カール・マルクス


「資本論」 (第1巻)

 

訳者  宮 崎 恭 一

(1887年にイギリスで発行された版に基づく)

 

 

カール・マルクス

資 本 論


第一巻 資本の生産過程

第三篇 絶対的剰余価値の生産

第七章 労働過程と剰余価値生産の過程



第一節 労働過程または使用価値の生産



(1) 資本家は、労働力を、使うために、買う。そして、労働力の使用とは、労働そのものである。労働力の購入者は、その、売り手を働かせるように設定することで、それを消費する。働く事によって、売り手は、実際に、それ以前は単に潜在的であったに過ぎないが、労働力を可動させることで、労働者となる。彼の労働を、商品として再出現させるためには、彼は、なにはともあれ、それを何か有用なもののために、何らかの欲求を満足させることができるあるものに、支出しなければならない。であるから、資本家は、労働者をして生産させようと課すものは、特有な使用価値、特別なる品物である。使用価値の、または物品の生産が、資本家の指図の下に行われようと、また彼のために行われようと、それらの生産の一般的性格を変えるものではない。これが事実である。従って、我々は、まず 最初は、与えられた社会条件で表れる特定の形式から離れて、この労働過程を考えなければならない。

(2) 労働は、なんにもまして、人間と自然が共に参加する過程である。そこで、人は、自発的に開始し、調整し、彼自身と自然の間に起こる素材の反作用を制御する。彼は彼自身をもって、自然に対抗する。それはあたかも自然そのものの力で対抗する如くである。手足を動かし、頭と手を使い、彼の体という自然の力で、彼自身の欲求に叶うような形へ、自然の生産物を適当な物へとするために。このように、外部世界に働きかけ、それを変えることによって、彼は、同時に、彼自身の自然をも変えている。彼は、彼の潜在能力を発展させ、彼の意図に、彼の行動を従わせる。我々は、ここでは、それらの原始的・本能的な、我々のうちに残っている単に動物としての労働形式については、取り上げないこととする。人間労働が原始当初の本能的状態に留まっていた状況と、人が彼の労働力を商品として市場に持ってくる状況との間には、相当の長い時間があり、その間を大きく隔てている。我々は、他でもなく人間的なものと云える形式の労働を前提とする。蜘蛛は、織り職の作業に似た作業を行う。または蜂は、彼女等の巣房の建設に関しては、多くの建築家に恥を塗る。だが、最も優秀なる蜂と、最悪の建築家とを区別するものは、建築家がそれを実際に建てる前に、想像の上で、構築を仕上げているということである。あらゆる労働過程の終端には、我々には、すでに、その開始時点で、労働者の想像の上に存在していた結果が得られるということである。彼は、彼が働くことによって、素材の形の変化に影響を与えることだけではなく、彼のやり方に法則を与え、彼の意志を従わせる、彼自身の目的を実現するのである。(着色ラテン語) そして、この従わせると云うことは、単に一時的な行動ではないのである。体の各器官の活用に加えて、その過程が、全作業期間を通じて、作業者の意志が彼の目的に一致して、きちんとむらなく存在することを要求している。このことは、厳密な注意力を意味している。その遂行される様式の 仕事の性質が 魅力的でなければないほど、従って、彼の体や精神力に、多少の遊びが与えられることが少なければ少ないほど、より厳密な注意力が強いられる。

(3) 労働過程の、基本的な要素は、1, 人の個人的活動・それ自身が仕事をすること、 2, その仕事の対象、3, その手段である。

(4) 土地 ( 経済的見地から云えば、水も含めての土地 ) は、未開墾の処女地の時から、人間に必要なもの、または生存の手段として手に入れることができる物を供給する。それらの全ての物は、彼等の環境との直接的な繋がりから、労働によって単純にもぎ取ってくる。それが、労働の対象であり、同時に、自然が分けて呉れたものである。例えば、魚、我々は捕まえて、かれらの要素である水から取りだしてくる。木材、我々は、処女林から切り出してくる。鉱石、我々は、それらの鉱脈から採掘する。もし、これとは違って、労働の対象を、云って見れば、以前の労働によって濾過されているものを取ってくるならば、我々は、それを原料という。すでに採掘されて、洗鉱されている鉱石は、それである。全ての原料は、労働の対象であるが、あらゆる労働対象が原料というものでもない。ただ、労働によって、なんらかの変化を受けた後でのみ、それになるのである。

(5) 労働の手段は、物、または、物の複合体である。労働者は、彼の労働対象と彼自身の間に介在させ、彼の活動の導体の役割を与える。彼は、ある物の機械的、物理的、化学的性質を利用して、他のある物を、彼の目的に役立つものに作る。人自身の腕を労働の手段として用い、集めてくるといった、すでに作られている生存手段、例えば、果実、というようなことから離れて、考えてみよう。そうすれば、労働者が最初に自身で持つものは、労働の対象ではなく、その手段であろう。かくて、自然は彼の活動の一つの器官となる。彼の体の器官にそれを付け加える。聖書の教えにも係わらず、彼自身の身の丈を伸ばす。大地は、彼の最初の食料貯蔵庫であり、また同様、彼の道具小屋である。その大地は、彼に、例えば、石を供する。投げたり、砕いたり、押したり、切ったり、その他いろいろな道具となる。大地は労働の手段である、しかしながら、農業のような形で使用するには、他の様々な手段の一連のもの、及び、比較的高度に発達した労働が伴わねばならない。労働が多少でも、発展するやいなや、それは、特別に用意された手段を求める。であるから、我々は、人類最古の洞窟で、石の道具や武器を見つける。人間の歴史の初期において、飼い馴らした動物、すなわち、目的のために飼育された動物、労働の手段として使用できるようにした動物も、労働の手段として、特別に用意された石、木、骨、貝殻と並んで、主要な役割を果している。労働の手段の使用や制作は、ある種の動物の中には、萌芽として存在してはいるものの、人間の労働過程の特別な性格と言える。だから、フランクリンが、人間を 道具を作る動物 と定義するのである。過去の労働手段の遺物は、絶滅した社会の 経済的形式を考察するためには非常に重要で、ちょうど、骨の化石が、絶滅種の動物を決定づけるのと、同様である。それは、何が作られたか、ではなくて、どのようにそれら等が作られたか、どんな道具によってか であり、我々をして、いかなる経済的時代であったのかを、他とはっきりと区分できるようにしてくれる。労働手段は、人間の労働が獲得した発展の度合いの基準を提供してくれるだけではなく、それらの労働が行われている社会的条件の指示器でもある。労働手段の中では、機械的な性質のもの、体に例えて云えば、生産の骨格と筋肉と呼べるものが、ある与えられた生産の時代のより大きな、決定的な性格を与えている。労働のための材料を保持するだけの、管、槽、籠、瓶、他は、一般的には、生産の管系と云え、骨や筋肉に付随する。だが、この管系が初めて重要な役割を演じ出したのが、化学工業である。

(6) 広い意味で云うならば、それらの、直接的に労働をその対象に転換させるために使われる手段に加えて、労働過程の遂行に必要な、いろいろな方法で、活動の案内人役を務めるものも、手段として含めるのがいいだろう。これらのものは、直接にはこの過程に入らないが、それが無ければ、なにも始まらないか、僅かな部分しかできないであろう。もう一度、我々は大地を、そのような世界的手段として見出してみよう。なぜなら、それは労働者に明確な立場を用意し、彼の活動の雇用の場を整える。労働手段の中でも、それは、以前の労働の結果であり、また労働者階級に帰属するものである。我々は、作業者集会所、運河、道路、その他諸々を、見つけ出すであろう。(着色ラテン語)

