次は何か――総括と展望

トロツキー/訳 西島栄

【解説】このパンフレットは、トロツキーが1917年の7月事件後に逮捕されて投獄された獄中で、8月13日から23日にかけて書き上げたものであり、永続革命としての第2次ロシア革命の展望をきわめて勇壮かつ大胆に描き出しており、当時における最も綱領的な論文である。

 最初、各章は個々の論文として、ボリシェヴィキの中央機関紙『プロレタリー』や『ラボーチー』(いずれも、7月事件で『プラウダ』が発行禁止にされた後に出された後継紙)に掲載され、9月始めに『次は何か――総括と展望』と題されてパンフレットになり、ボリシェヴィキの出版社から発行された。

 この小冊子の中でトロツキーは、いわゆる二重権力状態における社会主義体制の萌芽を「下からの(とりわけ工場内部の)労働者民主主義の体制」として提示している。パルヴスにあっては、「労働者民主主義政府」とは、あくまでも資本主義の枠内での労働者政党による政権掌握にすぎず、その枠内で8時間労働制をはじめとする「労働者民主主義」的諸政策を実施することに限定されていた。その意味で、パルヴス的「労働者民主主義政府」は、今日で言う「社会民主主義政府」にきわめて近かった。トロツキーにあっては、この「労働者民主主義の体制」は、資本主義の支配と真っ向から衝突するものであり、工場をはじめ、資本の牙城の中で実現されるものであり、したがって、資本の支配を覆すテコとなるものであった。この「下からの労働者民主主義の体制」が押しつぶされないためには、労働者が全国的権力を掌握して、資本主義の支配を転覆し、実際に社会主義に向けた一歩を踏み出さなければならない。こうして、トロツキーの「労働者民主主義論」は、社会主義革命に向けた過渡的綱領となるのである。段階論にとどまったパルヴスの「労働者民主主義」論とは根本的に異なるトロツキーの独自の立場が示されているのである。

 この論文はすでに『トロツキー研究』第5号に訳出してあるが、そのときには、紙幅の都合上、第3章の「革命における軍隊」をまるまる割愛し、また、第2章の「ボナパルティズムの諸要素」も半分近く割愛してあった。本サイトにアップするにあたっては、こうした割愛部分をすべて訳出してある。したがって、今回の論文が初めての全訳になる。

 また、訳注をよりいっそう充実させるとともに、訳文の一部を修正している。

Л.Троцкий, Что же далише?(Итоги и перспективы),Сочинения, Том.3, 1917, Час.1, Мос-Лен., 1924.


   序に代えて

   1、何が起こったか?

   2、ボナパルティズムの諸要素

   3、革命における軍隊

   4、次は何か?

   5、ロシア革命の性格

   6、国際的戦術

   訳注


 

序に代えて

 対外戦線における攻勢の日とともに、すなわち6月18日とともに、国内戦線における革命の退却が始まった。公式の「民主主義」によって指導されているこの退却は、7月3〜5日以後はパニック的性格を帯びるようになった。現在ではそれは若干規則正しい形をとっているが、退却自体は一瞬たりともストップしていない。戦争はわれわれの眼前で革命をむさぼり食っている。そして、戦争を指揮しているのは将軍連中であるために、彼らは実際の権力を自己の手中に収めつつある。

 この過程はどの地点でストップするであろうか? これを予測するためには、政治の舞台で闘争している、というよりも…闘争することなく屈服している勢力の性格を明確に理解することが何よりもまず必要である。これが本論文の課題である。

 最初の2つの章はモスクワ会議(1)以前に書かれたものである。われわれはそれを訂正することなく残しておいた。モスクワの聖なる儀式の意味と結果を予測するにあたって、われわれは指導者たちの声明や新聞の大言壮語にもとづいたのではなく(おそらく、現在ほど指導者や新聞が嘘をついたことはなかったであろう)、階級的利害関係と政治的行動にもとづいたのである。マルクスによって導入されたこの方法は比較にならないほど有望なのだ。

 臨時政府が革命のペテルブルクを武装解除し、赤旗の上にコサックの槍を据えつけた後でさえ、政府はモスクワ会議――それは反人民会議と呼ばれないよう国政会議と名づけられたのだが――の茶番劇によってペテルブルクの労働者を挑発することはできなかった。「生きた勢力」は敬虔で平穏なモスクワに招待された。しかし、モスクワのプロレタリアートは抵抗と軽蔑のストライキでもって、この招かざる客を迎えたのである。恨みを晴らしてもらったペテルブルク・プロレタリアートはこの日、深々と安堵の息をついたのであった。

 モスクワの同志労働者諸君の同意を得て、私は本書を彼らにささげるものである。

エリ・トロツキー(序の訳注

 

1、何が起こったか?

 何のためにモスクワ会議が召集されているのかを満足いくように説明している者は誰もいない。それどころか、会議に参加を予定している者全員が、本当のところ何のために自分たちがモスクワに招かれているのかわからない、と――心から、ないしは偽善的に――表明している。しかも、そのほとんどすべての者が会議について、不信げに、ないしは軽蔑的に批評している。それにもかかわらず、彼らは全員して出かけるのだ。いったいこれはどういうわけか?

 特別な地位を占めているプロレタリアートを別にすれば、モスクワ会議の参加者は3つのグループに分けられる。すなわち、資本主義的諸階級の代表者、小ブルジョア民主主義者の組織、そして政府、である。

 有産階級は最も完全にカデット党によって代表されている。この党の背後にいるのは、地主、商工業資本の組織、金融界、大学教授の団体である。このグループのそれぞれは独自の利害と政治的展望とを有している。しかし、プロレタリアートや農民や兵士大衆の側から来る共通の危険に対しては、資本主義的諸階級は団結し、反革命の単一の同盟を形成するのである。貴族官僚と参謀将軍の一派はその君主主義的陰謀と奸策をやめはしないが、当分の間はカデットを支持することが必要であるとみなしている。他方、ブルジョア自由主義者の側も君主主義一派を疑わしげに見ているが、反革命に対する連中の支援を評価している。かくして、カデット党はあらゆるカテゴリーの大・中所有者の一般的な代表組織となっているのである。有産者のあらゆる要求、搾取者のすべての強欲は、今やミリュコーフの資本主義的シニシズムと帝国主義的厚顔無恥へと合流しつつあるのだ。彼の政策はこうである。革命体制のあらゆる失敗、そのあらゆる災厄や不幸を待ち受け、当分の間メンシェヴィキとエスエルの「協力」を利用し、この協力によって彼らの信用を落としめ、自分の出番を待つ、というものである。だがミリュコーフ(2)の後ではグルコー(3)が自分の出番を待っているのである。

 エスエル=メンシェヴィキのエセ民主主義は農民大衆、都市のプチブル、後進的労働者に依拠している。しかも、時が経つにつれてますます、主要な勢力はエスエルであり、メンシェヴィキは余計者であることが明らかになりつつある。ソヴィエトは最初、大衆の半自然発生的な圧力によって法外な高さに引き上げられたが、この2つの党の指導のもとで、時とともにその重要性を失っていき、無に帰しつつある。原因はいったいどこにあるのか? かつてマルクスはこう指摘した。ちっぽけなプチブルの「大物」は、歴史が彼らの鼻先をはじく時、自らの失敗の原因をけっして自分自身の破産のうちに求めるのではなく、きまって誰かの悪だくみや陰謀を暴こうとする、と。ツェレテリ(4)が自らの全政策の惨めな破綻を説明するのに7月3〜5日の「陰謀」にどうしてすがらないわけがあろうか? リーベル(5)やゴーツ(6)やヴォイチンスキー(7)のごとき面々が秩序の基盤を「無政府状態」から救い出した時――といっても、それは彼らを脅かしてはいなかったのであるが――、カピトル丘を救ったガチョウ(8)のように褒美がもらえるものだと、これらの紳士諸君は心から信じてやまなかった。そして、プロレタリアートを抑えようとする彼らの熱意が高まるのに直接比例して、彼らに対するブルジョアジーの尊大な態度が増大していったことに気づいた時、彼らはひどく驚いたのである。また、あの陳腐な表現の偉大な使い手たるツェレテリ自身も、あまりにも革命的なお荷物としてお払い箱にされた(9)。なるほど、機関銃連隊が革命を「挫折させた」(10)ことはまったく明らかだ。

 そして、ツェレテリとその党とが防諜機関とポロフツェフ(11)と士官学校生の陣営に属して、連中が反革命のために労働者を武装解除するのを助けているとしても、それはツェレテリの政治方針のせいではなくて、ボリシェヴィキによってそそのかされた機関銃連隊のせいである、というわけだ。これがプチブルの政治的銀行家の歴史哲学である!

 実際には、7月3〜5日の事件は革命の発展における転換点となった。なぜならば、この事件は、小ブルジョア民主主義の指導諸党には権力を握る能力が完全に欠如していることを暴露したからである。連立政府の惨めな崩壊の後には、ソヴィエトが全権力を掌握する以外に活路がないことが明らかとなったにもかかわらず、メンシェヴィキとエスエルは決意しなかった。権力をとることは銀行家や外交官たちと仲違いすることを意味する、これは冒険主義だ――彼らはこのように論じた。そして、7月3〜5日の事件の恐るべき意味にもかかわらず、あいかわらずソヴィエトの指導者連がエフレーモフ(12)をはじめとするブルジョア閣僚たちに追随し続けた時、有産階級には次のことが完全に明らかとなった。すなわち、ソヴィエトの政治家たちは、ちょうど小店主が手に帽子をもって銀行家の前に立っているように、有産階級の前に立っているのだ、ということが。これこそがまさに反革命を活気づけたのである。

 革命のこれまでの全時期はいわゆる二重権力を基調としていた。自由主義者から出てくるこのような特徴づけは、実際にはきわめて表面的なものだ。問題は単に、政府と並んで、一連の政府機能を果たすソヴィエトが存在していたということにあるだけではない。なぜならダン(13)とツェレテリには常に、権力を完全に政府に譲り渡すことによって権力の分割を「無痛のうちに」清算するために、できることなら何でもやる用意があったからである。問題の核心は、ソヴィエトと政府の背後にはそれぞれ、異なった階級に依拠した2つの異なった体制が存在していたことである。

 ソヴィエトの背後にいたのは、個々の工場において資本家の専制支配を取り除き、企業の内部に共和制――しかし同時にそれは資本主義的無政府状態とあいいれず、必然的に生産に対する全国的管理を求める――を確立した労働者組織であった。それに対して資本家たちは所有権を擁護するための支えを上部に、すなわち政府に求め、ますますエネルギーを傾注して政府をソヴィエトにけしかけ、こうして、政府をして、自分たちには独自の機構、すなわち労働者を弾圧する道具が不足していることを納得せざるをえなくした。こうしたことから、「二重権力」に反対する叫び声が上がったのだ。

 ソヴィエトの背後にいたのはさらに、軍内部の選挙組織と総じて兵士の民主主義的体制であった。臨時政府は、ロイド=ジョージ(14)やリボー(15)やウイルソン(16)[それぞれイギリスの首相、フランスの首相、アメリカの大統領]と足並みを揃え、ツァーリズムの旧来の諸義務を承認し、秘密外交という旧来の方法を踏襲していたため、軍隊の新しい体制の敵対的な抵抗にぶつからないわけにはいかなかった。この抵抗は、ソヴィエトを通じて、きわめて弱々しくではあるが軍の上層部に屈折して反映した。こうしたことから、とりわけ将校団の側から二重権力に対する不平が生じたのである。

 最後に、農民ソヴィエトもまた、その指導者の惨めな日和見主義と深刻な排外主義にもかかわらず、下からのますます増大する圧力にさらされていた。下部では、政府が農民による土地収奪に対立すればするほど、収奪はますます脅威的な形態をとるようになった。政府がどれほど大土地所有の道具であるかは、最近ツェレテリが出した、土地収奪を禁止する警察通達がいかなる点においてもリヴォフ公(17)が出した通達と区別されないという事実から最も明確になるだろう。そして、地方のソヴィエトと農民委員会が新しい土地制度を確立しようとしていたために、それらの組織は、ますます私的所有の番犬と化しつつある「革命」政権との激しい矛盾に陥ったのである。

 革命のさらなる発展は、権力がソヴィエトに移行し、この権力を勤労者のために私的所有者に対立させて利用することを意味する。しかし、資本主義的諸階級に対する闘争の激化は、勤労大衆の中での第一義的な役割を最も決定的な階級、すなわち工業プロレタリアートに割り当てるにちがいない。生産と分配に対する管理を導入するうえで、プロレタリアートは極めて貴重な実例を西欧に、何よりもドイツのいわゆる「戦時社会主義」のうちに持っている。しかし、わが国でこれを組織する事業は、ただ農地革命にもとづいてのみ、そして真に革命的な政権の指導のもとでのみ可能となるため、生産に対する統制とその漸次的な組織化は資本の利益と真っ向から対立するものになる。有産階級が臨時政府を通じて「堅固な」資本主義的共和国の体制を確立しようとしているのに対し、ソヴィエトの完全な支配――それはまだけっして「社会主義」を意味しないが――はいずれにせよブルジョアジーの抵抗を粉砕し、そして――現在の生産力と西方での情勢に依存しつつ――勤労大衆の利益にそって経済生活を方向づけ変革するだろう。資本主義権力の足枷をふりほどくことによって、革命は永続的な、すなわち連続的なものとなり、それは資本主義的搾取の体制を強固にするためではなく、反対にその体制を克服するために国家権力を利用するだろう。この途上で革命が完全な成功を収めうるかどうかは、ヨーロッパにおけるプロレタリア革命の成否にかかっている。他方では、ロシア革命は、それが自国のブルジョアジーの抵抗を断固としてかつ大胆に克服すればするほど、ヨーロッパの革命運動にますます強力な刺激を与えることができるのである。これが革命の今後の発展の唯一現実的な展望であったし、これからもそうなのだ。

