アメリカ・マルクス主義の展望

トロツキー/訳 西島栄

【解説】これは、トロツキーがアメリカの急進主義者であるカルバートンに宛てた公開状である。この中でトロツキーは、「革命理論が新しい高みにまで引き上げられる光景を次の数十年間に見ることができるとすれば、それは東アジアとアメリカにおいてでしょう」という予測を述べている。これは部分的に的中したように思われる。毛沢東の革命論は、一面性を免れていなかったとはいえ、第三世界において農村から都市へとゲリラ戦を展開する中で社会主義革命を成功させる展望を切り開いたからである。もちろん、後にこれはドグマに仕立て上げられ、しばしば有害な役割を果たすようになったが。また、アメリカにおいては、トロツキーが予想したような画期的なマルクス主義革命論は結局生み出されなかったが、それでもアメリカの持つダイナミズムは左翼思想の領域にも大いに力を発揮し、それは何よりもラディカル・フェミニズムとして、およびブラック・ナショナリズムの理論として結実した。

 なお、この論文は、英訳からの翻訳がすでに『トロツキー研究』第23号に掲載されていたが、今回は、『反対派ブレティン』のロシア語原文にもとづいて修正を加えておいた。当初の訳にあった誤訳や脱漏がすべて修正されている。

Л.Троцкий, Перспективы американского марксизма, Бюллетень Оппозиции, No.32, Декабрь 1932.

Trotsky Institute of Japan


 親愛なる同志カルバートン(1)

 あなたのパンフレット『革命のために』を拝受しました。興味深く読ませていただき、大いにためになりました。アメリカにおける「純粋改良の騎士団」に反対するあなたの議論は非常に説得的であり、そのいくつかは卓越しています。しかし、あなたの要望を私なりに理解するところでは、私から文学的賛辞を求めているのではなく、政治的評価を求めていると思われます。アメリカ・マルクス主義の問題が今や例外的な重要性を帯びていることからしても、あなたの要望はまったくもっともなことだと思います。

 あなたのパンフレットは、その性格と構成からして、青年学生の中の思慮ある代表者に読んでもらうのが最も適当かと思います。彼らをけっして無視してはなりません。反対に、これらの学生諸君に彼らの理解できる言葉で語りかけるすべを知らなければなりません。しかしながら、あなた自身はパンフレットの中で、マルクス主義者にとって自明の思想を繰り返し強調しています。すなわち、資本主義の廃絶を達成しうるのはプロレタリアートだけである、という思想です。あなたは、プロレタリア前衛の革命的教育こそが主要な課題であると正しく主張しています。しかし、パンフレットの中には、この課題に向けた懸け橋は見当りませんし、求めるべき方向性についてもまったく指摘されていません。

 これは私の側からの非難でしょうか? イエスでもありノーでもあります。あなたの小冊子は、その本質からして、ある種の小ブルジョア急進派(アメリカでは、「リベラル」という擦り切れた名前はすっかり時代遅れになりつつあるようです)に対する回答です。この小ブルジョア急進派は、最も大胆な社会的結論を受け入れる用意がありますが、それがいかなる政治的義務も課さない場合にかぎってそうなのです。社会主義だって? 共産主義? アナーキズム? 大いにけっこう! ただし、改良による以外はお断わりだ。社会や道徳や家族を上から下までつくり変える? すばらしい! ただし、ホワイト・ハウスとタマニー・ホール(2)の許可が絶対に必要だ、というわけです。

 このような欺瞞的で不毛な傾向に対して、すでに述べたように、あなたは非常に説得力のある批判を行なっています。しかしその結果、この論争そのものは、インテリゲンツィア内部の身内的論争――その改良主義的翼とマルクス主義的翼との論争――という性格を必然的に呈することになります。ちょうどこのようなやり方で、30〜40年前にペテルブルクとモスクワでアカデミックなマルクス主義者はアカデミックなナロードニキ主義者と論争しました。ロシアは資本主義の段階を通るかいなか、と。その時以来いったいどれだけ多くの時間が流れたことでしょう! あなたがパンフレットの中でこのような問題を提起する必要があるという事実は、それだけですでに、技術的に世界で最も発達した国であるアメリカ合衆国の政治的後進性をはっきりと示しています。あなたがこのようなアメリカ的状況から免れることはできないし、そうする権利もないというかぎりにおいて、私の言葉には非難の調子はありません。

