外交的・議会的クレティン病 

トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄

【解説】本論文は、ドイツ・ファシズム勝利後に焦点となってオーストリア情勢を論じた一連の論文の一つ。この論文が書かれる直前に、オーストリアで共産党が禁止され(1933年5月26日)、パリのプレイエル・ホールで反ファシズム大会が開かれた(6月4〜6日)。

 本論文の邦訳は最初、『トロツキー著作集 1932-33』下(柘植書房)に訳出されたが、今回アップするにあたって、『反対派ブレティン』第35号所収のロシア語原文にもとづいて修正した。

Л.Троцкий, Дипломатический и парламентский кретинизм, Бюллетень Оппозиции, No.35, Июль 1933.

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 マルクス主義の力は現実を見通すその能力のうちにある。マルクス主義者の言うところの「議会的クレティン病」とは罵倒ではなく、社会的現実を法的・道徳的な概念構成物や儀式や見せかけの空文句に置きかえてしまうある政治体系を特徴づけるものである。ボリシェヴィズムの力は、レーニンを代表とするように、いかなる楽観主義的な言い残しも慰め用の幻想も許さない最高度の理論的誠実さをもって、現代のあらゆる問題に対して唯物論的分析方法を適用する点にある。

 スターリン主義とは、革命的政策の根本問題に関して――その方法の点で――単にレーニン主義の否定というにとどまらず、その最悪のパロディでもある。この点はオーストリアの運命にかかわる問題で今や再び明らかになっている。オーストリア労働者階級からのいかなる抗議も引き起こすことなく共産党が禁止された事実は、プロレタリアートの国際的敗北の組織者たるモスクワに対し、彼らによる以前の活動全体の惨めな結果について熟考を迫ったにちがいないと思われた。まだ独自の機関紙を持っていた合法的なオーストリア共産党が、オーストリアのへぼボナパルチズムの純警察的な弾圧に対してほんのわずかな反撃もなしえなかったとすれば、ファシスト徒党の攻撃にどうして抵抗しえようか、と。ところがモスクワの『プラウダ』は、コミンテルンのオーストリア支部が無抵抗なまま禁止されたことそのもののうちに「勝利」を、あるいは少なくとも勝利の直接的な前兆を見出しているのだ。

 「オーストリアの反ファシスト運動は――と『プラウダ』の[1933年]5月28日号は書いている――日ごとに強化されていっている(!)。オーストリア社会民主党指導部のサボタージュにもかかわらず、全土で反ファシズム・ヨーロッパ大会の広範な準備が進んでいる」(強調はわれわれ――L・T)。ドイツでも寸分たがわず反ファシスト運動が「日ごとに強化されていた」にもかかわらず、なにゆえか3月5日に突然消滅してしまった。こうした連中は何も理解しないだけでなく、自分たちの楽観論の型紙さえ変えようとしない。これらの者は革命家ではなく、死の床にある者の傍らに立って慰めのウソで塗り固められた決まり文句を繰り返す僧侶である。

 それにしても、この反ファシスト運動なるものはいったい現実のうちにどのように表現されているのか? そしてそれはなぜ、オーストリア共産党の禁止を黙って見すごしたのか? この「日ごとに強化される」運動は、パリにおけるバルビュス(1)の大会を準備するというもっと高度な仕事であまりにも忙しかったのだ。これこそ、最も遅れた者を啓蒙する議会的クレティン病の一事例である! 議会的クレティン病には議会が欠かせないと考える必要はない。闘争の舞台から遠ざけることで安全を保証された演壇があれば十分である。そこで欺瞞的な演説がなされ、粗雑な決まり文句が次々と並べられる。そして、ジャーナリストや平和運動家、憤激した急進主義者、テノールやバリトンの歌い手などによって1日かぎりの「同盟」が結ばれる。

 「全国で」パリの仮装行列に向けた「広範な準備」が進められているなどと考えるのは、もちろん、たわごとである。失業と警察支配とファシスト徒党、社会民主党の裏切り、そして共産党の無能によって押しつぶされたオーストリア・プロレタリアートは、バルビュスの叙情詩やベルジェリ(2)の美辞麗句、ミュンツェンベルク(3)のインチキ行為にはまったく関心を示さない。10年とか5年の単位ではなく今まさにプロレタリアートの全面的圧殺へと動いているオーストリア情勢に対し、パリのこの国際集会はいったいどのような変化をもたらしうるというのか? 誇らしげにパリ大会を持ち出すことによって、はからずも『プラウダ』はこの大会の真の意味を暴露してしまっているのは、明らかではないのか。すなわち、現実から虚構へ、大衆の獲得から議会遊びへ、諸階級の非和解的衝突から「孤立した諸個人」との協力へ、ウィーンの街頭からパリの高級街のおしゃれなホールへ、内乱から空虚な雄弁の実演へ、注意をそらすことである。言いかえれば、ボリシェヴィズムの方法から議会的クレティン病へ。