 しかし俗物根性の空想家たちはこの展望を「ユートピア」であると考えた。では彼らは何を望んでいたのか? 彼らは自分が何を望んでいるのかをけっして定式化することができなかった。ツェレテリはしきりに「革命的民主主義」について語ったが、それが実際に何を意味するのかを明確に理解していなかった。民主主義的美辞麗句の波間を泳ぐことを常とするエスエルばかりでなく、メンシェヴィキも、自分たちの政策の小ブルジョア的性格があまりにもあからさまに暴露され始めるやいなや、階級的基準を完全に脇に投げ捨てたのだ。「革命的民主主義」の体制はあらゆるものを説明し、あらゆることを正当化する。旧来の秘密警察がその薄汚い指をボリシェヴィキのポケットに突っ込んでも、それはまぎれもなく「革命的民主主義」の名において行なわれるだろう。しかし、あまり先回りするのはやめておこう。

 権力をブルジョアジーに委ねることによって、ないしは連合を通じて権力を「中立化する」ことによって、実際にはエスエルとメンシェヴィキの民主主義は革命の頭を切り落としたのである。他方では、ソヴィエトを自らの機関として防衛することによって、小ブルジョア民主主義は実際には政府が地方に行政機構を創設するのを妨げた。政府は善をなすうえで無力であっただけでなく、悪をなすうえでも力不足であった。ソヴィエトは十分に広範な計画を携えていたが、しかしそのどれ一つとして実現することができなかった。上から植えつけられた資本主義的共和制と、下から形成された労働者民主主義の体制とはお互いを麻痺させた。両者のぶつかるあらゆる場面で無数の紛争が生じた。大臣とコミッサールは革命的自主管理の機関を抑えつけ、司令官は軍隊委員会に敵意を剥き出しにし、ソヴィエトは大衆と政府の間で右往左往した。危機に危機が相次ぎ、大臣は入れ替わり立ち替わりした。権力による弾圧がでたらめで混乱した性格を帯びれば帯びるほど、下部における憤激はますます激しいものとなっていった。そして上部からは全生活がすっかり「無政府状態」に支配されているように見えたのである。

 プチブル「民主主義」の臆病でどっちつかずの体制の内的破産は明白であった。そして、革命の前に立ちはだかる諸問題が深刻になればなるほど、この破産ぶりはますます病的に暴露されていった。国家のあらゆる建物は頭で、より正確には2、3の頭で立っていた。それは、ミリュコーフやケレンスキー(18)やツェレテリの軽率なジェスチャーによってすっかり破壊される危険に絶えず脅かされていた。そして、時が経つにつれて、ますますはっきりと次なる二者択一が提起されるようになった。すなわち、ソヴィエトが権力をとるか、それとも資本主義政府がソヴィエトを一掃するか、である。建築物の全体を最終的に均衡から投げ出すためには、外部からの一突きがあればよかった。内的にはすでに命運のつきているシステムにとっての、かかる外部からの一突きこそ、7月3〜5日の事件であった。相互に排斥しあう2つの体制の「平和」共存にもとづいた小ブルジョア的「牧歌」は、致命的な打撃を受けた。そしてツェレテリは自分の回想録に次のことを書き込む可能性を手に入れたのである。「私のロシア救済計画は機関銃連隊によって挫折した」と。(1の訳注

 

2、ボナパルティズムの諸要素

 小店主は分別の人である。彼は「リスクを犯す」ことを何よりも恐れる。しかし、同時に彼は最大の空想家でもある。どの小店主もロスチャイルドになることを望んでいる。惨めな分別くささと不毛な空想とのこうした結合は、小ブルジョア政治の本質そのものをなしている。しかし、小ブルジョアジーの代表者たちが常にけちな小商人のような存在であると考えてはならない――とマルクスは書いている。そうではなく、その知的水準からして、彼らは臆病なプチブルよりも高い位置に立つことができる。しかし、「彼らを小ブルジョアジーの思想的表現者たらしめているのは、彼らの思考が、小ブルジョアジーの生活を制限しているあの枠組みを出ないという事実であり、したがってまた、小ブルジョアが実践的に到達するのと同じ課題と解決に彼らが理論的に到達するという事実である」(19)

 サンチョ・パンサは陳腐な分別くささを体現していた。しかし同時に彼はロマンシズムとはけっして無縁ではなかった。そうでなければ、ドン・キホーテにつき従いはしなかったろう。小ブルジョア政治の分別くささを最も完全に、それゆえ最も不快に表現しているのは、メンシェヴィキの指導者ダンである。ツェレテリは分別くささとロマンチシズムとの結合を体現している。「ただ愚か者だけが何も恐れない」とツェレテリはマルトフに言った。思想穏健なプチブル政治家は反対にあらゆるものを恐れる。すなわち、彼は債権者を激怒させることを恐れ、彼の「平和主義」を外交官が真面目に受け取ることを恐れ、そして何よりも権力を恐れるのである。「愚か者は何も恐れない」がゆえに、小ブルジョア政治家は、その全面的な臆病さによって愚か者にならないよう予防措置を講じていると考えるのだ。それと同時に、彼はロスチャイルドになることをも望んでいる。すなわち、彼は、外務大臣テレシチェンコ(20)の外交文書に2、3の言葉を挿入することによって、平和[講和]に近づくことを望んでいる。彼は、自分が内乱に抗する最も信頼のおける手段を持っているという考えをリヴォフ公に吹き込みたがっている。偉大な小ブルジョア的調停者たちは、ポロフツェフやカレージン(21)を武装解除するのではなく、労働者を武装解除することによって幕を引こうとしている。そして、これらの政策のすべてが最初の本格的な一突きで水泡に帰しつつある時、ツェレテリとダンは、彼らを信用したがっているすべての者に次のように説明するのである。革命は、権力を手中に握る上での小ブルジョア民主主義の無能力によってではなく、機関銃連隊の「反乱」によって挫折したのだ、と。

 ロシア革命の性格に関する多年にわたる論争の間、メンシェヴィズムは、わが国で革命権力を手にするのは小ブルジョア民主主義であるということを証明しようとした。われわれは、もはやプチブル民主主義にはかかる課題を解決する能力はないし、革命を最後まで貫徹することができるのは下層人民に立脚したプロレタリアートのみであるということを証明しようとした。今や歴史は次のような事態をもたらしている。すなわち、メンシェヴィズムが小ブルジョア民主主義の政治的代表者となり、自分自身の実例でもって、権力の問題を解決するうえでの、すなわち革命において指導的役割を引き受けるうえでの、小ブルジョア民主主義の完全な無能力を証明したのである。

 『ラボーチャヤ・ガゼータ(労働者新聞)』紙[メンシェヴィキの中央機関紙]は、このニセの、ダン的でダン化された「マルクス主義」の機関紙は、われわれに「7月3日派」というあだ名を貼ろうとしている。7月3日の運動において、われわれのあらゆる共感は労働者と兵士の側にあったのであって、士官学校生やポロフツェフやリーベルや防諜機関の側にあったたのではなかった――これは疑いない。もしそうでなかったら、われわれは軽蔑されてしかるべきであったろう。しかし、『ラボーチャヤ・ガゼータ』紙の破産者たちが警戒のあまり7月3日を過度に強調するというのなら、そうさせておこう。なぜならば、その日は、何といっても彼らの政治的自己廃止の日であったからである。そこで、7月3日派というあだ名は、もろ刃のやいばとして彼らに容易に向けることができる。1907年の6月3日、帝政ロシアの略奪者どもは、国家権力を掌握するためにクーデターを敢行した。他方で、1917年7月3日という革命の最も深刻な危機の瞬間に、小ブルジョア民主主義は、「われわれには権力を掌握する能力も意欲もない」と大声で宣言した。彼らに初歩的な革命的義務を遂行するよう要求した革命的労働者・兵士と憎々しげに絶縁することによって、この7月3日派は、社会主義的労働者・兵士を抑圧し武装解除し投獄するために正真正銘の6月3日派と同盟を結んだのである。小ブルジョア民主主義の裏切り、反革命的ブルジョアジーへのその恥ずべき屈服――これこそが、革命の歴史の中でこれまでも一度ならず生じたように、力関係を変えたのだ。

 こうした条件のもとで、新しい内閣――スコベレフ(22)はこれを、親方に対する徒弟の感謝に満ちたうやうやしさをもって「ケレンスキー政府」と呼んでいる――が成立した。意志薄弱で無力でよたよたした小ブルジョア民主主義の体制は個人独裁に行きついたったのである。

 いわゆる二重権力という看板の下で、帝国主義的共和制と労働者民主主義という2つの和解しえない階級的潮流による闘争が進行した。闘争が未解決のままである間は、この闘争は革命を麻痺させ、不可避的に「無政府」現象を引き起こした。あらゆるものを恐れるという政策によって指導されていたソヴィエトは権力をとることができなかった。あらゆる所有者一派の代表者たるカデット党もまだ権力をとることができなかった。かくして、あいかわらず調停者、仲介者、仲裁裁判所が探し求められた。

 早くも5月中旬に私はペテルブルク・ソヴィエトの会議の場でケレンスキーを「ロシア・ボナパルティズムの数学上の一点」と呼んだ。すでにこの実体なき特徴づけが示しているように、問題となっているのはケレンスキー個人ではなく、彼の歴史的機能(働き、役割)であった。ケレンスキーがボナパルト1世(23)と同じ素材からできていると主張するとすれば、それは軽率であろう。少なくとも、このことは証明されていないとみなすべきである。しかし、もちろんのこと彼の人気は偶然ではない。ケレンスキーはロシア全国のすべての住民にとってより近しく、より理解しやすかった。政治事件を扱う弁護士、トルドヴィキ(24)の先頭に立っていた「社会革命党員」、社会主義のいかなる学派にも属していない急進主義者――ケレンスキーは最も完全に革命の最初の段階を、その「国民的」無定形さを、その希望と期待の魅惑的な理想主義を反映していた。

 ケレンスキーは土地と自由を、秩序を、諸民族の平和を、祖国の防衛を、リープクネヒトのヒロイズムを口にし、ロシア革命はその寛大さによって世界を瞠目させなければならないと語り、そしてその際、赤い絹のネッカチーフを上下に振るのであった。半ば目覚めつつあった住民は有頂天になってこの演説に耳を傾けた。自分自身が演壇から語っているように彼らには思えたのである。軍隊はケレンスキーをグチコフ(25)からの解放者として歓迎した。農民は彼をトルドヴィキとして、ムジークの代議士として聞いていた。美辞麗句の無定形な急進主義の下に秘められた思想の極端な穏健さは自由主義者に気に入られた。警戒したのは先進的労働者だけであった。しかし、彼らのソヴィエトはまんまと「革命的民主主義」の中に溶解してしまった。

 教義の偏見から自由であったため、ケレンスキーはブルジョア政府に入閣する最初の「社会主義者」となった。ところが、彼は、大衆の先鋭化しつつあった社会的要求に「無政府」という烙印を最初に押し、5月にはすでにフィンランド人を厳罰でもって脅し、「起ち上がった奴隷」についての大げさな美辞麗句を投げつけ、それは傷ついたすべての所有者たちの心を慰めた。したがって、彼の人気は諸矛盾のからみ合い以外の何ものでもなく、それらの矛盾のうちに革命の第1段階の無定形さと第2段階の袋小路を反映していたのである。そして、歴史が仲裁裁判所のポストを開設した時、その持ち駒の中にはケレンスキー以上にふさわしい人物はいなかったのだ。

 冬宮での「歴史的な」夜の会合(26)は、「革命的」民主主義がモスクワ会議で自分のためにお膳立てを整えた政治的卑屈さの予行演習でしかなかった。この会談においてすべての切り札はカデットの手中にあることがわかった。例外なくあらゆる民主主義的選挙で勝利を収めたエスエルとメンシェヴィキは、その勝利によって死ぬほど困惑し、従順にも、資格ある自由主義者たちに対し、政府内での協力を懇願したのである! カデットは7月3日に、権力をソヴィエトに投げ与えることを恐れなかったし、他方では、自由主義者たちは全権力を自己の手中に握ることも恐れていないのだから、彼らが状況の支配者であるのは明らかだった。

 ケレンスキーがソヴィエトの無力なヘゲモニーの最後の言葉だとすれば、彼は今や、このヘゲモニーからの解放の最初の言葉にならなければならない。「しばらくの間、われわれはケレンスキーを受け入れるが、それは、君たちが、ソヴィエトに君たちを結びつけていたへその緒を切断するまでの間のことだ!」――これが、ブルジョアジーの最後通牒だった。

 「残念なことに、冬宮での討議は内容豊かなものだったとは言えない」と卑屈な報告者たるダンは、執行委員会の会議で不平をこぼした。

 「革命的」民主主義の代表者の側から出されているこうした不平の思慮深さのほどを評価することは難しい。彼らは、昨日はまだ権力を手に持ったまたタヴリーダ宮(27)から出たのだが、翌朝には手ぶらで戻ってきた。エスエルとメンシェヴィキの指導者たちは、自分たちの権力の持ち分をうやうやしくケレンスキーの足元に置いてきたのだ…。カデットは慈悲深げにこの贈り物を受け取った。カデットはいずれにしても、ケレンスキーを、偉大な仲裁裁判所とみなしていたのではなく、単なる伝導機構とみなしていた。全権力をただちに自己の手中に握ることは、それが不可避的に大衆の革命的反撃をもたらすことを考えれば、カデットにとってあまりにも危険なことである。それよりは、今のところ「独立している」ケレンスキーを表に立て、アフクセンチェフ(28)やサヴィンコフ(29)のごとき連中の協力のもと、ますます見境をなくしつある弾圧システムを使って純粋なブルジョア政府のためのお膳立てをさせる方が、はるかに利口である。

