左翼反対派と社会主義労働者党 

トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄

【解説】これは、ドイツ・ファシズムの勝利とドイツ共産党の崩壊という現実をふまえて、新たに共産主義政党を模索するための一つの試みとして、ドイツ社会主義労働者党(SAP)との関係を論じたものである。最初に掲載されたのは、イギリス左翼反対派の月刊誌『レッド・フラッグ』(1933年8月号)。

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 親愛なる友へ

 ドイツ社会主義労働者党(SAP)の指導的同志たちとの討論の模様を知らせてくれた4月20日付の手紙を受け取った。これによって社会主義労働者党の先の大会決議について、とりわけ諸君との関係に関する部分についてよくわかった。

 社会主義労働者党の指導者たちは、3月5日まで、ドイツ共産党の復活にまだ期待をつないでいるといってわれわれを非難していた。今日この意見の相違は事態の歩みそのものによって解決されている。われわれはドイツのスターリニスト機構の命運は尽きたと判断し、新党に向けカードルを結集するよう呼びかけている。したがってわれわれと社会主義労働者党との関係で残されているのは、この新党の綱領と政策と体制の問題だけになっている。われわれに必要なのは、もちろん、一般的な抽象的公式ではなく、左翼反対派と社会主義労働者党の両組織が参加してきたこの数年間における経験を文書で総括することである。この経験から引き出される基本的な結論は、今年2月のわれわれの準備会議でごく簡潔に文章化されている(実際には、ドイツ共産党に対するわれわれの態度についてのテーゼは訂正されなければならない)。社会主義労働者党の指導者たちからわれわれは綱領的性格の訂正や補足や対案を期待していた。

 ところが、われわれが聞いたのはまったく別の議論であった。この問題に触れるのはあまり気が進まない。私個人のことが取り上げられているからである。しかし革命的政策の問題は、個人的配慮に優先する。潜在的な同盟者ないし敵によって提起されたそのままの形において議論をとりあげる必要がある。社会主義労働者党の指導者たちによれば、左翼反対派はトロツキーという人格に密着しすぎている、彼に依存しすぎている、云々…。ドイツ支部はTの指導がなければ何もできない、云々…。一個人の周囲に組織を集中させることはきわめて危険である、云々…。

 まず何よりも、私は、反対派の内部生活に関するこのようなイメージを訂正したいと思う。ドイツ支部の深刻な意見の対立や先鋭な内部的危機といったドイツ支部の過去の経験について語るつもりはない。この問題については、私はたまたま一定の個人的な役割を果たすことになった。もっとも、局外の助言者としてにすぎないが。いま日程にのぼっているのは、ドイツにおける新党の問題である。万人の眼前でこの問題を公然と議論している組織は左翼反対派だけである。ドイツ支部の指導部の多数派はこの問題について国際書記局および私と意見を異にし、私を「詭弁」「外交的駆け引き」その他の罪で非難するキャンペーンを精力的に展開している。もっとも、このような闘争におけるゲームのルールに厳密に従いながら、であるが。私としては、この論争の結果として共通の見解が形成されるに至ることを切に望んでいる。しかしいずれにせよ、社会主義労働者党や共産党反対派(ブランドラー派)の内部で、ヴァルヒャー(1)=フレーリヒ(2)やブランドラー=タールハイマーに対する論争が、わがドイツ支部内部における私や国際書記局に対する論争ほど公然かつ激烈に展開されることはないだろう。だからといって、現在の左翼反対派を理想化するつもりはけっしてない。われわれの組織の基本的欠陥はその弱さにある。この弱さと大衆との接触の不十分さは、個々人の人物が過大な影響を及ぼすことを可能とする、あるいは不可避にさえするような状況を作り出している。しかしながら、これを治療する方法は一つしかない。もっと強くてもっと大衆的な組織を建設することである。左翼反対派の基本的な立場と方法が基本的に正しいとすれば、そのような組織の建設は保証されている。あるいは少なくとも十分に実現可能である。それゆえに、ここでは綱領や戦略、戦術、組織上の諸問題に集中するべきである。