 スターリニスト官僚によってバーゼルで発行されている新聞『ルントシャウ(展望)』――ドイツ労働者が敗北から必要な教訓を引き出すのを阻止するために特別に編集されているとしか思えない新聞――は、その第17号で偉大な天啓でもあるかのように上述の『プラウダ』論文を引用している。オーストリアのプロレタリアートよ、気を落とすな。君たちのレンナー(4)の同盟者(バルビュスの新聞『ル・モンド』を見よ)たるバルビュスが君たちのことを油断なく見守ってくれている、というわけだ! そして、あたかも政治的思考の腐敗のこうした様相を補完するためであるかのように、同じ号の『ルントシャウ』はドイツとオーストリアの現在の関係を論じた論文を社説として掲載している。「革命的」俗物は恐ろしげにこう論じている。「両国政府の関係において初めて」(!)、ヒトラーはオーストリアに対し、「他国政府の内政上の諸措置」を強制すべく報復措置に訴えている、と。両国政府の関係において初めて! そして社説は次のような驚くべき言葉で結ばれている。

「ドイツとオーストリアの関係が、帝国が存在していた時期から数えても、現在ほど悪化したことはない。これがヒトラーの対外政策の実践的帰結である」…。

 公法専攻の保守的な大学講師にふさわしいこのような小ざかしい知恵を読まされるのは耐えがたい。ヒトラーはオーストリアで反革命的現実主義の政策を実施している。彼は不安定なオーストリア・ボナパルチズムの足もとを掘り崩すことによって小ブルジョア大衆を獲得した。ヒトラーは頑強かつ粘り強く、力関係を自分に有利な方向で変えつつある。彼はドルフース(5)との関係を損なうことなど恐れてはいない。この点でヒトラーは、オットー・バウアーや…スターリニスト官僚――彼らはドイツとオーストリアの関係を階級闘争の観点からではなく、外交的クレティン病の観点から見ている――とは異なっている、しかも正しい方向で異なっているのである。

 オーストリアにおける革命的闘争の代替物として招集されたパリ大会に対するモスクワの熱中と、オーストリアの大衆を獲得するための闘争の中でドルフース自身とさえ喧嘩することも恐れないヒトラーの政策に対するバーゼルの憤慨(「ネコより強い猛獣はいない」!)――この熱中とこの憤慨とは、クレティン病の外交的・議会的変種として相互に補完しあっている。小さな部分から全体を判断することは可能である。多くの場合、何らかの症候から病名を正確に判断することができる。上の2つの論文――1つは『プラウダ』の、1つは『ルントシャウ』の――はこう結論するに十分である。中間主義官僚はおそらく、パリで高価なホールを借り切り、バーゼルで大量の新聞を発行できるだけの十分な資力は持っているかもしれないが、この官僚的中間主義は革命的潮流としては死んでおり、われわれの目の前で分解し、あたりに害毒をまきちらしている、と。

プリンキポ、1933年6月13日

『反対派ブレティン』第35号

『トロツキー著作集 1932-33』下(柘植書房)より

  訳注

(1)バルビュス、アンリ(1873-1935)……フランスの詩人・作家。人道主義的立場からしだいに社会主義的立場に移行し、共産党に入党。雑誌『クラルテ』を創刊。1930年代にはスターリニズムの主要な文学的弁護者となった。1935年に訪ソ中に死去。

(2)ベルジェリ、ガストン(1892-1958)……フランスの急進党政治家。1930年代の「ソ連の友」。1935年に人民戦線の創立者の1人になる。後に右翼に転換し、ペタン政権の大使をつとめる。

(3)ミュンツェンベルク、ウイリー(1889-1940)……ドイツのスターリニストで、共産主義青年インターナショナルの創始者の一人。コミンテルンの資金を用いて出版社、日刊紙、雑誌、映画会社などを設立。ナチスの政権掌握後、フランスに亡命。人民戦線をめぐって意見が分かれ、1937年にコミンテルンから決別。後に、不可解な状況の中で暗殺される。

(4)レンナー、カール(1870-1950)……オーストリア社会民主党の指導者、法哲学者。オーストリア・マルクス主義の代表的理論家の一人。1918年にオーストリア共和国の初代首相。

(5)ドルフース、エンゲルベルト(1892-1934)……オーストリアの反動政治家。キリスト教社会党員。1931年、農相。1932年、首相。右翼的護国団、農民同盟の支持を受け、ボナパルティスト的統治を行なう。1934年、ナチス党員に暗殺される。


  

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