 こうして新しい連立内閣――「ケレンスキー政府」――が成立した。それは一見したところ、7月3日にかくも惨めに崩壊した連立政府と何の違いもないように見える。シンガリョーフ(30)が退いて、ココシキン(31)が入閣し、ツェレテリが出ていって、アフクセンチェフが入った。政府を構成している個々人の水準が若干下がったことは、両者[カデットとエスエル=メンシェヴィキ]ともこの内閣を過渡的なものとみなしていることを、ただ強調したにすぎない。しかし、はるかに重要なのは、両者の「重み」が根本的に変わったことである。以前には――少なくとも理念上は――「社会主義」大臣たちは、ソヴィエトの統制された代表者であるとみなされていた。ブルジョア大臣たちは、同盟国と取引所の目を欺くつい立てとして役立つことになっていた。今では、反対になっている。ブルジョア大臣たちは、統制された機関として、有産者の公然たる反革命ブロック(カデット党、商工業家、土地所有者同盟、国会臨時委員会、コサック、参謀本部、同盟国の外交…)に入り、社会主義者の大臣連は、人民大衆の目を欺くつい立てになっている。

 ソヴィエト執行委員会の沈黙に迎えられたケレンスキーは、君主制の復活は許さないと約束をするや、たちまち拍手喝采を浴びた。小ブルジョア民主主義の要求はこれほどまでに低い水準に落ちたのだ! アフクセンチェフは、彼のなけなしの蓄えであるカント的・下級聖職者的パトスを過度に消費しながら、全員に「自己犠牲」を呼びかけ、権力についた観念論者にふさわしく、定言命令にもとづいて熱心にコサックや士官学校生の気を引こうとしている。そして、彼を推した農民代議士たちは、自分たちが地主の土地を収奪する以前に、国家権力に対する自分たちの影響力の方が何者かによって収奪されてしまったことを気づいて、驚きながらあたりを見回している。

 反革命の参謀本部はありとあらゆる手段を用いて軍隊委員会を抑えつけながら、同時に大衆を抑圧するためにそれを広範囲に利用している。そして、このような方法で兵士組織の権威を掘りくずし、その崩壊を準備しているのである。ブルジョア反革命は同じ目的のために「社会主義」大臣を思いのままに扱っている。そして「社会主義」大臣たちは、自分たちの恐るべき凋落のうちにソヴィエトそのものを引きずり込みつつある。なぜなら、彼らは今やソヴィエトから独立しているが、ソヴィエト自身はあいかわらず閣僚たちに依存しているからである。民主主義組織が権力を拒否した後では、今やその権威も清算されざるをえない。こうして、あらゆるものがミリュコーフの出番を準備している。しかし彼の背後ではグルコーが自らの出番を待っているのである。

 モスクワ会議は、上層部におけるこうした政治発展の一般的方向性との関連でのみ何らかの意義を持つ。

 カデットは数日前までモスクワ会議に対して不熱心であっただけでなく、あからさまな不信をもって見ていた。政府にケレンスキー、アフクセンチェフ、サヴィンコフ、チェルノフ(32)、レベデフ(33)を派遣している政党の機関紙『デーロ・ナローダ(人民の事業)』[エスエル右派の機関紙]もモスクワへの旅をあからさまな敵意をもって見ている。「行かなければならないから行く」――『ラボーチャヤ・ガゼータ』紙は、猫のしっぽに引きずられていくオウムをまねて、嘆息まじりにこう書いている。リャブシンスキー(34)、アレクセーエフ(35)、カレージン等の発言も、また「ペテン師一派」の支配的徒党の発言も、アフクセンチェフと自己犠牲的な抱擁をする準備が彼らにあることをけっして物語っていない。最後に、新聞の報道によると、政府もモスクワ会議に「決定的な意義」を与えてはいない。Cui prodest? では、この会議はいったい誰にとって、そして何のために必要なのか? 

 この会議がまったくソヴィエトに敵対するものであることは白日のように明らかである。ソヴィエトは会議に自ら進んで行くのではなく、そこへ無理やり引っ張っていかれている。モスクワ会議は、反革命的諸階級にとって、ソヴィエトを完全に廃止するための橋頭堡として必要なのである。しかし、それではどうして、ブルジョアジーのしかるべき機関は会議に対してあんなにそっけない態度をとっているのか? なぜなら、この会議が何よりも、最高仲裁裁判所の「超階級的」立場を強化するために招集されているからである。ミリュコーフは、会議を通じてケレンスキーがあまりに強固なものになり、その結果、ミリュコーフの政治的休暇があまりに長引くことを恐れているのである。そこでどの愛国者も自分たちなりのやり方で祖国を救おうと急いでいるわけだ。

 冬宮での「歴史的」夜の結果、ケレンスキー体制が成立した。これは予科(36)のボナパルティズムである。しかしモスクワ会議は、その構成と目的からすれば、歴史的な夜をいわば白昼のもとで再現したものに他ならない。ツェレテリはまたもや全ロシアに向かってこう宣言しなければならなくなるだろう。革命的民主主義への権力の移行は不幸であり革命の破滅である、と。革命的民主主義の代表者たちは、このように自らの破産を厳粛に宣言した後、彼らを糾弾する起訴状が読まれるのを聞くことになるだろう。それは、ロジャンコ(37)やリャブシンスキーやミリュコーフやアレクセーエフ将軍といったわが国の「生きた勢力」によってあらかじめ作成されたものである。モスクワ会議では政府によって上座を割り当てられたわが国の帝国主義一派は、「すべての権力をわれわれへ」というスローガンを提起するだろう。ソヴィエトの指導者たちは、有産階級の果てしのない貪欲さに直面して、労働者と兵士――「すべての権力をソヴィエトへ」というスローガンのためにツェレテリによって武装解除されたまさにあの労働者と兵士――の憤激によって有産階級をおどかすだろう。議長として、ケレンスキーは「意見の相違」が存在することを確認するにとどめ、「仲裁裁判所」なしにはやっていけないということに「関係者」の注意を促すだろう。それこそ証明が必要だ(Quod erat demonstrandum)。

 メンシェヴィキのボクダーノフ(38)はソヴィエト中央執行委員会の会議の場で次のように白状した。「もしわれわれが政府の一員であるとしたら、私はこの会議を召集しなかったろう。なぜなら、会議の場で政府は、自らの基礎を強化し拡大するという、そのめざす結果に達しはしないからである」。これらの「現実的な」政治家たちが、自分たちの参加によって何が生じるかをまったく理解していないことを認めざるをえない。

 7月3日に連立政府が崩壊した後、ソヴィエトが権力をとることを拒否したことは、広範な基盤にもとづいて政府を形成する可能性を排除した。無統制のケレンスキー政府は基本的に社会的基盤を欠いた政府である。それは意識的に、勤労大衆と帝国主義的諸階級という2つのありうる基盤のあいだに打ち立てられた。この点にこそ、そのボナパルティズムがある。モスクワ会議は、有産者階級と民主主義政党とを喧嘩させることによって、個人独裁を強化するという課題を有している。そしてこの個人独裁の無責任な冒険主義の政策は革命のすべての獲得物を掘りくずしつつある。

 この目的にとって、左からの野党は、右からの野党と同様、不可欠なものである。ただ必要なのは、両者がお互いにほぼ均衡化し、社会的条件がこの均衡を維持することだけである。だが、他ならぬこの条件が存在していない。

 古代のカエサル主義(39)は自由民社会における階級闘争の中から成長した。しかし、あい闘うすべての分派とそのカエサルの下には、奴隷という確固たる基盤があった。近代のカエサル主義は、プロレタリアートとブルジョアジーとの闘争の中から成長し、必要な支柱を農民の受動的な安定性に見い出す。その際、ボナパルティズムの主要な武器は規律正しい軍隊である。ところが、わが国にはこれらの条件のどれ一つとして存在していない。全社会は剥き出しの諸対立によって貫かれ、緊張は最高度に達している。政府が自己の運命をあい闘う諸勢力の一つと結びつけることを決意しないかぎり、労働者と資本家との闘争、農民と地主との闘争、兵士と将校団との闘争、被抑圧諸民族と中央権力との闘争は、権力にとっての安定のいかなる要素も残さない。農業革命が実現されるまでは、「超階級的」独裁の試みは必然的に、かげろうのごとく短命なもの終わるだろう。

 ミリュコーフ、ロジャンコ、リャブシンスキーは、権力を完全に自分たちのものにすることを、すなわち革命的労働者・農民・兵士に対する搾取者の反革命的独裁を打ち立てることを望んでいる。ケレンスキーは民主主義を反革命によって脅し、反革命を民主主義によって脅し、そうすることで個人的権力の独裁を確立することを望んでいる。どちらにしても人民大衆にはいいことは何もない。しかし、これらすべては主人なき計算である。革命的大衆はまだその最後の言葉を語っていないのだ。(2の訳注

 

3、革命における軍隊

 戦争と平和の問題をめぐっても、革命の初日から同じ闘争が繰り広げられた。すなわち、下層に形成された労働者=農民の民主主義と、有産階級が上層に打ち立てようとした帝国主義的共和制との間の闘争である。

 将軍の紳士諸君は共和国を急いで「承認した」――少なくとも当分の間は――が、それは、共和国が将校団を承認するだけでなく、大公国の怠け者を解任することによって将校団をレベルアップしさえするであろうという確固たる計算にもとづいていた。「民族」革命は彼らの頭の中では宮廷革命を意味した。すなわち、ニコライとアリス[ニコライの妻]とを退位させはするが、階級的規律と部隊における上官への服従とは完全に維持するということである…。

 つい先日の電報によると、ギリシャの「領袖」ヴェニゼロス(40)はギリシャのことを「王を戴いた共和国」であると説明したそうだ! ブルシーロフ(41)、グチコフ、ロジャンコ、ミリュコーフのごとき面々は、反対に、ロシアをツァーリなき君主制の国として維持することを望んでいた。しかしそうはいかず、事態はより深刻な道をたどった。ペテルブルク連隊の2月蜂起は陰謀の産物ではなかった。それは全軍隊と人民大衆全体の反乱ムードの結果であった。そして、労働者と兵士の憤激は単に、自分で引き起こした戦争を遂行することのできない無能で腐り切ったツァーリズムに向けられていただけでなく、この戦争そのものにも向けられていた。兵士の気分と態度のうちに革命を引き起こした最も深刻な転換は、戦争の直接的な帝国主義的目的を脅かしただけでなく、この目的の手段そのものをも、すなわち、上部における命令と下部における盲目的服従にもとづいた旧来の軍隊をも脅かした。

 現在、将軍や陸軍大佐、6月3日派の政治家、ブルジョア・ジャーナリストは命令第1号(42)を破り捨て踏みにじろうとしている。彼らの意見によれば、命令第1号が軍隊内における極度に深刻な不満の高まりから生じたものではなく、反対に不満がこの命令によって生み出されたのである。“実際のところ、昨日までまだ兵士はわれわれの命令に従っていたというのに、今ではそうするのをやめている。兵士たちが何らかの新しい「命令」――命令集に第1号と書き記された命令――に従ったことは明白ではないか”というわけだ。参謀本部的・お役所的クレティン病が、最も広範なブルジョア・グループにおいては、歴史的見地の代わりをつとめているのである。

 いわゆる軍の解体は、上官に対する兵士の不服従のうちに、また兵士がこの戦争を自らの戦争とは認めていないことのうちに現わされた。まさにこうした現象を考慮して、ケレンスキーは、目覚めつつある軍隊に対し、「起ち上がった奴隷たちよ」という美辞麗句を投げ与えたのである。スホムリノフ(43)をグチコフに置きかえさえすれば軍隊を再び帝国主義の馬車につなぐことができるとブルジョアジーが考えたとすれば、ケレンスキーは、そのプチブル的皮相さと自惚れのおかげで、グチコフを自分に置きかえさえすれば軍隊を再び政府の手中の従順な道具とすることができると信じたのだ。まことにもって「愚かな夢想だ」(44)だ!

 革命は――それを大衆心理の側面から取り上げるならば――、綿々と受け継がれてきた制度や伝統を理性によって検証に付すことを意味する。戦争が人民に、とりわけ軍隊に与えた災厄や苦しみや辱めのいっさいはツァーリの意志によってもたらされたものだ。ペテルブルクでそのツァーリが打倒されたのに、いったいどうして兵士たちがツァーリズム体制の最も熱心で最も犯罪的な護衛官であった将校たちの権力を払いのけずにいられようか? かつて戦争も平和もその人しだいであった当の人物が打倒されたのに、どうして兵士が戦争の意味と目的を問題にしないわけがあろうか? 

