破局に向かう日本

トロツキー/訳 西島栄

【解説】本稿は、日本帝国主義による侵略の冒険主義的性格と日本社会の構造的脆弱さについてかなり体系的に述べた論文である。トロツキーによる日本論はあまり多くないが、その中でこの論文は最も詳しく日本について論じたものだということができるだろう。この論文の意義については、『トロツキー研究』第35号の特集解題「トロツキーの日本論」を参照にしていただきたい。

Л.Троцкий, Япония движется к катастрофе, Бюллетень Оппозиции, No.38/39, 1933.

Translated by the Trotsky Institute of Japan


※原注 L・D・トロツキーのこの論文は、世界のブルジョア報道機関向けに半年以上前に書かれたものであり、それ以来、十数ヶ国の新聞雑誌に掲載された。読者にとって明らかなように、極東における情勢からして、この論文はそのアクチュアリティを完全に保持している。――『反対派ブレティン』編集部

 

   1、不敗神話

 日本の支配階級は疑いもなく目のくらむような状況にある。彼らは、未曽有の内的困難からの活路を、対外的な略奪と脅迫と暴力の政策に求めてきた。そしてそれはすべてうまくいった。国際条約は陵辱された。独立国家の創設という外観のもと、広大な国[満州]が併合された。国際連盟は、誰にとっても必要ではない報告書の山を築いてきた。アメリカは慎重に沈黙を守っている。ソヴィエト連邦は譲歩しつつある。あたかも日本が本当に不敗であり、その元首がアジア大陸のみならず、全世界を支配すべく運命づけられているかのようだ。しかし、本当にそうなのか?

 40年足らず前に、この小さな島国は巨大な中国を陸と海で打ち破った[1894年の日清戦争のこと]。全世界が驚愕した。下関講和条約が調印された14日後に、ドイツの有名な地理学者リヒトホーフェン(1)は、日本が「対等の地位」を獲得し、列強諸国の一員にのしあがったと記した。10年後にはさらに大きな奇跡が起きた。日本は帝政ロシアを完全に打ち負かしたのである。このような結果を予測した人はごくわずかだった。その少数の人々の中には、何よりも、ロシアの革命家たちが入る。しかしその当時、誰が彼らの言うことを関心を払っただろうか? 2つの隣国――合わせると日本の十倍の人口を持つ――に対する日本の勝利が、文明国人にとって意外なものであればあるほど、それだけこの島国帝国の地位は高まった。

 世界大戦への日本の参加は、極東および部分的には地中海における大規模な警察的行動以上のものではなかった(2)。しかし、日本が戦勝国の陣営にいたという事実は、それに伴う大量の戦利品とあいまって、日本の支配階級の民族的うぬぼれをいっそう高めることとなった。戦争の当初に中国につきつけた「21ヶ条の要求」――日本自身が屈辱的な条約から解放されてからわずか15年後のことである――は、日本帝国主義の牙を完全に剥き出しにしたものだった。

 田中将軍(3)のメモ(1927年)は彼らの完成された綱領であり、その中では民族的野望が、最も目もくらむような誇大妄想にまで高められている。驚くべき文書だ! 公式には否定されているが、そのことはこの文書の説得力をいささかも弱めるものではない。このようなテキストをでっち上げることは不可能である。いずれにせよ、この2年間の日本の外交政策は、この文書の信憑性を反駁の余地なく証明している。

 満州の征服は、空軍と爆撃の支援のもと、比較的少数の部隊によって遂行された。日本は、何度かに分けて、満州に4個ないし5個師団を集結した。兵員数はせいぜい5万人足らずである。この作戦は戦争というよりも、軍事演習に近かった。しかし、それだけにいっそう東京の参謀本部の「威信」が高まったのである!

 しかしながら、日本の軍事的不敗性というのは、敬虔な神話であり、それはたしかにまったく現実的な果実をもたらしたけれども、結局のところは、現実にぶつかって砕け散るしかない。日本は今までのところ、先進諸国と力試しをする機会を一度も持ったことがない。日本の成功は、それ自体いかに輝かしいものであったとはいえ、後進国がさらに遅れた後進国よりも優位であったことを示すものにすぎない。相対性原理は軍事問題でも有効なのである。ツァーリの帝国にも、成功に次ぐ成功を収めていた時期があった。それは辺鄙なモスクワ公国から出発して、2つの大陸にまたがり、大西洋から太平洋におよぶ、最も巨大な国家になった。ツァーリの軍隊もまた、あらゆる教科書に不敗であると説明されていた。しかし実際には、旧ロシアは、まだ半農奴的な農民にもとづいており、それが自力の勝利をかちとったのは、中央アジアとカフカースの「蛮族」や、シュラフタ[封建貴族]支配下のポーランドやスルタン支配下のトルコのように内部から腐敗しつつあった国家に対してだけであった。総じて、フランス大革命の開始以降、ツァーリの軍隊はもろく鈍重な無気力さの権化であった。たしかに1907年から1914年にかけて、愛国的ドゥーマ[国会]の積極的な協力によって、陸軍と海軍は本格的に改革され強化された。しかし世界大戦による試練は、苦い幻滅をもたらした。ロシア軍は、オーストリア=ハンガリーの遠心的な軍隊と対峙した時だけ、戦術的成功を収めることができた。しかし、戦争全体としては、ロシア軍はまたしてもその完全な破産をさらけ出した。

