ソ連経済の新路線

経済的冒険主義とその危険性
トロツキー/訳 志田昇

【解説】この論文は、1928〜29年にソ連政府の経済路線が、それまでの「亀の歩み」路線から極左冒険主義的な工業化路線、強制的集団化路線に転換したことを受けて、そうした極左的な経済的冒険主義の路線を体系的に批判した最初のものである。トロツキーはこの転換の当初、それが左翼反対派の路線に接近する試みであると「評価」していたが(それは主として情報不足のためである)、やがてこの転換が逆の極端に走るものであり、かつての路線以上に、労働者国家と10月革命にとって破滅的なものであることを理解し、その路線に対して全力を挙げて警告を発した。

 トロツキーはこの論文の中でとりわけ、スターリンが強行していた農業集団化について、次のように的確な批判をしている。

「農民の荷馬車と犂とやせ馬の集団化によってクラークをいっきに一掃するという綱領は、理論的いかさまによって味つけされた官僚的冒険主義である」。

 また、このスターリンの極左路線がかつて左翼反対派が主張していたものの実現に他ならないという批判に対して、トロツキーは次のように反論している。

「われわれは、官僚が1928年に至るまで行なっていたよりも、はるかに広範かつ大胆に工業化の可能性を評価していた。しかし、われわれが工業化の資源を無制限のものと見なしたり、そのテンポを官僚の鞭によってのみ左右されるものと見なしたことは一度もない。工業化の基本条件として、われわれは常に労働者階級の状態を系統的に改善する必要性を提起してきた。集団化をわれわれは常に工業化に依存するものと見なしていた。われわれは農業経営の社会主義的改造を、まさに数十年の展望で考えていた。われわれが一国社会主義建設のはらむ内部矛盾に目を閉じたことは一度もない。都市と農村の間の矛盾を一掃してはじめて、農村の矛盾を一掃することができるのだが、このことは国際革命の枠内でのみ実現可能である。したがって、われわれがスターリンとクルジジャノフスキーに5ヵ年計画の枠内で階級の一掃を要求したことは一度もないのである。われわれが要求したのは、クラークの搾取者的傾向を制限することであり、工業化のためにクラークによる蓄積を計画的に削減することであった」。

 今日なお、スターリンの極左路線をトロツキーないし左翼反対派の路線と、無知ゆえに、あるいは自覚的に混同する議論が見られる。その点で、この論文は、同じテーマを扱ったほかの論文と同じく、解毒剤(アンチド・オト)の役割を果たすだろう。

 なお、今回アップするにあたり、訳注をつけ加えておいた。

Л.Троцкий, Новый хозяйственный курс в СССР: Экономический авантюризм и его опасности, Бюллетень Оппозиции, No.9, Февраль-Март 1930.

Trotsky Institute of Japan


 ソ連における工業発展の成功は、世界史的な意義をもっている。ソヴィエト経済が達成したテンポを評価してみようとさえしない社会民主主義者たちは、軽蔑以外の何物にも価しない。このテンポは、安定したものでもなければ保証されたものでもない。これについては、われわれは後で論じることにしよう。だが、このテンポは、経済の社会主義的方法に秘められた測りしれない可能性の証拠を提供しているのである。

 もし1918年にドイツ社会民主党が革命によって与えられた権力を社会主義的変革のために利用したならば――そしてドイツ社会民主党はその可能性を完全にもっていた――、ソヴィエト・ロシアの経験から見て、今日、中欧と東欧とアジアのかなりの部分を含んだ社会主義圏がどれほどの経済力を持つことになっていたかを理解することは、むずかしいことではない。全世界は違っていたであろう。ドイツ社会民主党の裏切りの代価を人類は、さらなる戦争と革命によって支払うことになるだろう。歴史上これほど大きな犯罪がなされたことはけっしてない。しかしながら、今われわれが検討している対象はこの問題ではない。

 われわれは、社会主義的工業化の可能性について、1925年の初め、すなわちまだ復興期の終わる前に、『社会主義へか資本主義へか』という小冊子の中であらかじめ手短かに分析しておいた。われわれが当時証明したのは、ブルジョアジーから受け継いだすべての設備を使い果たした後でさえ、すなわち社会主義的蓄積にもとづく自立的な拡大再生産へ移行した後でも、ソヴィエト工業は、資本主義にはけっして達成しえない成長率をもたらすことができる、ということであった。極めて慎重に、われわれは、15〜20%の年成長率を予定した。スターリンやモロトフ(1)のようなタイプの俗物は、この仮説的な数字を「超工業化」の空想として嘲笑したものである。現実は、われわれの試算をはるかに追い越した。しかし、その後に起こったのは、これまでも一度ならず生じたことであった。事実にショックを受けた経験主義者は、今後は万事が可能であり、万事が実現しうると判断した。けちんぼが空想家になったのだ。