 労働者・兵士代表ソヴィエトは3月14日、ヨーロッパの人民に向けて宣言を発し、彼らに民主主義的講和のための闘争を訴えた。これはまた、世界政治の問題に関する「命令第1号」であった。宣言は、軍隊と人民にとってのっぴきならない焦眉の問題――まだ戦争を続けるのか? いったい何のために?――に対する回答の試みであったにもかかわらず、帝国主義者たちは、まるで宣言さえなければこうした問題は、革命の雷鳴によって目覚めさせられた兵士たちの頭の中にまったく現われはしなかったかのように事態を描き出している。

 ミリュコーフは、革命が軍隊の中に批判と自主性を目覚めさせ、したがって戦争の帝国主義的目的にとって脅威となることを予感していた。それゆえ彼は第4国会で公然と革命に反対したのである。そしてミリュコーフは現在「命令」や宣言やツィンメルワルトに対して、それらがあたかも軍隊を毒したかのように不平を言っているが、それは完全に意識的な嘘である。主たる「毒」はソヴィエトのあれこれの「命令」――それは、ソヴィエトの最良の時期においてさえ十分に控え目なものであった――に潜んでいるのではなく、大衆の苦悩を抵抗と要求と公然たる力試しの言葉に翻訳した革命そのもののうちに潜んでいることを、ミリュコーフは痛いほどよく理解している。

 軍隊の内部刷新と兵士大衆による政治的模索の過程は、前線における恐るべき破局のために一気に爆発した。この破局の直接的な原因は、臨時政府が自らの手段としていた帝国主義政策と、即時かつ「公正な」講和に向けた大衆の志向との間にある矛盾のうちに根ざしていた。軍隊における新しい規律と真の熱狂とは、ただ革命そのものからしか、その内的課題を大胆に解決し外的障害に立ち向かっていくことからしか発展することはできなかった。もし人民と軍隊とが「革命はわれわれの革命である。政府はわれわれの政府である。それは搾取者に対してわれわれの利益を守るために何ものを前にしても立ち止まりはしない。それは抑圧的で略奪的ないかなる対外政策も提起しない。それは『同盟国』の取引所にぺこぺこしたりしない。それは民主主義的基礎にもとづく即時講和を人民に公然と提起している」と感じ確信したとしたら、こうした条件のもとでは勤労人民とその軍隊とは固い団結によって結ばれるであろうし、たとえドイツ革命がわれわれを助けにくるのに間に合わなかったとしても、ロシア軍は、ロシアの労働者が人民の獲得物を反革命の侵害の企図から防衛するときと同じ熱狂さでもってホーエンツォレルン家とたたかうことであろう。

 帝国主義者たちはこの道を死ぬほど恐れた――そして彼らは正しかった。プチブルの中途半端な政策は、ちょうど小店主が銀行の収奪の可能性を信じないのと同様、この道を信じなかった。「ユートピア」を拒否することによって、すなわち革命をさらに発展させる政策を拒否することによって、エスエルとメンシェヴィキは、破局をもたらしたまさにあの破滅的などっちつかずの政策を実行したのである。

 われわれは兵士たちにこう言った――そしてそれは正しかった――、「戦争はどちらの側においても帝国主義的であり、ロシア政府は、すべての国の人民にとって有害な金融上・外交上・軍事上の各種条約によってがんじんがらめにされている」と。そしてさらに「今のところロシア政府は、この旧来の諸条約に立脚し、旧来の同盟国と手を携えて、戦争を遂行している」とつけ加えた。しかし、戦火の下にいる兵士たちは、「今のところ」死に向かってつき進んでいる。自覚的に最大限の犠牲を払うことができるのは、集団的熱狂の雰囲気に支配された兵士たちだけである。そしてこの熱狂は彼らが自己の事業の正当性を深く確信する場合のみ可能となる。革命は、何でも言うことをきく「聖なる家畜」の心理を一掃した。コルニーロフ(45)もカレージンも、おそるべき弾圧なしには、たとえ一時的にであれ、歴史を逆行させることも、鞭の規律を復活させることもできない。そして、それは血塗られた混沌の長期にわたる時代を意味するだろう。軍隊が戦闘能力のある統一体として維持されうるのは、ただそれが新しい目的、新しい方法、新しい組織を受けとる場合のみである。必要なことは、革命からいっさいの結論を引き出すことであった。だがエスエルとメンシェヴィキの協力のもと臨時政府が軍隊につくり出したあの中途半端でどっちつかずの体制は、自己のうちに不可避的な破局を包含していた。すなわち、軍隊にある一定の基準を導入し、公然と批判する可能性を与えておきながら、同時に、明らかに革命的批判に耐えられない目的を軍隊の前に立て、衰弱し飢えた裸足の軍隊に対してこの目的のために超人的な努力を払うよう要求したのである。この結果がどうなるかについて疑問の余地などあるだろうか? とりわけ、一部の参謀将軍が意識的な「敗北主義的」策動を行なっていたもとでは。

 しかし臨時政府は情熱的な空文句に酔っていた。大臣閣下たちは、深刻な動揺の真っ只中にいた兵士大衆を、荒廃した不幸な国に巻きついた自国と他国の帝国主義者にとって必要ないっさいをつくることのできる材料とみなしていた。ケレンスキーは懇請したり、脅したり、ひざまずいたり、大地に接吻したりしながら、兵士を苦しめていた問題のどれ一つに対しても回答を与えようとはしなかった。安っぽい効果にすっかり目が眩んだケレンスキーは、前もって[第1回全ロシア]ソヴィエト大会――そこでは、そのあらゆる「慎重さ」にもかかわらず軽率な小ブル民主主義者が支配していた――の支持を取りつけ、6月攻勢を号令したのである。これこそ、言葉の本来の意味において、ロシア反革命の「命令第1号」であった。

 6月4日、われわれ国際主義者は、準備されている攻勢に関するボリシェヴィキ会派の宣言をソヴィエト大会において読み上げた。その中で、われわれは原則的な批判とともに、「軍隊の現在の状態においては、攻勢は軍隊の存在そのものを脅かす軍事的冒険である」とはっきり指摘しておいた。われわれがあまりにも正しかったことが明らかとなった。政府は何も考えず、何も予見しなかった。政権党たるメンシェヴィキとエスエルはわれわれの言葉に耳を傾けるどころか、われわれに向かってやじを飛ばした。

 ボリシェヴィキの予言した災厄が現実のものとなった時、彼らが非難したのは…ボリシェヴィキであった。軽率さと無責任によって引き起こされた悲劇の背後では、醜悪な臆病さがいかんなく発揮された。運命の全支配者は罪を急いで第三者になすりつけた。あの数日間における半公式の演説や論文は、人間の低劣さの記念碑としていつまでも残ることであろう。

 ボリシェヴィキを迫害することによって、もちろんしばらくの間は愚鈍な俗物どもを混乱させることができる。しかし、そうしてみたところで、政府の責任問題は取り除かれもしないし弱まりもしない。すなわち、ボリシェヴィキに罪があろうとなかろうと、政府が何も予見しなかったことの責任はいったいどうなるのか、という問題である。つまり、政府は戦闘に投入されたまさにあの軍隊について何の理解も持ってはいなかったということである。軍隊が攻勢に移ることができたのかどうかについて何も理解することなく政府は軍隊を行進させたのだ。政府をつかさどっていたのはボリシェヴィキではない。したがって、ボリシェヴィキがどうあれ、ケレンスキーとツェレテリとチェルノフの政府が攻勢という悲劇的冒険のすべての罪を負っているのである。

 この責任は、警告を発したのがどうやら国際主義者だけではなかったという事情によってより増大する。反動的将校団と最も密接に結びついている『ノーヴォエ・ヴレーミャ(新時代)』紙(46)は8月5日に攻勢の準備に関して次のように語っている。

「慎重なアレクセーエフは、戦闘準備のできていない人々を犬死にさせることを望んでいなかったために、そして不確かな成果を求めて獲得物を危険にさらすことを望んでいなかったために、免職された。勝利の幻影、ドイツがペトログラードの指導者の手から受け取る『はず』であった即時講和に対する渇望はブルシーロフを波頭に押し上げたが、彼はたちまちのうちに逆波によって押し流されてしまった」…。

 この雄弁な文章は、アレクセーエフの辞任の際に、「慎重な司令官」の代わりに、疑うことを知らぬ「騎士」[ブルシーロフ]が赴任したことに関する『レーチ』紙のあいまいな報道を説明し裏づけている。攻勢を強要した当のカデットは、騎士的な政策や戦術とは一線を画し、7月2日における内閣からのこれみよがしの離脱を準備していたのである。そして「社会主義」大臣たちは、冒険的攻勢を要求した軍事指導者に代って、「革命的民主主義」の耳元でこう説明したのだ。「真の民主主義者」ブルシーロフが君主主義者アレクセーエフに取って代ったのだ、と。このようにして歴史はつくられるのだ!

 『ノーヴォエ・ヴレーミャ』紙の表現によれば、「戦闘準備のできていない人々を犬死にさせ」、恐るべき結果に額をぶつけた後には、ダンやリーベルやその他の愛国主義的猟犬どもに、ボリシェヴィキに対するポグロム的狩り出しを委ねる他すべはなかった。これこそ、前述した「指導者」たちの肩にちょうど担える防衛の「創造的活動」であった。すべてのブルジョア・ポグロム派に負けじと、ダンやリーベルのごとき連中は、「秘密条約を公表せよ」とか「帝国主義者と手を切れ」といったスローガンを「無知蒙昧な兵士大衆」に吹き込んでいる「デマゴーグ」たちを摘発した。「その通り」――とブルジョア・ポグロム派は軽蔑も露わに彼らを支持した――「しかし、このことは、君たちがデマゴギッシュに無知蒙昧な兵士大衆に吹き込んだ命令第1号や3月14日の宣言にも完全にあてはまる」。その時、ダンとリーベルは、額の冷汗をぬぐいながら、自らの過去の罪を弁護して、革命的思考のイロハを思い出そうとしきりに努力した。しかし今では、彼らはわれわれの言葉を繰り返す他ないことを恐怖におびえながら確信しつつある。そしてこれは宿命的なことであった。なぜならば、われわれのスローガンは革命の発展から出てくる必然的な結論以外の何ものでもないからである。ソヴィエトの命令第1号や3月の宣言はその途上での最初の道標だったのだ…。

 しかし、一見したところ最も驚くべきことは、攻勢の恐るべき結果にもかかわらず、「社会主義」大臣たちがそれを帳簿の貸方の方に記入し続け、ブルジョアジーとの交渉の中でそれを自らの偉大な愛国的功績として引き合いに出していることである。

 ツェレテリはモスクワでこう叫んだ、「私は諸君に尋ねたい、ロシア革命国家の部隊をより容易に前進させえたのは、グチコフ陸海軍相の方なのかケレンスキー陸海軍相の方なのか、と(「ブラボー」、拍手)」。

 こうしてツェレテリは、グチコフがなすべきであったにもかかわらず、「革命的」民主主義の信用を得ていなかったために手に負えなかった仕事をケレンスキーが成し遂げたことを公然と自慢したのだ。そしてブルジョアジーは、攻勢によって引き起こされた破局にもかかわらず、喜んでケレンスキーの功績を認めたのであった。

 カデットのナボコフ(47)はモスクワ会議でこう声明した、「この恐るべき時代に新たな輝ける1ページを書き加えた、2ヵ月前におけるロシア軍のあの高揚は、現在臨時政府の先頭に立っている人々の啓示であった。現代史はそれを忘れはしないだろう」。

 したがって、6月18日の攻勢の「輝ける1ページ」が防衛とはいかなる関係もないことは明白である。なぜならば、ロシアの軍事情勢は攻勢の結果としてただ悪化しただけだからだ。それにもかかわらず、ブルジョアジーが感謝の念をもって攻勢のことを語っているのは、ケレンスキーの政策の結果としてわが軍がこうむった苛酷な打撃が、パニックの種を播き反革命的試みを行なうのに好都合な条件をつくり出したからに他ならない。攻勢を実施するためにエスエルとメンシェヴィキのあらゆる権威が駆り出されたのだが、この攻勢は、エスエル=メンシェヴィキの矛盾に満ちた不安定な体制――プチブル指導者たちはこの体制を維持するのに自己のちっぽけな創造力のいっさいを使い果した――を根元から掘りくずしてしまった。

 そしてブルジョアジーとその将軍連は現在、攻勢と講和問題を国内政策の見地から、より正しく言えば反革命をさらに発展させる見地から見ている。コルニーロフ将軍はモスクワ会議の場でこのことを最も明確に表現した。

「現在、われわれが動員解除できないのと同じ理由から、講和は達成されえないだろう…。将校たちの権威を高めなければならない」。

 軍隊には、国家によって武装されたおびただしい人々がかき集められているが、これらの人々は国家に対してあまりにもラディカルな要求をしている。軍事的勝算とは無関係に戦争をいっそう継続することだけが「将校たちの権威を高め」、兵士大衆を服従させ、兵士が私的所有と帝国主義国家の体制を脅かすことのない動員解除を行なう可能性を与える。この途上で単独講和が必要となったならば、ブルジョアジーはためらうことなく単独講和を結ぶだろう。

 6月18日以来、反革命は自信をもって歩みを前に進めている。そして、それは胸部に強力な打撃を受けるまで立ち止まることはないであろう。(3の訳注

 

4、次は何か?

