第5章 防衛戦争

「重要なことは、この(ロシア専制主義の)危険を防ぎ、われわれ自身の国の文化と独立とを確保することである。この時こそ、われわれは自分たちが常に強調してきたことを実行するのだ。危機の際に祖国を見捨てはしない。……この基本原則に導かれて、われわれは戦時公債に賛成するのである」。

 8月4日の帝国議会において、ハーゼによって読み上げられたドイツ社会民主党議員団の声明(1)はこのように述べている。ここではただ祖国の防衛だけが語られている。ロシア諸民族の「解放」というこの戦争の任務については一言も言及されていない。この任務はその後、ドイツ社会民主党の出版物によってあらゆる調子で歌われたものである。しかしながら、その際、この出版物の論理はその愛国心と足踏みをそろえてはいなかった。というのは、彼らはこの戦争を、ドイツの財産を保護する任務をもった純粋な防衛戦争としてと同時に、ツァーリズムからロシアとヨーロッパとを解放することをめざす革命的攻撃戦争としても描き出そうと懸命に努力していたからである。

 ロシアの諸民族が、ホーエンツォレルン家の銃剣の先で与えられる支援をありがたく辞退するあらゆる理由があることを、われわれはすでに十分明らかに示してきた。それでは、戦争の防衛的性格についてはどうか? 

 何よりもドイツ社会民主党の声明の中で驚かされるのは、それが語っていることだけでなく、それ以上にそれが沈黙して隠していることである。ベルギーとルクセンブルクに対してすでに遂行された中立侵犯はフランスへの攻撃を目的としたものであると、ベートマン=ホルヴェーク(2)が帝国議会において明言した後であるにもかかわらず、ハーゼはこの事実について完全に口を閉ざしている。この沈黙があまりにも奇妙なため、人はこの声明を2度、3度と読み返したい気に駆られるが、無駄である。まるでベルギーやフランスやイギリスといった国が、ドイツ社会民主党の政治地図上にはまるで存在していないかのように、この宣言は書かれてある。

 しかし、諸政党が事実に対し目を閉じているからといって、それが消え失せてしまうわけではない。そしてインターナショナルのすべての成員は、同志ハーゼに対して次なる質問をする権利を持っている。「社会民主党議員団によって賛成された50億のうち、いったいいくらがベルギー破壊に充てられたのか?」と。ドイツ人の祖国をロシア専制主義から防衛するためには、ついでにベルギー人の祖国を蹂躙することが避けられないことであったというのは、大いにありそうなことである。しかし、それではどうして社会民主党議員団はこの点について沈黙しているのか?

 理由は明白である。イギリスの自由主義政府は、戦争に対する大衆の人気獲得のために、もっぱらベルギーの独立とフランスの不可侵を防衛する必要性ばかりを引き合いに出し、帝政ロシアとの同盟については完全に沈黙している。類似のやり方で、そして同じ動機から、ドイツ社会民主党は大衆に向かって、戦争はツァーリズムに対するものであるとだけ語り、ベルギー、フランス、イギリスについてはその名前すら口にはしないのである。言うまでもなく、この事実はツァーリズムの国際的評判にとって必ずしも光栄なことではない。だが、それにしてもドイツ社会民主党が、ツァーリズムに対する闘争の呼びかけ(Rufe)のために自己の名声(guten Ruf)を犠牲にしたのは、何とも嘆かわしいことである。ラサールは言っている、すべての偉大な政治的行為は物事を「ありのままに語ること」から始めなければならないと。にもかかわらず、祖国防衛はどうして「ありのまま」についての気まずい沈黙から始まったのか? ひょっとすると、それが「偉大な政治的行為」ではないからであろうか? 

 いずれにしても、祖国防衛は、きわめて広く、弾力性に富む概念である。この世界的破局はセルビアに対するオーストリアの最後通牒で始まった。その際、オーストリアは当然ながら、不穏な隣国から自国の国境を防衛する必要性によってのみ導かれていた。オーストリアの支柱はドイツであった。ドイツはドイツで、われわれがすでに知っているように、その企図は国家防衛の必要性にもとづいていた。この点について、ルードヴィッヒ・クヴェッセル(3)は、「建物全体の安定を脅かさずして、この複雑きわまる建造物(ヨーロッパ)から一つだけ壁を取り外すことが可能であると信じるのは、馬鹿々々しいことであろう」と書いている。

 ドイツはその「防衛戦争」をベルギーに対する攻撃でもって始めたが、その際、ベルギーの中立の侵犯は、最も抵抗の少ない戦線に沿ってフランスへと侵攻するための手段にすぎないのだそうだ。フランスの軍事的打倒について言えば、これはこれで、祖国防衛の単なる戦略的エピソードにすぎない、というわけだ。

 幾人かのドイツ愛国者は、事態のこうした構図を十分に納得のいくものだとはみなさなかったが、それも当然である。彼らははるかに妥当性のある別の事情を推測した。軍備の新時代へと突入したロシアは、ここ2、3年でドイツにとって今よりもはるかに大きな脅威になるであろう。そして、その間にフランスはその3年間の反動的改革を完全にやりとげてしまうであろう。したがって、ドイツが敵の奇襲を待つのではなく、今後2年間の事態を見越して、できるだけ早く攻勢に出ることが、まさに自衛の利益に合致した賢明な政策であるのは明白ではないのか? そして、ドイツとオーストリアが意識的に引き起こしたこのような攻撃戦争は、事実上一つの予防的防衛戦争であるのは明白ではないのか? もっとも、これら2つの見地はしばしば結合して一つになる。たとえ両者の間に若干の矛盾があるにせよである。すなわち、一方は、現在ドイツは戦争を欲してはおらず、それは三国協商の側から押しつけられたものであると説明するのに対し、もう一方は、現在の戦争はまさしく協商国にとって不利なものであって、まさにそれゆえドイツが武力衝突のイニシアチブをとったのだということを含意している。とはいえ、この矛盾は、防衛戦争という概念の助けを借りてやすやすと和解せられるのである。

 しかし、その他の参戦国も巧みに、防衛という都合のいい立場をドイツと争って主張している。フランスは、自衛を理由に、ロシアの敗北を容認することはできなかった。イギリスは、イギリス海峡の入り口におけるドイツの強化によってもたらされるイギリス本国への直接的脅威を干渉の動機とした。

 最後に、ロシアもまた自衛だけを語った。たしかに、誰もロシアの領土を脅かしてはいない。しかし、国の領分というものは――われわれはすでにこのことを聞かされたのだが――、ただ領土だけから成り立っているのではなく、その他に弱小諸国への影響力のような計測不能な諸要因からも成り立っているのだ。セルビアはロシアの勢力圏内に「属している」のであり、それは、バルカン半島におけるいわゆる均衡――バルカン諸国間の均衡だけでなく、ロシアとオーストリアの間の影響力の均衡――を維持するのにも役立っている。もし、セルビアに対するオーストリアの攻撃が成功したならば、この均衡はオーストリアに有利なように撹乱されるおそれがあり、それは結果的にロシアへの間接的攻撃を意味するであろう。サゾーノフ(4)は、疑いもなく、クヴェッセルの言葉の中から自己の最も強力な論拠を借りてきたのである――「建物全体の安定を脅かさずして、複雑きわまる建造物から、一つだけ壁を取り外すことが可能であると信じるのは、馬鹿馬鹿しいことであろう」。

