カール・マルクス


「資本論」 (第1巻)

 

訳者  宮 崎 恭 一

(1887年にイギリスで発行された版に基づく)

 

 

カール・マルクス

資 本 論


第一巻 資本の生産過程

第二篇 貨幣の資本への変換

第五章 資本となるための一般公式
における矛盾



(1) 貨幣が資本になる時に取る流通の形式は、これ迄に我々が考察してきた 商品の性質の意味とか、価値と貨幣とか、流通それ自体ですらも含めて、これらの法則に反している。何が、単純な商品の流通形式から、この形式を区別しているのかと云えば、二つの正反対の過程 売りと買い の繋がりの順序が逆転していることである。これらの二つの過程の間にある、純粋的な形式の違いが、どのようにそれらの性格をあたかも魔法のごとく、変えることができるのだろうか。

(2) だが、それが全てではない。この逆転は、これらの取引を行う三人のうちの二人の間では、存在していない。資本家として私が、Aから商品達を買い、それらをさらにBに売る。しかし単純な 商品達の所有者として、私は、それらをBに売り、そしてそれから新たなものを、Aから買う。AとBは、二つの取引において、なんら違いは見えない。彼等は単なる買い手達と売り手達である。そして、私は、いずれの場合でも、彼等に、単なる貨幣または商品達の いずれかの所有者として立ち会う。買い手として、または、売り手として。そして、さらに、二つの取引の両方において、私は、ただ買い手として、Aに相対し、そして、ただ売り手としてBに相対する。一人にはただ貨幣として、他の一人には商品達として。そして彼等には、いずれも資本として相対してもいないし、資本家としてでもない。また、貨幣とか商品とか以上の何ものかの代表としてでもない。また、貨幣や商品ができる範囲を越えてなんらかの影響を生産できるものとしてでもない。私にとっては、Aからの買い と Bへの売りは一件の部分なのである。ただ、この二つの行為の繋がりは、私にとってのみ存在している。Aには、私の、Bとの取引について、彼自身にはなんの問題もない。Aとの取引について、Bにもなんの問題もない。そして、仮に、私が、彼等に、私の、繋がりの順を逆にした行為の称賛に値する性質を説明しようと申し出たならば、彼等は、多分、以下のことを指摘するであろう。それは、私が繋がりの順を間違えたこと、全ての取引で、買いから始めて売りで終わるのではなく、逆に、売りから始め、買いで完結するものと。確かに、私の最初の行為 買い は、Aから見れば、売りであり、私の二番目の行為 売り は、Bから見れば、買いである。AとBは、これには納得せず、全ての売買は余計であり、よくある言葉遊び以外のなにものでもない、とわめくだろう。(色が変わっているところは、 Hokus Pokus 英文の訳 訳者注)
 ならば、今後の取引のために、Aは直接Bから買い、Bは直接Aに売る(色の変わっている部分、下の訳者余談で触れて置く)と声を大にするだろう。だから、全ての取引は、日常的な商品流通の補完されない局面の、一つの隔離された形に縮小される。 Aから見た、単なる売り、とBから見た単なる買いである。従って、繋がりの順の逆転は、単純な商品流通の局面から我々を外に連れ出さない。だから、我々は、単純な流通の中に、流通に入り込んで、価値の拡大を許すもの 剰余価値を創造するもの、があるのかどうか、しっかりと見て行かねばならない。


 英文は、that for the future A would buy direct from B, and B sell direct to A. で、私の訳文の通りである。だが、このA,B,そして、C (資本家としての私) 間の流通経路を図にして検討した読者の皆さんは、この部分に納得が行ったであろうか。かくて訳者余談である。図も説明も省く、そこは読者の作業そのものの範囲である。商品の動きで云えば、A → C → Bと動いている。Cの関与を笑うなら、どうして 英文のように、A ← B となるのか、逆ではないか、と思ってもしかたない。英文の誤訳かもしれぬ。じゃあ向坂版は、どうか。 A → B となっている。さて、どっちが正訳でどっちが誤訳なのか。読者の見解やいかに。そこで、訳者が余談を書く意義が生じた。正訳は英訳である。だが、何故、A ← BとCが関与した流れと逆になるのか。何故 A → B が間違いなのか? 読者の皆さんはいかに。 後者の場合、Cは除け者にされる。それも一つの笑い話にはなる。それもあってはならないというものではない。前者は、まずめんどくさい話である。でも商品も貨幣も手形で動く世界を見ている我々には、このA ← Bを並列させると、A → C → Bは、観念上で、瞬時に無限回も可能となる。面倒なことはなにもない。こうすれば、A → C → B のCはどうなるか。無限回笑わせられる。バカにされる。さあ、無限のなんやらを出してみろやと、A,B が疲れ切ったC (本当は疲れていないが) に両手両足を出して笑うだろう。英文通りと軍配を上げているが、どっちでも笑えるし、両方を含んでも、さらに笑える。行司は見た範囲で軍配を上げる。勝負審判が勝負と説明責任を負う。取り直しかな。



