民族共産主義に反対する!

(「赤色」人民投票の教訓)
トロツキー/訳 西島栄

【解説】この論文は、ドイツ・ファシズムの台頭とコミンテルンの「社会ファシズム」論を批判した一連の論文の一つである。

 1930年9月の総選挙で躍進したナチス党は、さまざまな手段を通じて政治的攻勢に出た。その一環として、ナチス党は1931年に、当時、社会民主党の牙城であったプロイセン州政府(首相は社会民主党のオットー・ブラウンで、内相はカール・ゼヴェリング)に標的を定めた。新しい州議会選挙を実施すれば、自分たちが多数派になるとにらんだナチス党は、右翼の国家人民党(指導者はアルフレート・フーゲンベルク)、反革命派の退役軍人を中心とした「鉄兜団(シュタールヘルム)」などと協力し、ワイマール憲法の「人民投票制度」を利用して、プロシア政府を更迭しようと試みた。

 ドイツ共産党は、当初、この人民投票に反対の立場を表明していたが、1931年7月21日、突如として、ブラウンとゼヴェリングに対し、自分たちの要求を認め共産党と統一戦線を組むか、さもなくば自分たちは人民投票に参加する、という最後通牒を突きつけた。これは、社会民主党に統一戦線を要求しているという点で、形式的には「社会ファシズム論」とは真っ向から矛盾していたが、実際にはそれは、社会民主党が拒否することを見越したマヌーバーでしかなかった。案の定、社会民主党がその提案を拒否すると、共産党はファシストの人民投票に参加することを決定した。テールマン指導部はこの人民投票を「赤色人民投票」と呼んだ。こうして、ナチスと共産党がいっしょになって、人民投票のキャンペーンを展開するというグロテスクな構図が生まれたのである。これは、労働者を徹底的に士気阻喪させ、ナチス党の政治的影響力を拡大することになった。

 同年8月9日に投票が行なわれ、その結果、800万人が投票に参加した。だがこれは、プロイセン政府を解任するのに必要な有権者の過半数(1300万票)に大きく不足し、人民投票は失敗した。この「赤色人民投票」の実験は、反ファシズムの闘いに取り返しのつかない打撃を与えた。

 本論文は、現代思潮社刊の『社会ファシズム論批判』に「国家社会主義に反対する」という題名でフランス語から訳出されたことがあるが、今回、『反対派ブレティン』第24号に掲載されたロシア語原文から訳し直した。なお、原題は正しくは「民族共産主義に反対する」である。ここで言っているのは、ナチス党のことではなく、テールマン指導部のドイツ共産党のことである。もちろん、「ナツィオナル・コムニズム」というロシア語は、ナチスの「ナチオナル・ゾーツィアリスムス(国家社会主義)」にかけており、「国家共産主義」と訳してもよいが、ここでは「民族共産主義」と訳しておいた。

Л.Троцкий, Против национал−коммунизма!(Уроки “красного”референдума), Бюллетень Оппозиции, No.24, Сентябрь 1931.

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 本稿が読者に届くころには、その一部分はおそらくすでに古くさくなっていることであろう。すべてのブルジョア政府の友好的な手助けを受けたスターリン機構の努力のせいで、本稿の筆者は、何週間も遅れてしか政治的諸事件に反応できないような状況に置かれている。さらにつけ加えておかなければならないが、筆者は、完全というにはほど遠い情報に頼らざるをえない。読者には、これらの点を考慮に入れていただかなければならない。しかし、たとえはなはだ不利な状況からも、いくらかの利点を引き出さなければならない。日々の事件に対し具体的かつ全面的に反応することができないがゆえに、筆者は自分の注意を問題の基本的なポイントと諸条件に集中せざるをえない。そして、そこに、本稿の存在理由があるのである。

 

   いかにしていっさいが引っ繰り返っているのか? 

 人民投票の問題をめぐるドイツ共産党の誤りは、時とともにますます明瞭になってゆき、ついには、革命的戦略の教科書に、してはならないことの実例として掲載されるような誤りとなった。

 ドイツ共産党中央委員会のとった行動は、いっさいが誤っている。情勢判断も誤っている、当面する目標の設定も誤っている、その目標を達成するために選択された方法も誤っている。そしてそのついでに、党指導部は、この数年間説教してきた「原則」をことごとく覆した。

 7月21日、中央委員会は、プロイセン政府に民主的・社会的譲歩を要求し、それが拒否された場合には、人民投票を支持すると脅迫した。これらの要求を提示することによって、スターリニスト官僚は、事実上、ある一定の条件のもとでの反ファシズム統一戦線を社会民主党指導部に提案したことになる。社会民主党が提案された条件を拒否すると、スターリニストは、今度はファシストと反社会民主主義統一戦線を形成したのである。ということは、統一戦線政策は、「下から」だけでなく、「上から」も実行されうるわけだ。そして、民主主義と社会立法をヒトラーの徒党から守るために、テールマンが「公開状」によって、ブラウン(1)とゼヴェリング(2)に共同闘争を呼びかけることもできるわけだ。このようにして、これらの連中は、そうしていると気づくことなく、「下からのみの」統一戦線という自らの形而上学を、上からのみのの統一戦線という最も不合理で最もスキャンダラスな実験によって覆してしまったのである。しかもこの実験は、大衆にとって思いもよらぬものであり、大衆の意思に反したものでもある。

 社会民主主義がファシズムの一種でしかないとしたら、どうして、社会ファシストに、民主主義を共同防衛するという要求を公式に提起することができるのか? 人民投票という道を選んだとき、党官僚は、国家社会主義者にいかなる条件も課さなかった。なぜか? 社会民主主義者と国家社会主義者が、ファシズムの程度の差でしかないならば、どうして、社会民主党には条件を課し、国家社会主義者へは条件を課さないのか? それとも、この2つの「変種」のあいだに、社会的基盤や大衆のだまし方の点で非常に重大な質的相違があるのか? だが、もしそうだとしたら、どちらもファシスト呼ばわりするのはやめるべきだろう。なぜなら、政治においては、呼び名は物事を区別するためにあるのであって、すべてを同じ袋にほうりこむためにあるのではないからである。

 しかしながら、テールマンがヒトラーと統一戦線を組んだというのは本当だろうか? 共産党官僚は、テールマンの人民投票を、ヒトラーの黒色ないし茶色の人民投票から区別するため、「赤色」人民投票と呼んでいる。両党が2つの不倶戴天の政党であることは、もちろんのこと、疑いのないところであり、社会民主党のいかなる嘘も、労働者にこのことを忘れさせることはできない。しかし、事実は事実である。ある一定のカンパニアにおいて、スターリニスト官僚は、社会民主党に対抗するため、革命的労働者を国家社会主義者との統一戦線に引きずりこんだのだ。少なくとも、投票用紙にその投票者の党派的帰属を記すことができたとしたら、人民投票は、党の勢力を測ることができ、したがってまたファシズム勢力から自らを区別できるという正当化の論拠(この場合でも、政治的には、まったく不十分なものではあるが)を持ちえたかもしれない。しかし、ドイツ「民主主義」はそのとき、人民投票の参加者に、その政治的帰属を記入する権利を与えていなかった。すべての投票者は、当該の問題に同一の解答を与えた一個の分かちがたい大衆の中に合流してしまっている。この問題の枠組みにおいては、ファシストとの統一戦線は、否定しようのない事実である。

 このようにして、一昼夜のうちに、いっさいが引っ繰り返ってしまったのだ。

 

   「統一戦線」、しかし誰との? 