 しかし同時に、非難の側面もあります。というのは、革命に「賛成」か「反対」かというアカデミックな論争を展開する種々のパンフレットやクラブと並んで、アメリカのプロレタリアートの隊列には、その運動の後進性にもかかわらず、さまざまな政治的グループが存在するし、その中には革命的なグループも存在するからです。ところがあなたはそのことについて一言も語っていません。あなたのパンフレットはいわゆる社会主義政党(社会党)についても、共産党についても言及しておらず、いくつかの中間的な諸形態についても、ましてや共産主義内部の相争う諸分派についても語っていません。これは、あなたが誰か特定の人々に対して何か特定の方向に進むよう訴えているのではない、ということを意味しています。あなたが説明しているのは革命の必然性についてです。しかしながら、あなたの言うことにフンフンうなずいたインテリゲンツィアは、タバコをふかすのを静かに終えて、彼の次の日常用具へと手を伸ばすことでしょう。このかぎりにおいて、私の言葉には非難の要素があります。

 あなたの論文から判断するところでは、あなたの政治的立場は、アメリカ合衆国における、理論的にかなり熟達した相当数の左翼インテリゲンツィア層に典型的なものであるように見受けられましたので、あえてこのような事情を強調したのです。

 もちろん、ヒルキットとトーマス(3)の党[アメリカ社会党]をプロレタリア革命の道具として語るのはナンセンスです。アメリカの社会民主主義は、ヨーロッパの改良主義の力量にはるかに及ばないにもかかわらず、すでにその悪徳のいっさいを身につけており、ほとんど子供時代を経験することなく、「老いぼれ犬」に成り果てています。あなたならこの評価に同意するでしょうし、たぶん、すでに一度ならず似たような意見を表明されたことと思います。

 しかし、『革命のために』の中であなたはアメリカの社会民主主義について一言も言及していません。どうしてでしょうか? 思うに、それは、社会民主主義のことに言及すれば、同時に共産党についても評価しなくてはならなくなるからです。そして、これはデリケートな問題であるだけでなく、はなはだ責任重大な問題であり、いくつかの義務を課し、いくつかの結論に導くものです。もしかしたら、私はあなた個人については判断を誤っているかもしれません。しかしながら、アメリカの多くのマルクス主義者は、党の問題に関して自分の立場をはっきりさせることを明らかに頑強に避けています。彼らは、「ソ連の友」の陣営に属し、共産主義に「共感」し、ヘーゲルのことや革命の不可避性について書いています。そしてそれで終わりです。しかし、これでは不十分なのです。なぜなら、革命の道具は党だからです。そうではありませんか。

 誤解しないでいただきたいのですが、明確な立場を持った実践的結論を避ける傾向といっても、個々人の安寧に対する関心のことを言っているのではまったくありません。たしかに、革命を討論クラブから街頭に移すという目標を共産党が掲げていることですっかり臆病風に吹かれているエセ「マルクス主義者」は少なからずいます。しかし、このような俗物たちと革命党について論争することは、一般的に言って時間の無駄です。私たちが言っているのは別の、もっと真剣なマルクス主義者のことです。彼らは、革命的行動をけっして恐れてはいませんが、現在の共産党の理論レベルの低さやその官僚主義に、あるいは共産党に真の革命的イニシアチブが欠けていることに不安を抱いています。同時に、彼らはこう自問しています。ソヴィエト連邦と結びついた党、ある意味でソ連を「代表」している党こそが最も左にある党のはずだ。そのような党を攻撃していいものか、批判することは許されることなのか、と。

 現在の共産主義インターナショナルとそのアメリカ支部の日和見主義的・冒険主義的な悪徳については、あまりにも明瞭なので強調するまでもありません。いずれにせよ、この手紙の枠内でこのことについて繰り返すのは不可能ですし、無意味です。この主題については、私はすでに独立の論文・著作の中で論じています

※原注 以下のものを参照していただければと思います。ニューヨークの週刊紙『ミリタント』、パイオニア出版が発行している小冊子とパンフレット。これらは、アメリカ共産主義者同盟(126 East, 16 Street, New York City)の新聞と出版社です。