(7) 労働過程において、従って、人間の活動は、労働手段の助けを借りて、働きかける材料に、当初から意図されたような、変化を及ぼす。過程は生産物の中に消え、後者は使用価値となる。自然の材料は、人間が欲求する形への変化に適合させられる。労働が自身と対象を一体化する。前者が具現化し、後者が変形される。労働が活動として表れ、次いで、生産物として、ある決まった品質が動きを止めて表れる。鍛冶屋が打てば、刃物が並ぶ。

(8) もし我々が、全過程を結果視点、つまり生産物から検討するならば、率直に云って、労働の対象と手段は、共に、生産の手段と言える。そして、労働そのものは、生産的労働と云える。
 (本文注: 労働過程だけからの視点で、何が生産的労働であるかを確定するこの分類法は、資本主義的生産過程の場合に直接適用できるという意味ではない。)

(9) 生産物の形で、使用価値が労働過程から出てきたとしても、依然として、他の使用価値、以前の労働の生産物が生産手段としてそれに入り込んでいる。同じ使用価値が以前の過程の生産物と以後の生産手段の両方に存在する。従って、生産物は、単なる結果ではなく、また、労働の基本的な条件でもある。

(10) 直接的に自然から、労働のための材料を供給される、いはば、そこから取りだしてくる産業、例えば、鉱業、狩猟、そして農業( 農業に関しては、処女地の開墾に限定されるが ) と云った産業を除いて、全ての産業部門においては、原料を取り扱う。それらの物は、既に労働によって濾過されており、既に労働の生産物である。農業での種子もそうである。動物や植物も、我々は自然の産物と考えるのに慣れているが、現在の形は、云うならば、単に去年の労働の産物であるばかりでなく、人間の管理の下、彼の労働によってなされた、多くの年代を経て続いてきた、漸進的な変化の結果である。いや、大部分の場合、たとえどんなに皮相的にしか見ない観察者にも、労働の手段が、過去の時代の労働の痕跡を見せてくれる。

(11) 原料は、生産物の主要な実体をなすか、または、単に補助材料としてその構成関係に入るかの いずれかであろう。補助材料は、労働手段によって消費される。ボイラー焚口への石炭、車輪への潤滑油、荷役馬への干し草。また、それは、ある改質を与えるために、原料に混ぜられることもある。未漂白のリネンに塩素剤をとか、鉄に石炭をとか、羊毛に染色剤とか。また、同様に、作業の進行を支援することもある。作業室の暖房とか照明とかに用いられる材料の場合のように。主要なる実体と補助材料との明確な違いも、真に化学工業では、消滅する。なぜならば、生産物の実体においては、原料は、最初の構成で、再現されることもない。

(12) 全ての物は、様々な性質を持っている。また、違った様々な使用に適用することができる。一つの同じ物が、従って、全く異なる過程への原料として役に立つ。例えば、トウモロコシは、製粉業者、澱粉製造業者、蒸留酒製造業者、畜産業者の原料である。それは、また、それ自身の生産のための原料として入る。種子の形で。石炭もまた、生産物であると同時に、生産手段として、石炭の採掘に加わる。

(13) さらに云えば、ある特別の生産物は、その物としての他、同時にその過程において、共に、労働の手段であり、かつ、原料として使用されうる。例を挙げるなら、牛の肥育である。ここでは、動物は原料であり、かつ、また、同時に、肥料生産の手段である。

(14) 直接的な消費の準備ができているのに、さらなる生産物のための原料となるかもしれない生産物、葡萄は、ワインのための原料となる。他方、労働が我々に、ある形で与えるその生産物が、ただ、原料としてのみ使うことができるものもある。それは、綿、繊維、撚糸と云ったものである。このような原料は、それ自身 生産物であるにも係わらず、様々な過程の全行程を通過しなければならないであろう。各過程で、役割を果たし、次々に確実に形を変え、原料となり、全行程の最後の過程を終わるまで進み、そしてそれは完全な生産物を供する。個々の消費のために、または、労働の手段としての使用のために。

(15) ここまで我々が見て来たように、使用価値が、原料として、労働の手段として、または生産物として見られるかどうかは、その労働過程の中でのそのものの機能に大きく依存している。それが、そこで占める状態に依存している。これは変化し、そのようにそれらの性格も変化する。

(16) 従って、生産物が、生産の手段として新たな労働過程に入る場合はいつでも、その生産物としての性格をそのことによって失う。そして、単なる過程の要素となる。紡績工は、紡錘を紡ぐための単なる道具として取り扱い、亜麻を単に彼が紡ぐ材料として取り扱う。勿論、材料や紡錘なくして、紡ぐことは不可能である。従って、これらの生産物であるところのものの存在が、紡績作業を開始する際には当然のことである。しかし、過程自体においては、事実それらが以前の労働の生産物であるとしても、そのことは、全くどうでもいいことである。丁度、消化の過程においては、食パンが、農夫の、製粉業者の、パン製造業者の、以前の労働の生産物であろうがなかろうが、なんの重要性もないのと同様である。だが逆に、生産物としてそれらに問題がある場合は、一般的に、いかなる過程の生産手段であるのかから、それらの生産物の性格において、それら自体がはっきりする。切れないナイフまたは弱い糸は、我々に、Mr. Aなる刃物工、またはMr. Bなる紡績工と、はっきりと思い当たる。生産物が完成した時点で、労働によって、それが有用な品質を確保しているならば、労働の諸々はどうでもよく、その姿は明らかに消え失せている。

(17) 労働の目的のために役立たない機械は、無駄である。さらに加えて、破壊的な自然力の影響の餌食に陥る。鉄は錆び、木材は朽ちる。我々によって、織られもせず、編まれもしない撚糸は、いずれも、くず綿糸である。生きた労働が、これらの物を掴みあげて、それらを死の眠りから揺り起こし、単なる可能性にすぎない使用価値から、実際の有効なるそれへと変化させねばならない。労働の炎を浴び、労働者の器官の一部として充用されて、云って見れば、過程のなかで、それらの機能の遂行のためによみがえらせる。真に消費され、しかも目的に合わせて消費され、新たな使用価値、新たな生産物の基本的な構成物として、個人的消費のための生活手段としていつでも使えるように、または、ある新たな労働過程のための生産の手段としてよみがえらせる。

(18) だから、もし、一方で、完成された生産物が、結果だけではなく、労働過程の必要な条件であり、他方で、それらがその過程に入るという前提であるならば、生きた労働とそれらの接触が、そのことによって、それらの使用価値としての性格が保持でき得る、そして、活用される 唯一の手段となる。

(19) 労働が、その材料要素を、その対象を、その手段を使いきる、それらを消費する。そう、それが消費過程である。このような生産的消費は、個人的消費から、次の点によって区別される。後者は、個人が生きるための生活手段として、生産物を使用する。前者は、ただ労働のために、生きている個人の労働力が活動できうるように、使用される。従って、個人的消費の生産物は、消費者である彼自身である。生産的消費の結果は、消費者とは明確に違う生産物である。