(3) では、流通過程を、単純で直接的な商品交換のようにそれ自身を表す形式としての それを取り上げてみよう。この中では、常に、二人の商品所有者がお互いに相手から買うというケースである。決算日では、互いの未払い量は等しく、互いに相殺しあう。この場合の貨幣は、貨幣の勘定計算であり、商品の価値をそれらの価格で表す役目をはたす。それ自体は、彼等と、実際の固い貨幣の姿で対面することはない。使用価値に関するならば、両者とも、なにがしかの有益なものを受け取るであろうことは明らかである。両者とも、彼等にとっては使用価値として役に立たない物を手離すことで、そして、相手の物を受け取れば、彼等はそれを役立てることができる。そして、そこには、また、さらなる利得があるであろう。A 彼はワインを売って、トウモロコシを買う、多分、与えられた労働時間で、農夫Bが作る以上にワインを生産しているであろう。また一方、Bはワイン醸造者のAが作る以上にトウモロコシを作っているであろう。従って、それぞれが各々で生産する自分のトウモロコシやワインを交換しない場合に較べて、Aは、同じ交換価値に対して、より以上のトウモロコシを得られるかも知れない。Bは、より以上のワインを得られるかも知れない。従って、使用価値に関して云えば、「交換は、両者に利益をもたらす取引である。」と言えるそれなりの場である。交換価値に関しては、これとは違う。「一人の男、多くのワインを持っており、トウモロコシはもっていない男が、沢山のトウモロコシを持っており、ワインを持っていないある一人の男と交渉する、50なる価値を有するトウモロコシと同価値のワインの間で交換が成立する。この行為は、交換価値の増加をどちらにももたらさない。なぜというなら、それぞれ彼等はすでに、交換以前に、交換によって得たものと同じ価値を所有していた。」この結果は、これらの商品間に、流通媒体である貨幣を導入しても、また売りと買いを明確に二つの行為に分けたとしても変わらない。商品の価値は、流通に入る前に、価格で表されており、そして、従って、価格は流通の前提条件であって、その結果ではない。

(4) 単純なる商品流通の法則から直接流れ出てくるもの以外の事情を捨てて考えれば、交換にはなにもない、(もし、我々がある使用価値を他のそれと置き替えることを除けば、) ただ、あるのは、変態、商品形式の単なる変化のみである。同じ交換価値、すなわち、同じ、具現化された社会的労働の量は、商品の所有者の手のなかに、初めから終り迄、留まっている。最初は、彼自身の商品の形で、そして次は、彼がそれと交換したことによって貨幣形式で、そして最後は、彼がその貨幣で買った商品の形で、留まっている。この形式変化は、価値の大きさという点では、変化を意味しない。変化というなら、この過程を経て商品の価値は、その貨幣形式への変化に限られている。この形式は、最初、売りに提供された商品の価格として存在する。そして、現実の貨幣総計として、とはいえ、それはすでに価格として表わされたものである。そして最後は、等価商品の価格として。この形式変化は、それのみでは、価値の量における変化はなにも意味しない。ちょうど、5ポンド紙幣を、ソブリンとか半ソブリンとかシリングとかに両替するのと同じ以上のものを意味しない。従って、商品流通がそれらの価値形式のみに変化を及ぼす限りにおいては、また混乱を及ぼすことがない限りにおいては、それは、等価の交換でなければならない。俗流経済学 (Vulgar-Economy 訳者挿入) は、価値の性質についてはなにも知らない。が、かれらの純粋なる方法で流通現象を考えたいと思う時はいつでも、供給と需要は等しいと云う。どっちがどっちの量であろうと、その影響は皆無であると。従って、もし、使用価値が交換されたとすれば、買い手にも売り手にもなんらかの利得が起こり得る。交換価値に関しては、そうはならない。ここで、我々は、むしろ次のように云わねばならない。「そこに同等あらば、そこに利得なし。」確かに、商品はそれらの価値から逸脱した価格で売られるかも知れない、しかし、その逸脱は商品の交換の法則に違反しているとみなされる。普通の状態では、等価の交換であり、であるから、そこに価値増殖の仕組みはない。

