決断を前にして

トロツキー/訳 西島栄

【解説】1932年12月に成立した老将軍シュライヒャー政府は短命に終わった。この最後のボナパルティスト政権は問題を何一つ解決できず、あっというまに分解した。その後を襲ったのは、ヒトラーを首班とするナチスと国家人民党(党首は大銀行家のフーゲンベルク)との連立政府であった。1933年1月30日に、ヒンデンブルク大統領の指名にもとづいてドイツ宰相になったヒトラーは国家人民党との連立政権を組織した。国家人民党のフーゲンベルクは経済相となった。ナチス党の大臣はヒトラーを入れて3名しか入閣しなかったことは、物事をつねに楽観主義的に見ようとするリベラルや社会民主主義者にとって、安心を与える材料になった。しかしながら、それは見かけにすぎなかった。ヒトラー政府成立から1ヶ月も経たない2月27日、国会放火事件が勃発し、共産党員がいっせいに逮捕され、基本的人権と市民的自由権を大幅に制限する大統領緊急令が発布された。3月3日は共産党の最高指導者テールマンも逮捕された。共産党員の大量逮捕はその後も続き、7月末までに2万6789名もの人々が警察に身柄を拘束された。こうした騒然たる状況下で行なわれた3月5日の選挙で、ナチス党は大躍進を遂げ、国家人民党の議席と合わせて過半数を確保した。結局、ドイツ・プロレタリアートは本格的な闘争についに立ち上がることなく、ヒトラーは勝利を治めたのである。

 本稿は、ヒトラーが政権入りした直後の2月5日に書かれている。この時点ではまだ国会放火事件も起きておらず、ヒトラーの姿勢もまだ慎重なものであった。情勢はすでに「大詰め」に向かっていたが、それがどのような形で決着がつくのかはまだ不明であった。トロツキーは、この時点で、3つの可能性を提示している。1つは、選挙で政権党(ナチス党と国家人民党)が勝利する場合、2つ目は政権党が敗北する場合、3つ目は、選挙前にヒトラーがクーデターに打って出る場合である。トロツキーは、この第3の可能性が一番低いと見た。その理由としてトロツキーは、ナチス党の小ブルジョア的性格、独立した行動能力の欠如、あてにならない同盟者に対する依拠を挙げている。歴史が示したように、現実は、第1の可能性と第3の可能性の中間であった。すなわち、ヒトラーはおとなしく選挙を待っていなかった。陣地戦的手法で権力に参加したヒトラーは、権力に到達するやいなや機動戦的手法に訴え、国会放火事件をでっち上げて、電光石火で共産党の大弾圧に乗り出した。しかし、共産党の非合法化にまでは踏み込まず、選挙も中止しなかった。その意味でそれは半クーデターとでもいうべきものであった。トロツキーは、「内乱の類似物」をヒトラーが挑発することを予見していたが、その時期については明らかに見誤っていた。トロツキーもまた、1月30日に成立したヒトラー連立政府の構成(ナチス党が3名の閣僚しか確保していない)にだまされたのである。

 しかし、トロツキーの予想が誤ったより本質的な理由が存在する。あれほどドイツ・ファシズムに対する過小評価を戒めていたはずのトロツキーでさえ、ナチスに対する過小評価に陥っていたことである。ナチス党はたしかに激昂せる小ブルジョアジーに依拠し、彼らを動員していたが、ナチス党そのものは小ブルジョアジーの党ではなかった。それはあくまでも大ブルジョアジーの最も攻撃的・反動的部分の意志を体現した帝国主義政党であった。たしかに、小グループにとどまるようなファシスト政党は、小グループにとどまる極左政党が小ブルジョア政党であるのと同じく、反動的小ブルジョア政党である。しかし、ドイツの破局的危機のもとで権力にまで到達するようになったナチス党は、そのような小ブルジョア的限界を突破し、本格的な帝国主義政党として自立するようになっていたのである。トロツキーは、ナチスの小ブルジョア的性格を過大評価し、ヒトラーが政権に就くやいなや大胆な機動戦に訴える可能性を過小評価してしまったのである。しかしながら、この誤りは、コミンテルンの犯した本質的な誤りに比べればはるかに小さいものであり、全体としての展望と発展方向に関しては、トロツキーの判断に誤りはなかった。

Л.Троцкий, Перед решением, Бюллетень Оппозиции, No.33, Март 1933.

