軍事理論かエセ軍事教条主義か

トロツキー/訳 志田昇・西島栄

【解説】この論文は、1921〜22年に赤軍の中で繰り広げられた「統一軍事理論」をめぐる論争を総括的に論じ、批判したものである。当時、フルンゼやトゥハチェフスキーを中心に、プロレタリア赤軍に特殊な軍事理論を構築しようとする傾向が広がっていた。こうした傾向に対し、トロツキーは、軍事の戦術や戦略に、何か、プロレタリアートや労働者国家に固有のものがあるわけではなく、それを一個の科学として扱うことを断固主張した。フルンゼやトゥハチェフスキーらの軍事理論は、攻勢と機動戦を基調としたもので、それは軍事的冒険主義の気分と融合したものであった。これは、理論的に誤っているというだけでなく、まだまだ脆弱なソヴィエト労働者国家を不必要な軍事的危険にさらしかねないものであった。トロツキーは、この危険を敏感に察知し、そうした傾向と徹底的に闘った。

 その際、トロツキーは、レーニンとも協力関係にあった。最近、ロシアで刊行された『レーニンの知られざる文書』は、これまで『レーニン全集』に収められていなかった多くのレーニン関連文書を収めているが、その中には、この時の論争をめぐってトロツキーとレーニンが交わした書簡も含まれている(1921年2月23日の書簡)。その中でトロツキーは次のように述べている。

 「われわれのところでは現在、党・軍事関係者のあいだで、軍事理論の問題をめぐって論争が行なわれています。思うに、この論争は結局のところ有益なものになるでしょうが、しかし現在は多くのでたらめと独断があふれています。とりわけ、赤軍に対して次のような非難がなされています。すなわち、赤軍の『軍事理論』(現在、この用語を中心に論争全体が回っている)において攻勢的革命戦争の思想が位置づけられていないというのです。私は今、このテーマをめぐって一連の論文と小冊子を書いています。その中で、なかんずく、革命戦争について、さまざまな時期――10月革命前や10月革命後――に党によって語られたものをまとめようと思っています。そこで、この問題についてあなたがどこで何を書いたか、思い出して私に教えてくれませんか? 決議などはあったでしょうか?」( В.И.Ленин: неизвестные документы 1891-1922, Мос., Росспэн, 1999, сс.417-418)。

 これに対してレーニンは、第1次大戦中に出した『流れに抗して』に収録されているいくつかの論文、『社会主義と戦争』などの文献を挙げている。この書簡から明らかなように、トロツキーはレーニンとの一体感をもってこの論争に取り組んでいたのである。

 この翻訳は、もともと『トロツキー研究』第28号に掲載されたものだが、今回、本サイトにアップするにあたっては、詳しい訳注を補っておいた。

Л.Троцкий, Военная доктрина или мнимо-военное доктринерство, Как вооружалась революция, Том.3, кн.2, Мос., 1924.


 1、われわれの組織方法

 2、理論をもってか、理論なしでか

 3、軍事理論とは何か

 4、陳腐な言葉と空虚なおしゃべり

 5、われわれは「軍事理論」を持っているかどうか

 6、どのような軍隊をどのような任務のためにつくるのか

 7、革命的政策と方法主義

 8、攻撃精神での教育

 9、「軍事理論」の戦略的・技術的内容(機動性)

 10、帝国主義戦争に照らしてみた攻撃と防衛

 11、攻撃性、主導性、能動性

 12、固定的な図式への憧れ

 13、防衛精神と攻撃精神

 14、当面する課題


「実践的な技術においては、理論の葉や花をあまりはびこらせてはならない。これらの技術は経験という土壌の近くに置かれねばならない」。

クラウゼヴィッツ(1)『戦争論』序文

 

   1、われわれの組織方法

 赤軍の中に、軍事的思考の活性化と理論的関心の高まりが見られることは、疑いのないところである。3年以上にわたって、われわれは砲火のもとで軍隊を建設し、戦ってきた。次に、われわれは兵士を復員させ、適切な場所に配置した。この過程は今日でもまだ終了していないが、赤軍はすでに組織的な輪郭を明確にし、ある程度地域に根ざしつつある。歩んできた道をふりかえり、過去を総括し、明日にいっそう良くそなえるのに最も必要不可欠な理論的および実践的結論を引きだす必要が、ますます大きくなっている。

 だが、明日はわれわれに何をもたらすのだろうか。それは、外部から資金を提供された内戦の新たな勃発だろうか。それとも、われわれに対するブルジョア諸国の公然たる攻撃だろうか。その場合は、どの国だろうか。われわれはどのような反撃の準備をすべきだろうか。すべてこれらの問題は、外交、内政、軍事政策上の方向性を定めることを要求する。全般的状況はたえず変化し、その結果、われわれの方向設定も、原理においては変化しないが、実践的には変化する。

 これまでわれわれは、ソヴィエト・ロシアをめぐる内外情勢が提起した軍事的任務を首尾よく遂行してきた。われわれの方向性は、最も強力な帝国主義列強の方向性よりも正しく、先見の明があり、読みが深いことを立証した。列強はつぎつぎに、あるいは共同して、われわれを打倒しようと試みたが、手にやけどをするだけに終わった。われわれの優越性は、われわれが方向設定のかけがえのない科学的な方法――マルクス主義的方法――をもっているということにある。これは、強力であると同時にきわめて精巧でもある道具であって、それを用いることは容易ではなく、その扱い方を学ばなくてはならない。わが党の過去は、長期にわたる試練の中で、このマルクス主義的方法を歴史の転換期における諸力と諸要因の複雑な組合せに適用するすべをわれわれに教えた。われわれは、マルクス主義の道具によって、われわれの軍事建設の原理をも明確にしているのである。

 この点で、われわれの敵の場合は、事態はまったく異なっている。先進的なブルジョアジーは、生産技術の分野から惰性や古い習慣や迷信を放逐して、科学的方法の正確な原則にもとづいてあらゆる事業を築こうとつとめてきたが、社会の指導の分野では、階級的立場のために、科学的方法の高みに達する能力がない。われわれの階級敵は経験主義者である。すなわち、彼らは場当たり的に行動し、歴史的発展の分析によってではなく、実践的経験、習慣、目分量、直感によって導かれているのである。

 たしかに、イギリスの帝国主義的カーストは、経験主義にもとづいて、最も大規模で貪欲な植民地拡大、すぐれた先見の明、および階級的忍耐力についての実例を、われわれに与えている。イギリス帝国主義者については、その思考の射程が数世紀、数大陸におよぶと言われているだけのことはある。彼らは、島国という展望台に身を置いて、自己の資本主義的な力を比較的徐々に、計画的に蓄えてきた。この有利な立場のおかげでイギリスの指導的カーストは、最も重要な諸力と諸要因を実際的に考慮し評価するという習慣を身につけることができたのである。

 人脈、買収、雄弁、詐欺のような議会主義的方法と、残虐行為、偽善その他あらゆる種類の卑劣な行為のような植民地主義的方法が、どちらも等しく、最大の帝国を支配する徒党の豊かな武器庫に収められた。フランス大革命に対するイギリス反動派の闘争の経験によって、イギリス帝国主義の駆使する方法は特別に洗練され、イギリス帝国主義はいっそう柔軟、多様に準備をととのえ、したがって、歴史の不意打ちからいっそう安全に身を守られていた。

 それにもかかわらず、現在のブルジョア体制の爆発的動揺期においては、世界を支配するイギリス・ブルジョアジーの強力な階級的手腕も、時とともにますます無力さを示しつつある。没落期のイギリス経験主義者――ロイド=ジョージ(2)をその最も完成された代弁者とする――が、どのようにたくみに泳ぎ回ろうとも、額にけがをすることは不可避であろう。

 ドイツ帝国主義は、イギリス帝国主義の正面の敵として台頭した。ドイツ資本主義の熱病的な発展によって、ドイツの支配階級は、外交や戦争政策上の方向設定に関する熟練をはるかに上回る物質的・技術的価値を蓄積することができた。ドイツ帝国主義は国際的舞台には成り上がり者として登場し、冒険に走り、挫折し、壊滅した。だが、このドイツ帝国主義の代表者が、ブレスト=リトフスクでわれわれのことを、偶然に短期間浮かび上がってきた空想家とみなしたのはつい最近のことである。

 わが党は初期の非合法グループ以来、その全発展をつうじて、その果てしない理論上の論争、実践上の試行錯誤、攻撃と退却、戦術上の論争と転換をつうじて、あらゆる面での方向設定の技術を一歩一歩身につけてきた。ロンドン、パリ、ジュネーブのロシア人亡命者の屋根裏部屋は、結局、巨大な歴史的意義をもつ観測所となった。革命的情熱は、歴史過程の科学的分析によって鍛練された。行動への意志は、忍耐力と結合された。わが党はその行動と思考によって、マルクス主義的方法を適用するすべを学んできた。そして今、この方法は大いに党の役に立っている…。

 イギリス帝国主義の最も先見の明のある経験主義者が、多くの典型的な歴史的情勢にあてはまる多数の鍵を持っていると言えるのに対して、われわれは、あらゆる情勢を正しく検討することを可能にする万能鍵をもっている。また、ロイド=ジョージ、チャーチル(3)その他の在来からの手持ちの鍵は、革命の時代から脱出する扉を開くにはどれも明らかに不適当であるのに対して、われわれのマルクス主義の鍵は、何よりもこの革命の時代用につくられているのである。われわれは、自分の最大の強みを敵の前で公言することをはばからない。なぜなら、敵がわれわれのマルクス主義の鍵を横領したり、模造したりすることは不可能だからである。

 われわれはプロレタリア革命の時代の序曲である帝国主義戦争の不可避性を予見していた。この観点から、次にわれわれは、戦争の経過、その諸方法、階級的諸勢力の編成の変化を考察し、この考察から早くもソヴィエト体制と赤軍についての「理論」――あえて大げさに言えば――が形成された。その後の発展過程についての科学的予見は、歴史はわれわれにとって有利に進んでいるという揺るぎない確信をわれわれに与えた。この楽天的な確信は、われわれの活動の基礎をなしていたし、今後もなすものである。

 マルクス主義は、出来合いの処方箋を提供するものではない。軍事建設の分野では、マルクス主義は、とりわけそのようなものを提供することができないであろう。しかし、ここでも、マルクス主義は、われわれに方法を与えた。戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない、ということが正しいとすれば、軍隊は銃剣をもってする社会的、国家的組織全体の継続と仕上げに他ならないからである。

 われわれが軍事問題にアプローチするに際して出発点としたのは、教条的命題の総和としての何らかの「軍事理論」ではなく、労働者階級の自衛の要求のマルクス主義的分析であった。労働者階級は、権力を手中におさめたが、自らを武装し、ブルジョアジーの武装を解除し、自分の権力を守るために闘い、地主に反抗する農民をしたがえ、富農民主主義派が労働者国家に反対して農民を武装させるのをさまたげ、信頼できる指揮官をつくりだす、などのことをしなければならなかった。

 赤軍建設の事業にあたって、われわれは、赤衛軍の部隊も、旧軍隊の操典も、コサック農民の頭目も、さらにはかつてのツァーリの将軍も利用した。もちろん、それを軍隊とその指揮官の編成に関する「統一理論」の欠如と言うこともできる。しかし、そのような評価は、ペダンティックで俗悪なものとなるであろう。もちろん、われわれは、教条的「理論」に立脚するものではなかった。われわれは、事実、われわれの手元にある歴史的材料から軍隊を創設し、自己保持、確立、拡大のために闘うプロレタリア国家の視点からこの事業全体を統一した。誰かが形而上学的に汚された「理論(ドクトリン)」という言葉なしにやっていけないならば、われわれは武装力である赤軍を新しい階級的基盤の上に建設したことによって、新しい軍事理論も創造したのだと、言うこともできるであろう。というのは、実践的手段の多様性や手段の変化にもかかわらず、われわれの軍事建設のなかには、無思想な経験主義も主観的恣意も存在しなかったし、また存在しえなかったからである。すなわち、この事業全体は徹頭徹尾、革命的な階級的目標の統一、その目標をめざす意志の統一、方向設定のマルクス主義的方法の統一によって打ち固められていたのである。

 

