ファシズムと民主主義的スローガン

トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄

【解説】本論文は、ヒトラー勝利後のドイツにおける民主主義的スローガンの政治的意義を明らかにしている。この論文の中でトロツキーは、ファシズムが民主主義に対する大衆の幻想を解体するのではなく、逆にそれを大いに強化すると述べている。そして、「民主主義的スローガンを避けて通ることによっては、闘争そのものが発展しえない。この段階を飛び越えようとする革命党は自分の首をへし折ってしまうだろう」と述べている。

 また、トロツキーは、ドイツにおいてファシズム崩壊後に長期にわたる民主主義の発展期はありえないと述べているが、実際の歴史は、今日まで及ぶ長期の民主主義時代がドイツに存在しえたことを示している。この点でのトロツキーの歴史的判断は誤っていた。

 英語訳の初出は、『ミリタント』1933年8月26日号。邦訳の初出は『トロツキー著作集 1932-33』下(柘植書房)。今回アップするにあたり、英語の底本にもとづいて全面的に修正を加えている。

Translated by the Trotsky Institute of Japan


   1、ヒトラーが「民主主義の偏見」を破壊したというのは本当か?

 共産主義インターナショナル執行委員会総会の「ドイツの現状」に関する4月決議は、エピゴーネンたちのコミンテルンの破産を示す最終的な証拠として歴史に入るだろう。この決議がかかげる予測は、スターリニスト官僚のあらゆる罪悪と偏見がその頂点に行き着いたことを示している。決議は次のことを、太字で強調しながら宣言している。「公然たるファシスト独裁の確立は、民主主義に対する大衆のあらゆる幻想を破壊し、彼らを社会民主主義の影響から解放することによって、ドイツにおけるプロレタリア革命の発展テンポを加速している」。

 ファシズムは、思いがけずも、歴史の機関車になったかのようだ。それは民主主義に対する幻想を破壊し、大衆を社会民主主義の影響から解放し、プロレタリア革命の発展を加速しているのだから。スターリニストは、自分たちが解決する能力のまったくなかったこれらの基本的課題の遂行を、ファシズムに担わせているのである。

 理論的に言えば、ファシズムの勝利は疑いもなく、民主主義が使い果たされてしまったという事実を証明するものである。しかし政治的には、ファシスト体制は民主主義に対する偏見を温存し、再生し、それを青年に吹きこんでいる。しかも、短期間とはいえ、この偏見に最大の力を与えることさえできる。それこそがまさに、ファシズムの反動的な歴史的役割の最も重要な表現の一つである。

 教条主義者は図式主義的に思考する。大衆は事実に即して考える。労働者階級は諸事件を、あれこれの「テーゼ」の実験として理解するのではなく、人民の運命にかかわる現実的な変化として理解する。ファシズムの勝利は、そこから生じる遠い未来についての予測よりも100万倍大きな影響を現実の政治的発展に及ぼす。もし民主主義の破産の中からプロレタリア国家が立ち現れていたならば、社会の発展のみならず大衆の意識の発展も飛躍的に促進されただろう。しかし実際には、民主主義の破産の中から生まれたのはファシズムの勝利だった。そのために大衆の意識は、もちろん一時的にだが、大きく後方に投げ返された。ヒトラーによるワイマール共和国の粉砕が大衆の民主主義的幻想に終止符を打つことなどけっしてありえない。それはゲーリングによる国会放火によって、議会主義的クレティン主義が焼け落ちることがありえないのと同じである。

 

   2、スペインとイタリアの例

 われわれはこの4年間、民主主義とファシズムは互いを排除しあうのではのでなく、相互に補完し合っているのだと聞かされつづけた。ではなぜファシズムの勝利は、民主主義を永遠に片づけることなどできたのだろうか? その点について、ブハーリン、ジノヴィエフあるいはマヌイリスキー(1)「自身」に説明してもらいたいものだ。

