反ファシズム大会に関する手紙 

トロツキー/訳 西島栄

【解説】この手紙は、反ファシズム大会を、ドイツにおけるスターリニストの犯罪を暴露し、新しい道に向けた政治的展望を指し示す機会にすることを国際左翼反対派の各支部に対して訴えた手紙である。1933年の3月、スターリニストは4月にプラハでファシズム反対の国際大会を開催すると発表した(開催場所は後にコペンハーゲンに変更され、さらにその後パリに変更されて、6月に開催された)。それは、1932年8月にアムステルダムで開催された反戦大会の延長線上に企画されたもので、スターリニストの影の演出のもとに、個々のばらばらなグループと著名人を寄せ集めようというのである。トロツキーは、この反ファシスト大会への代表選出規則が非常にルーズなものであるのを利用して、反対派およびそのシンパを大会に送り込み、その大会の演壇から公然とスターリニストの犯罪を訴えようとした。しかし実際には、スターリニストは各地でトロツキストおよび疑わしい人物の代議員資格を剥奪したり、暴力的に会場から追い出したりして、トロツキストが参加できないようにした。

 なお、この手紙は本邦初訳である。

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 各支部の指導者たちへ

 

 親愛なる同志たち。

 反ファシスト国際大会について。コミンテルンによって計画されたこの大会が本当に開催されるならば、それはわれわれに、スターリニストの政策――ドイツ・プロレタリアートをファシストに譲り渡した政策――を公然と評価し非難する重要な機会を与えるものとなるだろう。今回われわれは、少なくとも30人の代表者を送らなければならない。それと同時に、多かれ少なかれわれわれにシンパシーを持っているスネーフリート(1)・グループのような諸グループや、ドイツのいくつかのグループ、ボルディガ主義者などを引き連れていき、反中間主義派の代議員を強化しなければならない。財政問題は重要であるが、この大会の規則は代議員資格の提出を容易なものにしている。問題は、より小さな委員会を含むさまざまなグループ――反対派の地方組織、新聞、等々――の名のもとにこうした代議員資格をただちに準備することである。この点に関しては、すべての支部が、大会へのわれわれの参加準備問題を扱う特別の3人委員会をつくるのが一番いいと思う。

 われわれは、国際書記局が――まだそれが行なわれていない場合には――時間を見つけてこの点に関する詳細な指示を与えるべきだと思う。僭越ながら、この大会に向けて精力的に準備し広範な代表者を派遣することが例外的な重要性を持っていることを指摘させていただく。近い将来、このような形でアピールを出すことのできる演壇を再び得る機会はないだろう。

グーロフ

1933年3月23日

『トロツキー著作集 補遺 1929-33』(パスファインダー社)所収

新規、本邦初訳

  訳注

(1)スネーフリート、ヘンドリク(1883-1942)……オランダの革命家、インドネシア共産主義運動の創設者。1902年にオランダ社会民主党に。1913年、インドネシアに渡り、マルクス主義の普及に努める。1914年、インド社会民主同盟(インドネシア共産党の前進)を結成。イスラム同盟内に共産主義の影響を広める。1918年に追放。第2回コミンテルン世界大会に参加し、アジアの運動の重要性を訴え、その責任者として中国に渡り、中国共産党の創設にも貢献。1923年、オランダに帰国。投獄中の1933年に国会議員に選出。革命的社会主義労働者党(RSAP)を創設。1933年、4者宣言に署名。その後、革命的社会主義労働者党とともに国際共産主義者同盟に加入。1938年に第4インターナショナルの運動から離れ、第2次大戦中にナチスによって逮捕され処刑。


  

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