第3国会

トロツキー/訳 西川伸一

【解説】この論文は、反動期においてトロツキーが書いた一連の国会に関する諸論文の一つである。トロツキーがこの中で描き出しているツァーリ専制の行動様式は、ある程度、現在の日本にもあてはまる。ツァーリは、革命後の不況を乗り切るために、巨額の国債を発行し、それを大規模な公共事業(アムール鉄道建設)と軍事予算につぎ込み、今日の世代だけでなく、未来の世代の富をも収奪しようとしたが、今の日本でも、不況克服と称してさらに大きな規模での国債発行がなされ、それが大規模な公共事業に湯水のごとくつぎ込まれている。そして、当時のツァーリズムとブルジョア・リベラリズムが、ますます活路を帝国主義に求めたように、現在の日本も、帝国主義的衝動がますます強まっている。こうした袋小路を打開する活路について、トロツキーは、ずばり専制の打倒以外ありえないと述べている。

 今回アップしたのは、『ノイエ・ツァイト』に掲載されたドイツ語版からの翻訳である。革命後に『著作集』の第4巻『政治的年代録』に収録されたときに一部表現が変わっている。その異同については、『トロツキー研究』第18号を参照のこと。

L.Trotsky, Die dritte Duma, Die Neue Zeit, No.26, 1908.

translated by Trotsky Institute of Japan


※原注 この論文はポーランド王国・リトアニア社会民主党の機関紙『プシェグロント』(クラクフ)紙上に、同時に発表される。

 

1、国会と予算

 第3国会は現在、官僚によって課された宿題に懸命に取り組んでいる。すなわち、大急ぎで1908年度予算を審議し承認しようとしている。

 ロシアの国家予算は、その内部構造において、ツァーリズムの全歴史と性格を忠実に反映している。すなわち、経済的貧血に苦しむロシアの農民を、脳溢血になりかねないほどの多血症のヨーロッパの証券市場と結びあわせたことによって、前例のない力をもつに至った巨大な軍事的警察的機構の全歴史と性格を反映している。

 西欧の官僚主義的絶対主義が自立した権力として身分制的君主制から成長して出てきたのは、ようやく第3身分が封建領主と特権的坊主たちの政治的影響力と均衡を保つことができるほど強くなったときであった。それに対してツァーリズムは、その本質からしてけっして身分制的君主制だったことはない。というのは、ロシアの貴族もロシアの聖職者も、政治的支配者の身分にまで達することができなかったからである。彼らがそうなるのを妨げたものは、一方では広大で人口希薄な国土の経済的困窮であり、他方では国家権力が絶えず西欧と競争せざるをえなかったことである。

 西に隣接する諸国の軍事的国家機構はロシアよりはるかに豊かな経済的基盤に立脚していたが、ツァーリズムはその膨張政策によってこれら諸国との厳しい争いにますます深くはまっていった。そのため、ツァーリズムはその国土を貪欲に搾取し、人民の余剰生産物のごく小さな部分までも召し上げてしまった。こうして、特権的身分はその発展をたえず妨げられ、従属的な存在になることを運命づけられたのである。貴族や聖職者、それに続いてブルジョアジーについても、事情はこのようなものだった。

 ロシアで強力な第3身分が形成される以前に、あるいはそれが可能となる以前に、ツァーリズムはすでに西欧の証券市場の乳首をたっぷり吸っていた。国債を起債する技術、すなわち、国民の今日の余剰生産物のみならず、明日のそれまで食いつぶしてしまう術を習得したことによって、ツァーリズムは、財政を国際的基盤に委ねてしまった。アジア的専制とヨーロッパ的絶対主義の中間的組成を自らの社会的性質としているツァーリ専制は、証券市場を通じて、西欧の行政的・軍事的技術の最新の手段を手中にした。この過程は、予算と国家債務の急激な膨張をもたらした。国の経済状態からのツァーリ政府の自立は、ベルリンやパリの銀行家への依存の累進的増大を意味した。今世紀初頭に、ツァーリズムは歴史上例のないほどの国債に依存した巨大な軍事的機構に成長した。ロスチャイルドは、ロシアの専制は証券取引所と同様に永遠であるという、確固たる確信を抱いた。もちろん、戦争と革命は、この信用(クレジット)を根底からゆさぶった。しかしながら、ゆさぶっただけで、やめさせることはできなかった。こうして、周知のように政府は1905年には8億ルーブル、1906年には9億ルーブルの国債を起債することになる。