 プリモ・デ・リベラ(2)の軍・警察独裁は、コミンテルンによって、ファシズムであると規定された。しかし、ファシズムの勝利が民主主義的偏見を最終的に解体するのだとすれば、プリモ・デ・リベラの独裁がブルジョア共和制に道を譲ったというのはどのように説明できるだろうか? たしかに、リベラ体制はおよそファシズムではなかった。しかし、いずれにせよ、それは多くの点でファシズムと共通している。それは議会主義体制の破産の結果として登場した。ところがこの体制は、自らの破産が明らかになった時、民主主義的議会体制に道を譲ったのである。

 次のように言う者がいるかもしれない。スペイン革命はプロレタリア的傾向をもっていたが、社会民主主義が、他の共和派と手を組んで、その発展をブルジョア議会主義の段階にとどあることに成功したのだと。この反論はそれ自体としては正しいが、それはわれわれの考え方の正しさをより明確に証明しているにすぎない。すなわち、ブルジョア民主主義がプロレタリアートの革命を麻痺させるのに成功したのは、民主主義の幻想が「ファシスト」独裁体制のくびきのもとで、弱まったのではなく、強まったからにほかならない

 ムッソリーニの専制の10年間に、イタリアで「民主主義の幻想」は消滅しただろうか? ファシストたち自身は事態をそのように描き出したいと思っている。しかし実際には、民主主義の幻想は、新たな力を獲得しつつある。この期間に新しい世代が形成された。彼らは政治的には自由というものを経験したことはないが、ファシズムが何であるのかについては十分に知っている。これこそが俗流民主主義の素材である。イタリアで「正義と自由(Giustizia e Liberta)」(3)という組織が、非合法の民主主義的文献を配布しているが、それは一定の成功を収めている。それによって民主主義の思想は、自己を犠牲にする決意をもった支持者たちを見い出しつつある。自由主義的君主主義者スフォルツァ伯爵の無気力な理論さえ、非合法のパンフレットの形で普及している。イタリアはこれほどまでに、過去へと投げ戻されたのである!

 ドイツのファシズムがなぜ、イタリアのファッズムが果たしたのと正反対の役割を期待されているのか、あいかわらず不明なままである。「ドイツはイタリアではないから」なのか? 勝利したファシズムは実際には歴史の機関車ではなく、巨大なブレーキである。社会民主党の政策がヒトラーの勝利を準備したのとまったく同様に、国家社会主義の体制は、不可避的に民主主義の幻想を準備する。

 

   3、社会民主主義は再生できるか?

 ドイツの同志たちは、社会民主党の労働者ばかりか、多数の社会民主党の官僚までが民主主義に「幻滅」していると証言している。われわれは改良主義的労働者の批判的な気分を、彼らの革命的教育のために最大限利用しなければならない。しかしながら、改良主義者の「幻滅」の程度については、はっきりと理解しておかなければならない。社会民主党の高僧たちは、自己を正当化するために、民主主義をののしっている。この紳士たちは、自分たちが卑しむべき臆病者であり、自らが作った民主主義を守るために、あるいはその中での快適な仕事を守るために闘争する能力を持っていないということを認めたくないので、非難のほこ先を、自分自身から抽象的な民主主義に転嫁しているのである。この急進主義は、安直であるだけでなく、徹頭徹尾まがいものである! ブルジョアジーが、この「幻滅した」連中を小指で手招きするだけで、彼らは4つんばいになって、ブルジョアジーとの新しい連合へ駆けつけるだろう。たしかに、社会民主党の労働者大衆の中に、民主主義の裏切りや幻影に対する真の嫌悪感が芽生えている。しかしどの程度だろうか? 700〜800万の社会民主主義労働者の大部分は、最大の混乱、陰鬱な受動性、勝者への屈服という状態にある。それと同時に、ファシズムのかかとの下で、新しい世代が形成されるだろう。この世代にとっては、ワイマール憲法は歴史的伝説となるだろう。その時、労働者階級の内部における政治的結晶化は、どのような線に沿って進むだろうか? これは多くの条件に依存しているし、その条件の中にはもちろん、われわれの政策も含まれる。

