遺書

トロツキー/訳 西島栄

【解説】この遺書は、トロツキーが自分の健康状態からそう先は長くないことを感じて1940年2月にしたためたものである。結局トロツキーは、健康の悪化ではなく、スターリンが放ったスパイによって、6ヶ月後の8月20日に頭をピッケルで打ちぬかれた暗殺されることになる(死亡は翌日)。犯人のラモン・メルカデルは、後にソ連から勲章を授けられる。このトロツキー暗殺の詳しい事実関係については、この作戦を実地指導した元GPUの幹部がソ連崩壊後にあらわした手記を見ればよくわかる。

 底本は、1994年にモスクワで出版された、フェリシチンスキー編の『日記と手紙』である。これまで、この遺書は英語版やフランス語版からの翻訳としては何度か訳されてきたが、以下のはロシア語からのオリジナル訳である。

Л.Троцкий, Совещание, Древники и письма, 1994.

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 私の血圧が高いことは(それはますます上昇している)、周囲の者たちに、私の活動状況に関して誤解を与えている。私は意気軒昂であるし、仕事をする能力もある。しかし、おそらく、終末は近づきつつあるようだ。この一文は私の死後に公表されるだろう。

 スターリンとその手先たちのばかげた下劣な中傷を、ここでもう一度反駁する必要はない。私の革命的名誉には一点の曇りもない。私は直接的にも間接的にも、労働者階級の敵と、どんな舞台裏での協定もしたことはないし、交渉したことさえない。スターリンに反対した何千人もの人々が、同種の偽りの告発によって犠牲となった。新しい革命的世代は、これらの人々の政治的名誉を回復し、クレムリンの死刑執行人たちにその報いを与えるだろう。

 私の生涯の最も困難な時期に私に忠実でありつづけた友人たちに、心から感謝したい。とくにその友人たちの名前をここに挙げることはしない。そのすべてを挙げることはできないからである。

 けれども、わが伴侶、ナターリャ・イワノーヴナ・セドーヴァについてだけは例外をもうけても許されるだろう。運命は、私に、社会主義の大義のために闘う戦士となる幸福にくわえて、彼女の夫となる幸福を与えてくれた。私たちが生活をともにしたほとんど40年もの間、彼女は、愛と広い心と優しさの尽きることのない源泉でありつづけた。彼女は多大な苦難を嘗めることになった。とりわけ私たちの生涯の後半においては。しかし、彼女には幸福の日々もまたあったのだということに、私は慰めを見出す。

 私は、自分の意識的生涯の43年間というもの革命家でありつづけたし、そのうちの42年間はマルクス主義の旗のもとで闘った。たとえはじめからやり直すことになったとしても、もちろん、私はあれこれの過ちを避けるように努めるだろうが、私の生涯の全般的な方向性は変わらないだろう。私は、プロレタリア革命家、マルクス主義者、弁証法論的唯物論者、したがってまた非和解的な無神論者として死ぬだろう。人類の共産主義的未来に対する私の信念は現在、青年のころに劣らず熱烈であり、その時よりも強固でさえある。

 ちょうど今、ナターシャが中庭から窓のところにやって来て、私の部屋に風がもっと自由に入るよう窓を開けてくれた。塀の下には、輝くばかりの青々とした芝生が細長く伸びているのが見える。塀の上には澄みわたった青空が広がり、太陽の光があたり一面にふりそそいでいる。人生は美しい。未来の世代をして、人生からすべての悪と抑圧と暴力を一掃させ、心ゆくまで人生を享受せしめよ。

1940年2月27日

『日記と手紙』所収

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