 セルビアやモンテネグロ、べルギー、ルクセンブルクもまた、自国の政策の防衛的性格についての何がしかの証拠を持ち出しうるということをつけ加えるのは余計であろう。こうしてすべての国は防衛の立場にあり、攻撃者はどこにもいない。しかし、もうしそうだとすれば、防衛戦争と攻撃戦争とを対置することに、いったいどんな意味があるというのか? この場合に適用された基準はいずれも大きく異なっており、まったく比較しえないこともしばしばなのだ。

 われわれマルクス主義者にとって根本的な意義を有しているのは、戦争の歴史的役割をめぐる問題である。すなわち、この戦争は、生産力と国家形態の発展やプロレタリアートの力の集中を促進するものなのか、それとも阻害するものなのかという問題である。戦争についてのこの唯物論的評価は、すべての形式的契機よりも価値があり、本質的にそれは、防衛的か攻撃的かといった問題と何の関係もない。とはいえ、時おりこの形式的表現が、多少なりとも根拠をもって、戦争の歴史的評価を示すこともある。エンゲルスがドイツは1870年の戦争の際には防衛の立場に置かれていたと言った時、彼は戦争の直接的な政治的・外交的諸事情をまったく眼中にいれていなかった。彼にとって決定的な事実は、この戦争においてドイツが自らの民族統一の権利のために戦っており、その民族統一は国の経済的発展とプロレタリアートの社会主義的結集にとっての必要条件であったということである。この意味で、バルカン諸民族のキリスト教徒たちは、外国支配に対する民族の独立した発展の権利を擁護するために、トルコに対する防衛戦争を起こしたのである。 

 戦争の直接的な国際政治上の前提条件をめぐる問題は、戦争についてのこの史的唯物論的評価とは独立した問題である。ボナパルト帝政に対するドイツの戦争は歴史的に必然的なものであった。この戦争において、発展の権利はドイツ側にあった。しかしながら、他ならぬ1870年に戦争を引き起こすことに利益を有していたのはどちら側であるかといった問題を、この歴史的傾向それ自体があらかじめ決定するものではない。今ではよく知られているように、ビスマルク(5)は、国際政治上の、および軍事上の考慮にもとづいて、戦争における事実上のイニシアチブをとったのである。しかしながら、戦争は別の形でも起こりえた。すなわち、もしいっそうの先見性とエネルギーとがあれば、ナポレオン3世の政府はビスマルクの機先を制して、2、3年早く戦争を始めることができたろう。これは、事件の直接的な政治的相貌を根本的に変えたであろうが、戦争についての歴史的な評価をいささかも変えはしなかったであろう。

 3番目に、外交的性格をもった事情が続く。この点で、外交に果せられた任務は2重である。第1に、国際的・軍事的考慮にもとづいてその国にとって最も有利な瞬間に戦争を引き起こさなければならない。第2に、この目的を達成するにあたっては、世論を念頭において、流血の紛争になった責任を敵国政府に転嫁するような手段を用いなければならない。外交上の不正と陰謀とを暴露することは、社会民主党にとって、政治的アジテーションにおける非常に重要な任務である。しかしながら、われわれが事件の最中にどれほどこのことに成功したとしても、戦争の歴史的役割やその真の主導者について、外交的陰謀の網それ自体が何ごとも語るものでないことは明白である。ビスマルクの巧みなマヌーバーによって、ナポレオン3世はプロシアに宣戦布告をせざるをえなくなった。だが、戦争の実際のイニシアチブはドイツの側にあったのである。

 その次には、純軍事的な判断基準がくる。どちらの側が、どういう状況下で宣戦布告したかにかかわらず、戦略上の作戦計画は、主に防衛か攻撃かを考慮しなければならない。

 最後に、戦争が防衛的なものであるか攻撃的なものであるかの判定にとって、戦略計画を遂行する上で最初にとられた戦術的行動がしばしば重要な役割を果たす。

 マルクスに宛てた1870年7月31日付けの手紙の中で、エンゲルスはこう書いている。

「フランスが最初にドイツ領で攻撃を始めたということはいいことだ。ドイツが侵略の撃退に続いてフランス領に侵入したなら、フランスにおいては、先行的侵攻なしでそうする場合と、明らかに異なった結果がもたらされるであろう。これによって戦争は、フランスの側ではいっそうボナパルト的なものになるのだ」(6)

 かくして、攻撃戦争か防衛戦争かの判断基準が、2つの国民間の衝突を評価する場合でさえまったく矛盾に満ちたものであることを、1870年の譜仏戦争という古典的事例を通じてわれわれは知った。数ヶ国間の場合には矛盾はいっそうはなはだしい。もつれた糸を端からときほぐしていくとすれば、1870〜1871年の戦争において、攻撃と防衛の諸契機の次のような組み合わせが見出されるであろう。

 フランスの最初の戦術的行動は――少なくともエンゲルスの意見では――攻撃の責任がフランスにあると人民に思わせるものでなければならなかった。しかしながら、ドイツの戦略計画の全体は完全に攻撃的性格を有していた。ビスマルクの外交的策動は、ボナパルトが自己の意志に反して宣戦布告をせざるをえなくし、こうしてヨーロッパの平和を破壊する役割をボナパルトになすりつけた。だが、戦争における軍事政策上のイニシアチブは完全にプロシア政府から出ていたのである。これらの諸事情は、戦争の歴史的評価にとって、けっしてどうでもよいわけではないが、しかし、それでとうてい尽くされるものでもない。この戦争の原因の一つは、民族自決に向けたドイツの進歩的努力がフランス帝国の王朝的思い上がりと衝突したことである。しかし、この民族的「防衛戦争」はアルザス・ロレーヌの併合を導き、こうしてこの第2段階においてそれは王朝的征服戦争へと転化したのである。

 マルクスとエンゲルスの往復書簡が示しているように、1870年の戦争に対する彼らの関係は主として一般的な歴史的考慮にもとづいていた。もちろん、彼らにとって、誰が戦争を指導し、どのように指導しているのかといった問題は、本来けっしてどうでもいい問題ではなかった。

 「いったい誰が起こりうると考えたであろうか、1848年から22年後に民族戦争がドイツでこのような理論的表現を与えられようとは!」(7)とマルクスは苦々しく書いている。にもかかわらず、マルクスとエンゲルスにとって決定的意義を有するのは、戦争の客観的結果なのだ! 「プロシアの勝利、それは国家権力の集中を意味する――そして、それはドイツ労働者階級の集中に役立つだろう」(8)

 しかし、リープクネヒト(9)とベーベルは、戦争についての同じ歴史的評価から出発しながら、直接それに対する政治的立場を取ることを余儀なくされた。それはけっしてマルクスとエンゲルスの見解と矛盾するものではなかった。それどころか、彼らの完全な同意のもとに、リープクネヒトとベーベルは、帝国議会において、この戦争に対するいかなる責任も引き受けることを拒否したのである。彼らによって提出された声明はこう述べている。