 歴史的に見れば、ファシスト体制が直接に労働者国家に取って替わられる可能性も排除できない。しかし、この可能性が現実化するためには、ファシズムとの闘争の過程で、強力な非合法の共産党が形成され、その指導のもとでプロレタリアートが権力を奪取することが可能にならなければならない。しかしながら、非合法下でそのような革命党をつくることがそれほど現実的であるわけではないと言わなければならない。いずれにせよ、このことを前もって保証するものは何もない。大衆の不満、憤激、騒擾は、ある一定の時点から、革命的前衛の非合法的形成よりもはるかに急速に進むだろう。そして大衆の意識にいかなる明確さも与えられていないことは、不可避的に民主主義にとって有利に働くだろう。

 だからと言って、ドイツがファシズムの打倒のあと、長い時間をかけて、もう一度議会主義の学校を卒業しなければならないわけではない。ファシズムは過去の政治的経験を根こそぎにはしない。ましてや国家の社会的構造を変化させることはできない。ドイツにもう一度、長期にわたる民主主義の発展期があると予想するのは最大の誤りであろう。しかし、大衆の革命的覚醒においては、不可避的に民主主義的スローガンがその第1章を占めるだろう。たとえ一般に闘争のさらなる前進が民主主義国家の再生を1日たりとも許さないとしても――そしてその可能性は大いにある――、民主主義的スローガンを避けて通ることによっては、闘争そのものが発展しえない。この段階を飛び越えようとする革命党は自分の首をへし折ってしまうだろう。

 社会民主党の問題は、こうした全般的な展望と密接に結びついている。それは再び歴史の舞台に登場するだろうか? この旧組織はあとかたもなく消えてしまった。しかしこのことは、社会民主党が新しい歴史的仮面の下で再生しえないということをけっして意味しない。反動からの攻撃によっていとも簡単に崩壊し解体する日和見主義者の党は、最初の政治的活性化が見られるやいなや、いとも簡単に復活するだろう。われわれはこの例をロシアにおけるメンシェヴィキと社会革命党に見た。ドイツ社会民主党は復活することができるだけでなく、――もし革命的プロレタリアートの党がこの問題に対する弁証法的なアプローチに反対して民主主義のスローガンを教条主義的に「否定」するならば――巨大な影響力を獲得することさえできるだろう。コミンテルンの幹部会はこの分野においても、他の多くの分野と同じく、不必要に改良主義を手助けしつづけている。

 

   4、ブランドラー派によるスターりニストの改良

 民主主義的スローガンの問題をめぐる混乱が最も深刻な形で現われているのは、ブランドラー=タールハイマーの日和見主義グループによる反ファシズム闘争の綱領的テーゼである。このテーゼによると、共産党は「ファシスト独裁に対する、(!)階級の不満の表われを結合すべきである」(『流れに抗して(Gegen den Strom)』、7頁。原文では「全」に強調が付いている)。その一方で、このテーゼは一貫して「部分的スローガンはブルジョア民主主義的性格ではありえない」と警告している。この2つの文はどちらも間違っているのだが、両者のあいだには解決不能の矛盾がある。まず第1に、「全階級」の不満を結合するという定式は、まったく信じがたいものである。ロシアのマルクス主義者も、ツァーリに対する闘争の中で、かつてはこのような定式を用いたことがある。この誤った定式からメンシェヴィキ的な革命概念が生まれ、それがのちにスターリンによって中国に適用された。しかし少なくともロシアでは、それはブルジョア国家と特権的な君主制との衝突という問題があった。だが、ブルジョア国家の中で、プロレタリアートに矛先を向けた大ブルジョアジーの道具であるファシズムに対する「すべての階級」の闘争というのは、いったいどういう意味を持つというのか? 理論的ガラクタを製造する職人としてのタールハイマーが、フーゲンベルク(4)の不満――彼も不満を持っている――と失業労働者の不満とをどのようにして結合するというのか? 後学のためにぜひ知りたいものだ。そして、ブルジョア民主主義に立脚する以外に、「全階級」の運動を結合する方法があるだろうか? まさに日和見主義と言葉上のウルトラ急進主義との古典的組み合わせだ!