 最近数ヵ月の間に完全にはっきりしたのは、スターリン派がソ連内部の経済問題においてもコミンテルンの政策においても左へのジグザグを極左路線に転換したということである。この路線は、1923年に支配的になり1926年から1928年にかけて特に顕著であった日和見主義路線の否定であると同時にその冒険主義的な補完でもある。その上、今日の路線は、過去の路線に劣らず危険なものであり、若干の点ではより深刻な危険をはらんでいる。

※原注 右派やメンシェヴィキや自由主義者たちは、スターリンの極左路線がスターリンによって実現された「トロツキズム」であるかのように偽っている。しかし、われわれはソ連におけるわれわれの同志たちがこの極左路線にいささかも惑わされなかったという事実を、完全な満足をもって確認している。われわれは、最近数ヵ月の間に、ソ連の各地にいる友人たちと数十通の手紙を交換することに成功した。そして、われわれは、疑いもなく、新しい路線の評価について完全な一致を確認した。われわれが手に入れた手紙の一部は、この号に抜粋の形で印刷されている――『反対派ブレティン』編集部

 ソ連の経済政策における極左的傾向は、今2つの主要な方面――すなわち工業化と集団化の分野――で発展しつつある。

 1923年の初めから、反対派は工業化のテンポを加速するように要求していた。そして、反対派は自己の要求を根拠づけるにあたって、必要性だけではなく、現実の経済的可能性をも考慮に入れていた。主流派(ジノヴィエフとスターリンとブハーリン、そして後にはジノヴィエフが抜けてスターリンとブハーリン)は、反対派が超工業化のために「農民を収奪する」ことをめざしており、それによって都市と農村の経済的・政治的結合を破壊しようとしていると非難した。

 経験が示したように、反対派は正しかった。日和見主義的な指導部は、国有企業の資源を一貫して過小評価していた。工業の現実の発展は、市場と反対派の圧力にせきたてられて、公式の計画を毎年毎年はるかに追い越した。

 中間派指導部と反対派との闘争が特に鋭い性格を帯びたのは、反対派の正しさが全面的に裏づけられたまさにその瞬間においてであった。数ヵ月のうちに、指導部は、[1927年の]反対派政綱の中で嘲笑された以前の最小限主義的な5ヵ年計画を放棄し、それをはるかに大胆な新しい計画に置きかえざるをえなくなった。1年目に予定されたテンポの実現が――どうやら指導部自身にとっては予想外に――確認されたので、指導部はそのけちな迷いを捨てて、たちまち反対の極端に走った。いまやスローガンはただ一つ「断固として前進せよ!」である。計画は拡大する方向でたえまなく再検討されている。消極的なポシビリズムがとどまるところを知らぬ主観主義へ移行した。経営担当者や労働者が客観的な障害――劣悪な設備や原料の不足やその質の悪さ――について言及することは、革命への裏切りと決めつけられている。上から要求されているのは、全速力、突撃、攻勢である。それ以外のものはすべて、悪魔のささやきなのだ。

 5ヵ年計画の2年目(10月〜2月)にあたる今年の経済年度の第一・4半期は――極めて大きな前進(昨年の第一・4半期に比べて約26%の成長)にもかかわらず――やはり目標には及ばなかった。エピゴーネン指導部の時代になって初めて工業は、計画目標から遅れた。特にひどく遅れたのは重工業である。生産コストの問題は、はかばかしくいっていない。遅れを小さくするために、あるいは、それを隠すために、工場は品質の悪化に頼っている。不良品が恐るべき勢いで増大している。中央委員会は、これに応えて計画達成を断固として求めるだけでなく、「超過達成」(すなわち目標オーバー)を要求している。

 客観的なデータは、理論的にも予見できたように、スピードアップが能力を越えていたということをますます説得的に証明しはじめている。工業化は、ますます行政的な鞭に頼るようになっている。設備と労働力は酷使されている。工業のさまざまな部門の不均衡は、蓄積されつつある。立ち遅れはすでに、次の4半期において、第一・4半期の遅れよりも恐るべきものとなる可能性がある。政府としては表面化した生産上の穴を予算と金融の新たな支出によって埋めるしかないと感じている。これは紙幣インフレを招くし、このインフレーションが今度は商品需要の人為的な増加の源泉となり、したがって、工業の個々の部門に目標を越えた増産を促し、新しい不均衡の拡大を促進するのである。

 ソヴィエト経済は世界経済に依存している。この依存関係は輸出と輸入を通じて表現されている。外国貿易はソヴィエト経済のシステム全体における最大のボトルネックである。外国貿易の困難は、基本的にはわが国の後進性から生じる困難である。今日では、これに加えて景気循環の性格をおびた重大な事情が存在している。世界経済における恐慌はすでに、わが国の輸出品に対する需要の減少と価格の低下を通じてソヴィエトの輸出に影響を及ぼしている。もし世界の商工業恐慌が深刻化し長びくならば、それでなくても不足している輸出がいっそう縮小することによって、輸入――すなわち機械と最重要の工業原料の輸入――は打撃を受けるだろう。もちろん、この危険性はソヴィエト指導部の意志には依存してない。しかし、指導部はこの危険を考慮に入れることができるし、入れるべきである。さまざまな部門間の調整を欠いた工業化の熱狂的な加速化は、明らかに外国貿易を通じて世界恐慌と衝突する恐れがある。というのは、必要不可欠な生産手段の輸入が削減され、5ヵ年計画に新しい混乱要因が付け加わるからである。