 現在では、ロシアの国債は累計で90億ルーブル、つまり赤ん坊を含めた国民1人あたりおよそ60ルーブルに達している! 1908年度の国家予算は、25億1500万ルーブルという巨額になっている。さまざまな事業や専売(ウォッカ、鉄道など)からの収入を差し引くと、およそ15億ルーブルを税負担だけで賄うことになる。つまり、国家は年間の国民所得の20%も控除しているるのだ! 信じられないほどの税負担の増大は、政治的独裁を「当然のことながら」財政的独裁に結びつけている、国家機構の特異な性質の反映にほかならない。

 徴税という方法で確保される15億――そのうち、直接税は12・5%、すなわち1億8000万に満たない――から、予算は、奉天・対馬省[陸軍と海軍]に5億1200万、戦争の後始末に6700万、1907年に償還されなかった短期国債の償還に5300万、さらには支払うべき国債利息の補填に3億8600万をそれぞれ充てることを定めている。こうして、陸軍、海軍、および銀行家は10億ルーブル以上を、すなわち歳入のまさに3分の2を飲み込んでしまう。これに加えてさらに、主に戦略的目的を有した鉄道経営による赤字分、および「治安」のためにかかる1000万がある。これらが旧体制の運営費用だ。

 ツァーリズムの予算は疲弊した国土の手には負えないこと、その維持は国内市場のいっそうの枯渇と経済的麻痺を意味すること、これらは革命前にすでにわかりきったことであった。しかし、事実を認めることと予算を実際に「健全化」することの間には、その後の事態が示したように、進むべき長い長い道のりがあったし、今でもあるのである。

 この予算には専制体制の収入と支出しか反映されていないと社会民主党はみなした。それゆえ、現存する財政・金融システムとの闘争の問題は、社会民主党にとって、ツァーリズムの革命的打倒の問題に帰着する。1905年の12月事件に先だって出された、労働者代表ソヴィエトの有名な「財政宣言」(1)において、この課題はまさにそのように定式化された。すなわち

「唯一の活路は政府の打倒である。……これは、国の政治的経済的解放にとってのみならず、とりわけ、国家財政の安定にとっても、不可欠の前提条件である」。

 蜂起が鎮圧され、あたかも自由主義が革命の遺産の相続人になるかのように思われたあと、自由主義はますます包括的相続の立場に与していった。すなわち財産目録のみならず、旧体制の全負債と罪業を引き継ぎ、それらを分割で償還しようともくろんだのである。第1国会における騒々しく混乱した野党勢力の戦術――それは、革命的行動の「原則的な」拒否ゆえにまったく無力であったが、それにもかかわらず、労働者代表ソヴィエトの財政宣言の生気のないコピーであるヴイボルグ宣言をもたらした――に終止符を打った自由主義(すなわちカデット)は、すでに第2国会において、政府が求める新兵補充案に賛成投票し、さらには予算と国債に賛成投票すると約束している。こうして、自由主義は君主の信頼を得られるものと期待している。そして、この信頼を通じて予算に影響を及ぼし、次にはこの予算を通じて国家権力に影響を及ぼすことを期待しているのだ。

 しかし、第2国会は解散させられ、革命の新たな遺産相続人として、今や、10月17日同盟[オクチャブリスト]という保守的な国権的自由主義が登場している。カデットが革命的課題の遺産相続人を自任したように、オクチャブリストは自らがカデットの協定戦術の遺産相続人であることを示した。カデットがオクチャブリストの陰でどんなに軽蔑したような顔をしようとも、オクチャブリストはカデットの前提から結論を引き出したにすぎない。つまり、革命を拠り所にすることができない以上、ストルイピンの立憲主義を拠り所にするということである。カデット自身はこのことを十分に自覚している。それでも、ミリュコーフ一派の議員団がしばしば野党的なジェスチャーをあえてとっているのは、彼らの勇気が、多数派であるオクチャブリストの国会救出戦術への期待によって育まれているからにすぎない。