   2、理論をもってか、理論なしでか

 赤軍建設の実際の事業にプロレタリアートの「軍事理論」を優先させようとする試みは、何度も繰り返されたものである。また、すでに1917年末以来、陣地戦という「帝国主義的」原理に対抗して、機動戦という絶対的原理が強調された。革命的機動戦略に軍隊の組織形態が従属させられ、軍団、師団、さらには旅団までがあまりにも鈍重な部隊だと宣告された。プロレタリア「軍事理論」の提唱者たちは、ソヴィエト共和国の全武装力を個々の混成部隊または連隊に還元するよう提案した。本質的には、これは、安直に手直しされたパルチザン主義のイデオロギーであった。極「左」翼では、公然とパルチザン主義が支持されていた。軍隊のあらゆる操典に対して聖戦が宣言された。旧操典に関しては、それが時代遅れの軍事理論の表現であるという理由で。新操典に関しては、それが旧操典にあまりにも類似しているという理由で。もっとも、当時でさえ、新しい理論の支持者たちは、新しい操典案を提示しなかっただけでなく、われわれの操典を真剣な原則的ないし実務的批判の対象とする一つの論文すら提出することができなかったのだが。旧将校団の登用――とくに指揮官の地位への登用――は、革命的軍事理論の貫徹とはあいいれないものだと宣言された、等々。

 実際には、騒々しい改革者たち自身が、古い軍事理論に完全にとらわれていたのである。彼らがやろうとしたのは、以前プラスの符号が置かれていたところにマイナスの符号を置くことでしかなかった。彼らの独自性はこの点につきる。しかしながら、労働者国家の武装力を創出するための実際の仕事は、まったく異なった道を歩んだ。われわれは、とくに初期の段階では、旧軍隊からわれわれに残された技能、手法、知識、手段を可能な限り利用することにつとめ、新軍隊が形式的・組織的および技術的な点でどの程度まで旧軍隊と異なるか、または逆に似ているかということには気をとめなかった。われわれは軍隊を、現存の人間的、技術的素材から建設し、その組織、すなわち人的構成、管理、意識、気分においてプロレタリア前衛の支配権を常に至るところで確保しようとした。コミッサール制度は、けっしてマルクス主義の教条でもなければ、プロレタリア「軍事理論」の必然的構成部分でもない。この制度は、一定の情勢のもとで、軍隊内でのプロレタリア的統制、指導、政治教育に必要な道具としてあらわれ、それによってプロレタリア共和国の軍事活動の中で巨大な意義を得たのである。われわれは旧指揮官を新指揮官と組み合わせ、こうしてはじめて必要な成果を得た。この軍隊は、労働者階級のために戦う能力があることを証明した。赤軍は、その目標、その指揮官およびコミッサールの支配的な階級構成、その精神、その政治的モラルからみて、世界のその他すべての軍隊とは根本的に区別され、それらの軍隊に敵対している。だが、形式的・組織的および技術的分野では、赤軍は、発展すればするほど、他の軍隊に類似してきたし、また類似することになろう。この分野では、何か新しい言葉を言おうとする努力だけでは、不十分なのである。

 赤軍はプロレタリア独裁の軍事的表現である(もったいぶった決まり文句を使いたければ、赤軍はプロレタリア独裁の「理論」の軍事的体現であると言ってもよい)。そしてそうであるのは、第一に、赤軍自体の中にプロレタリア独裁が保障されているからであり、第二に、赤軍なしにはプロレタリア独裁は不可能だからである。

 しかし、残念ながら、軍事に関する理論的関心の活発化はまず初期の多くの教条的偏見の復活――幾分はあらたに定式化されているが、それによって少しもましになっていない――をまねいた。若干のきわめて思慮深い改革者は、われわれがまるでアンデルセン童話の「裸の王様」のように、軍事理論なしに生活している、いや、それでは生活しているとさえ言えず、単に無為に日々を送っているだけだ、ということを突然発見したというわけである。「結局、赤軍についての理論をつくりだすことが必要なのだ」とある者は言い、「われわれは軍隊建設のあらゆる実践的問題で誤っている。なぜなら、われわれはこれまで、赤軍とは何か、それはどんな歴史的任務をもつか、それは防衛戦争を遂行するのか、それとも革命的な攻撃戦争を遂行するのか、などの軍事理論の根本問題をけっして解決していないからだ」と他の者はあいづちを打つ。

 したがって、われわれは赤軍をつくりだし、しかも勝利した軍隊をつくりだしたが、それに何らの軍事理論をも与えなかった、ということになる。そして、赤軍は、何をしたらよいのかわからずに日々を送っているというわけである。「では、いったい、赤軍の理論はどのようなものでなければならないか」というわれわれのぶしつけな問いに対しては、それはわれわれの軍隊の建設・教育・運用の原理の総和を含まなくてはならないという答えが返ってくる。だが、そんな答えはまったく形式的な意義しか持たない。現在の赤軍でも、自らの「建設・教育・運用」の原理ぐらいは持っている。そうなると問題は、われわれにはどんな理論が欠けているのか、つまり、軍事建設の綱領に組みこまれるべき新しい原則はどんな内容をもつか、という点にある。そして、まさにこの点にこそ、最もやっかいな混乱のはじまりがあるのである。ある者は、赤軍は階級的軍隊であり、プロレタリア独裁の軍隊である、というセンセーショナルな発見を行なっている。他の者は、革命的、国際的な軍隊である赤軍は攻撃的でなくてはならない、とつけ加える。第三の者は、この攻撃の目的のために、騎兵と空軍にとくに注目すべきことを提案している。最後に、第四の者は、マフノ(4)のタチャンカ [機関銃を搭載した四輪馬車]の利用を忘れないよう提案する。タチャンカの世界に赤軍の理論があるというわけだ。しかし、言っておかなくてはならないのは、このような発見にさいして、健全な(新しくはなくとも正しい)思想のかけらが、空虚なおしゃべりのがらくたのもとで完全に消え去ってゆくということである。

 

   3、軍事理論とは何か

 われわれは、一般的な論理的定義を求めようとはしないであろう。というのは、定義がそれだけでわれわれを困難から救い出してくれることはまずないからである。むしろわれわれは、歴史的に問題にアプローチすることにしよう。古い見解では、軍事科学の原理はあらゆる時代と国民に永遠に共通だとされていた。だが、この永遠の真理の具体的な解釈は、各国独自の性格をおびている。したがって、ドイツ、ロシア、フランス等々の軍事理論が存在することになる。しかしながら、われわれが軍事科学についての永遠の真理の財産目録を検討するとき、われわれが引き出すのは、いくつかの論理学上の公理やユークリッドの公理以上のものではないであろう。側面援護、補給路と退路の確保、敵の最弱防衛点への打撃等々、これらの真理はすべて、このような一般的な言い方にするなら、実際は軍事技術の枠をはるかに超えている。裂けた袋から燕麦を盗み食いし(敵の最弱防衛箇所)、予期される危険とは逆方向に用心深く尻を向けるロバは、軍事科学の永遠の原則にもとづいてそうしていることになる。といっても、燕麦を食うロバがクラウゼヴィッツどころかレールすら読んだことがないのは、疑う余地のないところである。

※原注 同志フルンゼ(5)はこう書いている。「統一軍事理論は、次のように定義することができよう。それは、当該国家の軍隊内で採用されている統一した学説であり、それは、国家の階級的本質およびその生産力の状態から生ずる、軍隊の当面する軍事的任務の性格やこの任務の解決の仕方に関する当該国家内で支配的な考え方にもとづいて、国の軍隊の建設形態、部隊の軍事的な錬成とその指導の方法を規定する」(エム・フルンゼ「統一軍事理論と赤軍」――『クラスナヤ・ノーヴィ』第2号、94頁)。

 この定義は、条件づきで承認することができる。しかし、同志フルンゼの論文全体が示しているように、前述の定義から出てくる結論は、赤軍の精神的武器庫を富ますことにはけっしてならない。だが、その点について詳しいことは後で論ずることにしよう。

 われわれが語っている戦争は、社会的・歴史的現象であり、発生し、発展し、形を変え、消滅しなくてはならないものである。すでにこのことからしても、戦争は永遠の法則を持ちえない。しかし、戦争の主体は人間であり、ある種の安定的な解剖学的・心理学的諸特徴と、それらの特徴から生ずる手法や習慣をもっている。人間は、一定の、比較的安定した地理的環境の中で行動する。したがって、あらゆる時代と国民のあらゆる戦争には、ある種の共通の、比較的安定的な(だが、けっして絶対的ではない)諸特徴がある。それらの特徴にもとづいて、歴史的な軍事技術が発展する。この軍事技術の方法や手法は、それを規定する社会的諸条件(技術、社会の階級構造、国家権力形態)と同様に変化する。

 ある国の軍事理論の名のもとに理解されるのは、比較的安定的だが、一時的な軍事的計算、方法、手法、習慣、スローガン、気分の複合体であり、それらは全社会秩序および、何よりも支配階級の性格に照応している。

 たとえば、イギリスの軍事理論とは何か。この軍事理論の一部をなす(またはなした)のは、明らかに次のようなものである。海上での軍事的ヘゲモニーを確保すること、常備陸軍と徴兵制に対する否定的態度、もっと正確に言うと、イギリス海軍が2、3位国の海軍を合わせたよりもつねに強力であること、そしてそうすることで、小さな志願兵軍の維持にとどめる可能性を確保すること。このことと結びついて、ヨーロッパ大陸のどの強国もそこで決定的優位をかちとりえない状態をヨーロッパに維持することが、めざされた。

 このイギリスの「理論」が、あらゆる軍事理論の中で最も安定したものであることは疑いない。その安定性と明確さは、世界の(または、かつてはそれと同義であったヨーロッパの)力関係を根底から変えるような事件や大変動なしに、イギリスの力が長期にわたって、計画的かつ、たえまなく発展したことによって規定されていた。しかし、今日ではこのような状態は完全に打ち破られた。大戦中イギリスが、軍隊を徴兵制にもとづいて建設することを余儀なくされたことで、この「理論」は甚大な打撃を受けた。ヨーロッパ大陸での「均衡」は破られた。新しい力関係の安定はまったく期待できない。アメリカ合衆国の力は、イギリス海軍のヘゲモニーを今後も自動的に維持することを不可能にしている。ワシントン会議(6)の結果を予言することは時期尚早であろう。しかし、帝国主義世界戦争以降、イギリスの「軍事理論」が不十分で無力なものとなり、まったく役に立たなくなったことは疑いないところである。だが、それに代わる理論はまだ存在せず、そもそもそのような理論があらわれうるかどうかは、大いに疑わしい。というのは、戦争と革命による大変動の時代、世界の根本的な勢力再編成の時代には、われわれが今しがたイギリスに関して規定したような意味での軍事理論が発展する余地は、きわめて狭いからである。すなわち、軍事「理論」は、内外情勢の相対的安定性を前提としているのである

 われわれがヨーロッパ大陸の諸国に目を向けるとき、軍事理論は、過去においてすら、はるかに不明確で不安定な性格をおびる。フランスの軍事理論の内容は、1870〜71年の普仏戦争と1914年の帝国主義世界戦争との間の時期には、いったい何であったのか。それは、ドイツが伝統的な不倶戴天の敵であることを認めること、復讐の観念、この観念にもとづいて軍隊および若い世代を教育すること、ロシアとの同盟関係を発展させること、ツァーリズムの軍事力への依存、最後に、大胆な攻撃というナポレオン主義的な軍事的伝統、こういったものを、あまり自信がないにせよ、支持することであった。にもかかわらず、長期にわたる武装平和の時代(1871年から1914年)は、フランスの戦争政策の方針に相対的な安定性を付与していた。しかし、フランスの軍事理論の純軍事的要素は、きわめて貧弱なものであった。先の大戦は、攻撃理論を過酷な試練にさらした。フランス軍は最初の数週間の後には地下の塹壕にたてこもり、戦争の初期に真にフランス的な将軍や新聞が、地下の塹壕戦は卑劣なドイツ人の発明であって、フランスの戦士の英雄精神にそぐわないと、たえず主張したにもかかわらず、戦争全体は陣地にこもった消耗戦として遂行された。現在、攻撃一本やりの理論は、新しい操典に受けつがれてはいるが、後で見るように、フランスにおいてすら鋭い反対にあっている。