 たしかに、アメリカとヨーロッパの商工業恐慌は、次の時期にはソヴィエト同盟のために商工業融資の可能性を開くかもしれない。しかし、これは両刃のやいばである。経済発展が正しいリズムを保っている場合には、外国の融資は工業化の過程を容易にし促進することができる。矛盾が蓄積されている場合には、外国の融資は危機[恐慌]を先送りできるだけであって、後に、その危機は倍する力を得ることになるだろう。

 しかしながら、世界経済から生じる危険性について、われわれは今のところ付随的に仮説として言及しているにすぎない。もちろん、現在の核心がここにあるわけではない。はるかに直接的で、深刻な危険性は、ソヴィエト体制の最重要分野――すなわち都市と農村の相互関係の分野――に集中している。

 反対派は、数年にわたって、工業の発展のために農村の上層に対するより断固たる課税を要求した。公式の指導部は、クラーク[富農]による蓄積の事実を否定し、反対派が「農民の収奪」をめざしていると非難した。その間にクラークは本格的に成長し、中農を味方につけて、工業と都市を飢餓封鎖にさらした。クラークが力を最高に誇示した時期は、ちょうど反対派が警察力によって粉砕された時期(1928年の初め)と一致した。官僚は、急激に政策を変えなければならなかった。クラークに反対する十字軍が宣言された。その直前に反対派はクラークの搾取者的な傾向を制限するための措置を提言していたが、穀物をめぐるクラークとの闘争が始まるやいなや、こうした措置は乗り越えられてしまった。

 しかしながら、クラークは何らかの浸透しえない仕切によって中農から分離されているわけではない。商品経済社会においては、中農層は自動的にクラークを生み出す。クラークに対するパニック的で調整されていない雨あられの行政的打撃は、クラークにだけではなく中農の上層にも今後の発展の道を閉ざした。いわゆる「農民との軋轢」が表面化した。農民は、革命を経験した後には内戦の道を歩み始めるのが容易ではないので、別の道を求めて右往左往し始めた。こうして、「全面集団化」が生じたのである。

 ソヴィエト政権は、その基本目的と完全に一致して、商業と生産の協同組合を奨励してきた。しかしながら、ごく最近まで農村における生産協同組合(コルホーズ)は、農業において非常にささやかな部分を占めていたにすぎない。たった2年前に現在の農業人民委員ヤコブレフ(2)は、コルホーズがわが国の農業の技術的・文化的な後進性と分散性のためにまだ長年にわたって「農民経営の大海に浮かぶ島にすぎないだろう」と書いていた。ところが、ごく最近のあいだに集団化は――指導部にとってはまったく予想外に――壮大な規模のものになった。計画にしたがえば、集団農場は5ヵ年計画の終りまでに農民経営の約20%をしめなければならないことになっていたと言えば十分である。ところが、集団化は、すでに今――すなわち2年目の初めに――40%以上を占めている。このテンポが維持されるならば、コルホーズは、ここ1〜2年の間に全農民を参加させることになるだろう。これは巨大な成功に見えるかもしれない。だが、実際には、それは巨大な危険である。

 農業における生産の集団化は、一定の技術的な基礎を前提としている。集団農場は何よりもまず大規模経営である。しかしながら、経営の合理的な規模は、それに使用されている生産手段と生産方法の性格によって規定されている。農民の犂とやせ馬から――たとえそれらを集めたとしても――大規模農業を創り出すことはできない。それは、ちょうど、漁師の小船を集めても蒸気船を作ることができないのと同じである。農業の集団化は、その機械化の成果としてのみ可能である。ここから出て来る結論は、国の工業化の全般的な水準が農業集団化の許容範囲をあらかじめ定めているということである。

 しかしながら、実際には、この2つの過程は、現時点では、まったくバラバラに扱われている。どんなに速くソヴィエト工業が発展しても、それはやはり非常に遅れたものであり、まだ長期にわたって遅れた状態に留まるだろう。高い成長率といっても、それは全般的に低い水準との関係でそう言えるにすぎない。工業は、計画目標が達成されたとしても、5ヵ年計画の終りまでにせいぜい農民経営の20〜25%にしかトラクターと必要な機械を供給することができないということを一瞬たりとも忘れてはいけない。これこそが集団化の現実の枠である。ソ連が孤立状態にある限りは、農業の工業化(機械化、電化、等々)は、一連の5ヵ年計画の展望の中でのみ考えられうる。現在の指導部も昨日までは問題をこのように見ていたのである。ところが、今日では、集団化がすでにほとんど半分まで達成され、最重要の農業地帯のいくつかではここ1年間に100%完遂されるだろうことが判明している。

