シベリアについて

トロツキー/訳 西島栄

【解説】これは、1927年に行なわれた「シベリアの夕べ」で行なわれた講演である。この講演の中でトロツキーは、自然環境と経済との関係、経済と文化との関係、ロシア経済と世界市場との関係、西方と東方、ヨーロッパとアメリカとの関係、生産物の品質、中国革命の展望など、多くの興味深い問題を論じている。1927年といえば、すでにトロツキーは党内権力を完全に失い、冷遇されていた。このパンフレットは、ソ連において合法的に出されたトロツキー文献のほとんど最後のものの一つであろう。

 この論文は、『社会主義へか資本主義へか』(大村書店)の付録としてはじめて訳出されたが、同書に含まれている他のすべての論文と同じく、多数の誤植が見られた。今回、インターネットにアップするにあたって、そのような誤植をすべて取り除いておいた。

Л.Троцкий, О Сибири, Мос., 1927.

Translated by Trotsky Institute of Japan


   1、なぜシベリアにソヴィエト権力が存在するのか?

 同志諸君! 「シベリアの夕べ」の席でシベリアについて語る際に、私が立てなければならない最初の問題は、だいたい次のようなものであろう。タイガと酷寒と果てしない空間と悪路と過疎の国シベリアは、ほんの少し前まで流刑地であったシベリアは、いったいどのようにしてソヴィエト化し、また社会主義になろうとし、社会主義になるのか? 地理の教科書を覗くのではなく――それは、シベリアには五つの地帯、ツンドラ、タイガ、北方林、森林ステップ、ステップがあること指摘している――、民衆の言葉や記憶の便覧たるダーリ(1)の辞典を覗くならば、シベリア[シビール]という単語に関連して次のような言葉を目にするだろう。シビールカ――石の袋の意、「ぶた箱」のこと。シビールヌィ――耐えがたいほど苛酷な。シビールシチナ――懲役ないしは苛酷な生活のこと。最後に、シビールスカヤ・ヤーズヴァ[炭疽。牛・馬などがかかる急性伝染病のこと]である。このように、民衆の言葉の中では、よそよそしい単語やイメージがそのシベリア観と結びついている。いったいどのようにして、このシベリアがソヴィエト化し、またその若い世代の意志によって社会主義化されようとしているのか? 

 何よりも明白なことがある! もしシベリアがこの世に単独であったとしたら、もしくはもしシベリアが孤立した存在であったとしたら、シベリアが自力でソヴィエト化することはなかったろう。その現在の矛盾した外観のうちに、シベリアは自らの歴史だけでなく、またかつての帝政ロシアの歴史だけでなく、世界の歴史をも要約しているのである。何よりもシベリアはウラル地方の堅いプロレタリア的絆によってソヴィエト連邦と結びついていた。レニングラード、モスクワ、ウラル、ドンバス、バクーの労働者なしには、シベリアはソヴィエト化しなかったろう。ソ連のヨーロッパ地域[ウラル山脈より西の部分]にいる少数派たるプロレタリアートは、中央集権化された新技術に、そして何よりも鉄道に立脚して農民国を率い、その運命を左右しているのだが、シベリアにおけるこの相互関係はより明瞭で驚くべきものである。シベリアは圧倒的に、全国のプロレタリアートの力の反映によって、いわばプロレタリア独裁の誘導電流によって生きているのである。そして、われわれが正当にも最も先進的とみなしている国家体制の形態[ソヴィエト]をいかにして後進的な植民地的辺境[シベリア]がわがものとすることができたのかという謎を問う時、その答えをブルジョア理論家に求めても無駄であるだけでなく、へぼマルクス主義教授に求めても、すなわちマルクス主義からその魂たる弁証法を抜きさり、各国の歴史をより古い文明国の歴史の――多かれ少なかれ――丹念な繰り返しとみなす型作り工に求めても無駄である。彼らはテムズ河、ボルガ河、レナ河において、それぞれ同一の文化史のあいつぐ諸段階を探し求めている。これらのマルクス主義者は、民族的発展の特殊性を否認することがマルクス主義だと思い込んでいる。しかしながら、全核心はこの特殊性を理解することにあるのであり、この特殊性は、一方では地理的環境の影響が、他方では国際情勢の影響が、それぞれ交差し合った結果なのである。

 イギリスとシベリアとのあいだには、単に空間があるだけでなく、歴史の一時代が横たわっている。イギリスは古典的な植民地本国である。シベリアはその発展条件からすれば植民地であった。そして、全体としてのロシアは、本国と植民地との中間に位置していた。もし世界資本主義の内的矛盾が、わが国の資本主義よりも早く、生産力のこれ以上の系統的成長を不可能にするような耐えがたい水準にまで達していなかったとしたら、言うまでもなくわが国は、資本主義システムから抜け出す最初の国にはならなかったろう。あれほど勇敢に帝政ロシアを変革しソヴィエト・シベリアを可能にした革命のうちには、すなわち10月革命のうちには、わが国の内部矛盾だけではなく、全体としての世界資本主義の最高の発展段階期における矛盾も表現されているのである。シベリアはイギリスではない。しかし、イギリスなしには、その資本主義なしには、その議会主義なしには、そのチャーチスト運動なしには、ロンドンで書かれたマルクスの『資本論』なしには、1880年代以降のイギリスの力の衰退なしには、現在におけるイギリス帝国の進行性麻痺なしには――シベリアはソヴィエト化しえなかったろう。世界の諸過程や諸矛盾と結びつけてはじめて、シベリアがなぜソヴィエト化されたのか、そしてこの変革がどのぐらい堅固で安定したものなのかがわかるのである。