 この文章が読者のところに届く頃には、モスクワ会議はすでに過去のものとなっているだろう。不安定で陰険な破産を体現している現政府がモスクワからの圧力に持ちこたえられず、新しい変化をこうむることになるのは、ほとんど疑いない。コルニーロフ将軍は、新しい政府危機を恐れる必要はないと説明しているが、それも理由のないことではない。きたるこの危機は右への新しい軸移動によって最も急速に解決される可能性があるからである。その際、ケレンスキーが民主主義の組織された統制――それはますます帝国主義一派による現実の「影の統制」に取って代わるであろう――からさらに独立することになるのかどうか、疑いもなくモスクワ会議によって形成されるであろう有産階級の参謀本部に対して新政府がどの程度の関係を持つのか、「社会主義的」ボナパルチストが新しい連立政府にどれぐらいの割合で参加するのか、こうした問題のいっさいは第二義的な意味しかもたない。

 しかし、たとえブルジョアジーの圧力が撃退され、モスクワ会議が政府からのカデットの新たな脱退で終わったとしても、「革命的」民主主義を称している政権は、けっして革命的民主主義政権であることを意味しはしない。同盟国の証券取引所や外交官に対する義務で手足をしばられ、労働者と兵士に対する弾圧という重荷を背に負っている公式のソヴィエト指導者たちは、2枚舌とごまかしの政策を続けざるをえない。内閣から脱退したコノヴァーロフ(48)は自分の使命をスコベレフに肩代わりさせたにすぎない。ケレンスキー=ツェレテリ内閣はカデット抜きでも半カデット的計画を実行するだろう。カデットが出ていくだけでは足りない。新しい勢力と新しい方法とが必要なのだ…。

 モスクワ会議はいずれにせよ、エスエルとメンシェヴィキによるブルジョアジーとの協調戦術――これは、革命の独立の諸課題を拒否し、それらを革命敵との連合という思想に従属させることにもとづいていた――が指導的役割を果たしていた革命期全体を決算するものである。

 ロシア革命は戦争から直接成長してきた。戦争はそれに固有の全国的組織形態をつくり出した――軍隊という組織形態を。住民の主要部分をなす農民は革命時にはすでに軍隊として強制的に組織されていた。兵士代表ソヴィエトは政治的代表を選出するよう軍隊に訴えた。その際、農民大衆は自動的に半自由主義的インテリゲンツィアをソヴィエトに送り出した。彼らは農民大衆の無定形な期待と希望を最も惨めな細事拘泥主義と大勢順応主義の言葉に翻訳した。小ブルジョア・インテリゲンツィアは、完全に大ブルジョアジーに依存して農民に対する指導権を手に入れた。兵士・農民代表ソヴィエトは労働者の代表機関に対して数の上での優位性を得た。ペテルブルクのプロレタリア前衛は無知蒙昧な大衆であると宣言された。農民に依拠した「地方の」インテリゲンツィア出身のマルトフ的なエスエルとメンシェヴィキとが革命の精華であるとされた。こうした基礎にもとづいて、2段階・3段階の選挙を経て中央執行委員会が成立したのである。最初の時期には全国的機能を果たしていたペテルブルク・ソヴィエトは、それでもやはり革命的大衆の直接的な圧力のもとにあった。中央執行委員会はその反対に、ペテルブルクの労働者・兵士から遊離し彼らに敵対する革命的官僚主義の水準にとどまっていた。

 中央執行委員会がペテルブルクのデモを鎮圧するのに前線から部隊を呼び戻すことが必要であるとみなした(とはいえ、部隊が到着する頃にはすでにデモはデモ参加者自身の手で散会されていたのだが)という事実を想起すれば十分であろう。革命を権力機構でもって武装しようとする志向――これは情勢の全体から当然出てくる志向なのだが――のうちに騒乱や無政府や暴動しか見ないプチブル指導者はそれによって政治的に身を滅ぼしたのだ。ペテルブルクの労働者・兵士を武装解除することによって、ツェレテリ、ダン、チェルノフは革命の前衛を武装解除し、彼ら自身の執行委員会がもつ影響力にも深刻な打撃を与えたのである。

 今では、これらの政治家たちは、自分たちを押しのけつつある反革命に直面して、ソヴィエトの権威と意義の回復について語っている。彼らは「ソヴィエトの周りに大衆を組織せよ」を当面するスローガンとして提起している。しかしこのような無内容な問題設定はきわめて反動的である。彼らは、大衆の組織化を呼びかける公式の訴えに隠れて、政治的課題と闘争方法の問題とを回避したがっているのだ。ソヴィエトの「権威を高める」ために大衆を組織することは惨めで不毛な企てにすぎない。大衆はソヴィエトを信頼し、それにつき従い、それを法外な高さにまで引き上げた。その結果、これらの大衆は、ソヴィエトが自分たちの不倶戴天の敵に屈服するのを目撃したのである。すでに味わった歴史的経験を大衆がもう一度繰り返しうる、ないしはそうすることを欲していると考えるとしたら、それは子供じみている。民主主義の現在の中央指導部に対する大衆の信頼の失墜が革命そのものに対する信頼の失墜にならないためには、革命におけるこれまでのあらゆる政治的仕事に対する批判的評価を大衆に与えなければならない。これはエスエルとメンシェヴィキの指導者たちの全活動に対する容赦ない断罪を意味する。

 われわれは大衆にこう語る。彼らはボリシェヴィキをあらゆる罪で弾劾している。しかし、いったいどうして彼らはボリシェヴィキに対して無力なのか? 彼らの側にはソヴィエト内の多数だけでなく政府権力もある。それにもかかわらず彼らはまんまと、いわゆる一握りのボリシェヴィキによる架空の「陰謀」の犠牲になったのだ!

 7月3〜5日の事件の後、ペテルブルクのエスエルとメンシェヴィキはますます弱体化し、ボリシェヴィキはますます強力になった。モスクワにおいてもまったく同じである。このことは、ボリシェヴィキが発展しつつある革命の真の要求を自らの政策の中で表現しているのに対し、「多数派」たるエスエル=メンシェヴィキの方は大衆の昨日の無力さと後進性とを固定しているにすぎないという事実をこの上なく明瞭に示している。しかし、今日ではもはやこの固定化だけでは不十分である。そこで、彼らは最も野放図な弾圧に助けを求めているのである。これらの連中は革命の内的論理と闘っている。まさにそれゆえ、彼らは革命の階級敵と同じ陣営に属しているのである。そしてまさにそれゆえ、われわれには、革命の明日に対する信頼を確保するために、彼らに対する信頼を掘りくずす義務があるのだ。

 ソヴィエトを支援せよというスローガンがどれぐらい無内容で空虚なものであるかは、中央執行委員会とペテルブルク・ソヴィエトとの相互関係に最も明瞭に現われている。労働者階級の先進部隊と、彼らに結びついた兵士とに依拠しているペテルブルク・ソヴィエトがますますきっぱりと革命的社会民主主義の立場に移行しつつあるのを見て、執行委員会は系統的にペテルブルク・ソヴィエトの権威と意義を破壊している。執行委員会はまるまる何ヵ月間もペテルブルク・ソヴィエトを召集していない。執行委員会はペテルブルク・ソヴィエトの機関紙『イズベスチャ』を事実上とり上げ、そこにペテルブルク・プロレタリアートの思想も生活もまったく反映しなくしている。猛り狂うブルジョア・ジャーナリズムがペテルブルク・プロレタリアートの指導者たちを弾劾し侮辱している時に、『イズベスチャ』は見ざる聞かざるを通している…。こうした状況のもとで、ソヴィエトを支援せよというスローガンが何か意味を持ちうるとしたら、それは何だろうか? それはただ一つ、メンバーを更新しようとしない官僚化した中央執行委員会に反対してペテルブルク・ソヴィエトを支援せよ、ということである。ペテルブルク・ソヴィエトにとって必要なのは、その組織、その防衛、その政治的行動における完全な独立性を勝ちとることなのだ。

 これは、すぐに解決しなければならない最重要課題である。ペテルブルク・ソヴィエトは、権力のための闘争に向けた労働者・兵士・下層農民の新たな革命的動員のセンターとならなければならない。

 全ロシア労働者代表大会を召集するための工場委員会代表者会議の発議をわれわれは全力を尽くして支持する必要がある。プロレタリアートが自己の戦術の側に兵士と貧農とを獲得するためには、その戦術は中央執行委員会の戦術と厳格かつ非妥協的に対立していなければならない。これが達成されるのは、階級としてのプロレタリアートが自らの中央集権的組織を全国家的規模でつくり出す場合のみである。われわれは歴史の道程のあらゆる偏差やジグザグを予見することはできない。われわれは一つの政党として歴史の歩みに責任を負っているわけではない。しかしそれ故なおのことわれわれは、われわれの階級に責任を負っているのである。すなわち、歴史の道程のあらゆるジグザグを通じて彼らが自らの課題を達成することができるようにすること――これがわれわれの基本的な政治的責務なのである。

※原注 このことから、われわれとメンシェヴィキとの統一という『ノーヴァヤ・ジーズニ(新生活)』紙(49)の考えがいかに無力で反動的なユートピアであるかが十分明瞭にわかるであろう。

 労働者だけでなく軍隊や農村に対しても革命の政治的問題を差し迫ったものとして提起するために、支配階級は「救済」政府とともに彼らになしうるあらゆることをなしている。エスエルとメンシェヴィキは、自らの戦術の破産をわが国の最も広範な勤労階層に暴露するためにあらゆることをなしたし、現在でもなしている。したがって、状況から必要ないっさいの結論を引き出し、困窮と苦難のどん底にあるすべての大衆を先頭にして彼らの革命的独裁をめざす決定的闘争を遂行することができるかどうかは、今やわが党に、そのエネルギー、忍耐力、粘り強さにかかっているのだ。(4の訳注

 

5、ロシア革命の性格

 自由主義派およびエスエル=メンシェヴィキ派の政治家とジャーナリストはロシア革命をどのように社会学的に評価すればよいのかひどく気に病んでいる。すなわち、それはブルジョア革命なのか、それともそれ以外の何かなのか? 一見したところ、このような理論的関心は不可解であるように思えるかもしれない。自由主義者は「自らの」革命の階級的性格を暴露することにいかなる関心も持っていない。他方、小ブルジョア「社会主義者」に関して言えば、総じて彼らはその実践においては、理論的分析によってではなく、視野の狭さと無原則の別名以外の何ものでもない「常識」によって導かれている。しかしながら、重要なことは、プレハーノフによって吹き込まれた、ロシア革命のブルジョア的性格についてのミリュコーフ=ダン的な見解のうちには1グラムの理論も含まれていないことである。

 『エジンストヴォ(統一)』紙(50)も、『レーチ(言論)』紙[カデットの中央機関紙]も、『デーニ(毎日)』紙(51)も、頭痛で苦しんでいる『ラボーチャヤ・ガゼータ』紙も、ブルジョア革命という言葉で自分たちが何を理解しているのかを定義しようとさえしなかった。彼らの意図する目的は純粋に実践的である。すなわち、権力に対するブルジョアジーの権利を証明することである。たとえソヴィエトが政治的に生命力ある住民の大多数を代表しているとしても、また資本主義諸政党が都市でも農村でもあらゆる民主主義的選挙で見事に敗北しているとしても、それでも「わが革命はブルジョア的なのだから」、ブルジョアジーのために政治的特権を確立し、わが国の政治的配置からすればけっしてありえない政府内の地位を彼らに割り当てなければならないというわけだ。議会制民主主義の原則にのっとるならば、権力がエスエルに――それ単独でか、メンシェヴィキと連立で――属さなければならないのは明白である。しかし「わが革命はブルジョア的であるのだから」、民主主義の原理は投げ捨てられ、人民の圧倒的多数の代表者が内閣で5つのポストを占め、取るに足りない少数の代表者は2倍以上のポストを占めるのである。民主主義など悪魔にでも食われてしまえ、プレハーノフ的社会学万歳! というわけだ。

 ――「はたしてブルジョアジー抜きでブルジョア革命を行なうことなどできるだろうか?」とプレハーノフは弁証法やエンゲルスを引き合いに出しながら、媚びるように問いかける。

 ――「まさにその通り!」とミリュコーフが唱和する。「われわれカデットは権力を進んで辞退したことであろう。なぜならば、人民がわれわれに権力を与えるのを露骨に嫌がっているからである。しかしわれわれも科学には逆らえない」。そしてそのさい彼らはプレハーノフの「マルクス主義」を引き合いに出す。

 ――「わが革命はブルジョア的なのだから、搾取者とともに仕事をする政治的同盟が必要である」とプレハーノフやポトレソフ(52)やダンは説明する。この「社会学」の光をあてることによって、ブブリコフ(53)とツェレテリとの滑稽な握手(54)のすべての歴史的意味が明らかとなるのである。

 だが不幸はもっぱら次の点にある。すなわち、現在では社会主義者と資本家との同盟の根拠となっている「革命のブルジョア的性格」から、この同じメンシェヴィキは十数年にもわたってまったく対立する結論を引き出していたことである。

 「ブルジョア革命においては、政府権力はブルジョアジーの支配を確保すること以外のいかなる課題も持つことはできないのだから、社会民主党が政府でなすべきことが何もないのは明白である。したがって、社会民主党は政府の中にではなく野党の側にいなければならない」と彼らは言っていた。プレハーノフは、社会主義者はいかなる場合でもブルジョア政府に参加することはできないと考え、カウツキーを激しく攻撃した。なぜならば、カウツキーの決議はこの点に関して若干の例外を認めていたからである。「時とともに法[則]も変化する(Tempora legesque mutantur)」と旧体制のわがままな連中は語った。ご覧のように、「プレハーノフ社会学の法則」にも同じことが生じたのである。

 しかしながら、メンシェヴィキや彼らに啓示を与えたプレハーノフの革命前の見解と現在のそれとがいかに矛盾していようとも、「ブルジョアジー抜きで」ブルジョア革命を行なうことは不可能であるという思想はいずれにせよ変わっていない。一見したところ、この思想は自明の理であるように見えるかもしれない。しかし実際にはこれは単なるナンセンスである。

 人類の歴史はモスクワ会議とともに始まったのではない。過去にも革命は起こっている。18世紀の終わりごろ、フランスで革命が展開された。それは大革命と呼ばれたが、それはけっして理由のないことではない。これはブルジョア革命であった。その一定の段階において権力はジャコバン党に移った。それはサンキュロット、すなわち手工業プロレタリア的都市下層民に依拠して、自らの党とジロンド党(すなわち当時のカデットたるブルジョア自由主義政党)との間に正方形のギロチンを置いた。ジャコバン党の独裁だけが第1次フランス革命にその真の意義を付与し、それを大革命たらしめたのである。それにもかかわらず、この独裁はブルジョアジー抜きで実現されただけでなく、直接的にそれと対立して実現された。プレハーノフ的観念を知ることができなかったロベスピエール(55)は社会学の全法則を覆し、ジロンド党と握手する代わりに彼らの頭を切り落としたのである。もちろん、これは非常に残酷であった。しかし、この残酷さはフランス革命がそのブルジョア的性格の限界内で大革命となるのをけっして妨げはしなかった。わが国のあらゆる俗物どもによって名前が悪用されているマルクスは、次のように書いている。