 両足を同時に「包括的相続」の立場に置いた第3国会は、ツァーリ政府の45万6535名の新兵を承認した。とはいえ、これまでのところクロパトキンとステッセリ(2)の管轄分野[軍事部門]での改革はせいぜい、モール、ボタン、肩章を新調しただけなのだが。第3国会は内務省の予算を可決した。これによって、内務省は、ロシアの領土の70%を、法の首つり縄で武装した暴吏に引き渡した。もっとも、残りの30%の地域では、「平時」に適用される法律に基づいて、絞首刑が執行されるのだが。

 第3国会は政府に対して、首相[ストルイピン]の秘密の指図で、フィンランドに関する質問、すなわち反フィンランド的な質問をしたが、それは、内務省がフィンランドにおけるボブリコフ体制(3)を復活させるのを容易にするためであった。国会は、運輸省の予算だけ1ルーブル削減し、こうして国会は、この金食い省の予算が執行される違法なやり方に対する不同意を示そうとしたのである。しかしこの場合でさえ、反対の意思表示であるこの100コペイカが、ストルイピン氏の事前の黙許なしに予算から削られえたとは、とても考えられない。

 国会の土地委員会は、第87条(4)にもとづいて発布された1906年11月9日の有名な勅令(5)を大筋で承認した。この勅令の目的は、農民の中から経済的により強い所有者層を救い出し、残りの農民すべては、言葉の生物学的意味での自然淘汰に委ねようというものである。そして、国会がこの問題を日程にのせることをさして急いでいないのは、ストルイピンの大改革を採用すると、右に位置する農民議員を左に追いやってしまうのではないかと恐れているからにすぎない。というのは、彼ら農民議員は、オクチャブリストの指導者の1人が嘆いたように、依然として「収奪幻想」に取りつかれているからである。それにもかかわらず、「能率的」で法律を遵守する国会は、少なくとも毎週7回は「救出」されなければならないのである。

 議会における状況の支配者たるオクチャブリスト自身、支配政党、あるいは少なくとも、政権政党であることから、はるかに隔たっている。むしろ、彼らは日毎にますます単なる御用政党の役割へと落ちぶれてしまっている。彼らは政府が望むものすべてに賛成し、ストルイピンが授けるあらゆる汚らわしい指図を実行している。そして、ギリシア人の女王陛下の小遣い銭のために、毎年国民の財産から出される10万ルーブルの支出の廃止さえ満足にできないのである。

 「ありがたいことに、わが国には議会がない!」と大蔵大臣は、国会が「彼の」愛しい予算を通過させた際に示した臆病な恭順ぶりをみて、喜びのあまり声をあげた。

 「ありがたいことに、わが国には憲法がある!」と勇ましく彼に異議を唱えたのは、抜け目のないミリュコーフであり、それによって彼は協定戦術を見事に総括したのである。

 介添人として神様がついたこの滑稽な論争、そしてその論争に伴ったあらゆる状況とは、以下のとおりである。すなわち、自分を「監督する」国会の政治的存在を否認する大蔵大臣の「不穏当な」発言。それに対するオクチャブリストの国会議長の控えめな非難。この不遜な行為にかんがみ辞表を出そうとするストルイピンの脅し。ストルイピンとともに、「ありがたい憲法」もおじゃんになるのではないかという恐れ。国会を前にしての議長の、自分はあえて国会の存在を信じているという、もったいぶった言い訳。国会はその存在を完全に無視する政府にたてつかない場合に限って、今後も存在できるとを確信した国会の喜びの拍手――これらすべては、専制的官僚の政治的・財政的独裁が存在することを、まったくリアルかつ明瞭に示した。こうした第3国会の経験を経た今や、改めてこの行き詰まりからの活路は、かつて革命の財政宣言が定式化した言葉以外にはありえないだろう。すなわち「活路はただ一つ。政府を打倒することである」。