 シベリアは、わがロシア全体の矛盾の拡大鏡である。われわれの所には空間がある。シベリアのそれは何倍も大きい。われわれの所には悪路がある。シベリアのそれはなおいっそうひどい。われわれの所には、植物、動物、鉱物の無限の天然資源がある。シベリアのそれはより豊かである。わが国の技術は不十分である。シベリアのそれはいっそう貧困である。そして、これらすべての矛盾を今日的に表現した、工業製品と農産物との鋏状価格差は、われわれの所よりもずっと先鋭である。なぜならば、シベリアはその農産物をより遠方へと搬出し、工業生産物をより遠方から搬入しなければならないからである。

 シベリアがソヴィエト化したのは、わが国の「農民戦争」、すなわち土地を求める農民(ムジーク)の反地主・反官僚闘争がプロレタリア革命と合流したからである。そして、このプロレタリア革命は、それはそれで、戦争によって極限まで張りつめられた帝国主義の鎖がその最も弱い環たる帝政ロシアにおいて破壊されたために必然的となったのである。つまり、プロレタリア革命の原因は、世界的な諸関係と結びつきの中にあったということである。資本主義の鎖は破壊されたが、しかしこのことは、わが国と対外世界との結びつきが崩壊したことを意味するものではない。経済的・政治的・文化的結びつきは残された。ただその性質を変えたにすぎない。後進的なシベリアは何よりも現代の技術力によってソヴィエト化された。新しい技術の威力は、まさに後進的な国において政治的に最も明瞭に示される。工場の炉を消して、蒸気をボイラーから抜くならば、われわれはごく短期間のうちに統一国家として存在することをやめるだろう。農民国におけるプロレタリア独裁はそれ自体、新技術がもつ威力の政治的表現なのである。その技術は自然を支配するだけでなく、保守的な日常生活をも支配する。シベリアを見てみたまえ! 森林でうめつくされた広大無辺の大陸は鉄道の細長い帯で貫かれた。そして、いくつものステップと森林と河川と資源をもったこの大陸の全体が、チェリャビンスク[ウラル山脈中南麓の都市]からウラジオストク[ロシアの東端の中心都市]まで7500キロメートルも続くレールの細長い帯にその全体重でもってぶらさがっている。まさに最近の革命的な数年間は、この細長い帯の運命がシベリアの運命であることをとりわけ明瞭に示した。

 

   2、シベリアの地理と経済

 ソヴィエト・シベリアは奇跡ではなく合法則的な歴史の産物である。まさにそれゆえ、ソヴィエト・シベリアからも奇跡を求めることはできない。それは、後進的な経済とその基礎たる地理のうちに内在している「過去」を短期間に克服することはできない。一度ならず言われてきたように、地理は歴史の受動的要因であり、生産はその能動的な要因である。しかし、生産という要因の能動性は何よりも受動的要因に適応することにある。歴史の基礎にあるのは経済である。そして経済の基礎には自然環境がある。このことをけっして忘れてはならない。生産技術の要因はただ歴史の順番の中でのみ最後のものである。しかし、歴史的ないしは社会的範疇の基礎には自然史的範疇があるのだ。シベリアにおいてはこのことはとりわけ明白に現われている。なぜならば、住民がまばらで経済的形態が後進的であるもとでは、歴史の地理的下層土は歴史の表面に現われるからである。地図を一瞥するならば、シベリアがカナダとアメリカ合衆国への対称をなす補完物であり、これらが太平洋の三角形の二辺の上に平行四辺形を作っているように見えるという事実は何よりも想像力をかきたてるものがある。両者は同一の気候帯にあり、地上と地下の資源も同じものが多い。だが、本から破ったこの2つの巨大なページは、いったいどうしてお互いこれほどまでに異なっているのであろうか? 

 シベリアの自由主義的社会評論家にして愛国者たるヤドリンツェフは、シベリアを論じた自著に対する題辞(エピグラフ)として、古典経済学の父アダム・スミスの次のような言葉を掲げた。

「文明諸国の植民地が無人の国か人口希薄の国で確立された場合、その植民地は他のどんな人間社会よりも急速に富と豊かさを増進させる」(2)