(20) だから、それらの手段や対象が、それら自身の生産物である限りでは、労働は、生産物を作り出すために、生産物を消費する。別の言葉で云えば、一式の生産物自体を、他の一式のための生産手段に用いることで消費する。だがしかし、人類の初めの頃に戻れば、労働過程への単なる参加者は、人と大地であった。後者は人間からは独立している。それゆえ、今でさえも、直接的に自然からもたらされる多くの生産手段をそのまま、その過程に用いているが、だからといって、自然の物と人間労働との組み合わせなどと云うものはなにも示さない。

(21) 上記のように、その簡単な初期的な要素として分析した労働過程は、使用価値を、自然の物を人間の要求に充当させる物を、生産するための人間の行動である。人間と自然との間で、物のやりとりをもたらすための必要条件なのである。自然が課した、人間としての存在に係る、未来永劫変わらぬ条件なのである。従って、であるから、労働過程は、人間存在のあらゆる社会的局面からは独立しており、または、むしろ、あらゆる各局面において共通しているのである。従って、かっては、我々の労働者を、他の労働者との関係において表す必要性は無かった。人と彼の労働が一方に、自然とその物質が他方に、それで充分であった。小麦粥の味は、誰がそのからす麦を育てたのかを語りはしないし、単純な粥の作り方過程が、いかなる社会的条件のもとで作られた からす麦なのかをも語りはしない。奴隷主の野蛮な笞で か、または、資本家の例の目つきで かは、語られもしない。また、古代ローマのキンキナトウス将軍が、彼の小さな農園の固い粘土質の土地で栽培させたものなのか、石で野獣を殺戮する未開の地で取れたものなのかは、分からない。

 本文の、ここの文の末尾に、太古の人が野獣を石で仕留める記述があるが、これに注が付されている。がその訳の前に、余計とは思うが、


訳者余談: 読者の皆さんには、資本家の例の目つき という私の訳で、その目つきがどんなものか想像がついたろうか。一体どんな目つきなのかという疑問が生じてしまっただろうか。英文は、そんな疑問は生じさせてはいない。こう書いてあるだけである。the anxious eye of the capitalist と。向坂訳では、不安げな目の色 となっている。Anxious には心配な という意味もあり、向坂訳もないではないが、資本家が何に不安なのかと疑問が残る。剰余価値に注がれる目には、不安などありはしない。らんらんと( 切望する eagerという意味も辞書で発見するだろう。) 輝いているだろう。次の前貸しも視野に入っているだろうし、これが、神によって与えられた役割と思っており、労働の、剰余労働の私物化とは少しも感じていないのだから。ただ、労働者階級から見れば、そのらんらんは、嫌らしい合法詐欺的目つきでしかない。このことを私が僅かな文字に託して訳すと、こうなったということである。さて、本文注である。


  偉大なる、論理的な明敏さという事実によって、トレンズ大佐は、未開人の石に、資本の起源を発見したのである。彼 [未開人] が野獣を追いかけて投げた、最初の石に、彼の届かぬ位置にある果実をたたき落とした、最初の棒に、我々は、目的のために、ある物を用い、別の物を獲得する補助としたのを見る。そして、そのように、資本の起源を発見したのである。

  訳者余談の追加で恐縮だが、オバマ アメリカ大統領が2009年4月に、画期的な演説をプラハで行った。核廃絶宣言である。そして、メドベージェフ ロシア大統領と、アメリカが保有する9千発、ロシアが保有する1万3千発のそれらを、各最大で1500発以下とする覚書に7月 調印した。これは削除ではなく、削減という過程的混乱だろう。広島に64年前に原爆が投下された日に、広島市長は、オバマ アメリカ大統領の宣言を支持し、核廃絶を我々の世代で実現できるように努力すると誓った。日本の麻生首相は、核廃絶に言及しながらも、北朝鮮に触れて、核の傘の必要性にも言及するという二律背反的な演説をした。トレンズ大佐に、石や棒がそうなるのか や、核と資本の関係についても、明敏なる論理を当てはめるとどうなるのか、聞いてみたくなった。だが、彼の論理で云うなら、何があっても、石と棒が、その起源だというだけの話で、聞くまでもない。資本が労働者も核石もミサイル棒をも作り出したと云ったら、理解の範囲を簡単に超えているだろう。


(22) それでは、ここで、我等の 資本家気取り の下に戻ることにしよう。我々は、彼が、自由市場で、労働過程に必要な要素全てを、その対象的要素である、生産手段を、その主体的要素である、労働力と同様に、購入した直後に、彼から離れたのであった。彼は、専門家の鋭い目で、生産手段を、また、彼の特別な商売のためにもっとも適用した労働力の種類を、選んだのである。その商売は、紡績業、深靴製造業、または他の様々な業種である。それから、彼は、それらの商品の消費に取りかかる。彼が買った労働力を、労働者とし、労働力を体現させ、彼の労働によって、生産手段を消費する。労働過程の一般的性格は、労働者が彼自身のために に代わって、資本家のために働くという事実によっても、何ら変わることはない。そればかりではなく、深靴製造業または紡績業で用いられる特別の方法や作業は、資本家が介入したとしても、直ちに変更されるものではない。資本家は、彼が、市場で見つけたそのままの労働力を用いることから始めねばならない。当然ながら、資本家の出現直前の時代に見られた様な種類の労働で満足せねばならない。労働の資本への従属によって、生産方法に変化が起こったのは、まだ、もっと後の時代のことである。従って、もう少し後の章で、取り扱うことにしなければならないであろう。

(23) 労働過程は、資本家が、労働力を消費する過程となるに及んで、二つの特有な事象を現わす。その一つは、労働者が、彼の労働が所属する資本家の差配の下で働くので、資本家が仕事が適切なマナーにおいてなされるように、細かく注意するので、そして、生産手段が一定の理解を持って使われるため、原料の不必要な浪費がなく、用具の消耗も、仕事上の必要な範囲を越えない。

(24) 二番目は、その生産物が、資本家の所有物であって、その直接の生産者たる労働者のそれではないと云うことである。資本家が 日労働力ために、その価値を支払った と言うことを思い出してみよう。だから、その労働力を一日使用する権利は彼に属している。他の商品を使用する権利と同じである。彼が、一日 賃借りした馬のように。その使用は、商品の買い手に属している。そして、労働力の売り手は、労働を与えることによって、彼が売った使用価値を手離す以上に、実際のところ、何も行うことはない。彼が、作業場に入るやいなや、彼の労働力の使用価値は、であるから、繰り返しになるが、その使用は、労働の使用は、資本家に所属する。資本家は、労働力の買いによって、労働を、生きた酵母として、死んだ生産物の構成要素に混ぜ込む。彼の視点からは、労働過程は、買った商品の消費以上のなにものでもない。その労働力なのだが、生産手段と共に供給される労働力以外では、その消費はなんら効果を現わすことができないという労働力なのである。その労働過程は、資本家が買った物と物との間の、彼の所有物となった物と物との間の一過程なのである。従って、この過程の生産物は、彼に属す。ちょうど、彼のワイン貯蔵室で、発酵過程を経たワインがそうであるように。