 ビスマルク(7)以後のドイツの軍事理論は、本質的には、この国の政策に照応してはるかに攻撃的であったが、その戦略的定式においてはより慎重であった。「戦略上の諸原則は、いかなる点でも常識を超えるものではない」と、ドイツの上級指揮官用の教則本は教えていた。しかし、資本主義的な富と人口との急速な増大は、支配的上層部とくに貴族出身の将校カーストを、ますます高い地位におしあげた。ドイツの支配階級は、世界的規模での活動の経験をもたず、力と手段を考慮せず、その外交と戦略において、「常識」はずれの極度に攻撃的な方針を採用した。こうしてドイツ帝国主義は自己のとめどもない攻撃性の犠牲となった。

 ここからどういう結論が出てくるか。過去に国民的理論と言われていたのは、外交および戦争政策上の安定した指導的理念と、多かれ少なかれそれらと結びついている戦略的指令との複合体であったということである。その際、いわゆる軍事理論――国際的領域での一国の支配階級の軍事的方向設定の定式――はその国の国内・国際情勢が確定的、安定的であればあるほど、そして、それが計画的に発展すればするほど、ますます明確なものとしてあらわれた。

 帝国主義戦争とそれに端を発する現在の極度に不安定な時代は、国民的軍事理論の足場をあらゆる領域で完全に掘りくずし、絶えざる不安と警戒心を持って、変転する情勢――その新しい編成や組み合わせ――をすばやく考慮し、「無原則に」立ち回ることを必要ならしめた。ワシントン会議はこの点で、教訓的な光景を示している。今、古い軍事理論が帝国主義世界戦争の試練にさらされたあとで、もはやどの国も国民的軍事理論と名づけることができるような安定した原理や理念を持っていないことは明白である。

 たしかに、新しい国際的力関係とこの力関係の中での各国の地位がはっきりするやいなや、国民的軍事理論が再び形成されるであろう、と予想を語ることはできる。しかし、このような予想は、革命の時代が終了し有機的発展の新しい時代に転換したことを前提としている。しかし、まさにこのような前提には何の根拠もないのである。

 

   4、陳腐な言葉と空虚なおしゃべり

 ソヴィエト・ロシアに対する闘争は、現在の全資本主義国家の「軍事理論」にとって十分に安定した要素であるように見えるかもしれない。しかし、実情はそんなものではない。世界情勢の複雑さ、相互に矛盾する利害の驚くべきからみ合い、そして、何よりもブルジョア諸政府の社会的基盤の不安定さは、ただちに、ソヴィエト・ロシアに対する闘争という唯一の「軍事理論」の一貫した遂行をすら不可能にしている。すなわち、より正確に表現すると、ソヴィエト・ロシアに対する闘争はしばしばその形態を変え、ジクザグの道をたどっているので、国際情勢についての教条的な空文句や「公式」で警戒心を眠り込ませることは、われわれにとって致命的な危険となるであろう。われわれにとって唯一の正しい「理論」は、用心してよく見張れ、というものである。近い将来われわれの軍事行動の主要舞台となるのは東方か西方かというきわめて大ざっぱな問題を提起する際にさえ、われわれは無条件に確実な答えを与えることはできないのである。国際情勢はあまりにも複雑である。歴史的発展の全般的な歩みは明らかであるが、諸事件は順番どおりに起こったり、計画にしたがって成熟するのではない。そして、実際には、われわれが対処しなくてはならないのは、「発展の歩み」ではなく、事実や事件である。われわれが主として関与せざるをえなくなるのは東方か、あるいは逆に西方か、防衛戦争を通じて革命を促進するのか、あるいは逆に攻撃に移らざるをえないのか、というような歴史的多様性をあらかじめ予測することは、困難である。もっぱら、国際的方向性を設定し、階級諸勢力とそれらの組み合わせや変化を評価するマルクス主義的方法だけが、それぞれの具体的な場合にしかるべき解決策を見いだすのを可能にするのである。近い将来におけるわれわれの軍事的任務の「本質」を表現する一般的公式を考えだすことは、不可能である。

 しかし、まだ稀にしか行なわれないが、軍事理論という概念をもっと具体的に限定し、その内容を、軍事的な組織・戦術・戦略のあらゆる側面を規制する、純粋な軍事問題の基本的諸原則として理解することは可能である。この意味では、軍事理論は軍の操典の内容を直接に規定する、と言うことができる。だが、ここで問題となっているのは、どのような諸原則なのか。一部の教条主義者は、次のように問題を描き出す。すなわち、軍隊の本質と使命、その当面する任務を定義し、そこから軍隊の組織・戦略・戦術を導き出し、こうした結論を操典に定着させなくてはならない、と。しかし、実際には、このような問題設定の仕方は、スコラ的で不毛である。

 どれほど月並みで無内容なことが、軍事技術の根本原則の名のもとで理解されているかは、うやうやしく引用されたフォッシュ(8)の次の言葉から明白である。フォッシュは、現代の戦争の本質は「敵軍を見つけ出し、それを殲滅し、そして、そうするために、最も迅速確実に目標を達成させる指導および戦術を採用する」ことにある、と言っている。すばらしく内容があり、われわれの視野をすばらしく広げてくれる! この言葉を補足するには、次のように言うだけでよい。近代栄養法の本質は、口を開けて、食物を入れ、できるだけ少ないエネルギー消費で食物をかみ、飲みこむことである、と。フォッシュの原理に少しも劣らないこのような原則から、どんな食物をどうやって調理すべきか、いつ、誰がそれを飲みこむべきか、何よりも、どうやってこの食物を調達することができるかを、なぜ演繹的に導き出そうと試みてはならないのだろうか。

 軍事は、きわめて経験的な、きわめて実践的な事柄である。その根本原則から、野戦操典も騎兵中隊の編成も軍服の型も引き出されるような体系を仕立てあげる試みは、きわめて危険な行為である。そのことを、すでに老クラウゼヴィッツはきわめてよく理解していた。彼は書いている。

「思想と内容に満ちた体系的な戦争論を書くことは、おそらく不可能ではあるまい。しかし、それとこれまであらわれた理論との間には、大きな距離がある。これらの理論(それらの非科学的な精神はさておき)は、体系の整合性と完璧さを追求し、ありとあらゆる陳腐な言葉と空虚なおしゃべりに終始しているのである」。

 

   5、われわれは「軍事理論」を持っているかどうか

 では、われわれには軍事理論が必要なのだろうか、それとも必要ないのだろうか。何人かの人は、私がこの問いへの答えを「回避」している、と非難している。だが、答えるためには、何が問われているかを、したがって、軍事理論ということで何が理解されているかを知る必要がある。この問いが明確かつ理性的に提起されないかぎり、答えを「回避」せざるをえないのである。われわれは正しい問題提起に近づくために、これまで述べてきたことをふまえて、問題そのものをその構成要素を分けることにしよう。この視点からすると、「軍事理論」には次の要素が含まれうる。

 (1)経済、文化の問題など、すなわち国内政策における政府によって表現されるわが国の基本的(階級的)方向性。

 (2)労働者国家の国際的方向性。われわれの世界政策の最も重要な路線、およびそれとの関連でわれわれの軍事行動が展開されうる舞台。

 (3)労働者・農民国家の本質に即応し、その武装勢力の任務に照応する赤軍の構成および構造。

 (4)赤軍の戦略および戦術の学説。

 まず、(3)の軍隊組織の学説ならびに(4)の戦略の学説は、明らかに、言葉の本来の(または狭い)意味での軍事理論を構成するであろう。だが、さらに分析して考えることもできよう。そうなると、右にあげた諸点から、赤軍の技術や宣伝の仕方などの問題を区別することも可能である。

 政府、指導党、軍当局は、これらすべての問題において一定の見解を持つことが必要であろうか。もちろん必要である。赤軍の社会的構成がどうあるべきか、いかにして将校団を補充すべきか、どうやって各部隊を編成し、訓練し、教育すべきかなどについて、一定の見解を持つことなしに、赤軍を建設することができるであろうか。さらに、労働者国家の内外政策上の基本的任務を検討することなしには、このような問いに答えることはできない。言いかえれば、軍当局は、軍隊を建設し、教育し、再組織する指導的原則を持たなくてはならない。

 これらの原則の総和を、軍事理論と呼ぶことが必要だろうか、あるいは呼ぶことができるだろうか。

 この点については、私は次のように答えてきたし、今もそう答えている。もし誰かが、赤軍の原則と実践的方法の総体を軍事理論と呼びたいというならば、私は昔の役人の色あせた金モールへの執着を共有するものではないが、だからといってあえて論争はしないであろうと(私の「回避」)。しかし、誰かが、これらの原則や実践的方法をわれわれが持っておらず、その点についてわれわれはその集団的思考を働かせていなかったし、今も働かせていない、とあえて主張するのであれば、私は次のように答えるものである。諸君は嘘をついている。諸君は空虚なおしゃべりで自分も他人も酔わせている。軍事理論についてわめきたてるかわりに、赤軍に欠けているという軍事理論の断片でもわれわれに提示し、証明し、示してみたまえ、と。だが、困ったことに、わが軍事「理論家」諸君が理論の効用についての嘆きの歌から、理論を提示する、ないしは理論のごく一般的な輪郭を描く試みに移るやいなや、彼らは、すでに以前から言われてきたこと、自覚されていたこと、うわべだけの革新者たちよりもむしろ党大会、ソヴィエト大会の決議や、布告、法令、操典、指令によってずっとよく正確に表現されたことを繰り返すか、そうでなければ混乱し、動転してしまって、まったく許しがたい我流の思いつきを語るのである。

※原注 同志ソローミンは、「どのような軍隊をどのような任務のためにつくるのか」という問題に対し、われわれが今にいたるまで答えていないとして、われわれを非難している(軍事科学雑誌『軍事科学と革命』参照)。

 ではいよいよ、いわゆる軍事理論の各構成要素について検討する。

 

   6、どのような軍隊をどのような任務のためにつくるのか

「旧軍隊は、ブルジョアジーが勤労者を階級的に抑圧する道具として役立った。搾取されていた勤労者階級に国家権力が移行するとともに、新しい軍隊を創設する必要が生じた。それは、現在はソヴィエト権力の防壁であり、近い将来には常備軍を全人民の武装に置きかえる基礎となり、ヨーロッパにおける社会主義革命の支柱の役割を果たすべきものである」。

 赤軍の組織に関する1918年1月12日付の人民委員会議布告は、このように述べている。ここで、われわれの党綱領や党大会の決議が赤軍について語っていることを全部引用することができないのは、はなはだ残念である。私は読者に、これらの決定を読み直すことを強くおすすめする。それらは有益で教訓に富んだ文献である。そこではきわめて明確に、「どのような軍隊をどのような任務のためにつくるのか」が語られている。新参の軍事理論家たちは、この点で何をつけくわえようというのだろうか。明確で正確な定式を改作するために頭をひねるくらいなら、むしろ、これらの定式を若い赤軍兵士に宣伝を通じて説明することに取りくむ方がよいであろう。その方が、はるかに有益である。

 しかし、次のように言う者がいるかもしれない(そして、実際にそう言っている者がいる)。すなわち、決議や法令では赤軍の国際的役割と、とくに攻撃的な革命戦争にそなえる必要が十分強調されていない、と。ソローミンは、この点をとくに強く主張している。彼は前記の論文でこう書いている。

「……われわれがプロレタリアートの階級的軍隊、労働者・農民の軍隊をつくりだすのは、ブルジョア・地主の反革命に対する防衛のためだけではなく、帝国主義列強に対する革命戦争(防衛的でも攻撃的でもある)、すなわち、攻撃戦略がそこでは大きな役割を果たしうる半内戦型(?)の戦争にそなえてでもある」(22頁)。

 これがソローミンの啓示であり、ほとんど革命の福音書である。だが、残念ながら、使徒たちに起こりがちなことであるが、わが筆者は、自分が何か新しいことを発見したと思い込むとき、ひどく誤っているのである。彼は、古いものを下手くそに定式化しているにすぎない。まさに戦争は武器を手にしての政治の継続であるゆえに、労働者階級の世界革命の発展の中で革命戦争が占めることができ、また占めなくはならない位置についての原則的論争は、わが党にとっては存在しなかったし、今も存在しえないのである。この問題は、ロシア・マルクス主義の刊行物でとっくの昔に提起され解決されている。とくに、労働者国家の革命戦争がまったく自明のこととして論じられる帝国主義戦争の時期に入ってからは、この点での党出版物の指導的論文を一ダースでもあげることができるだろう。だが、私はさらに過去にさかのぼって、私自身が1905年から1906年にかけて書いた一節を引用しておく。