 共産党指導部は、いかなる政治的目的をもってその転換を遂行したのだろうか? 公式文書や指導者の演説などを読めば読むほど、この目的を理解することが難しくなる。プロイセン政府はファシズムに道を開いている、と言われている。これはまったく正しい。ブリューニング(3)のドイツ政府は――と、ドイツ共産党の指導者はつけ加える――、事実上共和国をファッショ化しており、この方面では、すでに大きな仕事を成し遂げた。それはまったく正しい、われわれはこれに答えて言おう。だが何といっても、プロイセンのブラウンがいなければ、ドイツのブリューニングは持ちこたえることができないだろう!――こうスターリニストは言う。これもまた正しい、と答えよう。この点までは、われわれは完全に同意見である。しかし、ここから、いかなる政治的結論を引き出すべきだろうか? ブラウン政府を支持したり、その責任の一端でも大衆の面前で引き受けたり、また、ブリューニング政府とそのプロイセンの手先に対するわれわれの政治闘争をほんの少しでも弱めたりする理由はみじんもない。しかし、われわれが、ファシストがブリューニング=ブラウン政府に取って代わるのを助ける理由は、なおさらない。なぜなら、われわれが社会民主党に対し、ファシズムのために道を掃き清めているというまったく正当な非難を加えているとしたら、われわれ自身の課題は、ファシズムのために、この道を短くしてやることではまったくないからだ。

 7月27日にドイツ共産党中央委員会が全細胞に宛てた手紙は、それが問題の集団的検討の結果であるがゆえに、とりわけ惨めな形で指導の破産ぶりを暴露している。この手紙の核心は、あれこれの混乱や矛盾を取り除くなら、結局のところ、社会民主党とファシストとのあいだに、すなわち、労働者を欺き彼らを裏切り彼らの忍耐強さを利用している敵と、あっさりと労働者を食い殺そうとしている敵とのあいだに、いかなる相違も存在しないということに帰着する。このような同一視のナンセンスさに気づいた回状の筆者たちは、不意に転換して、赤色人民投票を、「社会民主党、カトリック、無党派の労働者に対する下からの(!)統一戦線政策の断固たる適用」であるかのように描き出している。社会民主党と中央党(4)に反対して、ファシストとともに人民投票に参加することが、なぜ、社会民主党労働者とカトリック労働者に向けた統一戦線政策であるというのか? このことは、どのプロレタリアにも理解できないであろう。ここで問題になっているのは、明らかに、自分の党から離脱して人民投票に参加した社会民主党労働者のことである。その数はどのくらいか? いずれにせよ、統一戦線政策ということで理解しなくてはならないのは、社会民主党と決別した労働者との共同行動ではなく、まだその陣営内にとどまっている労働者との共同行動である。残念ながら、そのような労働者はまだ非常に多いのだ。

 

   力関係の問題

 7月24日のテールマンの演説の中で、転換をまじめに正当化しようとしている唯一の章句は、次のようなものである。「赤色人民投票は、合法的・議会的な大衆運動の可能性を利用することによって、大衆の議会外的動員に向けた一歩前進である」。この言葉が何らかの意味を持っているとしたら、その意味は、次のようなことでしかない。「われわれは、議会的な投票を全般的な革命的攻勢の出発点とし、社会民主党政府およびそれと結びついた中道政党を合法的手段によって打倒し、それから、社会民主党の相続人となろうとしているファシズムを、大衆の革命的圧力によって打倒する。言いかえるなら、プロイセンの人民投票は、革命的飛躍の跳躍板としての役割を果たすものでしかない」。

 確かに、跳躍板としてなら、人民投票は完全に正当化されるかもしれない。ファシストが共産主義者とともに投票するかしないかということは、プロレタリアートが自らの攻撃によってファシストを打倒し、権力を掌握したときには、いかなる意味も失うだろう。跳躍板としてならば、人民投票という板も含めて、どんな板でも利用することができる。ただし、本当に跳躍できる可能性がなくてはならない。言葉の上ではなく、真の跳躍をである。したがって、問題は力関係に帰着する。力関係からいって、ブリューニング=ブラウン政府が、ヒトラー=フーゲンベルク(5)の政府に取って代わるしかないときに、「ブリューニング=ブラウン政府を打倒せよ!」というスローガンをもって街頭に出るのは、純然たる冒険主義である。しかしながら、この同じスローガンは、それが、権力獲得に向けたプロレタリアート自身の直接的闘争の出発点となるならば、まったく違った意味を持ってくる。第1の場合には、共産主義者は、大衆にとって、反動の助手に見えるだろうが、第2の場合には、ファシストが、プロレタリアートによって粉砕される前に、どのような投票をしたかという問題は、いかなる政治的意味も失うだろう。

 したがってわれわれは、ファシストと一致しての投票という問題を、何らかの抽象的原則からでなく、諸階級による現実の権力闘争とその闘争の当該段階における力関係という観点から考察しているのである。

 

   ロシアの経験を振り返る

 プロレタリア蜂起の際には、社会民主主義官僚とファシストとの相違が、たとえゼロにはならないとしても、最小のものになることは、議論の余地がない。10月革命のさい、ロシア・メンシェヴィキとエスエルは、カデット、コルニーロフ主義者、君主主義者と手を結んで、プロレタリアートに対して闘った。10月に、ボリシェヴィキは、予備議会から離脱し、街頭に出て、大衆に武装蜂起を呼びかけた。何らかの君主主義者の一団が、ボリシェヴィキとともに、予備議会から離脱したとしても、君主主義者は民主主義者とともに打倒されたのであるから、そのことは何の政治的意味も持たなかったであろう。

 しかしながら、10月蜂起に至るまでに、党は一連の段階を経たのである。1917年の4月デモのさい、ボリシェヴィキの一部は「臨時政府打倒」というスローガンを掲げた。中央委員会はただちに、極左主義者をたしなめた。もちろんわれわれは、臨時政府打倒の必要性を宣伝しなければならないが、このスローガンを掲げて大衆に街頭に出るよう呼びかけることはできない。なぜならわれれわ自身まだ労働者階級内での少数派であるからだ。このような条件のもとで、もしわれわれが臨時政府を打倒するならば、われわれがそれに取って代わることができない以上、反革命を助けることになってしまうだろう。臨時政府を打倒する時が来る前に、この政府の反人民的性格を忍耐強く大衆に説明しなければならない。党の立場は以上のようなものであった。

 次の時期における党のスローガンは、「資本家大臣を追い出せ」だった。これは、社会民主主義に対して、ブルジョアジーとの連立を断ち切らせるための圧力となった。7月には、われわれは、「すべての権力をソヴィエトへ」というスローガンのもとに労働者と兵士のデモを指導したが、これは、当時にあっては、「すべての権力をメンシェヴィキとエスエルへ」ということを意味した。メンシェヴィキとエスエルは、白衛派と手を組んでわれわれを粉砕した。

 それから2ヶ月後、コルニーロフが、臨時政府に対して反乱を起こした。コルニーロフに対する闘争の中で、ボリシェヴィキはただちに最前線を占めた。レーニンは当時、地下の身にあった。数千というボリシェヴィキは獄につながれていた。労働者、兵士、水兵は、自分たちの指導者とボリシェヴィキをすべて解放するよう要求した。臨時政府はこれを拒否した。ボリシェヴィキ党中央委員会は、ケレンスキーの政府に対して次のような最後通牒を突きつけるべきだったろうか。すなわち、ボリシェヴィキをただちに釈放し、ホーエンツォレルン家の手先などという卑劣な非難をやめろ、そしてケレンスキーがこれを拒否した場合には、コルニーロフと闘争することを拒否する、と。テールマン=レンメレ(6)=ノイマン(7)の中央委員会なら、こういう行動をとったであろう。しかし、ボリシェヴィキの中央委員会は、このような行動はとらなかった。レーニンは、当時、次のように書いた。

「ボリシェヴィキの弾圧、前線における死刑、労働者の武装解除などを支持したメンシェヴィキとエスエルに対する、いわば『復讐』のため、革命的プロレタリアートが、反革命に対する闘争において、メンシェヴィキとエスエルを援助することを『拒否する』ことができる、などと考えるのは最も深刻な誤りであろう。このような問題の立て方は、まず第1に、プロレタリアートが、道徳について、小ブルジョア的観念をもっているということになり(なぜならプロレタリアートは、事業の利益のためならば、動揺しつつある小ブルジョアジーのみでなく、大ブルジョアジーさえ援助するであろう)、第2に――そしてこれが主要な点だが――『道徳的説教』によって事柄の政治的核心を隠蔽しようという小ブルジョア的試みとなってしまうだろう」。

 8月に、われわれが、コルニーロフに反撃せずに、彼の勝利を容易にしていたとすれば、コルニーロフは、まず最初に、労働者階級の精鋭を根絶していただろうし、そうなっていたら、われわれがそれから2ヶ月後に協調主義者に勝利し彼らの歴史的犯罪を――言葉の上でなく実際に――罰することは、不可能になっていただろう。

 テールマン一派が、彼ら自身の転換を正当化するため、社会民主党指導者によって犯された醜悪な行為の数々を並べたてることから始めることこそ、「小ブルジョア的な道徳的説教」を行なうことにほかならない!