 老スミスは正しい。われわれはこの実例をアメリカ合衆国やカナダやオーストラリアや南アフリカに見るが、その中でもアメリカ合衆国は――言うまでもなく――資本主義的形態でずば抜けて富を増大させた。それではなぜシベリアはアメリカ合衆国と比べものにならないだけでなく、カナダとも比べものにならないのか? 主としてその原因はやはり同じ地理にある。シベリアはアメリカ合衆国に似ているが、しかしすべての点で似ているというわけではない。広大な大陸である国の運命にとってより決定的な意義を持つのは、交通手段としての海岸線や河川である。人類文化の初期の発展段階にとって河川が持つ意義については、エリゼ・ルクリュ[フランスの地理学者]の著書や、早世したロシアの学者レフ・メチニコフ(3)の著書を読めばよくわかる。シベリアには[海が凍りついているため]はっきりとした海岸線がない。たしかに、そこには豊富な河川が存在するが、それらはしかるべき所に流れてはおらず、北氷洋[北極の氷に閉ざされた海]に流れている。そこで、もしシベリアを横に90度回転させて、ウラル山脈が北からそれを覆うようにすれば、そしてそれによってシベリアの大河が太平洋に流れ出ていたならば、その時にはシベリアの運命全体は違っていただろう。だが実際には、技術はまだ大陸を回転させたり引っ繰り返したりするほどまでには至っていない。こうしたことは今のところメイエルホリド(4)劇場でしか行なわれていないし(爆笑)、そこでは時が経つにつれてますます上手に行なわれている。しかしながら、技術はこうした課題に近づきつつある。アメリカには、デーヴィス海峡[グリーンランドとカナダのバフィン島との間にある海峡]の寒流を暖流に置きかえる計画がある。わが国でも、ベーリング海峡[ソ連東端とアラスカ西端の間にある海峡]から流れてくる寒流を脇にそらして、黒潮暖流のために道を開くという考えが進行している。シベリアは暖いシャワーを大いに必要としており、この計画の実現はわが国の北東部にとって少なからぬ意義を持つだろう。しかし、言うまでもなく、はるかに切実な課題は、シベリアに太平洋の不凍港への出口を切り開くために、北洋航路をいっそう研究し技術改良することであり、もしくは、運河によってオビ川、エニセイ川、レナ川をアムール川と結合することである。しかしこれらはすべて人工の航路である。人工の航路は高価である。これらを建設するためには蓄積が必要である。蓄積するためには販売することが必要である。販売するためには輸送することが必要である。だが輸送するためには交通手段が必要である。まさにそれゆえ、できたばかりの植民地国家が発展するのは、「アダム・スミスにしたがえば」、自然の航路が豊かで有利であり、それが将来における人工の航路の前提条件となる場合なのである。

 シベリアにとって交通手段がどのような意義を持っているかは、シベリア鉄道によって示された。かつて次のように質問する者がいた。シベリア鉄道を建設するべきか、するべきでないか、と。当時のナロードニキはこう指摘した。鉄道はどこにも要らないし、それで運ぶものは何もないだろう、鉄道は農家の重荷になる云々、と。しかし、資本主義の飽くなき開発の手は、反動的ナロードニズムとまったく対立するものであった。もちろん、鉄道はシベリア農民の資金にもとづいて建設されたわけではない。すなわち、彼らの蓄積だけでは建設されなかった。帝政ロシアは外国の借款を利用することによってそれを建設したのである。そして鉄道が建設されるやいなや、それはシベリアの経済と日常生活とを自己の支配下に置くようになった。農業は世界市場に直面して再編されはじめた。西シベリアでは食肉用畜産が酪農に取って代わられた。シベリアからのバター輸出は短期間のうちにかなりの規模に達した。

 シベリアの天然資源とその技術的後進性とのあいだにある桁外れの矛盾を克服する道は、輸出の中に見い出されるべきである。すでに述べたように、シベリアがソヴィエトの軌道に切り替えられたことは、世界的な結びつきや依存関係――そしてそれらから生じる経済的可能性――を廃棄することを意味しない。シベリアにとってそれが意味するのは何よりも、シベリアの無尽蔵の原料――木材、穀物、鉱物、動物(野性および家畜)、魚、そしてそれらからつくられた生産物――の輸出である。シベリアはその後進性を克服するためには世界市場にならわなければならない。

 シベリアのある出版物のなかで読んだのだが、工業化計画と関連してこんな声が聞かれるらしい。その声とはこうである。シベリアの原料は少し控えめに輸出しなければならない、なぜならば、それはシベリア自身の「工業化にとって」必要になるだろうからだ、というものである。このような問題設定は根本的に間違っている! 今後何年もシベリアの工業化は何よりも、原料がより「ポータブル」になるように、それの持ち運びが便利になるように、わが国からそれを購入したくなるように、原料を処理し選別し第一次加工することを意味する。シベリアの輸出をアメリカ合衆国の輸出と比べるのではなく、シベリアとだいたい同じ850万人程度の人口を持つカナダの輸出と比べるならば、シベリアの後進性は驚くべき数字の中に現わされる。カナダは昨年、農産物を9億ルーブル、木材を5億ルーブル、畜産物を3億2000万ルーブル輸出し、カナダの輸出は全体としてこの1年間に26億ルーブルにのぼった。カナダの輸入は20億ルーブルであり、貿易黒字は6億ルーブルであった。これこそが工業化の真の要素だ!

 ではシベリアはどうかというと、この1年間にわずか5400万ルーブル輸出したにすぎない! 5ヵ年計画では、シベリアからの輸出を5年目に1億5000万〜2億ルーブルに引き上げることになっている。たったこれだけだ! なのに、工業化のために「手中から原料を放出してはいけない」などと言うことは、今や原料を宝のもちぐされにすることを意味する。シベリア自身が今後5年間におそらくその農業と一次産業の生産物の10%以上を吸収することはないだろう。わが国に資金が欠如しているかぎり、シベリアの本格的な工業化はただ輸出の成長と手を携えてのみ前進するのである。

 シベリアの工業化は、次の段階においては、シベリアの原料の輸出能力を保証しなければならない。だが、無尽蔵の天然資源を有しているにせよ、それを輸出し販売することはけっしてそれほど簡単なことではない。世界市場は厳格な受取人であり、手厳しい批評家である。それはソヴィエトの豚肉よりカナダの豚肉の方を好み、シベリアのバターよりもデンマークのバターの方を好む。世界市場は戦前においてもバター1プード[1プードは16.38s]あたり2〜3ルーブル高くデンマーク農民に支払っていた。今ではこの差はわが国に不利にずっと大きく拡大している。世界市場は、ソヴィエトの鶏卵よりもオランダやイタリアの鶏卵の味の方を好む。まったく同じ関係は亜麻やその他いっさいにもあてはまる。輸出の成功の如何は、商品の品質・形・選別・包装が外国市場のあらゆる要求と好みにあっているかどうかにかかっている。輸出を確保したいと思う者は世界市場に合わせなければならない。

