カール・マルクス


「資本論」 (第1巻)

 

訳者  宮 崎 恭 一

(1887年にイギリスで発行された版に基づく)

 

 

 

カール・マルクス

資 本 論


第一巻 資本の生産過程

第六篇 賃金


第二十一章 出来高払い賃金[Chapter 21]







  (1) 出来高による賃金は、時間賃金が、労働力の価値または価格から転化されたものであるのと同様、時間給から転化した形式以外のなにものでもない。

  (2) ちょっと見ただけでは、出来高払い賃金は、労働者の労働力の機能、生きた労働と言う労働者から買い取った使用価値ではなく、まるで、あたかも労働がすでに生産物に実現したところの労働者の使用価値のように見える。また、次式のような時間賃金として決定された労働の価格ではなく、

日労働力の価値 / 労働日として与えられた時間数

  まるで、あたかも生産者の労働の力量によって、ここに決定された労働の価格のように見える。*1 (訳者注: この生産者のところにこの注が付けられている。何故、labourer ではなくproducerとされているのかが 下の注にある。)

  本文注 *1「出来高払い労働シテスムは労働者の歴史における一つの画期的な時期を説明する。それは資本家の意図に依存する単なる日労働者と協同的な職人、遠くない将来、その職人たちをまとめると誓った職人と資本家とを一身に兼ねた職人との間の中間地点を示す。出来高払い労働者は事実上自分自身が主人なのである。雇用者としての資本家の下で働いているとしてもである。」(ジョン ワッツ 「商売社会とストライキ、機械と協同的社会」マンチェスター 1865年 52、53ページ)私がこの小さな指摘を取り上げるのは、それが遠き昔に言い古された言い草が腐って沈殿したものだと云いたいからである。この同じワッツ氏は初期にはオーウェン主義に傾倒し、1842年には別の小冊子「政治経済学の事実と虚構」を出版した。その中で、他のことはともかく、「財産とは略奪である。」と述べている事である。それは遠き昔の事。

  (3) この外観を信ずると云う自信は、直ぐに強烈なるショックを受け取ることにならざるを得まい。と言うのも、同じ産業の各部門において、両方の賃金形式が、隣り合わせで、同時に存在していると云う事実に直面するからである。例えば、

  (4) 「ロンドンの植字工は、一般的には、出来高払いで働く。時間給は例外である。一方地方では彼等は日賃金で働く。出来高払いは例外である。ロンドン港の船大工は、請け負いまたは出来高払いで働く、一方その他の全ての場所で働く彼等は日賃金である。*2

    本文注 *2 T. J. ダンニング 「各商売の労働組合とストライキ」ロンドン 1860年 22ページ 

  (5) ロンドンの同じ馬具製造所では、しばしば、同じ仕事に対して、フランス人には出来高払い賃金が支払われ、英国人には時間給が支払われる。出来高払い賃金が支配的である正規の工場において、特殊な作業に関してはこの賃金の形式が不適当であるとして、そのため時短給が支払われる。*3

    本文注 *3 この、隣り合わせの、同時の、これら二つの賃金形式の存在がいかにご主人様の詐欺に取って喜ばしいことか。「400人の人々を雇うある工場で、半分の仕事は出来高払い賃金で、長時間労働に直接的な関心を持たせる。残りの半分の200人は日賃金が支払われる。他の人々と同じく長時間働き、彼等の超過時間はなんの金銭も支払われない。…. これらの200人の一日半時間の労働は、一人の50時間の労働と同じである。または一人の一週間の労働の 5/6と同じである。そしてこれは、雇用する側にとってはまことに建設的なる (訳者挿入: positive) 利得である。」(工場査察報告書 1860年10月31日 9ページ)「超過時間労働は非常に多く依然として蔓延しており、ほとんどの場合、法が行う摘発や処罰から免れている。私は以前からの多くの報告書を見ており、…. 出来高払い賃金ではなく、週賃金を受け取る労働者を痛めつけていることは明らかである。(レオナード ホーナーの「工場査察報告書」 1859年4月30日 8、9ページ) (訳者注: 200人半時間分の総労働時間は云うまでもなく100時間でありここの時間計算にそぐわない。また労働日の長さによっては、一人週労働時間の5/6に合致しない。とはいえ、200人 15分として、また、工場法に従って、労働日を10時間とすれば全て適合する。工場査察官としての計算は多分正確に把握されていることであろう。)