 本文注: 生産物は、資本に変換される以前に、私有される。資本に変換されても、そのような私有をより安全にするものではない。(シェイブュリエ「富、貧からなる」Cheibuliez: "Richesse on Pauvrete," edit. Paris, 1841, p. 54.) プロレタリアは、彼の労働を一定量の生活必需品のために売ることによって、生産物の分け前の要求を全て放棄する。生産物の私有様式は、であるからといっても、以前と同じままである。我々が言及したことによる取引によっても、そこはなにも変わらない。生産物は、原料と生活必需品を供給した資本家に、独占的に所属する。そして、これが私有の法律の厳格な帰結である。が、この私有という法の根本的原理は、全く逆で、すなわち、あらゆる労働者が、彼が生産した物の所有者であるという、排他的権利を持っている。(l. c., p. 58.)
 労働者が、彼の労働により賃金を受け取ったから... だから、資本家は、資本 ( 彼は、生産の手段の意味で使っている。) のみではなく、また、労働の所有者でもある。もし、賃金として支払われたところのものが、普通に、資本という言葉に含まれるならば、資本から分けて労働を語ることは不合理である。このように、資本なる言葉が用いられる場合、労働と資本は共に含まれる。(ジェームズ・ミル「政治経済学の要素」James Mill: "Elements of Pol. Econ.," &c., Ed. 1821, pp. 70, 71.)




 トレンズ大佐の明敏さとは異なるが、シェイブュリエ 1841の言葉や、ジェームズ・ミル 1821 の言葉は、訳者余談の出る幕ではないものを示している。世間では寝言でしかないかも知れない。だが、これらこそ、マルクスのダイヤモンドを磨いたダイヤモンドであると分かる。トレンズ大佐なるダイヤモンドとともに、この論理も力強い。権利放棄があるなら、権利が存在する。資本で労働力商品を買うなら、それも資本である。被爆あれば、放射線を散らしたものが存在する。誤爆あれば、誤爆で死んだ者がいる。法律を作ったなら、根本的な法がまた存在する。言葉の凄さは身震いを禁じえない。





第二節

剰余価値の生産



 

(1) 資本家が私有した生産物は、使用価値である。例えば、紡いだ糸であり、または、深靴である。しかし、深靴が、ある意味で、全社会の進歩の基礎であり、また、我等の資本家が断固たる進歩的人物であるとしても、彼は多くの深靴を、今のところ、それら深靴達のために製作するものではない。使用価値は、商品の生産において、"それ自身が愛する" 物では何の意味もない。( フランス語 ) 使用価値は、ただ、資本家によって、生産される。なぜならば、また、その限りにおいてのみ、生産される、それらが、交換価値の物的土台、その保管物だからである。我等の資本家は、二つの事を見据えている。その一つは、彼は、交換される使用価値の生産を欲している、はっきり云えば、商品として必ず売れる品物を、ということである。第二には、自由市場で大枚をはたいて買った、生産手段と労働力、生産に使用される商品の価値総計よりも大きくなる であろう価値を持つ商品の生産を欲している、と言うことである。彼の目的は、単に使用価値を生産するだけではなく、商品を なのである。使用価値のみではなく、価値を なのである。価値のみではなく、同時に剰余価値を なのである。

(2) 我々は、今、商品の生産を、取り上げて見ており、そして、ここに至るまで、( 特に前節、 訳者挿入 ) 一つの過程局面のみを検討してきた、ということをしっかりと頭に入れておいて貰わねばならない。商品といえば、使用価値と同時に、価値である、その様に、それらの生産過程は、労働過程でなければならないし、同時に価値の創造過程でも なければならぬ、ということになった。

(3) それでは、ここから、価値の創造 としての生産について、調べて行くことにしよう。

(4) 我々は、それぞれの商品の価値が、その生産のために、与えられた社会的な条件の下、必要な作業時間、それに費やされた労働の量によって決められ、それが物体化されているのを知っている。この法則は、資本家のために遂行される労働過程の結果として、我等の資本家にもたらされる生産物の場合にも、よく適用され得る。これなる生産物、10ポンドの撚糸を、仮に取り上げてみよう。我々の最初の一歩は、その中に実体化された労働の量を計算してみることである。

(5) 撚糸を紡ぐためには、原料が必要とされる、この場合は、10ポンドの綿と仮定する。我々は、現時点では、この綿の価値を考察する必要性はない。なぜなら、資本家は、例えば、10シリングというその価値の満額で買ったと、我々は仮定しよう。その価格には、社会的な平均的労働という意味で、綿の生産のために必要な労働がすでに表されている。さらに、我々は、紡錘の損耗を、それが当面の我々の目的なのであるが、用いられる全ての労働手段を代表するものとして、2 シリングの価値になると仮定しよう。それから、仮に、24時間の労働、または、2作業日が、12シリングで表される金の量の生産に必要とされるものとして、そしてすでに、我々は2労働日が撚糸に一体化されているのを知っているのだから、ここから計算を始めてみよう。

(6) 我々は、綿が、相当数の紡錘なる物が消費されたことで、新たな姿になっているという状況に、迷わされてはならない。一般的価値法則によって、もし、40ポンドの撚糸の価値 = 40ポンドの綿の価値 + 紡錘等の価値、すなわち、もし、この等式の両側の商品の生産に、同じ作業時間が必要とされるならば、10ポンドの撚糸は、10ポンドの綿と1/4の紡錘等を合わせたものと等価になる。この場合、我々は、同じ作業時間が、一方の10ポンドの撚糸に、他方の10ポンドの綿と紡錘等の一部とを一緒にしたものに、物体化されていると考えている。従って、価値が、綿・紡錘に表れようと、または撚糸に表れようと、その価値の量においては、なんらの違いはない。紡錘と綿は、静かに並んでいる状態とは打って変わって、過程に共に加わり、それらの形を変えられる、そして、撚糸にされる。しかし、それらの価値は、このことによっても、それらが、単純に、それらの等価である撚糸と交換された場合以上の影響を受けることはない。

(7) 撚糸の原料となる、綿の生産のために必要な労働は、撚糸の生産に必要な労働の一部である。だから、撚糸の中に含まれている。紡錘に体現化されている労働も同様に含まれており、その損耗なくしては、綿は紡がれない。

(8) 従って、撚糸の価値を決める場合の、または、その生産に必要とされる労働時間を決める場合の、そこで行われる全ての特別の過程は、様々な回数、また異なる場所で行われるが、いずれも必要なものである。最初に、綿と 紡錘の一部の損耗分を生産し、次いで、綿と紡錘が撚糸を紡ぐ。これらは、いっしょになって、あたかも、異なるが、一連の、一つでかつ同じ過程のように見なされるかも知れない。撚糸に含まれるこれら全ての労働は、過去の労働である。そして、構成された要素の生産のために必要な作業は、現時点でいえば、最後の紡ぎ作業からはかなり以前の時点でなされたものであるが、そのことは全く重要なことではないのである。もし、労働のある一定量、30日分が、家を建てるに必須であるとしょう、それに込められた全労働量は、最後の日の作業が、最初のそれから、29日遅れてなされたのが事実だとしても、少しも変えられることはない。そのように、原料や労働手段に含まれた労働は、ちょうど、紡ぎの過程の初期の段階に、実際の紡ぎの労働が始まる前に、投入されたものとして取り扱われ得る。