 このことはシベリアにとって次のことを意味する。工業化を何よりも輸送――引き込み線、舗装道路、鉄道、運河――に向けよ、大型穀物倉庫や冷凍庫の生産に向けよ、製粉所、澱粉製造工場、バター製造工場、チーズ製造工場、缶詰工場、ベーコン製造工場その他の設立に向けよ、ということである。これこそがシベリアの基本路線だ! 重工業を含むその他の工業部門は、最初のうちは、シベリア経済にとって決定的なこれらの課題に対して二次的なものとならざるをえない。シベリアは単独で存在しているのではない。シベリアはソヴィエト経済の構成部分である。工業化はすべての国にとって同一の型通りに決まっているものではないし、一国の各部分にとっても同一のものではない。世界市場から逃げるわけにはいかない。正しくかつ慎重にそれに立ち向かっていかなければならない。世界市場は、ソヴィエトの鶏がどのような卵を産まなければならないか、シベリアの豚はどれぐらいの肉付きでなければならないかを示すのである。

 同志諸君、この問題は他で思われているほど簡単なことではない。シベリアの発展にとって、したがってまた社会主義建設にとって、ますます大量にベーコンを輸出することがわれわれに必要なのだ。諸君はすでに承知していると思うが、この軽く薫製にされた浅塩の豚肉は、イギリス市場に巨大な販路を見出している。しかし不幸は次の点にある。すなわち、シベリア人は豚の脂肪部分を肥え太らせるのに対し、イギリス人は脂肪層の薄いやわらかな豚肉を好むのである。もしシベリアが世界市場にならいたければ、イギリスの反革命豚を導入しなければならない。われわれはこのイギリス豚の干渉に乗り出しつつある。シベリアの豚はイギリスの最も保守的な去勢豚に反対しないだろうと私は思う(笑い)。たとえそのイギリスの豚がロッカー・レンプソン[イギリスの反動政治家]の同志であったとしても、である(笑い、拍手)。それどころか、それは「保守頑迷」であればあるほどよい…。これはいささかこっけいに聞こえる。しかし同志諸君、鶏や豚を「調整する」ことは、人類文化の途上における小さくない一歩を成し遂げることなのである。家畜小屋においても鶏舎においても自然発生的過程を理解しそれを自らに従わせること、これこそが文化の目標とするところに他ならない。デンマーク人は鶏に1年間ずっと卵を産まさせる。しかも、同じ大きさ、同じ色の卵をである。これこそ、「鶏」ゴスプランの指導下に達成された文化の真の勝利である。しかし、わが国はまだそこまでいっていないのだ。

 

   3、自然発生と意識的創造――文学、政治、経済

 ちょうどここで、マルクス主義的社会主義の広く行き渡っている定義、「無意識的な歴史的過程の意識的表現」について言及しておくことは、当を得ているだろう。過程の表現と、それによる過程の制御だ。この定義が党による政治活動よりも広いものであることを理解するのはたやすい。それは、自然発生的過程を支配しそれを合目的的に組織しようとする、すなわち人間の諸要求に従わせようとするすべての意識的・計画的・目的的な人間行動を包含している。この定義はテクノロジーの技術にも政治の技術にもあてはまる。自然を人間に実践的に従わせるという直接的課題を有しているテクノロジーは、他のすべての技術に対して基本的なものである。いわゆる「優美な」技術(5)、すなわち芸術的創造も同じ定義の中に入る。これも、自然ないしは社会生活の無意識的過程に意識的表現を与えることを課題としている。科学はこの課題を法則の力を借りて行なうのに対し、芸術は形象の力を借りて行なうのである。

 シベリアは、すでに自らの新しい政治的システムを有しているように、自らの新しい文学を有している。シベリアの傑出した作家の創作はシベリアの境界を越えて需要を見出し、外国語にも翻訳されている。しかし、シベリアの文学をシベリアだけの産物であると考えるとしたら、シベリアのソヴィエト制度についてそう考えるのと同様、根本的に間違いであろう。フセヴォロド・イワノフ(6)やセイフーリナ(7)やシシコフ(8)の文学も、また名を挙げはしないが、その資格を持っているその他の人々の文学も、ゴーリキーやトルストイやゴーゴリの文学がなければ、そしてより視野を広げるなら、ユーゴーやゲーテやシェイクスピアの文学がなければ、すなわち世界のすべての文学がなければ、なかったであろう。しかし同時に、シベリアの作家はきわめて独特である。どういう点でか? それは、自然と人間生活の原初的な力、すなわち吹雪やタイガや農民反乱といったすべての自然発生的なもの[スティーヒヤ(自然力)]に表現を与えようとするその本能的な志向、である。自然力はシベリアの芸術家たちを魅了し奮い立たせるが、しかし彼らを呑み込んでしまう。このことは、革命の自然力(だが革命は単なる自然力ではない!)によって揺り動かされた、ないしは生み出された若いロシア文学者のほとんどすべてにあてはまる。だがシベリアの文学者にはとりわけよくあてはまるのだ。彼らは、古代の4元素[スティーヒヤ]――火、空気、水、土――に新しいものを加える。すなわちシベリア、吹雪と革命のシベリアを。ビャチェスラフ・シシコフは最近の小説の中でこう書いている。