Translated by the Trotsky Institute of Japan


   反革命の陣営

 ブリューニング(1)以降のあいつぐ政権交代は、スターリン主義者が自分自身を除くいっさいがっさいを放り込んでいるファシズムの普遍哲学(乾いたファシズム、国家ファシズム、社会ファシズム、左翼社会ファシズム)がいかに無内容で空虚なものであるかを示している。上層の有産階層は、あまりにも少数で、あまりにも民衆から憎悪されているために、自己の名において統治することができない。彼らには、伝統的君主制(「神のご加護」)、自由主義的議会制(「人民の主権」)、ボナパルティズム(「不偏不党の調停者」)、そして最後に、ファシズム(「民衆の怒り」)といった隠れ蓑が必要なのだ。世界大戦とドイツ革命は、彼らから君主制を奪いとった。その後の14年間というもの、彼らは、改良主義者のおかげもあって、民主主義の松葉杖でその体を支えた。階級矛盾の圧力のもとで議会が真っ二つに割れたとき、彼らは、大統領の背後に身を隠そうとした。こうして、ボナパルティズム、すなわち社会の上にそびえ立ち、2つの敵対する陣営の相対的均衡によって支えられている官僚的・警察的権力の章が開かれたのである。

 ボナパルティズムは、ブリューニングとフォン・パーペン(2)の過渡的政権を経て、シュライヒャー将軍(3)の姿を借りて最も純粋な形態をとった。しかし、これはその破産ぶりをただちに暴露する結果にしかならなかった。あらゆる階級が、敵意、当惑、不安を抱きながら、将軍の肩章をつけた「疑問符」とでも言うべきこの不可解な政治的相貌を眺めていた。しかし、シュライヒャーの破綻の主要な原因は、それに先立つ成功と同様、彼自身にはなかった。革命の陣営と反革命の陣営が闘争において力試しをしないかぎり、ボナパルティズムは安定したものにはなりえないのである。さらに、この国の上に悪夢のようにのしかかっている恐るべき工業・農業恐慌は、ボナパルティスト的軽業師の仕事を困難にしている。たしかに、一見したところ、プロレタリアートの受動性は、「社会将軍」の任務をいちじるしく助けたように見えた。だが、実際に起こったことは別だった。まさにこの受動性は、有産階級を結束させていた恐怖のタガをゆるめ、彼らを離反させている対立関係を表面化させることになったのである。

 経済的には、ドイツの農業は寄生的存在でありつづけており、それは工業の足につけられた重い鉄球である。しかし、工業ブルジョアジーの狭隘な社会的基盤のせいで、ブルジョアジーにとって、「民族」農業、つまり、ユンカーと富農の階級、およびそれに依存しているいっさいの社会層を維持することが、政治的に必要になっている。この政策の創始者はビスマルク(4)で、彼は軍事的勝利、賠償金、高度の利得、プロレタリアートに対する恐怖によって、大地主と工業家を緊密に結びつけた。しかし、ビスマルクの時代は永遠に去った。今日のドイツは、勝利にではなく、敗北にもとづいている。フランスがドイツに賠償金を支払っているのではなく(5)、ドイツがフランスに支払っているのである。腐朽しつつある資本主義は、利益をもたらさず、将来の見通しを開かない。労働者に対する恐怖は、有産階級を結びつける唯一の接着剤でありつづけている。しかしながら、ドイツ・プロレタリアートは、その指導部のせいで、最も危機的な時期に麻痺させられていた。そして有産階級内部の対立関係は外に向かっ噴出した。左翼陣営の待機的な受動性のもとで、社会将軍は右からの打撃のもとに倒れたのである。

 有産階級の上層部は、その後で政府をめぐる自分自身の貸借対照表をつくり、借方の欄には自分自身の隊列の内部分裂を、貸方の欄には85才の元師を書き込んだ。他に何があったろうか? フーゲンベルク(6)を除いては何もありはしない。シュライヒャーがボナパルティズムの純粋理念を表現しているとすれば、フーゲンベルクは所有の純粋理念を表現している。将軍は、思わせぶりなしぐさをし、資本主義と社会主義のどちらがよいかという問題に答えることを拒否した。フーゲンベルクは、東エルベのユンカー以上に王座にふさわしいものはないと単刀直入に宣言する。土地所有は、所有の最も根本的、最も重々しく、最も安定した形態である。経済的な意味で、ドイツの農業が工業によって維持されるように、政治的には、人民に対する所有者の闘争は、その頭にフーゲンベルクを戴かなければならない。