「このこと(ロシア革命の発展)は、最初から、現在展開されている諸事件に国際的性格を与え、広大な展望を切り開く。すなわち、ロシア労働者階級によって指導される政治的解放は、この指導者を歴史上未曾有の高みにまでのぼらせ、その手に巨大な力と手段をゆだね、資本主義の世界的清算――そのすべての客観的諸条件は歴史によってつくり出されている――の主導者たらしめるだろう」。

「ロシアのプロレタリアートは、一時その手中に権力を握ったのち、自分自身のイニシアチブでヨーロッパの土壌に革命を移植しようとしなくても、ヨーロッパの封建的・ブルジョア的反動によって、そうすることを余儀なくされるであろう。

 もちろん、ロシアの革命が古い資本主義ヨーロッパにどのように波及するのか、その道筋を今から前もって決定するのは無駄なことであろう。そのような道筋はまったく予期せざるものであろう。われわれはここで、予言としてというよりは、われわれの考えを例証するために、革命的東方と革命的西方との結節点としてポーランドについて述べておこう

 ロシアにおける革命の勝利は、必然的に、ポーランドにおける革命の勝利を意味する。ロシア領ポーランド10県における革命的体制が、不可避的にガリツィア[ オーストリア領ポーランド]とポズナニ [ドイツ領ポーランド]を決起させることは想像にかたくない。ホーエンツォレルンとハプスブルクの両政府は、敵をその中心地、ワルシャワで粉砕するために、ポーランド国境へ軍隊を集結し、ついで国境を越えるであろう。明らかに、ロシア革命は自らの西方の前衛をプロイセン・オーストリア軍の手中に残すことはできない。ヴィルヘルム2世(9)とフランツ・ヨーゼフ(10)の両政府に対する戦争は、そのような条件のもとでは、ロシアの革命政府にとって自衛の権利であろう。その際、ドイツとオーストリアのプロレタリアートはどのような態度をとるであろうか? 明らかに、彼らは自国の軍隊が反革命十字軍として進軍するのを、おとなしく静観しておくことはできない。革命ロシアに対する封建的・ブルジョア的ドイツの戦争は、不可避的にドイツにおけるプロレタリア革命を意味する。このような主張があまりにも断定的だと思われるという人には、ドイツの労働者とドイツの反動勢力を公然たる力の試し合いの道に押しやるのをもっと可能にするような他の歴史的事件を挙げるよう提案したい」[『総括と展望』の第9章]。 

※原注 この言葉が1905年に書かれたものであることに、注意を喚起したい。

 もちろん、16年前のこの文章は思想を例証するため単に一例として描きだされたものであって、諸事件は同じ歴史的順序をたどって起きてはいない。しかし、発展の基本的な歩みは、プロレタリア革命の時代は不可避的に革命戦争の時代となり、若いロシア・プロレタリアートによる権力の獲得は不可避的に彼らを世界反動勢力との戦場におしやるであろうという予測を確証したし、現在も確証しつつある。したがって、すでに15年ほど前に、われわれは「どのような軍隊」を「どのような任務のために」つくりださなくてはならないかについて、基本的には明確に理解していたわけである。

 

   7、革命的政策と方法主義

 したがって、われわれにとっては、攻撃的な革命戦争についての原則的な問題は、存在しない。だが、プロレタリア国家は、この「理論」に関しては、ブルジョア国家における労働者大衆の革命的攻撃(攻勢理論)に関して最近のコミンテルン大会 [1921年の第3回大会]が語ったのと同じことを語らざるをえない。攻撃を原理的に否認できるのは、裏切り者だけである。だが、全戦略を攻撃に還元するのは愚か者だけである。

 残念ながら、わが新参の教条主義者の中には、そのような攻撃的愚か者が少なくない。彼らは軍事理論の旗のもとにコミンテルン第3回大会で「攻勢理論」として絶頂に達したのと同じ一面的な「左翼的」傾向を、われわれの軍事活動の中に持ちこもうとしている。「われわれは革命の時代にあるのだから(!)、共産党は攻勢政策を遂行しなければならない(!)」というわけだ。軍事理論の言語への「左翼主義」の翻訳は、誤りの累乗を意味する。マルクス主義的戦術は、非妥協的階級闘争という原則的基礎を堅持すると同時に、極度の柔軟性と可能性の点で、もしくは、軍事用語で言えば、その機動性の点できわだっている。柔軟な方法と形態を伴ったこの原則的一貫性に対置されるのは、議会活動への参加か不参加か、非共産主義的な政党や組織との協定の承認か拒否かということから、あらゆる状況に適合すると称する絶対的方法を作り出す硬直した方法主義である。

 この「方法主義」という言葉そのものは、軍事戦略の文献ではきわめて頻繁に用いられる。一定の状況に対応する行動の一定の組み合わせを一個の固定的体系に高めようとするのは、亜流、凡庸な指揮官、旧習墨守派の特徴である。人間はいつも戦っているわけではなく、大きな中断をともなって戦う以上、最近の戦争の方法と手法の印象が平時の軍人の意識に刻印されるのは、普通の現象である。したがって、方法主義は、軍事の領域に最も鋭くあらわれる。明らかに方法主義の誤った傾向が、「攻撃的革命戦争」の理論を構築しようとする努力のうちに現われている。

 この理論には、国際的・政治的要素と作戦的・戦略的要素との2つの要素が含まれている。というのは、問題となっているのは、第一に、革命的決着の促進をめざして軍事用語で言えば「攻勢的対外政策」を展開することであり、第二には、赤軍自体の戦略に攻撃的性格を与えることだからである。これら2つの問題は、ある程度まで結びついているが、区別して論じる必要がある。

 われわれが革命戦争を放棄していないことは、単に論文や決議だけではなく、歴史的な大事件も証明しているところである。ポーランド・ブルジョアジーがわれわれに防衛戦争を押しつけた(1920年春)後に、われわれは防衛を革命的攻勢に発展させようと試みた。たしかに、この攻撃は成功しなかったが、まさにそこから、それなりに重要な補足的結論が明らかとなる。すなわち、一定の情勢ではわれわれの政策の疑う余地のない道具である革命戦争も、別の情勢下では、意図したこととは正反対の結果をまねくことがあるということである。

 ブレスト=リトフスク講和の時期に、われわれははじめて、政治的・戦略的退却を大規模に行なわなくてはならなかった。当時、多くの人々は、それがわれわれにとって致命的になるとみなした。しかし、早くも数ヵ月後には、時間がわれわれに有利にはたらいたことが明らかになった。1918年2月には、ドイツ軍国主義はすでに土台が掘りくずされてはいたが、当時まだ微々たるものであったわれわれの軍事力を粉砕するにはなお十分に強力であった。11月には、ドイツ軍国主義は早くも崩壊した。ブレストでのわれわれの対外政策上の退却は、われわれを救ったのである。

 ブレスト講和後、われわれは白軍および外国占領軍との不断の戦争を遂行しなければならなかった。この戦争は政治的にも軍事的にも防衛的であると同時に攻撃的であった。しかし、全体としては、この期間をつうじてのわれわれの国家的対外政策は、主としてまず防衛と退却の政策であった(バルト諸国のソヴィエト化の断念、きわめて大きな譲歩の用意をもっての再三の和平交渉の提唱、「新」経済政策、債務の承認など)。われわれは、とくにポーランドに対して最大の妥協的態度をとり、協商国側が示すと予想されたよりも有利な諸条件を提示した。われわれの努力は成功せず、ピウスツキ(11)はわれわれを攻撃した。戦争はわれわれの側では明らかに防衛的性格をおびた。この事実は、労働者、農民の世論だけでなく、多くのブルジョア的・知識人的分子の世論を結集することに大いに寄与した。効果的な防衛は、当然にも、勝利した攻撃に発展した。しかし、われわれは、当時のポーランドの国内情勢の革命的性格を過大評価していた。この過大評価は、われわれの度外れて攻撃的な、すなわち、われわれの力に余るほど攻撃的な戦略のうちに現れた。われわれはあまりにも軽々しく前進し、その結果は周知のとおりである。すなわち、われわれは撃退された。

 これらの事件とほぼ同時に、イタリアにおける力強い革命の波が、ブルジョアジーの抵抗によってというよりも、指導的労働者組織の裏切り的受動性によって打ち砕かれた。ワルシャワに向けた8月の進撃の失敗と、イタリアにおける9月の運動の壊滅は、ヨーロッパ全体の力関係をブルジョアジーに有利に変えた。それ以来、ブルジョアジーの政治的地位は安定し、彼らの態度は自信に満ちたものとなった。人為的な総攻撃によって決着を促進しようとしたドイツ共産党の試みは、期待された成果をもたらさなかったし、また、もたらすことはできなかった。革命運動は、1918〜19年に期待されたよりも遅いテンポを示した。しかし、社会の基盤は掘りくずされたままであった。商工業恐慌は、恐るべき規模をとりつつある。革命的爆発の形をとった政治的発展の急激な転換は、近い将来にまったく可能である。しかし、一般に、この発展はより緩慢な性格をおびることになった。コミンテルン第3回大会は各国の共産党に対して、周到で粘り強い準備を呼びかけた。多くの国では、共産主義者の重要な戦略的退却が余儀なくされ、しばらく前に設定された闘争課題を即時に解決することを断念せざるをえなかった。攻撃の主導権は一時的にブルジョアジーの手に移った。各国の共産党の活動は、今のところ主として防衛的な、組織的準備の性格をおびている。われわれの革命的防衛はいつもと同じように弾力的なものである。すなわち、情勢の適当な転機には反撃に転じて、決戦にのぞむ能力をそなえている。

 ワルシャワへの進撃の失敗、イタリアにおけるブルジョアジーの勝利、ドイツでの一時的退潮は、リガ条約にはじまり帝政ロシア時代の債務の条件つき承認に終わる急激な退却を余儀なくさせた。

 経済建設の領域では、われわれは同じ時期に、同様に大きな退却を行なった。利権の許容、穀物独占の廃止、多数の工業企業の賃貸などが、それである。このあいつぐ退却の根本原因は、資本主義による包囲の継続、すなわちブルジョア体制の相対的安定という事実である。

 では、攻撃的革命戦争の観点から赤軍の方向性を定めることを要求している、かの軍事理論の提唱者たち(われわれは彼らを簡単に教条主義者と呼ぶが、彼らはそう呼ぶに値する)は、いったい何を望んでいるのか。彼らの望んでいるのは、単なる原則の承認であろうか。それならば、彼らは開いたドアを押し開けようとしているのである。それとも、彼らは、攻撃的革命戦争をわれわれの日程に上らせるような諸条件が国際情勢ないしはわが国の国内情勢に現れたと考えているのであろうか。しかし、それならばわが教条主義者たちは、彼らの攻撃の矛先を軍当局にではなく、わが党と共産主義インターナショナルに向けるべきであろう。なぜなら、今年 [1921年]の夏に、攻撃的革命戦略を時宜を得ないものとしてしりぞけ、すべての党に周到な準備作業をよびかけ、ソヴィエト・ロシアの防衛的・迂回的政策が情勢に即応するものと認めたのは、コミンテルン世界大会にほかならなかったからである。

 それともまた、わが教条主義者たちの何人かは、ブルジョア諸国の「弱体」な共産党が準備作業にとりくまなくてはならない間は、「全能の」赤軍が攻撃的革命戦争を展開しなければならないと考えているのであろうか。おそらく、若干の性急な戦略家諸君は、実際に、国際的な、あるいはせめてヨーロッパ的な「最後の決戦」の重荷を赤軍に肩代わりさせようとしているのであろう。この種の政策を本気で説教する者は、福音書で指示されているように石臼を首にかけて海底に沈んだ方がいいだろう。

 

   8、攻撃精神での教育

 防衛的退却の時期における攻撃理論という矛盾から抜けだそうとして、同志ソローミンは革命戦争の「理論」に…教育的意義を付与している。彼は次のように認める。現在、われわれが実際に関心をもっているのは平和であり、われわれはあらゆる手段で平和を擁護するであろう。だが、われわれの防衛的政策にもかかわらず、革命戦争は避けられない。われわれはそれに備えなければならず、したがって、将来の必要のため攻撃「精神」を教育しなければならない、と。そうなると、攻撃とは実体を備えたものとしてではなく、精神として理解しなければならないことになる。言いかえると、同志ソローミンは、動員にそなえて乾パンの備蓄とならんで、攻撃熱の備蓄もほしいと思っているわけである。一難去ってまた一難! 先ほどはわが厳しい批判者たちの革命的戦略の方法に対する無理解を見たが、今度は、革命的心理学の法則に対する誤解を確認することにしよう。

 われわれが平和を必要とするのは、理論に対する考慮からではなく、勤労者が戦争と窮乏に疲れているからである。われわれの努力は、労働者、農民のためにできるだけ長期にわたる平和を守り抜くことに向けられている。われわれは軍隊自体に対して、動員を解除することができない唯一の理由は新しい攻撃のおそれがあることだけである、と説明している。この情勢からソローミンが引き出す結論は、われわれは赤軍を攻撃的革命戦争のイデオロギーで「教育しなくてはならない」というものである。何という観念論的な「教育」観だろう!