 

2、アムール愛国主義

 しかしながら、第3国会の最も注目すべき活動は、アムール鉄道建設計画をすぐに承認したことである。もっとも、この計画は、第87条にもとづいて、すでに国会の開催されていない時期に着手されていたのであるが。

 政府の見積りによれば、アムール鉄道の建設には2億3800万ルーブルかかる。ヴィッテ伯はその費用を3億5000万と見積もった。このことは、利息の支払いと不可避の赤字を補填するために、毎年新たに2200万から3000万ルーブルを支出しなければならないことを意味している――これは文部省の全予算のおよそ半分である。

 この決定だけで、次の問題に答えるのに十分である。すなわち、はたして国会は、歴史的に引き継がれた国家権力と共同して、革命の最も基本的な課題を解決することによって、革命を出し抜くことに成功するかどうか、という問題である。世界史上比類のないほどの恐るべき軍事的敗北を喫し、数年間、国土が革命の衝撃によって絶えず揺さぶられた政府は、自分が少し強くなったと感じるやいなや、ほとんど開発されていない遠く離れた荒涼たる辺境を通る鉄道建設への巨額の支出によって、「改革の時代」の幕を開けた。政府にとって再びすべてが可能になったという厚かましい確信に満ちた演説においてストルイピンは、あるディレッタントの説を引いた。すなわち、アムール地方は「タキトゥス(6)時代のゲルマニア」にそっくりだという説である。「しかし、諸君――とストルイピンはもったいぶって声を張り上げた――今日のゲルマニア[ドイツ]がどうなっているかを思い浮かべたまえ!」。そして、農民が慢性的な飢餓から抜け出せないでいる極貧の国の「議会」は、アムール流域の荒れ地を今日のドイツに変えるために必要なクレジットをすぐさま承認したのである。

 しかし、アムール鉄道は最初の一歩にすぎない。政府の代表自身が強調しているように、この第1歩は不可避に次に一歩、すなわち、第2シベリア鉄道の敷設へと至るであろう。これら2つの事業は、同じく真っ先に着手されることになっている軍隊の物質的な改善とあわせて、ココヴツォフ(7)の計算によれば、およそ8億ルーブルを要するだろう。たしかに、国会の委員会は艦隊再建のための巨額の支出を拒否した。しかし、この「拒否」がうわべの劇的展開もまるでない穏やかな結末に終わったことは、政府が事態をそれほどひどく悲観的に捉えてはいない、と推測させる原因となっている。

 アムール鉄道の問題に対する国会の好意的態度は、正気の沙汰とは思われないが、しかし、そこには十分な理由がある。第3国会の大部分は、お互いにあいいれない諸要素から成り立っているが、革命の社会的傾向に対する腹の底からの敵意という共通の絆によって結びつけられている。そして、彼らはこれを十分によく知っている。国家の「力と威信」である外交政策の諸問題は、国会がその内部対立を克服しながら、革命の原因となった逃げ道のない諸問題に対する回答を見い出せそうな唯一の領域である。それゆえわれわれが目にしているように、ここ数ヵ月間、国の「教養ある」諸階級の政党はますます内政問題から手を引き、ますます執拗に彼らの注意のすべてを外交政策に集中させているのである。

 右翼はアムール鉄道に賛成投票したが、これは、政府がアムール川沿いの数百万デシャチーナの土地を農民の入植用に割り当てると約束していることで、すでに十分に説明がつく。土地問題を太平洋岸に押しやるという計画ほど魅力的なものがありえようか。オクチャブリスト的な中間派に位置する大資本の代表は、アムール愛国主義が、何よりも、国債を通じて自国の産業のポケットに3億ルーブルを流してくれるものとみなした。深刻な産業恐慌に際して、国の生産力を引き上げようとする大がかりな内政改革の遂行が、一時的にせよ無期延期されるのであれば、再び政府の発注に期待するしかない。そして、オクチャブリストがこうした状況に完全に甘んじてしまったために、通商産業省の予算審議における議論は、中味のまったくないものとなってしまった。