「フランスの恐怖政治の全体はブルジョアジーの敵を片づける平民的方法に他ならなかった」(56)…。

 そして、この他ならぬブルジョアジー自身が人民の敵を片づける平民的方法を恐れたために、ジャコバン党はブルジョアジーを権力から追い出しただけではなく、ブルジョアジーがジャコバン党の仕事を停止させたり「緩和」させたりしようとした時にはいつでも、仮借ない弾圧を彼らに対して行使したのである。明らかに、ジャコバン党はブルジョアジー抜きでブルジョア革命を行なったのだ。

 1648年のイギリス革命に関してエンゲルスはこう書いている。

「ブルジョアジーが、その時すでに刈り入れることができるまでに成熟している果実を確保するためだけでも、革命はその当初の目的をはるかに越えなければならなかった。これは1793年のフランス革命でも、1848年のドイツ革命でもまったく同じであった。これはどうやらブルジョア社会の発展法則の一つであるようだ」(57)

 ご覧のように、エンゲルスの法則は、メンシェヴィキが採用しマルクス主義と詐称しているプレハーノフの独断に真っ向から対立している。

 もちろん、ジャコバン党自身がブルジョアジー、ただし小ブルジョアジーであったと言うこともできよう。これはまったくその通りである。しかし、エスエルとメンシェヴィキによって指導されているいわゆる「革命的民主主義」も小ブルジョアジー以外の何であるというのか? 都市と農村で行なわれたあらゆる選挙において、一方での大中所有者の党であるカデットと他方でのエスエルとの間にはどんな中間政党も登場しなかった。このことから、小ブルジョアジーがエスエルのうちにその政治的代表を見出だしたということは数学のように明白である。エスエルの政策と何ら区別されない政策を取っているメンシェヴィキもまったく同じ階級的利害を表現している。このことは、一部の最も後進的ないしは保守的・特権的な労働者が彼らにつき従っているという事実と何ら矛盾するものではない。では、いったいどうしてエスエルは権力を掌握することができなかったのか? いったいいかなる意味で、またどうしてロシア革命の「ブルジョア的」性格(そのように仮定したとすると、だが)はエスエルとメンシェヴィキがジャコバン党の平民的方法に代えて反革命ブルジョアジーとの協調というサロン的方法をとるのを余儀なくさせたというのか? 明らかに、その理由はわが国の革命の「ブルジョア的」性格に求めるべきではなく、わが国の小ブルジョア民主主義の惨めな性格に求めなければならない。

 わが国のエセ民主主義は自己の手中にある権力を、自らの歴史的課題を実現するための道具とするかわりに、実際の権力を反革命的、軍事帝国主義的徒党にうやうやしく譲り渡したのである。そしてツェレテリはモスクワ会議の場で、ソヴィエトがやむをえずではなく、すなわち勇気ある闘争と敗北の後にではなく、政治的「自制」の証拠として自発的に権力を引き渡したことを自慢すらしたのだ。肉屋の包丁の下に自分の首を差し出すような「子牛の美徳」は、新世界を征服する資質ではない!

 国民公会[フランス第1共和制の最高立法機関]のテロリストとモスクワ会議の降伏者の間にある違いは、虎と小牛との間に成長段階の違いがあるのと概ね同じである。しかしこうした違いは基本的なものではない。この違いの背後には民主主義そのものの構成における決定的な違いが隠されている。ジャコバン党は小所有階級と、当時まだ形成途上にあったプロレタリアートを含む無産階級に立脚していた。だが、わが国では工業労働者階級は無定形な民主主義から分離し、第1級の意義を持つ独立した歴史的勢力になった。小ブルジョア民主主義から分離したプロレタリアートが自らのうちに革命的資質を発展させるにつれて、小ブルジョア民主主義は最も価値ある革命的資質を失っていった。この現象は、それはそれで、ロシアの資本主義が18世紀末葉のフランスと比べてはるかに高い発展水準に到達していた結果である。

 ロシア・プロレタリアートの革命的役割はけっしてその数によって測られるものではない。それはプロレタリアートの巨大な生産上の役割にもとづいており、このことは戦時に最も鮮明に明らかとなった。鉄道ストライキの脅威は、国全体がどれほどプロレタリアートの集中された労働に依存しているかを改めて現代に思い知らせた。プチブル農民政党は革命の最初の一歩目からたちまち、一方での帝国主義的諸階級の強力なグループと他方での革命的・国際主義的プロレタリアートの間で十字砲火を浴びるはめになった。プチブル政党は、自らの影響を労働者に及ぼすために闘うことによって、ますますプロレタリア政党に自らの「国家機構」、自らの「愛国主義」を対抗させるようになり、それゆえますます反革命的な資本グループへの奴隷的依存に陥っている。それとともにプチブル政党は、自らにつき従っている人民大衆を縛っているありとあらゆる形式――それが単なる古い野蛮状態であれ――を一掃する可能性を完全に失ってしまった。プロレタリアートに影響を及ぼすためのエスエルとメンシェヴィキの闘争はますます、都市と農村の半プロレタリア大衆に対する指導権を獲得するためのプロレタリア政党の闘争に取って代られつつある。「自発的に」権力をブルジョア政党に引き渡すことによって、エスエル=メンシェヴィキ的「民主主義」はその革命的使命を完全にプロレタリア政党に引き渡すことを余儀なくされている。すでにこのこと一つ取っただけでも次のことが明らかとなるろう。すなわち、わが国の革命の「ブルジョア的」性格を抽象的に引き合いに出すことによって基本的な戦術問題を立てようとする試みは、後進的労働者を混乱させ農民を惑わすことにしか役立たないということである。

 1848年のフランス革命においてすでにプロレタリアートは独立した行動をしようとする英雄的な試みを行なっている。しかし、彼らはまだ明確な革命的理論も、権威のある階級的組織も持ち合わせてはいなかった。彼らの生産上の意義は現在のロシア・プロレタリアートの経済的役割よりもはるかに低かった。最後に、1848年は、それなりの仕方で農地問題を解決した大革命を後にしていた。当時このことは、プロレタリアート、主としてパリ・プロレタリアートの人民大衆からの急速な孤立となって現われた。こうした点に関して、わが国の状況ははるかに有利である。土地による隷属、身分的束縛、教会の圧迫とカースト的収奪――これらが、断固とした仮借のない措置を必要とする差し迫った問題として革命の前に立ちはだかっている。エスエル=メンシェヴィキからのわが党の「孤立」は、たとえそれが最も徹底したものだとしても、たとえ独房に閉じ込めるという手段によったものだとしても、けっして抑圧された農民と都市大衆からの孤立を意味するものではない。反対に、革命的プロレタリアートの政策をソヴィエトの現指導者の背信的変節に厳しく対置することは、もっぱら数百万農民の政治的階級分化を助け、エスエルを支持する富農の裏切り的な指導のもとから貧農を奪いとり、社会主義的プロレタリアートを人民革命の、すなわち「平民」革命の真の指導者たらしめることを可能にしているのである。

 最後に、ロシア革命の「ブルジョア的」性格についての空文句は、革命を取り巻く国際情勢についてまったく何事も語らない。だがこれは決定的な問題なのだ。偉大なジャコバン革命の隣には、それに敵対する後進的で封建的で君主主義的なヨーロッパが存在していた。ジャコバン体制は、中世の団結した勢力から自らを防衛するために強いられた超人的な緊張の重荷のために倒壊し、ボナパルティズム体制に席を譲った。その反対にロシア革命の前には、ロシアよりはるかに先進的で、資本主義が極めて高度な発展に達しているヨーロッパが存在している。現今の世界大戦は、ヨーロッパが資本主義的飽食の限界に達し、生産手段の私的所有にもとづいてはこれ以上生きることも発展することもできないということを示している。流血と破壊のこの混沌は、利潤原理の支配に対する、賃金奴隷制に対する、人間関係の卑しい愚劣さに対する、盲目的な生産力の野蛮な反逆であり、鉄と鋼の反乱である。それによって引き起こされた戦争の炎に包まれている資本主義は、その大砲の銃口から人類にこう叫んでいるのだ。「私を克服するのか、それとも私が君たちを私の廃墟の下に葬るのかだ!」と。

 数千年に及ぶ人類史、階級闘争、文化的蓄積のこれまですべての発展は今や一つの問題に行きあたった。プロレタリア革命という問題に、である。別の解決も他の活路も存在しない。そしてこの点にロシア革命の巨大な力があるのだ。これは「国民」革命でも、ブルジョア革命でもない。そのように理解する者は18世紀と19世紀の幻想世界に生きている者である。われわれの「現代の祖国」は20世紀である。ロシア革命の今後の運命は戦争の歩みと結末に、すなわちこの帝国主義戦争によって破局的性格を付与されたヨーロッパにおける階級的矛盾の発展に直接依存しているのである。

 あまりにも早くケレンスキーとコルニーロフは競争しあう独裁者の言葉で語り始めている。カレージンはあまりにも早く歯をがたがた鳴らしている。あまりにも早く背教者たるツェレテリ派は自分たちに軽蔑的に差し出された反革命の手と握手している。革命は今のところまだその最初の言葉を語ったにすぎない。それはまだ西方ヨーロッパにおける巨大な予備軍を有している。反動的詐欺師とプチブル的愚か者との握手に代わって、ロシア革命とヨーロッパ・プロレタリアートとの偉大な握手がやってくるだろう。(5の訳注

 

6、国際的戦術

 ロシア革命における階級的・政治的グループ分けが前代未聞の明瞭さを有しているにもかかわらず、わが国のイデオロギーの領域においては、同じくらい前代未聞の混乱が支配している。ロシアの歴史的発展の後発的性格は、プチブル・インテリゲンツィアが最良の社会主義理論[マルクス主義のこと]を孔雀の羽として身にまとうことを可能にした。しかしながら、それは彼らのしなびた裸体を隠すためにのみ役立っている。エスエルとメンシェヴィキが3月はじめにも、5月3日にも、7月3日にも権力をとらなかったのは、わが国の革命が「ブルジョア的」であるからでも、「ブルジョアジー抜きで」革命を行なうことができないからでもけっしてなく、小ブルジョア「社会主義者」が、帝国主義の網によってがんじんがらめにされていたため、125年前にジャコバン民主主義が成し遂げた仕事のたとえ10分の1でも実行する能力をもはや有していなかったからである。革命と国の救済について駄弁を労しながら、彼らは戦闘を交えることなく次から次へと陣地をブルジョア反動に譲り渡していくだろう。まさにそれによって、権力のための闘争は労働者階級の直接的課題となり、それとともに革命は最終的にその「国民的」およびブルジョア的外皮を脱ぎ捨てるのである。

 わが国が強力な――おそらくは君主を戴く――帝国主義体制に大きく逆戻りするのか(その場合にはソヴィエトや土地委員会や各種軍隊組織やその他多くのものが破壊され、ケレンスキーとツェレテリはお払い箱になるであろう)、それともプロレタリアートが半プロレタリア大衆を後に従え、昨日の指導者たちを自分の進路から一掃することによって(ケレンスキーとツェレテリはこの場合でもお払い箱となる!)、労働者民主主義の体制を確立するのか、である。そして、この体制がさらなる成功を治めることができるかどうかは、ヨーロッパ革命の成否に、何よりもまずドイツ革命の成否に直接左右されるだろう。

 国際主義はわれわれにとって、(ツェレテリやチェルノフのように)適当な機会がありしだいそれを裏切るためにのみ存在する抽象的な観念ではなく、直接的な指導原理であり、すぐれて実践的な原理である。安定した確固たる成功は、われわれにとってヨーロッパ革命なしに考えることはできない。したがってわれわれは、ヨーロッパ・プロレタリアートの運動を困難にするような措置や同盟によって部分的成功をあがなうことはできない。まさにそれゆえ、社会愛国主義者との非妥協的な分裂は、われわれにとってあらゆる政治活動に必要不可欠な前提条件なのである。

 全ロシア・ソヴィエト大会で演説者の一人はこう叫んだ、「国際主義者の同志諸君、君たちの社会革命を50年先に延期したまえ!」と。この屈託のないアドバイスがメンシェヴィキとエスエルの自己満足的な拍手喝采を浴びたことは言うまでもない。

 まさにこの点にこそ、社会革命に関する、ありとあらゆる種類の日和見主義的プチブル・ユートピアニズムとプロレタリア社会主義との分水嶺があるのだ。インターナショナルの危機を戦争によって引き起こされた一時的な排外主義的陶酔でもって説明する「国際主義者」が少なからずいる。彼らはこう考えている、遅かれ早かれすべての者は本来の場所に戻ってくるだろう、そして古い社会主義政党は現在失われている階級闘争の道を再び見出だすだろう、と。無邪気で惨めな願望だ! 戦争は、資本主義社会を均衡から一時的に放り出した外的な破局ではなく、民族国家と私的な収奪形態という制限された枠組みに対するこの社会の増大しつつある生産力の反逆である。過去の時代の相対的な資本主義的均衡に戻ることはもはや不可能である。帝国主義戦争を何度も繰り返すことによって生産力のさらなる不可抗力的な破壊を続けるのか、それとも生産を社会主義的に組織するのか――現在、歴史はまさにこのように問題を立てているのだ。

 同様にして、インターナショナルの危機も外的な現象ではない。

 ヨーロッパの社会主義政党は、相対的な資本主義的均衡の時代、一国的議会主義と国内市場にプロレタリアートが改良主義的に適応する時代に形成された。エンゲルスは1887年にこう書いている。

