革命の始まり

トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄

【解説】この論文は、1917年の2月革命の報を聞いたトロツキーが書いた一連の論文の最初のものである。当時、トロツキーはアメリカに亡命していて、ブハーリンやコロンタイらとともに、『ノーヴィ・ミール(新世界)』というロシア語新聞を出していたが、この論文はこの新聞に掲載された。

 2月革命直後に書かれたこれらのトロツキーの一連の論文は、レーニンの「遠方からの手紙」として知られている一連の手紙の中身と非常に重要な共通点を有していた。まず第1に、両者とも、2月革命で成立した臨時政府をいささかも支持せず、それをブルジョア的帝国主義政府とみなしていた。第2に、2月革命を革命の終局とはみなさず、ただよりラディカルな労働者革命への第一段階とみなしていた。第3に、ソヴィエトを真に革命的な機関として位置づけ、それに依拠した労働者・兵士・農民の革命を展望していた。第4に、両者ともロシア革命をただ世界革命の一貫としてのみ勝利することができるとみなしていた。以上のような共通点は、当時、2月革命で解放されてボリシェヴィキの国内指導権をとっていたスターリンやモロトフをはじめとするグループと根本的に相違しており、レーニンは、帰国後、これらの日和見派と闘わなければならなかった。

 トロツキーは、2月革命の報を聞いてただちにロシアに向かおうとするが、途中で、イギリス政府に逮捕され、強制収容所に送られたため、ロシア到着がレーニンよりも1ヶ月ほど遅れることになった。

Л.Троцкий, У порога революции, Сочинения, Том.3, 1917, Час.1, Мос-Лен., 1924.

Translated by Trotsky Institute of Japan


 ペトログラードの街頭は再び1905年の言葉を語り始めている。日露戦争当時と同様に、労働者はパンと平和と自由を要求している。当時と同じく、市電は走らず、新聞も発行されていない。労働者は動力を止め、作業台を離れ、街頭に繰り出している。政府はコサック兵を動員している。そして1905年と同様に、再び革命的労働者とツァーリの軍隊というこの2つの力だけが街頭に登場しているのである。

 運動はパン不足から勃発した。もちろんこれは偶発的な原因ではない。すべての交戦国において食料品の不足は人民大衆の不満と憤激の最も直接的で最も先鋭な原因である。戦争のいっさいの馬鹿馬鹿しさは大衆にとってこの点から最も鮮明に明らかとなる。すなわち、死の道具を製造する必要があるので、生の手段を生産することができないのだ。

 しかし、すべての事態を一時的なパン不足や降り積もった雪によって説明しようとする半官の英露通信社の試みは、危険が近づくと砂の中に頭を隠すダチョウの政治[自己欺瞞の政治]の最も馬鹿げた適用の一つである。労働者は降り積もった雪で食料品の到着が一時的に困難になっているからといって、工場や市電や印刷所を止め、街頭に出てコサックと対峙したりしないだろう。

 人間は忘れっぽいものだ。多くの人々は――われわれ自身の隊列にいる人々でさえ――、現在の戦争が勃発した時ロシアが強力な革命的醗酵状態にあったことを忘れてしまっている。ロシア・プロレタリアートは、1908〜1911年の深刻な反革命的茫然自失状態の後、2、3年間にわたる産業の好況期にその傷から回復することができた。1912年4月に起きたレナ河沿岸でのストライキ労働者の銃殺事件は、ロシアの労働者大衆の革命的エネルギーを再び呼び覚ました。ストライキの波が始まった。そして、世界大戦の前年には、経済ストライキと政治ストライキの波は、1905年にしか見られなかったような高さにまで達した。フランス共和国大統領ポアンカレ(1)が(どうやら弱小民族をいかに救済すべきかについてツァーリと会談するために)1914年夏にペテルブルクにやってきた時、ロシア・プロレタリアートは驚くほどの革命的緊迫状態にあり、フランス共和国大統領は、友人ツァーリの首都で第2次ロシア革命の最初のバリケードをその目で目撃することができたのである。

