スペインの教訓

トロツキー/訳 西島栄

【解説】 この論文は、1936年7月17〜18日に起こったフランコ派の反乱とそれに反撃して起こったスペイン人民の革命的爆発の直後に書かれたものである。

 1936年2月に、左派政党およびブルジョア共和派政党の統一戦線政府であるスペイン人民戦線政府が成立したが、この政府は、断固たる革命的方策を実行することができなかったが、ナショナリスト派の将軍・教会・ブルジョアジー・地主といった反動連合の怒りを買うには十分だった。反動派は、人民戦線政府の優柔不断につけこんで、当時スペインの植民地であったモロッコと本土の両者から反乱の火の手を挙げた。反動派将軍の反乱は各地で、反撃に立ちあがった労働者人民の武装闘争によって粉砕されたが、ドイツとイタリアのファシスト政権の全面的支援を受けていたフランコ将軍を中心とする武力勢力はモロッコから本土に移動して、スペインの半分を支配下に収めた。ブルジョア権力は、右からはフランコ派の反乱、左からは革命的労働者人民の反撃に挟撃されて、事実上粉砕された。ブルジョア諸政党は茫然自失に陥り、右往左往するばかりであった。アナーキスト、共産党、社会党、POUM(マルクス主義統一労働者党)などに結集した労働者人民はただちに武装して、主要都市を実効支配するにいたった。彼らが一致団結して統一した労働者権力(プロレタリアート独裁!)を樹立し、社会主義革命を実行していたなら、それを妨げることのできる勢力は、共和派地域にはまったく存在しなかった。しかしながら、アナーキストをはじめ、革命勢力は、そのような労働者権力を樹立しようとせず、ブルジョア政党とあくまでも共同歩調を取ろうとした。革命派の中心勢力であったアナーキストにいたっては、自分たちが直接政権に入ることさえ最初は忌避し、ブルジョア政党による建前上の統治を維持しようとさえした。

 トロツキーは、フランコの反乱と労働者人民の決起の報を聞くと、ロシア革命の教訓にもとづいて、プロレタリアートの独裁と大胆な社会革命だけが、スペイン革命を救うことができると警告した。この警告の正しさは、その後の歴史によって完全に証明された。だが、中国革命の場合と同じく、またしても、この警告が守られることなく、最も悲惨な流血の敗北によって、トロツキーの正しさが証明されたのである。

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 ヨーロッパはプロレタリアートにとって苛酷で恐るべき学校となった。各国では次から次へと事件が起こり、労働者に大きな流血の犠牲をもたらしたが、これまでのところすべてプロレタリアートの敵の勝利に終わっている(イタリア、ドイツ、オーストリア)。旧来の労働者政党の政策は、彼らがいかにプロレタリアートを指導することができないか、勝利を準備する上で彼らがいかに無能力かを明瞭に示している。

 本稿が書かれている現時点で、スペインの内戦はまだ終わっていない。全世界の労働者はスペイン・プロレタリアートの勝利の報を熱烈に待っている。もし勝利がかちとられるなら、次のように言わなければならないだろう。すなわち、労働者は今回、彼らの指導者が敗北のためにあらゆることをしたにもかかわらずそれでも勝利をかちとった、と。それだけにいっそう大きな名誉と栄光はスペインの労働者階級に帰せられるのだ!

 スペインにおいて、社会党と共産党が属している人民戦線は、すでに一度革命を裏切っているにもかかわらず、今回、労働者と農民のおかげでまたしても勝利を手に入れ、2月に「共和」政府を樹立した。6ヵ月たって、「共和国」軍は人民に対する戦争を開始した。つまり、人民戦線が人民の金で軍事的カーストを維持し、彼らに権威と権力と武器装備を供給し、若い労働者・農民兵士に対する司令権を与え、まさにそれによって、労働者と農民に対する破壊的攻撃のための準備を容易にしてやったのである。

