ロシア社会民主党

トロツキー/訳 照井日出喜

【解説】この論文は、ドイツ社会民主党向けに、ロシア社会民主党内部での内紛と分派闘争の様相について、またロシア社会民主党の歴史的到達点について簡潔に紹介した論文である。この論文は、ロシアの主要な分派をまとめて批判しているため、すべての分派代表者の大きな怒りを買った。この点について、トロツキーはその自伝の中で次のようなエピソードを伝えている。

 しかしながら、私がロシア社会民主党について書いた『フォアヴェルツ』の最近の論文のことを話すと、がらっと会話の様相が変わった。この論文は、国際大会に向けて書いたもので、メンシェヴィキのこともボリシェヴィキのことも厳しく批判していた。この論文のとくに先鋭な部分は、いわゆる「徴発」問題を論じた箇所であった。1905年の革命が崩壊したのち、武装徴発とテロリスト的襲撃は、革命党そのものを解体する道具と化していた。……徴発はロンドン大会後もやまず、党に害を与えた。私が『フォアヴェルツ』で攻撃を集中したのもまさにこの点だった。……

 「電報でそれを取り止めることはできないのかね?」。

 「できません」、私は答えた――「論文は今日の朝にでも出るはずです。それにどうして取り止めなければならないんです? あの論文は正しいんです」。

 だが実際には論文は正しくなかった。なぜなら、論文は、極端派を切り離してメンシェヴィキとボリシェヴィキとの合同によって党が形成されるだろうと予測していたが、実際には、党はメンシェヴィキに対するボリシェヴィキの仮借ない闘争によって形成されたからである。レーニンは、ロシアの代議員を説いて私の論文を非難させようとした。この時が、全生涯を通じ私たちの衝突が最も先鋭をきわめたときだった。当時レーニンは体調がおもわしくなく、ひどい歯痛で苦しんでいて、顔中に包帯を巻いていた。代議員の間では、この論文と筆者に対する十分敵対的な雰囲気が醸成されていた。というのも、原則面では主としてメンシェヴィキに攻撃の矛先を向けていたこの論文に対して、メンシェヴィキもまたレーニンに負けず劣らず不満を持っていたからである。1910年10月、アクセリロートはマルトフに宛ててこう書いている。

 「『ノイエ・ツァイト』に掲載されたトロツキーの論文は不愉快きわまるものだ。『フォアヴェルツ』の時よりも不愉快かもしれない」。

 またルナチャルスキーは次のように述べている。

 「かねてからトロツキーに我慢ならなかったプレハーノフは、こうした状況を利用して、トロツキーを裁く法廷のようなものを組織した。これはあまりにも不公平だと思ったので、私はトロツキーを熱心に弁護し、リャザノフと協力して、プレハーノフの計画を完全に挫折させた」…。

 代議員の大多数は論文のことを人づての話でしか知らなかった。私は論文を公表するよう要求した。ジノヴィエフは、論文を断罪するにあたってそれを知る必要はいささかもないと強弁した。多数はジノヴィエフの意見に同意しなかった。たしか私の記憶では、論文はリャザノフによって読み上げられ、翻訳された。それに先立って舞台裏では、論文は恐ろしくひどいものであるかのように伝えられていたので、実際に読まれるとかえって正反対の印象を引き起こした。論文はとくに害のないものであるように思われた。代議員の圧倒的多数は論文を非難することを拒否した。しかし、だからといって、まさに現在、私がこの論文を、ボリシェヴィキ派に対する誤った評価をしたものとして非難しなくてもいいということにはならない」(トロツキー『わが生涯』上、岩波文庫、423-426頁)。

 この引用では、トロツキーは、「徴発」問題をとくに取り上げて攻撃したとしているが、実際にこの論文を読んでみると、その問題についてはほとんど論じられていない。トロツキーの記憶違いか、あるいは他の論文と混同しているのかもしれない。

Von unserem russischen Korrespondenten, Die russische Sozialdemokratie, Vorwarts, No.201, 1910.8.28.