 軍隊の実力を示す比較係数は、その「民族」の何らかの不変的な資質にもとづいているのではなく、生きた社会的・歴史的諸要素を個々の具体的な状況の中で組み合わせたものである。その諸要素とは、その国の天然資源、経済発展の水準、階級間の相互関係、そして軍隊そのものの内的資質――兵士、将校団、武器弾薬、司令部――などである。こうした観点にもとづいて数字の言葉に翻訳してみるならば――もちろん、これは一つの考えを例証するためのものにすぎず、正確な計算ではない――、次のように言うことができるだろう。1914年のロシア軍と1904〜1905年のロシア軍との戦闘能力の比は少なくとも3対一であった。しかし、それでもドイツ軍と比べるとおよそ一対3にすぎなかった。日本軍が今世紀初頭のツァーリの軍隊よりも2倍ないし3倍まさっていたとしても、今日の先進諸国の軍隊より数倍は劣っているのである。

 日本は、疑いもなく、ロシアとの戦争以降、その軍備を世界の技術水準に保っておくのに必要な経済的・文化的発展を遂げてきた。しかしこの基準それ自体はいちじるしく人を欺くものである。真の軍事力は、パレードで誇示される武器や、武器庫に貯蔵されている兵器によってではなく、国の工業生産力に内包されている潜在力によって規定される。日本の工業は、大戦中にいちじるしい発展を遂げたが、結局、戦後恐慌の到来によってはるか後方に投げ返された。日本の軍国主義は戦時好況の幻想にしがみつき、経済の衰退を無視して、国家予算の半分を食いつぶしている。一方における日本軍国主義と国民経済との相互関係、他方における日本の工業とその潜在敵国の工業との相互関係は、将来の戦争においてどちらに勝算があるかに関して、決定的とは言えないまでも、非常に重要な指標を提供している。そして、この指標は日本にとって、極度に不利である。

 田中の報告によると、事態の論理からしてもそうだが、天皇の帝国の前には2つの戦争が日程にのぼっている。ソヴィエト連邦に対する戦争とアメリカ合衆国に対する戦争である。前者は最も巨大な大陸を、後者は最も巨大な大洋を舞台とする。どちらの戦争も、広大な空間にわたる作戦が必要であり、したがって長期の期間を必要とする。しかし、戦争が長期化すればするほど、常備軍に対する武装した人民の優位性、武器庫と軍需工場に対する工業全体の力の優位性、そして戦略的駆け引きに対する文化と経済の基本的事実の優位性がますます大きくなる。

 日本の国民所得は、住民1人あたりに換算すると、175円にすぎない。これは、アメリカを度外視しても、ヨーロッパ諸国の数分の一である。そしてソ連と比べてもせいぜい3分の2である。日本の工業は基本的に軽工業であり、後進的である。織維労働者が全労働者の51%以上を占めている。それに対して金属、機械製造の労働者は19%でしかない。アメリカの1人あたり鉄鋼消費量は260キロである。西ヨーロッパ諸国では111キロ、ソ連では35キロ以上だが、日本は29キロ以下である。現代の戦争は金属の戦争である。満州が日本の工業に大きな展望を開いていることは認めよう。しかし、大きな展望には、大きな資本と長大な期間を必要とする。だが、われわれが論じているのは、現在の状況であり、それは、今後数年間に根本的に変化することはない。しかも、戦争を戦うのは人間であって、機械ではない。あらゆるデータが示唆するところでは、日本の人的資源も物的資源と比べてそれほどましではない。

 日本の軍隊は、全面的に旧プロイセン軍のモデルにもとづいて建設されたが、旧ホーエンツォレルン軍の内的欠陥のすべてを誇張された形で受け継いでいるが、その長所はまったく持っていない。かつてビスマルク(4)は、プロイセン軍の軍規を引き写すことはできるが、プロイセン軍の中尉を模倣することはできないと言った。プロイセン軍の兵士を模倣することはさらにむずかしいことだ。