 それだけではない。内戦たけなわの現在でさえ、人民戦線政府は、勝利を二重に困難にするためにその権力を使ってあらゆることをしている。内戦というものは、周知のように、単に軍事的武器によってのみ戦われるだけではなく、政治的武器によっても戦われる。純軍事的な観点から見れば、スペイン革命はその敵よりもはるかに弱い。その強みは、圧倒的多数の大衆を行動に立ち上がらせる能力にある。軍隊をその反動的将校から引き離すことすら可能である。これを成し遂げるためには、社会主義革命の綱領を真剣かつ大胆に提起するだけでよい。

 今すぐ土地と工場と商店とは資本家の手から人民の手に引き渡されると宣言しなければならない。労働者が権力を握っている地方では、この綱領の実現に向けた措置をただちにとらなければならない。ファシスト軍といえども、このような綱領の影響に24時間と抵抗することはできないだろう。兵士は将校の手足を縛り上げ、近くの労働者民兵の司令部に引き渡すだろう。しかしブルジョア大臣にはこのような綱領を受け入れることはできない。革命を抑制するブルジョアどもは、内戦で自分たちが流す血の何十倍もの血を労働者と農民に流させる。そして挙げ句の果てに、これらの紳士たちは勝利の後に労働者を武装解除して、私的所有の神聖な法則を尊重するよう労働者に強要することを期待している。これこそ、人民戦線の政策の真の本質である。それ以外のいっさいは純然たるごまかしであり、空文句であり、嘘である!

 人民戦線を支持する多くの連中は今や和解的な調子でマドリードの支配者どもと握手を交わしている。どうして彼らは反乱を予見できなかったのか? どうして彼らは時機を失せず軍を粛清しようとしなかったのか? どうして彼らは必要な措置をとらなかったのか? 他のどこにもまして、このような批判の声が発せられているのはフランスである。だが、フランスにおける人民戦線の指導者の政策は、スペインにいる彼らのお仲間たちの政策と寸分違わないのだ。あれこれの大臣や指導者に先見の明があるかどうかの問題ではまったくなく、彼らの政策の一般的方向性の問題なのである。労働者の党は急進派ブルジョアジーとの政治的同盟関係に入り、そうすることでただ資本主義的軍国主義との闘争を不可能にしているだけなのだ。

 ブルジョア支配、すなわち生産手段の私的所有の維持は、搾取者のための軍事力の支えなしには考えられない。将校団は資本の警護部隊である。この警護部隊なしには、ブルジョアジーは一日たりとも自己を維持することができない。しかるべき個人の選抜、その特殊な教育と訓練によって、将校は社会主義に対する非妥協的な敵として特殊な集団を形成している。個々の例外は事態を何ら変えるものではない。どのブルジョア諸国においても事情はこういったものである。

 公然とファシストを自称する軍事的うぬぼれ屋やデマゴーグなどに危険はない。比較にならないほど危険なのは、プロレタリア革命が近づくにつれて、将校団がプロレタリアートの死刑執行人になるという事実である。軍隊から400人ないし500人の反動的扇動家を追放しても、基本的にいっさいは以前のままである。将校団には、何世紀にもわたる人民奴隷化の伝統が集積しており、枝葉も根っこもまるごと解体し、破壊し、粉砕するしかない。将校層の司令下にある兵営の諸部隊は人民の民兵に、すなわち武装した労働者と農民の民主主義的組織に置きかえなければならない。それ以外の解決策はない。しかし、このような軍隊は大小の搾取者の支配と両立しえない。共和党がこのような措置に同意するだろうか? いやけっして。人民戦線政府、すなわち、労働者とブルジョアジーとの連合政府は、その本質そのものからして、官僚と将校に対する降伏の政府なのである。これこそ、今や何千人もの生命によって代償が支払われているスペインの事件の偉大な教訓なのである。