 

 1905年から1906年にかけての瞠目すべき躍進のあと、ロシアの労働運動は退潮の気配を見せはじめ、このことは、階級闘争のあらゆる領域で明白に感知することができた。運動の退潮の最初の兆候をはっきりと示したのは、何よりも政治組織である。1907年の半ばには、怒濤のごとき大河の流れが、すでにその勢いを大きく減じつつあったのだが、それでもなお、この時期のロシア社会民主党は、約15万の労働者を代表する300名の代議員※による党大会を招集するだけの力は保持していた。しかし、それに引き続く3年間、もはや党には、党大会を開催することは不可能であった。1908年には、規模の縮小された党協議会が開催されたにとどまり、くわえて、党中央委員会の総会が開かれる機会は、しだいにまれなものになっていった。その最新の総会[1910年1月のパリ総会]において、中央委員会は、数ヶ月のうちに党協議会を招集することを決議したのであるが、しかし、党の中央機関は、すでにそれだけの力を失っており、その後の6ヵ月の間には、協議会総会の開催を準備することはできないままであった。社会民主党の個々の地方組織間の連絡は途切れたままとなり、なおそのうえ、中規模の各都市においては、地区委員会の力はきわめて弱く、非合法の宣伝文書の発行は、不定期かつきわめて限られた部数で行なわれていたにすぎない。

※原注 代議員たちは、当初、党大会の開催が予定されていたコペンハーゲンに参集したのであるが、啓蒙人士たる(元)司法大臣アルベルティ氏のありがたい熱意のゆえに、国外退去を命じられた。その直後、ロシア帝政のやんごとなき友人であったこの人物は、大臣の安楽椅子から転げ落ちて監獄へと直行することになった。想像するところ、独房のなかの元大臣にとってせめてもの慰めとなったのは、ロシアの党大会の代議員たちの多くも、かの国外退去以来、ツァーリズムの監獄に放り込まれたのだ、という考えであったに相違ない――もっとも、同じ犯罪とはいえ、デンマークの司法の元トップが、自らその司法の対象となるにいたった犯罪とは、およそ似ても似つかぬものではあったのだが。

 1907年には、プロレタリアートのすべてのエネルギーは、これからは、ことごとく労働組合組織に注がれることになるかに思われたほどであった。じっさい、1905年の嵐によって産声を上げた労働組合の数は、およそ信じられないほどの速さで、またたく間に増加していった。県単位での労働組合連合組織が作られ、労組の新聞がつぎつぎに発刊された。1907年の初頭には、24万6272人の組合員を擁する652の地方労働組合組織が存在していた。しかし、この分野においても、まもなく運動の退潮傾向が顕著に現われるようになる。10年もの長きにおよぶ深刻な経済恐慌は、労働組合の力を弱体化させる一方で、経営者組織を強化し、帝政下の行政が繰り出す政策は、その一つひとつが、労働者への深刻な打撃となっていった。細かな数字を挙げることは差し控えるが、1908年には、1年の間に、新たに設立された労働組合の2倍にのぼる組合組織が、政府によって解体の運命をたどることになる。1908年には、13万の組合員からなる300の労働組合が存在するのみとなり、1909年にいたっては、200に満たない組織と3万7000の組合員が残ったのみであった。現在、労働組合に組織されているのは、それとほぼ同数か、あるいはそれ以下の労働者である。

 労働組合が、あたかも党の代替物のごとき存在であるのと同様に、労働者の消費者組織が、労働組合の代替物として出現しつつある。1908年には、年間を通じて、ありとあらゆる地域で消費者協同組合が設立され、それらは、文字通り、雨後のたけのこのごとく増えていった。しかし、すでに翌年には、それらの多くは挫折の運命に直面することになる。それは、完全な失業状態と絶望的な貧困という、組合員たちを取り巻く状況に由来する場合もあれば、運営にあたる職員の経験不足や仕事上の信頼の欠如が惹き起こす場合もあり、あるいはまた、警察権力の抑圧的な措置によって解体のやむなきにいたる場合もあった。現在もなお生き延びているのは、ごく少数の消費者協同組合のみである。革命後の時期にしだいに弱体化する階級闘争という一般的な状況を最も鮮明な形で示すのは、ストライキに関する公式の統計が示す数字の変遷であり、その一部を以下に掲げることにする。

 

経済的および政治的ストライキ

ストライキ数

ストライキ参加者数

1895〜1904年

   176件

   4万3125人

     1905年

1万8110件

 270万9695人

     1906年

  6114件

 110万8406人

     1907年

  8573件

  74万0074人

     1908年

   892件

  17万6101人

     1909年

   340件

   6万4000人

 

 

※原注 1905年にストライキが決行された企業の比率は93・2%、労働者の比率は、じつに163・8%である!