 日本の人民大衆の極度に低い生活水準は、軍事力に対しても罰なしにすませない。日本では結核をはじめ、栄養不良を原因とするあらゆる疾病がはびこっている。死亡率は他のどの先進国よりも高く、しかも年々上昇している。現代の戦争では、単に集団で死にゆく決意だけではなく、何よりも個人の忍耐力、運動技術、精神力が必要とされる。日本に中国とロシアに対する勝利をもたらした資質は、古い日本の美徳であった。新しい中央集権的組織が、封建的従順さを軍隊の規律へとつくり変えたのである。日本の軍隊には、個人のイニシアチブ、創意、自分の責任において決定を行なう能力などの資質が欠けているし、それを獲得する機会もない。封建的軍国主義体制は、個性の発展を促進することはできなかった。抑圧された貧しい農村からだけでなく、また、女性と子供を主力とする繊維産業を中心とする工業からも、現代技術の水準に見合う資質をもった兵士を生み出すことはできない。大規模な戦争はいやおうなく、この事実を明らかにするだろう。

※  ※  ※

 この短い分析の目的は、日本との戦争が容易であるとか、日本と協定を結ぶのは愚かだということを示すことではまったくない。日本に対するソヴィエト政府の極端なまでに平和愛好的な政策――しばしばあまりにも妥協的にも見える――を、われわれは基本的には正しいと考える。しかし、戦争と平和の問題は、ことがらの本質そのものからして、一方の陣営にのみ左右されるのではなく、両陣営に依拠している。平和政策は、好戦的政策と同様、力量の現実的計算にもとづかなければならない。この点では、日本の不敗性なる神話は、国際関係においてはなはだしく危険な要因となっている。20世紀初頭においても、ペテルブルクの宮廷側近グループの愚かな自己過信が軍事衝突へと導いた。日本の支配グループの現在の気分は、日露戦争前夜におけるツァーリ官僚たちの気分と酷似している。

 

   2、戦争と革命

 1868年――ロシアの農奴解放とアメリカの南北戦争のすぐあと――に始まった日本の改革期[明治維新]は、支配階級の自衛本能による反射作用であった。これは一部の歴史家が言うような「ブルジョア革命」ではなく、ブルジョア革命を買収しようとする官僚の試みであった。はるかに短期間で西洋諸国の歴史的過程を駆けぬけた後発国ロシアでさえ、イワン雷帝(5)治下での封建的孤立状態を一掃してから、ピョートル大帝(6)による西欧化を経て、アレクサンドル2世(7)による最初の自由主義改革に至るのに、3世紀を要した。いわゆる明治時代は、ロシアにおける3つの大発展期の基本的特徴を、わずか数十年の期間のうちに凝縮した。このような強行されたテンポでは、すべての分野における文化の均等的発展など問題になりえない。日本は近代技術の実践的成果――とくに軍事的成果――を求めて突っ走っているが、イデオロギー的には、依然として中世の深い底にいる。エジソンと孔子との結合が、日本のあらゆる文化に刻印を押している。

 日本人は「その本性からして」、模倣することしかできず、独自の創造力がないという主張は非常によく見かけるが、それは反駁するにも値しない。あらゆる後発諸民族は、若い職人や作家や画家と同じく、模倣から始める。これは学習の一形態である。とはいえ、今日、いずれにせよ、日本における知的生活の全領域を特徴づけているのは模倣的経験主義である。日本の政治家の力はシニカルな現実主義の中にあり、普遍的理念にかけては極端なまでに貧困である。そして、まさにここに彼らの弱点がある。近代国家の発展――日本を含む――を支配している諸法則というものを、彼らはまったく理解していない。田中の綱領的文書は何よりも、問題の経験的側面に対する洞察力と、歴史的展望に対する無知蒙昧さとが組み合わさっているという点で、驚くべきものである。田中は明治天皇の「遺訓」なるものを征服のための「神聖なる綱領」とし、それを出発点に、人類の今後の発展を日本の領土の螺旋的拡張として展望している。この同じ目的を正当化するために、荒木陸軍大将(8)は、天皇の宗教である神道の道徳的原理なるものを利用した。このような知的構造をもった連中が、一定の条件の下で、度はずれた成功を収めることができたとすれば、彼らはまた、この国を最大級の破局へと投げ込むこともできるだろう。