(9) 生産手段の価値、すなわち、綿と紡錘であるが、これらの価値は12シリングという価格で表されものであるが、従って、撚糸の価値の構成部分である。別の言葉で云えば、その生産物の価値の一部である。

(10) それにもかかわらず、二つの条件が満たされねばならない。第一には、綿と紡錘は、使用価値の生産に一体化していなければならない、ここで云う場合は、それらが撚糸になっていなければならない。価値は、生み出された特定の使用価値とは独立したものであるが、ある種の使用価値として体現されなければならない。第二には、生産の労働に用いられた時間は、その場合に与えられた社会的条件下で、実際に必要とされる時間を越えてはならないと言うことである。従って、もし、1ポンドの撚糸を紡ぐに、1ポンド以上の綿を要しないのであれば、1ポンドの撚糸の生産で消費される綿の重量がこの重量を越えないように注意されねばならない。紡錘についても同様に注視する必要がある。資本家に趣味があり、鉄に替えて、黄金の紡錘を使ったとしても、依然として、ただ、労働として、撚糸の価値に計算されるものは、鉄の紡錘の生産に必要と思われる労働に留まる。なぜならば、与えられた社会的条件下では、それ以上は必要がないからである。

(11) 今、我々は、撚糸の価値のどの程度の部分を、綿と紡錘が占めているか分かった。それは、12シリングに達しており、または、2日分の仕事の価値である。我々が考える次の点は、撚糸の価値のどの程度の部分が、紡ぐという労働によって、綿に加えられたかということである。

(12) 今、我々は、労働過程( 前節 訳者挿入 )の間に とらえた見方とは、非常に違った観点から、この労働を考えて見なければならない。そこ( 労働過程 訳者挿入 )においては、我々は、一つの、綿が撚糸に変わるという特定の種類の人間活動としてそれを見ていた。そこにおいては、他の状況が同じに保持されるならば、労働が仕事に合致していればいる程、良い撚糸が得られた。であるから、紡績労働は、他の種類の生産的労働とは特別に異なるものとして見られた。一つはその特別の目的、すなわち、紡ぐことだけに。もう一つは、その作業の特別の性格に、生産手段としての特別な性質とその生産物の特別な使用価値と云うことに。紡績作業のためには、綿と紡錘は必要である。しかし、旋条砲を作るためには、何の役にも立たない。ここでは、それとは逆に、それが、単に価値創造である限りで、紡績労働を見るのであるから、彼の労働は、砲を作り出す労働との違いを考慮しない。または、(ここで、我々の関心により近いもので云えば), 生産手段に一体化されている綿栽培や紡錘製作の労働との違いも考慮しない。この同一性なる理由によって、綿栽培、紡錘製作そして紡績は、お互いに量的な違いはあるが、その構成要素の一部分を形成することができる。それを一つにまとめるものは、すなわち、撚糸の価値である。ここにおいては、我々は、質については何も持っていない。自然や特別の労働の性格についても同様、何も持っていない。ただ単に、その量だけしか持っていない。そして、このことは、単純に計算されることを要求している。我々は、紡績は単純なもので、未熟練労働で事足り、与えられた社会の状態の平均的労働で充分であるという仮説へと進む。以後、我々は、逆の仮説を置いたとしても、そこに、何ら差が生じないと言うことを見るであろう。

(13) 労働者が作業する間、労働は絶え間なく、変化をもたらす。動いているものから、動きのないある物になる。労働者が作業していれば、それが生産された物となる。1時間の紡績労働の後には、その活動が、ある一定量の撚糸として表される。他の言葉で云えば、ある一定量の労働が、すなわち、1時間のそれが、綿に体現される。我々が労働と言っているものは、紡績工として支出される彼の生命力のことであって、であるから、紡績労働のことではない。なぜならば、特殊な紡績作業のことをみているのだから。ただ一般的な、労働力の支出のことであって、紡績工としての明確な作業に関することではないからである。

(14) 我々が今検討している過程は、極めて重要なところである。綿を撚糸に変換するための仕事に費やされる時間は、与えられた社会的条件で必要とされる時間を越えるものではない。もし、通常の、すなわち、生産の平均的 社会的条件において、aポンドの綿を、1時間の 労働によって、bポンドの撚糸にすることが適当であるならば、12aポンドの綿を12bポンドの撚糸に仕上げることができないのであれば、1日の労働を、12時間の労働とは算定しない。なぜなら、価値の創造においては、社会的な必要時間のみを算定するのだから。

(15) 労働ばかりではなく、原料や生産物も、今や、全く新たな光の中から表れる。かって我々が、純粋で単純な労働過程で見たそれらとは全く違っている。ここでは、原料は、労働のある一定量の単なる吸収材役を務める。この吸収によって、事実、撚糸に変えられる。なぜならば、それは紡がれ、なぜならば、労働力が紡績の形式において、それに加えられるからである。しかし、生産物 撚糸は、ここでは、綿に吸収された労働の分量以上のなにものでもない。もし、1時間に、1 2/3ポンドの綿が紡がれて、1 2/3ポンドの撚糸にできるなら、10ポンドの撚糸は、6時間の労働の吸収を示す。一定量の生産物は、これらの量は、今や、他でもなく、一定量の労働で表される。明確に結晶化された労働時間の大きさで、表される。それらは、それだけ多くの時間の、それだけ多くの日数の社会的労働の、体現化されたもの 以外のなにものでもない。

(16) 我々は、ここでは、労働が特別の紡績という仕事であると云う事実については、これ以上関与しない。その対象が綿であって、また、その生産物が撚糸であることも、だから、対象それ自体がすでに生産物であって、だからこそ原料であることにも関与しない。もし、紡績工が、紡績に代わって、石炭鉱山で働き、彼の労働対象が、石炭が、自然からもたらされたとしても、それにもかかわらず、一定量の掘削された石炭の量 例えば、112ポンド重量のものは、一定量の吸収された労働を表すであろう。

(17) 我々は、労働力の売りの場面で、その1日分の労働力を3シリングと仮定した。そして6時間の労働がその総額分に表されており、そしてその結果として、この量の労働が、労働者によって日々求められる、生活に必要となるものの生産には必須なのである。もし、ここで、我々の紡績工が、1時間の作業で、1 2/3ポンドの綿を1 2/3ポンドの撚糸に変換することができるならば、6時間の労働で、彼は、10ポンドの綿を、10ポンドの撚糸へ変換することになろう。従って、紡績工程において、綿は6時間の労働を吸収する。同じ量の労働が、また、3シリングの黄金片の価値に体現化される。その結果として、単なる紡績の労働によって、綿に3シリングの価値が追加される。

(18) それではここで、生産物 10ポンドの撚糸の全価値について考えてみよう。2日半の労働が、その中に体現されている。そのうちの2日分は、綿と紡錘の損耗に、そして半日分は、紡績過程の間に吸収された。この2日半の労働は、また、15シリングの黄金片によって表される。であるから、15シリングが、10ポンドの撚糸の適切なる価格である、または、1ポンドの撚糸の価格が、18ペンスである。