(5) 故に、我々には、商品流通に余剰価値の源泉なるもの、そこに潜んでいる報酬 (色が変わっている部分はラテン語) を、明らかにしようと試みる思考には、使用価値と交換価値の混同がある、ように見える。例えば、コンディヤックは云う、「商品の交換においては、価値に対して我々が価値を与えるということは真実ではない。逆に、各二人の契約者達は、あらゆる場合において、より大きな価値に対して、より少ないものを与える。…もし、我々が本当に等価を交換するのならば、いずれの側の契約者も利益を作ることはできないだろう。それなのに、彼等は共に、得ているし、得るべきである。何故か? 物の価値は、唯一つ、我々の欲求との関係から成り立っている。ある者にとって、より以上のものならば、他の者にとっては、より少ないものである、またはその逆である。… 我々が売りに出す品物が我々自身の消費のためのものとは、仮定されてはいない。… 我々は、有用ではないものを、我々が必要なものを得るために、手離したいと思っている。我々は、多くのものに対して、少なく与えたいと思っている。… 次のように考えたのは、自然である。交換において、価値に価値が与えられた、交換されたそれぞれの品物は、いつでも、同じ金の量と同じ価値であった。…だが、我々の計算には、考えられた別の視点がある。疑問は、我々が、いずれも、なにか余分のものを、なにか必要なものに交換したのかどうかである。」我々が、この一節を見れば、コンディヤックがどのように、使用価値と交換価値とを混用させているかばかりでなく、まったく子供染みた方式で考えているかが分かる。商品の生産がよく発達している社会において、それぞれの生産者は、自己の生存の手段として生産しており、彼の必要を超えるもののみを、流通に投入すると考えているのだから。依然として今も、コーディヤックの論法がたびたび近代経済学者によって繰り返される。特に、発展した形式での商品の交換、 商業は、余剰価値を生み出す性質を持っている、という点で、目につく。「商業 … は生産物に価値を与える。その生産物が消費者の手にあれば、生産者の手の中にある以上の価値がある。そして、それが生産行動であると厳粛に考えられるのかも知れない。」しかし、商品は、二度も支払われはしない。まずはそれらの使用価値の勘定として、さらに、それらの価値勘定として、と別々に支払われはしない。また、こうも云えるだろう。商品の使用価値は、売り手によりは、より買い手に役に立つ、その貨幣形式は、より売り手に役に立つ。そうでなければ、彼はそれを売るだろうか? 従って、我々は、買い手が、「厳粛なる生産行為」なるものを、靴下を、例えば、貨幣に変えてみることによって行ったとしたら、そう云うに違いないのだろうか。「余剰価値を生み出す性質が分かった。」と。(色が変わっている部分は、訳者追加)

(6) もし、商品、または商品と貨幣、が同量の交換価値であり、それゆえに等価として、交換されたとしたら、誰も、彼が流通に投入した価値以上のものを、流通から抽出しないことはいうまでもない。そこに、剰余価値の創造はない。そして、通常の形式では、商品流通は等価交換を要求する。しかし、現実の実践では、過程は、その通常の形式を保持してはいない。従って、我々は非等価交換についても推測してみよう。

(7) どんな場合でも、商品を受け入れる市場は、ただただ、よく来る、商品達の所有者達で賑わっている。そして、これらの人々が互いに及ぼし合う力は、かれらの商品達の力以上のものはない。これらの商品の物としての多様さは、交換行為へと引きつけられるだけの、物としての魅力がある。だから、買い手と売り手は互いに依存することになる。なぜならば、誰も彼自身の欲求の対象となるものを持ってはいない。そしてそれぞれは、彼の手に、他人の欲求に適うものを持っている。彼等の使用価値の、これらの物としての違いの他に、そこには、他とは違うただ一つの、商品としての違い、すなわら、物そのものとしての形と、売りによってそれらが変換されたところの形式との違いである。商品と貨幣との違いである。かくて、それに従って、商品達の所有者達は、ただ売り手達 商品を所有する者と、買い手達 貨幣を所有する者に区別されるようになる。