  (本文に戻る) さらに加えておくが、賃金の形式の一つがもう一つの形式よりも資本主義的生産の発展にとって都合がいいからと云って、それらの賃金の支払い形式の違いがそれらの基本的な性質を少しも変えるものではないことは自明である。

  (6)  通常の労働日が12時間で、そのうちの6時間分が支払われ、残りの6時間が不払いであるとする。労働日の生産物の価値が6シリングであり、従って、1時間の労働が6ペンスであるとする。我々の経験から見て、我々は次のように考えるとする。一人の労働者が平均的な強度と技量で働くならば、彼はその品物の生産に事実上必要な社会的時間において、12時間労働で24個を作る。その品物が別々の物であれ、全体として一体のものであっても計量可能な部分であっても、どちらでもよい。その結果、これらの24個から、その中に含まれる不変資本分を差し引いた分が、6シリングであり、一つの品物が3ペンスとなる。労働者は品物当たり1 1/2ペンスを受け取る。そしてこのようにして12時間で3シリングを得る。丁度あたかも時間給としてこの価格を得る。彼自身のために6時間働き、資本家のために6時間働いたとする我々の見方は、そこでは、そうであろうと無かろうと一切問題にならない。また、毎時間の半分を彼自身のために働き、他の半分を資本家のために働こうと、一切問題にならない。かくてそこでは、各個別の品物の半分が支払われ、他の半分が不払いであろうと、また、12個分がその労働力の価値と等価であり、他の12個分が剰余労働を成しているとしても問題にならない。

  (7)  出来高払い賃金という形式は、時間賃金と同様、まことに不合理なものである。我々が取り上げた例では、2個の商品は、その生産に使われた生産手段の価値を差し引いた後、6ペンス、丁度一時間の生産物なのであるが、労働者はその出来高の価格として3ペンスを受け取る。出来高払い賃金は、事実、価値との関係を明らかに表わしてはいない。従って、その中に実現された労働時間によって、その品物の価値を量るという事ではなくて、逆に、彼が創り出した品物の数によって、彼がそのために費やした労働時間を量るというものである。時間賃金にあっては、労働は直接的にその長さによって量られ、出来高払い賃金にあっては、与えられた時間内に彼の労働がそのなかに実現した物の数によって量られる。*4

  本文注 *4「賃金は二つの方法によって決められる。労働時間またはその生産物のどちらかによってである。」(政治経済学の原理 概論 パリ 1792年 32ページ) 匿名の著作の著者は G. ガルニエである。(フランス語)

  (本文に戻る) 労働時間そのものの価値は、次の公式によって決められる。日労働の価値 = 日労働力の価値 によってである。出来高払い賃金は、従って、時間賃金の単なる変形形式に過ぎない。

  (8) さて、我々は出来高払い賃金の特異な性格について、ここで、もう少し詳しく検討して行くことにしよう。

  (9)  労働の質は、ここでは、労働そのものによって左右される。一つ一つの品物に対して十分に支払ってもらうためには、平均的な完全さが求められる。この観点から見れば、出来高払い賃金は、賃金減額と資本家的な詐欺の最もおいしい果実的源泉そのものとなる。

  (10) 出来高払い賃金は、資本家に、労働の強度を正確に量る方法を提供する。予め決めた商品の量に実現された労働時間、そして経験的に取り決められた労働時間のみが、社会的必要労働時間としてカウントされそのように支払われる。それゆえ、ロンドンの大きな仕立屋の作業場ではある一定量の労働、例えば一着のチョッキが1時間仕事とか半時間仕事とか呼ばれ、1時間仕事が6ペンスである。実際の仕事から1時間の平均生産物数がどの程度のものかが分かる。新たなファッションとか修理とかその他の場合とかは、主人と労働者の間でどの程度の出来高が1時間仕事なのか言い争いになる。そしてそれが経験によって決まるまで続く。その結果、ロンドンの家具工場他では、もし労働者が平均的な能力を持っていないとか、一日の労働で一定の最低数を達成できないとなれば、彼は解雇される。*5

