議会主義と労働者階級

トロツキー/訳 西島栄

【解説】この論文は、1914年初頭に書かれ、『ボリバ(闘争)』という名の雑誌の第1号に掲載された。この雑誌はトロツキー派(すなわち党統一派)の雑誌で、アントーノフ・オフセーエンコ、ラデック、ポクロフスキーなどが執筆していた。

 この論文の中でトロツキーは、単に革命的宣伝・煽動の演壇としてのみブルジョア議会を位置づける旧来の左派的議会論を越えて、議会外の大衆運動と結びつけて具体的な要求を実現する手段として議会を位置づけている。同時に、トロツキーは、ロシア的状況のもとでは日和見主義が重要な位置を持つことはないと断言して、レーニンの反メンシェヴィキ路線をセクト主義として批判している。レーニンは、「統一の叫びに隠れた統一の破壊」という有名な論文で、日和見主義に対する軽視だとしてこの論文を批判した。10月革命後、トロツキーの著作集がソ連の国立出版所から出されたが、この論文は、レーニンによる批判があったからか、再録されていない。しかし、内容的には非常に重要であり、革命的議会主義のあり方を考える上できわめて貴重な文献である。

Л.Троцкий, Парламентаризм и рабочий класс, Борьба, No.1, Фебраль 1914.

Translated by Trotsky Institute of Japan


 現代の立憲国家ないし議会制国家は、文明諸国において王権絶対主義、すなわち君主とその官僚の無制限の権力と交替して登場した。

※原注 より狭い意味での議会制国家は、立憲国家と区別して、内閣が君主に対してではなく議会に対して責任を負う国家体制のことをいう。

 絶対主義から議会体制への移行は、けっして平和的で「無痛のうちに」起こったのではない。旧君主制権力――イギリス、フランス、ドイツ等々――は自己の大権を全力をつくして擁護した。立憲運動の先頭にはブルジョアジーが立っていた。彼らはしだいに自己の手中に最も重要な生産手段を集中した。このことはブルジョアジーに巨大な経済的意義を与えた。政治的にブルジョアジーは人民大衆に、とりわけ都市大衆に依拠し、その中には新興工業プロレタリアートも含まれていた。このことはブルジョアジーに巨大な政治的意義を与えた。

 ブルジョアジーは議会政治を必要とする。すなわち、国内で直接法律を発布し、国家予算を決め、行政と司法を資本主義社会の要求に適応させることを、階級としてのブルジョアジーに認める国家体制を必要とする。一方では、自己の経済的力に、他方で、人民大衆の革命的エネルギーに依拠したブルジョアジーは、結局のところ、いたるところで君主と封建諸階級の抵抗を打ち破った。だが、どこでも同じ手段、同じ程度でそうなったわけではない。

 最も古い資本主義国であるイギリスでは、ブルジョアジーは、2つの革命によって画される長期の闘争の結果、議会の手中に、すなわち自分自身の手中に、すべての権力を集中した。そのさい彼らは王権を――ただし、ほとんど名前だけ――残しておくほうが、国際関係における有用な道具としても、厳粛な儀式の際に人民大衆に催眠術をかけ眠らせる神聖なシンボルとしても、自分たちに都合がいいとみなした。王権と並んで、全能のイギリス・ブルジョアジーは上院を残した。すなわち、議会の特権的な半封建部分を、民主主義に対する防波堤として残したのである。

 立憲的発展の道に遅れてやってきたフランスでは、闘争はより先鋭な形態をとった。大革命によって権力を自己の手中に獲得した(1789〜1792年)ブルジョアジーは、共和制を宣言し、国王を処刑した。その後、人民大衆に対する恐怖から、ブルジョアジーは天才的軍人ナポレオン・ボナパルトを皇帝に据えた。君主主義的絶対主義からも、革命的プロレタリアートからも、自らを守ってくれる安定した体制を求めて、フランス・ブルジョアジーは一方から他方へとうろうろした。王朝を廃止し、再び共和制を確立し、その後再び帝政を復興させ、最後に、3たび共和制をしいた。現在、多少なりとも安定した均衡に到達したフランス・ブルジョアジーは、議会主義の共和制のもとで無制限に国内を支配している。