(8) では、ある説明が付かない特権によって、売り手が彼の商品をそれらの価値以上で売ることができると想定してみよう。100のものを110で。この場合、価格が名目上10% 上げられているとしよう。従って、売り手は、10の余剰価値をポケットに入れる。しかし、彼が売った後、今度は買い手となる。第三の商品所有者が今、売り手として彼の元に現われる。第三の彼もまた、彼の商品を10%高く売る特権を享受することができるのである。我々の友は、売り手として10 を得たが、ただ再び買い手として、それを失う。正味の結果は、全ての商品所有者は、彼の価値の10%高で互いに売るのであるから、彼等が彼等の真の価値でそれらを売ったのと、正確に同じことに帰着する。このような、一般的で名目的な価格の吊り上げは、金の重量の代わりに銀の重量で表した価値と同じように、同じ効果となる。それらの価値間の実際の関係は、変わらないまま留まっている。

(9) 逆の仮説を作ってみよう。買い手が、商品の価値よりも、安く買える特権を有しているとしよう。この場合について、彼が売り手となった時のことを考えてみる必要はもうないだろう。彼は、買い手となる前に、すでに、買い手として10% を得る前に、売りにおいて、10% を失っていた。全ては、元の通りである。  

(10) かくて、剰余価値の創造や、貨幣の資本への変換は、これらのことから、商品がそれらの価値以上で売られることによっても、または、それらの価値以下で買われることによっても、いずれの仮説においても、説明されることはできない。

(11) この問題は、トレンズ大佐の何とか云うのを追って、次のような、不適切な論説を紹介しても、なんら単純にはならない。「消費者の側にある力と性向 ! には、十分なる要望が存在しており、商品に、直接的または迂回的物々交換のいずれによっても、それらの生産コストよりもそれなりに大きい、資本…部分を与える。」流通への関係において、生産者と消費者は、ただ単に、買い手と売り手として会するのみである。生産者が獲得する余剰価値の起因が、消費者が商品に、その価値以上に支払うという事実にあると断言することは、ただ別の言葉で云えば、商品の所有者は、売り手として、高く売る特権を持っていると云うことになる。売り手は、彼自身で、商品を生産した、または、それらの生産者を代表している。しかし買い手は、彼の貨幣によって表された、商品を全く過不足なく生産していなければならない。または、それらの生産者を代表している。彼等の間の区別は、一人は買い、そして別の一人は売る である。これでは、商品の所有者は、生産者という呼称で、それらをそれらの価値以上で売り、消費者という呼称で、それらにより多く支払うということになって、これでは、我々をして一歩も進めていない。(本文注: 消費者によって支払われる利益という自信たっぷりの言い方はまことに馬鹿げている。誰が消費者なのか? R.ラムジー 1836 エジンバラ)

(12) 従って、余剰価値は、名目的に価格を上げること、または、売り手がより高く売る特権を有することに起因するという妄想を主張する人々は、この主張を実証するために、ある階級、ただ買うばかりで、売らない、つまり一方的な消費者で、生産しない階級を想定しているに違いない。このような階級の存在は、我々がやっとたどり着いた地点、すなわち、単純な流通の範囲では説明することはできない。だが、我々は、先読みしてみよう。このような階級が不断に買いをなすその貨幣は、不断に彼等のポケットに、いかなる交換もなしに、無料で、腕力によってか はたまた権利によってか、商品の所有者自身のポケットから、流れ込む。このような階級へ商品をそれらの価値以上で売ることは、ただ、前もって与えた貨幣の一部をこっそりと奪い返すだけのことである。小アジアの町は、この話の様に、古代ローマに対して毎年貨幣を貢いだ。この貨幣でもって、ローマは、彼等から商品を買った、そしてそれらを高く買った。その地方の人々は、ローマを騙した。だから、彼等は彼等の征服者達から商売の方法で、貢納の一部を取り戻した。だが依然として、これらによっても、被征服者達は実際には騙されていたのである。彼等の品々は、依然としてかれらが貢いだ自分達の貨幣の範囲で、支払われ続けられたのである。この方法で、富を築くとか、余剰価値を創り出すことはない話である。

(13) だから、我々は、売り手が買い手であり、そして買い手が売り手である交換の範囲内に限っておこう。我々の困難は、多分、個人の代わりに、擬人化された演技者を取り扱うことから、生じているかも知れない。