 現在の集団化のテンポが生産上の要因によってではなく、行政上の要因によって規定されているということは、まったく明白である。クラークに対してだけでなく中農に対しても行われた急激で本質上パニック的な政策転換は、この1年間にネップのほとんど完全な廃止をもたらした。農民は小商品生産者であり、市場なしには生きていけない。ネップの廃止は、商品生産者である中農を次のような選択の前に立たせた。つまり、自給自足経済に戻るのか、すなわち[商品生産者としては]滅びるのか、それとも市場を得るために内戦を開始するのか、それとも集団農場の新しい路で運を試すのかという選択である。

 集団化の途上で農民を待っているのは、迫害ではなく、減税、農具の優先的な供給、資金の貸付などの特典である。農民がいま全体としてコルホーズに殺到しているのは、コルホーズがその有利さを農民の前で実際に明らかにすることに成功したからでもないし、国家が農民に(あるいはせめて自分自身に)、集団的原理にもとづいて農民経営をすでに近い将来に改造しうるということを証明することができたからでもない。それは、「リベラル」なスターリン=ウストリャーノフ(3)的政策が何年も続いた後で、農民――すなわち特に資本家的農場主のやり方になじんでいた農民の上層――が突然袋小路にぶつかったからである。市場の門には鍵がかけられた。農民は、その門の前でしばらく足踏みし、唯一開いていた集団化という門の中へ飛び込んだ。

 農民が予期せぬネップの廃止に驚かされたのに劣らず、指導部自身も、コルホーズへの農民の予期せぬ殺到に驚かされた。しかし、驚きから立ち直ると、指導部は新しい理論を創り出した。それによれば、社会主義建設はその「第3の」段階に入りつつあり、市場の必要はもはや存在せず、クラークはここ数年の間に階級としては一掃される、というのである。

 実際には、これは新しい理論ではない。これは一国社会主義という古い理論であり、単にそれが「サードギア[最高速度]」に切り替えられたにすぎない。以前われわれは、社会主義が遅れたロシアでは「亀の歩み」で建設され、しかもクラークが無痛のうちに社会主義を受け入れるだろうと教えられた。今や亀のテンポは、ほとんど飛行機のそれに置きかえられた。クラークはもはや社会主義を受け入れるのではなく――このようなテンポではできるわけがない――単に行政命令で一掃されるのである。

 クラークの一掃は、それを真面目に受け取るならば、明らかに最後の資本主義的な階級の一掃である。クラークの土台がなければ、仲買人や投機者や都市のネップマンは経済的に生きていけない。まして、階級としてのクラークの一掃という公式の綱領が都市の小ブルジョアも対象に含めたものであるだけになおさらである。農民を一人残らず社会主義的経営へ編入し、これをクラークの一掃で補完するするならば、それはソヴィエト連邦をここ2〜3年の間に無階級社会へ変えることを意味する。階級がない社会には、もはや統治権力も必要なく、まして独裁のような中央集権的な形態の統治権力は必要でない。新しい路線を支持する若手理論家の一部がすくなくとも農村のソヴィエトを廃止して、それを単なる生産機関に、すなわちコルホーズ管理機関に置きかえるよう主張したのも不思議ではない。しかしながら、この「理論家」たちは、「独裁はまだ長期にわたって必要だ」という断固たる声明によって上からたしなめられた。しかし、1〜2年後にせまっているクラークの完全な一掃のあとで、なぜ何のために独裁が必要なのかについては指導部は結局のところ説明しなかった。そして、これは偶然ではない。なぜならば、説明するとしたら、農民の荷馬車と犂とやせ馬の集団化によってクラークをいっきに一掃するという綱領は、理論的いかさまによって味つけされた官僚的冒険主義であるということを指導部自身が認めなければならないであろうからである。

 実践の上では、クラークの一掃は、富農撲滅という純行政的な方法を招いた。財産の没収、土地の収用、そして最後に追放などがそれである。この政策は、まるでクラークが農村にとって異物であり、外部から侵入したペチェネグ人やポロヴェツ人[いずれもロシアに侵入した遊牧民族]か何かであるかのように実施されている。実際には、クラークは中農の発達段階の一つにすぎない。もちろん、個々のクラークは2人の(十分に武装した)警察官の手を借りれば一掃することができる。だが、クラークの復活を阻止することは、たとえコルホーズの内部でさえはるかに困難である。そのためには産業と文化の革命が必要だ。

 ソ連におけるコルホーズは、主として生産手段の社会化の程度に応じて、農業協同組合、アルテリ、コミューンという3種類のものが存在している。農業協同組合では、土地の集団耕作が私有の農具で行われる。労働は社会化されているが、生産手段は社会化されていないのである。アルテリでは、若干の最も高価な生産手段が社会化されている。最後にコミューンでは、全ての生産手段が集団の財産である。生産手段の所有形態に応じて、コルホーズの構成員の間での支払い方法にも、商品と貨幣による方法から共産主義的な方法まで、さまざまなタイプのものがある。

