『大阪毎日』特派員の質問に対する回答

トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄

【解説】本稿は、プリンキポに追放されたトロツキーによる最初の本格的なインタビューであり、『反対派ブレティン』創刊号に掲載された。インタビューを行なったのは、日本の特派員である布施勝治で、布施は、トロツキーがソ連の指導者であった時から何度となくインタビューを試みているが、プリンキポのトロツキーの住居にまでわざわざおもむいて、このインタビューをものにしている。

 なお、このインタビューの底本である『反対派ブレティン』第29号の当該文献には質問が書かれていないので、インタビュアーの布施勝治本人が『ロシア群像』(1948年)という著作に記している質問をそのまま記載することにした(ただし旧漢字や旧かなづかいは改め、また一部の表現を現代的なものに変えている)。

Л.Троцкий, Письмо Л.Д.Троцкого корреспонд.японской газеты “Осака Майничи”, Бюллетень Оппозиции, No.1/2, Июль 1929.

Translated by Trotsky Institute of Japan


1、質問――貴下の健康は?

  回答――あなたは私の健康について尋ねておられる。悪化する時期もあるがだいたいにおいて満足すべき状態だ。医者の治療が必要だ。

 

2、質問――貴下は最近の外国記者との会見において、英米戦争の避くべかざることを説かれたそうだが、日米戦争については、貴下は今もなお5年前、モスクワで私に語られたと同じく、日米開戦は可能であると同時に避くべからざるものではないと考えておられるか?

  回答――その通りだ。私はアメリカとヨーロッパの間の対立が基本的なものだと考えている。それに対してアメリカと日本との間の相互関係は、従属的な意義しか持っていない。言いかえれば、アメリカは、日本に対する自らの態度を、その都度、イギリスとの関係から決定するだろう。これは一般に、そう言いたければ、ワシントンと東京との矛盾の緩和を意味する。しかし、時に矛盾が先鋭化する時期が訪れる個々の場合も、ありえないことではない。これはまたしても、東京とロンドンとの関係しだいである。戦争を不可避だと私がみなしているのか? 未来の戦争勃発の期日に対する無駄な予想を下すことは避けて、私は、世界大戦から10年を経て、国際連盟が存在し、ケロッグ不戦条約(1)などが締結された今日ほど、世界が無分別な頑迷さをもって軍事的破局へ向かっている時期は人類史上なかったと言わなければならない。これは予測でも仮説でもなく、確信である。さらに言えば、揺らぐことのない信念である。

 

3、質問――貴下は第3インターナショナルに対抗するため、第4インターナショナルの創設を計画しているとのことだが、これは事実か?

  回答――私が第4インターナショナルの創設を計画しているという話は、純然たるたわごとである。社会民主主義のインターナショナルも共産主義インターナショナルもともに深い歴史的起源を有している。中間的なインターナショナル――第2半インターナショナル――も追加的な(第4)インターナショナルもいっさい必要ない。そのようなインターナショナルの存在する余地はない。コミンテルンにおけるスターリンの路線こそ第2半インターナショナルに向かう路線である。中間主義は社会民主主義と共産主義との間に立っている。しかし、中間主義は、たとえ国家機構という手段に依拠していても、安定していない。それは、社会民主主義のひき臼と共産主義のひき臼に挟まれて砕きつぶされてしまうだろう。闘争と軋轢と分裂等々を経て、結局あとに残るのは、2つのインターナショナルだけであろう。社会民主主義のインターナショナルと、われわれの共産主義インターナショナルである。私は後者の結成に加わり、その伝統と将来のために現在闘っているのであり、それを何人にも明け渡すつもりはない。

 

4、質問――ドイツその他の列強諸国は、貴下に対し、門戸を閉鎖してしまった。これは貴下があまりに、赤い辣腕をふるい、ために資本主義国から、危険なる革命家として、嫌忌されるに至った結果ではあるまいか? それとも別に他の原因があるのか?

  回答――あなたはなぜ多くの国々が私に扉を閉ざすのかと尋ねておられる。たぶん、資本主義的民主主義とはどのようなものかをマルクス主義者が労働者大衆にうまく説明できるようにするためであろう。ノルウェー政府が自らの決定の基礎にしたのは、私の安全性に関する配慮であった。私はこの主張にまったく納得がいかない。私は一私人であって、私の身の安全問題は私の個人的問題にすぎない。私には敵もいれば友人もいる。ノルウェーや他の国に私が住むからといって、私の安全性に対する責任をいささかなりともその国の政府に負わせるものではない。この状況を全面的に知悉していて、かつ意識的にこの責任を引き受けることができる唯一の政府は、ソ連邦から私を追放したスターリン一派の政府だけである。

 

5、質問――貴下は先に、ソヴィエト連邦の現在の政権の転覆を期待しているものは、重ねて失望に会するだろう、と語ったそうだが、これは、もし近いうちにあらずとしても、あまり遠くない将来において、ソヴィエトの現政権の転覆を可能であるとする意味か?