 同志ソローミンは憂鬱そうに利口ぶってこう述べている。

「われわれは戦争を遂行することも、それを意図することもできないが、備えなくてはならず、そのために攻撃の準備をととのえなくてはならない。これがわれわれの到達した矛盾に満ちた定式である……」。

 たしかに定式は矛盾している。しかし、ソローミンがこの矛盾を「良い」矛盾、弁証法的矛盾と考えているとしたら、とんでもない間違いである。それは、混乱にすぎない。

 われわれの国内政策は最近、農民への接近を最重要な課題の一つとしている。軍隊内では農民の問題がとくに鋭くわれわれの前に提起されている。ソローミンはいったい、地主の直接的な危険が一掃されたが、ヨーロッパ革命がなお可能性でしかない現在、10分の9は農民からなる100万人の軍隊を、攻撃戦争の旗のもとに、プロレタリア革命の最終的勝利のために結束させることができるなどと、本気で信じているのだろうか? そのような宣伝は不毛で空虚なものとなるであろう。

 もちろん、われわれは、攻撃的革命戦争が他の諸国の勤労者の解放に寄与しうる場合には、原則的にはつねにそれを支持するということを、勤労者(赤軍を含む)に対して隠そうとは一瞬たりとも思っていない。しかし、この原則的声明にもとづいて、現在の情勢のもとで赤軍の有効なイデオロギーをつくりだしたり、「教育」したりすることができると考えることは、赤軍のこともわかっていなければ現在の情勢のこともわかっていないことを意味している。事実、分別のある赤軍兵士なら誰でも、冬と春に攻撃を受けなければ、われわれは間違いなく平和を妨げられずにすみ、息つぎを利用してわれわれの傷を癒すために全力をあげることになる、ということを疑わない。われわれが、この疲弊しきった国で、軍事問題を学び、武装して大軍隊を建設しているのは、攻撃された場合に防衛するためにである。ここに、単純明瞭で現実に照応した「理論」がある。

 1920年春には、われわれが問題をこのように提起していたからこそ、赤軍兵士は誰でも、最大の譲歩をしても人民にまぬがれさせたいと思っていた戦争をブルジョア・ポーランドが押しつけてきたことを、はっきりと理解することができたのである。まさにこの自覚から、敵に対する憎しみが生まれたのであり、まさにこのために、防衛戦争としてはじまった戦争が攻撃戦争にまで発展することができたのである。

 防衛の宣伝と戦争の究極的には攻撃的な性格との矛盾は、「良い」矛盾、すなわち生きた弁証法的な矛盾である。そして、われわれはわれわれの軍事教育活動の性格と方向を、わからず屋どもがたとえ「軍事理論」の名において語ろうとも、彼らの気にいるように変える理由は何もないのである。

 革命戦争について語る場合に、最もインスピレーションの源泉となっているのは、フランス大革命における諸戦争である。その場合もまず防衛にはじまり、その中で軍隊が創設され、さらには攻撃に移行したのであった。マルセイエーズの響きのもとに、武装したサン・キュロットたちは革命の箒をもってヨーロッパ中を進軍するにいたった。

 歴史的アナロジーはきわめて魅力的なものである。しかし、それは慎重にやらなくてはならない。さもないと、形式的な類似性のために実質的な差異を見逃すおそれがある。18世紀末のフランスは、ヨーロッパ大陸でも最も富裕で最も文化的な国であった。20世紀のロシアはヨーロッパで最も貧困で最も後進的な国である。フランス軍の革命的任務は、現在われわれの当面している革命的任務よりもはるかに表面的な性格をおびていた。当時は、問題は「専制君主」の打倒であり、封建的農奴制の一掃ないし緩和であった。現在では、問題は搾取と階級的抑圧の完全な廃止である。

 しかし、ブルジョア革命の任務に関してさえ、フランス――すなわち、後進的なヨーロッパに比べて先進的な国――の武器の役割は、きわめて限られた一時的なものであった。革命戦争の中から出現したボナパルト体制が崩壊した頃には、ヨーロッパはその国王や領主の手に戻っていたのである。

 現在展開されている巨大な革命戦争の中では、外部からの軍事的介入の果たす役割は、付随的、補助的な意義しか持ちえない。軍事的介入は解決を促進し、勝利を容易にすることはできる。しかし、そのためには、単に社会的状況(それはすでに存在している)においてだけでなく、政治的意識においても革命が成熟していなくてはならない。軍事的介入のはたらきは産科医の鉗子に似ている。それは、ちょうどよい時に用いられるならば陣痛をやわらげることができるが、早まって用いられるならば流産をもたらすにすぎない。

 

   9、「軍事理論」の戦略的・技術的内容(機動性)

 これまで述べてきたのは、赤軍そのもの、その構造や戦闘方法というよりは、むしろ、労働者国家が赤軍に課した政治的任務に関することである。

 それでは、言葉の狭い意味での軍事理論を検討することにしよう。われわれは、同志ソローミンから、攻撃的革命戦争の理論を確立しないかぎり組織、軍事教育、戦略、その他の問題において混乱し失敗するであろうと聞かされた。しかし、このような決まり文句では不十分である。良い理論から良い実際的な結論を引き出すべきであると繰り返すのではなく、なぜその結論そのものを提示しようとしないのか。だが、残念ながら、わが教条主義者たちが結論にたどりつこうとするや否や、彼らが持ちだしてくるのはわかりきったことの下手な繰り返しか、きわめて有害な我流の思いつきなのである。

 わが革新者たちは、作戦行動上の諸問題に軍事理論のいかりを降ろそうと、懸命に努力している。彼らによれば、戦略の点で、赤軍が原則的に他のあらゆる軍隊と異なっているのは、機動性を欠いた陣地戦のこの時代にあって、赤軍の作戦行動の基本的特徴が機動性と攻撃性にあるからである。

 明らかに、内戦の作戦行動は、そのいちじるしい機動性によってきわだっている。だが、問題を正確に提起しなくてはならない。赤軍の機動性はその内的特質、その階級的性格、その革命的精神、その戦意の高揚に由来するのか、それとも、客観的諸条件、つまり戦場が非常に広大であり、部隊の人員が相対的に少数であることから生ずるのか。この問いは、革命戦争がドンやヴォルガ流域だけではなく、セーヌ河、シェルド河 [ベルギーの河川]、テムズ河流域でも遂行されると仮定すると、かなり重要な意味をもつことになる。

 しかし、当面はわが国内の河川に戻ることにしよう。赤軍だけが機動性できわだっていたのであろうか? いや、白軍の戦略もまた完全に機動的であった。白軍はたいていの場合は、赤軍にくらべて、数のうえでも士気のうえでも劣勢であったが、軍事的熟練度の点では優勢であった。そこから、機動戦略の必要は、まず白軍にとって生じたのである。われわれは初期には、彼らからこの機動性を学んだ。内戦の最後の時期には、われわれはつねに、彼らの機動戦に対し機動戦をもって応えた。そして、最大の機動性によってきわだっていたのは、結局はウランゲリ(12)およびマフノの部隊の作戦行動(機動戦の強盗的退廃形態)であった。そこから、どのような結論が出てくるか? 機動戦略は革命軍の特質ではなく、内戦そのものの特質なのである。

 国家間の戦争における作戦行動は、距離に対する恐れをともなっている。ある軍または部隊は、基地、同胞、自国語が話されている地域から離れると、まったく異質な環境におちこみ、支持、援護、援助を見出せなくなる。内戦では、交戦者の双方とも、程度の差はあれ同情と支持を敵の背後に見出すことになる。国家間の戦争は、双方のいっさいの国家的資源を利用しつつ、鈍重な大衆によって戦われる(または、少なくとも戦われてきた)。内戦は、革命によって揺さぶられた国の力と手段の分裂を意味しており、とくにその初期には、内戦は双方の自発性のある少数者によって、したがって幾分薄い層の、それゆえに機動性に富む大衆によって戦われる。そのため、内戦は、突発事件や即興に左右される度合いがはるかに大きい。

 機動戦は、双方の陣営における内戦の特徴である。したがって、機動性を赤軍の革命的性格の特殊な現われとみなすことはできない。

 われわれは、内戦に勝利してきた。戦略的指導の優位がわが方にあったことを疑う理由は何もない。しかし究極的には、勝利は、プロレタリア前衛の高い士気や自己犠牲と農民大衆の支持によって確保されたのである。だが、これらの条件は、赤軍がつくりだしたわけではなく、むしろ、赤軍の成立、発展、成功の歴史的前提である。

 同志ヴァーリンは『軍事科学と革命』誌上で、わが軍の機動性はあらゆる歴史上の先例をしのいでいる、と語っている。これは、きわめて興味深い主張である。その主張を綿密に検討することが望ましいであろう。忍耐と自己犠牲を必要とする特別の移動速度は、軍隊の革命的精神によって、すなわち、共産党員がもちこんだ高い士気によってひきおこされたことは、疑いの余地がない。ここで、わが軍学校の生徒にとって、移動距離という視点から、赤軍の進軍を他の歴史的事例、とくにフランス大革命の軍隊の進軍と比較してみることは、興味深い課題である。他方、内戦における赤軍と白軍について同じ要素を比較するべきであろう。われわれが攻撃すれば、彼らは退却し、逆に彼らが攻撃すれば、われわれは退却した。実際には、移動に際し、われわれは平均してより大きな耐久力を示したであろうか? また、この忍耐力は、どの程度まで、われわれの勝利の要因の一つであったのだろうか? 個々の場合に、共産主義の酵母が超人的な力の緊張をもたらしえたことは、疑いない。だが、その過程において有機体の肉体的能力の限界が現われざるをえない戦役全体でも、同じ結果が示されるかどうか――これは、特別の研究を必要とする問題である。もちろん、このような研究が、戦略全体を根底からくつがえすとは限らない。しかし、そのような研究は、疑いもなく、一定の価値ある事実資料によって内戦および革命軍の性格に関するわれわれの認識を豊かにしてくれるであろう。

 過去の時期における赤軍の戦略および戦術上の特徴を固定化し、ドグマにまで高めようとする努力は、きわめて有害であり、致命的なものとなるおそれがある。あらかじめ言えることは、アジア大陸での赤軍の作戦行動(赤軍がこの地域で戦わざるをえなかった場合)は、必然的にすぐれて機動的な性格を帯びるということである。騎兵は、最も重要な、唯一でさえある役割を演じなければならなかったであろう。だが他方で、西方の戦場での軍事行動は、はるかに制限された性格を帯びることは、疑いない。民族構成が異なり、しかも人口稠密な(とくに国土に対して軍隊の数的比重の高い)地域での作戦は、当然のことながら戦争を陣地戦に近づけ、またはいずれにせよ機動の自由にはるかに狭い枠を課すことになったであろう。