 労働者階級の指導者がブルジョアジーと政治的に同盟したことは「共和制」の防衛という名目で偽装されている。スペインの経験はこの防衛なるものが実際には何であるかを示している。「共和主義者」という言葉は、「民主主義者」という言葉と同様、階級矛盾を隠蔽するのに役立つ巧妙なインチキである。ブルジョアジーが共和主義者であるのは、共和国が私的所有を擁護するかぎりにおいてである。そして、労働者は共和国を利用して私的所有を転覆する。換言すれば、共和制は、それが労働者にとって価値あるものになったとたん、ブルジョアジーにとってそのあらゆる価値を失うのである。フランスの急進党は、将校団の支えを確保することなしには労働者との連合に入ることはできない。ダラディエ(1)がフランスの陸軍大臣になっているのも偶然ではない。フランス・ブルジョアジーは一度ならずこのポストをダラディエに与えてやったが、彼はけっしてその期待を裏切ったことはなかった。モーリス・パズ(2)やマルソー・ピヴェール(3)のような人々だけが、ダラディエに、軍隊からの反動分子とファシストの一掃を、すなわち将校団の解体を行なう能力があると信じることができるのである。しかし、誰もこのような人々の言うことを真に受けはしない。

 だがここで次のような叫び声がわれわれの話をさえぎる。「いったい将校団を解体することなどできようか。それは軍隊を武装解除することを意味し、ファシズムの前に国を武装解除することを意味しはしないか? それこそヒトラーとムッソリーニの思うツボだ!」。こうした議論はどれも古くからあるお馴染みのものだ。これこそ、1917年にカデットとエスエルとメンシェヴィキが唱えた議論であり、今ではスペイン人民戦線の指導者たちが唱えている議論だ。スペイン労働者はかつてこのような議論の合理性を半ば信じていたが、今では経験から、最も身近なファシストがスペインのファシスト軍の中にいることを確信している。われわれの古い友カール・リープクネヒトが次のように教えたのも無駄ではなかったのだ。「主敵は自分たちの国の中にいる!」。

 『ユマニテ』[フランス共産党の機関紙]は、軍隊からファシストを一掃するよう涙ながらに懇願している。しかし、このような懇願に何の価値があるか? 将校団を維持することに信任投票をし、ダラディエと――そして彼を通じて金融資本と――同盟関係に入り、軍隊をダラディエに委ねておきながら、同時に、この完全に資本主義的な軍隊が資本にではなく人民に奉仕するよう要求する者は、完全な愚か者か、さもなくば、労働者大衆を意識的にだましているのである。

 「だがわれわれは軍隊を持っていなければならない」とスターリニストと共産党指導者は繰り返す、「なぜなら、われわれはわが国の民主主義を防衛しなければならないからであり、それを使ってヒトラーに対しソ連を防衛しなければならないからである」。スペインの経験を経た今となっては、この政策が民主主義とソ連にもたらす結果を予測することは困難ではない。将校団は、機会が見つかりしだい、解体されたファシスト同盟と手に手を取って、労働者大衆に攻撃をしかけるだろう。そしてそれが勝利した暁には、ブルジョア民主主義の惨めな残りかすを粉砕し、ソ連に対する共通の闘争に向けてヒットラーに手を差し出すだろう。

 スペインでの事件に関する、『ル・ポピュレール(民衆)』[フランス社会党の機関紙]と『ユマニテ』に掲載されている諸論文は、怒りと嫌悪感なしに読むことはできない。これらの連中は何も学んでいない。そもそも学ぶことを欲していないのだ。彼らは事実に意識的に目を閉じている。彼らにとっての主要な教訓は、いかなる犠牲を払っても人民戦線の「統一」を維持することが必要だというものである。すなわち、ブルジョアジーとの統一と、ダラディエとの友情を。

 ダラディエは議論の余地なく偉大な「民主主義者」である。だが、ブルム(4)政権における公式の仕事と並んで、ダラディエが将校団の総司令部の中で非公式の仕事をしていることを一瞬でも疑うことができるだろうか? 事実を直視する真面目な人々は、ブルムの空っぽのレトリックに惑わされはしない。これらの人々はどんな結果にも対処できるよう準備している。疑いもなく、ダラディエと軍事指導者たちは、労働者が革命の道に足を踏みだした場合に取るべき必要な措置に関して合意に至っている。たしかに、将軍たちは自らの判断で動いており、ダラディエよりもはるかに先んじている。そして、将軍たちは自分たちの間でこう言っている。「労働者をすっかり片づけてしまうまではダラディエを支持しておこう。その時になったら、彼のポストにはもっと強力な人物を就けよう」。