 数字が沢山出てきたので、それについての訳者余談を書く。前文節(17)中に1 2/3ポンドの撚糸云々とある所に本文注があり、これらの数値は全くの独断的なものである と書かれている。確かに、そうとも云えるが、仮説としての巧みな設定でもある。まず、綿と撚糸に関して書かれた数値を見てみよう。それは、10-10から始まって1-1、10a-10b、1 2/3 - 1 2/3 と様々に書かれている。綿の一部はくずとして飛散するのではないか、といった疑問も持った。不等を表す10a-10b もあって、その疑問も消え失せた。次いで生産手段の価格、 撚糸の価格である。12シリング、15シリング であり、半日分の労働の価格としての3シリングが加算されたことを知る。さて、18ペンスは、古き英国の貨幣制度の知識が必要となるところであるが、有難いことに、ネットで調べれば、そこは1シリングが12ペンスであるから、単純なる比例計算で納得が行った。頭の体操をさせながら、これからの数的論理への準備をしたところであろう。


(19 ) 我々の資本家は、びっくりして、凝視したまま固まっている。生産物の価値は、前貸しした資本の価値と、正確に、等価のままである。前貸しした価値は少しも大きくなっていない。剰余価値は創造されなかった。その結果、貨幣は、資本に変換されることがなかった。撚糸の価格は、15シリング、そして、15シリングは自由市場で、生産物の構成要素のために支出された。同じものの量で云えば、労働過程の要素のために、綿のために10シリングが支払われ、2シリングが紡錘の損耗のために、そして、3シリングが、労働力のために支払われた。思い描いていた 膨らんだはずの価値はどこにもない。なぜなら、そこには、単に、以前に存在していた、綿と紡錘と、そして労働力の価値の 総計しかないのだから。存在する価値の単純な加算値がある だけなのだから。生じるはずの剰余価値がない。これらの切り離された価値は、今、全てが、一つのものに集中された。だが、それらは、そのまま依然として、15シリングなる総計であった。それは、3つの部分に分断される前、商品の購入時に、手に、あったものである。

(20) この結果には、実際問題として、非常に奇妙な点がある分けではない。1ポンドの撚糸の価値は、18ペンスである。もし我々の資本家が、市場で、10ポンドの撚糸を買うとすれば、彼はそれらに15シリングを支払わねばならない。人が、建築済の家を買おうと、建ててもらって買おうと、取得の様式によって、家に注ぎ込む貨幣の大きさが増加しないのは 自明のことである。

(21) 我々の資本家は、自分の部屋に戻って、例の俗悪なる経済用語で吠える 「違うだろ。俺は、もっと沢山の銭にする そのはずのために、前貸ししたんだぞ。」( イタリック ) 地獄への道は、都合よき意図で舗装されている。つまり、彼は、簡単に貨幣を作ることを意図したのである。何一つ作ることもなしに。

 本文注: こんな風に、1844-47年、彼は、彼の資本の一部を、鉄道投機に賭けるため、生産的雇用から引き上げた。また、同様、アメリカ 市民戦争 の間じゅう、彼は、リバプールの綿取引所のギャンブルに注ぎ込むために、彼の工場を閉業し、労働者を街頭に放り出した。

 彼は、あらゆる種類の罵詈雑言をわめきちらす。もう二度とこんなだまし討ちには引っかからないぞ。以後、彼は、それらを、彼自身で製造する代わりに、その商品を市場で買うだろう。がしかし、もし彼の資本家兄弟達が、同じことをするならば、彼はどこの市場で商品を見つけることができるというのだろう? そして、彼は、彼の貨幣を食べることはできない。彼は説得を試みる。「私の禁欲も考えて貰いたい。私は、15シリングを湯水のごとく使い果たしていたかもしれなかった。それを、その代わりに、生産的に消費し、それでもって、撚糸を作ったのだ。」( イタリック ) おっしゃることはごもっともです。だから、良心を痛める代わりとして、報酬の常道として、彼は、良質の撚糸を持つ身なのである。では、貨幣退蔵者の役を演じるのか、そのつまらぬ道へ逆戻りするはずはないだろう。我々は、前に、そのような禁欲主義者が行き着いた先を見ている。王といえども、脇に並ぶ物がなければ、彼は彼の権力を失う。本人の禁欲の効用がいかなるものであれ、それに報いる特別のものはなにもない。なぜなら、生産物の価値は、生産過程に投じられた商品の価値の 単なる総計でしかないのだから。ゆえに、彼には、美徳がその報酬であること見出してもらい 自らを慰めて戴くことにしよう。だが、彼に、それはない。彼は執ようになる。彼は云う。「撚糸は、私にとって、何の役にも立たない。私はそれを売るために生産したのだ。」( イタリック ) ならばお売りになればよい。いや、もっといい方法もある。以後、彼個人の欲求を満足させる物のみを作ればよい。過剰生産と言う流行病に対する間違いなき治療法として、彼の医師マカロックがすでに処方している。彼は、さらに言い張る。「労働者が」と彼は疑問を挟む。「自分の手足を動かしたからって、作る商品が何んだと云うんだ? できはしないだろ。 私が材料を彼に供給しなければ、それがあればこそ、それがそこにあるからこそ、体現できたんじゃないのか? 大体、社会の大半は、そんな無能なろくでなしばかりしかいないのに、私は、私の生産手段を、私の綿と私の紡錘をもって、計り知れない貢献を社会に提供しなかったとでも云うんか? 社会ばかりじゃない、労働者にとってもだ。 彼等には、はっきり云うが、生活に必要なものを支給したはずだろ、そうじゃないとでも云うんか? なのに、この貢献に対して、私には、なんの見返りも許されない とはどういうわけじゃ? 」( イタリック ) よくまあ、云いますなあ。労働者が、彼の綿と紡錘を撚糸に変えるという等価の労働提供を彼に与えなかったでしたっけ? これ以上、この労働提供については、なんの問題もないはず。商品として、または労働として、その有用なる使用価値の効果を越える労働提供はあり得ない。とはいえ、ここでは、我々は交換価値を論じている。資本家は、労働者に3シリングの価値を支払った。そして、労働者は、彼の綿に、等価である3シリングの価値を付け加えることで、彼に、価値には価値で、返したのであった。我々の友人は、この時まで、財布の中身を誇っていたのだが、急に、彼自身の作業者と同じような、謙虚な態度を装って、抗議する。「私自身が、働かなかったと言うのですか? 私が、労働の総監督の行為をしていなかった、紡績工を監視していなかったと云うのですか? この労働が、同じように、価値を創造しないのですか? 」( イタリック ) 彼の監視人や、支配人は、彼等の笑いをかみ殺す。しばらくすると、陽気に一笑い、彼は、例の態度に逆戻り。やっぱり、例のごとく、経済学者の教義の始終を、我々に、歌ってみせたのであった。実際問題として、彼が云うように、その歌に びた一文使ってはいないであろう。彼は、この事や、そのような全ての事、口実作りとか、騙しの手品遊びは、政治経済学の教授たちに任せている。教授等は、そのために支払いを受けており、雇われている。彼自身は、実際的な人間である。だから、商売外で何を云うかは、いつも考えている分けではない。だが、彼の商売の内では別で、彼が見ているものが何かはよく知っている。