 赤軍は要塞の防衛には適していない(トゥハチェフスキー(13))という確認は、過去の時期の教訓を全体としては正しく総括しているが、それを将来に対しての無条件的指針と認めることはけっしてできない。要塞の防衛は要塞兵部隊を、すなわち、より正しく言えば、経験によって鍛えられ自信をもつ高い水準の部隊を必要とする。過去の時期に、われわれはこの経験を積み始めたばかりであった。各連隊自体および全体としての軍は、生きた即興であった。士気と鋭気は確保することができた(それをわれわれは達成した)が、必要な習慣、自動的な団結、隣接諸部隊の相互救援に対する信頼を人為的につくりだすことはできなかった。命令書によって、伝統を創造することはできなかった。今では、これらの要素はある程度存在しており、今後ますます積み上げられるだろう。そのことによって、機動戦――および必要な場合は、陣地戦――をよりよく遂行する前提が生み出されている。

 3年間の内戦という限られた経験からいくつかの要素をとりだし、一個の絶対的な革命戦略を打ちたてようと試みることは、断念されなくてはならない。なぜなら、内戦では、特定の質をもつ部隊は、特定の条件のもとで戦ってきたのだからである。その点について、クラウゼヴィッツはきわめて正しく警告している。彼は次のように書いている。

「(フランスの)革命戦争において、あらかじめ予言できなかったような形で理論が現われたことは、もとより当然である。しかし、弊害は、一定の条件のもとで生み出された手法が、容易に時代遅れになるところにある。情勢は徐々にではあるが完全に変化するのに、手法は依然として変化しないからである。このことこそ、明快で合理的な批判が阻止しなければならないところのものである。1806年に、プロイセンの将軍たちは、この方法主義に従った」

※原注 クラウゼヴィッツ『戦争論』第2篇第4章

 残念ながら、方法主義に、すなわち紋切り型の決まり文句に傾いたのは、プロイセンの将軍たちだけではないのである。

 

   10、帝国主義戦争に照らしてみた攻撃と防衛

 革命的戦略の第二の特徴として挙げられているのは、攻撃性である。だが、このようなものにもとづいて軍事理論を打ち立てようとする試みは、帝国主義戦争に先立つ時代に、ヨーロッパのほとんどすべての大国のけっして革命的でない司令部と軍学校によって攻撃戦略がつちかわれただけに、なおのこと一面的である。同志フルンゼが書いているのとは反対に、攻撃はフランス共和国の公式理論だった(そして今でも公式にはそうである)。

  ※原注 前掲『クラスナヤ・ノーヴィ』の論文を見よ。

 ジョレス(14)は攻撃一本槍の教条主義と倦むことなく闘い、専守防衛の平和主義的教条をそれに対置した。だが、先の戦争の結果、フランス参謀本部の伝統的な公式理論に対する強固な反発が生じた。ここで2つのはっきりとした証言を引用することは無駄ではあるまい。フランスの軍事雑誌『フランス軍事評論』(1921年9月1日、336頁)は、フランスの参謀本部がドイツから拝借して1913年に『大部隊の軍事行動のための操典』に入れた次のような命題を紹介している。

「過去の教訓は実を結んだ。すなわち、その伝統に回帰したフランス軍は、今後、作戦の遂行にあたっては、攻撃以外の法則を許容しない」。

 同誌はこの命題を紹介した上で次のように述べている。

「その後まもなく、戦術全般に関する操典、とりわけ個々の部隊の戦術に関する操典に取り入れられたこの法則は、わが国の軍事科学全体の基礎とならなければならなかった。そしてそれは、討論や地図上および野外での実践訓練を通じて、あるいはまたいわゆる大演習を通じて、わが参謀本部大学校の生徒やわが指揮官の意識の中に定着している」。

 さらにこの軍事雑誌はこう続けている。

「当時、こうした状況がかの有名な攻撃法則に対する熱中を生み出したために、防衛上の利益から多少なりともこの法則に留保をあえて付けようとした者は誰かれ問わず、非常にひどい扱われ方をした。参謀本部大学校のよき生徒であろうと思えば、『攻撃する』という単語を――たとえ不十分ながらでも――絶えず活用変化させなければならなかった」。

 フランスの保守系新聞『ジュルナール・デ・デバ』の1921年10月5日号は、この夏に発行された歩兵演習操典を同じ観点から厳しく批判している。

「この特別の小冊子のはじめの部分には、1921年の公式の軍事理論として提示されている一連の原則が書かれている。これらの原則は申し分のないものである。しかし、なぜ編集者は古い習慣にのっとって、最初のページを攻撃の賛美に費やしたのだろうか? どうして、いちばん目立つところに次のような公理を提示しているのだろうか。『最初に攻撃する者は、こちら側の意志が相手側より強力であることを示すことによって、相手の心理に影響を及ぼす』」。

 同紙は、フランス戦線における2つの顕著な事例を分析したうえで、次のように述べている。

「攻撃は、万策つきた相手、あるいは、いかなる策もあてにできぬほど弱体化した相手の心理に対してのみ影響を及ぼすことができる。自分の力に確信を持っている相手に対しては、攻撃は何ら相手を圧倒するような影響を及ぼさない。そのような相手は、敵側の攻撃に直面しても、自らの意志よりも強力な意志が示されたとはまったくみなさないだろう。1914年8月のドイツや、1918年6月のフランスのように、防衛が意識的に想定され準備されている場合には、反対に、自分たちの意志の方がより強力だと感じるのは防衛側である。なぜなら、敵は罠に落ちるからである」。

「諸君は、フランス軍の受動性と防衛への偏重に危惧の念を抱いているようだが」、とこの軍事批評紙は続けている――「それは奇妙な心理学的誤謬によるものである。フランス軍はいつでも攻撃に身を投じる用意がある。ただしそれは、最初であれ2番目であれ、適切に組織された攻撃でなければならない。しかし、より強力なる意志をもって最初に攻撃する紳士についての千夜一夜的おとぎ話を、これ以上フランス軍に向かっておしゃべりするのはやめていただきたい」。

「攻撃に出たという事実だけで成功が保証されるものではない。攻撃が成功を収めるのは、攻撃に向けてあらゆる手段が動員され、その手段が敵より優越している場合である。なぜなら、結局のところ、勝利を収めるのは常に、戦闘の時点においてより強力な陣営だからである」。

 もちろん、これを、陣地戦の経験にもとづいて引き出された結論だとして拒否することは可能である。だが実際には、この結論は、違った形でだが、機動戦からより直接的かつはっきりと引き出されるものである。機動戦は大きな空間を前提にした戦争である。敵の兵力を根絶しようとする中で、機動戦は距離をものともしない。その運動性は攻撃の際に発揮されるだけでなく、退却の際にも発揮される。攻撃も退却も単に陣地の交替にすぎない。

 

   11、攻撃性、主導性、能動性

 革命の最初の時期、赤軍部隊は総じて攻撃を躊躇し、敵との交歓と対話を好んだ。革命の理念が自然発生的に全土に広がりつつあったこの時期、この方法は非常に有効だった。反対に、白軍はこの時期、自らの部隊が革命的に瓦解するのを防ごうと、無理に攻撃に出た。対話が革命的戦略の最も重要な手段でなくなってからも、白軍はわれわれよりも攻撃性の点で抜きんでいていた。徐々にのみ、赤軍の部隊は能動性と自信を発展させ、断固たる行動を可能にしていった。その後の赤軍の作戦は、著しく機動性を特徴とするものとなった。騎兵による急襲は、この機動性の最も顕著な現れであった。しかしながら、われわれは奇襲という方法を白衛派のマーモントフ(15)から学んだのである。急襲突破、包囲、敵の背後への侵入も、白軍から学んだものである。このことを忘れないようにしよう! 最初の時期、われわれは白軍の部隊に対し警備隊によってソヴィエト・ロシアを守ろうとし、お互いを同じ位置に保とうとした。後になってようやく、われわれは敵に学び、こぶしを固め、このこぶしに運動性を与え、労働者を馬に乗せ、大規模な騎兵攻撃を遂行することを習得した。このことを少し思い出してみるだけで、あたかも機動戦的攻撃戦略が革命軍それ自身に固有なものであるという「理論」がいかに根拠がなく、一面的で、理論的かつ実践的に偽りであるかを理解するのに十分であろう。ある状況のもとでは、この戦略は反革命軍に最もふさわしいだろう。たとえば、反革命軍の規模の不足を騎兵部隊の活動で補わざるをえないような場合である。

 まさに機動戦において、攻撃と防衛の違いが著しく払拭される。機動戦は運動戦である。その運動の目的は、敵が100キロ先にあろうと近くにあろうと、敵の兵力を殲滅することである。機動戦が勝利を約束するのは、われわれが主導権を握っている場合である。機動戦略の基本的特徴は、形式的な攻撃性にあるのではなく、主導性と能動性にある

 赤軍は、ある一定の時点で、最も重要な戦線において――たとえ一時的に他の戦線を弱めても――断固として攻撃に出たし、そのことのうちに内戦時における赤軍の戦略が最もはっきりと特徴づけられているという考え(同志ヴァーリンの論文)、この考えは基本的にその通りだが、一面的に言い表わされており、したがってすべての必要な結論を引き出していない。

 ある一定の時点で、われわれが政治的ないし軍事的考慮から最も重要であると認めた戦線で攻撃に出ることによって、われわれは、別の戦線――防御可能であり退却することもできるとみなした戦線――で自らを弱めている。だが、まさにこのことこそが――奇妙なことに、そういうものとしては注目されていないが――われわれの作戦計画全体の中で、退却が攻撃と並んで必要な環であることを物語っているのである。われわれが防衛し退却することになった戦線もまた、円環をなすわれわれの戦線全体の一構成部分でしかない。この戦線で闘った者も、同じ赤軍の一部であり、その戦士であり指揮官である。もしすべての戦略を攻撃に還元してしまうならば、われわれが防衛を組織した戦線、あるいは退却することにさえなった戦線にいる部隊は、不可避的に崩壊と士気阻喪に陥るだろう。

 退却が敗走ではないこと、兵力を無駄にしないための戦略的退却というものが存在すること、場合によっては戦線を縮小する必要があること、敵をより確実に粉砕するために敵をより深く誘い込む場合があること、こうした思想が、部隊の教育活動の中に取り入れられなければならないのは、明らかである。したがって、戦略的退却が法則にかなったものであるのだから、すべての戦略を攻撃に還元することは正しくない。とりわけこのことは――繰り返すが――まさに機動戦戦略との関係で議論の余地なく明白である。言うまでもなく、機動戦は、敵の粉砕という最終目標に向けた、運動、攻撃、輸送、行軍、戦闘の複雑な結合物である。しかし、機動戦から戦略的退却を除くならば、それは明らかに著しく硬直したものになるだろう。すなわち、それは機動的であることをやめるであろう。

 

   12、固定的な図式への憧れ

 同志ソローミンは次のように問うている。

「いったい何のためにわれわれは軍隊を建設するのか? 言いかえれば、いかなる敵がわれわれを脅かし、いかなる手段によって(防衛か攻撃か)、われわれは最も急速かつ経済的に敵をかたづけることができるのか?」(『軍事科学と革命』第1号、19頁)。

 このような問題設定は、新しい軍事理論を説教しているソローミン自身の思想が、方法上において古い教条主義の偏見に毒されていることを、最もはっきりと物語っている。オーストリア=ハンガリーの参謀本部には(他の国の参謀本部も同じだが)、何十年もかけて練り上げられたさまざまな軍事方式があった。「I」方式(対イタリア)とか、「R」方式(対ロシア)とか、あるいはこの両者の適当な組合せである。イタリア軍とロシア軍の兵力、その武器装備、動員の条件、戦略的集中と展開は、これらの計画の中では一定量のものとして、すなわち、不変とは言わないまでも、ある程度固定的なものとして扱われていた。このようにして、オーストリア=ハンガリーの「軍事理論」は、一定の政治的前提条件にもとづいて、いかなる敵がハプスブルク帝国を脅かしているかをしっかり把握しており、この敵をいかに「経済的に」片づけるべきかについて毎年考えを積み重ねてきたのである。どの国でも、参謀本部のスタッフは、さまざまな「方式」の既定路線にそって思考する。将来、敵がよりすぐれた装甲を発明したなら、大砲の強化が試みられるし、逆の場合には逆である。このような伝統の中で育った旧習墨守の輩は、わが国の軍隊建設の状況の中では大いに不安を感じるに相違ない。