 近代国家の中で、革命――場合によっては一連の革命――を経ることなしに形成された国は一つとしてない。ところが、近代日本は、宗教改革も、啓蒙の時代も、ブルジョア革命も、民主主義の実地の訓練もまったく経験していない。ある段階までは、軍事独裁体制は若い日本資本主義に大きな利点をもたらした。対外政策における統一性を保証し、また、国内における苛烈な秩序を保証した。しかし今や、封建制の強力な遺物は、この国の発展にとっての恐るべきブレーキとなっている。

 農民に対する封建的束縛はまったく手つかずのまま維持されているだけでなく、市場と国家財政からの要求に押されて異常に強化された。小作農は地主に対して、年に約7億5000万円[約1億5000万ドル]も支払っている。この金額を正しく評価するためには、人数的に日本の2・5倍いたロシアの農民が地主に支払っていたのは約5億ルーブル[約2億5000万ドル]以下であったと言えば十分である。ところがその小作料ですらロシアのムジークたちを憤激させ、巨大な土地革命に立ち上がらせるのに十分だったのである。

 農奴制的因習は農業から工業へと引き継がれ、一日11時間〜12時間の労働時間、タコ部屋、みじめな低賃金、雇用主への隷属が工場を支配している。水力発電所や飛行機があるにもかかわらず、あらゆる社会的諸関係には中世的精神が骨の髄まで浸透している。日本には今日でもまだパーリア階層がいると言えば十分だろう!

 歴史的条件のせいで、日本のブルジョアジーは、中世的農奴制の結び目を断ち切る以前に、侵略的対外政策に突き進んだ。ここに日本の主要な危険性がある。軍国主義の建造物が、火山のような社会の上にそびえ立っているのである。

 ツァーリズムの崩壊において――天皇の顧問たちは、それがどのようにして起きたのかをよく学ぶべきだろう――、旧ロシアの人口の約53%を構成する被抑圧民族が巨大な役割を果した。日本の民族的同質性は同国にとって大きな利点であったかもしれない。ただしそれは、もし日本の経済と軍隊が台湾、朝鮮、満州に依存していなければの話である。日本人の数は6500万人であるにもかかわらず、満州も含めると、今や5000万人の抑圧された朝鮮人、中国人がいる。この強力な革命予備軍は、戦時には体制にとって特別に危険なものとなるだろう。

 小作農のストライキ、農村におけるテロル、農民と労働者との共闘の試み――以上は革命の確かな徴候である。これ以外にも、それほど顕著ではないが、それでも同じぐらい説得力のある徴候が、いくらでも存在している。国家官僚と将校層を輩出しているインテリゲンツィア階層の中の不満。非合法の組織があらゆる大学や学校に支部を持っている。ブルジョアジーは軍部にいらだっているが、彼らに依存している。将軍連中は、その同盟者たる資本家たちにどなりちらしている。誰もが他の者に不満なのである。

 職業軍人たち――サムライの子孫ないしその模倣者――は、ドイツの国家社会主義の精神にのっとったデマゴギー的スローガンのもとに反乱農民との結びつきを求めている(9)。しかしそのような結びつきは欺瞞的であり不安定なものである。サムライは過去に戻ろうとする。農民は農地改革をめざしている。大規模な戦争になれば、職業軍人は、インテリゲンツィア出身の急ごしらえの予備役将校層の大群によって押しのけられるだろう。そして、この層から、農民および軍隊そのものの革命的指導者が現われるだろう。陸軍について以上述べたことはすべて、海軍にもあてはまる。しかも、はるかに先鋭な形で。戦艦という鉄の箱の中では、封建的遺物は並外れた爆発力を持つ。1905年と1917年のロシア革命、1918年のドイツ革命を思い起こせば十分だろう!

 要約しよう。日本は、大戦争の際に敵国になりうるどの国よりも経済的に脆弱である。日本の工業は、数百万人の軍隊に、何年にもわたって武器弾薬を供給しつづけることはできない。平時でさえ軍国主義の重荷を支えることができない日本の金融システムは、大戦争が始まったとたんに完全に崩壊するだろう。日本の兵士は、全体として、新しい技術と新しい戦略の要件を満たしていない。住民は体制に対して深い敵意を抱いている。征服という目標では、分裂した国民を結束させることはできないだろう。動員によって、数十万の革命家ないしその予備軍が軍隊に流入するだろう。朝鮮、満州、およびその背後に控えている中国は、日本の支配に対する非和解的な敵意を行動によって示すだろう。この国を構成する社会的繊維はボロボロになった。かすがいはガタガタになっている。軍事独裁という鉄のコルセットを着ていると、公式の日本はまだ強力であるように見える。しかし、戦争は容赦なくそのような神話を一掃してしまうだろう。

