攻勢を強めよう!

 トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄

【解説】この論文は、反ファシズム労働者統一戦線の実現のために獅子奮迅の努力をしていた左翼反対派に対し、スターリニストが暴力的襲撃を加えた事件を取り上げた論文である。この中でトロツキーは、党内の分派間や左翼党派間の意見の相違を暴力で解決した例は、ロシアの革命運動においてまったく見当たらないと指摘し、意見の相違を暴力で解決するやり方こそスターリンの「方法とシステム」の全体が示されていると指摘している。

 日本の戦後新左翼運動において、まさにこの「スターリンの方法とシステム」が猛烈な隆盛を極めたが、これこそ新左翼運動の没落を促したものに他ならなかった。少なからぬ新左翼党派が、スターリニズムと闘う上でスターリニズム以上のスターリニズムを発揮したことは、その道徳的権威を著しく凋落させ、人民を離反させるとともに、内部の腐敗と退廃をもたらした。

 この邦訳は、『トロツキー著作集 1932』(上)に所収のものをロシア語原文にもとづいて修正したものである。

Л.Троцкий, Усилим наступление!, Бюллетень Оппозиции, No.29/30, Сентябрь 1932г.

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 パリのビュリェ・ホールにおいてスターリニストがボリシェヴィキ=レーニン主義者に加えた暴行は、コミンテルンの現指導部に対する激しい憤激に加えて、刺すような恥辱の感情をも呼び起こした。何といってもこれは、下部共産党員、労働者の仕業ではなく――これらの人々はこのような蛮行を行なうほど落ちぶれてはいない!――、最上級からの命令を実行している中央官僚の仕業だからである。その目的は、共産党員のあいだに、理性にもとづく説得を寄せつけない無慈悲で冷酷な感情を引き起こすことである。こうすることによってはじめて、スターリニスト官僚は左翼反対派による批判からの救いを何とか見出すことができるのである。何とひどい堕落だろう!

 ロシア革命運動の歴史には激烈な分派闘争がとりわけ多い。35年間、私はこの闘争をごく身近なところで観察し、それに参加してきた。しかし私は、マルクス主義者のあいだだけでなく、マルクス主義者とナロードニキやアナーキストとのあいだでも、意見の相違が組織的な鉄拳制裁によって解決された例をただの一つも思い出すことができない。1917年のペトログラードは絶え間ない集会で沸き立っていた。ボリシェヴィキは、最初は取るに足らない少数派として、次には強力な党として、最後には圧倒的多数派として、社会革命党やメンシェヴィキに対する激しい攻撃を展開した。しかし私は、政治闘争が殴り合いに取って代わられたような集会をただの一つも思い出すことはできない。この2年間、私は2月革命と10月革命の歴史の全面的な研究を行なってきたが、当時の新聞でそうした事件が発生したという指摘に出くわすことは一度もなかった。プロレタリア大衆が望んでいたのは、見て聞いて理解することだった。ボリシェヴィキが望んでいたことは、大衆を納得させることであった。このようにしてはじめて、党を教育することができ、革命的階級を自らの周囲に団結させることができるのである。

 1923年、カフカースのスターリニストとレーニン主義者との分派闘争において、興奮のあまりオルジョニキーゼは、チフリスで自分の対立者の1人の顔面を殴った。重病のためクレムリンで臥せっていたレーニンは、オルジョニキーゼのこの行為についての報告を受けて、文字通り驚愕した。オルジョニキーゼがカフカースで党機構の長であったという事情は、レーニンの目から見て、オルジョニキーゼの罪を何倍も深刻なものにした。レーニンは秘書のグラッセルとフォティエヴァを私のところに寄こして、オルジョニキーゼを党から除名するよう何度となく求めた。彼は、オルジョニキーゼの粗暴なふるまいの中に、ある一定の方法とシステムの全体が、すなわちスターリンの方法とシステムの全体が潜んでいることを見抜き、予見したのである。同じ日、レーニンはスターリンに対する最後の手紙を書き、その中で、スターリンとのいっさいの「同志的関係」を断つと宣言した。しかしながら、一連の大きな歴史的諸要因のせいで、ソ連共産党のみならずコミンテルンにおいても、この「粗暴さ」と「不実さ」の方法が勝利をおさめた。ビュリェでの蛮行はこのことを示す議論の余地のない正真正銘の現われである。