 訳者余談でもなけりゃ、やりきれない。資本家の悪態やバカな雑言をいつも聞かされて来たとはいえ、いざそれを訳すとなると難しいもんだ。そっくりじゃ読者も困るし、かといって上品はあり得ないし、ついに、例のオンパレードで飾ることになってしまった。「あなたは、上品すぎて、わが社では、適当な仕事をさしあげられないから、他を探すのが、よりよい道であると思うのですが」等も名文句の一つだろう。どんな下品な会社かと笑わせてくれる。無能なろくでなしも、チンピラ風情も、時には、こう呼ばれる。難しいもんだ。云っておくが、資本家がブレるからではない。資本はブレずにこれを資本家に云わせる。資本側政党にどう云わせるかにもブレはない。俗流経済学者にもだ。


(22) 我々は、この問題について、さらに詳しく見て行くことにしょう。1日の労働力の価値は、3シリングの大きさである。なぜならば、我々の仮説によれば、半日分の労働が、労働力のその量に体現されているからである。すなわち、何故と云うに、労働力の生産に要求される1日当りの生計手段は、半日分の労働に値するからである。しかし、労働力に体現された過去の労働と、行動に呼び出すことができる生きた労働とは、それを維持するための日々の費用と、作業に支出する日々のそれとは、この二つは、全く違うものなのである。前者は、労働力の交換価値を決めている。後者は、その使用価値である。労働者を24時間生かして置くために、半日労働が必要であるという事実は、彼が終日働くことを、どんなことによっても、妨げはしない。従って、労働力の価値と、労働過程において労働力が作り出す価値とは、この二つは全く違う大きさなのである。だから、この二つの価値の違いこそ、労働力を買っていた時に、資本家が注目していた所なのである。労働力が保持する有用な質、それが撚糸や深靴を作るのであるが、それらは、彼にとっては、必要条件( ラテン語 ) 以外のなにものでもない。価値を作り出すために、労働は、有用な方法で支出されねばならない。実際、彼に欲求を与えたものは、その特別な使用価値、その商品が持つ、その存在、価値の源泉であるばかりでなく、それ自身が持つよりも より大きな価値を持つと云うこと である。( イタリック ) これが特別なる奉仕、資本家が労働力から得ようと見込んだものなのである。この取引に関しては、彼は、商品交換の「永遠の法則」に従って行動する。労働力の売り手は、他のいずれの商品の売り手と同様、交換価値を実現するために、使用価値を手離す。彼は、他方を与えることなくしては、これを得ることはできない。労働力の使用価値は、別の言葉で云えば、労働は、油の使用価値が、売った後は、それを売った商人に属さぬように、労働力の売り手には少しも属していない。

 貨幣所有者は、1日の労働力の価値を支払った。であるから、彼の物は、1日間のそれの使用となる。1日間の労働は彼に属する。これなる事情において、一方の、労働力の日々の生計維持にかかる費用は、ただの半日労働分でしかない。  が他方、全く同じ労働力は全日中 働くことができる。この一連の結果として、1日間それを使用する価値が創り出す価値は、その使用のために支払ったものの2倍となる。この事情は、疑いもなく、買い手の幸運の一部であって、決して、売り手に対する権利侵害ではない。

(23) 我々の資本家は、この事情を見越しており、だから、かれの高笑いの理由は、このことにあった。従って、労働者は、作業所で、仕事に必要な生産手段の中で、6時間 ではなく、12時間 を発見する。( 交換の場ではなく、訳者挿入) ちょうど6時間の過程において、10ポンドの綿が、6時間の労働を吸収した。そして、10ポンドの撚糸となった。それが、今、20ポンドの綿が、12時間の労働を吸収して、20ポンドの撚糸になろうとしている。それでは、ここで、この延長された過程の生産物について調べてみよう。ここに、今、20ポンドの撚糸、5日分の労働が、物体化している。その内の4日分は、綿と、紡錘の失われた鉄に要する分であり、その残りの1日は紡績過程の中で綿に吸収されている。黄金で表せば、5日の労働は30シリングである。従って、これは20ポンドの撚糸の価格であり、以前、1ポンドに18ペンスの価格を与えていたものである。しかし、過程に入れられた商品の価値の総計は、27シリングである。( 20ポンドの綿と、その紡錘の損耗分として、24シリング、労働力に、3シリング 訳者挿入) 撚糸の価値は、30シリングである。従って、生産物の価値は、その生産に前貸しされた価値よりも、1/9大きくなった。27シリングが30シリングへと変換された。3シリングの剰余価値が創造された。策略はついに成功した。貨幣は、資本に変換されたのである。

(24) 問題のあらゆる条件は、満足されている。同時に、商品交換を規制する法則にも、どこから見ても侵害された形跡はない。等価は等価と交換された。なぜなら、資本家は買い手として、それぞれの商品、綿、紡錘、そして労働力に、それぞれの満額を支払った。労働力の消費で、それはまた、商品生産の過程であるが、その結果、20ポンドの撚糸、30シリングの価値を得た。資本家は、以前は買い手であったが、今度は、商品の売り手として市場に戻ってきた。彼は、彼の撚糸を、1ポンド当り18ペンスで売る。その正確なる価値で。とはいえ、そのことにより、彼は、最初に流通に投入したものよりも3シリング多いものをそこから引き出した。この変態は、この貨幣の資本への変換は、流通局面内と、またその外の、両方共で起こったことである。流通内と云うのは、なぜかと云えば、市場で労働力を買うことによって条件づけられたからであり、流通外と云うのは、なぜかと云えば、余剰価値の生産への跳躍石台が、流通外にあって、それを成したからである。その過程は、その生産局面に完全に閉じ込められている。かくして、「全てが最良であることがありうる世界では、全てのものは、最良の状態にある。」( フランス語イタリック ボルテール 楽観主義哲学者の言葉 1759 )

(25) 貨幣を商品に変えれば、商品は、新たな生産物の物的要素として仕える。また、労働過程の要素として仕える。生きている労働を死んだ物質に一体化することによって、資本家は、同時に、価値を、すなわち、過去の、物体化された、そして死んだ労働を、資本に変換する。価値を伴った大きな価値に変換する。生きている怪物、価値、それは果実のように甘く、そして、倍加する。

(26) もし、今、我々が、価値の生産過程と余剰価値を創造する生産過程の二つを較べて見るならば、後者は、他でもなく、ある明確な点を越えて続けられた前者である。もし、一方の過程がその点を越えて運用されなければ、そこでは、労働力に資本家が支払った価値は、正確に等価に置き換えられる。それが価値を生産する単純な過程である。もし、これとは違って、ある点を越えて続けられるならば、それが、剰余価値を創造する過程となる。

(27) もし我々がさらに進めて、価値の生産過程を、純粋で単純な労働過程と較べて見るならば、我々は、後者が、有用な労働から成り立っており、その作業が使用価値を生産するのを発見する。ここでは、我々は、ある特定な品物を生産している労働をじっと見ることになる。我々は、その品物の質の面からのみ見る。それが最終的な目的に合致しているかどうかと。しかし、価値創造過程としてこれを見るならば、その同じ労働過程がそれ自体を単に量的側面からだけをもって示すことなる。ここでは、その作業をする上で労働者が要した時間のみが問題であり、その作業時間において、労働力が有効に支出されたかどうかが問題となる。ここでは、その過程に投入された商品はもはや、ある明確かつ有用な物の生産に込められた労働力の必要な付加物と見なされることはない。それらは単に、それなりに吸収された労働の、またはそれなりに物質化した労働の保管物と見なされる。その労働が、既に生産手段として物体化していようと、労働力の行動によってなされるこの過程において初めて一体化されようともである。そして、そのどれであれ、ただ時間の長さによって数えられる。それは、状況に応じて、多くの時間または日数で数えられる。