  回答――敵がソヴィエト体制のすみやかな転覆を待ち望んでも無駄であるという私の言葉を引用して、すぐでないとしても、それほど遠くない将来に「ソヴィエト体制の転覆の可能性」を私が認めるかどうかをあなたは尋ねている。正しい政策をもってすれば、ヨーロッパと全世界で不可避的な社会主義革命が起こるまで、ソヴィエト体制の安定性を確保できるものと信じている。そしてこの革命の後に、ソヴィエト体制は国家のない共産主義社会へと徐々に道を譲っていかなければならない。だが、歴史は階級闘争を通じて実現される。このことは、まったく絶望的な立場も、絶対に安全な立場も存在しないことを意味する。闘争の力学の中では常に、巨大な役割が指導部に与えられている。最近の5年間の路線が今後も継続されるならば、独裁が遅かれ早かれ掘り崩されるだろう。だが、反対派の鞭のもとで、スターリンの機構は一方の側からもう一方の側へよろめいており、党は考え比較することを余儀なくされている。反対派の指導者たちが投獄されたり、追放されたりしている現在ほど、ソ連邦の政策が反対派の考えを中心に展開されていることはなかった。

 

6、質問――貴下が、ブルジョア言論機関に執筆したことに対し、非難の声が高い。貴下はこの非難について、何と釈明されるか? 

  回答――ブルジョア新聞に私が書いたことの問題について、私はソヴィエト共和国の労働者への手紙(2)の中で必要な説明をしておいた。その手紙を読んでもらいたい。

 

7、質問――ソヴィエト連邦では、目下、連邦共産党の幹部は右派と争闘をやっている。貴下はロシアにありし当時、常にあらゆる右傾運動と闘われた。貴下にして、もし現在、連邦共産党の幹部であるとしたならば、新右派に対していかなる態度をとられたであろうか?

  回答――右派に対する闘争を続けるかと尋ねておられるが、もちろんそうだ。反対派の鞭に動かされて、スターリンは現在、右派と闘争している。しかしスターリンは、この闘争を中間主義者として遂行している。中間主義者は、左右両派の分裂によって、自らの中間的立場を、プロレタリア的路線からも、公然たる日和見主義的路線からも、守らなければならない。結局のところ、スターリンのジグザグ闘争は右派を強めるにすぎない。革命的立場だけが党を衝撃と分裂から守ることができる。

 

8、質問――近年、世界各国の革命戦線は、すこぶる平穏状態にある。資本主義の世界は、ただ安定したのみならず、多くの強国における資本主義は、ぐんぐん勢力を盛り返しつつある。世界革命に対する貴下の予想はいかなるものか?

  回答――資本主義の安定化を持ち出して、世界革命の展望がどうなるかを尋ねておられる。世界革命の展望はまさにその安定化そのものから成長している。アメリカ合衆国の資本主義が世界発展の最も革命的な要因である。われわれは、世界市場の大規模な争奪戦、深刻な経済衝突、販路恐慌、失業とそれに伴う騒擾を見ることになるだろう。それに、軍事衝突の不可避性という展望をつけ加える必要がある。私も、革命という間接費用を伴わない社会の平和的移行の方が可能であれば、その方がずっと好ましいと思っているが、今日起こりつつある事態をよく検討するならば、自分自身をそうした無知に委ねることはできない。それに、救いがたい愚か者だけが、平和的移行を信じることができるのである。

1929年4月24日

『反対派ブレティン』第1/2号

『トロツキー研究』第35号より

 訳注

(1)ケロッグ不戦条約……1928年、パリで15ヶ国が参加して調印された条約で、国策の手段としての戦争の放棄をうたう。日本も調印。アメリカ国務長官のケロッグが提案したので、ケロッグ条約とも呼ばれる。

(2)ソヴィエト共和国の労働者への手紙……1929年3月29日付の手紙「ソ連労働者への公開状」のこと。この手紙は、戦前の1929年7月に『我等』という雑誌の7月号に訳出されている。戦後は未邦訳。


  

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