 カデットはアムール鉄道に反対投票した。もし彼らが政府の提案の運命を左右するキャスティング・ボードを握っていたならば、どのように行動したか、という問題は論じないでおこう。次のことを指摘するだけで十分である。すなわち、カデットの中に、東アジアでの冒険的計画を支持する強力な潮流が存在しており、ミリュコーフ自身がカデット議員団の中でこの少数意見の精力的な提唱者になっていたのである。

 他方で、ピョートル・ストルーヴェ氏――自由主義的ブルジョアジーのこのきわめて敏感な政治的バロメーターは、ロシアのインテリゲンツィアの「反国家的」伝統に反対する精力的なキャンペーンを開始し、彼らに、「神秘的な人格」としての国家が「自己目的」であり、「大ロシア」の国力の問題においては政党間の相違の余地はないことを理解するよう訴えた。彼は、満州の戦場でさんざん痛めつけられた神秘的人格が、偉大な汎スラブ的使命を全うしなければならない土地として、バルカン半島の名を挙げた。時代遅れの汎スラブ主義のこうした民族自由主義的な戯画は、ドイツ系でかつてはマルクス主義者であったピョートル・フォン・ストルーヴェ氏のペンで描かれることで独特の魅力を帯び、すでに教授や学生の間で、カデットに指導されたスラブ主義団体の形成をもたらした。そしてまさにこの瞬間に、ペテルブルクにいるオーストリアの指導的なスラブ主義的民族主義者に敬意を表して催された宴会は、彼ら民族主義者がオクチャブリスト、カデット、および右翼と親交を結ぶことによって、汎スラブ主義的政策の新しい「偉大な」時代を切り開きつつある。

 政治的には、ロマノフ王朝という神秘的人格と知識層との和解は、次のことに現われている。すなわち、カデット議員団が目をつぶって対外代表機関のためのクレジットを承認し、外務大臣が登場するときはいつも拍手で迎え、そして拍手で送ることのうちに、である。理論においてはオクチャブリストよりも原則的に、だが、実践においては彼らよりも臆病に、カデットは、革命が今まで解決しなかった課題の解決を帝国主義に求めている。「プロレタリアートの独裁」だけでなく、今や普通選挙権をも「色あせた幻想」として片づけてしまったこの党は、革命と反革命という事態に押されて、客観的な必然として、大土地所有の強制収用と社会秩序全体の民主化という理念を、したがってまた、安定した国内農民市場という形で、資本主義的発展のためのしっかりした基盤を創出しようという期待をも放棄するに至ったのである。しかし、そのような場合に、国家は当然、その党にとって「自己目的」に転じる。なぜなら、その神秘的使命は外国市場における支配権を確保することだからである。野党的な色づけがなされているミリュコーフの帝国主義は、第3国会の基礎をなしている反革命ブロック――すなわち、専制的官僚と、文化の上っ面だけをなめた地主、思い上がった資本家からなるブロック――に、ちょっとしたイデオロギー的粉飾を与えているのである。