 われわれは、これと比較してソ連の赤軍の資質がいかなるものかについては何も述べていない。これは独自に検討すべきテーマである。しかし、両者の実際の力関係に明らかに反して日本に有利な想定を行ない、両者の物的資源が対等であると仮定したとしても、士気という要因に関して深刻な格差が存在する。歴史が物語っているように、軍事的敗北は革命をもたらす。だが、歴史は同時に次のことも教えている。すなわち、革命の勝利は、人々を覚醒し、その精神を打ち鍛え、人々に戦場において巨大な原動力を与えるということを。

 両国の人民および人類文明全体の利益のために、われわれは、日本の軍国主義者たちが自己の運命に身をまかせることがないよう期待しよう。

1933年7月12日

『反対派ブレティン』第38/39号

『トロツキー研究』第35号より

  訳注

(1)リヒトホーフェン、フェルディナンド(1833-1905)……ドイツの地理学者。1868〜72年、カリフォルニア、そして中国本土の調査旅行を行ない、日本にも来る。その結果を『中国』(全7巻)にまとめた。またユーラシアの東西交通路を「ザイデンシュトラーセン(シルクロード)」と名づけた。

(2)日本は第1時大戦勃発直後にドイツに宣戦布告し、極東地域のドイツ領を占領するとともに、1916〜17年に、協商国列強との秘密協定を結んだ。その協定によると、ドイツに対する軍事的行動の一環として、地中海を含む地域で軍事行動をすることになっていた。日本軍はその協定にしたがって、地中海に艦隊を派遣した。

(3)田中義一(1864-1929)……日本の軍人(大将)、政治家。1894年の日清戦争に従軍。1898〜1902年、ロシア留学。1904年の日露戦争では満州軍参謀として従軍。1910年、少将。1915年、中将。1918年、シベリア出兵を指導。1920年、男爵。1921年、大将に。1923年、原敬内閣の陸軍大臣。1925年、立憲政友会の総裁。1927年に首相になり、治安維持法を改悪して、3・15、4・16事件によって共産党を弾圧。外交では強力な侵略推進政策を強行。3次にわたる山東出兵を実施。ここでトロツキーが言及している田中メモは、1927年に天皇に提出した上奏文のことで、東京裁判で偽書と判定された。この文書は、日本帝国主義の侵略の段階を追った詳細な計画の概要を示したもので、満州に対する日本の支配から始まり、やがて全中国、インドネシア、南海諸島、ソ連邦の沿海州の支配に、そして最後にはインドと太平洋沿岸全域に及び、ヨーロッパに対する日本の最終的な支配にまで行き着くことになっていた。

(4)ビスマルク、オットー(1815-1898)……ドイツの政治家。1862年にプロイセンの首相となり、「鉄拳宰相」として強権でもってドイツ統一を推進。1871年から1890年までドイツ帝国の宰相。

(5)イワン雷帝(イワン4世)(1530-1584)……ロシアの皇帝。在位1547-1584。その残忍さで有名。皇帝就任後、改革を断行し、抵抗する貴族を容赦なく弾圧。対外侵略も積極的に行ない、カザン、アストラハンを併合。

(6)ピョートル大帝(ピョートル一世)(1672-1725)……ロシアの皇帝(在位1682-1725)。軍隊を強化し、領土拡大に努めるとともに、西欧的改革を断行。官僚制度を確立し、貴族の不満分子を仮借なく弾圧。皇太子をも処刑。農奴制を強化し、ロシア絶対主義を確立。

(7)アレクサンドル2世(1818-1881)……ロシアの皇帝(在位1855-1881)。1860年代にブルジョア的改革に着手。1881年に「人民の意志」派によって暗殺される。

(8)荒木貞夫(1877-1966)……日本の職業軍人(大将)、政治家。陸軍内のロシア通として知られ、1918年のシベリア出兵の際には、特務機関長、派遣軍参謀として反革命軍を援助した。1931年に犬養内閣の陸相。精神主義的・反共主義的主張を繰り返し、5・15事件後も内閣に残って、国内体制のファッショ化と対ソ戦争の準備を推進。1933年に陸軍大将。1938年の第1次近衛内閣の文相として、徹底した軍国主義教育を推進。1939年に内閣参議。極東裁判で、A級戦犯として終身刑を宣告されたが、病気を理由に釈放された。

(9)1932年に起こった5・15事件をはじめとする一連のクーデター事件を指している。当時の急進派将校(中尉)は、農本主義をとなえる農民決死隊と結び、農村救済、既成政党の打倒、財閥支配の打倒といったスローガンを掲げていた。


  

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