5ヵ年計画を4年で?

トロツキー/訳 西島栄

【解説】この論文は、スターリンの冒険主義的工業化政策を批判した一連の論文の一つである。スターリンは、行政的鞭と労働者の途方もない犠牲によって官僚的威信を維持しようと、特別4半期まで設定して、5ヵ年計画を4年で達成しようとした。しかし、それでも結局目標を達成することはできなかった。またトロツキーはこの論文の中で量的指標のみならず、質的指標も正当に重視しており、この質的指標からすれば、なおのこと冒険主義的工業化政策の破綻は明らかであった。この「品質」の問題に、ソヴィエト経済は終生つきまとわれる。

 本稿はすでに『トロツキー研究』第4号に掲載済みであるが、今回アップするにあたって訳注を加えておいた。

Л.Троцкий, Пятилетка в четыре года?, Бюллетень Оппозиции, No.19, марта 1931.

Trotsky Institute of Japan


 特別4半期(1930年10〜12月)は工業発展の非常に高いテンポを示した。しかし同時にそれは、5ヵ年計画の4ヵ年計画への変更が、軽率な冒険であり、基本計画に打撃を与えるものであることをも示した。

 わが国の経済年度は、カレンダーの暦とは違って、1月に始まるのではなく10月に始まっていた。これは、経済上の計算と取引とを農業のサイクルに合わせる必要性から設定されたものである。こうした真面目な考慮にもとづいて設定されたこの規則は、いったい何のために突如として破られたのか? 官僚的威信を祝うためにである。すなわち、すでに5ヵ年計画2年目の第4・4半期において、4年で5ヵ年計画を実現することの不可能性が明らかになったために、特別4半期を創設することが、すなわち4ヵ年に特別の3ヵ月を付け加えることが決定されたのである。その際、この期間中に、労働者の筋肉と神経に倍する圧力を加えることによって、無謬の指導部に対する物神崇拝を首尾よく維持することが予定されていたのだ。

 しかし、特別4半期にはいかなる奇跡の力も備わってはいなかったので、4半期の終わりには次のことが明らかとなった。すなわち、党とソヴィエトと労働組合の3本の鞭のもとで労働が行なわれたにもかかわらず、超テンポは実現不可能である、ということがである。このことは予見可能であったし、実際にわれわれは4半期の始まる以前に予見していた。

 中部と南部の鉄鋼業は、特別4半期の計画を84%しか実現しなかった。冶金業は全体として20%ほど計画未達成であった(『プラウダ』1月16日)。ドンバス炭田は、予定されていた1600万トンではなく1000万トンの石炭を産出した。すなわち計画の62%強である。過燐酸石灰工場もまた、62%しか生産ノルマを達成しなかった。他の工業部門では、計画の未達成はこれほど大きくはない(わが国には完全な報告は存在しない)とはいえ、総じて計画のいわゆる「遅滞」ははなはだ大きく、とりわけ基本建設の部門ではそうである。

 しかしながら、質的指標に関してはなおさら具合が悪い。石炭工業に関して、『工業化のために』という新聞はこう述べている。「質的指標における遅滞は量的指標に比べてかなり深刻である」(1月8日)。クリヴォイロクの鉄鋼に関して、同紙はこう書いている。「質的指標は悪化した」(1月7日)と。悪化した! だが、周知のように、それは以前においても極めて低い水準にあったのだ。非鉄金属と金に関しては、同紙は次のことを確認している。「原価を引き下げる代わりに、それは引き上げられた」。このような文章をいくらでも引用することができよう。