 こうして、至上の調停者の体制は、諸階級と諸政党の上にそびえ立ち、ドイツ国家人民党の支配、すなわち所有者の最も利己的で最も貪欲な徒党の支配をもたらした。フーゲンベルクの政府は、社会的寄生の凝縮物である。しかし、まさにそれゆえ、この政府が必要になったとき、その純粋な形態では不可能であることが明らかになったのである。フーゲンベルクは隠れ蓑を必要としている。今日、彼はもはや皇帝のマントの下に身を隠すことができないので、ナチスの褐色のシャツにすがることを余儀なくされている。君主制を通じて、所有に対する至上の「神の力」の承認を得ることが不可能ならば、憤激せる反動的下層民の承認によって身を隠すしかない。

 ヒトラーの政権参加は二重の目的を追求している。まず第1に、「国家主義運動」の指導者たちによって所有者の徒党グループを飾りたてること。第2は、ファシズムの突撃隊をただちに所有者にとって利用可能なものにすること、である。

 上流社会の徒党連中は、心軽やかな気持ちで粗野なファシスト連中と取引きしたのではない。この傍若無人な成りあがり者たちの背後には、あまりにも多くの鉄拳がひかえている。これは褐色の同盟者の危険な側面である。しかし、ここにこそ、彼らの基本的で確実で唯一の優位性も存在する。そしてこの優位性は決定的なものである。なぜなら、現在は、所有の防衛が鉄拳による以外には保証されえない時代であるからである。国家社会主義者なしで済ますことはできない。しかし、彼らに真の権力を委ねることもできない。プロレタリアートの側からの脅威は、今のところ、上層階級が結果の不確かな内乱を意識的に挑発するほどは先鋭化してはいない。新たな連立政府は、ドイツにおける社会的危機のこの新たな発展段階に対応している。すなわち、軍事的・経済的ポストが旧来の主人階層の手中にあり、装飾的ないし二義的なポストが平民に割り当てられている連立政府である(7)。ファシスト閣僚の役割――非公式的なものだが、それだけにいっそう実質的な役割――は、革命を恐怖の鞭の下にとどめておくことである。しかしながらファシストは、プロレタリア前衛の粉砕と根絶を、地主および工業家の代表が定めた限界内においてしか遂行しえない。以上が彼らの計画である。しかし、その実行はどのようになされるのであろうか? 

 フーゲンベルク=ヒトラー政府は、複雑な諸矛盾の体系をそれ自身のうちに内包している。すなわち、一方における地主の伝統的代表者と、他方における大資本の公認の代表者とのあいだの矛盾、および、この両者と、反動的小ブルジョアジーの予言者との矛盾である。こうした組み合せは極度に不安定である。現在の形態ではこの組み合わせは長続きしないだろう。それが崩壊したあかつきには、それに代わって何がやって来るだろうか? 権力の主要な道具はヒトラーの手中にはなく、また、ヒトラーは、自己のうちに、プロレタリアートに対する憎悪と並んで、有産階級とその機関に対する畏怖が深く浸透していることを十分に示した。このことからして、社会の上層が、ナチスと断絶した場合に、再び大統領制ボナパルティズムの道に舞い戻る可能性を完全に排除することはできないだろう。しかしながら、このようなパターンが起こる確率はきわめて低く、たとえありえたとしても、エピソード的な性格しか持ちえない。それよりもはるかにありうるのは、危機のさらなる進展がファシズムの方向に向かうことである。首相としてのヒトラーは、労働者階級に対するあまりに直接かつ公然たる挑戦を意味するので、大衆の反発は、最悪の場合でも分散した一連の反発は、絶対に不可避である。ファシストが太った「教師」を排除して自ら最前線に登場するには、これで十分だろう。その場合の条件はただ一つ、ファシスト自身がもちこたえうることだけである。

 ヒトラーが政権に参加したことは、疑いもなく、労働者階級にとって恐るべき打撃である。しかしこれはまだ、最終的な敗北ではないし、取り返しのつかない敗北でもない。台頭しはじめたばかりの時期には粉砕することもできたはずの敵は、今では一連の管制高地を占拠している。これは彼らにとって大きな優位性であるが、まだ戦闘は交えられていない。有利な陣地を占めることは、それ自体としてはまだ決定的なものではない。事態を決するのは生きた力である。