 機構にいる人々の10分の9までもが、スターリニスト体制に対し、直接的な憤激を向けていないにしても、ますます不安を募らせている。しかし、これらの人々はその万力から逃れることができない。それぞれの鎖の決定的なつなぎ目には常に、ベセドフスキーやアガベコフ[西側に亡命したブルジョア外交官]のような連中のみならず、セマールやヤロスラフスキーのような連中がいる。これらの紳士諸君のやり口は、中傷と偽造から組織的な襲撃に移行している。その音頭をとったのはスターリンである。今ではこの戦闘命令はコミンテルンの全支部に伝えられている。これは何らかの助けになるだろうか? いや、そうはならないだろう。ますます強力な手段に頼らざるをえないという事実はまさに、ボリシェヴィキ=レーニン主義者に対するこれまでの闘争が効果なかったことを、この上なく証明している。

 ドイツではきわめて重大な事態が進行している。コミンテルン指導者は沈黙したままである。これら指導者は、まるで水を口いっぱいに含んでいて何も言えないかのようにふるまっている。ドイツの事態は、コミンテルン世界大会の即時招集を要求しているのではなかろうか? もちろん要求している。しかし、世界大会では何らかの答えを与える必要がある。だがスターリニストには何も言うべきことがない。そのさまざまな誤り・ジグザク・矛盾・犯罪のせいで、スターリニストはすっかり気力を喪失させてしまった。いぜんとして沈黙し、回避し、今後の事態を受動的に待つこと――これが今や、スターリニスト分派の政策のすべてである。

 しかし、ボリシェヴィキ=レーニン主義者は沈黙することを欲しないし、他人が沈黙することも許さない。フランスのわれわれの同志たちは、少数であるにもかかわらず、労働者の前に国際プロレタリア革命の焦眉の問題を提起するうえで、驚嘆すべき堅忍不抜さを発揮している。スターリニストは彼らに対しごろつきのような鉄拳制裁で襲いかかっているが、それは彼らの革命的エネルギーをいっそう掻きたてるだけである。

 モスクワのボリシェヴィキ=レーニン主義者が蒋介石に対する警戒心を呼びかけるやいなや、スターリニスト一派はボリシェヴィキ=レーニン主義者を迫害し、狩り立て、粉砕した。パリのボリシェヴィキ=レーニン主義者がファシズムに対する警鐘を鳴らすや否や、スターリニスト一派はボリシェヴィキ=レーニン主義者に対する暴行を組織する。こうした事実は罰せられずにはすまないだろう。重要な事実から、党は学ぶし、階級も学ぶだろう。

 われわれはもちろん、共産党の下部党員がスターリニスト官僚による今回の犯罪に責任があるとはみなさない。ボリシェヴィキ=レーニン主義者は、コミンテルンに対してのみならず、フランス共産党に対してもその基本姿勢を変更しない。世界中で、われわれと何百万人もの共産党員とのあいだに憎悪の壁を築こうとする企てがなされているが、それは成功しないだろう。われわれの正しさは明白である。労働者はますます注意深くわれわれの言葉に耳を傾けるだろう。

 スターリニストがとり乱せばとり乱すほど、ますますボリシェヴィキ=レーニン主義者は実践において忍耐強くなる。官僚は、われわれの批判や強力な議論にさらされて、身をよじらせ激昂している。これによってますますわれわれの正しさと力が明らかになっている。われわれの攻勢を、2倍、3倍、10倍に強めよう!

プリンキポ、1932年8月6日

『反対派ブレティン』第29/30号所収

『トロツキー著作集 1932』(上)(柘植書房新社)より


  

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