 ファシズム体制に反対するプロレタリアートの運動は、小ブルジョアジーがファシズムに失望し、有産階級の頂点および政府機構が孤立するにつれて、ますます大衆的な性格を獲得するだろう。プロレタリア党の任務は、小ブルジョア的反動のくびきがゆるむのを利用して、小ブルジョアジーの下層の獲得に向けてプロレタリアートの行動を喚起することである。

 たしかに中間階層の不満の増大と労働者の抵抗の高まりは、有産階級のブロックに亀裂を生み、その「左側」を小ブルジョアジーとの接触へと駆りたてる。しかし有産階級の「リベラル」派に対するプロレタリア党の任務は、彼らをファシズムに反対する「全階級」のブロックに引き入れることではなく、逆に、小ブルジョアジーの下層に対する影響力をめぐって、彼らとの決定的な闘争をただちに宣告することである。

 この闘争はいかなるスローガンのもとで遂行されるのか? ヒトラーの独裁は、ワイマール憲法から直接に生まれた。小ブルジョアジーの代表者たちが、自分たちの手で、ヒトラーに独裁者としての信任を与えたのである。もしファシズムの危機が非常に有利な形で急速に発展すると仮定すれば、追放されたすべての代議士を含めた国会の招集という要求は、ある時期には、労働者と最も広範な小ブルジョアの層とを結合させるかもしれない。もし危機が爆発するのがもっと遅くて、国会の記憶が消え失せるのに十分なだけの時間が経過するならば、新たな選挙というスローガンが大きな支持を得るかもしれない。とりあえずは、そのような道がありうることを理解しておけば十分である。われわれと同盟する小ブルジョアジーや、プロレタトアートの隊列の中の遅れた層がわれわれに、一時的に民主主義的スローガンを強制するかもしれないが、それにわれわれの手を縛りつけるのは、救いようのない教条主義である。

 しかし、ブランドラー=タールハイマーは、われわれが「勤労大衆のための民主主義的諸権利、すなわち集会の権利、労働組合の権利、出版・結社・ストライキの自由」だけを提唱すべきだと信じている。彼らは、自分たちの急進主義をいっそう強調するために、次のようにつけ加える。「これらの要求は、一般的な民主主義的諸権利というブルジョア民主主義的要求とは厳密に(!)区別されなければならない」。超急進主義というナイフを歯にくわえている日和見主義者ほど哀れな者はいない。

 勤労大衆だけに与えられる集会や出版の自由というのは、プロレタリアートの独裁のもとでのみ、つまり、集会所や印刷所等の国有化のもとでのみ考えられる。ドイツにおけるプロレタリア独裁もまた、搾取者に対する例外的な法規を採用しなければならないかもしれない。それは歴史的時期、国際的条件、そして国内的力関係によって決まる。しかしドイツの労働者が、権力を奪取したあとで、自分たちが十分に強力なので、昨日までの搾取者にも集会や出版の自由を認めてもよいとみなす可能性も排除することはできない。もちろんその自由は、彼らの実際の政治的影響力に応じたものであって、財産に応じたものではない――もっともその財産は収奪されてしまっているだろうが。このように、プロレタリア独裁の時期においてさえ、原理的には、集会や出版の自由を勤労大衆だけにあらかじめ限定する根拠はない。プロレタリアートが、そのような限定を設けることを余儀なくされることはありうるが、それは原則の問題ではない。ましてや、今日のドイツの条件下で、つまり、出版や集会の自由がプロレタリアートを除く全階級に与えられている時に、このような要求を掲げるのは二重に馬鹿げている。ファシズムの地獄に対するプロレタリアートの闘争は、少なくともその最初の段階では、「われわれ労働者にも集会や結社の権利を与えよ」という要求のもとで始まるだろう。もちろん共産主義者は、この段階においてもソヴィエト制度のための宣伝を行なうが、同時に、民主主義的スローガンのもとで展開されているすべての真の大衆運動を支持し、可能なところではそうした運動のイニシアチブを取るだろう。