 もちろん、この神秘的使命を実現するには、きわめて莫大な額が必要となる。しかし、財政事情はきわめて嘆かわしい。金準備高は、外国債の金利を支払わなければならないので、絶えず減っていく。ヴィッテ伯は参議院の委員会ですでに、一度ならず、金本位制にいかに大きな危険が迫っているかを述べた。大蔵大臣はもちろん、この危惧がどれほど的を射ているかを、誰よりもよく知っている。それにもかかわらず、彼は確信をもってこう主張する。土地改革あるいは普通義務教育の導入のようなきわめて金のかかる改革によって、財政に負担をかけさえしなければ、当面の愛国主義的目的のための資金は十分にある、と。そして、この確信に異議を唱えることはむずかしい。市場を覆っている現在の不況からして、国債証書は何といっても、自由化された資本の投資先の最も魅力的な形態である。リスクがあるって? しかし、第1に、国債の応募者たちが冒すリスクは、多くの国債所有者の間で分散され、他方で、国債の売却から生じる莫大な利益は少数の所有者の手に集中する。第2に、この証書の法外な利息には、リスクに対する保険料がすでに含まれている。さらに、たとえ絶えざる収奪と軍法会議による殺人を伴っているにせよ、国土を外見上「平穏」が支配し、国会が政府と提携し、野党が外務大臣にうやうやしく拍手している現在、リスクは以前より小さくなっていると思われる。最後に、ちょうど今、ロシア政府がフランス外交の精力的な協力のもとにイギリスに接近したことで、アムール愛国主義にとってイギリスの金融市場が開かれることになった。あらゆる根拠からして、エドワード7世とニコライ2世との会談は、ロンドンの証券市場におけるロシアの巨額の負債へのきらびやかな序幕にすぎないだろう。

 だが、こうしてつくられた状況には、一見したところまったく予期せぬ結果を伴っていた。政府は対馬の海と奉天の地でその力の威信を失い、頭上にその冒険的政策の恐るべき帰結が降りかかったのであるが、その政府が今や突然、「民族」代表の愛国主義的信頼の中心に位置することになったのだ。政府は何の反対もなしに、50万の新兵と当面の軍事支出のための5億ルーブルを受け取っただけではなく、極東でのあらゆる新たな実験に際して、国会の支持をも得たのだ。しかし、これでもまだすべてではない。右と左から、すなわち、黒百人組とカデットから、政府の外交政策は積極性に欠けているという非難を、政府は聞かされているのである。こうして、ツァーリ政府は、状況の論理全体によって、世界政治における地位の回復を求める闘争という危険な道へと押しやられている。そして、誰がその行く末を知っていようか。おそらく、専制の運命は、ペテルブルクやワルシャワの街頭で決せられるより前に、アムール川流域、あるいは黒海沿岸で繰り返し試練にさらされるであろう。

1908年4月

『ノイエ・ツァイト』第26号

『トロツキー研究』第18号より

  訳注 

(1)財政宣言……パルヴスが起草し、トロツキーの修正を経て1905年11月27日のソヴィエト執行委員会で採択。12月2日に8つの新聞に発表された。「活路はただ一つ。政府を打倒すること、政府から最後の力を奪い去ることである。その最後の生命線である財政収入を政府から奪わなければならない」と主張し、税金を始めとする国庫へのあらゆる支払を拒否し、貯金局と国立銀行から預金を払い戻すよう訴えた。全文は、トロツキー『1905年』(現代思潮社)の222〜224頁に収録。

(2)「クロパトキンとステッセリ」は、ロシア語版では「クロパトキン」。クロパトキン(1848〜1925)は帝政ロシアの軍人で陸軍大将。ステッセリ(1848〜1915)は中将。両名とも日露戦争の敗北で失脚した。

(3)フィンランドのボブリコフ体制……1889年にフィンランドの総督となったボブリコフの独裁体制のこと。ボブリコフは1904年に死去。1905年革命の影響で、ツァーリはフィンランドにおいて議会(セイム)の創設と新しい憲法の制定を余儀なくされた。

(4)第87条……憲法の第87条のことで、国会が開催されていない期間に何か緊急事態が生じた場合、内閣評議会は皇帝に諮って一定の立法活動を行えるとした。

(5)1906年11月9日の勅令……農民の農村共同体からの離脱と個人的土地所有を認めて強い個人農を創出しようとした。

(6)タキトゥス(55〜115)……ローマの歴史家。『年代記』『歴史』などを書き、当時のローマ支配層を批判。『ゲルマニヤ』でゲルマン人の生活や習慣を詳しく描き出した。

(7)ココヴツォフ(1853〜1943)……地主出身のツァーリ官僚。1896年に大蔵次官。1904年以降、大蔵大臣で国会議員。ストルイピンが暗殺された1911年に首相に就任。1914年に辞任。


  

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