(28) さらに加えれば、品物の生産に費やされる時間は、与えられた社会的条件下で 必要な限りにおいてのみ、計量される。この条件の内容は、様々である。まず 第一は、労働が通常の条件で遂行されるべきであるということが必要になる。もし、自動ミュール紡績機が、紡績に用いられる一般的な用具であるならば、紡績工に、昔ならではの、糸巻棒とか糸車を使わせることは不合理である。また、綿も、作業において、余計なごみの原因となるような粗悪な綿であってはならず、適切な品質のものでなければならない。一方、紡績工は、1ポンドの撚糸の生産において、社会的に必要な時間以上を費やしていることが見つかれば、その場合、その超過時間は、価値も、貨幣も創造しない。しかし、過程の物質的要素が通常の質であるかないかは、どちらにしても、労働者に依存するものではなく、ただすべて、資本家に依存している。繰り返しにはなるが、労働力自身は、平均的な効用のものでなければならない。雇用がなされる取引において、広く行われる取引において、それは、平均的技能、手際の良さ、機敏さを持っていなければならない。だから、我々の資本家は、そのような通常の良質さを持つ労働力を買うために適切な注意を払った。この労働力は、平均的な努力と、通常の強度において運用されねばならない。だから、資本家は、彼の作業者が、1刻も無駄にしないように、それが上記のようになされているかどうかに、注意を払う。彼は、労働力の一定期間の使用を買った。そして、彼の権利を力説する。彼には、略奪されたものという概念はない。最後に、そして、この目的のために、我々の友は、彼独自の罰則を持っている。原料や労働の道具の あらゆる浪費は、厳しく禁じられる。なぜならば、無駄に費やされた労働、余分に支出された労働、そのような労働は、生産物に計量しないし、または、その価値に入れないからである。

 本文注の訳者抄訳 ここに、奴隷労働と労働力商品の違いを述べた文献が紹介されている。奴隷には、無駄な、余計な労働が、これとは違って、たっぷりと強いられる。何故か。このような生産様式が、奴隷制社会の経済原則だからであると。無駄を省いても、余計な作業を解消しても、なんら効果がないばかりか、より大きな無駄とより余計な労働が発生するからである。奴隷には、人間としての労働過程が与えられない。だから、それだけの、有用な、集中した、技能や頭脳作用を伴う労働を期待することはできないし。それを遠ざける差別の方に必然性が生じているからである。一言余談を追加するが、将来の労働力商品は、従って、労働過程を失っており、奴隷労働に急速に接近する。だろう! すでに、現派遣労働は、完成形に達している。時間の制約条件だけが、その違いのわずかな印影。その意味は殆どないが。

(29) それでは改めてここで、我々は、労働の違いについて見ておこう。一つは、有用物を生産すると考えられるそれであり、他方は、価値を創造すると考えられるそれである。我々が、我々の、商品の分析によって発見した違いが、それ自体を、二つの生産過程の各局面区分に分解している。

(30) 生産過程、一つは、労働過程と価値創造過程との統一として考えられ、それは、商品生産のそれである。他方は、労働過程と剰余価値生産の過程との統一として考えられ、それは、資本家が行う生産過程である。または、資本家の商品生産のそれである。

(31) 我々が、以前のページで述べたように、剰余価値の創造においては、資本家によって占有された労働が、平均的な質の単純な未熟練労働であろうと、より複雑な熟練労働であろうと、ほんの少しの関心事にもならない。全ての、平均的労働よりも、高度な、または、複雑な性格の労働は、より多くの経験等を要した種類の労働の支出である。その労働力の生産には、より時間と労働を要している。従って、未熟または単純な労働力に較べれば、より高い価値を持っている。紡績工の労働と、宝石細工人の労働との間に、技能としての、違いがなんであれ、宝石細工人が、単に彼の労働力を、価値に置き換えるという彼の労働部分は、剰余価値を創造する追加的部分と較べても、質的には なんら異なるものではない。宝石加工においては、紡績と同様、剰余価値は、ただ、労働の量的超過分から生じる。延長されたその分から、そして同じ労働過程から生じる。一つの場合は宝石加工過程からであり、他の場合は、撚糸の製造過程からである。

 本文注: 熟練労働と、未熟練労働との区別は、その大部分は、純粋なる幻想の中にやすらかに眠っている。僅かに、こうも云えるだろう。区別は、とうの昔に実際上終了しており、伝統的習慣の思い出としてのみ生き返る。その区別は、その大部分は、ある労働者階級のグループの、どうにも救いようがない状況の中に、安らかに眠っている。その状況とは、彼等の労働力の価値とは違う労働力の価値があり、それらとの正確な平等から隔てられていることである。偶然的な情勢が、時に、大きな役を演じる。これらの二つの労働形式が時により、位置を変える。例えば、労働者階級の体力が悪化している地域では、そして、相対的に云うならば、疲れ果てている地域では、このことは、資本主義的生産がよく発達した全ての国にあてはまるが、その地域は、大きな筋力の支出を要望し、非常に繊細な労働形式に較べて、それが一般的に熟練した労働とみなされる。繊細な労働は、未熟練労働のレベルに沈下する。例を挙げるなら、レンガ積み工である。イングランドでは、ダマスカス織り職のそれよりもかなり高いレベルを占める。他方、分厚いファスチャン織りの剪毛労働は、大きな体力的作業を要望し、また同時に、非健康的なものだが、それでもただの未熟練労働とみなされる。そして、だが、我々は、国の労働分野において、いわゆる熟練労働が大部分を占めている分けではない ということを忘れてはならない。レイングは、イングランド( と、ウェールズ ) で、1,130万人の生活が、未熟練労働に依存していると見積もっている。もしも、彼が書いた当時の全人口 1,800万人から、我々が、貴族の100万人、生活困窮者、浮浪者、罪人、売春婦 他 の 150万人、中間層を形成する、465万人を差し引けば、上述の1,100万人が残る。だが、彼の中間層に、彼は、小さな投資による金利生活者、公務員、著述家、芸術家、教師、そしてそれに類する者を含めている。数を増やすために、彼はまた、この465万人の中に、工場の職工で多少良き支払いを受けている部分も含めているし、勿論、レンガ積み工の数もその中に入れている。( S.レイング 「国民の困窮」S. Laing: "National Distress," &c., London, 1844)
 大きな階級は、食物を得るために、普通の労働以外には、何も持っていない。彼等が、人々の大部分なのである。( ジェームズ・ミル James Mill, in art.:"Colony," Supplement to the Encyclop. Brit., 1831.)

(32) しかし、他方、あらゆる価値創造の過程において、熟練労働の平均的社会的労働への換算は避けられない。すなわち、熟練労働1日分は、未熟練労働の6日分にという具合に。
 本文注: 価値の尺度として、労働を参照するには、ある特殊な種類の労働を含める必要がある。他の種類のそれがどの程度の比率に耐えるかは、容易に突き止められる。("Outlines of Pol. Econ.," Lond., 1832, pp. 22 and 23.)
 従って、我々は、資本家に雇用された作業者の労働を、平均的未熟練労働であると仮に設定することで、我々自身から余計な検討を省き、我々の分析を単純化する。



[第七章 終り]