 国防軍と警察、鉄兜団[帝政派の在郷軍人団体]、ナチス突撃隊は、それぞれ有産階級に仕える3つの独立した軍隊である。しかし、現在の連立政府の性格そのものからして、これらの軍隊は、一つの手中に統一されてはいない。鉄兜団は言うまでもなく、国防軍はヒトラーの手中にはない。彼自身の軍事力の大きさは不確実で、まだこれから検証に付されなければならない。その数百万の予備軍は人間の屑である。完全な権力を得るためにはヒトラーは、内乱の類似物を挑発しなければならない(本物の内乱はといえば、ヒトラー自身それを恐れている)。国防軍および鉄兜団を手中に収めている閣内の恰幅のいい同僚たちは、「平和的」手段によってプロレタリアートを絞め殺すことの方を望んでいた。彼らにおいては、真の内乱を恐れて小規模な内乱を挑発する傾向ははるかに小さかった。ファシスト宰相を頂点にいただく内閣からファシズムの完全な勝利に至るまでには、したがって、まだ小さからぬ道がある。このことは、革命の陣営にはまだ時間が残されていることを意味している。どのくらいか? 前もってそれを算出することは不可能である。それを測ることができるのは闘争のみである。

 

   プロレタリアートの陣営

 公式の共産党が、社会民主党こそブルジョア支配の主要な支えであると語るとき、それは、第3インターナショナル結成の際の出発点であった思想を繰り返しているにすぎない。社会民主党は、ブルジョアジーによって権力に引き入れられると、資本主義体制を支持する。社会民主党は、自己を許容するかぎりどのようなブルジョア政府をも許容する。しかし、権力から完全に退けられても、社会民主党はブルジョア社会を支持し続け、労働者に対しては、けっして呼びかけるつもりのない戦闘のためにその力を浪費しないよう勧める。プロレタリアートの革命的エネルギーを麻痺させることによって、社会民主党は、ブルジョア社会がすでに生命力を失っているのにそれが生き延びることを可能にし、さらにこのことによって、ファシズムを政治的に必然的なものとしたのである。ヒトラーを権力に就ける呼びかけそのものも、社会民主党労働者の投票によって選出されたホーエンツォレルン家の元帥[ヒンデンブルク]から発せられたものなのだ! ウェルス(8)からヒトラーにいたる政治的連鎖は、一目瞭然たる人的性格を有している。この点に関しては、マルクス主義者の間で2つの意見はありえない。しかし、問題は、政治情勢を解釈することではなく、それを革命的に変革することにある。

 スターリニスト官僚の罪は、社会民主党に対して「非妥協的」であることではなく、その非妥協性が政治的に無力であることにある。ボリシェヴィズムがレーニンの指導のもとでロシアにおいて勝利したという事実にもとづいて、スターリニスト官僚は、ドイツ・プロレタリアートにとって、テールマンの周りに結集する「義務」を引き出す。その最後通牒主義は次のことを意味している。すなわち、ドイツ労働者があらかじめアプリオリに、しかも無条件に共産党の指導を承認しないかぎり、真剣な闘いを考えることさえ許されない、ということである。たしかにスターリン主義者は違った言い方をする。しかし、あらゆる留保、限定、演説上の技巧も、官僚的最後通牒主義の基本的性格をいささかも変えはしない。この最後通牒主義こそ、社会民主党がドイツをヒトラーに売り渡すのを助けたのである。

 1914年以来のドイツ労働者階級の歴史は、現代史の最も悲劇的な諸頁を構成している。その歴史的政党たる社会民主党の何という驚くべき裏切り、その革命的翼の何という拙劣さ、何という無能力ぶりであろうか! だが、それほど過去にさかのぼる必要はない。押し寄せるファシズムの波頭のこの2、3年間というもの、スターリニスト官僚の政策は、犯罪の連続以外の何ものでもなかった。それは、文字通り改良主義を救い、そのことによってその後のファシズムの成功を準備した。敵がすでに重要な管制高地を握っている現在、不可避的に次のような問題が提起される。すなわち、反撃のために勢力の再編を呼びかけるにはすでに遅すぎるのではないだろうか? だがここには、前もって検討しなければならない問題がある。この場合、「遅すぎる」というのは何を意味するだろうか? 革命的政策に向けた最も大胆な転換でさえ、力関係の根本的な修正が不可能であるとして理解すべきなのであろうか? あるいは、必要な転換を達成する可能性も希望も存在しないということだろうか? これは2つの異なった問題である。