「われわれは、帝国議会に要求せられている戦争遂行のための予算を認めることはできない。なぜならそれは、プロシア政府に対する信任投票となるからである。……すべての王朝戦争に対する原則的敵対者として、また、国籍の区別なく、すべての抑圧者と闘い、すべての被抑圧者を一つの偉大な兄弟として団結させるために努力している社会共和主義者にして国際労働者協会の一員として、直接的であれ間接的であれ、現在の戦争に対する支持を表明することはできない…」。

 シュヴァイツァー(10)は違ったように行動した。彼は、戦争の歴史的評価を戦術上の直接的な指導方針に変えてしまって――これは最も危険な政治的錯覚の一つだ!――、戦時公債やビスマルクの政策に対する信任票に賛成したのである。しかしながら、戦争によって生じる国家権力の集中が社会民主主義の利益となるためには、まさに労働者階級が支配者階級に対する革命的不信をみなぎらせながら、最初から、ユンカー王朝的集中に対して自己自身の階級的集中を対置することが必要であったのだ。したがってシュヴァイツァーは、戦争――それは彼に、それの主体的指導者に対する信任票を投じさせた――の他ならぬこの結果を、自らの政治的態度によってほりくずしたのである。

 40年後、ベーベルは自らの生涯を総括して次のように書いている。

「あの戦争の勃発の際とその継続中に、帝国議会の内外でとったリープクネヒトと私の態度は、何十年もの間、議論と激しい攻撃の的であった。最初は党の中ですらそうであった。しかし、それはほんの短い間であり、その後、彼らはわれわれの正しかったことを理解した。私は、当時のわれわれの態度をいささかも後悔していないということを告白しておこう。そして、その後2、3年のうちに公式・非公式の刊行物からわれわれが知りえたことを、もしわれわれが戦争の勃発時にすでに知っていたなら、最初の瞬間から、われわれの態度はずっと厳しいものであったろう。戦争予算に対する最初の投票において、われわれがしたように棄権するのではなく、われわれは反対投票をしたにちがいない」(『わが生涯から』第2巻、1911年、167頁)。

 1870年のリープクネヒトとベーベルの声明を、1914年にハーゼによって読み上げられた声明と比較してみるなら、ベーベルが「その後、彼らはわれわれの正しかったことを理解した」と言ったのは誤っていたのだという結論にいたる。けだし、8月4日の投票は何よりも、44年前のベーベルの政策に対する有罪宣告だからである。すなわち、ハーゼの言い回しにしたがうなら、人はこう言わなければならない、ベーベルは危機の際に祖国を見捨てたのだ、と。

 いったい、いかなる政治的理由と考慮とが、自己の最も栄えある伝統を放棄するようにドイツ・プロレタリアートの党を導いたのか? これに関してわれわれは、有力な説明を今日まで何一つ聞いたことがない。挙げられた論拠はすべて矛盾に満ちており、これまで実行されたことを正当化するために書かれた外交コミュニケのようなものである。『ノイエ・ツァイト』紙の論説委員は――同志カウツキーの祝福のもと――「ツァーリズムに対するドイツの立場は、1870年におけるボナパルチズムに対するドイツの立場と同じである」と書いている! この論説委員はエンゲルスの手紙から次の文章を引用している。

「あらゆる階級を含むドイツ人民の全大衆は、戦争はまず何よりも民族的存亡にかかわる問題なのだということを理解して、それゆえただちに立ち上がったのだ」(11)

 同じ理由で、今やドイツ社会民主党もまた立ち上がったのである。それは民族の存亡にかかわる問題であり、「ボナパルチズムをツァーリズムに置きかえるならば、エンゲルスの命題は今日でも妥当する」というわけだ。しかし、それでもやはり、1870年にベーベルとリープクネヒトが政府に対する財政的・政治的信任をあからさまに拒絶したという事実は、そっくりそのまま残っている。「ボナパルチズムをツァーリズムに置きかえるならば」、この事実もまた同じように妥当するのではなかろうか? だが、この質問に対する答えはどこにも存在しない。

 しかしながら、労働者党の戦術に関して、実際にはエンゲルスは自分の手紙の中で何と言っていたのであろうか? 

「かかる状況下で、全面妨害を説いて、第一義的考慮よりもあらゆる種類の第二義的考慮を優先させることが、ドイツの政党にできるとは私には思えない」(12)

 全面妨害!――しかし、全面妨害と政党の全面降伏との間にはすでに大きな開きがある。そして、1870年にベーベルとシュヴァイツァーの両立場を分けたのは、まさしくこの開きなのである。マルクスとエンゲルスはベーベルとともにシュヴァイツァーに対立していた。――同志カウツキーは、自分の新聞の論説委員であるヘルマン・ヴェンデルにこのことを説明することができたはずなのだ。

 そして現在、風刺雑誌『ジンプリツィスムス』誌(13)は天国にいるベーベルの霊とビスマルクの霊とを和解させているが、それは死者を冒涜すること以外の何ものでもない。もし『ジンプリツィスムス』誌とヴェンデルに、ドイツ社会民主党の現在の戦術を裏書きさせるために墓から誰かを目覚めさせることができるとすれば、呼び出されるのはベーベルではなくシュヴァイツァーであろう。現在、ドイツ・プロレタリアートの政党の上にのしかかってきているのは、シュヴァイツアーの霊なのである。

※  ※  ※

 しかしながら、1870年の戦争と現在の戦争とのアナロジーそのものがはなはだしく皮相であり、誤っている。あらゆる国際的諸関係はわきに置いておこう。現在の戦争が何よりもベルギーの粉砕を意味していたこと、ドイツの主力軍が、ツァーリズムに対してではなく共和国たるフランス対して襲いかかっていたこと、こうしたことを忘れることにしよう。戦争の出発点がセルビアを押しつぶそうとする志向であり、その目的の一つが、ヨーロッパで最も反動的な国家組織オーストリア=ハンガリーを強化することにあったということも忘れよう。最近の2年間に嵐のように再び前進し始めたロシア革命が、ドイツ社会民主党の態度によって重大な打撃を加えられたことも詳しく述べないことにしよう。これらの事実のすべてに目をつぶろう。ちょうど、ドイツ社会民主党の声明が8月4日にそうしたように。彼らにとっては、ベルギーもフランスもイギリスも、セルビアもオーストリア=ハンガリーも世界に存在していない。そこでただドイツだけをとりあげてみよう。

 1870年における戦争の歴史的評価は明白なものであった――「プロシアの勝利、それは国家権力の集中を意味する。そして、それはドイツ労働者階級の集中に役立つだろう」。そして現在は? もし今プロシアが勝利したとすれば、ドイツ労働者階級にとってどんな状況が生じるだろうか? 