 「白い平面の上を息も絶え絶え這いずりまわる黒い点、それが人間だ」。

 その後、この点を大洋の上から吹雪が襲う。雪という自然力は人間を打ち、震えさせる――死に至らしめることになるかどうかは私にはわからない。なぜなら小説は未完成だからである。一方、フセヴォロド・イワノフの描く農民反乱とはこうである。反乱の覆いは白ではなく赤である。しかしそれは吹雪と同じく人間という点を打ち、震えさせる。そして、シシコフの主人公と同じく、彼、人間には、革命の雪嵐がどこから来、そしてどこへ行くのかほとんどわからない。シベリア人は自然力の強さと人間の弱さを謳う酔っ払った詩人である。こうした点に彼らはシベリアを反映している。しかしまた、これによって彼らは自らにシベリアの弱さをあえて植えつけるのである。

 すでに述べたように、シベリアの文学者だけでなく、ほとんどすべての若いロシア文学者も自然力にひたり、その中で自らを鞭打つ。これは芸術の形式にも反映している。すなわち、形象と言葉のとめどもない氾濫に反映している。これは過渡的な段階である。この段階を通過できない者は、自然力の中で衰弱して飲み込まれてしまうだろう。芸術を含むどんな技術も、素材への従属ではなく素材に対する支配を求める。生産や生活建設においては、これは科学的なテクノロジーによって可能となる。政治においては、科学的に鍛えられた党によって保証される。芸術においては、意識的な技量によって保証される。その技量は、普遍的な見地に立脚し、創作者をその作品の上に君臨させる。このことは自然力から離れることを意味しない。自然力や自然発生性に対して自由主義者のように唾を吐きかけることは、われわれにはまったく無縁であり対立している。しかし、無政府主義者のようにその中に埋没してしまうこともできない。ボリシェヴィキのように、それを組織することが――自然においても、政治においても、芸術においても――必要なのだ。

 芸術における文化のための闘争とは、創造性の陶冶のための闘争であり、内的な自己批評のための闘争であり、目と耳の教育のための闘争であり、言葉の節約のための闘争である。自然発生性に満ちた自然力を受け入れる能力を保持しつつ、同時に節度の感覚でもってその自然力に対して自制すること、これが芸術の最高法則である。

 シベリア・ソヴィエトは、フセヴォロド・イワノフがかくも見事に描き出した自然発生的な反乱のみから生じたのではない。シベリアの革命にとっては、反乱の他に党と赤軍とが、すなわち理論、計画、組織が必要であった。周知のように、現段階においてソヴィエトは、ロシア全体の歴史――しかも孤立的に取り上げられたそれではなく、世界の諸作用のうちに組み込まれたそれ――の縮図となっている。政治の領域においても芸術の領域においても、シベリアはその経済的土台の直接的な水準に対してはるかに先んじている。芸術的手法や思想、そして政治形態でさえも、鉄道のレールや溶鉱炉よりも容易に普及し、空間を移動していっているのである。

 工業に関しては、シベリアはまだまったく手つかずのままである。このテーマについては長々と話さなくてもよいだろう。若干の比較を示せば十分である。かつて国の文化水準をその国が消費する石鹸の量で測ったことがある。これは保健人民委員部ないしはその先駆機関の基準である。これに関しては、シベリアはそれが必要とする石鹸の10%以下しか生産していないと言えば十分であろう。だが、シベリア人は石鹸を使いすぎるなどと主張してはいけない。その後、この指標は別のより正確な指標に変えられた。金属消費量がそれである。シベリアでは人口1人あたり1プード以下の鋳鉄を消費しているが、合衆国では20プード以上である。

 しかし、人間の技術力を最も正確に測るものは現在では機械エネルギーの量である。そして機械エネルギーの最高の表現は電気である。私はシベリアの文献の中に電化に関する資料を見つけたが、それはこのようなものである。1キロワットあたりシベリアでは500人であるのに対し、アフリカでは400人(アフリカでだ!)、アメリカ合衆国では5人である。しかしながら、眠っているエネルギーの埋蔵量を取り上げるならば、シベリアははなはだ豊かである。そこには石炭も、泥炭も、木材も、水力もある。シベリアの水力だけで1億馬力に達し、これはアメリカとカナダとを足したものよりも大きい。アメリカ地質学研究所の計算によれば、世界の水力資源は約4億馬力だそうである。つまり、シベリアは全体の4分の1を占めているということになる。巨大な数字だ! しかし今のところ、この数字はシベリアの後進性をよりはっきりと強調するにすぎない。

 もう一つの例として金を挙げよう。周知のようにシベリアの金は豊富である。極東だけで50万プードの金が存在する。1プードあたり2万ルーブルであるから、これは100億ルーブルに相当する。つまりアメリカの銀行にあるよりも多いのだ。ただ、アメリカにおいては金は銀行の地下室にあるのに対して、わが国では地中にあるだけのことである。金で窒息しかかっている強力な工業国アメリカは、資源がまだ森や地中や水中に埋まっているにすぎないシベリアを喜んで「開放する」であろうが、これは理由のないことではない。諸君もご存じのように、アメリカは「門戸開放」政策に賛成なのだ!