 前者の問題に対しては、われわれは基本的にすでに上で答えた。ヒトラーにとって最も有利な条件においてさえも、ファシズム支配を樹立するためには、たっぷり数ヶ月――それは何と危機的な数ヶ月だろうか!――が必要となろう。経済的・政治的情勢の先鋭さ、目の前に迫った危機の脅迫的性格、プロレタリアートの抱いている恐るべき不安、プロレタリアートの数の多さ、その激昂、彼らのうちにある百戦錬磨の戦闘的伝統、組織および規律に対するドイツ労働者の卓越した能力、こういったものを考慮に入れるならば、問題はおのずと明白である。すなわち、ファシストが内的および外的な障害を克服してその独裁を確立するために要する数ヵ月の間に、プロレタリアートは、正しい指導がありさえすれば、2度でも3度でも権力に到達することができるだろう。

 2年半前、左翼反対派は、中央委員会から地方の小細胞にまでいたる共産党の全機関・全組織が、それぞれ対応する社会民主党組織および労働組合組織に向けて、プロレタリア民主主義の差し迫る破壊の脅威に対抗する共同行動の具体的提案をただちに行なうことを執拗に提案した。この基盤にもとづいてナチスに対する闘争を組織していたならば、ヒトラーは今日ドイツ宰相ではなかったろうし、共産党は、労働者階級の中で指導的地位を確保していたであろう。だが、過去を取り返すことはできない。犯された誤りの結果は、政治的現実に転化し、今や客観敵情勢の一部分を構成している。この現実をあるがままに理解しなければならない。それは、実際にありえたものよりもはるかに悪い。しかし、それでも絶望的であるわけではない。政治的転換――ただし、実質的で、大胆で、公然たる、徹底的に熟慮したうえでのそれ――は、十分に事態を救って勝利への道を切り開くことができるだろう。

 ヒトラーは時間を必要としている。商工業の活況は、たとえ現実のものになったとしても、まだプロレタリアートに対するファシズムの強化を意味しないだろう。景気がいささかなりとも好転に向かうならば、利潤に飢えた資本は、工場内での平安の必要を痛切に感じるだろう。そしてこのことはただちに力関係を労働者にとって有利な方向に変えるだろう。経済闘争がその最初の一歩目から政治闘争に合流させるためには、共産党員は自らの持ち場に、すなわち工場と労働組合にいなければならない。社会民主党の指導者は、共産党労働者との接近を望んでいると宣言した。赤色労働組合反対派(RGO)に加盟している30万人の労働者は、改良主義者の言うことを言葉どおりに受け止めて、ドイツ労働総同盟(ADGB)に向かって、ただちに分派として自由労働組合に加わることを申し入れようではないか。このような一歩だけが、労働者の気分に、したがってまた政治情勢全体に変化を引き起こすことができるだろう。

 しかしながら、このような転換は可能だろうか? つまるところ、現在、ここにすべての問題が存する。一般に、運命論に傾いている俗流マルクス主義者たちは普通、政治的舞台の上に客観的原因しか見ようとしない。しかしながら、階級闘争が先鋭化すればするほど、それが大詰めに近づけば近づくほど、きわめてしばしば情勢全体の鍵が特定の政党およびその指導部に委ねられる。現在、問題は次のように提起されている。かつてスターリニスト官僚は、政治上の10気圧にもかかわらず、愚劣な最後通牒主義に固執していたが、はたしてそれは100気圧にも抵抗することができるだろうか、という問題である。

 だが、1923年11月にペルリンで起こった都市交通機関のストライキの時のように、大衆が機構の遮断機を打ち壊して自ら事態に介入することはありうるのではないか? 言うまでもなく、大衆の自然発生的運動をありえないとみなすことは、いかなる場合でも許されない。だがこの運動が有効であるためには、今度はそれは、ペルリンのストライキの100〜200倍もの規模に広がらなければならない。ドイツ・プロレタリアートは、たとえ上からの妨害があっても、このような運動を展開することができるほど十分に強力である。しかし、自然発生的運動は、まさにそれが指導部と無関係に起こるからこそ、そう呼ばれるのである。だが現在の問題は、大衆運動に刺激を与えその展開を助けるために、そしてその先頭に立ちその勝利を確保するために、党は何をなすべきかという点にある…。