 

   消えたランプをもって

 歴史的アナロジーはアナロジーでしかない。諸条件や諸課題が完全に一致することは、ありえない。しかし、アナロジーによる条件つきの言い方をするとすれば、われわれは、次のように問うことができる。ドイツの人民投票のときには、コルニーロフ派に対する防衛の問題は存在していたのか、それとも、実際に全ブルジョア体制のプロレタリアートによる転覆は目前に迫っていたのか? この問いは、抽象的原則や論争的定式によってではなく、力関係によって解答が与えられる。ボリシェヴィキは、革命の新しい段階を迎えるたびに、きわめて慎重かつ良心的に、力関係を調べ計算し測っていた! ドイツ共産党指導部は、闘争を始めるにあたって、あい闘う諸勢力に関するバランスシートをあらかじめ作成しようと試みたことがあるのだろうか? このようなバランスシートは、新聞記事にも演説の中にも見あたらない。自分の師スターリンにならって、ベルリンにいる弟子たちは、消えたランプをもって政治を行なっているのだ。

 テールマンは、力関係という決定的問題に関する考察を、二、三の一般的文句に還元してしまっている。

「われわれはもはや1923年に生きているのではない。――と彼は報告の中で述べている――共産党は現在、怒涛のように増大しつつある数百万の党なのである」。

 これで全部なのだ! これによってテールマンは、1923年の情勢と1931年の情勢との相違をいかに理解していないかを、これ以上なくはっきりと示している! 当時[1923年]、社会民主党はこなごなになっていた。社会民主党の隊列から離れることのできなかった労働者も、共産党に希望のまなざしを向けていた。当時、ファシズムは、本格的な政治的現実というよりは、ブルジョアジーの菜園に立った案山子と言う方がはるかに適当であった。1923年における労働組合や工場委員会に対する共産党の影響は、現在とは比較にならないほど大きなものであった。工場委員会は当時、事実上ソヴィエトの機能を果たしていた。社会民主党官僚は、日をおうごとに、労働組合における地盤を失っていた。

 1923年の情勢が、コミンテルンとドイツ共産党の日和見主義的指導部によって利用されなかったという事実は、階級と党の意識の中に、またその両者の関係の中に、今なおその痕跡をとどめている。テールマンは、共産党は数百万の党だと言う。それは喜ばしいことだし、われわれも誇りに思っている。しかし、われわれは、社会民主党も今だに数百万の党であることを忘れてはいない。1923年〜1931年におけるエピゴーネンの一連の恐るべき誤りのせいで、現在の社会民主党が、1923年の社会民主党よりもはるかに大きな抵抗力を示していることも忘れてはいない。社会民主党の裏切りとスターリニスト官僚の誤りによって育成され成長した現在のファシズムが、プロレタリアートによる権力奪取の道に立ちはだかる巨大な障害となっていることも、われわれは忘れない。共産党は数百万の党である。しかし、これまでの「第三期」――官僚的に集中された愚行の時期――の戦略のせいで、共産党は今日でもまだ、労働祖合や工場委員会内では、はなはだしく脆弱である。人民投票の投票にのみ依拠して、権力獲得のための闘争を遂行することはできない。工場、職場、労働組合、工場委員会に、足場を確保しなければならない。テールマンは、情勢の分析の代わりに激しい言葉を振り回すことで、以上のことをすべて忘れてしまっている。

 1931年7〜8月に、ドイツ共産党が、社会民主主義とファシズムという両翼によって代表されているブルジョア社会との公然たる闘争に突入することができるほど強力であると主張することができるのは、別世界からやって来た人間だけである。党の官僚自身もそんなことを信じてはいない。党官僚がこのような論拠に訴えるのは、人民投票が失敗に終わり、このような論拠が今後検討に付されることがないからにすぎない。このような無責任さ、このような盲目さ、面子への見境のない執着のうちに、スターリン的中間主義の魂の一半たる冒険主義が示されている!

 

   プロレタリア革命の代わりに「人民革命」

 7月21日における一見したところ「唐突」に見えるジグザグは、天から降ってきたわけではまったくなく、それ以前の時期の路線全体によって準備されていたものである。ドイツ共産党が、ファシストに勝利しファシズムの影響から大衆を奪い返しファシズムを粉枠したいという、真剣で燃えるような望みを抱いて行動していること、このことにはもちろん何の疑いもない。しかし不幸なのは、時が経つにつれてますます、スターリニスト官僚が、ファシズムに反対する行動においてファシズム自身の武器を用いようとしていることである。スターリニスト官僚は、ファシズムの政治的パレットから色を借用し、愛国心のオークション会場でファシズムに負けない大声を張り上げようしている。これは、階級政治の原則的方法ではなく、小ブルジョア的競争の手法である。

 スターリニスト官僚がプロレタリア革命のスローガンを人民革命のスローガンに置きかえた事実ほど、恥ずべき原則的降伏を想像することは困難である。いかなる策略も、いかなる引用合戦も、いかなる歴史的偽造も、ファシズム的インチキをできるだけよく模倣するべくマルクス主義の原理的裏切りがなされたという事実を変えるものではない。ここで私は、この問題について数ヵ月前に書いたことを繰り返さざるをえない。

「言うまでもなく、あらゆる偉大な革命は、それが、国民のあらゆる生きた創造的勢力を革命的階級の周囲に結集させ、新しい軸の周りに国民を再建するという意味では、人民革命ないし国民革命である。しかし、これはスローガンではなく、革命の社会学的描写であり、しかも、正確で具体的な説明を要する描写である。だが、これはスローガンとしては、無内容であり、インチキであり、労働者の頭に混乱を持ち込むという犠牲を払ったうえでファシストと市場で競争するようなものでありる。……

 ファシストのシュトラッサー(8)は、人民の95パーセントが革命に利益を有しているのだから、この革命は階級的なものでなく人民的なものである、と述べている。テールマンはこれに調子を合わせている。しかし実際には、共産党労働者は、ファシスト労働者に対して、次のように言わなければならなかった。もちろん、住民の95パーセント――場合によっては98パーセント――は、金融資本によって搾取されている。しかし、この搾取の仕組みは階層的に組織されている。搾取者、準搾取者、準々搾取者、等々がいる。こうしたヒエラルキーのおかげで、超搾取者は国民の大多数を自らの支配のもとにとどめておくことができるのである。国民が実際に新しい階級的軸の周りに再建されるためには、前もって国民が思想的に再建されていなければならない。だがこのことを達成することができるのは、プロレタリアートが、『人民』や『国民』の中に溶解してしまわずに、反対にプロレタリア革命という自らの綱領を展開し、小ブルジョアジーに、2つの体制のいずれかを選ぶことを余儀なくさせる場合のみである。……

 だがドイツの現在の情勢では、『人民革命』というスローガンは、マルクス主義とファシズムとのあいだにあるイデオロギー的境界を消し去り、労働者の一部と小ブルジョアジーにファシズムのイデオロギーと和解させ、マルクス主義でもファシズムでも人民革命が問題となっている以上、どちらかを選択する必要はないと信じさせることになる」(9)

 