 だが、戦争は高まりつつあった革命の波をせき止めた。10年前の日露戦争で起こった事態が繰り返されたのである。1903年の嵐のようなストライキ運動の後に、われわれは戦争の最初の1年(1904年)の間、ほとんど完全な政治的無風状態を目撃した。すなわち、ペテルブルクの労働者が戦争の中で周囲の状況を見きわめ、自分たちの要求と抗議を掲げて街頭に出るまでに12ヵ月が必要だったのだ。そして、この街頭に出た日こそ1905年1月9日[血の日曜日事件の起こった日]であり、この日にわが国の第1次革命がいわば公式に開始されたのである。

 現在の戦争は日露戦争よりもはるかに大規模である。何百万もの兵士を「祖国防衛」のために動員することによって、ツァーリ政府はプロレタリアートの隊列を混乱させただけでなく、その先進層が測り知れないほど重要な新しい諸問題について考えざるをえなくしたのである。戦争の原因は何か? プロレタリアートは「祖国防衛」を引き受けるべきか? 戦時における労働者階級の戦術はどうあるべきか?

 その一方で、ツァーリズムとその同盟者たる貴族および資本の上層部は、戦争中にその真の本質――限りない貪欲さに目がくらみ、自らの無能によって麻痺した犯罪的略奪者としての本質――を全面的に暴露した。戦争によって生じた軍事上・産業上・生産上の最も初歩的な課題にも支配徒党がまったく対処できないことが人民の前に明らかになるのに比例して、支配徒党の征服欲もますます大きくなっていった。そして、それとともに、大衆の困窮は蓄積し、増大し、先鋭化した。戦争の必然的な災厄は、ラスプーチン(2)的ツァーリズムの犯罪的無政府状態によって倍加された。

 おそらくこれまで革命的アジテーションの言葉がけっして届いたことがなかったであろう最も広範な労働者大衆の中に、支配者に対する深刻な憤激が、戦争の諸事件に影響されて蓄積されていった。その間に、労働者階級の先進層が新しい事態を批判的に消化する過程を終えつつあった。ロシアの社会主義的プロレタリアートは、インターナショナルの中の最も有力な部分が民族主義に転落したことによって加えられた打撃から回復し、新しい時代が革命闘争の緩和ではなくその先鋭化をわれわれに求めているのだということを理解した。ペトログラードとモスクワで現在生じている事態はこうしたすべての内的準備作業の結果なのだ。

 上層における、混乱し、信用を失い、ばらばらになった政府、すっかり規律のゆるんだ軍隊、有産階級の間の不満と不信と恐怖、人民の下層における深刻な憤激、数的に成長し、諸事件の炎の中で鍛えられたプロレタリアート――これらすべては、われわれが第2次ロシア革命の始まりを目撃している言うことを正当化するものである。われわれの多くがその参加者とならんことを。

 『ノーヴイ・ミール』第934号

    1917年2月27日(新暦3月13日)

ロシア語版『トロツキー著作集』第3巻『1917年』第1部所収

『トロツキー研究』第5号より

  訳注

(1)ポアンカレ、レイモン(1860-1934)……フランスのブルジョア政治家。1912〜13年にフランスの首相兼外相として軍拡を推進し、三国協商を強化。1913年にフランスの大統領。第1次大戦中は超党派的「神聖連合」を組織。22〜24年に再び首相。1923年にドイツのルール地方を占領。1924年辞職。1926年に「国民連合」の首相兼蔵相。

(2)ラスプーチン、グリゴリー(1872-1916)……ロシアの農民出身の修道僧。皇太子の不治の病を治癒すると称してアレクサンドラ皇帝に気に入られ、1914〜16年にかけて絶大の権力を振るう。1916年に反対派の貴族によって暗殺。


  

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