 ここに掲げられた数値は、工場監督官の管轄下にある工場を包括するだけなので、完全に正確なものではない。しかし、一般的な傾向がきわめて明瞭に反映されていることは明らかである。

 かの1905年に、まさしく全精力を投入したことや、反革命ののちの極度のエネルギーの消耗、そしてまた、依然として出口の見えぬ経済恐慌、といった諸要因によって引き起こされた、闘争のための武器の威力の弱体化という事態は、党の内部状況に致命的な作用を及ぼすことになった。党が、自らの内部へと閉じこもりつつ、労働者大衆から遊離していくにつれて、そしてまた、社会主義インテリゲンツィアの脱落や、警察権力の弾圧によって、党そのものが弱体化していくにつれて、党内闘争はいよいよ激烈さを増すこととなり、分派やグループの間での分裂は、いっそう深刻な色調を帯びたものとなっていく。

 1905年から1906年にかけては、下からの圧力によって、ボリシェヴィキ派とメンシェヴィキ派は、それぞれの、それまでは完全に分離していた組織を統合させた。1907年には、たしかに形式的には、党の統一が維持されていたのではあるが、しかし、ロンドンの党大会で再び多数派を制したボリシェヴィキ派は、党の内部に、独自の秘密の中央部と秘密の資金源、そしてまた、党執行部が定めた規約に従うことを事実上破棄する、独自の規約を持つ組織を作り上げる。しかしながら、議会主義、労働組合、消費協同組合という、労働運動の新たな形態と課題の出現は、まもなく、ボリシェヴィキ派の形式的にして外面的な急進主義に厳しい試練を課すことになる。それというのも、ボリシェヴィキ派の急進主義は、自らの社会的な基盤の拡大というよりは、何が何でも政治的対立を直接的に激化させるということの方に、主要な関心を向けるものだったからである。ロシア帝国議会に対するボイコット戦術の発案者、パルチザン主義や「徴発」等々の理論家にして、ボリシェヴィキ派の指導者であるレーニンは、議会制度を「承認」し、さまざまな合法的可能性を徹底的に利用するという方向に、かなり急速に転回を遂げるにいたった。しかし、彼の分派の多くは、彼と行動をともにするにはいたらず、ボリシェヴィキ派は3つのグループに分裂することになる。すなわち、かつてのような気質は大幅に失われたとはいえ、ボリシェヴィキとしての頑な非和解性を相変わらず保持しているレーニンの同調者たち、ロシア帝国議会からのボリシェヴィキ議員団の召還を要求する召還派、そして、2つのグループの間の中間派を形成する最後通牒派の3つである。現在のところ、レーニンは、彼が狭い分派的精神のもとで受け継いだ中央機関紙『ソツィアール・デモクラート』において、多数派を握っている。最後通牒派は、国外で発行される機関紙『フペリョート(前進)』を中心にグループを形成しており、召還派は機関紙を持たない。ほとんど同じような分裂の過程は、この2年の間に、メンシェヴィキ派においても進行した。右派のグル−プを形成しているのは、いわゆる合法主義者と解党派であり、彼らは、組織された党の存在の必要性そのものを否定することによって、反革命の流れに順応している。彼らは、合法的に発行される2種の機関紙を持っている――ペテルブルクの『ナーシャ・ザリャー(われわれの黎明)』(1)と、モスクワの『ヴォズロジデーニエ(復興)』(2)である。左派に位置しているのは、プレハーノフの指導のもとに形成されたメンシェヴィキ「党維持派」のグル−プであり、彼らは、解党派に対する、そしてまた、メンシェヴィズムの主要な代表者たるマルトフ、アクセリロート、マルトゥイノフ、ダンといった、党組織の問題について明確な態度を明らかにしない人物たちに対する闘争においては、レーニンとの共闘体制を作り上げた。国外で発行されているメンシェヴィキ主流派の機関紙は『ゴーロス・ソツィアール・デモクラータ(社会民主主義者の声)』である。

 われわれの党内においてかくも大きな役割を演じているロシア亡命者たちが、今のこの時期ほど、ロシアの労働運動の関心と要求から遠くかけ離れた存在だったことはない。彼らの中に実際に存在する政治的意見の相違といったものは、かつての尖鋭さを失って緩和されており、彼らの間での論争は、純粋にスコラ的な性格を持つものとなっており、そして、以前の大規模な分派が崩壊に瀕するなかで、彼らの個々の部分は、それぞれが独自のグループを形成することに懸命である。とはいえ、これらすべてのグループの代表者たちは、今年1月に開かれた最近の中央委員会総会の席上、「何をなすべきか?」という問いに対する回答を提起する段になったときには、一致した決議を採択することになった――すなわち、合法的労働者組織と非合法的労働者組織の活動を結合させること、ロシア帝国議会における党議員団の存在を、党の広範なアジテーション活動の一環として位置づけること、そしてまた、党の実質的な再建を実現するために、非合法的な党と合法的な労働者組織とのなかで活動する社会民主党員たちによる協議会を国外で招集する、ということである。とはいえ、こうした決議は、残念ながら、国外の亡命者グループ間の争いを終息させるにはいたらず、そしてまた、その決議自体、基本的には、緩慢に、さまざまな病弊に悩まされ、幾度も中断を余儀なくされつつも、党組織の回復のプロセスが進行していく、その方法を明文化したものにすぎなかった。