 たしかに、スペイン・プロレタリアートは、フランス・プロレタリアートと同じくムッソリーニとヒットラーの前に武装解除していることは望まない。だが、これらの敵に対して自らを防衛するためにはまず最初に、自国内部の敵を粉砕しなければならない。将校団を粉砕することなしにはブルジョアジーを打倒することはできない。そして、ブルジョアジーを打倒することなしには将校団を粉砕することはできない。反革命が勝利したいずれの場合においても、将校が決定的な役割を果たした。深い社会的性格を有した革命が勝利した場合にはいつでも、将校団を破壊した。18世紀の大フランス革命の場合においてもそうであったし、1917年の10月革命の場合でもそうであった。

 このような手段をとる決意をするためには、急進党ブルジョアジーの前に膝を屈することをやめなければならない。労働者と農民の真の同盟は、急進党を含むブルジョアジーに抗して形成されなければならない。プロレタリアートの力、イニシアチブ、勇気に信頼を置かなければならない。プロレタリアートはどのようにして兵士を自分たちの側に獲得するべきかを知っている。これこそ、偽物ではない真の、労働者と農民と兵士の同盟である。ちょうど今、スペインにおいて、まさにこのような同盟が内戦の炎の中で形成され鍛えられつつある。人民の勝利は人民戦線の終わりとソヴィエト・スペインの始まりを意味する。スペインの勝利した社会革命は不可避的に他のヨーロッパ諸国に広がるだろう。イタリアとドイツのファシスト死刑執行人にとって、それは、どんな外交的協定やどんな軍事同盟よりも、はるかに恐ろしいものとなるだろう。

1936年7月30日

『スペイン革命(1931-1939)』所収

『トロツキー研究』第22号より

  訳注

(1)ダラディエ、エデュアール(1884-1970)……フランスのブルジョア政治家、急進社会党の指導者。1924年以降、植民地大臣、公共事業大臣、陸軍大臣などを歴任。1933年、首相。34年に第2次内閣を組閣。2月日の右翼の暴動で崩壊。1936〜37年、ブルムの人民戦線政府の陸軍大臣(国防相)。1938年、首相。ナチス・ドイツの圧力に屈してミュンヘン協定に調印し、対独宥和政策を実施。労働運動を弾圧し、人民戦線政府の崩壊を導く。1940年、陸軍大臣、外務大臣。同年、ヴィシー政府により逮捕。1943〜45年、ドイツに抑留。1957年、急進社会党党首。

(2)パズ、モーリス(1896-1985)……フランスの弁護士で、初期の左翼反対派のメンバー。1927から29年まで発行されていた『流れに抗して』誌にかかわる。1929年に、トルコ滞在中のトロツキーを訪れたが、その年に反対派の展望を非現実的とみなして、反対派から離れる。フランス社会党に入党して、その指導者となり、ポール・フォール派に属した。

(3)ピヴェール、マルソー(1895-1958)……フランスの革命家、教師。フランス社会党内の社会主義論争で活躍し、1935年に党内で「革命的左翼」グループを組織。1936年、ブルムの人民戦線政府を援助するも、1937年に「革命的左翼」グループの解散を指導部に命じられ、社会党を離党。1938年、社会主義労農党(PSOP)を結成。戦後、社会党に復帰。

(4)ブルム、レオン(1872-1950)……フランス社会党の指導者。ジョレスの影響で社会主義者となり、1902年に社会党入党。1920年、共産党との分裂後、社会党の再建と機関紙『ル・ポピュレール』の創刊に努力。1925年、社会党の党首に。1936〜37年、人民戦線政府の首班。社会改良政策をとったが、スペインの内戦に不干渉の姿勢をとる。第2次大戦中、ドイツとの敗北後、ヴィシー政府により逮捕。ドイツに送られる。戦後、第4共和制の臨時政府首相兼外相。


  

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