   「民族解放」の手段としての「人民革命」

 思想はそれ自身の論理を持っている。人民革命は、「民族解放」に奉仕するための手段として提起されている。このような問題設定は、純粋に排外主義的な傾向に党の門戸を開くこととなった。もちろん、小ブルジョア排外主義陣営の絶望した愛国者が、プロレタリアートの党に接近するという事実には、何も悪いことはない。さまざまな分子は、それぞれ異なった道や小路を通って共産主義に達する。この数ヵ月間に、共産主義に向かって方向を転じはじめているらしい白衛的・黒百人組的将校の中には――札付きの出世主義者や破産した冒険主義者と並んで――まじめで誠実な人々がいることは疑いない。党は、もちろんのこと、このような個人的転換をファシズム陣営解体の補助手段として利用することができる。しかしながら、スターリニスト官僚の犯罪――しかり、それはまさに犯罪である――は、これらの連中と連帯し、彼らの声を党の声と同一視し、彼らの民族主義的・軍国主義的傾向を暴露することを拒否し、骨の髄まで小ブルジョア的・反動的ユートピア主義的・排外主義的なシェリンガー(10)の小冊子を、革命的プロレタリアートの新しい福音書に仕立てあげているという点にある。7月21日の一見したところ唐突に見える決定は、ファシズムとのこうした下劣な競争から生まれたものである。曰く、諸君は人民革命を掲げている、われわれも人民革命を掲げている。諸君のところでは、民族解放が最高の基準となっている、われわれのところでも同じだ。諸君は、西欧資本主義に宣戦を布告している。われわれも同じことを約束する。諸君は人民投票を主張している。われわれも人民投票に賛成だ。しかも、諸君のよりも優れた、徹頭徹尾「赤色の」人民投票をだ。

 事実、元革命的労働者のテールマンは今日、シュテンボルク=フェルモール伯(11)に対して面子を失わないよう全力を傾けて努力している。テールマンが、人民投票へ向かう転換を公表した党活動者会議での報告は、「マルクス主義の旗のもとに」という大げさな題をつけて、『ローテ・ファーネ』紙に発表されている。そこで、テールマンは、「ドイツは今日、協商国の手中の玩具となっている」という考えを、その結論の前面に押し出している。したがって、まず何よりも問題になっているのは「民族解放」だ、というわけである。しかし、ある意味では、フランスもイタリアも、あるいはイギリスでさえも、アメリカ合衆国の手中の「玩具」となっている。フーヴァー提案(12)との関連で再びはっきりとした形で露呈した、アメリカに対するヨーロッパの従属は(明日には、この従属は、もっと先鋭かつ深刻な形で露呈されるであろう)、ヨーロッパ革命の発展にとって、協商国に対するドイツの従属よりもはるかに深刻な意義を有している。まさにそれゆえ、「ベルサイユ協定の打倒」という抽象的スローガンだけではまったくだめで、なかんずくヨーロッパ・ソヴィエト合衆国というスローガンこそが、ヨーロッパ大陸の痙攣に対するプロレタリア的回答たりうるのである。

 しかしながら、この問題はいずれにせよ二次的問題である。われわれの政策は、ドイツが協商国の手中の「玩具」であるということによって決定されるのではなく、分裂し弱体化し屈辱を受けたドイツ・プロレタリアートが、ドイツ・ブルジョアジーの手中の玩具であるという事実によって決定されるのである。「主要な敵は自国にあり!」、かつてカール・リープクネヒトはこう教えた。友人たちよ、諸君はこれを忘れたのか? それとも、この教えは、もはや適切ではないというのか? テールマンにとっては、この教えは、明らかに時代遅れのものになっている。リープクネヒトは、シェリンガーに置きかえられている。まさにそれゆえ、「マルクス主義の旗のもとに」という表題がかくも苦々しい皮肉に聞こえるのだ!

 

   降伏の学校としての官僚主義的中間主義の学校

 数年前、左翼反対派は、一国社会主義という「真正ロシア的」理論は、不可避的に、コミンテルンの他の支部にも社愛国主義的傾向の発展をもたらすだろうと警告した。当時これは、空想の産物か、悪意のある作りごとか、「中傷」のように見えた。しかし、思想というものは、それ自身の論理だけでなく、それ自身の爆発力をも持っている。ドイツ共産党は、われわれの目の前で、短期間のうちに社会愛国主義の領域に入り込んでいった。まさにこうした社会愛国主義的な気分やスローガンに対する不倶戴天の敵意にもとづいて、コミンテルンは成立しているはずなのにだ。これは驚くべきことであろうか? いや、これは法則的である!

 対立相手と階級敵の思想を模倣するという方法――ボリシェヴィズムの理論と心理に徹頭徹尾反した方法――は、中間主義の本質、その無原則さ、無内容さ、思想的空虚さから、まったくもって有機的に生じている。例えば、何年ものあいだスターリニスト官僚は、テルミドール的政治家の足もとを掘りくずすために、テルミドール的政策を遂行した。また、左翼反対派を恐れるあまり、スターリニスト官僚は、左派の綱領をつまみ食いしはじめた。イギリス労働者を労働組合主義(トレード・ユニオニズム)の支配から奪い取るために、スターリニストは、マルクス主義的政策に代えて労働組合主義的政策を遂行した。彼らはまた、中国の労働者と農民が独立の道を見出すのを助けるために、これら労働者と農民をブルジョア的国民党に入党させた。このようなことは、いくらでも数え上げることができる。問題の大小にかかわらず、見出されるのは同一の精神である。すなわち、猿真似、敵への絶え間ない模倣、敵に対するに、自分自身の武器――悲しいかな、そんなものはないのだ!――を用いるのでなく、敵の武器庫から盗み出した武器を用いようとすること、である。

 党の現在の体制も同じ方向に向かって作用している。機構の専制は、コミンテルンの指導層を士気阻喪させ、先進的労働者の人格を貶めその個性を失わせ、彼らの革命的性格を打ち砕き、歪曲し、こうして不可避的に、敵を前にしてプロレタリア前衛を弱めてしまうだろう。われわれは一度ならずこのように宣言し、書いてきた。上からのどんな命令にもうやうやしく頭を垂れるような連中は、革命闘士としては無価値である!

 中間主義官僚は、ジノヴィエフのもとではジノヴィエフ主義者であり、ブハーリンのもとではブハーリン主義者であり、スターリンとモロトフの天下になったときには、スターリン主義者、モロトフ主義者であった。彼らは、マヌイリスキー(13)やクーシネン(14)やロゾフスキー(15)のような連中の前にさえ、頭を垂れてきた。彼らは、どの段階においても、その時々の「指導者」の言葉やイントネーションや表情を模倣し、昨日は忠誠を誓っていたものを、今日には命令にしたがって拒否し、昨日はちやほやしていた指導者が失脚すると、口に二本の指をつっこんで口笛を吹く。このような腐敗した体制の中では、革命的勇気は骨抜きにされ、理論的意識は空虚なものとなり、背骨はふにゃふにゃになってしまう。プロレタリア革命をかくも易々と人民革命に置きかえたり、ボリシェヴィキ=レーニン主義者を裏切り者として非難したり、シェリンガーのような排外主義者を肩に乗せて祭り上げることができるのは、ジノヴィエフとスターリンの学校を卒業した官僚だけである。

 

   「革命戦争」と平和主義

 シェリンガーやシュテンボルク=フェルモールのような連中は、共産党の事業を、寛大にも、ホーエンツォレルン家の戦争の直接的継承とみなしている。最も悪辣な帝国主義戦争の犠牲者は、彼らにとって、ドイツ民族の自由のために倒れた英雄なのだ。アルザス=ロレーヌと東プロイセンのための新しい戦争を、彼らは喜んで「革命」戦争と呼ぶつもりである。彼らは、自らの「革命」戦争のために労働者を動員することに役立つとあらば、「人民革命」さえも――今のところは言葉の上で――受け入れることに賛成である。彼らの計画のいっさいは、復讐の思想に帰着する。この同じ目的を他の方法で達成できることに気づけば、彼らは明日にでも、背中から革命的プロレタリアートに銃を射ちこむだろう。このことに沈黙するのではなく、暴露しなければならない。労働者の警戒心を眠りこませるのではなく、目覚めさせなければならない。だが、党はいかなる行動をとっているのか? 