 同時に、コルホーズのこうした3つのタイプは、集団化の3つの段階を特徴づけている。最も高度なタイプは、最も低いタイプにその将来の姿を示しているのだ。

 ある段階から他の段階への移行――その規模とテンポ――は、基本的には生産の技術的条件によって規定される。したがって、現時点では、集団化の範囲が広がれば広がるほど集団化は原始的形態を採る、つまり、資本主義的な傾向のために隙間がますます広がっていかざるをえないということはまったく明らかである。しかし、中央委員会の最近の指令は、初めから全生産手段の可能な限り完全な社会化を要求している。いいかえれば、主として農民自身の道具に依存している全面集団化がアルテリとコミューンの間に位置する形態で実施されざをえない。矛盾は明白である。強制集団化の規模が広がれば広がるほど、したがって、その技術的基礎が狭くなればなるほど、官僚主義的ユートピアにとりつかれた指導部は、ますます高度な社会的タイプをそれに押しつけようとしているのである。

 同時に、コルホーズ内部の相互関係の問題は、まったく新聞雑誌の検討に付されていない。収入の分配方法という決定的な社会問題を避けるために、指導者と執行者はマルクス主義的分析の代わりに鼻もちならぬ扇動的なおしゃべりを行なっている。

 もちろん、国営工業がコルホーズに社会化された生産手段を導入することができるならば、たちまちコルホーズとソフホーズとの差異は一掃され、農民は国営の小麦工場に勤務する社会主義的労働者に変わり、クラークの足下からは基盤が最終的に奪われるであろう。しかし、そのような体制はわれわれとって今のところまだ何年も先のことである。圧倒的多数のコルホーズは何年もの間、農民自身の家畜と道具に依拠しなければならない。こうした条件のもとでさえ集団化が農民の個人主義的傾向を克服できるような本格的かつ明白な利益をもたらすと、ちょっと仮定してみよう。しかし、新しい難問がたちまち生じるだろう。それは行政的な性質のものではなく、社会的性質のものである。すなわち、この難問はコルホーズの管理方法に起因するのではなく、小商品生産者の階級的本性に起因するものである。つまり「コルホーズの収入がいかに分配されるか」ということである。コルホーズに2頭の馬を引き渡した農民は、自分の両腕を提供しただけの元雇農よりも多くの収入を得ることができるのだろうか。「資本」に対する利子が許されないならば、誰も自分の財産を無料で引き渡したがらない。その場合には、コルホーズに必要な農具を改めて用意するという手に負えない課題が国家の肩にのしかかってくる。だが、たとえ「資本」に対する利子が許されないとしても、コルホーズの内部では階層分化が進むだろう。もしコルホーズが細分化された経営に比べて著しい利益をもたらすならば、階層分化は、これまで以上に急速にコルホーズを貫いて進行するだろう。

 しかしながら、問題は農具に尽きるわけではない。3人の働き手がいる家族は、大人の働き手が1人しかいない家族よりも多く受け取りたいと思うだろう。もしコルホーズがその構成員の賃金の消費されない部分を農具や運転資金のために借りたいならば、コルホーズはやはりその構成員の払い込んだ金に利子を支払わなければならないだろう。このことは、再びコルホーズ内部の階層分化に道を開き、したがってコルホーズが小ブルジョア的な協同組合へ変質する可能性に道を開くものである。その場合には、この協同組合の構成員の多数は雇農に近い状態にあり、裕福な上層部に指導が集中されるかもしれない。

 このような現象は、コルホーズがまれな例外であり個人の選択にもとづいて建設されていた過去の時期にすでに広く見られたものである。こうした現象は、全面集団化のもとではなおさら不可避である。というのは、全面集団化によって、小規模経営の技術的基礎がそのままである限り、小商品経営に固有のすべての矛盾がコルホーズの枠内にもちこまれ、したがってまたコルホーズの内部においてクラークが不可避的に再生産されることになるからである。

 これが意味しているのは、行政的な「階級としてのクラークの一掃」の後で、すなわちクラークと「名づけられた」者の収奪と追放の後で、その翌日にスターリニスト官僚がコルホーズ内部のクラークのことを進歩的ないしは「文明化された協同組合員」だと宣言するだろうということである。もちろん、その際に官僚はレーニンの『協同組合について』の定式をでたらめに引用するだろう。コルホーズは、そのような場合には、単にクラークの社会的・政治的偽装の新しい形態にすぎなくなる可能性がある。このような偽装を指導するのに、新任の農業人民委員ヤコブレフほど似つかわしい人物はいない。彼が、クラークなるものは反対派のでっちあげであるということを証明するために統計学的な曲芸に何年にもわたって従事していたのは無駄ではなかった。ヤコブレフが昨日にはまだ他のすべての官僚たちと共に反対派の政綱――それは計画的工業化にもとづく集団化の促進を要求していた――を反革命文書だと宣言したのは無駄ではなかったのである。