 ドイツ労働者階級が歓迎しうる領土の拡張はただ、ドイツとオーストリア・ドイツとの統一だけであろうが――なぜなら、それは民族統一を完成させるであろうから――、しかしながらドイツの勝利はオーストリア=ハンガリーの維持と安定とをもたらす! ドイツ領の他のいかなる拡張も、ドイツを民族国家から多民族国家へと変化させる新しい一歩を意味するであろう。そして、それによってプロレタリアートの階級闘争をより困難にするいっさいの状況が生じるであろう。

 ルードヴィッヒ・フランクの希望――この希望を彼は時代遅れのラサール主義の言葉で表現しているのだが――は、戦争に勝利した後に「国内建設」に従事することである。ドイツが戦争前に劣らず、その勝利後においてもこの「国内建設」を必要とすることを疑う理由はない。しかし、勝利はこの仕事を容易ならしめるであろうか? そのような見込みは、他の国の経験のうちにないのと同様に、ドイツの歴史的経験のうちにもまったくない。

「われわれは、(1870年の勝利後)[ドイツの]支配者がやってきたことを自明のことであるとみなしている」と、ベーベルは自伝の中で語っている――「党指導部は新秩序における自由主義的な制度の可能性を信じていたが、それはまさしく幻想であった。この秩序は、あらゆる自由主義的な――私はけっして民主主義的とは言わない――発展に対する最大の敵対者であったことをこれまで示してきたまさにその当の人物[ビスマルク]によって許可されたものであり、今や彼は勝利者として、新帝国を胸甲機団の長靴のかかとで踏みつけているのである」(『わが生涯から』第2巻、188頁)。

 現在においても、勝利による何らかの違った結果を支配層から期待するいかなる理由も存在しない。それどころではない。70年代において、プロシアのユンカー層は当分のあいだ新しい帝国的秩序に適応しなければならなかった。彼らはすぐにはしっかりとした地歩を築くことができなかった。フランスに対する勝利から8年たってようやく、社会主義者取締法(14)が制定された。この44年間に、プロシアのユンカー層はドイツ帝国のユンカー層となった。そして、もし、最も激しい階級闘争の半世紀の後にユンカー層が勝利国の指導者として現われるとすれば、たとえルードヴィッヒ・フランクがドイツの勝利の戦場から無事に帰ってきたとしても、国内建設のための彼の奉仕をユンカー層が必要と感じないであろうことは疑いえない。

※22年ロシア語版原注 ドイツの傑出した社会愛国主義者。戦争の開始とともに、陸軍の志願兵に参加して戦死。

 しかしながら、支配者の階級的地位の強化ということよりずっと重要なことは、ドイツの勝利がプロレタリアートそのものに及ぼす影響の方である。戦争は資本主義諸国間の帝国主義的対立から生まれた。そして、ドイツの勝利は一つの結果だけをもたらしうる。すなわち、ベルギーやフランスやロシアを犠牲にしての領土の征服、敵国に対する通商条約の押しつけ、そして新しい植民地である。プロレタリアートの階級闘争は、それによって、ドイツの帝国主義的ヘゲモニーの基盤の上にすえられ、労働者階級はこのヘゲモニーの維持と発展とに関心を抱くようになるだろう。そして、革命的社会主義は、長期間にわたって、プロパガンダ集団としての役割を運命づけられることであろう。

 1870年に、ドイツの勝利の結果として、科学的社会主義の旗のもとでのドイツ労働運動の急速な発展をマルクスが正しく見通したとすれば、現在では、国際的諸条件はそれとはまったく正反対の予測を示している。ドイツの勝利は、革命運動の鈍化、その理論の空洞化、マルクス主義の理念の死滅を意味するであろう。

※  ※  ※

 しかし、ドイツ社会民主党はドイツの勝利などまったくめざしてはいない、と言う者がいるだろう。これに対しては何よりも、それは嘘だと答えなければならない。ドイツ社会民主党の希望はその出版物で表明されている。2、3の例外を除けば、それらは毎日のように、ドイツの労働者に対して、ドイツ軍の勝利を自分たちの勝利として描いている。その中では、モブージュの占領も、3度にわたるイギリス戦艦の撃沈も、アントワープ(15)の陥落も、ちょうど、新しい選挙区での議席獲得や賃金闘争での勝利の際の興奮と同じ感情を引き起こしている。ドイツの労働者出版物が、党の出版物も労働組合のそれも、今や、階級闘争に向けてプロレタリアートの意志を鍛える代わりに、その意志を軍事的勝利に向けて鍛える強力な機関になっているという事実から目をそらすわけにはいかない。われわれは、個々の機関紙の醜悪な排外主義的行き過ぎを念頭においているのではなく、社会民主党の出版物の圧倒的多数における基調を念頭に置いているのである。8月4日の議員団の投票がこうした態度への合図であった。

 しかし議員団はドイツの勝利をめざしていたわけでは断じてない! 外部からの危険を防ぎ、祖国を防衛することを自己の任務としたのである。ただそれだけだ……。

 ここにおいて、防衛戦争か攻撃戦争かという対立にわれわれは立ち返ってくる。社会民主党の出版物をも含むドイツの出版物は、まさしくドイツこそがこの戦争において防衛の立場に置かれているのだという主張を繰り返してやまない。先にわれわれは、防衛戦争と攻撃戦争とを区別するのに適用される基準について確認した。これらの基準はさまざまであり、かつお互いに矛盾している。しかしながら、今回の場合は、ドイツの軍事行動を防衛戦争の概念の中に押し込めることはどうやっても不可能であるということを、それらの基準は一致して示している。もっとも、われわれが明らかにしてきたように、このことは社会民主党の戦術にとって何の意味も有してはいないのであるが。

 歴史的観点から見れば、周知のように、若いドイツ帝国主義は完全に侵略的で向こう見ずである。国内産業の熱狂的な発展に駆り立てられて、ドイツ帝国主義は各国間の旧い力関係を撹乱し、軍拡競争で第一バイオリンをひいている。

 国際政治の観点から見れば、現時点はまさしくドイツにとって、自己の競争者に致命的な打撃を与える絶好の瞬間である。――もちろん、このことはドイツの敵の罪をいささかも軽くするわけではない。

 諸事件の外交的構図は、オーストリアの挑発行為においてドイツが果たした主導的役割に関していかなる疑問も残さない。その際、ツァーリの外交が例によってずっと卑劣なものであったという事実は、けっして事の本質を変えるものではない。

 戦略的には、ドイツの戦争計画の全体は激しい攻勢を基調としていた。

 最後に、ドイツ軍の最初の戦術的行動はベルギーの中立を侵犯することであった。

 もしこれらすべてが防衛的なものであるとすれば、いったい何を攻撃であると呼べばいいのか? しかしながら、たとえ諸事件の外交的構図が異なった別の解釈を許していることを――白書の最初の2頁がすでに極めて明瞭に語っているにもかかわらず――認めたとしても、そもそも労働者階級の革命党は、自己の政策を決定するうえで、労働者階級をだますことに最大の関心を抱いている政府によって提示された文書以外の判断基準を持ってはいないのであろうか? 