 赤色人民投票のアジテーションがたけなわの8月1日、共産党の『ファンファーレ』紙は、シェリンガーの肖像とともに、彼の新しい福音書の一つを掲載している。ここにそのまま引用しよう。

「今日、人民革命、革命的解放戦争に反対する者はみな、世界大戦中、自由なドイツのために自らの命を捧げた死者たちの大義を裏切っているのである」。

 あろうことか共産主義を名乗る新聞紙上でこのような文章を読むことになろうとは、わが目を信じることができない。しかも、以上のことが、リープクネヒトとレーニンの名によって覆い隠されているのだ! レーニンだったら、このような共産主義に論争上の懲罰を与えるのに、どれほど長い鞭を手にとったことだろう。そしてレーニンなら、論争上の論文だけにとどまらなかっただろう。プロレタリア前衛の隊列から情け容赦なく排外主義の壊疽を切除するために、臨時国際大会の召集を要求したであろう。

 「われわれは平和主義者ではない」と、テールマン、レンメレその他の連中は得意げに反論する。「われわれは、原則的に革命戦争に賛成である」。それを証明するために、彼らは、モスクワの無知な「赤色教授」たちが彼らのために選び出したマルクスとレーニンからの引用を喜んで引っ張ってくる。あたかもマルクスとレーニンがプロレタリア革命の推進者ではなく民族戦争の推進者であったと、本当に信じてしまいかねないほどだ! あたかもマルクスとレーニンにあっては、革命戦争が、ファシスト将校や中間主義的下士官の民族主義イデオロギーと何らかの共通性があるかのようだ。革命戦争に関する安っぽい空文句によって、スターリニスト官僚は、十人ばかりの冒険主義者を惹きつけることはできるかもしれないが、しかし、それによって何十万、何百万という、社会民主党労働者、カトリック労働者、無党派労働者を遠ざけてしまっているのである。

 「それならば、諸君は、われわれに、社会民主党の平和主義を模倣しろというのか?」と、最新の路線にのっとる深遠な理論家たちは反論するだろう。いや、われわれは、たとえ労働者階級の気分でさえ、模倣するつもりは毛頭ない。しかし、それを考慮に入れることは必要である。広範なプロレタリア大衆の気分を正確に評価することによってのみ、大衆を革命へと導くことができる。しかし、小ブルジョア民族主義の用語法を模倣している官僚は、労働者の実際の気分を理解していない。労働者は、戦争を望んでいないし、望むこともできない。彼らは、テールマン、シェリンガー、シュテンボルク=フェルモール伯、ハインツ・ノイマンといった連中の好戦的ファンファーレに嫌悪感を抱いているのである。

 プロレタリアートが権力を獲得した暁には、マルクス主義はもちろんのこと、革命戦争の可能性を考慮しないわけにはいかない。しかし、それは、権力獲得後に事態の進展によって余儀なくされる歴史的可能性を、権力獲得以前に闘争の政治的スローガンに変えてしまうことと同じではない。両者のあいだには、きわめて大きな距離がある。プロレタリアートの勝利の結果、ある一定の条件にもとで革命戦争が余儀なくされること、このことと、革命戦争の手段としての「人民」革命とは、まったく別のことであり、直接に対立したものでさえある。

 ロシアのソヴィエト政府は、原則的には革命戦争を認めていたにもかかわらず、周知のように、ブレスト=リトフスクの非常に過酷な講和条約に調印した。なぜか? 理由は、少数の先進的グループを除いては、農民も労働者も戦争を欲していなかったからである。だがこの同じ農民と労働者は後に、ソヴィエト革命を無数の敵から英雄的に防衛した。しかし、ピウスツキ(16)によって押しつけられた過酷な防衛戦争を攻撃戦争に転化させようとしたときには、われわれは敗北を喫した。力関係の誤った計算から生まれたこの誤りは、革命の発展にきわめて手痛い打撃を与えた。

 赤軍は、すでに14年間も存在している。「われわれは平和主義者ではない」。しかし、それならばなぜソヴィエト政府は、ことあるごとに、その平和政策を宣伝しているのか? なぜ軍縮を提案したり、不可侵協定を結んだりしているのか? なぜソヴィエト政府は、世界プロレタリア革命の一手段として、赤軍を動員しないのか? 明らかに、原則的に革命戦争に賛成するだけでは十分ではないのだ。それに加えて、肩の上に頭を載せていなければならない[理性的に物事を考えるという意味]。情勢、力関係、大衆の気分を考慮に入れなければならない。

 こうしたことが、強制のための強力な国家機構を手中にしている労働者政府にとっても必要なことだとするならば、強制ではなく説得によってしか行動できない革命政党は、なおのこと、労働者および勤労者一般の気分を慎重に考慮に入れなければならない。革命とはわれわれにとって、西欧に対する戦争の補助手段などではなく、その反対に、あらゆる戦争を回避し、戦争を永遠に廃絶するための手段なのである。われわれは、すべての勤労者に固有の平和志向を嘲笑することによって社会民主主義と闘うのではなく、社会民主主義の平和主義の欺瞞を暴露することによって闘うのである。なぜなら、社会民主主義が救おうと日々努力している資本主義社会は、戦争なしには考えられないからである。ドイツの「民族解放」は、われわれにとって、西欧に対する戦争の中にではなく、プロレタリア革命の中にある。その革命は、中央ヨーロッパと西ヨーロッパを包含し、それらを、ソヴィエト合衆国として東ヨーロッパと結びつけるだろう。このような問題設定のみが、労働者階級を結束させ、この結束した労働者を絶望した小ブルジョア大衆を惹きつける中核とすることができるのである。プロレタリアートが現代社会に自らの意志を押しつけるためには、その党が、プロレタリア政党であることを恥ずかしがったり、自分の言葉で話すことを恥ずかしがったりしてはならない。プロレタリア政党は、民族的復讐の言葉ではなく、国際革命の言葉で話さなければならない。

 

   マルクス主義者はどのように判断するべきであったか? 

 赤色人民投票は、天から降ってきたのではない。それは、いちじるしく進行した党のイデオロギー的堕落から生じた。しかし、だからといって、この人民投票が、想像しうるかぎり最も破廉恥な冒険であることをやめるわけではない。人民投票は、権力のための革命的闘争の出発点となるようなものでは、まったくなかった。それは完全に、副次的な議会的マヌーバーの枠内にとどまっていた。人民投票によって党は、複合的敗北を自分自身にあえて押しつけたのである。すなわち社会民主党を強化し、したがってまた、ブリューニング政府を強化し、ファシストの敗北を隠蔽し、自分自身の支持者のかなりの部分と社会民主党労働者を反発させた。こうして党は、人民投票の前よりもその後の方がはるかに弱くなった。ドイツと世界の資本主義にとって、これ以上の奉仕はないだろう。

 資本主義社会、とくにドイツのそれは、この15年間というもの、何度となく崩壊の寸前にまで立ち至ったが、そのたびごとに、破局からかろうじて這い出してきた。経済的、社会的前提条件だけでは、革命には不十分なのである。政治的前提条件、すなわち、前もって勝利を保障するのではないにせよ――このような状況は、歴史上存在しない――、勝利を可能にし、蓋然的なものにするような、力関係が必要なのである。その次に、戦略的計算、大胆さ、決断力が、可能なものを現実のものにする。しかし、いかなる戦略も、不可能を可能にすることはできない。

