ヴァンデルヴェルデへの公開状

トロツキー/訳 喜多幡秀夫・西島栄

【解説】これは、コペンハーゲンへの講演旅行に行った帰りに立ち寄ったベルギーのアントワープの港で起きた事件のことを、ベルギーの社会民主主義首相であるヴァンデルヴェルデに問いただした公開状である。トロツキーは、入国どころか、アントワープへの上陸さえ許されなかったことを糾弾しつつ、1922年の社会革命党裁判の際にヴァンデルヴェルデが弁護人としてソヴィエト政府に入国を許されたことを想起して、ヴァンデルヴェルデの言う民主主義の偽善性を容赦なく暴いている。

 なお本稿は、英語版から喜多幡氏が最初に訳し、その訳文を西島が『反対派ブレティン』のロシア語原文で入念にチェックして修正を施したものである。

Л.Троцкий, Открытое письмо, Бюллетень Оппозиции, No.32, Декабрь 1932.

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 何年か前に、あなたは私への公開状を書いた。それは、私の記憶違いでなければ、メンシェヴィキとエスエルに対する弾圧に関するものだった。あなたは、民主主義の原理の名においてボリシェヴィキ全般に常に反対であると書いていた。それはあなたの権利である。あなたの批判が意図した効果を得られなかったとすれば、われわれボリシェヴィキが革命的独裁の原理にもとづいていたためである。

 民主主義の問題についてあなたと同じ考えを持っているはずのロシア社会革命党は、かつて、われわれに対するテロ闘争を展開した。彼らはレーニンを負傷させ、私の軍事列車を爆破しようとした。ソヴィエトの法廷で、あなたは彼らの最も情熱的な弁護人の1人だった。私も一員であったソ連政府は、あなたにソヴィエト・ロシアへの入国を許可しただけでなく、最初の労働者国家の指導者たちの暗殺を企んだ者たちを法廷で弁護することを許可した。あなたはその弁護演説――これはわれわれの新聞にも公表された――の中で、きまって民主主義の原理に訴えた。それはあなたの権利である。

 1932年12月4日、私と同行者たちは、乗り継ぎのためにアントワープ港に入港した。私はそこでプロレタリア独裁を宣伝する意図はまったくなかったし、ベルギー政府によって逮捕された共産党員やスト参加者の弁護人になる意図もなかった。ちなみに、これらの逮捕された人々は、私の知る限りでは、ベルギー政府の指導者の暗殺をけっして企んではいなかった。私の妻を含む同行者の何人かは、アントワープを見て回りたいと思っていた。そのうちの一人は、渡航手続きの問題で現地領事館を訪問する必要があった。しかし全員が、たとえ警備付きという条件でも、ベルギーの土を踏むことを厳格に禁じられた。われわれの船が停泊していた港の区域は、周到に封鎖された。船の両側――左舷と右舷――に警察の警備艇が配備された。われわれの船の甲板から、民主主義の警察官(軍警察と文民警察の両方)の閲兵を見ることができた。実に壮観だった!

 「警官と看守」(簡潔にするために、おなじみの言葉を使うことを容赦されたい)の数は船員や荷役労働者の数より多かった。われわれの船はまるで仮設の刑務所で、船の周辺区域は刑務所の中庭のようだった。警察の責任者がわれわれの書類の写しを取った。われわれはベルギーに入国するわけでもないし、先に言ったように、アントワープに立ち寄ることを許可されたわけでもないのにである。彼は私のパスポートが他人の名前で発行されている理由について説明を求めた。私はベルギーの警察とのいっさいの会話を拒否した。彼らは私と何の関係もないからだ。憲兵将校は私に脅しをかけた。彼は、船の航路がたまたまベルギーの領海を通っただけの者に対して、逮捕する権限を持っていると宣告した! しかし、実際には逮捕されなかったことを言っておこう。

 私の書いていることを、何かの苦情の申し立てと勘違いしないでほしい。いま世界のすべて地域で勤労大衆に対して、とりわけ共産党員に対して、あらゆる卑劣なことが行なわれているときに、このような些細なことで苦情を申し立てるのは滑稽なことだ。しかし、アントワープの事件は、以前のあなたの「公開状」――私は当時、それに回答しなかった――に立ち戻る十分な理由になっているようだ。