 農民は、その間に、集団主義的な形態と不充分な技術的基礎との間にある矛盾にあらかじめ反応し、コルホーズに加入する前に自分の家畜を手当たりしだいに売りとばしている。当局側の新聞雑誌は、役畜の大量処分と屠畜業者への販売に関して警報を鳴らすニュースで一杯だ。指導部はこれに通達、電報、脅迫で応えている。しかし、これでは明らかに不充分である。農民は、彼の提供した牝牛や馬の分が考慮に入れられるのかどうか、また考慮されるとすればどのようにされるのか知らない。農民が当てにしているのは、コルホーズが国家からトラクターを受け取ることである。いずれにせよ、農民には、自分の雌牛を無料で集団農場に引き渡さなければならぬ理由が分からない。農民は、相変わらず視野の狭いリアリストである。農民は、自分がコルホーズに加入せざるをえないのが分かると、あわてて個人経営の清算から私的な利益を得ようとしている。役畜は減りつつある。ところが、国家には役畜の代わりに機械力を、あるいはせめてもっと質のよい別の役畜を与える能力がない。このことはコルホーズに対してその活動の第一歩からすでに極めて深刻な困難を準備している。

 現在の不安定な攻勢の後、パニック的な退却――下からの自然発生的なものなのだが、まるで上から「計略」されたかのように装った退却――が続くだろうということを予見するのは、困難ではない。大急ぎで組織されたコルホーズは、単純にその構成要素に分解するか、それともより低い段階に後退し始め、きびしい内部闘争の中で個人の生産手段に対する制限をなくし、資本主義的傾向に道を開くだろう。もちろん、無謬の指導部は、執行者を「トロツキスト」だと非難し、1924〜25年のスターリンの資本家的農場主の定式を枕の下から引き出そうと試みるだろう…。もちろん、党がまだそれに必要な時間を官僚主義的な機構に許すならばの話であるが。

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 われわれの分析に対して当局側がどのように反応するかを予見することは難しくない。官僚たちは、反対派が危機につけこもうとしていると言うだろう。悪党どもは、反対派がソヴィエト政権の崩壊を望んでいると付け加えるだろう。ヤロスラフスキー(4)は、反対派がチェンバレン(5)のために書いていると解説するだろう。メンシェヴィキやリベラル派は、ロシアが資本主義に戻る必要性を証明するために10の文言をわれわれの分析から引用するかもしれない。共産党の官僚たちは改めて反対派とメンシェヴィキの「連帯」を確かめるだろう。このようなことは、すでに一度ならずおこったし、もう一度起こるだろう。だがこんなことでわれわれを抑えることはできない。中傷は一時的なものだが、事実は残る。スターリニスト官僚は、日和見主義的な政策を何年ものあいだ採った後で、極左主義の短期的ではあるが激しい狂乱の時期を迎えている。「第三期」の理論と実践は、ソ連の内部でもその国境の外でも同じ様に破壊的な結果をもたらしつつある。

 ある人たちは次のように語るだろう。「反対派はまるで機構の側と立場が入れ替わってしまったかのようだ。反対派は機構を超工業化だといって非難しているが、反対派自身は右派の側についている」と。別の人たちは思慮深げに次のように付け加えるだろう。「スターリン派を超工業化論者であり『トロツキスト』だといって非難していた右派はスターリンに屈服したのに、左翼反対派は右派の見地を採用したように見える」と。

 このようなすべての議論、類推、比較は、あらかじめ予見することができるし、このテーマについて発表される論文や演説をあらかじめ書くことさえできる。しかしながら、こうした議論の軽率さを暴露することは、あまり難しくない。

 反対派が資本主義世界に「最短期間で追いつき追い越す」ことを引き受けたことは一度もない。われわれが工業化の加速を要求したのは、そうしなければ、農村に対する都市の指導的役割を保証することができず、したがってプロレタリア独裁を保証することができないからである。

 われわれは、官僚が1928年に至るまで行なっていたよりも、はるかに広範かつ大胆に工業化の可能性を評価していた。しかし、われわれが工業化の資源を無制限のものと見なしたり、そのテンポを官僚の鞭によってのみ左右されるものと見なしたことは一度もない。工業化の基本条件として、われわれは常に労働者階級の状態を系統的に改善する必要性を提起してきた。集団化をわれわれは常に工業化に依存するものと見なしていた。われわれは農業経営の社会主義的改造を、まさに数十年の展望で考えていた。われわれが一国社会主義建設のはらむ内部矛盾に目を閉じたことは一度もない。都市と農村の間の矛盾を一掃してはじめて、農村の矛盾を一掃することができるのだが、このことは国際革命の枠内でのみ実現可能である。したがって、われわれがスターリンとクルジジャノフスキー(6)に5ヵ年計画の枠内で階級の一掃を要求したことは一度もないのである。われわれが要求したのは、クラークの搾取者的傾向を制限することであり、工業化のためにクラークによる蓄積を計画的に削減することであった。われわれは、このような要求をしたために、刑法51条により流刑にされたのである。