 中央委員会は、危機の深刻化や「情勢の変化」に関する一般的文句をならべたてるのではなく、現時点における、ドイツ・プロレタリアート、労働組合、工場委員会における力関係がいかなるものであるか、党と農業労働者との関係がいかなるものであるか、等々について正確に示すべきであろう。これらのことがわかれば、正確な検証をすることができ、暗闇の中で手探りする必要もなくなるだろう。もしテールマンが、現在の政治情勢のすべての要素を列挙し比較考量する勇気を持っていたなら、彼は次のような結論に至らざるをえなかっただろう。すなわち、資本主義システムのすさまじい危機や、最近における共産主義のかなりの成長にもかかわらず、革命的結着へと突き進むには、党はまだあまりにも弱い。反対に、この目標に向けて突っ走ているのはファシストの方である。社会民主党を含むあらゆるブルジョア政党は、それを助ける用意がある。なぜなら、彼らはみな、ファシストよりも共産党の方をずっと恐れているからである。国家社会主義者のもくろみは、プロイセンの人民投票を利用して、極端に不安定な国家的均衡を破壊し、ブルジョアジーの中の動揺している階層に、労働者の制裁というナチスの血塗られた仕事を支持させることであった。われわれの側からこのファシストの仕事を助けるというのは、最大の愚行であろう。まさにそれゆえ、われわれはファシストの人民投票に反対なのである。テールマンにマルクス主義的良心のかけらでも残っていたら、このような結論を報告の中で与えるべきだったろう。

 これに続いて、できるだけ広範かつ公開された討論を組織するべきであった。ハインツ・ノイマンやレンメレのような無謬の指導者諸君も、あらゆる転換のたびごとに、大衆の声に注意深く耳を傾けなくてはならない。ときおり共産党員が語る公式の言葉だけでなく、その言葉の背後に隠れている、より深くより大衆的な思想に耳を傾けなければならない。労働者に命令を下すのではなく、労働者から学ぶことができなければならない。

 もし討論が開かれたならば、参加者の一人は、おおむね次のように述べるだろう――情勢の明らかな変化にもかかわらず、力関係からすれば、われわれは革命的結着に急いで突入してはならないとテールマンが言うのは正しい。しかし、まさにそれゆえ、見られるように、われわれの最も断固たる不倶戴天の敵は、結着に向かって圧力をかけているのだ。この場合、われわれは、力関係に前もって変化を起こすために、すなわち、社会民主主義の影響下からプロレタリア大衆の大部分を奪いとり、小ブルジョア大衆の下層をしてプロレタリアートの方に顔を向かせ、ファシズムに背を向けさせるのに、われわれは必要な時間をかせぐことができるだろうか? もし、それに成功すれば、結構なことだ。しかし、もし、われわれの意志に反して、ファシストがごく近いうちに事態を結着にまでもっていったとしたら、どうなるだろうか? そのときには、プロレタリア革命は再び重大な敗北を喫するのだろうか?

 これに対して、テールマンは、もし彼がマルクス主義者であったとしたら、おおよそ次のように答えたであろう。

 ――言うまでもなく、決定的闘争の時期がいつになるかは、われわれだけでなく、われわれの敵にも依存している。現時点におけるわれわれの戦略的課題は、われわれの敵が結着に向けて突入するのを容易にしてやることではなく、困難にすることである。このことについては誰もが同意している。しかし、それでもなお、敵がわれわれに戦闘を強いるならば、われわれはもちろん受けて立つであろう。なぜなら、重大な歴史的陣地を、闘わずして放棄してしまうことほど、甚大で、致命的で、恥辱的で、士気を阻喪させる敗北はないからである。ファシストが、結着をつけるイニシアチブを――人民大衆の見ている前で――とるならば、現在の状況のもとでは、勤労者の広範な階層をわれわれの方に押しやることになるだろう。その場合、今日われわれが、何百万もの労働者に対し「われわれは、諸君抜きに、諸君に反して、革命を遂行するつもりはまったくない」ということを明瞭に示し説明すればするほど、ますます勝利を勝ちとるチャンスは増大するだろう。まさにそれゆえわれわれは、社会民主党労働者、カトリック労働者、無党派労働者に、公然と次のように言わなければならない。あまり大きくない少数派たるファシストは、権力を獲得するために、現在の政府を打倒したいと望んでいる。われわれ共産主義者は、現在の政府をプロレタリアートの敵とみなしているが、しかし、この政府は、諸君の信頼と諸君の投票によって支えられている。われわれは、諸君に対立するファシストとの同盟によってでなく、諸君との同盟によって、この政府を打倒したいと思っている。ファシストが蜂起しようとするならば、われわれ共産主義者は、最後の血の一摘までファシストと闘うだろう。これは、ブラウン=ブリューニング政府を防衛するためではなく、プロレタリアートの精鋭、労働者組織、労働者新聞など、われわれ共産主義者のものであるだけでなく、諸君ら社会民主主義者のものでもあるものを、圧殺と破壊から守るためである。われわれは、諸君とともに、ファシストの攻撃から、どんな「労働者の家」でも、どんな労働者新聞の印刷所でも防衛する用意がある。そしてわれわれは、諸君に、われわれの組織が危険にさらされているときには、われわれの支援に来ることを約束するよう求める。われわれは、労働者階級の反ファシスト統一戦線を諸君に提案する。われわれが、この政策を断固として粘り強く遂行すればするほど、この政策をあらゆる問題に適用すればするほど、ファシストがわれわれの不意を打つことは困難となるだろうし、また、公然たる闘争において、ファシストが、われわれを粉砕するチャンスも少なくなるだろう。

 ――われわれの想像上のテールマンなら、このように答えたであろう。

 しかし、ここで、ハインツ・ノイマンの高尚な思想に骨の髄まで侵された弁士がこう発言する。

 ――このような政策からは、結局のところ、何も生まれないだろう。社会民主党の指導者たちは、「共産主義者を信じるな。彼らは、労働者組織を守ることなどまったく気にかけてはいない。彼らが欲しているのは権力を奪取することだけだ。彼らは、われわれを社会ファシストだとみなしているし、われわれと国家社会主義者とのあいだに何の区別も設けてはいない」と言うであろう。それゆえ、テールマンの提案する政策は、社会民主党労働者の目から見て、われわれを単なる笑いものにするだけだろう。

 これに対して、テールマンは、次のように答えなければならなかったはずだ、

 ――社会民主主義者をファシストだというのは、もちろん愚かなことだ。この愚行は、危機がくるたびに、われわれを混乱させ、われわれが社会民主党労働者に向かう道を見出すのを妨げている。この愚行を放棄することは、われわれにできる最良のことである。労働者階級とその組織を守るという口実のもとに、われわれが権力を奪取することだけを望んでいるかのようにいう非難に関しては、社会民主党労働者にこう答えよう。たしかに、われわれ共産主義者は権力を奪取しようと努力しているが、そのためには、労働者階級の絶対多数を獲得することが必要である。少数派に依拠して権力を獲得しようと試みることは、軽蔑すべき冒険主義であり、そのようなものとわれわれは何の共通性もない。われわれは、労働者の多数派をわれわれに従うよう強制することはできない。われわれにできるのは、彼らを説得することだけだ。ファシストが労働者階級を粉砕すれば、共産主義者による権力奪取はもはや問題になりえないであろう。ファシストから労働者階級とその組織を防衛することは、われわれにとっては、労働者階級を説得し彼らを率いる可能性を保障することを意味している。それゆえ、われわれが権力に到達することができるのは、資本主義国家における労働者民主主義のあらゆる要素を、必要とあらば武器を手にしてでも、守ることによってのみなのである。

 これに加えて、テールマンは、さらに次のように言うことができただろう。

 ――労働者の多数派の堅固で揺ぎない信頼を獲得するためには何よりも、労働者の目を欺いたり、われわれの力を誇張したり、事実に目をつぶったり、あるいは、もっと悪いことだが、事実を歪めたりすることは、厳につつしまなければならない。物事をあるがままに語らなければならない。敵は何千という確認手段を持っているのだから、敵を欺くことは不可能だ。また労働者を欺くことによって、われわれは、自分自身を欺いているのである。実際よりも強いように見せかけることによって、われわれは自分自身を弱めているだけなのだ。ここには、友よ、いかなる『不確信』も、いかなる『悲観主義』もない。どうしてわれわれが悲観主義者になることができようか? われわれの前には巨大な可能性が開けている。われわれには測りしれない未来がある。ドイツの運命、ヨーロッパの運命、そして全世界の運命は、われわれにかかっている。しかし、まさに革命的未来に確固たる確信を持っている者こそ、いかなる幻想も必要としないのである。マルクス主義的現実主義は革命的楽観主義の前提条件なのだ。

 テールマンが、もし、マルクス主義者だったとしたら、このように答えたことであろう。しかし、残念ながら、テールマンはマルクス主義者ではない。

 

   党はなぜ沈黙したか? 