 こうした比較係数をシベリアの革命的労働者はしっかりと認識し記憶にとどめておく必要がある。自国の後進性を認識することによって消極的になったり、手を降ろしたり、降伏したりするような者は軽蔑に値する。しかし、から元気を保つために事実と数字に目を閉じる者も同じくらい軽蔑に値する。社会主義建設にとって必要なのは小役人たちではなく、深いリアリズムと革命的決意を備えた人々なのである。

 われわれはシベリアの天然資源をわがものとしていないだけではなく、それを認識してもいない。獲得へ至る道の最初の一歩は認識することである。認識への道は科学的な研究である。科学的な研究は、総じてあらゆる高度な人間活動と同様、意志と情熱とを必要とする。そして情熱は、現在いる地点と到達しなければならない地点とを隔てている巨大な距離を明確に理解することによって育まれる。この距離を理解することはペシミズムではなく、科学的で政治的な誠実さを意味する。この誠実さは意志を萎えさせるのではなく、反対に意志を固めさせるものである。

 われわれは歴史的に後進的な国民である。しかし同時に歴史の意志によって巨大な課題に直面している国民でもある。われわれにとっての最悪の敵は自己満足かもしれない。必要なのは、自然力に飲み込まれるのでもなく、自然力を自慢するのでもなく、それを征服することである。研究や科学や技術における最高度の誠実さ、政治における最高度の革命的誠実さ――これこそがわれわれにとって必要なものだ。われわれは歴史的遺産を大いに取捨選択して受け入れる。その多くをわれわれは根絶した。多くのものを容赦なく根絶やしにした。この種の歴史的遺産の中にはこんな真にロシア的なスローガンがある。「帽子で投げ飛ばしてやる![ひとひねりだ]」。

 われわれはこうしたスローガンからまだ完全には決別していない。帽子では、とりわけシラミだらけの帽子では誰も投げ飛ばすことなどできない。より正しく言えば、その気になれば帽子で相手を投げ飛ばすこともできるだろうが、極めて多くの帽子を持っていなければならない。そしてそのためには、それを安く生産することが必要である。ところが、われわれはまだそれができない。われわれはそれを習得するであろうか? もちろん習得する。必要なのは本当にその気になることだけだ! 

 

   4、シベリアの国際的意義

 シベリアは労働者国家にとって太平洋への出口である。そして太平洋とその沿岸とはますます現代史の舞台となりつつある。現在シベリアはソヴィエト連邦の奥深い後方である。しかしこれからの10〜20年の歴史は「回れ右!」という号令をかけることになるかもしれない。そうすると前線は太平洋に面し、後方がウラル山脈の向こうの西方になるだろう。

 ヨーロッパ人がその伝統的な思い上がりをなくすのは困難である。ヨーロッパは何百年にもわたって人類史をつくってきた。そして残りのすべてはまるで副次的な付録であるかのようであった。しかしながら、帝国主義戦争はヨーロッパの比重に巨大な変化を引き起こした、いやより正確に言えば暴露した。世界経済の軸はアメリカの側に移行した。帝国主義戦争の喧騒とその後に続いた革命の轟音のため、このことはすぐには認められなかった。このことが指摘された時、最初ヨーロッパ人は腹をたてた。しかし事実は事実である。ヨーロッパは第二列に追いやられ、大西洋はその重要性を太平洋に譲ったのだ。

 この点に関して今後の発展の展望はいかなるものであろうか? ヨーロッパの保守主義者の中には、特別なことは何も生じていないということを証明しようとして、数字に呪文をかけ水増しし魔法をかけている物好きがいる。否、生じたのだ! アメリカに対するヨーロッパの闘争とは、集中された巨大企業――そこでは、規格化された労働がコンベアーによって調節されている――に対する、二流企業――それは旧式の技術を有し、遅れた労働方法をとり、内部に細分状態と恒常的な不和を抱えている――の闘争である。競争するには運転資金が要る。アメリカにはそれがはるかに多くある。その上、ヨーロッパはアメリカに借金をする。その際、誠実な条件を含むどんな条件をつけることも可能である。しかしこの条件は基本的事実を変えはしない。すなわち、遅れた二流の企業に対する近代的な大企業の優位性は年とともに増大するだけであろう。この事実から目を背けることなかれ! ヨーロッパに対する合衆国の優位性、大西洋に対する太平洋の優位性は増大していくだろう。

 しかしながら、事態はアメリカだけではなくアジアでもまたそうなっている。次のことを言えば十分であろう。戦前、外国貿易に占めるヨーロッパのシェアは64%であったのに対し、アジアはたった10%であった。今やヨーロッパのシェアは52%であり、アジアは約15%である。ここでも力関係はヨーロッパに不利に変化した。資本主義にもとづくかぎりヨーロッパに出口はない。その比重は、あれこれの側への不可避的な変動を伴いつつも下落していくであろう。この点にこそヨーロッパの革命的情勢の基礎があるのだ。