  本文注 *5「それなりの量の綿が彼(紡績工)に渡される。」「そして彼は一定時間で、そこにおいて、(フランス語) 与えられた重量の、一定の出来ばえの、より糸または撚糸を、返さなければならない。そしてその彼が戻したものの重量に応じて、その分が彼に支払われる。もし彼の労働が品質において欠陥があれば、ペナルティが課せられる。もし与えられた時間内で最低量として決められた重量よりも少なければ、彼は解雇され、よりできそうな労働者が斡旋される。」(ユア 前出 317ページ)

  (11) かくして、労働の質と強度は、ここでは、賃金の形式そのものによって制御され、労働監督者は全くの余計者となる。その結果、出来高払い賃金は、前に述べた 近代「家内労働」の基礎を布設する。搾取と抑圧の上から下への組織的な階級システムと云ったものの基礎を構築する。後者の階級システムには二つの基礎的な形式がある。その一つは、出来高払い賃金は資本家と賃労働者の間に寄生者が介入することを容易にする。つまり「下請け労働」である。中間者の利得は、全くのところ、資本家がその労働価格として支払う額と、中間者が労働者に実際に渡す部分の額との差額から生じる。*6

    本文注 *6「何人かの手を経由して、その手のそれぞれが利益の分け前を分捕り、最後の者だけが労働すると云うことになると、その最後の女性労働者に届く支払い額は不公平甚だしい惨めな額となる。」 (児童雇用調査委員会 第二次報告書 1xxページ ノート424)

  (本文に戻る) 英国では、このシステムに独特の言葉を当てる。「汗のシステム」 (sweating system) と。もう一つの形式はこうである。出来高払い賃金は、資本家をして、その出来高ごとに労働者の頭と契約することを許す。−工場手工業主と労働者のグループの頭と、炭鉱主と石炭搬出者と、工場主と実際の機械管理工と、− 労働者の頭が、自分で、補助労働者たちを徴集し、賃金を支払うことを請け負う額において契約がなされる。*7

    本文注 *7ワッツですら、謝罪を込めてこう云う。「もし、一人の人間が彼自身の利益のために大勢の仲間に過重労働を課すのではなく、その仕事に雇用され全ての者がパートナー契約に基づいて、それぞれが彼の能力に応じて働くならば、出来高払い賃金システムは大いに改善されるであろう。」(前出 53ページ) このシステムの悲惨さは、以下を参照されたし。「児童雇用調査委員会 第三次報告書」 66ページ ノート22、22ページ、11ページ ノート124、xiページ ノート13、 53、 59 他

  (12) 与えられた出来高払い賃金は、ごく当たり前に、彼の労働力を出来うるかぎり高い強度で発揮することに個人的な関心が行く。だからこのことが資本家をして、より容易に労働の強度の一般的な度合を高めることを可能にする。*8

  本文注 *8 この自然発生的な結果は、往々にして人為的に助長される。例えば、ロンドンの機械製造業での、いつものトリックはこうだ。「体力に優れ、敏捷な者を選んで、何人かの労働者の職長に選び、上乗せ分を加算した賃金を四半期またはその他の期間支払い、通常の賃金しか支払われない他の労働者を、彼に追い付くようにできるだけ仕向けるように彼自身をして力を発揮すること了解させた上で、…. 以下何の説明も不要、これこそが雇用主から労働者に向けられた不満の数々をどこまでも説明している。無駄を省き、優れた技量で、持続力をと。」(業界労働組合 ダニング誌 既出 22、23ページ) 著者自身が労働者でまた業界労働組合の書記であるから、誇張があると思われるだろう。しかし、読者は「特別なる尊敬を受けている」「農業百科辞典」 J. C. モートンの論作の「労働者」をとり上げたところと較べてみるといい。そこにはこの方式が農業労働者に対して公認された方法であると推奨されている。

  (本文に戻る) それ以上に、現実に、労働者の個人的興味として労働日を長くすることに向かう。何故と云えば、それによって彼の日または週賃金が上がるからである。*9

  本文注 *9「出来高払い賃金を支払われる全ての者は、…. 労働の法的な制限を逸脱することで利益を得る。超過時間労働をいとわないこのやり方は、織り工や糸巻き工として雇用される女性たちに特に適用しやすいことが分かる。」(工場査察報告書 1858年4月30日 9ページ) 「このシステム」(出来高払い) は、雇用主にとっては非常に有利なもので、…. 直接的に若き陶工をして過重労働に自分自身を追い込むことになりやすい。出来高払いで雇用された4年ないし5年の期間そのようにして働く、それがなんと低賃金であることか。…. これは、…. また、他面から見れば、陶工たちを縛りつける不健康の大きな原因なのである。(児童雇用調査委員会 第一次報告書 xiii ページ)