 「いったいいかなる敵がわれわれを脅かしているのか?」、「将来の戦争におけるわが参謀本部の方式はいったいどこにあるのか?」、そして、「いかなる戦略的手段によって(防衛か攻撃か)、既定の方式を実現するのか?」、と。

 ソローミンの論文を読むと、軍事理論の教条主義者で参謀本部の将軍であるボリソフのこっけいな姿が思わず彷彿とする。どんな問題が論議されていても、決まってボリソフは2本の指を上げて、発言を求めたものだ。

「この問題は、軍事理論の他の諸問題との関連でのみ解決されます。したがいまして、まず参謀総長の地位を確立しなければなりません」。

 昔、東洋の王様の娘に起こったように、この参謀総長の胎内から軍事理論の木が生えてきて、必要な実をすべてもたらしてくれるというわけだ。ソローミンは、ボリソフと同様に、10年も20年も前から、いかなる敵がどこからどのようにしてわれわれを脅かしてくるのかがわかるような「軍事理論」の固定的な前提条件という失われた楽園を惜しんで、嘆いているのである。ソローミンは、ボリソフと同様、壊れた食器の破片を掻き集めて貼りあわせ、それを棚に載せて、それに「I]方式とか「R」方式といったラベルを貼るような万能の参謀総長を必要としている。おそらく、ソローミンは、彼が念頭に置いているこの万能の頭脳を何と呼ぶべきかをわれわれに教えてくれるだろう。われわれに関して言えば、われわれは、悲しいかな、そんな頭脳は知らないし、そんなものがありうるとさえ思わない。なぜなら、そのような課題は実現不可能だからである。

 ソローミンはことあるごとに革命戦争と革命戦略について語っているが、彼が見逃しているものこそまさに、現代という時代の革命的性格であり、それが国際関係においても国内関係においても、固定的なものの完全な破壊をもたらしているという事実である。軍事大国としてのドイツはもはや存在していない。それにもかかわらずフランス軍国主義は、ドイツの国内状況とドイツ国境で起こるどんな取るに足りない事件や変化をも、熱病に浮かれた目で追わないわけにはいかない。ひょっとしたらドイツは数百万の部隊を集めるのではないか? それはどんなドイツだろうか? ルーデンドルフ(16)のドイツだろうか? いや、もしかしたら、このドイツは、現在の脆弱で不安定な均衡にとって致命的な衝撃を与え、リープクネヒトとルクセンブルクのドイツに道を開くのではないか? 参謀本部はいったいどれだけの「方式」を持っていなければならないのだろうか? あらゆる危険を「経済的に」防ぐためには、いったいどれだけの戦争計画が必要なのだろうか?

 私の文書保管所には、少なからぬ報告書がある。ぶ厚いのや薄いのや中間ぐらいなどさまざまである。それを書いた博識なる人々は、親切な教育的粘り強さでもってわれわれに説明してくれている。自尊心のある大国というものは、一定の安定した対外関係を打ち立てなければならず、仮想敵国をあらかじめ明らかにし、適当な同盟国をつのり、少なくとも、できるだけ多くの国を中立に保っておかなければならない、と。なぜなら――と、これらの報告書を書いた人々は言う――「暗やみの中で」将来の戦争に備えることはできないし、そういう状態のまま軍の兵員や司令部やその配置を確定することはできないからである。これらの報告書にソローミンの署名があったかどうか思い出せないが、彼の思想はまさにそうした類のものである。いずれにせよ、これらの筆者はすべてボリソフの学校の出身者であった。

 国際的な方向性――軍事上のそれを含む――を定めることは、現在、三国同盟と三国協商の時代よりも困難である。しかし、この点に関しては誰もどうすることもできない。軍事的および革命的な意味で歴史上最も大きな激動の時代は、何らかの方式や鋳型を破壊してしまった。固定的で伝統的で保守的な方向設定はもはやありえない。方向設定は、用心深く、動的で、打撃力をもったものでなければならない。つまり、そう言いたければ、機動的なものでなければならない。打撃力があるというのは何も攻撃的であるという意味ではなく、国際的諸関係の現今の組み合わせに厳密に応じているということ、当面する課題に全力を集中するということを意味する。

 現在の国際的諸条件のもとで方向性を定めることは、過去において軍事理論の保守的諸要素を練り上げる作業よりもはるかに熟達した思考の働きを必要とする。したがって、この作業ははるかに広大な規模で行なわれ、はるかに科学的な方法が適用されなければならない。国際情勢の評価と、そこから生じる、プロレタリア革命とソヴィエト共和国にとっての課題といった基本的な仕事は、党によって、その集団的思考にもとづいて行なわれ、大会や中央委員会を通じて指令的な形式を与えられる。われわれがここで念頭に置いているのは、ロシア共産党だけでなく、われわれの国際党のこともである。われわれの敵の一覧表をつくり、攻撃に出るべきかどうか、どの国を攻撃するべきかを決定することを求めるソローミンの要求は、共産主義インターナショナルの最近の大会で行なわれた、革命と反革命との力の全体的評価――その現状と発展をふまえた評価――と比べて、何とペダンチックに見えることだろう! それでもまだどんな「理論」が必要だというのか?

 同志トゥハチェフスキーは、コミンテルンに国際的参謀本部を設けるべきだという提案を共産主義インターナショナルに対して行なった。言うまでもなく、このような提案は誤っており、大会自身が定式化した状況にも課題にも適合していない。共産主義インターナショナル自身が事実上、最も重要な国々で強力な共産主義組織が結成されたあとになってようやく創設されたのである。とすれば、国際参謀本部の場合はなおのこと、いくつかのプロレタリア国家の民族的参謀本部にもとづいてのみ創設することができる。今のところそのような状況にはないのだから、国際参謀本部は必然的にカリカチュアになるしかない。トゥハチェフスキーは、『階級戦争』と題する彼の興味深い著作の末尾に自分の手紙を転載することによって、この誤りをいっそうひどくする必要があるとみなしたようだ。これは、トゥハチェフスキーが民兵を第3インターナショナルの立場と矛盾しているとみなして激しい理論的攻撃をかけたのと同じ種類の誤りである。ついでに言っておくと、十分な防御もなしに攻撃に出るくせは総じて、わが国の若手軍事活動家の中で最も才能のある活動家の一人である同志トゥハチェフスキーの弱点である。

 しかし、国際参謀本部は情勢に合致していないがゆえに空中の楼閣でしかないとはいえ、そんなものがなくても、革命的労働者の代表としての国際大会そのものが、その執行委員会を通じて、国際革命の「参謀本部」の基本的な理念的仕事を遂行している。それは、味方と敵とを峻別し、いずれ革命の側にひきつける目的で動揺的部分を中立化させ、日々変転する情勢を評価し、緊要の課題を定式化し、国際的規模でその課題に力を集中している。

 こうした方向設定から出てくる結論は非常に複雑である。それは、参謀本部の2、3の方式なるものに押し込められるものではない。だが、これがわれわれの時代の特徴なのである。われわれの方向設定の優位性はまさに、現代の性格とその諸関係に適合しているという点にある。軍事政策においても、われわれはこの方向設定にしたがう。その際、われわれが何よりも気をつけるべきなのは、どんなに情勢が転換しようとも主要な力を主要な方向に集中させることができるようなしなやかな柔軟性を、われわれの軍事イデオロギー、われわれの方法、われわれの機構に保証することである。

 

   13、防衛精神と攻撃精神

 しかし、何といっても「防衛の精神で教育すると同時に、攻撃の精神で教育することは不可能である」とソローミンは言う(22頁)。これこそ教条主義である。なぜ不可能なのか? 誰が不可能だと言ったのか? どこで誰がそんなことを証明したのか? 誰も、どこでも証明していない。なぜなら根本的に逆だからである。ソヴィエト共和国におけるわれわれの軍事建設――軍事だけではないが――のすべての技術は、プロレタリア前衛の革命的・攻撃的傾向と農民大衆の、いや最も広範な労働者階級の革命的・防衛的傾向とを結びつけることにある。この結びつきは国際情勢の全体と合致している。軍隊の先進分子にその意義を解明することによってわれわれはまさに、彼らに攻撃と防衛を結びつけること――言葉の戦略的意味においてだけでなく、革命的・歴史的意味において――を教えているのである。ソローミンは、これが「精神」に水をかけることになると思っているのでなかろうか? 彼とその同意見者はそのようなほのめかしをしている。しかし、これこそ最も純粋な左翼エスエル主義だ! 国内外の情勢の本質を解明し、それに能動的・「機動的」に適応することは、精神に水をかけるどころか、ただそれを鍛えるのみである。

 それとも、もしかしたら純粋に軍事的な意味で、軍隊を防衛と攻撃に向けて準備することができないということなのだろうか? しかし、これもナンセンスである。トゥハチェフスキーがその著作の中で、内戦における防衛は陣地戦的な固定性を持ちえない、ないしはほとんど持ちえないという考えを強調している。ここからトゥハチェフスキーは、このような条件のもとでは防衛は必然的に、攻撃と同じく能動的で機動的な性格を持たざるをえないという正しい結論を引き出している。われわれが攻撃に出るにはあまりにも弱い場合、われわれは敵の包囲から逃れ、その後で一丸となって、敵のそれ以上の前進を防ぎ、敵の弱点をつこうとするだろう。あたかも軍隊が防衛か攻撃に専念して訓練されるかのようなソローミンの主張は、ナンセンスなまでに誤っている。実際には、軍隊は戦闘と勝利のために学び教育されるのである。防衛と攻撃とは闘争において相互に交替しあうモメントであり、機動戦においてはなおさらそうである。防衛すべき場所でうまく防衛する者は、攻撃すべきところでうまく攻撃し、そして勝利を収めるだろう。これこそ、われわれが軍隊に与えるべき、何よりもその司令部に与えるべき、唯一健全な教育である。銃剣つきの銃は防衛にも攻撃にも役に立つ。まさに兵士の手と同じである。兵士自身および彼の属している部隊は、戦闘にも、自衛にも、敵への抵抗にも、敵の殲滅にも、等しく準備を整えていなければならない。防衛する能力のある部隊だけが攻撃もうまくやり遂げる。攻撃する意欲と能力を持った部隊だけが、うまく防衛することができる。操典は戦闘する方法を教えるべきであって、攻撃だけを詰め込むべきではない。

 革命的精神はあくまでも心構えであって、すべての問題を解く出来合いの答えではない。それは鋭気を与え、士気を高めることはできる。鋭気と士気とは勝利にとってきわめて貴重な条件ではあるが、唯一の条件ではない。正しい方向設定が必要であり、しかるべき訓練が必要である。だが教条主義的偏見はいらない!

 

   14、当面する課題

 国際的諸関係の複雑な網の目の中で、われわれの来る数ヵ月の軍事活動において鍵となるような明確な諸要素は現われているのだろうか?

 そのような要素は存在するし、とても秘密にしておけないほど声高に己れの存在を誇示している。西方においては、それはポーランドとルーマニアであり、その背後にあるフランスである。極東は日本である。カフカース周辺ではイギリスである。ここでは、最も明瞭ではっきりとしているポーランド問題についてのみ説明する。

 フランスの首相ブリアン(17)はワシントンにて、あたかもわれわれが春ごろにポーランド攻撃を準備しているかのように公言した。わが国の指揮官や赤軍兵士のみならず、個々の労働者や農民も、これが真っ赤な嘘であることを知っている。もちろん、ブリアン自身こんなことは先刻承知である。われわれはこれまで、一時的であれ平和を維持するために、大小の強盗どもに高い代償を払ってきた。したがって、われわれのポーランド攻撃「計画」なるものについて云々するのは、われわれに敵対する破廉恥な意図を覆い隠すためでしかない。ではポーランドに対するわれわれの実際の方針はいかなるものか?