 ヨーロッパを押しのけながら合衆国は全アメリカ大陸を自己の支配下に置きつつある(カナダでは平和的に、南アメリカでは流血を伴って)。しかし世界支配のための合衆国の主要な闘争は太平洋の沿岸と島々で展開されるだろう。この闘争は、結局のところ主要な競争相手たるイギリスに向けられるであろうが、直接的には、中国経済やアジア大陸全体の経済におけるアメリカの指導的役割をめざして日本に打撃を与えるかもしれない。没落しつつあるイギリスは中国で棍棒をもって行動しようとしている。上昇しつつあるアメリカ合衆国はルーブルをもって、しかもドルと呼ばれる2倍のルーブルをもって行動している。まったく明らかなことであるが、もし合衆国が中国を自己の手中に治めることに成功したならば、これはシベリアの社会主義的展望にとって脅威となるだけでなく、それの単なる独立にとっても、さらにはアジア全体にとっても脅威となるだろう。「門戸開放」政策は、合衆国が何よりもアジア諸国の家の門戸開放を欲していることを意味する。シベリアの未来は、中国人民が、ますます指導的となりつつあるそのプロレタリアートによって自分自身の門戸の錠と鍵を支配できるかどうかに、そして自ら欲する時と相手に門戸を開くことができるかどうか、またその能力があるかどうかに、大いにかかっているのである。

 シベリアは現在、モスクワと広東を結ぶ大きな橋である。この結びつきの重要性については、この数年間の歴史が如実に物語っている。シベリアは最近まで白衛軍の手中にあった。極東はもっと最近まで緩衝共和国を構成していたし、中国の革命運動は心もとないふらふらとした足取りで進んでいた。しかし、北アジアおよび中央アジアでソヴィエト体制が強固になるにつれて、中国の人民大衆の革命的歩みはますます揺るぎないものになっていった。われわれは、このような「干渉」を、すなわち、思想による干渉、実例による影響、わが隣人を感化する力を拒否しない。そして世界のどんな外交文書であろうと、それをわれわれから奪えないであろう(拍手)。

 もう一度繰り返すが、シベリアの運命を孤立的に検討してはならない。シベリアはヨーロッパ・ロシアと中国とのあいだに位置しており、セミレチエ鉄道によってシベリアはタシケント[ウズベク共和国の首都]とより密接に結びつき、インドとの距離を短くしている。このシベリアは、自らの運命を西方のプロレタリアートの運命と東方の目覚めつつある諸民族の運命に分かちがたく結びつけたのである。

 実際、シベリアは研究者や技術者や文化活動家やあらゆる種類の専門家を切実に必要としている。しかし、奥底に下りていくだけでは十分ではなく、高い水準を維持できなければならない。シベリアの運命を世界の階級闘争の運命と結びつけることができなければならない。金を探し、石炭を探し、鉄鉱石から精練しなければならない――しかし誰のために? 技術と経済とを国際的規模の大政策と結合しなければならない。

 分離主義的なシベリア、閉鎖的なシベリア、自分の足元しか見ないシベリア――これはわれわれのシベリアではない。この道を行けば必然的に偏狭な地方主義と植民地主義的傾向が増大していくであろう。すなわち、弱小の異民族に対する暴力的な弾圧、中国人に対する軽蔑、日本人に対する白眼視、総じて黄色人種に対する反感の増大をもたらすだろう。排外主義のこの嫌悪すべき装いに隠れてのみ、シベリアの反革命はその頭をもたげることができるのである。国際主義の鎧で身を固めてのみ、シベリアは、太平洋の側からシベリアを脅かす大きな危険から自らを守ることができる。さまざまな人種から成るアジアの勤労大衆に相互信頼をしみ込ませることによって彼らを団結させることがすべてであり、まさにこれによってシベリアを含むアジア各国の未来は保証されるのである。

 さて、中国革命の新しいページを開いたこの数万人の上海労働者は、ソヴィエト・シベリアの直接的な参加者であり建設者である。なぜならば彼らは世界革命の参加者だからだ。ちょうどこの数日間、資本主義の側の敵はわれわれを他国の人民の運命に「介入」しようとしていると言って非難している。しかし、この間に来た電報は上海とその周辺で生じている事態の構図をますます正確かつ完全にわれわれに描き出している。外国人街のすぐそばで外国の部隊が強化されつつある。大砲を持った3000人のイギリス人、イタリア人小隊、2000人のアメリカ人が上海の海域に配置されている。ロシア白衛軍から成る連隊が南京に入城した。マニラから3隻のアメリカの水雷艇が上海に到着した。外人部隊のフランス大隊がアルジェリアから上海に派遣されてきた。そして今日の夕方送られてきた電報はこう伝えている。ムッソリーニがファシスト義勇軍を上海に派遣するべきかどうかの問題を検討している、なぜならばその部隊は「内戦で大きな経験を積んでいる」からだ、と。しかし、われわれも内戦ではなにがしかの経験を積んでいる――ただし別の目的をもってであるが。このことは、われわれも武装勢力を上海に派遣することができるということを意味しないだろうか? ヨーロッパと全世界の黒百人組のならず者どもが中国の若い英雄的労働者階級を圧殺しようと試みながら、同時に他国人民の運命への介入という非難をわれわれに投げつけているのである。われわれの罪は、われわれが連中による弾圧と迫害の共犯者ではないという点にあるのだ!