 社会主義労働者党の同志たちは、基本的に何に対して自分自身を守っているのだろうか? 特定個人の影響力に対してだろうか、それともその人間と結びついている特定の思想の影響力に対してだろうか? 社会主義労働者党の大会決議の中では、同党が左翼反対派や共産党反対派と多くの点で意見が一致すると述べられている。まずもって、この「多くの点で」という表現の不正確さに驚かされる。これはマルクス主義ではない。労働者の前衛に対して責任を持つ組織の決議は、他の組織とどの問題について一致しどの問題について対立するのかを明快かつ正確に述べなければならない。思想を定式化するさいに明快さと正確さを欠いていては革命的政策はありえない。この決議がボリシェヴィキ=レーニン主義者とブランドラー派の両方に対して同時に連帯を表明していることも、事態をいっそう混乱させている。この事実はこの決議の価値を大きく滅じるものである。なぜなら、ブランドラー派は非和解的な意見の相違のゆえにわれわれから分離しているからである。

 この2年間、国際情勢の鍵はドイツにあった。戦術的な諸問題(戦略的な諸問題は別である)に関するかぎり、われわれとブランドラー派との意見の相違は時としてそれほど大きくないように見えたかもしれない。その後ドイツ・プロレタリアートの前衛はその鍵をとり落としてしまった。今やオーストリアが問題の焦点になっている。しかしオーストリア問題は、結局のところ一つのエピソードにすぎない。国際的プロレタリアートの状況にとっての基本的な鍵は実際はソ連にある。官僚的中間主義の政策とそれがもたらす危険については、社会主義労働者党の同志たちもわかっているものと思う。では、彼らはわれわれと意見が一致しているのだろうか? たとえ一般的にせよわれわれと意見が一致しているならば、ソ連邦における(これは事実上、全世界におけるという意味である)スターリニスト政策を支持し、われわれを一度ならず反革命として扱ったブランドラー派とも同時に意見が一致するなどということがどうして可能なのだろうか? 最も重要で緊急な問題について立場を定めないことによって、社会主義労働者党の指導者たちは次のような印象を与えている。ボリシェヴィキ=レーニン主義者を自分の左に、ブランドラー派を右に配置し、こうして自分が両翼のあいだに立つことによって自らの独立性(これは災厄というほどではない)と正確さの欠如(これはひどく悪い!)を維持したいと思っている、と。

 このやり方は一見して非常に「賢明」に見えるかもしれない。実際にはそれは破滅的である。これは新しい状況下でザイデヴィッツ(3)の路線を続けることを意味する。論争したいがためにこう言うのではない。私としては、社会主義労働者党の同志たちとの相互理解と協力を促進するために、何でもする用意がある。しかしそのための第一条件は誠実な政治的理解である。

 社会主義労働者党の指導者たちは時々こう文句を言っている。左翼反対派は、中国における中間主義政策や、英露委員会、スペインにおけるコミンテルンの路線、ソ連邦におけるスターリンの政策、その他の問題をあまりにも機械的に提起している、と。実際には、これらは、われわれの側の恣意的な基準やさまざまな信条告白という問題ではない。問題になっているのはただ一つ、中間主義者がさまざまな国でさまざまな条件の下に進めている政策なのである。われわれは過去10年間の最も重要なできごとを前景に押し出してきたが、これは、その経験にもとづいて、マルクス主義の政策を中間主義の政策に最も鮮明な形で対置するためであった。言うまでもなく、われわれは生きた政治的諸事実や諸問題を最重視する。しかし、革命的力−ドルの教育のためには革命的思想の連続性が必要なのである。国民党や広東での冒険、イギリスのスト破りとのブロック、等々の経験からドイツの破局にいたるまで、これらすべてが中間主義の同じ糸で結ばれている。

 社会主義労働者党には、その他の組織と同じく、この関係を知らず、中国やブルガリアやスペインにおけるスターリンの政策について一度も研究したことも考えたこともない労働者が何千といる。こうした同志たちに対し、上に挙げた諸問題に対するわれわれの立場の正しさを純粋に形式的なやり方で承認させようとしても、それはいずれにせよまったく無意味だろう。長期にわたるプロパガンダの仕事を一撃でかたづけることはできない。しかし、独立したプロレタリア党の結成に対し責任とイニシアチブを引き受けている指導者たちの場合は違う。彼らに対し、プロレタリア戦略の根本的諸問題について、抽象的で一般的な形でではなく、世界プロレタリアートの現在の世代の生きた経験にもとづいて、自分たちの態度をいますぐ明らかにするよう求めることは正しいのである。われわれも、これら指導者たちに対し機械的に問題を提起しようとは思わない。われわれはこう言う。「われわれの協力の可能性――その可能性はきわめて高いとわれわれは思っている――について最終的判断を下す前に、プロレタリア戦略の根本的諸問題に対してわれわれが同じ立場に立っているかどうかをきちんと確認しなければならない。さまざまな国における闘争をふまえて定式化したわれわれの見解はこうこうこうである。では、これらの問題に対する諸君の立場は何か? 諸君がこれらの問題に対する態度をまだ決めていないのならば、最も先鋭で最も緊急な政治的諸問題から手始めに、いっしょに検討してみようではないか」。このような問題提起の仕方にはセクト主義のかけらもないと深く確信する。一般にマルクス主義者はこれ以外の問題提起の仕方を知らない。つけ加えておかなければならないが、もちろんわれわれは、検討中のすべての問題について最終的結果が出るのを待つことなく、実践的な協力を行なう用意がある。