 理論、戦略、戦術、組織に関する諸問題はすべて共産主義の内部で深刻な分岐の対象となっています。3つの基本的な分派がすでに形成され、この数年間における大事件や諸問題の中でその性格を明らかにしつつあります。これらの諸分派間の闘争は、ソヴィエト連邦における現在の支配分派のあらゆる意見の相違が即座に党からの除名と国家による弾圧をもたらしているがゆえに、なおさら先鋭なものになっています。アメリカ合衆国のマルクス主義インテリゲンツィアは、他の国と同様、ある二者択一の前に立たされています。現状のままの共産主義インターナショナルを唯々諾々と支持するのか、さもなくば、反革命と「社会ファシズム」の陣営に入れられてしまうのか、です。インテリゲンツィアのあるグループは第一の道を選択し、目を閉じたまま、あるいは半分目を閉じたまま、公式の共産党につきしたがっています。別のグループは、党という基盤もなくフラフラし、可能な場合にはソヴィエト連邦を中傷から守り、また、革命を支持する抽象的な説教に――革命に至る上で通らなければならない入り口を指し示すこともなく――ふけっています。

 しかしながら、この2つのグループ間の相違はそれほど大きくありません。どちらの側においても、独立した意見をつくり出すための創造的な努力は放棄されており、それを擁護する勇敢な闘争が放棄されています。このような独立した意見こそ、まさに革命家の出発点であるというのに。どちらの側においても見いだせるのは、同伴者タイプのインテリゲンツィアであって、プロレタリア党の積極的建設者ではありません。もちろん、同伴者であることは、敵であることよりもましです。しかし、マルクス主義者は革命の同伴者ではありえません。しかも、歴史の経験が示しているとおり、最も危機的な瞬間になれば、闘争の嵐はこれらの同伴者タイプのインテリゲンツィアの大部分を敵の陣営に吹き飛ばしてしまうのです。彼らが戻ってくるのは、革命の勝利が確固たるものになってからのことです。マクシム・ゴーリキーはその最も明瞭な例ですが、けっして唯一の例ではありません。現在のソヴィエト機構の内部に、その最上層部に至るまで、ほんの15年前には10月革命のバリケードの反対側にいた人物がかなりのパーセンテージを占めているのも、偶然ではないのです。

 あえて指摘するまでもなく、マルクス主義とは、世界を解釈するだけではなく、それをいかに変革するかを教えるものでもあります。意志は知識の分野における推進力でもあります。政治的現実を革命的方法で変革する意志をマルクス主義が失うならば、政治的現実を正しく理解する能力も失われるでしょう。あれこれの2次的な考慮のために、結論を最後まで引き出さないマルクス主義者は、マルクス主義を裏切っているのです。やっかいな問題に巻き込まれて自分の身に累が及ぶのを恐れて、異なった各共産主義分派について無視するふりをすることは、あらゆる矛盾を通して階級の前衛を鍛えるという実践的活動を無視することです。そしてそれは、革命に関する抽象論をあたかも一種の盾のようにして、現実の革命過程のはらむさまざまな打撃や傷から自分の身を守ることを意味します。

 左翼ブルジョア・ジャーナリストが現状のままのソヴィエト共和国を全体として擁護するとき、彼らは進歩的で称賛に値する仕事をしています。しかし、マルクス主義的革命家にとっては、これでは絶対に不十分です。10月革命の課題は――忘れるなかれ!――まだ解決されていないのです。「勝利は保証されている」という文句を繰り返すことに満足できるのはオウムだけです。いや、勝利は保証されてはいません! 勝利は戦略の問題です。最初の労働者国家の正しい軌道を前もって描いている本など一つもありません。社会主義社会のための出来合いの公式を備えている頭脳など存在しないし、存在しえません。経済と政治の道は今なお経験を通じてのみ決定されなければならないし、集団的に、すなわち諸思想の絶え間ない衝突を通じて練りあげられるべきものです。工業化や集団化や党体制などの諸問題をめぐる闘争に参加することなく全体として「共感」を寄せることに自己限定するようなマルクス主義者は、ドゥランティ(4)やルイス・フィッシャー(5)のようなタイプの「進歩的」ブルジョア記者の水準を一歩も出ていません。いや、逆にそれよりも劣ると言うべきでしょう。なぜなら、そのようなマルクス主義者は革命家という名前を濫用しているからです。

 直接の回答を避けること、重要問題に関してかくれんぼ遊びをすること、押し黙って待機すること、そしてなお悪いことには、ボリシェヴィズム内部における現在の闘争は「個人的野心」の問題であるという考えでもって自分を慰めること――これらはすべて、精神的怠惰にふけることであり、最悪の偽善者的偏見に屈することであり、必然的に虚脱状態に陥ることを意味します。こうした点に関して、あなたといかなる意見の相違もないことを私は希望します。