  (本文に戻る) この事がゆっくりと反作用をもたらす。時間賃金のところですでに述べたことと同様である。労働日の延長に気付かなくても、出来高払い賃金が一定に留まるとしてさえも、生活必需品も含めて、労働の価格は低下する。(訳者小余談: ここの向坂訳は、意味をなさない。「それとともに、すでに時間賃金の場合に述べた反動が現れる。労働日の延長が、出来高賃金は不変のままである場合にも、それ自体として労働の価格の低下を含むということは別としてである。」 これでは、到底、デフレの原因までには行き着かない。)

  (13) 時間賃金の場合、僅かな例外を除いて、同一賃金が同じ種類の作業に関して保持される。一方の出来高払い賃金は、出来高に関する時間は、一定量の生産物によって計量されるため、ある者は与えられた時間に最低量の生産物のみを供給し、他の者は平均の、第三の者は平均以上を供給するから、日または週賃金は個々の労働者の違いによって変化するであろう。従って、実際の受け取り額には大きなばらつきが、各労働者それぞれの異なる 技量、力、努力、持続力 他によって生じる。*10

  本文注 *10「あらゆる商売で、仕事に応じて出来高払い賃金が支払われる所では、…. 賃金は非常に実質的にその額は異なるかも知れぬ。…. しかし日賃金の場合は、一般に一定の率で、…. 雇用主や雇用者の双方から、その商売で普通に働きつづけの労働者にとっての賃金の基準として認められている。(ダニング誌 既出 17ページ)

  (本文に戻る) この事が、一般的な資本と賃労働の関係を変えることは、勿論ない。第一に、個々の違いは、工場全体として均分され、与えられた労働時間内に平均的な生産物量を供給する。そして支払われる全賃金は、その工業の特定の部門の平均賃金となるであろう。第二に、賃金と剰余価値間の比率は不変のままである。各特定の労働者から、それぞれが各対応分を賃金として受け取った労働者から、剰余労働の全量が供給されるからである。しかしながら、広い視野で見れば、出来高払い賃金は一方では個々に個性を、自由のセンスとか、独立性とか、また、労働者の自己制御性など発展させることになるが、その反面、互いに競争しあうことにもなる。それゆえ、出来高払い賃金は個々の賃金を平均以上に高める傾向を示す。またそれ故、平均そのものを(訳者挿入: 相対的に)引き下げる。だから、長い期間伝統的に特別なる比率の出来高払い賃金が固定化している所で、かつそれゆえ、その減率を提示することが極めて困難な場合、ご主人様は、そのように例外的な場合、強制的に時間賃金への移行という回帰を図る。かくて、例えば、1860年、コベントリーのリボン織り工の間で広がったストライキはこれらの問題に起因する。*11

  本文注 *11「旅職人の仕事は、日給または出来高払い賃金と決められている。これらの親方職人は各職種で1日当たり旅職人がどの程度できるかは知っており、大抵は、彼等がこなす仕事に応じて彼等に支払う。であるから、旅職人はでき得る限り働き、受け取り額だけに関心があり、それ以上のことについては何の気にもかけない。」(カンティヨン 「各商売一般に関する検討」(フランス語)アムステルダム版 1756年 185ページ、202ページ 初版は1755年) ケネー、ジェームス スチュアート、そしてアダム スミスらは、カンティヨンから多くを引用しているが、当のカンティヨンはそこで既に、出来高払い賃金は単純なる時間賃金の変形であると述べている。フランス語版で、カンティヨンは、そのタイトル部分で、英語版からの翻訳であると述べているが、英語版「商売、商取引 他に関する分析」最近のロンドンシティの商人 フィリップ カンティヨン著 は発行年(1759年)が最近であることのみではなく、その目次から、それが最近の改定版であることを証明している。すなわち、フランス語版ではヒュームについてはまだ触れられていないが、これに対する一方の英語版ではペティはほとんど姿を見せない。英語版は理論的には重要性はほとんどないが、英国商業 金塊商売他に関する多くの細部が含まれており、これらについてはフランス語版には入っていない。英語版のタイトルページにある文字、この著作は、「主に、卓越した知性を持つ紳士、すでに物故したが、その原本から主に引用された改作である云々」は、それゆえ、虚構のように見えるが、当時はごく普通のことなのである。