 ブルジョア民主主義体制とプロレタリア民主主義体制とのあいだに、「勤労大衆の民主主義」なる第3の体制などありえない。たしかにスペインの共和国は自らを「勤労諸階級の共和国」であると、憲法の条文においてさえ呼んでいる。しかしこれは政治的ホラ吹きの定式である。とくに「勤労大衆のためだけ」の民主主義というブランドラー派の定式は、とりわけ「すべて階級の結合」という定式と組み合わせられたそれは、最も重要な問題において革命的前衛を混乱させ欺くことを目的として特別に考え出されたもののように思われる。その最も重要な問題とは、「われわれはいつ、どの程度まで、小ブルジョアジーや労働者大衆の遅れた層に自らを順応させるのか、そして、より多くのプロレタリアートをそれ自身の革命的独裁という旗のもとに結集させるためには、当面、運動のテンポやスローガンの問題で小ブルジョアジーや労働者の遅れた層にどのような譲歩をするべきか?」である。

 1918年3月のロシア共産党第7回大会における党綱領をめぐる討論の中で、レーニンはブハーリンに対して断固として闘争した。ブハーリンは、議会制度は完全に終わった、それは歴史的に「使い果たされた」と主張した。レーニンは次のように反論した。

「われわれはブルジョア議会制度の利用を放棄することなく、ソヴィエト権力の新しい網領を書き上げなければならない。われわれが後戻りしないだろうと信じるのはユートピア主義者である。……もし敵階級がわれわれをこの古い陣地に少しでも押し戻すならば、われわれは経験によって獲得したものに向かって、つまりソヴィエト権力に向かって前進するだろう……」。

 レーニンは、すでにソヴィエト制度が樹立された国に対しても教条主義的な反議会主義に反対した。彼はブハーリンに、あらかじめ自分の手を縛ってはならないことを教えた。われわれが一度は投げ捨てた制度に押しもどされることがありうるからである。ドイツではプロレタリア独裁は存在しないし、存在したこともない。あるのはファシズムの独裁である。ドイツはブルジョア民主主義からさえも投げ戻されたのである。このような条件のもとで、民主主義的スローガンやブルジョア議会制度の利用をあらかじめ放棄することは、社会民主主義の新たな形成に向けて道を掃き清めることを意味する。

1933年7月14日

『トロツキー著作集 1932-33』(パスフィンダー社)所収

『トロツキー著作集 1932-33』下(柘植書房)より

  訳注

(1)マヌイリスキー、ドミートリー(1883-1959)……ウクライナ出身の革命家、古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。1903年以来のボリシェヴィキ。1905年革命に積極的に参加。逮捕され、流刑されるも、途中で脱走。1907-12年、フランスに亡命。1912-13年、非合法活動のためロシアに戻る。その後再びフランスに亡命。第1次大戦中は『ナーシェ・スローヴォ』の編集者の一人。1917年にロシアに帰還し、メジライオンツィ7に。その後、ボリシェヴィキに。1918年、ウクライナ・ソヴィエトの農業人民委員。1922年からコミンテルンの仕事に従事。1928年から43年までコミンテルンの書記。1931年から39年まではコミンテルンの唯一の書記。「第三期」政策を積極的に推進。スターリンの死後に失脚。キエフで死去。

(2)778. プリモ・デ・リベラ、ミゲル(1870-1930)……スペインの軍人、独裁者。1923年、カタロニア軍管区総司令官のときに、国内の不安定化に乗じてクーデターを遂行。軍人から成る執政政府を樹立。1930年、世界恐慌下で財政政策に失敗して失脚。その息子、ホセ・アントニオは、ファシスト政党「フェランヘ党」を結成。

(3)「正義と自由」……1929年にパリで結成されたイタリアの反ファシスト組織。その指導者の1人は、『リベラル社会主義』の著者であるカルロ・ロッセリ。この運動は1943年に他のグループと合流して、行動等を結成し、第2次大戦末に積極的にパルチザン戦に加わった。

(4)フーゲンベルク、アルフレート(1865-1951)……ドイツの大銀行家、大資本家、右派政治家。1909〜1918年、クルップ製鋼の重役。1916年以降、約150社に及ぶフーゲンベルク大コンツエルンを結成。1919年より国家人民党議員。ワイマール共和国に反対し、1928年に国家人民党の党首となり、ヒトラーと同盟を結んだ。1933年1月30日、最初のヒトラー政権の経済相になったが、1933年6月に解任。 


  

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