 プロレタリアートの政治は偉大な理論的伝統を有しており、そこにその力の源泉の一つがあります。教養のあるマルクス主義者が1859年のヨーロッパ戦争に関するエンゲルスとラッサールとの意見の相違を研究しているとします。これは必要なことです。けれども、彼がもしペダンチックなマルクス主義歴史学者でも、単なる本の虫でもなく、プロレタリア革命家ならば、1925〜32年の中国における革命的戦略に関する独自の判断を自ら練りあげることは、彼にとって千倍も重要で切実なものでしょう。まさにこの問題をめぐって、ボリシェヴィズム内部の闘争が初めて分裂にまで至ったのです。中国革命の運命がかかっている諸問題に関してマルクス主義者が何らかの立場をとらないなどということは不可能です。しかも、この問題には同時にインド革命の運命もかかっているのです。すなわち、人類のほとんど半分の運命がかかっているのです!

 たとえば、将来のロシア革命の性格をめぐるロシア・マルクス主義者の間の古い意見の相違を研究することは、非常に有益なことでしょう。もちろん、その研究は、1次資料にもとづいて行なわれるべきで、エピゴーネンたちの無知蒙昧で不誠実な寄せ集め著作にもとづいて行なわれるべきではありません。しかし、そうした研究よりもはるかに重要なのは、英露委員会、「第三期」、「社会ファシズム」、スペインの「民主主義独裁」、統一戦線政策に関する理論と実践について明確な理解を持つことです。過去の研究は結局のところ、それが現在における方向設定に寄与するかどうかによって正当化されるのです。

 マルクス主義の理論家が第一インターナショナルの諸大会を無視して通り過ぎることは許しがたいことです。しかし、現在、千倍も緊要なのは、1932年のアムステルダム「反戦」大会をめぐる現在の切実な意見の相違を研究することです。実際、ソヴィエト連邦に対する最高度に誠実で最高度に暖かい共感があったとしても、ソ連を防衛する方法について無関心であるとしたら、その共感にどれほどの価値があるでしょうか?

 現時点において、ドイツ・プロレタリアートの闘争と運命の問題以上に、革命家にとって重要で、興味深く、切実な主題があるでしょうか? 他方で、ドイツ革命の問題に対する自分の態度を決定する上で、ドイツと世界の共産主義陣営における意見の相違を無視して通り過ぎることができるでしょうか? スターリンとテールマンの政策に何らの意見も持っていないような革命家はマルクス主義者ではありません。意見を持っていても沈黙しているようなマルクス主義者は革命家ではありません。

 技術の有用性を説くだけでは不十分です。実際に橋を建てる必要があります。手術室で経験を積む代わりに、過去の偉大な外科医の伝記を読んで満足しているような青年医師がいるとしたら、彼はいったいどう評価されるでしょうか? 革命的実践を深める代わりに理論を実践から引き離すべきだと説くような理論について、マルクスならどう言うでしょうか? 彼ならおそらく、かの皮肉な言い回しを繰り返したことでしょう。「いいや、私はマルクス主義者ではない」と。

 あらゆる徴候からして、現在の恐慌は、アメリカ合衆国の歴史的道程における偉大な画期となるでしょう。アメリカの独善的な地方主義はいずれにせよ終焉を向かえつつあります。これまでアメリカの政治思想のあらゆる分派を普遍的に養ってきたこの陳腐な原理は、完全に使い果されました。すべての階級が新しい方向設定を必要としています。政治イデオロギーの流動資本のみならず固定資本をも大胆に刷新することが差し迫った課題になっています。アメリカ人が社会主義理論の分野でこれほど頑強に立ち遅れてきたからといって、彼らがこれからも常に遅れたままであるとはかぎりません。反対の予言をあえて試みても、それほど無謀なことではないでしょう。すなわち、ヤンキーが過去の着古されたイデオロギーにこれまで長期にわたって満足していた分、ついに最後の刻が鳴るときには、それだけいっそう力強くアメリカの革命思想は一新されることでしょう。そしてその時は迫っています。革命理論が新しい高みにまで引き上げられる光景を次の数十年間に見ることができるとすれば、それは東アジアとアメリカにおいてでしょう。