 ベルギーを民主主義国に含めることは間違いだったのだろうか? あなたが遂行した戦争は民主主義のための戦争だったはずだ。その戦争以降、あなたはベルギーの大臣として、さらには首相として、一貫して最高の地位に就いている。民主主義を全面的に発展させるのには、これ以上何が必要だというのか。この点では、われわれの間に議論はないと思う。では、あなたの民主主義が古いプロシア流の警察根性の悪臭を放っているのはなぜなのか? 1人のボリシェヴィキが偶然に国境近くに来ただけでこれほど神経質な狼狽を示すような民主主義がどうして、階級闘争を調停し、資本主義から社会主義への平和的な移行を保証することができるなどと考えることができようか。

 私への回答の中で、あなたはおそらくチェカや、ゲ・ペ・ウについて、ラコフスキーの流刑や、そして私自身のソ連追放のことを指摘するだろう。そのような議論は的外れである。ソヴィエトの体制は、民主主義という孔雀の羽で自らを飾り立ててはいない。もし社会主義への移行が、自由主義によって作り出された国家形態の中で可能であれば、革命的独裁は必要でないだろう。

 ソヴィエト体制に関しては、労働者を資本主義と闘争するよう教育することができるかどうか、というように問題を立てるべきである。プロレタリア独裁に対し自由民主主義の形式と儀式に従うように要求するのは見当違いもはなはだしい。独裁はそれ自身の方法と、それ自身の論理を持っており、それは非常に過酷なものである。独裁体制の確立に寄与したプロレタリア革命家が、この論理の犠牲者になることさえある。実際、労働者国家は国際社会民主主義勢力によって裏切られ、孤立させられ、その発展経過の中で官僚機構は強力な力を手に入れた。その力は社会主義革命にとって危険である。その点については指摘されるまでもない。しかし、階級敵の前では、私は独裁を生み出した10月革命に対してだけでなく、今日のソヴィエト共和国に対してさえ全面的な責任を引き受ける。私を国外に追放し、私からソヴィエトの市民権を剥奪した政府を含めてである。

 われわれは資本主義と決着をつけるために民主主義を破壊した。あなたは民主主義の名において資本主義を擁護している。しかし、そんなものがどこにあるのか? いずれにせよアントワープの港にないことだけは間違いない。そこに存在したのは警官と看守と、ライフルを持った憲兵だった。しかし亡命の民主主義的権利は影すら見あたらなかった。

 このような経験にもかかわらず、私はアントワープを離れる際に、どんなわずかな悲観主義とも無縁だった。昼の休憩時間に、港湾労働者たちが船倉から、あるいはドックから、デッキに集まってきた。石炭の粉に厚く覆われた20〜30人の、たくましい、穏やかな顔の、フラマン語圏のプロレタリアートである。警察の阻止線が彼らとわれわれを隔てていた。労働者たちは黙ってあたりを眺めながら、そこにいるすべての人々の様子を観察していた。帽子をかぶった巡査の向こうから、1人の屈強そうな労働者がわれわれにウィンクした。われわれは船のデッキから笑顔で応えた。労働者の間にざわめきが起こった。彼らは、われわれが自分たちの仲間だとわかったのだ。私はアントワープの港湾労働者がボリシェヴィキだとは言わない。しかし、彼らは確かな本能で、自分たちの立場を示したのだ。仕事に戻るとき、彼らはみなわれわれに友好的な笑顔を見せた。多くの労働者が挨拶代わりに、節くれだった指を帽子にあてた。これがわれわれの民主主義だ。

 われわれの船が霧の中を、経済危機のために止まったままのクレーンを通りすぎてシェルデ川を下っていくとき、波止場のあらゆることろから、無名の、しかし誠実な友人たちが「さよなら」と叫ぶ声がいつまでも聞こえた。

 アントワープからフリシンゲンに向かう途中で、これを書き終えるにあたって、私はベルギーの労働者に兄弟としての挨拶を送る。

1932年12月5日

『反対派ブレティン』第32号

『トロツキー著作集 1932』下(柘植書房新社)より


  

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