 今日の外電は、社会民主党の一官僚の逮浦に抗議してリューベク[旧西ドイツ北東部の都市]でゼネストが勃発したことを伝えている。この事実は――それが本当だとすればだが――もちろん、いささかなりとも社会艮主党官僚を復権するものではない。しかし、この事実は、スターリン主義者とその社会ファシズムの理論を最終的に断罪するものである。これまで犯されたあらゆる誤りの後では、国家社会主義者と社会民主主義者とのあいだにある対立の発展と先鋭化のみが、共産党を孤立から救い出し、革命への道を切り開くことができる。しかし、こうした諸関係そのものの論理に内包されている過程に対しては、それを妨げるのではなく促進しなければならない。そこに至る道こそ、大胆な統一戦線政策なのである。

 社会民主党は労働者のエネルギーを麻痺させるために3月の選挙にしがみつくだろうが、この選挙は、言うまでもなく、それ自体としては何ものも決するものではない。選挙に先立って、問題全体を別の地平に移すような何か重大な事件が起こらないかぎり、共産党は自動的にその得票数を増やすだろう。この増加は、共産党が今すぐに防衛的統一戦線のイニシアチブをとるならば、はるかに大きなものになるだろう。しかり、今日問題になっているのは防衛なのだ! しかし共産党が、表現の仕方は違えど社会民主党のひそみにならって選挙カンパニアを純議会主義的な空騒ぎと化してしまい、現在における党の無力さと防衛の準備作業から大衆の注意をそらす手段に変えてしまうならば、共産党は自滅するかもしれない。大胆な統一戦線政策は、今日、選挙カンパニアにとっても唯一正しい基盤なのである。

 さらにもう一度、共産党には転換を行なう力があるだろうか? 共産党労働者は、100気圧が官僚主義的頭蓋骨への道を開くのを助けるだけのエネルギーと決断力を有しているだろうか? それを認めることがどんなにいまいましくても、ともかく、今日、問題はまさにこのように提起されているのである…。

 以上の文章が書かれた後でわれわれは、モスクワがついにドイツ共産党の中央委員会に対して、社会民主党と協定する時がきたという警報を発したことを、ドイツの新聞から――避けがたい遅れをともなって――知った。私はまだこの報道を確かめていないが、それは事実のように思われる。すなわち、スターリニスト官僚は、事件が労働者階級の頭蓋骨に打撃を与えた後になってはじめて(ソ連でも、中国でも、イギリスでも、ドイツでも)、転換を指令する。ファシストの宰相が、拘束されたプロレタリアートのこめかみに機関銃をむけたとき、はじめてコミンテルンの幹部会は、「縄を解くときがきた」ことに気づいたのである

※各国語版注(9) 最近の諸事件という光に照らし、スターリン主義の悲劇的誤りと比較すると、ウェルス一派の降服の物語は、シェークスピア悲劇における道化の寸劇に似ている。これらの紳士諸君は昨日次のように声明した。ファシズムの危険は、社会民主党の正しい政策のおかげで一掃された、したがって、ごく最近までは容認しえた統一戦線の政策は、これからは反革命的なものになる、と。この証言の翌日、ヒトラーは権力に到達し、スターリンは、ごく最近まで反革命であった統一戦線政策は、今後は必要なものになると宣言したのである。

 言うまでもなく、左翼反対派がこの遅ればせの声明にしっかり立脚して、そこからプロレタリアートの勝利のために可能なあらゆるものを引き出すべく努力するだろう。しかしその際、左翼反対派は、コミンテルンの転換は、ただパニック的状況のなかで行なわれた純粋に経験主義的なジグザグにすぎないことを、一瞬たりとも忘れない。社会民主主義をファシズムと同一視する連中は、ファシズムとの闘争過程において、社会民主主義を理想化する立場に移行しかねない。共産主義の完全な政治的独立を維持することに鋭く目を配らなければならない。組織的に協力して打撃を敵に与えなければならないが、旗印を混同させてはならない。われわれは同盟者に対する完全な誠実さを示さなければならなが、明日の敵としてこれを監視しなければならない。

※  ※  ※

 スターリニスト分派が、状況全体によって余儀なくされる転換を実際に行なうならば、左翼反対派はもちろん闘争の共通の隊列の中にしかるべき場所を占めるだろう。しかし、転換に対する大衆の信頼は、それが民主主義的に実行されればされるほど大きくなるだろう。テールマンの演説も中央委員会の宣言も、事件の現在の規模からすれば、あまりにも小さなものである。必要なのは党の声である。必要なのは党大会である。自分自身に対する確信を党に取り戻すこと、党に対する労働者の信頼を高めること、このこと以外に道は存在しない! 大会は2、3週間のうちに、国会が開会する以前に開催されなければならない(そもそも国会が開会されるならばだが)。

 行動綱領は単純かつ明快である。

 社会民主党組織に対して、上から下にまでいたる防衛的統一戦線の形成をただちに提案すること。

 ドイツ統一労働総同盟(ADGB)に対して労働組合への赤色労働組合反対派(RG0)を編入することをただちに提案すること。

 臨時党大会をただちに準備すること。

 問題は、ドイツ労働者階級の頭、コミンテルンの頭、そして――忘れてはならない――ソヴィエト共和国の頭がかかっているのである!