 ベーベルは言っている――「ビスマルクは全世界をペテンにかけ、次のようなことを人民に信じさせることができた。すなわち、戦争を挑発したのはナポレオンであり、平和を愛するビスマルクとその政策は攻撃を受ける立場に置かれたのだということを。……戦争勃発までの経過があまりにも誤解されたため、宣戦をしたフランスの戦争準備がその軍隊と同じくまったく不十分であったことや、反対に戦争を挑発されたように見えたドイツの戦争準備は万端であり、戦時動員がすらすらと正確に進んでいたということは、完全に見過ごされたのである」(『わが生涯から』第3巻、167、168頁)。

 このような歴史的前例の後なのだから、ドイツ社会民主党は、おそらく、もっと批判的な注意を働かせることができたはずなのだ!

 ドイツが攻撃を受けた時には社会民主党は祖国を防衛するだろうと、老ベーベルもまた一度ならず繰り返したというのは本当である。エッセンでの党大会で、カウツキーはベーベルに的確にこう反論している。

「私の意見では、われわれが敵の攻撃に脅かされていると確信した場合にはいつでも政府の戦争熱を分け合うなどということを、われわれは約束することはできない。もっともベーベルは、すでに今日われわれは1870年の時よりもずっと進歩しており、敵の攻撃が現実のものであるか想像上のものであるかを、どんな場合でも正確に区別することが今や可能になったと考えているようであるが。私はこんな責任を引き受けるつもりはない。われわれはすでに、どんな場合でもこうした区別を正確にすることができるであるとか、政府がわれわれをだましているのかどうか、それが敵の攻撃に対して民族の利益を本当に擁護しているのかどうかを常に知っているなどと、私は保証しようとは思わない。……侵略者は、昨日はドイツ政府で、明日はフランス政府かもしれない。そして、その次の日にはイギリス政府ではないと、どうしてわれわれに知ることができよう。侵略者は常に違っているだろう。……実際には、戦争の際にわれわれにとって重要なのは、民族的問題ではなくて国際的問題なのだ。というのは、列強間の戦争は世界戦争になるであろうし、それはヨーロッパ全体に及ぶのであって、2国間だけにとどまるのではないでからである。しかしいつの日か、攻撃されているのは自分たちであるとドイツ政府がドイツのプロレタリアートに信じ込ませ、またフランス政府がフランス人に対し同じことに成功するならば、フランスとドイツのプロレタリアが同じ熱狂さでもって政府に従い、お互いに殺しあい、お互いに滅ぼし合う戦争をわれわれは見ることになろう。このような事態は防がなければならないし、防ぐことができる。もしわれわれが、攻撃戦争かどうかの判断基準を採用せずに、プロレタリアートの利益――それは同時に国際的利益でもある――に合致するかどうかの判断基準を採用するならば。……戦争の際に、ドイツ社会民主党が国際的観点からではなく民族的観点から判断しようとし、自らを、まず第一にドイツ人であり、その次にプロレタリア党の一員であると感じるだろうなどというのは、幸いなことに誤解である」。

 この演説の中でカウツキーは、攻撃戦争か防衛戦争かといった不明確で矛盾に満ちた、戦争の形式的評価に社会民主党の立場を依存させようとする志向のうちに潜在している恐るべき危険性――ところで、今やそれはいっそう恐るべき現実と化している――を、とびきりの明晰さで暴露している。それに対して、ベーベルは本質的に何も答えなかった。このような彼の見地はまったく説明のつかないものであるように思われた。とりわけ、彼自身の1870年の経験を経た後では。しかしながら、その理論的不十分さにもかかわらず、ベーベルの立場はきわめて明確な政治的意味を有していた。

 戦争の脅威を生み出した帝国主義的傾向は、ドイツ社会民主党が、交戦陣営のどちらか一方の勝利から何らかの利益を期待する可能性をあらかじめ排除した。まさにそれゆえ、すべての注意は戦争を回避することに向けられた。主要な課題は、戦争の結果について諸政府を不安なままにしておくことであった。ベーベルは言っている。「社会民主党は、戦争へのイニシアチブをとる政府に反対するであろう」。これによって、彼はヴィルヘルム2世の政府を威嚇しようとしたのである。「もしいつか諸君が大砲と戦艦を用いる日が来ても、われわれをあてにするなかれ!」。

 しかし同時に彼は、ペテルブルクとロンドンの方を向いてこう言ってもいる――「強力なドイツ社会民主党による内部妨害についての間違った計算にもとづいてドイツを攻撃したりしないよう、気をつけたほうがいいだろう!」。

 防衛戦争に関するベーベルの見解は政治的威嚇を意味しており、それは同時に2つの方面、すなわち国内と国外に向けられていた。しかし、それは何らの政治的基準も含んではいなかった。すべての歴史的・論理的反対意見に対する彼の頑固な答えはこうだった。

「われわれは、戦争への最初の一歩を踏み出さんとする政府を暴露する手段を必ずや見つけ出すだろう――そして、そうするに十分なほどわれわれは賢明である」。

 社会民主党のこの威嚇の立場――それは、ドイツの党のものであるだけでなく、国際的なものでもあった――が何の成果も生まなかったわけではない。実際に諸政府は、戦争の勃発を引き伸ばすためにあらゆる努力をした。しかし、それだけではなかった。君主と外交官たちは今や倍する注意をもって、人民大衆の平和愛好的な心理に自分たちの行動を適応させ、社会主義指導者たちに耳打ちをしたり、インターナショナルの事務局に口出ししたりした。そして、戦争勃発の2、3日前に、ブリュッセルにおいて、ジョレスやハーゼから、わが政府は平和の維持以外のいかなる目的も有してはいないという主張を引き出すことを可能にするムードを作り出したのである(16)。そして、ついに暴風雨が解き放たれた時、各国の社会民主党は有罪人を探した――国境の反対側に! 威嚇としての限定された役割を果たしてきたベーベルの基準は、最初の銃がヨーロッパの国境線で火を吹いた瞬間に、いっさいの意味を失った。カウツキーが予言したまさにあの災厄が生じたのである。

 しかしながら、一見して最も驚くべきことは、社会民主党が実際のところ政治的基準が必要であるとは感じていなかったことである。われわれが経験したインターナショナルの破局に関する諸論拠は、極端な浅薄さの点で際立っている。それらは相互に矛盾していたり、入れ替わったり、2次的な意味しか持たないものばかりであった――要するに、事の核心は祖国を防衛しなければならないということなのだ。戦争の歴史的展望や民主主義的な階級的判断とは無関係に、歴史的にわれわれが受け継いだこの祖国を防衛しなければならない! われわれの政府が平和を望んでいたにもかかわらず、敵が「陰険な奇襲を加えた」からだという世界中の三文ジャーナリストが書いているような理由から防衛するのではまったくなく、戦争を引き起こした条件や方法とは無関係に、また誰が正しく誰が間違いであるかということとは無関係に、戦争はどの交戦国にとっても危機をもたらすからだというのだ。

