより深刻な困難については口をつぐみ、次の事実を無視する。すなわち、解党派(4)とプラウダ派の陣営以外にも、社会民主党のロシア地域には――民族的辺境地域の組織は言うまでもなく――、2つの分派に属さない分子がたくさんいること、したがって、2つの陣営の連合――同志ラーリンはいつもこればっかり語っているのだが――では、形式的な組織的観点からしても問題解決にならないこと、である。まさにそれゆえ、われわれは同志ラーリンの提案を支持することはできないのである。

 求心的傾向は、すでに近い将来、党のすべての潮流およびグループのうちに、十分強力な影響を及ぼすだろう。われわれはまさにこのことに期待している。インターナショナルによって招集される会議が、自己保存に固執する旧来の分派の要求を反映するだけでなく、統一に向けた労働者運動の要求をも十分はっきりと反映するならば――そしてわれわれはあらゆる手段を講じてこの後者の要求のために闘う――、組織的結論は次のようになるだろう。すべてのマルクス主義者にとって権威のあるしかるべき機関メンバーによって保障された、完全な統合。共通の戦術的決定にもとづいた、指導の統一、運動の統一、と。

 しかしながら、来たる会議において、旧来の分派を生きた有機体とみなして、その分派の発展と相互闘争のために最も広範な自由を獲得しようとしている人々が優位を占めるという可能性も、大いにある。遠心的分子が優位になれば、もちろんのこと、真の統一を実現することはできない。しかし、同時に疑いないのは、純粋な分裂という立場に戻ることも不可能にするほどには、十分に統一に向けた圧力が強力であるという事実である。このような事態の結果として、同志ラーリンの実践的提案――すなわち、分裂という傷に連合制という包帯をはめること――が実現されるということもありうる。しかし連合制はわれわれの組織的綱領ではない。それは、状況の力によって社会民主党に一時的に押しつけられたものでしかない。この場合、非分派的分子は、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの中の「調停派」と同じく、連合制が、新しい分裂に至るかけはしではなく(これまではいつもそうなっていたのだが)、完全な統一に至るかけはしになるように全力を尽くすしかない。いずれにせよ、教育的活動は、より有利な場合でもより不利な場合でも、同一のままである。すなわち、分裂させる課題ではなく、統一させる課題を前景に押し出すこと、社会民主主義者の意識を分派主義の殻から解放すること、個々の先進的労働者が、ボリシェヴィキとしてでもなければ、メンシェヴィキとしてでもなく、社会民主主義者として感じ、その立場で自分の意見を述べるような雰囲気を醸成すること、である。

『ボリバ』第3号

1914年4月9日

『トロツキー研究』第37号より

    訳注

(1)ラーリン、ユーリ(1882-1932)……ロシア社会民主党の古参党員。もともとメンシェヴィキ。反動期は解党派。第一次大戦中は国際主義派。1917年夏にボリシェヴィキに入党。多くの反対派グループに参加するも、1926年にスターリンに屈服。

(2)例外法……社会主義者取締法とも言う。1878年に起きたヴィルヘルム1世暗殺計画を口実に、鉄血宰相ビスマルクによって同年10月に制定された。これによって社会民主党は活動を厳しく制限され、有力な機関誌は発行を禁止された。1890年に廃止。これはビスマルク失脚の原因となった。

(3)プラウダ派……ここで言っている『プラウダ』は、ウィーン『プラウダ』のことではなく、ボリシェヴィキが1912年からペテルブルクで発行していた合法機関紙『プラウダ』のことであり、したがってプラウダ派とはレーニン派のこと。

(4)原文では「8月派」になっているが、文脈上、「解党派」でないと意味が通じないので、「解党派」にしておいた。


  

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