 この百数十年間、プロレタリア運動の拠点国は何度となくその所在地を変更しました。イギリス→フランス→ドイツ→ロシアというふうに。これが、社会主義とマルクス主義の所在地の歴史的系譜です。現在はロシアが革命的ヘゲモニーを有していますが、それが長期にわたるものだと言うことはけっしてできません。ソヴィエト連邦の存在という事実そのものは、先進国のどこか一つでプロレタリアートが勝利するまではとりわけ、当然すべての国の労働運動にとって測り知れない重要性を持っています。しかし、共産主義インターナショナルに対するモスクワの支配分派の直接的な影響力はすでに、世界プロレタリアートの発展にとってブレーキになっています。世界の革命思想を豊かにしてきたボリシェヴィズムのイデオロギー的ヘゲモニーは、この数年間で、創造的な思想を窒息させるソヴィエト官僚機構のくびきに取って代わられました。この体制がもたらした悲惨な結果については証明するまでもありません。アメリカ共産党指導部を指でさせば十分です。今や、無原則な官僚主義的命令から解放されるかどうかは、革命とマルクス主義にとって死活にかかわる問題となっています。

 アメリカ・プロレタリアートの前衛は、自国の革命的伝統にももとづかなければならないというあなたの主張は、まったく正しいものです。ある意味で、われわれはマルクス主義の「アメリカ化」というスローガンを受け入れることさえできます。もちろん、だからといって、マルクス主義の原則と方法を修正するということではありません。唯物論的弁証法を投げ捨てて革命の「工学技術」なるものを採用しようとするマックス・イーストマンの試みは、明らかに絶望的であり、後向きの冒険に終わるのが関の山でしょう。マルクス主義の体系は完全に歴史の試練に合格しました。とりわけ現在の、資本主義の衰退期――あいつぐ戦争と革命の時代、疾風怒涛の時代――においては、唯物論的弁証法はその無慈悲な力をいかんなく発揮しています。マルクス主義をアメリカ化するというのは、それをアメリカの土壌に根づかせ、アメリカ史の諸事件に照らして検証し、その方法にもとづいてアメリカの政治・経済の諸問題を分析し、アメリカ革命の諸課題に照らして世界の革命的経験をわがものにすることです。何という巨大な仕事でしょう! ワイシャツを脱いでこの仕事を開始するときです。

 第一インターナショナルの本部はヨーロッパからアメリカ合衆国に移されたのち、このアメリカ合衆国で勃発したストライキに関して、マルクスは1877年7月25日にエンゲルスに宛ててこう書いています。

「おかゆが沸騰しはじめた。そして、インターナショナルの本部をアメリカ合衆国に移したことがついに正当化されるだろう」(6)

 数日後エンゲルスはこう返事しています。

「奴隷制が廃止されてから12年しかたっていないのに、すでに運動はこれほどまでに激しくなっているとは!」(7)

 たしかにマルクスとエンゲルスは誤りを犯しました。しかし、他の場合と同じく、間違ったのはテンポに関してであって、方向性に関してではありませんでした。太平洋の向こうにあるこの偉大な「おかゆ」は疑問の余地なく沸騰しはじめています。アメリカ資本主義の発展における転換点は不可避的に、批判的で普遍的な思考を開花させるでしょう。そして、国際革命の理論的中心がニューヨークに移る日もそれほど遠くない地点にわれわれはいるのかもしれません。

 アメリカのマルクス主義者の前には、真に巨大で、息を飲むような展望が開かれているのです!

心からのあいさつをもって

1932年11月4日

『反対派ブレティン』第32号

『トロツキー研究』第23号より

 

  訳注

(1)カルヴァートン、V・F(1900〜1940)……急進派の文筆家で、トロツキーも1937年までいくつかの論文を寄稿していた『モダン・マンスリー』の編集者。

(2)タマニー・ホール……タマニー派。中産階級の利益を代表する民主党指導組織のこと。

(3)ノーマン・トーマス(1884〜1969)……1928年におけるアメリカ社会党の大統領候補者。

(4)ドゥランティ、ワルター(1884〜1957)……当時の『ニューヨーク・タイムズ』のモスクワ特派員で、何年にもわたってスターリンの政策を弁護。

(5)フィッシャー、ルイス(1896〜1970)……『ネーション』のヨーロッパ特派員で、主としてソ連問題を担当し、スターリンの政策を弁護。

(6)邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第34巻、52頁。

(7)同前、55頁。

 


  

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