 ドイツ・ブルジョアジーは、フランス・ブルジョアジーよりもかなり遅れて政治的舞台に登場した。すでに君主制との革命的闘争の最初の段階で、彼らは民主主義を恐れ、共和制を避けた。最初の強襲(1848年)の後、ブルジョアジーは後退し、君主と半封建的貴族が地位を維持するのを許した。自己の利益に関して政府と話し合うことのできる一定の議会を確保すると、ブルジョアジーは、君主とユンカー(大地主)に真の政治権力の「獅子の分け前」を与え、彼らを私有財産の最も有望な守り手とみなした。結局のところ、ドイツ・ブルジョアジーは損をしなかった。彼らは、立憲的な半絶対主義の体制のもとでこの40〜50年間に強力な経済発展を成し遂げた。

 ロシアの社会的発展は、ドイツよりもさらに遅れている。「東欧に行けば行くほど――と、15年前にピュートル・ストルーヴェ氏はロシア・ブルジョアジーの遅ればせの登場に関して書いている――、ブルジョアジーはますます政治的には弱く、臆病で、卑劣になり、プロレタリアートにかかる文化的・政治的課題はますます大きくなる」。

 立憲体制が最初にかいま見えるやいなや、ロシア・ブルジョアジーは武器を降ろしただけでなく、それを昨日までの同盟者[プロレタリアート]に向け、そのすべての希望を支配層の善意にかけたのである。ブルジョアジーは人民の運動と一線を画そうとし、8月6日のブルイギン国会にすがりついた。ブルジョアジーの左のカデット的翼は、第1国会および第2国会において「自分たちのやり方で」、すなわち人民の背後で政府と話し合うことによって政治的諸問題(諸課題)を解決しようと無駄な努力をした。ブルジョアジーの右のオクチャブリスト的翼は、第3国会で守護者の位置を占め、今では第四国会で無力に足踏みし、政府と社会(すなわちブルジョアジー)との間の契約を遵守する必要性を権力の側に思い起させようと無駄骨をおっている。わが国ではまだ政治的均衡状態に達していない。わが国のエセ立憲的絶対主義はいまなお、いわゆる平和的で正常な発展をブルジョアジーに保証していない。しかし、すでに、ロシア・ブルジョアジーにとっての議会は人民の意志の機関ではなく、旧体制の勢力と合意に達するための便利な舞台にすぎないということは、完全な明確さをもって暴露されている。

 

 社会民主党の議会戦術は、天からの出来合いの贈物としてすぐに生まれたわけではない。それは、若き革命的社会階級がブルジョア議会制国家の条件に適応することによって、内的軋轢や誤りや闘争を通じて、形成されたものである。

 すでに見たように、ブルジョアジーが議会ないしそのパロディにしがみつくのは、さっさと革命の燃えるような基盤から去って、ブルジョア国家を永遠不滅のものにすることを目的とした組織的な立法活動の平和的な基盤に移るためである。その革命的期待を裏切られた労働者は、ブルジョアジーから離れると同時に、革命によって創られたブルジョア議会からも離れるようになる。その際、ボイコット主義は、革命に引き込まれた広範な労働者大衆にとって、革命を裏切ったブルジョア議会と政治的に一線を画す最も単純な形態である。アナーキストはプロレタリアートの階級的自決のこの初歩的形態を永遠化し、それを金科玉条にしようとする。

 しかし、無駄である。議会をボイコットしたからといって、議会がなくなるわけでも、国内の政治生活において一定の役割を演じなくなるわけでもないことを、労働者はすぐに理解する。「純粋な」反議会的革命主義は、まったくもって受動的な戦術であり、国の政治的発展を一歩たりとも前に推し進めるものではなく、有産階級の反人民的活動を容易にするだけであることが、たちまち明らかとなる。

 他の諸階級の議会活動を観察することによって先進的労働者は、選挙運動や国会の演壇がそれ自体として、議会の役割や勢力や構成とは無関係に、工場集会や地域の宣伝よりもはるかに広範囲な煽動の可能性を開くものであることを確信する。ブルジョアジーの組織活動と「実務的」な立法活動とは対照的に、彼らは国会に対する純粋に煽動的観点を確立する。選挙が、自己の綱領を発展させ自己の勢力を計算するきわめて有利な可能性を与えるものであることを確信した先進的労働者は、ボイコット戦術を放棄し、純粋に煽動的目的で国会に参加することを呼びかける。これが、プロレタリアートの議会戦術における発展の第2段階である。