(14) Aは、BやCに対して、彼等から報復されることなく、有利な立場に立つだけの十分な賢さがあるかもしれない。AはBに40ポンドの価値を有するワインを売る。そして交換によって、彼から50ポンドの価値があるトウモロコシを取得する。Aは40ポンドを50ポンドに変換した。そして減らすことなく、より多くの貨幣を作り上げた。彼は彼の商品を資本に変換した。我々はこの事を、もう少し厳密に見てみよう。交換以前、我々は、40ポンドの価値があるワインをAの手に、そして50ポンドの価値があるトウモロコシをBに、全体で90ポンドの価値を持っている。交換後も、我々は、依然として同じ、合計90ポンドの価値を持っている。流通によって、価値は、1イオタの増加も加えていない。(ギリシャ語) ただ、AとBとの間で、違った分配がなされた。Bが失った価値が、Aの剰余価値である。ある一人のマイナスが、もう一人のプラスである。もしも仮に、Aが正式なる交換によらず、Bから10ポンドを直接 盗ったとしても、同じ変化が生じたであろう。つまり、交換における価値総計は、分配の如何なる変化によっても、増加させられることがないのは明白である。ユダヤ人がクイーン・アンの1 ファージングを1ギニーで売っても、一国の貴金属の量が少しも増えなかったのと同じである。資本家階級は、全体としては、如何なる国においても、無理やり身を伸ばすことはできない。(本文注: 産業資本家は、生産コスト以上に、全てを高く売るからこそ、利益を創り出す。で、彼等は一体誰に売るのか? 最初は、例えば、互いにである。デストゥート・ドゥ・トレーシー)

(15) 我々が、裏返したり、捩じったりしたとしても、事実は何も変わらないままである。もし、等価が交換されたとしても、余剰価値は生じない。そしてまた、非等価が交換されたとしても、依然として、余剰価値は生じない。商品の流通または交換では価値は生まれない。

(16) 従ってこれらの事実こそ、何故、今、我々が、資本の標準的形式 近代社会の経済的体制を決定づけている形式を、分析するに当たって、最も一般的な、言うなれば、ノアの大洪水以前の形式 商人資本とか金貸し資本を、全く考慮しないのか の端的な理由である。

(17) 回路 M-C-M、より高く売るために買うは、最も明白な正真正銘の商人資本のものである。ではあるが、この運動は、全て、流通局面において発現する。であるが、だからと云って、貨幣を資本に変換すること 余剰価値を形成すること を説明するのは、流通のみでは、不可能である。商人資本では、等価交換である限り、それは不可能事であることがはっきりするであろう。従って、その起因をなすには、商人として、売りと買いの両方の生産者達の間に、寄生するかの如く自身を押し込んで、二重に利き腕ぶりを発揮することだけしかない。この場面で、フランクリンが、「戦争は略奪だが、商業は大抵 騙しなり。」と言うように。もし、商人の貨幣が資本に変質すると云うことを、生産者達が単純に騙されるということ以外で説明されるべきと云うならば、中間項として長い一連の段階が必要であろう。現在のところでは、単純な商品の流通が、我々の唯一つの仮説を形作っていのだが、その中間項 それこそ、求めていることの全てである。

(18 ) 商人資本に関して我々が述べたことは、金貸し資本について一層より多く当てはまる。商人資本、その両端、市場に投げ入れられた貨幣と 市場から引き上げられた 増加した貨幣は、少なくとも、買いと売りによって連結されている。別の言葉で云えば、流通の運動によって連結されている。金貸し資本の場合、M-C-M 形式は、両端だけに、途中が抜けて、M-M、 貨幣がより多くの貨幣に変換される。貨幣の性質とは相容れない形式である。そして、従って、商品の流通という観点からは、依然として説明しがたい。かって、アリストテレスは「以来、貨幣で計算される限りでの富は、二重の科学であり、一つは商業に属しており、もう一つは経済に属する。後者は、必要であり、褒めるべきものである。前者は、流通に基づいており、承認し難い条理を伴っている。(それは、自然の条理に基づいておらず、互いの騙しあいだからである。) 従って、高利貸しは、最も正しく嫌われている。なぜならば、貨幣そのものは、彼の取得の源であって、そのために貨幣が発明されたあるべき目的のために使われていないからである。商品の交換のために始まったのであるが、利息が貨幣から生じ、より多くの貨幣となった。それ以来その名は([ギリシャ語で、トコス] 利息そして、子孫)。 生まれた者達は、それを生んだ父親に似ているからである。しかし、利息は、貨幣の貨幣である。それゆえ、新たな命の造出様式であり、もっとも自然とは異なるものである。

(19) 我々の考察が進めば、我々は、商人資本や、利子付き資本のいずれも、派生的形式であることを見出すであろう。そして同時に、何故、これらの二つの形式が、歴史の進展において、資本の近代の標準的形式 以前に現われたのか、はっきりするであろう。