 党組織の再建過程が実際に進行しつつあるということは、明白に見て取ることができる。この記事の前半部分では、プロレタリアートの革命的エネルギーの衰退と、かつての党内諸潮流の頽廃を明らかにしようとしたのであるが、以下では、党の飛躍と成長の要因となるものについて、簡単に触れることにしたい。

 革命と反革命という学校のなかで、党によって指導され教育された社会民主主義労働者の前衛が成長を遂げつつある。彼らは、相互に疎遠な関係となった党の個々の部分に生命力を吹き込む存在となっており、アジテーション活動を遂行し、宣伝ビラを発行するとともに、労働組合や労働者の啓蒙団体、消費者協同組合の核心部分を構成している。地方警察長官クルロフの、ロシア帝国議会での嘆息混じりの発言によれば、1907年には、登録された4万7963名の労働組合の組合員のうち、1万6045名が社会民主主義者であり、1909年には、2万7619名のなかの1万3475名が社会民主主義者であった! このわずかな数の社会民主主義者こそが、運動の強固な基礎を形成しているのである。彼らは、あらゆる突破口を手に入れて活用するのであり、彼らの代表者たちは、博愛主義者や医師のそれであれ、あるいはまた、女性解放運動家たちのそれであれ、ともかく、およそ考えられるすべてのブルジョア的な性格を持つ大会の数々に、つねに社会主義の諸原理を高らかに公言しつつ、堅固な隊列を組んで登場する。中央委員会の支援のもとでウィーンで発行されている労働者新聞『プラウダ』――この新聞は、その当初から、分派間のあらゆる論争から完全に一線を画した立場を取り続けている――は、セクト主義のあらゆる偏見とは無縁なプロレタリアートの選良による計画的な政治的プロパガンダを通じて、健全でプロレタリア的な基礎のもとでの党の刷新を円滑に進行させることを自らの課題として設定している。われわれはロシア帝国議会に議員団を持ち、それは現在、15名の議員からなっている。彼らは、文字通り最悪の選挙法によって作りだされた最悪の条件のもとで選出されつつも、ストルイピンが牛耳る国会のおよそ底知れぬ暗闇のただなかで、勝ち誇る反動が引き起こす残虐行為の数々に対して、勇敢に抗議の声を上げ続けている。こうした活動を持続すればするほど、国会議員団は、進歩的な労働者の政治的な注目を集めることに成功するのである。労働組合はまた、国会議員団との連携を密にするために、あらゆる努力を傾けている。労働組合の新聞は、絶えず警察権力の脅迫にさらされながらも、ラディカルで社会民主主義的な精神に貫かれて発行を続けており、わが議員団の議員たちの卓越した演説の数々を掲載し、消費者協同組合と労働者の教育といった活動にも批判的に光をあてているのであり、こうした努力を通じて、プロレタリアートの生活と闘争のすべての領域に、可能なかぎり大きな統一をもたらしている。そして、まさしくこうした一連の諸活動こそが、党の発展と再生の要因を形成するものにほかならない。

 現在のわれわれの状況を、かつての、社会主義というものが何年もの長きにわたって地上から消滅した、パリ・コミューンが破壊されてのちのフランスの状況と比較するならば、われわれにとって明らかなのは、自分たちの現状が、なおいかに豊かで強力であるか、ということである。さしあたっては恐るべきコレラの流行によって中断されているとはいえ、開始を見たばかりの経済の活性化が、工業の飛躍的な発展という事態に進んでいくことになれば、それは、労働組合を急速に強化するとともに、労働者の自信を高めることになり、そうした基礎にもとづいて、われわれの党組織を強固なものとするであろう。なぜなら党組織は、インテリゲンツィアのセクト主義の残滓から永遠に脱却することになるであろうからである。次の大会までに、われわれが現在よりもはるかに強大な組織となっているであろうことを、われわれは、インターナショナルに対して確信を持って約束することができる。

(本紙ロシア特派員)

『フォアヴェルツ』1910年8月28日

『トロツキー研究』第36号より

  訳注

(1)『ナーシャ・ザリャー』……1910年から1917年までペテルブルクで発行されていた解党派メンシェヴィキの月刊雑誌。

(2)『ヴォズロジデーニエ』……1908年から1910年までモスクワで発行されていた解党派メンシェヴィキの合法雑誌。


  

トロツキー・インターネット・アルヒーフ 日本語トップページ 1910年代前期
日本語文献の英語ページ
マルキスト・インターネット・アルヒーフの非英語ページ
マルキスト・インターネット・アルヒーフ