 こうして理論的・政治的・外交的・軍事的考慮は、地震や大火災、大洪水を前にした時のように跡形もなく崩れさった。政府とその軍隊とは、人民を保護し救う唯一の力へと昇格した。一般大衆は実際に、政治以前の状態へと引き戻された。大衆のこの感情が一時的な感情であり、破局に対する自然発生的な反応にすぎない以上、わざわざそれを批判するまでもない。しかし、大衆の責任ある政治的代表者である社会民主党の態度の場合はまったく別問題である。有産階級の政治組織と、とりわけ国家権力は、単に流れに乗っていただけではなかった。彼らはすぐさま、大衆の非政治的感情を助長し、大衆を軍隊と国家権力の周りに団結させることに向けて、極度に張りつめた多様な活動に着手した。社会民主党は、それに反対する方向では、政府に匹敵するだけの活動をいささかも展開しなかっただけでなく、最初の瞬間から政府の政策と大衆の自然発生的感情の前に屈服した。そして、批判と不信という武器――たとえそれが最初のうちは消極的なものでしかなかったにせよ――で大衆を武装する代わりに、自分たちの態度全体を通じて、大衆がこの政治以前の状態へと移行するのを容易にし促進したのである。支配者に軽蔑されるほどの露骨さで、彼らは自己の50年間の伝統と政治的責務を自ら進んで否定したのだ。

 ドイツ政府はあらゆる点でドイツ人民と一致しているとベートマン・ホルヴェークは言明した。『フォアヴェルツ』紙の公言しているところによれば、社会民主党がとった態度からして、彼にはそう言明する完全な権利があった。しかし、彼にはまだもう一つの権利もあった。もし彼が、事情を考慮してより都合のいい時期まで政治論争を見合わせるということをしなかったとしたら、彼は、他ならぬ8月4日の会議の際に、社会主義プロレタリアートの代表者に向かって次のように言うことができたであろう。

「われわれは今日、われわれの祖国を脅かしている脅威を承認する点で一致している。そして、手に武器をもってこの脅威を防ごうとしている点でも一致している。しかし、それは昨日初めて生じたものでも成長したものでもない。諸君は、ツァーリズムの存在とその諸傾向について以前から知っていたはずである。そして、さらにわれわれが別の敵と直面していることも君たちは知っていた。それでは、いったい何の権利があって、われわれが陸軍と海軍とを建設していた時に、君たちはわれわれに非難を浴びせたのか? 何の権利があって、毎年毎年、軍事公債を拒否し続けたのか? 背信の権利によってか、それとも盲目の権利によってか? もしわれわれが、君たちの言うことを聞いてわが国の軍隊を建設してこなかったとしたら、君たちをも正気に返したロシアの脅威にわれわれが直面している今日、われわれはまったく無力であったろう。いま承認された戦時公債には、その穴を埋め合わせる可能性などなかったろう。なぜなら、われわれは今や鉄砲も大砲も要塞もない状態になっていたからである。今日、君たちが50億の戦時公債に賛成投票をしたという事実は、例年の君たちの予算反対の投票が単なるはったりにすぎず、もっと悪いことには、政治的デマゴギーであったということを君たちが白状したことになるのだ。なぜなら君たちはまさに、深刻な歴史的試練に遭遇するやいなや、自分たちの全過去を否定したからである」。

 このようにドイツの首相は言うことができた。そしてこの演説は、その時ばかりは完全に説得力をもって聞こえたことであろう。それに対し、ハーゼは何と答えることができたであろうか?

「外からの脅威に直面した場合、われわれはけっしてドイツの武装解除という観点には立たない。この種の平和ボケは、常にわれわれとは完全に無縁であった。国際的な諸矛盾の中から戦争の脅威が生じてきたかぎり、外国の侵略や外国による奴隷化からドイツが守られることをわれわれは望む。しかしながら、われわれが欲する軍隊は、国内生活においては人為的に訓練された組織として階級的奴隷化に役立つことがありえず、国際的諸関係においては帝国主義的冒険に適さないが、同時に民族防衛の任務においては不敗の軍事組織である。すなわち、それは民兵である! われわれは、諸君に民族防衛の任務を任せることはできなかった。諸君は、軍隊を反動的訓練の学校とし、諸君の将校団に対して、近代社会における最も重要な階級たるプロレタリアートを憎悪するように教化してきた。諸君らは、人民の真の利益のためにではなく、諸君らが民族の理念や国家の威信といった美名で隠蔽している一にぎりの支配者の利己的な利益のために、数百万人もの人命を賭す可能性があった。われわれは諸君を信用してはいない。だからこそ、われわれは毎年、『この階級政府には、ただの一人も、ただの一グロッシェンも出すな!』と呼びかけてきたのである」。

 「しかし、50億はどうなんだ!…」と議場の左右からの声がさえぎるだろう。

「不幸なことに、現在われわれに選択の余地はない。ドイツの現在の支配者によってつくられた軍隊以外のものをわれわれは有していない。そして敵軍は門口に立っている。われわれはヴィルヘルム2世の軍隊をすぐに民兵にとってかえることはできない。そしてそうであるかぎり、たとえそれがどのようなものであれ、われわれを守ってくれる軍隊に食糧と衣服と物資とを送ることに反対することはできない。われわれは自らの過去を拒否するのでもなければ、自らの未来を放棄するのでもない。われわれは余儀なくされて戦時公債に賛成投票するのだ」。

 多分これが、ハーゼの申し立てうる一番もっともらしいことであろう。

 しかしながら、社会主義労働者が個々の市民として、軍事組織をボイコットせずに、状況が「市民の義務」として押しつけたことを実行したことの理由が、たとえこのような考えでもって説明されたとしても、次のような根本的疑問の答えをわれわれはただ虚しく待つのみである。すなわち、政権への関与を拒絶されてきた階級的政治組織であり、ブルジョア社会の和解しえない敵対者、共和主義政党、インターナショナルの一支部である社会民主党が、なにゆえ、和解しえない階級敵によって指導されているこの行動の政治的責任を引き受けたのか?

 たとえ、今すぐにはホーエンツォレルン家の軍隊を民兵に置きかえる可能性がないにしても、このことが、この軍隊の現在の行動の責任を引き受けなければならないということにはならない。もし平時の内政において、われわれが君主制とブルジョアジーと軍国主義とに対して闘争をしているのであれば、そして大衆の中での自己の権威のいっさいがこの闘争のおかげだとすれば、それらが、戦争という反社会的で野蛮な最も恐るべき方法でもって自己の正体を暴露したその瞬間に、われわれが自己の権威をそれらの自由に委ねることは、自分たちの未来に対する最大の犯罪を犯すことであろう。

 国民ないし国家は自衛から免れることはできない。しかしながら、われわれが支配者に対する自らの信用を拒絶したからといって、われわれが彼らの手から権力を奪い取るほど強力でないかぎり、防衛のための武器や手段はもとより、攻撃のためのそれをもブルジョア国家から奪うことにはけっしてならない。われわれは反対党であって政権党ではない――平時と同様に戦時においても。これによってわれわれは、戦争がきわめて鋭く浮きぼりにしたあの特殊な課題、すなわち民族独立の事業にも、最も確実に貢献するのである。