 たとえば石炭の品質悪化が何を意味するかについて、われわれの通信者は、輸送との関わりでこう述べている(本号所収の「労働組合員からの手紙」を参照)。「運送距離の縮小、蒸気機関車の故障、事故数の増大など、総じて輸送の混乱は、燃料の品質が悪化したことの直接的な結果である。そして鉄道輸送――ついでに指摘しておくと、この部門は特別4半期の間とりわけひどく遅れていた――の混乱は、それはそれで、残りのすべての経済部門に打撃を与えている」。先見性があって実務的で柔軟な計画化に代わって登場した指導のスポーツ的方法は、ますます滞納金を累積していくことを意味しており、この滞納金――それはしばしば、潜在的な、それゆえとりわけ危険な形態をとっている――は、激しい危機的爆発を引き起こしかねないのである。

 特別4半期のテンポ自体は非常に高く、それは、計画経済に備わっている比類なき優位性の新しい絶好の証明である。現実の経済過程を考慮し、計画の実現の過程でその必要な変更を行なうといった正しい指導のもとでは、労働者は達成された成果に対する正当な誇りの感情を抱くことができたろう。ところが、現在では、まったく正反対の結果が生まれている。すなわち、経済担当者や労働者のほとんど全員が計画は実現不可能と見ているが、このことを声に出してしゃべることはできない。真面目で有能な行政官は労働者の目を直視できない。全員が不満を感じている。報告書はノルマに人為的に合わせられ、製品の品質は報告書に合わせられている――すべての経済過程は、偽造の霧におおわれている。このようにして、危機が準備されていくのだ。

 これらすべてはいったい何のためか? 官僚的威信のためである。それは、指導に対する党の意識的で批判的な信頼に完全に取って替わった。この神――威信――は悪魔のように口やかましくシニカルであるだけでなく、ずいぶん愚かでもある。たとえばその神は、計画が妨害者たちによって作成されたことを恥かしげもなく認めたが、これによって、クルジジャノフスキー(1)もクィブィシェフ(2)もモロトフ(3)もスターリンも、経済的兆候にしたがって妨害行為を見破る能力がないことを示したのだ。他方では、この同じ神は、妨害行為と冒険主義とが結びついた結果出てきた4年という期間設定が誤りであったことをけっして認めようとはしないのである。

 次のことをもう一度思い起しておこう。すなわち、軽率で根拠のない未熟な措置に対して最初からわれわれは警告を発していたにもかかわらず、威信の賛美者たるヤロスラフスキー(4)はその時、われわれの警告を反革命的「トロツキズム」の新たな証拠であると、あらゆる言い回しで宣言したのだ。

1931年3月発表

『反対派ブレティン』第19号

『トロツキー研究』第4号より

  訳注

(1)クルジジャノフスキー、グレープ(1872-1959)……ロシアの革命家で技術者、古参ボリシェヴィキ。1903年に党中央委員。1921〜23、1925〜31年にゴスプラン議長。

(2)クイブイシェフ、ヴァレリアン(1888-1935)……ロシアの革命家、古参ボリシェヴィキ。10月革命後、まざまなポストを歴任し、1926年に最高国民経済会議の議長に。このポストに就いてから、彼はスターリニストの経済政策の主要な代弁者としての役割を果たす。献身的なスターリニストだったが、謎の死を遂げる。

(3)モロトフ、ヴャシェスラフ(1890-1986)……ロシアの革命家、スターリニスト。1906年来の古参ボリシェヴィキ。1917年の2月革命後『プラウダ』編集部。スターリンとともに臨時政府の批判的支持を打ち出し、4月に帰国したレーニンによって厳しく批判される。1921〜30年党書記局員。スターリンの腹心となり、1930〜41年、人民委員会議議長。1941〜49年、外務人民委員。スターリン死後、フルシチョフ路線に反対し、失脚。

(4)ヤロスラフスキー、エメリヤン(1878-1943)……ロシアの革命家、スターリニスト。1898年からロシア社会民主労働党の党員。古参ボリシェヴィキ。1921年に党の書記局メンバーに。1923年から中央統制委員会幹部会委員。スターリンの棍棒として活躍し、反対派を攻撃する多くの論文や著作を書く。


  

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