 しかし、ことの本質上、この観点――国会の演壇の「純煽動的」利用――は、大衆そのものではなく、その能動的上層部の観点、すなわち、煽動するのであって、煽動されるのではない上層部の観点である。

 ストライキは疑いもなく、覚醒と教育の巨大な煽動的意義を有している。しかし明らかに、ストライキの煽動的意義という名目で大衆にストライキを呼びかけることは、まったく馬鹿げたことであろう。ストライキの煽動的意義はまさに次の点にある。すなわち、労働者が、労働時間の短縮や賃金アップのために、すなわち大衆が明確に自覚している諸要求のために闘争に参加することで、ストライキは、その一歩ごとに、労働者を新しい経験によって豊かにし、その視野を広げるのである。

 だが、このことは議会制度にもあてはまる。煽動的意義のために選挙運動への参加を大衆に訴えることは、実際には、大衆にはこのような煽動活動がもはや必要ではないということ、つまり大衆が全体としてすでに、働きかけの対象ではなく活動する主体であることを前提にしているのである。だが実際には、われわれが選挙運動において動員し議員団との結びつきを確保しようとしている何十何百万の労働者を選挙活動に引き込みうるのは、ストライキの場合と同じく、一定の明確な要求を獲得する闘争の名においてであり、それ以外ではありえない。このことは、一つ一つの法律、一つ一つの条項が直接労働者大衆の生活に影響を及ぼす労働立法制定活動の問題が議会活動の議事日程にのぼったときに、まったく明白になる。プロレタリアートの広範な層が、労働力の売り手として、また生活必需品の買い手、市民、借家人等々として遂行している闘争と、国会内での出来事との間の結びつきを理解するにつれて、彼らの間に、議会での衝突やグループ編成に直接介入して、一定の直接的な成果を獲得しようとする、ないしは少なくとも、新しい打撃を未然に防ごうとする志向が起こる。

 このような志向はそれ自体として誤ったものだろうか? それは、ロシアにおいては有害な幻想だろうか。もちろん、否である。国会多数派の政策の、全体として反動的で利己的な性格は、その社会的構成によって規定されている。しかし、それにもかかわらず、この政策は、どちらが――すなわち、「上流社会」や団結した貴族か、それとも人民大衆か――国会により大きな圧力をかけるかによって、多少なりとも左右にずれる。たしかに、国会のあれこれの採決はそれ自体として問題を解決するものではない。しかし、大衆の圧力は、国会だけでなく、その背後に立っている勢力にも感じとられる。したがって、大衆が国会を通じて立法活動の方向に直接影響を及ぼそうとする大衆の志向のうちには、ユートピア的なものは何もないのである。それどころか反対に、それは、分散的な階級闘争が階級的な政治要求のうちに総括され、より計画的かつより原則的なものになり、したがってまた、その発展の中で、6月3日体制にとってより危険なものとなることを意味するのである。

 これに応じて、党の国会議員団の活動も複雑になる。党議員団が以前、国会の演壇を煽動的演説のための好都合な舞台としてのみ利用していたのに対し、現在では、議員団はますます階級の政治的代弁者となりつつある。それは今や、単にしかるべき機会を利用して一定の綱領的スローガンを展開するだけでなく、工場や労働者クーリヤにおいて大衆がその周囲に団結している当面の諸要求のための直接的な闘争を遂行している。今や、議員団は、最も広範な労働者大衆を自己の活動領域に引き込む完全な可能性を手にしている。今や、抽象的な煽動的考慮ではなく直接的な政治的考慮にもとづいた議員団の活動こそが、煽動としての意義をも全面的に獲得しているのである。

 ロシア社会民主党は、議会制度に対する関係において、3つの段階を経てきた。それらは、古い議会制諸国の労働者運動の歴史にも確認することができる。

 まず最初に、ボイコット主義、すなわち議会活動の拒否。それは、大衆にとって、革命を清算しようとして議会(ないしその幻影)にしがみついているブルジョアジーと一線を画す最も簡単で手ごろな形態である。

 次に、議会戦術の原則的承認。ただし純煽動的目的でのそれ。これは、「組織的」活動、すなわち改良のための直接的闘争を、ユートピア的なものとして、ないし日和見主義的なものとして、拒否する。