(20) 我々は、流通によっては、余剰価値が創られ得ないことを見てきた。そして、だから、その並びの中に、後ろに隠れている何かが起こっているに違いない。それは、流通自体には現われてはこない。しかし、商品所有者の相互の関係の全体であり、彼等が彼等の商品によって規定されるのであるから、流通以外のどこかで剰余価値が起因する可能性があるのだろうか。流通から離れても、商品所有者は彼自身の商品との関係だけである。価値に関する限り、その関係は、この事に限られる。商品は彼自身のある労働量を保持している。その量は、社会的標準によって明確に計量されている。この量は、商品の価値として表されている。そして、価値が貨幣勘定として計算に入れられたならば、この量はまた価格で表されている。それが10ポンドであると想定してみよう。しかし、彼の労働は商品の価値と価値を超える余剰との両方で表されてはいない。10が、また11であるような価格で表されてもいない。それ自体より大きい価値としてでもない。商品所有者は、彼の労働によって、価値を創ることができる。しかし自己拡大する価値を創ることはできない。彼は、新たな労働を付け加えることによって、価値を増加させることはできる。そしてそれゆえ、価値にさらに価値を手にすることはできる。例えば、皮をブーツにすることによって。同じ材料は今ではより価値がある、なぜなら、それは、より大きい量の労働を保持しているからである。従ってブーツは皮よりも大きな価値を持っている。だが、皮の価値はもとのままで残っている。それがそれ自体を拡大したのではなく、ブーツとなる間に剰余価値を付加したのでもない。従って、流通局面の外で商品生産者が、他の商品所有者に接触することなく、価値を拡大できたり、結果として貨幣 または 商品を資本に変換することは不可能なことである。

(21) 従って、流通によって、資本を創り出すことは不可能なのである。そして、流通から離れて、資本を発生させることもまた同様、不可能なことである。その起因は、流通と、流通ではないものの両方にあるに違いない。

(22) 従って、我々は、二重の結果を得た。

(23) 貨幣の資本への変換は、商品の交換を規定する法律の基礎に基づいて説明されなければならない。そこでは、等価の交換が出発点である。(本文注: 前述の考察から、読者は、この記述が間違いなく、資本の形成は、商品の価格と価値が同じであっても、可能でなければならないと見るであろう。なぜなら、その形成が、それともう一方とに差があるがゆえであるはずもないからである。もし、仮に、価格が実際に、価値から乖離していても、我々は、なにはともあれ、前者を後者へと引き下げる。他の言葉で云えば、その違いは、偶然的なこととして、それらの純粋な状態で見られる現象が進んでいると見なし、また我々の監視は、行き違う状況、その過程に関してはなんらの疑問ももたらさないが、に邪魔されることはないと見なして取り扱う。我々は、よく知っているが、この引き下げは、単なる科学的な過程というものでもない。連続する価格の変動、それらの上昇と下降は、互いに補正され、それら自体を平均的な価格へと引き下げる。それらの隠れた整流装置である。それが、かなりの時間を要するものの、商人または製造業者のあらゆるやりとりの導きの星となる。彼は、長い期間においては、商品が高くもなく、低くもなく売られる、まさにそれらの平均的価格で売られるということを知っている。従って、もし、彼が、この事を深く考えるとしたら、資本形成の問題について、次のように、云うかも知れない。価格が平均価格で規制される、すなわち、究極的に、商品の価値によって、と仮定するならば、いかにして資本の発現を説明できるのだろうか? 私(マルクス 訳者挿入)は、「究極的に」と言う、なぜなら、アダム・スミス、リカード、その他の信者が云うようには、平均価格は直接的に商品の価値と一致してはいないからである。)
 我等が友、マネーバグス (複数の財布:訳者挿入)、彼はまだ単なる資本家の胎児でしかないが、彼は、彼の商品をそれなりの価格で買わねばならない。それらをそれなりの価格で売らねばならない。そして、さらに、過程の最後には、彼が開始点で投入した価値以上のものを流通から引き出さなければならない。彼の成人資本家への発展が出現しなければならない。流通局面の内側とその外側の両方において。これが問題の条件である。ここがロードス島だ。ここで跳べ。(Hic Rhodus, hic salta! ラテン語 )

訳者余談。資本家になるには、貨幣をより大きな貨幣へと変換しなければならない。条件は流通からであり、かつ流通の外でとある。ここまで読んでくれば、大凡は見当が付いている。しかも次章は、労働力の買いと売り マルクスに蹴られる前に跳んでいる。





[第五章 終り]