 マルクス主義的反対派を粉砕したのは、右派と中間派の連合であった。右派と中間派は、一時的に仲たがいしたが、今や改めて歩み寄った。彼らには、一国社会主義という共通の基礎がある。この一年間に彼らはわれわれの頭上で180度の弧をえがいた。彼らは、社会主義的工業化の問題を実際にはますます熱狂的で官僚主義的な超工業化に変えている。彼らはネップを廃止しつつある。すなわち、彼らは、われわれが明らかに不当にその罪名で告発され、その罪名でわれわれの友人たちが今でも牢獄と流刑地を一杯にしているのと同じ「犯罪」を犯している。クラークを制限する代わりに、彼らは行政的な富農撲滅を行っている。これは、ついこの間まで彼らが悪質にもわれわれに押しつけようとしたが、われわれがマルクス主義者としての良心にかけてきっぱりと拒否したやり方である。最も必要不可欠な数歩の前進さえ恐れていた右派は、いまや中間派と一緒に「前へ」向こう見ずに突進した。連合は復活した。ただし、亀のテンポは飛行機のテンポに変更された。

 現在の指導部は、あと何ヵ月ぐらい党を極左の道に駆りたてることだろうか。長期にわたるものではないとわれわれは考えている。現在の路線が熱狂的な性格を帯びれば帯びるほど、その矛盾はますます鋭くかつ急速に明るみに出るだろう。その場合には、すでに180度の転換が過去のものとなった後で、指導部もう一つの弧をえがいて、もう一方の端から出発点に近づくだろう。「過去にはそうであったし、未来もそうだろう」。

※  ※  ※

 この論文の中で手短かに輪郭の描かれた諸問題は、われわれがここ数週間で出版するつもりの大きな著作の対象である。したがって、ここでのわれわれの叙述は、概略的な性格のものである。同じく概略的にではあるが、われわれは、何をなすべきかという問いに答えよう。

 工業は、何よりもまず計画作成の方法が極度に官僚主義的であるために危機に向かって突進している。5ヵ年計画が必要な均衡と保証を維持して作成されるのは、テンポと期限について自由な討議が行なわれ、すべての工業関係者と労働者階級とそのすべての組織、および何よりも党自身が討議に参加し、最近のソヴィエト経済の全経験が――指導部の法外な誤りも含めて――自由に点検される場合に限られている。計画の最も重要な要素をなしているのは、労働者と農民が今何を欲し何を消費することができるかという問題であり、彼らが何を節約し蓄積することができるかという問題である。工業化のテンポの問題は、官僚主義的な討議の問題ではなく、大衆の生活と文化の問題である。

 したがって、社会主義建設の計画を、アプリオリ[先験的]な役所的指令として与えることはできない。計画は、社会主義建設そのものを実現しうる唯一の方法と同じやり方で、すなわち発達した広範なソヴィエト民主主義にしたがって作成され修正されなければならない。たとえば、ここ数年の計画において化学工業がいかなる地位を占めねばならないかという問題の解決は、国民経済における化学工業の割合をめぐるさまざまな経済的グループとさまざまな工業部門の公然たる論争によってのみ準備されうる。ソヴィエト民主主義は、抽象的な政治の要求ではなく、まして道徳の要求ではない。それは、経済的必要の問題になったのである。

 われわれにとって社会主義の成功の第一条件は、党を維持することであり、より正確には、党を救出することである。この基本的な歴史的手段なしには、プロレタリアートは無力である。ところがスターリニスト官僚は、党を破壊しつつある。彼らは農村における全面集団化を、工場や職場の党への全面的編入で補完しつつある。前衛が階級の中に溶解しつつある。党の思想と意志は踏みにじられている。官僚の手は完全に自由になった。指導部は盲目的であり、無統制である。党は改めて党にならない限り、先見の明のある指導部を創造することはないだろう。そのためには何が必要か。簒奪者の機構からそれが党から簒奪した権力を奪い取ることである。これをなしうるのは誰か。労働者階級に依拠した、党のプロレタリア的な中核である。

 第2の条件はプロレタリア独裁の維持であり、より正確には、その再建である。これが可能なのは、プロレタリアートがみずからの物質的・文化的水準の向上と国家や国における自己の役割の増大とを毎年確認し、同時に工業製品と農産物の鋏状価格差が縮小し、農民に10月革命の現実的な利益が与えられる場合のみである。

 工業化のテンポが保証するのは、一国社会主義の建設ではなく、プロレタリア独裁の土台の強化であり、都市と農村における勤労大衆の状態の改善である。これは完全に現実的な課題である。この課題は勇気と慎重さの結合を必要とする。この課題は、けちけちしたスローテンポも向こう見ずな冒険主義も排除する。