 最後に、第3段階として、労働者大衆が直接的闘争を遂行している当面の諸要求を国会の演壇に持ち込むこと。党の国会議員団は、単に宣伝を行なう集団から、階級運動の戦闘的な政治組織になる。

 

 プロレタリアートは、そのボイコット主義において、自己の自然発生的な非妥協性を、ブルジョアジーの保守的協調主義に対置する。その発達した議会戦術において、プロレタリアートは、個々の場合にその自覚的な階級的利害をブルジョアジーの階級的利害に対置することを学ぶ。ブルジョアジーの改良活動は体制のラディカルな変革と対立する。だがプロレタリアートの改良活動は不可避的に体制のラディカルな変革を導く。ブルジョア議員は、6月3日派の人々の立憲的な「再教育」を自己の主要な課題としている。だがプロレタリアートの代表者は、6月3日派に反対して労働者大衆を教育しようとする。プロレタリアートの部分的な獲得物は、プロレタリアートを現存する体制と和解させるのではなく、反対に、彼らの自信と要求水準とを引き上げる。部分的な失敗は、彼らを意気消沈させるのではなく、反対に、階級的非妥協性を鍛えるのである。

 第1段階――ボイコット主義――の場合、無政府主義的な受動性に堕落する危険があり、また、第2段階――純粋な煽動――の場合には、議会活動がエセ革命的教条主義に陥る危険性があるとすれば、第3段階においては、改良主義的日和見主義に陥る危険性が生じる。

 社会民主主義は、プロレタリアートの階級運動から発生するのではない手段によって実際的成果のための闘争をすることはできない。社会民主主義にとって、あらゆる成果の中で最も重要なものは、つねに政治的意識性と階級的団結の成長である。ところが、純煽動的な議会主義から議会的政治闘争へと移行することは、容易に日和見主義的誘惑を引き起こす。すなわち、ブルジョア政党に頼ろうとする試み、「統一」活動の人為的な追求、そして、スローガンとその宣伝とを自由主義的「世論」に順応させること、である。

 だが、ロシアの政治的状況全体は、労働運動――その議会的代表者を含む――の中の日和見主義的偏向を助長するのにきわめて不都合である。事態が、誤りの徴候やその途上における個々の一歩以上に進むことはない。わが国の労働運動における自由主義の危険性を叫びたてることは、単に現実を非常にセクト主義的に戯画化するものでしかない。この叫びによって正当化されている分裂は、この叫びが矛先を向けようとしている日和見主義的動揺よりも、千倍も有害である。

 だからといってわれわれは、ロシアのマルクス主義者が、わが党の議会戦術の原理的方向性の全責任を事物の客観的行程に負わせなければならないと言いたいのではない。そうではなく、人為的な策略と陰謀によってプロレタリアートの議会戦術と政治的影響力の正常な発展を追い越そうとするあらゆる試みに、思想的に反撃しなければならないということである。しかし、この反撃は行動の統一を破壊してはならない、と簡単な政治的状況判断は語る。そして、この反撃は部分的要求のための闘争の拒否に立脚することはできない、とマルクス主義は語る。

 いわゆる「部分的」な諸要求(団結の自由などの労働者民主主義の根本的要求も含む)を拒否することは、わが党の最小限綱領を体制全体の決定的な変革まで延期することと同じである。このような戦術観は、他方の極における日和見主義の人為的製造の最も確実な手段である。幸いなことに、これはロシア労働運動のすべての実践と明らかに矛盾している。

 われわれの目の前で繰り広げられているのは、大衆的労働運動と科学的社会主義との融合の過程、言いかえれば、プロレタリア社会民主主義の発展と強化の過程である。階級闘争は、大衆の部分的要求を労働者階級の最終目標と不可分の絆で結びつける。しかし、この絆の両端である改良と最終目標とは、それでもやはり、別の側面である。そして、この絆を中心に、時には一方の先端を、また時には他方の先端をひっぱる諸分派の激しい闘争が展開されているのである。

 先進的労働者は、一つの手段によってしかこの闘争を終わらせることができない。自分たちが指導している運動を明確に理解すること、すなわち、戦術的結び目における外見上の矛盾を思想的に克服することである。今や、先進的労働者は両端をマルクス主義的に結び合わせることを学ぶべき時だ!

『ボリバ』第1号

1914年2月22日

『トロツキー研究』第18号より


  

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