 外国部隊の、すなわち何よりもイギリス部隊の援護のもとに、上海の反革命将校たちは50人のストライキ指導者を町の広場に連れて出して殺害し、その他の数十名をひそかに殺害した。だがオースチン・チェンバレン(9)は、わが国の漫画家が死刑執行人に拍手する彼の姿を描いたことに腹をたてている。拍手しているだけか? 否、死刑執行人どもを派遣し、そそのかし、石鹸をつけた首吊り縄を彼らの手に渡している。わが国だけでなく全世界のすべての革命家は、イギリスのすべての誠実な労働者は、力が不十分なためすぐにその地に本格的に介入することができないことに、すなわち堅い腕でこの死刑執行人部隊を押しとどめ、彼らを揚子江の河口に突き落とすことができないことに、自らの罪があるとみなしているのだ(拍手)。

 頑迷なロッカー・レンプソンはチェンバレンの脅迫的な覚書を「たわいのない羊の鳴声」と呼んだ。尊敬すべき極右のジェントルマンにとっては、公然たる攻撃的な豚の鳴声の方がお好みだったのであろう。しかしチェンバレンの覚書はそれほどたわいないものではけっしてなかった。わが国に対するさらなる陰謀の他にも、ことのついでにこの覚書は中国に関するきわめて重大な課題を追求している。すなわち、それは太平洋沿岸における血塗られた仕事を隠蔽しているのだ。マクドナルド一派とイギリス総評議会の札つきの裏切り者は外交的ポーズと姑息な手段を使って英ソ関係を決裂から「救う」だろうが、そうしているあいだに、上海労働者に対する虐殺から目をそらせるだろう。より不快なのは、羊の鳴声を発する者なのか、豚の鳴声を発する者なのか、それとも犬のように卑屈に鼻を鳴らす者なのか、これを決定することはまことに困難である。

 チェンバレンの覚書は次のようにわれわれを非難している。今から読むのでよく聞いてほしい。「ソヴィエト政権そのものの意識に定着した――あるいはその性格から出てくるとさえ言ってもよい――敵意によってしか説明されえない脅迫観念」云々、と。「その性格[キャラクター]から出てくる」!。どうやら、われわれの「キャラ・ラ・ラクター」(笑い)は彼らには気に入らないようだ。実際、われわれの性格は悪い。それはおそらくわれわれの物覚えがいいからであろう。われわれの性格は、抑圧者との闘争の中で、ツアーリズムに対する蜂起の中で、内戦の諸事件の中で形成されたものである。われわれはあまりにもよくニコライ二世、コルチャーク、デニーキン、ユデーニチのやったことを覚えている。彼らは例外なくチェンバレンの同盟者であった。われわれはイギリス人自身がムルマンスクやアルハンゲリスクやシベリアでやったことを覚えている。そこには至る所に、イギリス帝国主義が革命的人民の意志を弾圧しようとした血の跡が残されている。われわれはバクーのコミッサール26人の運命を忘れなかったし、忘れないだろう! 彼らは、イギリスのウォーカー将軍の総指揮のもとに、イギリス公使館長ティーク・ジョンソンによって銃殺されたのである。われわれはシベリアのノークス将軍の卑劣な役割を忘れなかった。われわれの性格を形づくったこのようなことをわれわれは何一つ忘れないだろう!

 そして、上海での事件を前にして、それでもあえてわれわれの「脅迫観念」についてぶつぶつ言うとすれば、われわれは全世界の労働者に、そして何よりもイギリスの労働者にこう言うだろう、「これこそ支配階級の醜悪な偽善だ!」と。イギリス労働者のゼネストを続行させた上海プロレタリアートにわれわれは言う。「上海の兄弟たちよ、われわれもこの試練を経てきた。われわれはこれを知っているし覚えている。われわれにも、押しつぶされ破滅するかのように思われた困難で苛酷な時期があった。だがわれわれは立ち直り、前進した。諸君もこの困難な時期に意気を阻喪するな!」と。最後に、われわれはソヴィエト連邦の勤労者、何よりもシベリアの勤労者にこう言おう、「上海に目を向けよ! そこでは現在、諸君自身の運命の大きな部分が決せられようとしているのだ!」(拍手)。

1927年2月28日

『シベリアについて』所収

『社会主義へか資本主義へか』(大村書店)より

 

  訳注

(1)ダーリ、ウラジーミル(1801〜72)……作家、辞典編纂者、民俗学者。

(2)アダム・スミス『諸国民の富』、第4編「政治経済学の体系について」、第7章「植民地ついて」、第2部「新植民地の繁栄の諸原因」の冒頭の一節。

(3)メチニコフ、レフ(1938〜88)……ロシアの地理学者、社会学者。

(4)メイエルホリド、フセヴォロト(1874〜1940)……ソ連の著名な演劇演出家。10月革命後に入党し、「演劇の10月」を掲げて斬新な手法で演劇を演出。22年にメイエルホリド劇場を創設。スターリン時代には敵視され、39年に逮捕、40年に粛清される。ちなみに、本文でメイエルホリド劇場が取り上げられているのは、当時、メイエルホリド劇場でマルチネの『逆立つ大地』が上演されていたからである。

(5)ロシア語では「優美な技術」と書いて「美術」ないしは「芸術」の意味となる。

(6)イワノフ、フセヴォロト(1895〜1963)……ロシアの作家。『装甲列車』などの作品がある。

(7)セイフーリナ、リーディヤ(1889〜1954)……ロシアの作家。『堆肥』などの作品がある。

(8)シシコフ、ヴェチェスラフ(1893〜1945)……ロシアの作家。『ウグリューム河』などの作品がある。

(9)チェンバレン、オースティン(1863-1937)……イギリスの保守党政治家。1892〜1937年、下院議員。1902〜03年、郵政相。1919〜21年、蔵相。1924〜29年、外相。1925年、ロカルノ条約の調印に尽くしたとしてノーベル平和賞受賞。


  

トロツキー・インターネット・アルヒーフ 日本語トップページ 1920年代後期
日本語文献の英語ページ
マルキスト・インターネット・アルヒーフの非英語ページ
マルキスト・インターネット・アルヒーフ