 われわれは常にポーランドの人民大衆に対して、われわれが平和を望んでいることを、しっかりと、粘り強く、言葉の上だけでなく、実践においても――そして何よりも、リガ条約を厳格に遵守することによって――示してきたし、そうすることで、その平和を維持することに貢献してきた。

 しかし、それにもかかわらず、ポーランド軍部の徒党が、フランスの金融徒党にそそのかされて、春にわれわれに襲いかかってきたとしたら、その戦争は、われわれの側からすれば、本質的にも、人民の意識においても、間違いなく防衛的性格を帯びるだろう。この強いられた戦争において、正当性はわれわれの側にあるというこの明確な意識こそが、軍隊のすべての分子――共産党員である先進的プロレタリアートから、無党派、赤軍に忠実な専門家、そして後進的な農民兵士に至るまで――を最高度に結束させ、さらには、この防衛戦争において自発的で献身的な攻撃へと最もよく赤軍を準備させることができる。この政策を曖昧でどっちつかずだと思う者、あるいは、「どのように、いかなる任務のために軍隊を準備するのか」が不明確だと思う者、「防衛の精神で教育すると同時に、攻撃の精神で教育することは不可能である」などと考える者、そういう人々は何もわかっていないのであり、他人の邪魔をせぬよう黙っている方がよかろう!……

 しかし、世界情勢において、これほど諸事実が複雑に絡み合っているのだとしたら、いったいわれわれは軍事建設において実際上どのように方向性を定めたらいいのか? いったいどれだけの規模の軍隊が必要なのか? どのような編成で、どのように配置したらいいのか?

 こうした問題はいずれも何らかの絶対的な解決が不可能なものばかりである。問題になりうるのはただ、経験的近似値だけであり、情勢の変化に応じてそれを時機を失せず修正することである。どうしようもない教条主義者だけが、動員、編成、訓練、教育、戦略、戦術といった諸問題に対する回答が、神聖なる「軍事理論」の諸前提から演繹的かつ形式論理的に導きだせると考えるのである。われわれに不足しているのは、魔術的で万能の軍事理論ではなく、すでにしっかりと据えられた基礎にもとづいて、より慎重で注意深く正確で用心深い誠実な仕事をすることである。われわれの操典、方針、定員は不完全なものである。そのことに議論の余地はない。ほころび、欠陥、時代遅れの部分や不合理な部分はたくさんある。しかし、いかにして、いかなる観点からそれに取り組むべきなのか?

 次のように言う者がいる。これまでの見解の根本的な見直しと抜本的修正にもとづいて攻撃戦争の理論を打ち立てなければならない、と。ソローミンはこう書いている。

「この定式が意味するのは、(赤軍建設における)最も断固たる(!)転換である。すなわち、わが国で形成されたあらゆる(!)見解を、純防衛的な戦略から攻撃戦略へと移行するという観点から見直し、価値観の完全な(!)再評価を遂行しなければならない。指揮官の教育、個々の兵士の訓練、……武器装備――これらすべて(!)は、攻撃を基調にして進められなければならない」…(22頁)。

「こうした統一計画がある場合のみ」と彼はさらに続けている――「いま開始されている赤軍の再編成は、無定形さ、混乱、不統一、動揺、明確な目的意識の欠如といった状況から抜け出すことができる」。

 見てのとおり、ソローミンの表現は激しく攻撃的であるが、その主張は無内容である。無定形さ、動揺、混乱は彼自身の頭の中にある。われわれの軍事建設において客観的に困難や実践上の誤りがあるのは、事実である。しかし、不調和も、動揺も、不統一も存在しない。そして赤軍は、ソローミンが軍の組織的・戦略的混乱について書き立て、それによって軍の中に動揺や混乱を持ち込むのを許してはならない。

 操典や方針は、攻撃一本槍の教条主義的定式にもとづいてではなく、4年にわたって積み重ねられてきた経験にもとづいて見直されなければならない。指揮官の会議の場で、各種の操典が読み上げられ、討議され、検討されるべきである。大小の実戦経験のまだ生々しい記憶と操典の定式とを相互につきあわせたうえで、個々の指揮官は、言葉が実際と合致しているかどうか、もし合致していないとすればどの点で合致していないのかについて熟考しなければならない。これらの整理された諸経験を集めて総括し、それを、より高度な経験にもとづく戦略的・戦術的・組織的・政治的基準によって中央で評価すること、操典と方針とから古いもの、余分なものを取りのぞき、その操典と方針を軍に徹底し、それがいかに軍にとって必要であるか、どれほどそれが我流の方法に取ってかわるすぐれたものであるかを実感させること――これこそが、真に偉大で喫緊の課題である!

※  ※  ※

 われわれには国際的な規模での方針と大きな歴史的枠組みがある。その中の一部はすでに経験によってその正しさが証明されている。別の一部は試験にかけられている最中であり、または、これからかけられようとしている。共産主義的前衛の革命的なイニシアチブと攻撃精神は、すでに十二分に確保されている。新しい軍事理論に関する口先だけのけたたましい新機軸などわれわれには必要ないし、大げさな大言壮語も必要ではない。必要なのは、経験を体系立てて整理すること、組織を改善すること、小さなことに注意を向けることである。

 われわれの組織に見られる欠陥、われわれの後進性と貧困――とりわけ技術におけるそれ――を祭り上げるのではなく、それらをあらゆる手を尽くして一掃し、この方面ではむしろ帝国主義諸国の軍隊の水準に近づけなければならない。帝国主義の軍隊は全面的に粉砕されるべき対象であるが、現在のところは多くの優位性を保持している。すぐれた飛行機、豊富な通信手段、よく訓練され慎重に選抜された指揮官、武器や兵力の正確な把握、調和のとれた内部編成。もちろん、これらは組織的・技術的外皮にすぎない。精神的、政治的に、ブルジョア軍隊は分解しつつある、あるいは、分解に向かって突き進みつつある。われわれの軍隊の革命的性格、指揮官と一般兵士の階級的統一性、共産主義的指導部――この点にこそ、われわれの最も強力で揺るぎない力がある。誰もわれわれからそれを奪うことはできない。

 現在、すべての注意は、空想的な刷新などに向けるのではなく、現在あるものを改善し、より正確なものにすることに向けなければならない。すなわち、各部隊に正しく食糧を供給すること、食糧を腐らせないこと、うまいスープをつくること、害虫を駆除し体を清潔に保つすべを教えること、訓練を正しく実施すること、室内での訓練をより少なく、野外での訓練をより多くすること。また、わかりやすく具体的な形で政治的討議を準備すること。すべての赤軍兵士に勤務手帳を支給し、正しくそれに書き込むこと。ライフル銃を掃除し長靴を手入れする方法を教えること、射撃の仕方を教えること、連絡・偵察・報告・歩哨に関する操典の決まりを指揮官が自分の血肉とするのを助けること。各地域の状況に適応するすべを教え学ぶこと。足を痛めないようゲートルを正しく巻くこと。そしてまたしても、長靴の手入れをすること。以上が、今年の冬と来年の春におけるわれわれの方針である。

 それでもなおこの実務的な方針を仰々しく軍事理論と呼びたい人がいれば、そう呼ばせておけばよい。

1921年11月22日〜12月5日、モスクワ

『革命はいかに武装されたか』第3巻第2部所収

『トロツキー研究』第28号より

 

  訳注

(1)クラウゼヴィッツ、カール・フォン(1780-1831)……プロイセンの軍人で、軍事理論家。軍事理論の古典的名著である『戦争論』(1833)の著者。その中でクラウゼヴィッツは、「戦争は、別の手段をもってする政治の延長である」という有名な命題を唱えている。

(2)ロイド=ジョージ、ディヴィッド(1863-1945)……イギリスのブルジョア政治家。1908〜15年、蔵相。1916〜22年、首相。ソヴィエト・ロシアへの干渉戦争を推進。

(3)チャーチル、ウインストン(1874-1965)……イギリスの保守党政治家。1920年代、蔵相。1940〜45、1951〜55年と首相。

(4)マフノ、ネストル(1889-1934)……ロシアの無政府主義者。内戦時、農民兵士を従えた義勇軍を組織し、南部戦線における対デニーキン闘争において赤軍を支援。その後、赤軍と対立し、ソヴィエト権力に対する武装闘争を開始。1921年にルーマニアに亡命。

(5)フルンゼ、ミハイル(1885-1925)……ロシアの革命家、軍人。1904年以来の古参ボリシェヴィキ。1905年革命に積極的に参加し、モスクワ蜂起を指導。逮捕されシベリア流刑。第1次大戦中は軍隊内で活動。1917年10月革命では、モスクワでの蜂起に参加。国内戦で、赤軍の第4軍司令官。1924年、陸軍大学長。1925年、トロツキーに代わって陸海軍人民委員に。軍事理論家として、統一軍事理論を提唱し、トロツキーと論争。1925年、心臓病で外科手術を受けたが死亡。

(6)ビスマルク、オットー(1815-1898)……ドイツの政治家。1862年にプロイセンの首相となり、強権でもってドイツ統一を推進。1871年から1890年までドイツ帝国の宰相。

(7)ワシントン会議……1921〜22年に、アメリカ大統領ハーディングの要請でワシントンで開かれた国際会議。この会議において、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアが主力艦の保有台数をそれぞれ、5:5:3:12/3:12/3にすること、潜水艦の保有台数を制限すること、毒ガスを禁止することなどが決定された。

(8)フォッシュ、フェルディナン(1851-1929)……フランスの軍人。1917年に参謀総長 。18年に、在仏連合軍総司令官。1920年にソヴィエト・ポーランド戦争の反革命勢力に参加。

(9)ヴィルヘルム2世(1859-1941)……ドイツの皇帝、在位1859-1941。労働者との融和策を打ち出して、ビスマルクと対立し、1890年に彼を辞任させる。最初は労働者保護政策をとったが、すぐには激しい弾圧政策に転向。攻撃的なユンカー帝国主義的拡張政策を推進し、第1次世界大戦を引き起こした。1918年のドイツ革命により退位し、オランダに亡命。

(10)フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)……オーストリア皇帝(在位1848-1916)、ハンガリー国王(1867-1916)。1848年に、フェルディナンド1世のあとを受けてオーストリア皇帝に。1848年革命を、ツァーリの軍隊の支援のもとに弾圧。1867年、ハンガリーと調停して、オーストリア=ハンガリー帝国を形成。ドイツに接近し、1882年に三国同盟を結成。1908年、トルコ革命の機に乗じてボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合。

(11)ピウスツキ、ヨーゼフ(1867-1935)……ポーランドの国家主義政治家、独裁者。1918〜21年大統領、在任中の1920年、ソヴィエト・ロシアに対する干渉戦争を遂行。リガ条約でソヴィエト・ロシアの一部を割譲。1921年、憲法に反対して下野するも、1926年にクーデターを起こして首相に。その後、独裁政治を死ぬまで継続。

(12)ウランゲリ、ピョートル(1878-1928)……帝政ロシアの軍人、中将、内戦時の白衛派将軍。1920年、フランスに支援されて反革命義勇軍を形成、南ロシアのクリミアで赤軍に敗北して、亡命。『回想録』2巻(ベルリン、1928)を残す。

(13)トゥハチェフスキー、ミハイル(1893-1937)……ソ連の赤軍司令官、元帥。貴族出身で、陸軍士官学校卒。第1次大戦にロシア軍将校として参加。1918年にボリシェヴィキ入党。1935〜36年、ソ連軍参謀総長、国防人民委員代理。1937年に、スターリンの陰謀でクーデターの首謀者として逮捕され、他の赤軍指導者とともに銃殺。死後名誉回復。

(14)ジョレス、ジャン(1859-1914)……フランス社会党の指導者、改良主義派としてゲード派と対立。1904年に党機関紙『ユマニテ』を創刊。1905年にゲード派とともに統一社会党を結成。反戦平和を主張し、第1次世界大戦勃発直後に右翼によって暗殺された。『フランス大革命史』(全8巻)など。

(15)マーモントフ、コンスタンチン(1869-1920)……帝政ロシアの軍人、中将、白衛派将軍。第1次大戦では、騎兵隊将校として参加。内戦において白衛派のコサック司令官として、ソヴィエト権力と闘争。1919年の夏から秋にかけて、敵の背後を突く奇襲攻撃で名を馳せた。

(16)ルーデンドルフ、ヴィルヘルム(1865-1937)……ドイツの反動的将軍。第1次大戦にお いてヒンデンブルクのもと、東部戦線で多くの武功をあげ、ドイツの英雄に。1916年、ヒンデンブルクとともに軍部独裁を行なう。1918年の革命後、一時亡命するが、カップ・リュトヴィッツ一揆に参加。

(17)ブリアン、アリスティッド(1862-1932)……フランスのブルジョア政治家。第1次大戦後、首相を10回、外相を11回つとめる。1920年代には反ソ政策を推進。


  

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