プリンキポ

1933年2月5日(10)

 

  補遺

 国会選挙と関連して、ヒトラー=フーゲンベルク政府にはどのような計画が可能だろうか? まったく明らかなことだが、現在の政府は、自分たちに敵対的な勢力が多数を占める国会を許容することはできない。このことからして、選挙カンパニアと国会選挙が何らかの形で大詰めをもたらすことはまちがいない。政府は、選挙での自分たちの完全な勝利でさえも、すなわち国会の議席の51%を獲得した場合でさえも、それが危機の平和的解決を意味しないどころか、反対に、反ファシズムに向けた決定的な運動の合図になるかもしれない。まさにそれゆえ、選挙結果が明らかになる瞬間に向けて決定的な行動の準備をしないわけにはいかないのである。

 政権党が少数派になった場合、したがってワイマール的合法性を完全に投げ捨てざるをえなくなった場合でも、先に述べた方向性に向けて勢力をあらかじめ動員する必要性が減じるわけではない。したがって、どちらの場合でも、すなわち政府が議会で敗北する場合(50%以下)も、政府が勝利する場合(50%以上)も、同じく、新たな選挙が決定的な闘争の出発点になることが予想されるのである。

 第3の可能性がないわけではない。選挙の準備を隠れ蓑にして、国家社会主義者たちが選挙を待たずにクーデターを起こす可能性である。このような手法は、ナチスの観点からすれば、おそらく戦術的に最も正当であろう。しかし、この党の小ブルジョア的性格、行動の独立したイニシアチブをとる能力の欠如、疑い深い同盟者に対する依存などを考慮に入れるならば、ヒトラーがこのような行動に出ることはおそらくないだろうとの結論を引き出さなければならない。ヒトラーが同盟者と結託してこのようなクーデターを計画するという予想もありそうにもない。なぜなら、今回の選挙の第2の課題は、政府における同盟者の比重を変えることにあるからである。

 とはいえ、アジテーションにおいては、この第3の可能性を前景に押し出す必要があるだろう。選挙前の期間に激情が燃え上がった場合には、クーデターが政府にとって必要になるかもしれない。彼らの実践的計画が今日まだそこまで進んでいなくても、である。

 いずれにせよ、まったく明らかなのは、プロレタリアートがその戦術的計算において短期の時間的要素にもとづかなければならないことである。言うまでもなく、国会の無期限解散も、選挙前のファシスト・クーデターも、まだファシズムの有利な方向に問題を最終的に解決することを意味するものではない。しかし、これら3つの可能性のいずれも、革命と反革命との闘争におけるきわめて重要な新しい段階を画するものになるだろう。

 選挙期間中における左翼反対派の任務は、不可避的に生じるプロレタリアートとファシズムとの生死をかけた闘争の全般的展望にもとづいて、差し迫る3つの可能性を分析し、それを労働者に示すことである。このように問題を設定することによって、統一戦線政策に必要な具体性を与えることができるのである。

 共産党はひっきりなしに、「プロレタリアートはますます攻勢的になりつつある」と叫んできた。これに対して社会主義労働者党(SAP)は、「いや、プロレタリアートは守勢にある。われわれは彼らに攻勢に出るよう訴えるしかない」と答えてきた。どちらの定式も、これらの人々が攻勢と守勢、攻撃と防衛の何たるかを理解していないことを示している。実際には、不幸なことにプロレタリアートは防衛態勢にあるのではなく、退却中であり、しかも、この退却は明日にはパニック的敗走に転化するかもしれない。われわれは攻勢に出ることを訴えるのではなく、能動的防衛を呼びかける。まさにこうした行動の防衛的性格(プロレタリアート組織、新聞、集会、等々の防衛)こそ、社会民主党に対する統一戦線の出発点になるのである。能動的防衛の定式を飛び越えることは、騒々しい美辞麗句にふけることを意味する。もちろんのこと、能動的防衛は、それが成功したあかつきには、攻撃に転化する。しかし、これはすでに次の段階である。そこに至る道は、防衛のための統一戦線なのである。