 社会主義労働者党の同志たちは、すべての組織(現存する共産主義者グループ)の協議会を――このような呼びかけに応えてやって来るならばだが――早急に招集する必要があると考えている。このような会議が招集されれば、左翼反対派は自分の見解を説明するためにそれに参加するだろう。しかし、このような会議から共産主義者としての仕事を開始するための本格的な結果が得られるだろうと期待するのは誤っている。問題になっているのが亡命者の援助や、彼らの利益の防衛や、あるいはそうした何らかの部分的な政治的キャンペーンであるならば、この会議は、おそらく何らかの実際的役割を果せるだろう。しかし、現在問題になっているのは、長期にわたる革命的政策の基礎を据えることである。このような問題は、即興的に招集される寄せ集めの会議によっては絶対に解決されない。逆に、あたふたと混乱した雰囲気の中で政治的準備もなしに招集された会議は、イデオロギー的混迷とグループ間相互の敵意を強めるだけのことであろう。

 いま始まったばかりのこの時期、ドイツ革命運動の指導的中心は亡命者のあいだに見出されなければならないだろう。しかし追放されてきたドイツの同志たちは今なお一時的に露営しているような気持ちでいる。現に生じた破局の重大性を理論的に理解している人たちでさえ、心理的には新しい状況にまだ適応できていない。ドイツ国内では、さまざまなグループがいまだ昨日の惰性にひきずられて活動している。このことは、共産党の反対派諸組織の中で最大だが最も優柔不断な社会主義労働者党にもあてはまる。社会主義労働者党の左派は、その指導者たちが何ら独自の機関紙を持っていないにもかかわらず、党の多数派を獲得し、ザイデヴィッツ派を排除した。この事実は、社会主義労働者党の一般的発展方向を最もよく示している。われわれは早くからここに「生きた潮流」の始まりを認めてきた。またわれわれは、社会主義労働者党が今でも共産主義の未加工の勢力を代表しているという事実も知っている。しかも、状況は根本的に変化した。日程にのぼっているのは、ただちに戦闘を開始することではなく、非合法の条件下で長期的な準備の課題を遂行することである。組織がイデオロギー的に強固でなければないほど、それだけ破壊的要因(幻滅、疲労、弾圧、他のグループの煽動、など)に対する抵抗力は弱くなる。これからの時期、イデオロギー的に鍛え抜かれたカードルだけが敵勢力の反撃に耐えられるのである!

 左翼反対派は、社会主義労働者党との相互理解を促進するために何でもやるつもりでいる。この点について疑問の余地はない。論争中ないし未解決の諸問題を検討するための技術的形態を見出すことは難しいことではない。討論ブレティンや共同の理論誌、中央および各グループ内における一連の討論など。

 私は、こうした諸問題を社会主義労働者党の各党員に忍耐強く提起していく必要があると思う。

1933年4月27日

『トロツキー著作集 1932-33』(パスファインダー社)所収

『トロツキー著作集 1932-33』下(柘植書房)より

  訳注

(1)ヴァルヒャー、ヤーコブ(1887-1970)……ドイツ共産党の創始者の一人で、その後ブランドラー派に。1931年にブランドラー派と分裂し、社会主義労働者党に。第2次世界大戦後、再びスターリニスト政党に再加入。

(2)フレーリヒ、パウル(1884-1953)……ドイツ共産党の創始者の一人。後にブランドラー派となり、1931年にヴァルヒャーとともにブランドラー派と分裂し、社会主義労働者党に。ローザ・ルクセンブルクに関する著作をはじめ、多くの著作を残す。

(3)ザイデヴィッツ、マックス(1892-?)……ドイツ社会民主党の左派で、1931年10月に社会民主党から離脱し、社会主義労働者党(SAP)を創設。その後、SAPから離れ、1933年にスウェーデンに亡命。第2次大戦後、東ドイツの党および政府の中でいくつかの重要なポストに就いた。


  

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