 社会民主主義者は、民族の運命を、それが自民族であろうと他民族であろうと、軍事的成果のカードに賭けることはできない。資本主義国家が自国の独立を防衛するやり方、すなわち他国の独立を侵害し蹂躙するやり方の責任を資本主義国家自身に負わせることによって、社会民主主義者は、すべての人民大衆の意識の中に真の民族独立のための礎石を据えるのである。そして、勤労者の国際的団結を守り発展させることによって、大砲の口径からの諸民族の独立をも確かなものとするのである。

 もし、ツァーリズムがドイツの独立にとっての脅威であるとすれば、この脅威に対して唯一効果をあげる方法がある。その方法とはドイツとロシアの勤労大衆を連帯させることであり、これはわれわれにかかっている。しかし、こうした連帯は、ヴィルヘルム2世が「もはや諸党派は存在しない」「全ドイツの人民は私を支持している」と言うのを許しているあの政策をほりくずすであろう。ドイツ労働者がロシア労働者に向けて放つ弾丸に、ドイツ社会民主党の政治的・道徳的印判が捺されているという事実を前にして、われわれロシアの社会民主主義者はロシア労働者に対し何と言うべきであろうか? ドイツ党の最も著名な幹部の一人に対して私がこの質問をした時、彼は私に「われわれはロシアのための政策はつくることはできない。われわれがつくるのはドイツのための政策なのだ」と答えた。この瞬間、何という打撃が内部からインターナショナルに加えられたのかと、きわめて痛々しい明瞭さをもって私は感じたものである。

※22年ロシア語版原注 老モルケンブール(17)のこと。私はこの人物に、戦争が始まった頃にチューリヒで出会った。

 もちろん、ドイツとフランスでのように、交戦国の社会主義政党が自己の運命を自国の政府の運命に結びつけているかぎり、事態は改善されないであろう。いかなる外部権力も、いかなる押収や逮捕やポグロムも、国家のモロク神(18)が火と鉄の言葉で語り始めたその時に、社会民主党がそれに屈服することによって与えたほどの打撃をインターナショナルに与えることはできなかった!

※  ※  ※

 エッセン大会の演説の中で、カウツキーは――現実的可能性としてではまったくなく、一つの議論として――「防衛戦争」の名目で引き起こされる兄弟同士の争いの恐るべき構図を描いた。この構図が血ぬられた現実となった今や、カウツキーはわれわれをそれに甘んじさせようと骨を折っている。カウツキーは、インターナショナルの崩壊をまったく見ていないのである。

「ドイツとフランスの社会主義者の間における対立は、判断基準や原則的見地(!)のうちにではなくて、ただ状況についての異なった解釈のうちに横たわっており、その対立そのものは、評価をする者のお互いの地理的位置の相違(!!)からきている。したがって、この対立は戦争が荒れ狂っている間は克服しえない。にもかかわらず、それは原則的な対立ではなくて、ある特殊な状況から生じたものであり、したがって長続きするものではない」(『ノイエ・ツァイト』第337号、3頁)。

 ゲード(19)とサンバ(20)が、ポアンカレ(21)とデルカッセ(22)とブリアン(23)の協力者として登場し、ベートマン・ホルヴェークの敵として登場するとしても、すなわちフランスとドイツの労働者たちがお互いの喉を掻き切りあっているとしても、しかも、ブルジョア共和制とホーエンツォレルン君主制の統制された市民としてではなく、彼らの党の精神的指導下で、自己の義務を果たす社会主義者としてそうしているとしても、それでもこれはインターナショナルの崩壊ではない。「判断基準」は、フランス人の喉を掻き切るドイツの社会主義者にとっても、ドイツ人の喉を掻き切るフランスの社会主義者にとっても、同じ一つのものである。もしルードヴィッヒ・フランクが、フランス社会主義者に対して「原則的対立」を公言するためにではなく、完全な原則的一致の中で彼らを射ち殺すために武器を手に取ったとしても、そして、フランク自身がフランス人――ひょっとすると、同じ社会主義者の志願兵かもしれない――の放った弾丸で倒れたとしても、彼らの共通の「判断基準」にとってみれば、そこには何の不利益もない。それは単に「地理的位置の相違」の結果にすぎないのだ…。たしかに、このような文章を読むことは辛いことである。だが、これがカウツキーのペンによるものであるということは、ひときわ辛いことなのだ。

 インターナショナルは戦争に反対だった。カウツキーはこう言っている。

「もし、社会民主党のあらゆる努力にもかかわらず、それでも戦争になったならば、その時にはまさにどの国民もできるだけ自分自身の身を守らなければならない。このことから、すべての国の社会民主党にとって、この防衛に参加する同じ権利ないしは同じ義務が存在するということが出てくる。そして、誰もこのことをもって相手を非難(!)してはならない」(同前、7頁)。

 自分自身の身を守り、かつ、お互いに「非難」することなく、防衛のためにお互いの頭蓋骨を砕くこと、このようなものがかの共通の基準なのである。しかし、この基準の実際の内容によってではなく、それの形式的一致によってはたして問題は解決されるであろうか? ベートマン=ホルヴェークとサゾーノフ、エドワード・グレー(24)、デルカッセには判断基準についての完全な一致が存在している。彼らの間にはいかなる原則的対立も存在してしない。彼らは、お互いに非難し合う権利を最も有しない連中である。彼らの行動方式はただ「地理的位置の相違」から生じている。もしベートマンがイギリスの大臣であるとしたら、彼はグレイ侯と同じふるまいをしたであろう。彼らの基準は、彼らの大砲と同じくらいそっくりである。それは口径の大きさによってしか区別されない。しかし問題は、彼らの基準をわれわれの基準にしうるのかということにある。

 「戦争の際に、ドイツ社会民主党が国際的観点からではなく民族的観点から判断しようとし、自らを、まず第1にドイツ人であり、その次にプロレタリア党の一員であると感じるだろうなどというのは、幸いなことに誤解である」――エッセンでこのようにカウツキーは言った。そして、インターナショナルのすべての労働者政党に共通していた国際的見地に代わって、民族的見地が各党に登場した現在、カウツキーはこの「誤解」に甘んじるだけでなく、それのうちに判断基準の一致とインターナショナルの再生の保障を探し求めるのである。

「どの民族国家におけるプロレタリアートも、自国領土の独立と統一とを無傷のまま保つためにその全エネルギーを捧げなければならない。これは、プロレタリアートの闘争と最終的勝利の不可欠の基礎たる民主主義の本質的な一部分なのだ」(カウツキー、同前、4頁)。

 しかし、その場合、オーストリア社会民主党はいったいどうなるのか? 彼らもまたその全エネルギーを非民族的かつ反民族的なドナウ君主制の維持のために捧げなければならないのであろうか? そしてドイツ社会民主党は? 自らとドイツ軍とを政治的に同一視することによって、彼らはオーストリア=ハンガリーの民族的混乱の維持を助けるだけでなく、ドイツ自身の民族統一の破壊をも容易にするのである。民族統一は敗北によってだけではなく、勝利によっても脅かされるのだ