 反対派が、冒険主義と日和見主義のからみ合いによって生み出された新しい危険から痛みを伴わずに脱出するための出来あいの先験的計画をもっているなどと自任するとしたら馬鹿げたことであろう。自動車にとって最も理想的な進路を知っていても、それは、車がすでに道をそれて車輪が沼にはまり込んでいる場合には、直接的な救済をもたらさない。ここで必要なのは、正しい道へ車を戻すための系統的な措置である。一つだけ言えることは、最も優秀な運転手でさえ1人ではこの課題を解決できないということである。必要なのは、党と階級の集団的な努力であり、下からの援助である。そして、これは集団的で創造的なイニシアチブの権利と可能性を前提としている。

 いずれにせよ、今や有無を言わさず緊急に実行が迫られている措置が一つある。それは財政の最も厳格な引き締めである。予算の分野でも、金融の分野でも国家の財布のヒモをできるだけきつく締める必要がある。この措置が今すでに非常に痛みを伴うものであることには、いかなる疑いもない。というのは、それは不可避的に一連の新事業と企業を中途で停止させることになるからである。しかし、この措置は必要不可欠である。財政の引き締めは経済の全般的な引き締めの第一歩とならなければならない。もし今、膨張して手に負えなくなった新事業の行く手を遮らなければ、テンポを現実の限界内に収めなければ、今後はインフレーションによって新事業が破滅的な規模となり、道徳的インフレによって支えられているにすぎない無知な指導部の偽りの威信が損なわれるだけでなく、はるかに大きな意義を有する現実の財産も――すなわち10月革命も――損なわれる結果を招きかねない。

※  ※  ※

 再三再四、われわれは、「最短期間で」一国社会主義社会を建設するという課題を断固として拒否する。集団化ならびに工業化をわれわれは、世界革命の問題と不可分に結びつけている。わが国の経済問題は、究極的には、国際的な舞台の上で解決されるものである。コミンテルンを再生させることが必要だ。レーニン後の時代の革命戦略を再検討し、3つの時期――ジノヴィエフ時代とブハーリン=スターリンの時代とスターリン=モロトフの時代――の全体にわたってその革命戦略を断罪する必要がある。現在の指導部を一掃することが必要だ。なぜならば、まさに国際問題の領域でスターリン派の理論的なシニシズムと実践的な放縦は、無数の災難によってプロレタリア前衛を脅かす限界にまで達しつつあるからである。一国社会主義の理論と官僚的冒険主義の実践を拒否することは、共産主義インターナショナルを再生させるための初歩的な前提である。

1930年2月13日

『反対派ブレティン』第9号

『トロツキー研究』第4号より

 訳注

(1)モロトフ、ヴャシェスラフ(1890-1986)……スターリニスト。1906年来の古参ボリシェヴィキ。1917年の2月革命後『プラウダ』編集部。スターリンとともに臨時政府の批判的支持を打ち出し、4月に帰国したレーニンによって厳しく批判される。1921〜30年党書記局員。スターリンの腹心となり、1930〜41年、人民委員会議議長。1941〜49年、外務人民委員。スターリン死後、フルシチョフ路線に反対し、失脚。

(2)ヤコブレフ、ヤーコフ(1896-1938/39)……1913年にボリシェヴィキ党に入党、1918年にはウクライナの右派の主要な代弁者であり、後には反対派に反対してスターリンの熱烈な支持者となった。1930年代初頭の農業集団化の際に農業人民委員として、強制的集団化を指導。大粛清期の1937年に逮捕され、獄死。

(3)ウストリャーロフ、ニコライ(1890-1937)……ロシアの弁護士、経済学者。革命前はカデットで、内戦時はコルチャークと協力し、ソヴィエト権力と敵対。その後、中国に亡命。ネップ導入後、ソ連政府で平和的に資本主義が復活するものと信じて、ネップを支持。『道標転換』誌を編集し、ソ連との協力を訴え、「道標転換派」と呼ばれる。1920年代の党内論争では、スターリン派を支持。1935年、ソ連に戻り、ソヴィエト政府のために活動。1937年に逮捕、粛清。『ロシアのための闘争』(1920)、『革命の旗のもとに』(1925)など。

(4)ヤロスラフスキー、エメリヤン(1878-1943)……スターリニスト。1898年からロシア社会民主労働党の党員。古参ボリシェヴィキ。1921年に党の書記局メンバーに。1923年から中央統制委員会幹部会委員。スターリンの棍棒として活躍し、反対派を攻撃する多くの論文や著作を書く。

(5)チェンバレン、オースティン(1863-1937)……イギリスの保守党政治家、ジョゼフ・チェンバレンの息子。1892〜1937年、下院議員。1902〜03年、郵政相。1919〜21年、蔵相。1924〜29年、外相。1925年、ロカルノ条約の調印に尽くしたとしてノーベル平和賞受賞。

(6)クルジジャノフスキー、グレープ(1872-1959)……ロシアの革命家で技術者、古参ボリシェヴィキ。1903年に党中央委員。1921〜23、1925〜31年にゴスプラン議長。


  

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