 しかし、いったいどうして、党は沈黙していられたのか? 人民投票の問題について、180度の転換を意味していたテールマンの報告は、いかなる討論もなしに承認された。上からの提案の仕方も、そのようなものであった。そして、提案されたものは、命令されたものなのだ。『ローテ・ファーネ』のあらゆる報告は、党のすべての会合において、人民投票が、「満場一致で」承認されたことを示している。この「満場一致」は、党の特別の力を示すものであるかのように提示されている。しかし、革命運動史のいつどこで、このような押し黙った「一枚岩主義」が見られたというのか? テールマンやレンメレのような連中は、ボリシェヴィズムの名において誓っている。しかし、ボリシェヴィズムの歴史はすべて、激しい内部闘争の歴史である。党は、それらの激しい内部闘争の中で、自らの見解を獲得し、自らの方法を鍛えていった。党史の中で最も偉大な年である1917年の年代記は、権力獲得後の最初の5年間の時期と同様、激しい内部闘争に満ちている。しかもそのさい、政治的思惑による分裂や大規模な除名などは一つもなかった。なぜなら、ボリシェヴィキ党のトップには、テールマン、レンメレ、ノイマンなどとは、その身の丈も気質もその権威もまったく異なった指導者たちがいたからである。とすれば、今日のこの恐るべき「一枚岩主義」、悪質な指導者のあらゆる転換を巨大な党にとっての絶対的法則と化してしまうこの破滅的な満場一致は、いったいどこからきているのであろうか? 

 「どんな討論もいらない」! なぜならば、『ローテ・ファーネ』が説明しているところでは、「このような情勢のもとで必要なのは、おしゃべりではなく、行動だからだ」。吐き気を催させるような偽善! 党は、前もって議論することなく、「行動」しなければならないというわけだ。では、今回の場合、いかなる「行動」が問題になっているのか? 四角形の公式用紙の中に小さな十字を書きこむことである[プロイセンの人民投票のこと]。しかもプロレタリアートの十字を集計する際、それがファシストの十字(ハーケンクロイツ)かどうかを確かめる可能性さえないのである。疑うことなく、考えることなく、問題を出すこともなく、目に不安を浮かべることもなく、神によって与えられた指導者による新しい飛び跳ねを受け入れよ、さもなければ諸君は背教者であり反革命家だ! これが、国際スターリニスト官僚が、すべての先進的労働者のこめかみにピストルのようにつきつけている最後通牒なのである。

 表面的には、大衆はこの体制を容認していて、いっさいが順調に進んでいるように見える。しかしそうではない! 大衆は、好きなように形を作れる粘士ではけっしてない。大衆は、自分なりに、ゆっくりと、だがきわめて大規模に、指導部の誤りや愚行に対して反応する。大衆は、無数の赤色記念日をボイコットすることによって、「第三期」論に自分なりの方法で抵抗した。フランスでは、大衆は、ロゾフスキー=モンムッソー(17)の実験に通常の方法で抵抗できないために、フランス統一労働総同盟(18)を放棄した。ドイツでは数十万、数百万の労働者は、赤色人民投票の「思想」を受け入れることができなかったので、人民投票への参加を取りやめた。これは、ぶざまに階級敵を模倣し、その代わり、自分自身の党の首をきつく締めあげている中間主義官僚の犯罪に対する当然の代償である。

 本当にスターリンは、新しいジグザグを事前に承認していたのであろうか? 誰もそれは知らない。それは、スペイン革命に関するスターリンの意見を誰も知らないのと同じである。スターリンは沈黙している。レーニンを始めとするもっと謙虚な指導者たちは、兄弟党の政策に何らかの影響を与えようと思ったときには、演説をするか論文を書いたものだ。というのは、彼らには言うべきことがあったからである。スターリンには、言うべきことを何もない。スターリンは、個々の人間をペテンにかけるのと同様に、歴史的過程をもペテンにかけようとする。スターリンは、ドイツやスペインのプロレタリアートが前進するのをいかに助けるべきかを考えるのではなく、前もって自分自身のためにいかに政治的退路を保障しておくかを考えている。

 1923年のドイツの事件に対するスターリンの態度は、世界革命の根本問題におけるスターリンの二重性の類いまれなる実例である。同年8月、スターリンが、ジノヴィエフとブハーリンに書いたことを思い起こそう。

「共産党は(現在の段階において)、社会民主党なしに、権力奪取を試みるべきであろうか? それをなしうるほど共産党は十分に成熱しているであろうか? 私の考えでは、問題はそこにある。われわれが権力をとったとき、われわれには、ロシアで次のような利点を持っていた。1、平和、2、土地を農民へ、3、労働者階級の圧倒的大多数の支持、4、農民層の共感。今日、ドイツの共産主義者には、このようなものは一つとしてない。もちろん、彼らのとなりにはソヴィエト国家がある。これは、われわれが持っていなかったものだ。しかし、現時点で、われわれは彼らに何を与えることができるだろうか? 今日、ドイツにおいて、権力がいわば自壊し、共産党が権力を握ったとしたら、共産党は手ひどい失敗をこうむるだろう。しかも、それは、『最良』の場合である。最悪の場合には、共産党はこっぱみじんに粉砕され、後方に投げ戻されるだろう。……私の意見では、ドイツ人は抑制すべきであって、鼓舞してやるべきではない」。

 このようにスターリンは、当時ブランドラーよりも右だったのだ。ブランドラーは、1923年8、9月には、スターリンとは逆に、ドイツで権力を握ることにいかなる困難もないが、困難は、権力を掌握した翌日から始まるだろうと考えていた。現在のコミンテルンの公式見解では、ブランドラー派が1923年秋に例外的に革命的な情勢を見逃してしまった、ということになっている。ブランドラー派の最高弾劾者は…スターリンである。しかし、スターリンは、1923年における自分自身の立場について、コミンテルンに説明したのであろうか? いや、そのような必要はいささかもない。コミンテルンの各支部に、この問題を持ち出すことを禁止すれば十分なのだ。

 スターリンは、疑いもなく、人民投票の問題に関しても同じやり方で振舞おうとするだろう。テールマンが、スターリンをあえて暴露しようとしたとしても、それは不可能だろう。スターリンは、その手先を通じてドイツの中央委員会に圧力をかけ、自分は思わせぶりに後方に退いてしまった。新政策が成功した場合には、マヌイリスキーやレンメレのような連中はみな、その政策のイニシアチブはスターリンにあると宣言するだろう。そして、その政策が失敗した場合には、スターリンは、その責任者を見出す可能性を完全に保持していることになる。ここにこそ、スターリンの戦略の真髄がある。こういうことにかけては、スターリンは強い。

※原注 テールマンが実際には最近の転換に反対であって、モスクワの支持を受けたレンメレとノイマンに追随しただけであったのかどうかという問題は、純粋に個人的でエピソード的問題であるから、ここではわれわれの関心事ではない。問題はシステムである。テールマンは、あえて党に訴えることをしなかったのであるから、彼はいっさいの責任を負っているのだ。

 

   『プラウダ』は何と言っているか? 