 ヨーロッパ・プロレタリアートの社会主義的発展の観点からすれば、フランス領の一部がドイツに編入されようと、またドイツ領の一部がフランスに編入されようと、どちらも等しく有害である。最後に、ヨーロッパの現状維持もまた、断じてわれわれの綱領ではない。なぜなら、ヨーロッパの政治地図は銃剣の先で書かれたものであり、すべての国境は諸民族の生きた体の上を通っているからである。社会民主党は、自らの民族的(ないしは反民族的)政府を精力的に支援することによって、ヨーロッパ地図の訂正を銃剣の力と裁量とに再び委ねている。そして、いずれの民族の銃剣が勝利によって君臨するかにかかわらず、民族独立と民主主義という自己の綱領を銃剣の行動に対置し、その綱領を多少なりとも実現しうる唯一の力を、社会民主党はインターナショナルをズタズタに引き裂くことによって台無しにしているのである。

 かつての経験は改めて確証された。すなわち、もし社会民主党がその階級的任務よりも民族的任務を優先させたならば、それは社会主義に対してだけでなく、本当の意味での民族の利益に対しても最大の犯罪を犯すことになるのだ。

 

  訳注

(1)ドイツ社会民主党議員団の声明……全文は『第2インターの革命論争』(紀伊国屋書店)に所収。

(2)ベートマン=ホルヴェーク、テオバルト・フォン(1856-1921)……ドイツの反動政治家、1909年以降ドイツの宰相。第1次世界大戦勃発時を推進。開戦に際し、「必要の前に法なし」と宣言した。1917年に失脚。

(3)クヴェッセル、ルードヴィッヒ(生没年不明)……ドイツ社会民主党の右派。

(4)サゾーノフ、セルゲイ(1861-1927)……帝政ロシアの政治家。1910〜1916年、外相。親英仏路線をとり、バルカン問題でドイツ、オーストリアと対立。第1次世界大戦の一因をなす。ロシア革命後、白衛軍の側で反革命活動に従事、パリに亡命。

(5)ビスマルク、オットー(1815-1898)……ドイツの政治家。1862年にプロイセンの首相となり、「鉄拳宰相」として強権でもってドイツ統一を推進。1871年から1890年までドイツ帝国の宰相。

(6)邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第33巻、15頁。

(7)「7月28日付け、マルクスからエンゲルスへの手紙」、同前、11頁。

(8)「7月20日付け、エンゲルスからマルクスへの手紙」、同前、5頁。

(9)リープクネヒト、カール(1871-1919)……ドイツの革命家、ヴィルヘルム・リープクネヒトの息子。ドイツ社会民主党の左派。第1次大戦において、帝国議会で軍事公債にただ一人反対。ローザ・ルクセンブルクとともにスパルタクス団を結成。第1次大戦後、ドイツ共産党を結成。1919年にローザ・ルクセンブルクとともに社会民主党政府によって虐殺される。

(10)シュヴァイツァー、ヨハン(1834-1875)……ドイツの弁護士、ジャーナリスト。1863年から全ドイツ労働者協会の会員。ビスマルクの政策を支持し、1872年に除名された。

(11)「8月15日付け、エンゲルスからマルクスへの手紙」、邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第33巻、35頁。

(12)同前。エンゲルスの原文は、トロツキーの引用文とは少し異なっている。原文では「かかる状況下で、ヴィルヘルムに全面的回避(Abstention)を説いて、第一義的考慮よりもあらゆる種類の副次的考慮を優先させることが、ドイツの政党にできるとは私には思えない」(下線は違っている部分)となっている。トロツキーの引用文では「回避」の部分はドイツ語で「Obstruktion」となっている。エンゲルス原文の英語だと「回避、節制」という消極的意味になるが、トロツキーの引用文の方だと、むしろ「阻止、妨害」という積極的意味になる。また、ロシア語版でも「妨害、議事妨害」の意味の単語があてられている。

(13)1896年にミュンヘンにおいて、ランゲンらによって創刊された大衆雑誌。当初、反政府・反宗教の立場で風刺記事を多く掲載し、民衆の共感を呼んだ。しかし、第1次大戦中には戦争支持・排外主義の立場に立ち、その存在価値を失った。トロツキーは1908年に、この雑誌についての論文を『キエフ思想』に書いている(『文学と革命』第2巻所収)

(14)直訳すれば「例外法」。「社会主義者鎮圧法」とも訳される。1878年に起きたヴィルヘルム一世暗殺計画を口実に、ビスマルクは同年10月に制定。これによって社会民主党は活動を厳しく制限され、有力な機関誌は発行を禁止された。1890年に廃止。これはビスマルク失脚の原因となった。

(15)アントヴェルペン、アンヴェールとも言う。ベルギー北部、同国第2の都市。ヨーロッパの中心的港市。

(16)7月29日、30日にブリュッセルで非公開のうちに開かれたインターナショナル第16回国際事務局会議での、ジョレスやハーゼの発言を指す(レーニンやトロツキーは出席していない)。ハーゼの発言は、それに先立って7月26日に行なわれたドイツ宰相ホルヴェークとの会談における彼の「ドイツ政府は平和を望んでいる」という言い分を間に受けたものであった。この会議の議事録については、『第2インターの革命論争』に所収。

(17)モルケンブール、ヘルマン(1851-1927)……ドイツ社会民主党の中央派、その後右派に。1904年以降、ドイツ社会民主党の書記長。1911〜1924年、ドイツ社会民主党国会議員団の団長。第1次世界大戦中は社会排外主義者。

(18)モロク神……子供を人身御供として祭る古代セム族の神。

(19)ゲード、ジュール(1845-1922)……フランスの社会主義者。ラファルグとともに、フランスのマルクス主義派の代表。フランス社会党では議会主義のジョレス派と対立し、左派を形成。第1次大戦中は排外主義に転落。無任所大臣として政府に入閣して、対独戦争を遂行した。

(20)サンバ、マルセーユ(1862-1922)……フランス社会党の改良派の指導者。第1次大戦中は排外主義者。1914〜1917年に公共事業相として入閣。

(21)ポアンカレ、レイモン(1860-1934)……フランスのブルジョア政治家。1912〜13年にフランスの首相兼外相として軍拡を推進し、三国協商を強化。1913年にフランスの大統領。第1次大戦中は超党派的「神聖連合」を組織。22〜24年に再び首相。1923年にドイツのルール地方を占領。1924年辞職。1926年に「国民連合」の首相兼蔵相。

(22)デルカッセ、テオフィール(1852-1923)……フランスのブルジョア政治家。1898年から1905年まで外相として、露仏同盟を強化し、英仏協定を結ぶ。

(23)ブリアン、アリスティッド(1862-1932)……フランスのブルジョア政治家。第1次大戦後、首相を10回、外相を11回つとめる。1920年代には反ソ政策を推進。

(24)グレー、エドワード(1862-1933)……イギリス自由党の政治家。1885年下院議員となり、1905〜16年に外相。日英同盟、対独包囲網の結成に尽力。第1次世界大戦中はイギリス戦時外交を指導。

 

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