「社会民主主義政党そのものの内部に小ブルジョア社会主義の同調者がいる。このような社会民主党員は、科学的社会主義の基本的見地や、すべての生産手段を社会的所有へ移すという要求の合目的性を承認するが、この要求を事実上無限に遠い将来にしか実現可能ではないと説明するのだ」(57)

 「平和の」時代が長期にわたったために、この小ブルジョア社会主義はプロレタリアートの旧来の組織の中で支配的となった。そして、その制限と破産とは、諸矛盾の「平和的」蓄積が最大の帝国主義的激動に取って代った瞬間に、最も醜悪な形で暴露されたのである。旧来の民族国家だけでなく、それと癒着していた官僚化した社会主義政党もまた、さらなる発展の要求と矛盾していることが明らかとなった。このことは以前においてもある程度まで予見できたことであった。

 われわれは12年前にこう書いている。

「社会主義政党の課題は、ちょうど資本主義の発展が社会関係を変革したのと同様に、労働者階級の意識を変革することにあったし、今でもそうである。しかし、プロレタリアート内部でのアジテーション活動と組織活動とはそれ自身の内的保守性を有している。ヨーロッパの社会主義政党――何よりもまず、その中の最も強力なドイツの社会主義政党――は、社会主義に惹きつけられる大衆が多くなればなるほど、そしてこれらの大衆の組織化と訓練とが進めば進むほど、ますますその保守性を強力に育んできた。その結果、プロレタリアートの政治的経験を体現する組織であるはずの社会民主党が、ある時点で、労働者とブルジョア反動との公然たる衝突の前に立ちはだかる直接的な障害物になるかもしれない。言いかえれば、プロレタリア政党の宣伝社会主義的保守主義が、ある時点で、権力をめざすプロレタリアートの直接的闘争を妨げる可能性がある」(『われわれの革命』1906年、285頁)(58)

 しかし、革命的マルクス主義者は第2インターナショナルの諸党に対する物神崇拝とは無縁であったとはいえ、これらの巨大な組織がこれほどまでに惨めにかつ破局的に崩壊するとは誰も予想しなかった。

 新しい時代は新しい組織をつくり出す。革命的社会主義政党は今やいたるところで闘争の炎の中で形成されつつある。第2インターナショナルの巨大な思想的・政治的遺産はもちろん水泡に帰したのではなかった。しかし、それらの遺産は内的に浄化されつつあり、その際、「現実主義的」俗物の世代全体は脇に押しやられるだろう。こうして初めて、マルクス主義の革命的傾向はその完全な政治的意義を受け取るのである。

 各国内部での課題は、時代遅れとなった組織の統一を維持することにあるのではなく、今や戦争と帝国主義に対する闘争の中で最前線に出てきつつあるプロレタリアートの自発的な革命分子を積極的に結集することにある。国際的な規模での課題は、政権についている社会主義者と外交上の会議の場で親交を深め「和解する」(ストックホルム!(59))ことにあるのではなく、すべての国の革命的国際主義者を統一し、各国内部で社会革命に向けた共通の路線を追求することにあるのである。

 確かに、労働者階級の先頭に立つ革命的国際主義者は現在ヨーロッパ全体で取るに足りない少数派を代表しているにすぎない。しかし、まさにわれわれロシアの国際主義者はこうした事実にひるみはしない。革命時代には少数派がいかに急速に多数派となるかをわれわれは知っている。労働者大衆の蓄積された憤激が国家的規律の外皮をつき破るやいなや、たちまちリープクネヒトとルクセンブルクとメーリングとその友人たちのグループはドイツ労働者階級の指導的地位に立つだろう。ただ社会革命をめざす政策だけが組織的分裂を正当化する。しかし他方では、その政策こそが分裂を必要不可欠なものにするのである。

 同志マルトフ率いるメンシェヴィキ国際主義者たちは、われわれとは反対に、政治的課題の社会革命的設定を拒否している。彼らはその政綱の中でこう声明している。

「ロシアはまだ社会主義にとって成熟していない。それゆえわれわれの課題はブルジョア民主主義共和国を確立することに制限されざるをえない」。

 こうした見解のいっさいはプロレタリアートの国際的な結びつきと課題の完全な蹂躙にもとづいている。もしロシアが世界に一国だけで存在していたとしたら、マルトフの見解は正しかったろう。しかし、問題となっているのは、世界大戦の清算、世界帝国主義との闘争、ロシア・プロレタリアートを含む世界プロレタリアートの任務なのである。今後のロシアの運命はヨーロッパの運命と不可分に結びついているということ、すなわちヨーロッパ・プロレタリアートが勝利すればわが国は急速に社会主義体制へ移行することができるが、反対にヨーロッパ労働者が敗北すればわが国は後に投げ戻され、帝国主義的独裁と君主制に、ついにはイギリスとアメリカ合衆国の植民地の地位に行き着くということ、こうしたことをロシア労働者に説明する代わりに、そして、われわれの戦術のすべてをヨーロッパと世界のプロレタリアートの一般的な目的と課題とに従属させる代わりに、同志マルトフはロシア革命を制限された一国的枠組みの中で検討し、革命の課題をブルジョア民主主義共和制の創出に還元している。これは、第2インターナショナルを崩壊に導いた一国的制約の呪いにすっかり支配されてしまっている根本的に間違った問題設定である。

 実際上自らを一国的展望に制限することによって、同志マルトフは社会愛国主義者と一つの組織の中で折り合っていく可能性を確保している。彼は、戦争とともに消えるに違いない民族主義の「疫病」をダンやツェレテリとともにしのぎたいと願っており、その後は彼らとともに「通常の」階級闘争のレールに戻るつもりでいる。マルトフを社会愛国主義者に結びつけているのは、つまらない党派的伝統などではなく、社会革命に対する深刻な日和見主義的姿勢である。すなわち、彼は社会革命を今日の課題として設定することのできない遥か遠くにある目的とみなしているのである。そしてまさにこの姿勢こそが彼をわれわれから分かつものなのだ。

 権力獲得をめざす闘争は、われわれにとって単なる一国的民主主義革命の次の段階といったものではない。そうではなく、これは国際的責務を果たすことであり、世界帝国主義に対する闘争の共通の戦線における最重要陣地の一つを獲得することである。そして、この基本的な見地がいわゆる民族防衛に対するわれわれの態度を決定する。あれこれの側への前線のエピソード的な移動は、われわれの闘争を停止させもしないし、脇にそらせもしない。なぜならば、われわれの闘争は、諸民族の帝国主義的相互絶滅に行き着いた資本主義の基礎そのものに向けられているからである。

 永続革命 対 永続殺戮! この闘争に人類の運命がかかっているのだ。(6の訳注

1917年9月、ペテルブルク

ロシア語版『トロツキー著作集』第3巻『1917年』所収

『トロツキー研究』第5号より

 

  訳注

 序に代えて

(1)モスクワ会議……ケレンスキーがブルジョア・君主主義者の代表とエスエル、メンシェヴィキの代表を中心に召集され、ボリショイ劇場で8月12日に開かれたモスクワ国政会議[全国会議とも訳されている]のこと。ケレンスキーは、ボリシェヴィキを排除したうえで、ロシアの「生きた勢力」をすべて結集すると豪語した。ケレンスキーの目論見は、政治の中心をモスクワに移すことで、7月事件とその後の弾圧の傷からまだ癒えない革命的ペトログラードを孤立させることであったが、モスクワのボリシェヴィキ組織は抗議のストライキを呼びかけ、40万人もの労働者がこの呼びかけに応えた。

 

 1、何が起こったか?

(2)ミリュコーフ、パーヴェル(1859-1943)……ロシアの自由主義政治家、歴史学者。カデット(立憲民主党)の指導者。第3、第4国会議員。2月革命後、最初の臨時政府の外相。4月18日に、連合諸国に、戦争の継続を約束する「覚書」を出し、それに抗議する労働者・兵士の大規模デモが起こり(4月事件)、外相辞任を余儀なくされる。10月革命後、白衛派の運動に積極的に参加し、ソヴィエト権力打倒を目指す。1920年に亡命。

(3)グルコー、ワシーリー(1864-1937)……帝政ロシアの将軍。君主主義者。黒百人組の指導者。1916〜17年、総司令官。1917年、ルーマニア戦線の総司令官。1917年5月に当時の陸海軍相ケレンスキーによって解任。7月、元ツァーリのニコライ2世と手紙を交わしたために政府に逮捕され、8月、ロシアから追放。

(4)ツェレテリ、イラクリー(1881-1959)……メンシェヴィキの指導者。第2国会の議員。1912年に流刑。1917年2月革命後、流刑地から戻ってきてペトログラード・ソヴィエト議長。5月に、郵便・電信相として第1次臨時政府に入閣。6月、第1回全ロシア・ソヴィエト大会で中央執行委員会議長に。7月事件後、第1次臨時政府の内相に就任。1918年にグルジアのメンシェヴィキ政府の首班。1921年に亡命。

(5)リーベル、ミハイル(1880-1937)……ブントの創設者にして指導者、メンシェヴィキ。2月革命後、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会のメンバー。

(6)ゴーツ、アブラム(1882-1940)……エスエル幹部。兄は1906年までエスエルの指導者。1905年革命で逮捕され、1907年、懲役刑を宣告。1917年の2月革命後、ペトログラード・ソヴィエトにおけるエスエル会派の指導者。6月の第1回全ロシア・ソヴィエト大会で中央執行委員会副議長に。10月革命後、ボリシェヴィキ政権に激しく武力抵抗し、1920年に逮捕され、公開裁判で死刑を宣告されたが、その後釈放され、ソヴィエト機関で働くことが許可される。

(7)ヴォイチンスキー、グリゴリー(1893-1953)……メンシェヴィキの指導者。1917年4月にボリシェヴィキからメンシェヴィキに移行し、ペトログラード・ソヴィエト執行委員、6月に全ロシア・ソヴィエト中央執行委員に。1918年にボリシェヴィキに再入党。

(8)カピトル丘を救ったガチョウ……紀元前390年頃、ガリア人がローマを襲い、カピトル丘(古代ローマの7丘の一つ)を除く全市を占領した。伝説によれば、カピトル丘の防衛にあたっていた戦士たちは、敵が不意の夜襲をかけてきた時、おりよくユノー神殿のガチョウの鳴声によって呼び起こされたとされている。

(9)「お払い箱」……ツェレテリは第1次連立政府の際には郵便・電信大臣として入閣し、7月事件後に内務大臣になるが、7月24日に発足した第2次連立政府では閣僚からはずされた。ツェレテリの代わりに内務大臣になったのは、エスエル右派のアフクセチェフ。

(10)機関銃連隊……最も血気にはやっていた機関銃連隊は7月事件の発端となった武装デモを最初にボリシェヴィキに要求し、示威運動の先頭に立った。7月事件の後、ツェレテリは革命が「挫折した」のは機関銃連隊のせいであると喧伝した。

(11)ポロフツェフ、ピョートル(1874-1930)……1917年5月に少将。同年、コルニーロフに代わってペテルブルクの軍管区司令官。7月事件の弾圧と『プラウダ』襲撃を指揮。

(12)エフレーモフ、イワン(1866-?)……ドネツの大地主。「平和革新」党の組織者。後に、進歩党の指導者。第1、第3、第4国会議員。2月革命後、第1次連立内閣の救貧相。

(13)ダン、フョードル(1871-1947)……ロシアの革命家、メンシェヴィキの指導者。1894年からロシア社会民主主義運動に参加。1903年の分裂後はメンシェヴィキ。第1次世界大戦中は社会愛国主義者。1917年の2月革命後、ペトログラード・ソヴィエト執行委員。6月、全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会幹部会のメンバー。10月革命後、ボリシェヴィキ政府と敵対するも、武力闘争は行なわず、マルトフとともにソヴィエトでメンシェヴィキを代表。1922年にレーニンの命令でソ連から追放。1923年にソヴィエト公民権を喪失。同年、社会主義インターナショナルの再建に参加。『ノーヴィ・プーチ(新しい道)』を編集。その後アメリカに亡命し、そこで死去。

(14)ロイド=ジョージ、ディヴィッド(1863-1945)……イギリスのブルジョア政治家。1908〜15年、蔵相。1916〜22年、首相。ソヴィエト・ロシアへの干渉戦争を推進。1931年の総選挙後は「独立自由党」を率いる。

(15)リボー、アレクサンドル(1842-1923)……フランスの政治家、中道左派。1892〜93、1895、1917年に首相。

(16)ウィルソン、ウッドロー(1856-1924)……アメリカの政治家、第28代大統領(1913-1921)。第1次世界大戦では最初、中立政策を掲げたが、戦争末期の1917年に参戦。18年に「平和のための14ヶ条」を提唱。国際連盟の創設につとめたが、アメリカ自身は上院の反対に会って加入しなかった。

(17)リヴォフ、ゲオルグ(1861-1925)……ロシアのブルジョア政治家、カデット、公爵。全ロシア・ゼムストヴォ同盟議長。1917年2月革命後、7月まで臨時政府の首相。7月事件で首相の座を追われる。10月革命後、パリに亡命。

(18)ケレンスキー、アレクサンドル(1881-1970)……1912年、第4国会でトルドヴィキ(勤労者党)の指導者。2月革命後、エスエルに。最初の臨時政府に司法大臣として入閣。第1次連立政府で陸海相、7月事件後に首相を兼務。第2次連立政府、第3次連立政府の首相。8月30日、コルニーロフに代わって全ロシア最高総司令官に。10月革命直後に、クラスノフとともにボリシェヴィキ政府に対する武力半短を企てるが、失敗して亡命。アメリカで『回想録』を執筆。

 