 この数日および数週間における党の決断と行動の歴史的意義をよりはっきりと明らかにするためには、私の見るところ、共産党員に対して、いかなる曖昧さもなく、それどころかできるだけ厳しく非妥協的に問題を突きつけることが必要である。党が統一戦線を拒否し、地方の防衛委員会(すなわち明日のソヴィエト)の創設を拒否していることは、ファシズムに対して党が降服することであり、共産党とコミンテルンを解体することに匹敵する歴史的犯罪であるということを突きつけなければならない。だが、このような破局に見舞われた場合には、プロレタリアートは、屍の山を越えて、耐えがたい苦しみと災厄を乗り越えて、第4インターナショナルに向かうだろう。

1933年2月6日

 

  訳注

(1)ブリューニング、ハインリヒ(1885-1970)……ドイツのカトリック中央党の指導者。1930年3月にヒンデンブルク大統領によってドイツの首相に任命。1930年7月から、解任される1932年5月までドイツを統治。ブリューニングは、憲法48条の大統領特権行使を条件に組閣を引き受け、議会の多数派を無視して、繰り返し大統領緊急令(特例法)を発布して政治を行なった。ブリューニング統治時代にナチスは大躍進を遂げ、政治的・経済的危機はいちじるしく深刻化。政治的力関係の右傾化によって、ブリューニングは必要とされなくなり、1932年5月末に辞任。

(2)パーペン、フランツ・フォン(1879-1969)……ドイツのブルジョア政治家。プロイセンの土地貴族であるユンカーの代表で、カトリック中央党の指導者。1932年6月1日にヒンデンブルクによってドイツの首相に任命。7月20日にクーデターを強行し、プロイセンのブラウン社会民主党政府を解散させ、自らをプロイセン総督に指名。ドイツ宰相の地位は、1932年12月にシュライヒャー将軍が取って代わられ、1933年1月30日にヒトラー内閣の副首相になった。戦争中、パーペンはヒトラーに協力しつづける。

(3)シュライヒャー、クルト・フォン(1882-1934)……ドイツの将軍、政治家。パーペン政府の国防大臣をつとめ、1932年12月2日にヒンデンブルクによって首相に指名(ワイマール共和国最後の首相)。1933年1月末、首相の座をヒトラーに取って代わられる。ナチスの「血の粛清」中の1934年6月30日に殺害される。

(4)ビスマルク、オットー(1815-1898)……ドイツの政治家。1862年にプロイセンの首相となり、「鉄拳宰相」として強権でもってドイツ統一を推進。1871年から1890年までドイツ帝国の宰相。

(5)1870〜71年の普仏戦争で、ドイツはフランスからアルザス=ロレーヌを割譲するとともに、多額の賠償金を獲得した。

(6)フーゲンベルク、アルフレート(1865-1951)……ドイツの大銀行家、大資本家、右派政治家。1909〜1918年、クルップ製鋼の重役。1916年以降、約150社に及ぶフーゲンベルク大コンツエルンを結成。1919年より国家人民党議員。ワイマール共和国に反対し、1928年に国家人民党の党首となり、ヒトラーと同盟を結んだ。1933年1月30日、最初のヒトラー政権の経済相になったが、1933年6月に解任。

(7)ヒトラー内閣の構成は、副首相がフォン・パーペン、外相が無所属のノイラート男爵、国防相が無所属のブロンベルク中将、蔵相がクローズィク伯爵、経済相が国家人民党のフーゲンベルク、法相が国家人民党のギュルトナーというように、重要な閣僚ポストは国家人民党と無所属の貴族・地主層出身者によって占められていた。ナチス党の大臣は、首相を別にすれば、内相、無任所相だけであった。

(8)ウェルス、オットー(1873-1939)……ドイツ社会民主党右派。第1次大戦中は排外主義者。ベルリンの軍事責任者としてドイツ革命を弾圧。1933年まで、ドイツ社会民主党国会議員団の指導者。共産党との反ファシズム統一戦線を拒否し、ファシズムに対する妥協政策をとりつづける。

(9)この原注は、トロツキー自身によるものと思われるが、フランス語版、英語版、ドイツ語版にはあるが、『反対派ブレティン』にはない。ここでは、英語版を参考にして訳しておいた。

(10)『反対派ブレティン』の原文では、「1月5日」と表記されているが、時期的に見て1月であるはずがなく、また各国語訳も「2月5日」としていることから、ここでは「2月5日」にしておく。


  

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