 ところで、共産主義インターナショナルの第一の党の、第一の新聞である『プラウダ』は、いったい何と言っているだろうか? 『プラウダ』は、ドイツの情勢に関して、ただ一つの真面目な論文も分析も掲載していない。『プラウダ』は、テールマンの綱領的大演説から、半ダースほどの無内容な文章を遠慮がちに引用しているにすぎない。それもそのはずである。頭も背骨もなく、矛盾の中で途方にくれ、官僚に奉仕している、現在の『プラウダ』に、いったい何を言うことができるだろうか? スターリンが沈黙しているときに、『プラウダ』に何を言うことができようか。

 7月24日には、『プラウダ』はベルリンの転換を次のように説明していた。「人民投票に参加しないことは、共産主義者が、現在の反動的州議会を支持することを意味しただろう」。ここではすべては単なる不信任投票に還元されている。しかし、それならばなぜ、共産党は人民投票のイニシアチブを自らとらなかったのか? なぜ、共産主義者は、何ヵ月にもわたって、この人民投票の提案に反対して闘ったのか? そして、またなぜ、彼らは、7月21日になって突然、この提案の前にひざまずいたのか? 『プラウダ』の理屈は、議会的クレティン病の遅ればせの屁理屈でしかない。

 人民投票後の8月11日になると、『プラウダ』は、その理屈を変化させた。「人民投票に参加する意義は、党にとって、大衆の議会外的動員にあった」。しかし、何といっても8月1日の記念日が決められたのは、まさにこの目的のため、すなわち大衆の議会外的動員のためであった。ここでは、暦上の赤色記念日に対する批判に紙幅を費やすのはやめておこう。しかし、いずれにせよ、この8月1日に、共産党は、自らのスローガンと自らの指導のもとで大衆を動員したのである。その1週間後に、どうしてまた新しい動員が必要になったのか? しかも、動員された者同士がお互いに顔を合わせることもなく、誰もその数を数えることもできず、動員された者自身も、その友人も、その敵も、動員された者をその不具戴天の敵から区別することもできないようなやり方で? 

 人民投票の数日後、8月12日付『プラウダ』は、文字通り「投票の結果は、……労働者階級がこれまで社会民主主義に与えた打撃の中で最も大きな打撃であった」と述べている。ここで人民投票の統計数字は引用しないでおこう。この数字は、すべての者(『プラウダ』の読者を除いて)に知られている。そしてそれは、『プラウダ』の愚かで恥知らずな大言壮語をもろに打ちすえている。これらの連中は、労働者に嘘をつき、労働者の目を欺くことを、当然のことだと考えているのだ。

 公式のレーニン主義は、官僚的エピゴーネン体制のかかとによって押しつぶされ、蹂躙されている。しかし、非公式のレーニン主義は生きている。野放図な官僚も、何でも罰なしにすむとは考えない方がいいだろう。プロレタリア革命という科学的に基礎づけられた思想は、機構よりも強力であり、どんな資金よりも強力であり、最も残忍な弾圧よりも強力である。われわれの階級敵は、その機構、資金、弾圧の点で、現在のスターリン官僚制よりもはるかに強力であった。しかし、それにもかかわらず、われわれは、ロシアの地で階級敵に打ち勝った。われわれは、彼らに勝利することができることを示した。革命的プロレタリアートは、あらゆる所で彼らに打ち勝つであろう。そのためには、革命的プロレタリアートに正しい政策が必要である。プロレタリア前衛は、スターリンの機構に対する闘争の中で、マルクスとレーニンの政策を遂行する権利を勝ち取るであろう。

1931年8月25日

『反対派ブレティン』第24号

新規

  訳注

(1)ブラウン、オットー(1872-1955)……ドイツ社会民主党の指導者の一人。1920〜21年、1922年、1925〜1932年、プロイセン政府の首相。1932年7月20日、パーペン中央政府の緊急令によってブラウン内閣は解散させられる。1933年、ヒトラーの政権掌握後に亡命。

(2)ゼヴェリング、ヴィルヘルム(1875-1952)……ドイツ社会民主党員で、プロイセン政府の警察庁長官。1919〜1926年、1930〜1932年にプロイセン政府の内務大臣。

(3)ブリューニング、ハインリヒ(1885-1970)……ドイツのカトリック中央党の指導者。1930年3月にヒンデンブルク大統領によってドイツの首相に任命。1930年7月から、解任される1932年5月までドイツを統治。ブリューニングは、憲法48条の大統領特権行使を条件に組閣を引き受け、議会の多数派を無視して、繰り返し大統領緊急令(特例法)を発布して政治を行なった。ブリューニング統治時代にナチスは大躍進を遂げ、政治的・経済的危機はいちじるしく深刻化。政治的力関係の右傾化によって、ブリューニングは必要とされなくなり、1932年5月末に辞任。

(4)中央党……ドイツの主流ブルジョア政党で、カトリック系の政党。カトリック中央党とも言う。後のキリスト教民主党の前身。

(5)フーゲンベルク、アルフレート(1865-1951)……ドイツの大銀行家、大資本家、右派政治家。1909〜1918年、クルップ製鋼の重役。1916年以降、約150社に及ぶフーゲンベルク大コンツエルンを結成。1919年より国家人民党議員。ワイマール共和国に反対し、1928年に国家人民党の党首となり、ヒトラーと同盟を結んだ。1933年1月30日、最初のヒトラー政権の経済相になったが、1933年6月に解任。

(6)レンメレ、ヘルマン(1880-1937)……ドイツのスターリニスト。1926年以降、テールマンとともにドイツ共産党の指導者。1933年にロシアに亡命し、1937年に粛清。

(7)ノイマン、ハインツ(1902-1938)……ドイツ共産党の指導者で、「第三期」の理論家。1927年にはコミンテルンの中国責任者。1933年にモスクワ亡命。1937年にゲ・ペ・ウに逮捕され、翌年に粛清。

(8)シュトラッサー、オットー(1897-1974)……ドイツのファシスト政治家。1925年にナチス党に入党し、党内左派として頭角を現わすも、ヒトラーと対立し、1934年に亡命。

(9)トロツキー「スペイン革命、日々刻々」、『スペイン革命と人民戦線』、現代思潮社、247〜249頁。

(10)シェリンガー、リヒャルト……元ドイツ国防軍の軍人で、1930年3月にナチス党からドイツ共産党に移った人物。それ以降、シェリンガーはドイツ共産党のスポークスマンとなった。

(11)シュテンボルク=フェルモール伯……シェリンガーと同じく、階級敵の陣営からドイツ共産党の側に移った人物。

(12)フーヴァー提案……1929年の世界恐慌によって急速にドイツ経済が悪化し、1931年になって、ドイツの4大銀行のいくつかが経営破産を遂げた。こうした経済危機を背景に、元アメリカ大統領のフーヴァーは、ドイツの賠償金支払いを一時的に停止するモラトリアム案を提案した。しかし、この提案は遅きに失し、ドイツ経済の危機を緩和することはできなかった。

(13)マヌイリスキー、ドミートリー(1883-1952)……ロシアの革命家、スターリニスト。第1次大戦中は『ナーシェ・スローヴォ』の編集者の一人。1931年から39年までコミンテルンの書記。「第三期」政策を積極的に推進。

(14)クーシネン、オットー(1881-1964)……フィンランドの共産主義者で、1918年のフィンランド革命の敗北後、モスクワに亡命。その後、コミンテルン内でスターリンの代弁者となる。1922〜31年、コミンテルンの書記。

(15)ロゾフスキー、ソロモン(1878-1952)……1901年からロシア社会民主党員。1909年にパリに亡命し、第1次大戦中は『ナーシェ・スローヴォ』の編集者の一人。1917年に、全ロシア労組中央会議書記。1921〜37年、赤色労働組合インターナショナル(プロフィンテルン)の議長。

(16)ピウスツキ、ヨゼフ(1867-1935)……ポーランドの国家主義政治家、独裁者。1918〜21年大統領、在任中の1920年、ソヴィエト・ロシアに対する干渉戦争を遂行。リガ条約でソヴィエト・ロシアの一部を割譲。1921年、憲法に反対して下野するも、1926年にクーデターを起こして首相に。その後、独裁政治を死ぬまで継続。

(17)モンムッソー、ガストン(1883-1960)……フランスの労働運動家、スターリニスト。1920年の鉄道ストライキを指導。1925年にサンディカリストからフランス共産党へ。フランス共産党の労働官僚となり、CGTU(統一労働総同盟)、後にCGT(労働総同盟)を指導。

(18)フランス統一労働総同盟(CGTU)……フランス社会党とフランス共産党との分裂の結果として生まれた共産党系の労働組合連合。1922年6月に、労働総同盟(CGT)から分裂して結成。1923年にプロフィンテルンに加盟。人民戦線時代の1936年にCGTと再合併。


  

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