  2、ボナパルティズムの諸要素

(19)邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第8巻、135頁。「ルイ・ボナパルトのブリューメル18日」の一節。

(20)テレシチェンコ、ミハイル(1886-1956)……キエフ出身の大地主、大資本家、政治家。第1次大戦中、戦時工業委員会の議長代理。2月革命後の最初の臨時政府の蔵相。第1次、第2次、第3次連立政府の外相。帝国主義戦争の継続を主張。10月革命後、ボリシェヴィキ政府に敵対。1918年に亡命。

(21)カレージン、アレクセイ(1861-1918)……帝政ロシアの軍人、将軍。2月革命でドン・ コサック軍団長(アルマタン)に選ばれ、ドンの独立を主張。10月革命後、ソヴィエト政府に対する反革命軍事行動をとるが、失敗し、自殺。

(22) スコベレフ、マトヴェイ(1885-1938/39)……1903年からメンシェヴィキ。1906年に亡命。1908〜12年にウィーン『プラウダ』の編集に携わる。1912年以降、第4国会の社会民主党議員団の一人。第1次大戦中は社会排外主義者。2月革命後、ペトログラード・ソヴィエトの議長代理。5月、第1次連立政府の労働大臣。10月革命後、グルジアに。1920年にフランスに亡命するが、同地でソヴィエト政府と協力。1922年にボリシェヴィキに入党し、利権委員会に。1924年にロシアに帰還。1938年(資料によっては39年)に粛清され、死後名誉回復。

(23)ナポレオン・ボナパルト1世(1769-1821)……フランスの皇帝。コルシカの小貴族出身で、 1793年、フランス革命軍砲兵仕官として活躍。次々と戦勝を打ち建てて、国内軍司令官に。1799年、ブリューメル18日のクーデターを敢行し、執政政府を樹立。第一執政に。1804年にフランス皇帝に。フランスの近代化を推し進めるとともに、諸外国への侵略戦争(ナポレオン戦争)を遂行。1812年のモスクワ遠征の失敗以降、没落の過程をたどり、1814年退位。

(24)トルドヴィキ……ロシア国会の勤労者グループのこと。主にナロードニキ系の人々から成っていた。ケレンスキーは第4国会のトルドヴィキ代議員で、2月革命後エスエルに移った。

(25)グチコフ、アレクサンドル(1862-1936)……大資本家と地主の利害を代表する政党オクチャブリスト(10月17日同盟)の指導者。第3国会の議長。ロシア2月革命で臨時政府の陸海相になり、帝国主義戦争を推進するが、4月の反戦デモの圧力で辞職(4月30日)。グチコフの代わりに陸海相になったのがケレンスキー。10月革命後、ボリシェヴィキ政府と激しく敵対。1918年にベルリンに亡命。

(26)「歴史的な」夜の会合……7月2日に開かれた会議で、ウクライナ問題をめぐってカデット党の閣僚3名(シンガリョーフ、マヌィロフ、シャホフスコイ)が内閣から離脱することが決定され、第1次連立政府が崩壊した。

(27)タヴリーダ宮……2月革命後、ソヴィエトの本部が置かれていた場所で、7月になってから、ソヴィエトは、貴族の女学校であるスモーリヌィに場所を移した。

(28)アフクセンチェフ、ニコライ(1878-1943)……エスエルの右派指導者。1907年から1917年まで亡命。第1次大戦中は排外主義者。2月革命後、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会のメンバー、全ロシア農民代表ソヴィエト執行委員会議長。第2次臨時政府の内相に。9月、予備議会の議長。10月革命後、反革命活動に従事し、ウーファおよびオムスクで反ボリシェヴィキ政府の代表。1918年末にパリに亡命。

(29)サヴィンコフ、ボリス(1879-1925)……エスエルの幹部、詩人。1903年にエスエル入党。エスエル戦闘団の一員として内相プレーヴェやセルゲイ大公の暗殺に関与。1906年に逮捕され死刑を宣告されるも、脱走。1911年に亡命。第1次大戦中は祖国防衛派としてフランス軍に志願。2月革命後、臨時政府の最高総司令部付コミッサール。ケレンスキー政権において陸軍官房長。ケレンスキーとコルニーロフとのあいだで暗躍し、コルニーロフ反乱を起こす重要な役割を果たす。10月革命後、反革命行動に積極的に参加。1921〜23年、ポーランドからソ連内部での反革命運動を組織。1924年に国境付近で逮捕され、エスエル裁判において自らの罪を告白。モスクワの獄中で自殺。ロプーシンという筆名で『蒼ざめた馬』『テロリストの回想』などの作品を残す。

(30)シンガリョーフ、アレクセイ(1869-1918)……ロシアのブルジョア政治家、カデット。第2、第3、第4国会の議員。1917年2月革命後、最初の臨時政府で農業大臣、第1次連立政府ではテレシチェンコに代わって大蔵大臣。7月2日に辞任。10月革命直後に逮捕され、1918年にココシキンとともに水兵によって殺される。

(31)ココシキン、フョードル(1871-1918)……ロシアのブルジョア政治家、カデット幹部。モスクワ大学の法学部教授。1917年7〜8月、第2次連立政府(第1次ケレンスキー政府)において、会計検査官。10月革命でボリシェヴィキによって逮捕。1918年に水兵によって殺される。

(32)チェルノフ、ヴィクトル(1873-1952)……エスエルの指導者。1899〜1905年、1908〜1917年、亡命。第1次大戦中は 左翼中間主義的立場。1915年、ツィンメルワルト会議に出席するも、宣言の採択では棄権。2月革命後、ロシアに帰還し、全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会のメンバー、第1次臨時政府の農相。7月事件後に辞任。1918年1月、憲法制定議会の議長。議会の解散後、ソヴィエト政権と闘争。チェコ軍団の反乱を扇動。1920年に亡命。

(33)レベデフ、ウラジーミル(1884-1956)……エスエル幹部。第1次世界大戦時は祖国防衛派で、フランス軍に志願して参加。2月革命後に帰国して、一時期、臨時政府の陸海軍相。1919年に亡命し、プラハに。同地でエスエルの機関誌『ロシアの意志』を発行。1938年にアメリカに移住し、同地で死去。

(34)リャブシンスキー、パーヴェル(1871-1924)……モスクワの大資本家、銀行家。父親の家業を継いで、銀行業や繊維産業を含む資本帝国を築き上げる。第1次大戦中は戦時工業委員会の議長。国会内の進歩派ブロックの創設者にして指導者。10月革命後、亡命。

(35)アレクセーエフ、ミハイル・ヴァシリエヴィッチ(1857-1918)……帝政ロシアの将軍。日露戦争時、陸軍少将。第1次世界大戦時、参謀総長。1917年2月革命後、臨時政府のもとで総司令官。1917年6月、ケレンスキーによって解任。1918年に反革命義勇軍を創設し、ボリシェヴィキ政権と闘争。同年、病死。

(36)予科……ロシアでは、正規の1年生に進学する前の段階として「予科」がある。トロツキーも、中学に進学する際、ユダヤ人の入学規制措置ゆえに、「予科」にまず編入された。

(37)ロジャンコ、ミハイル(1859-1924)……ロシアのブルジョア政治家、大地主。1907〜17年、国会議員。1917年の2月革命後に国会議員臨時委員会議長。内戦中はデニーキン白衛軍に属して、ソヴィエト政権に敵対。1920年にユーゴに亡命。

(38)ボクダーノフ、ボリス(1884-1960)……ロシアのメンシェヴィキ解党主義派。第1次大戦中は軍需産業委員会のメンバー。2月革命後、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会のメンバー。

(39)カエサル主義……カエサル(前100-前44)は古代ローマの終身独裁官で、カエサル主義は、彼の何ちなんで一個人による独裁体制を指す言葉として用いられている。

 

 3、革命における軍隊

(40)ヴェニゼロス、エルセリオス(1864-1936)……ギリシャの政治家、独裁者。自由党を創設し、1910〜15年、首相。大ギリシャ主義を唱え、独裁的政治を推進。1917〜20年、24年、28〜32年と首相。

(41)ブルシーロフ、アレクセイ(1853-1926)……帝政ロシアの軍人、騎兵大将。第1次大戦時、第8軍、のちに南西方面軍指揮官。2月革命後、臨時政府により最高総司令官に任命。6月攻勢の失敗で失脚。10月革命後はボリシェヴィキに協力し、1920年に赤軍に参加。

(42)命令第1号……3月1日にペテルブルク・ソヴィエトによって出された最初の命令で、すべての部隊はソヴィエトの統制に服すること、将校を選挙で選出すること、敬礼を廃止すること、臨時政府の命令はソヴィエトの命令と矛盾しない場合のみ有効であること、兵士委員会を組織すること、などを定めた。

(43)スホムリノフ、ウラジーミル(1848-1926)……帝政ロシアの軍人。1906年に騎兵将軍、第1次大戦中は、参謀総長、陸軍大臣。しかし、1915年に、大戦準備不備を告発されて、解任、逮捕。しかし、裁判はなされなかった。10月革命後に亡命。

(44)「愚かな夢想」……アレクサンドル3世の死去後に即位した若いニコライ2世は、ゼムストヴォの議員たちを引見した際に、憲法制定に対する議員たちの希望を「愚かな夢想」だとして、にべもなく退けた。この言葉はあらゆる新聞に掲載され、自由主義者にとって呪詛の対象となった。

(45)コルニーロフ、ラブル(1870-1918)……帝政ロシアの軍人、陸軍大将。1917年の2月革命後、ペトログラードの軍管区司令官、ついで7月事件後にロシア軍最高司令官。8月末に臨時政府に対する軍事クーデターを企てるが、ボリシェヴィキの前に瓦解。10月革命後、白軍を組織し抵抗するが、敗北し、戦死。

(46)『ノーヴォエ・ブレーミャ(新時代)』……1868年からペテルブルクで発行されている反動派の新聞。2月革命後、反革命派の新聞の中心的存在。10月革命直後に発行禁止。

(47)ナボコフ、ウラジーミル(1860-1943)……カデットの幹部。第1国会の議員。1917年8月のモスクワ国政協議会、および予備議会のメンバー。10月革命後、白衛派の一員。クリミアの白衛政府の司法大臣。

 

 4、次は何か?

(48)コノヴァーロフ、アレクサンドル(1875-1948)……ロシアの大資本家、繊維王。第4国会の進歩派ブロックの一員。最初の臨時政府、第1次連立政府の商工相。第3次連立政府(第2次ケレンスキー政府)の商工相。10月革命後に逮捕され、後に亡命。

(49)『ノーヴァヤ・ジーズニ(新生活)』……1914年4月からペトログラードで発行されていたメンシェヴィキ的傾向をもった新聞。マクシム・ゴーリキーが編集者。1918年6月に発行禁止。

 

 5、ロシア革命の性格

(50)『エジンストヴォ(統一)』……1917年3月から11月まで発行されていたプレハーノフ編集の新聞。祖国防衛派メンシェヴィキの代表的機関紙で、臨時政府を全面的に支持するとともに、ボリシェヴィキと猛烈に敵対。

(51)『デーニ(毎日)』……ブルジョア自由主義派の新聞。1912年から解党派メンシェヴィキが編集に加わり、2月革命後はメンシェヴィキ最右派のポトレソフが編集の中心となる。

(52)ポトレソフ、アレクサンドル(1869-1943)……ロシアの革命家、メンシェヴィキ。1900年から『イスクラ』編集委員。1903年の党分裂の際はメンシェヴィキ。第1次大戦中は最も露骨な社会愛国主義派。『ナーシェ・デーロ』編集員。2月革命後、ブルジョア新聞の『デーニ』で活躍。10月革命後に猛烈に敵対。1918年にメンシェヴィキから離党。1919年に逮捕されるもすぐに釈放。1925年、病気を理由に国外に移住。

(53)ブブリコフ、アレクサンドル(1875-1936?)……ロシアのブルジョア政治家、第4国会議員、鉄道技師。2月革命時、国会によって鉄道コミッサールに任命され、鉄道電信を利用して全国に革命アピールを送ったり、ツァーリの列車の運行を妨げたりした。モスクワ国政会議に出席し、自由主義者とメンシェヴィキとの協調を説いた。大粛清期に逮捕され、グラーグ(強制収容所)で死亡。

(54)滑稽な握手……ブブリコフとツェレテリはモスクワ会議の公衆の面前で握手し、ブルジョアジーと「社会主義者」との連合を確認した。

(55) ロベスピエール、マクシミリアン(1758-1794)……フランスの急進革命家、ジャコバン派指導者。弁護士出身で、ジャコバン派の左派として頭角をあらわし、1793年に公安委員会に入り、恐怖政治を実行。左派のエーベル派と右派のダントン派を粛清。1794年のテルミドールのクーデターで失脚し、処刑される。

(56)邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第6巻、103頁。マルクス「ブルジョアジーと反革命」の一節。マルクス原文では「ブルジョアジーの敵」として「絶対主義や封建制度や素町人」が挙げられている。

(57)邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第22巻、305頁。エンゲルス「『空想から科学へ』英語版への特別序文」の一節。

 

 6、国際的戦術

(57)邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第21巻、333頁。エンゲルス『住宅問題』第2版の序文の一節。エンゲルス原文では「科学的社会主義」は「近代社会主義」になっている。

(58)『わが第一革命』(原暉之訳、現代思潮社)、373頁。『総括と展望』の一節。

(59)ストックホルム……デンマークの社会民主主義者ボルグビエルクはデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの労働者等の合同委員会の名でロシアのエスエルとメンシェヴィキをストックホルムで召集される予定の会議に招待した。エスエルとメンシェヴィキは受け入れたが、ボリシェヴィキは4月協議会でこの提案に対して断固反対を表明した。


  

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