  (本文に戻る) 出来高払い賃金は結局のところ、前章で記述した時間賃金システムを支える主な柱の一つなのである。*12

    本文注 *12「ある作業場で、その作業に実際に求められる人数より遥かに多くの人間が募集されたか、我々はそれを何度見たことか? 多くの場合、労働者たちは将来の、実際に実現することもない将来の仕事に集められたのである。なぜならば、出来高払い賃金だからである。なんのリスクもなく、無駄な時間は仕事をしない者のリスクなのだから。」(H. グレゴワール 「ブルッセルの準備法廷に出頭した印刷工たち」ブルッセル 1865年 9ページ)

  (14) これまで示してきたところから、次のようなことがはっきりする。出来高払い賃金は、資本主義的生産様式にもっともよく調和する賃金形式であると。とはいえ、新しいものでもなんでもない。−出来高払い賃金は時間賃金に寄り添って、14世紀のフランスや英国の労働規則として公式に記されている。それが大きな領域を制することになったのはまさに工場手工業の時代と呼ばれる頃のことに過ぎない。近代工業の青雲の頃、特に1797年から1815年にかけての頃で、それが労働日の延長と賃金切り下げの梃子の役割を果たしたのである。この時期の賃金の変動を示す重要な材料が、青書「穀物法にかかる嘆願についての特別委員会報告書と証拠」(1813-14 年の議会会期期間) それと「穀物の成長状況、商業取引、消費、及び関係諸法規に関する国王臨席委員会報告書」(1814-15年の議会会期期間) の中に見出だされる。ここで、我々は、反ジャコバン戦争が始まった頃からの労働価格の打ち続く低下の文書証拠を見つける。例えば織物業では、出来高払い賃金が非常に低い状態まで低下し、その一方で労働日の非常に大きな延長があるにもかかわらず、日賃金は以前よりも低くなったのである。

  (15) 「織物工の実際の稼ぎは今では、かってよりも遥かに少ない。彼の、普通の労働者に較べての優越は、最初は非常に大きなものであったが、今ではもうそれもほとんど無くなった。まさにその通り…. 技量を持った者と普通の労働者との違いは以前の時期と較べれば、遥かに少ない。」*13

  本文注 *13「大ブリテンの商業政策に関する評論」ロンドン 1815年

  (16)  出来高払い賃金による労働強度の増加と労働時間の延長は、農業労働者には何の益も無いものだった。領主と借地農業主の側から書かれた著作には、次のような文章がある。

  (17) 「遥か昔からずーっと、大部分の農作業は日賃金または出来高払い賃金によって雇われた人々によって行われていた。彼等の週賃金はおよそ12シリングである。しかし、労働への刺激が大きい出来高払い賃金の下では、週賃金よりも1シリングまたは多分2シリング多いと思われるかも知れない。ところが、彼の全収入について計算して見れば、年間では彼の雇用が欠落する部分があって、この利得がことの他大きいことが見つかる。(訳者注: マイナスのそれ) … さらに、次のことも見出すこととなろう。これらの人々の賃金は、生活必需品の価格のある一定部分を成すため、彼は、行政地区の生活給付を受けずに、家族の二人のこどもたちを育てるのに精一杯である。」*14

  本文注 *14「大ブリテンの地主と借地農業者の弁明」1814年 4、5ページ)

  (18)  当時、マルサスは、議会が公表した事実に関して次のように述べた。

  (19) 「私は、出来高払い賃金の実行がかくも大きく広がっていることを心配しながら見ていることを告白する。日12時間から14時間、またはそれ以上に及ぶ労働は非常に過酷であり、人間としてあまりにも過重な労働であると思っていることを告白する。*15

  本文注 *15 マルサス「地代の性質と進歩に関する研究」ロンドン 1815年

  (20)  工場法下にある作業所では、出来高払い賃金が一般的なルールとなる。何故かと云えば、資本にとっては、その賃金形式のみが労働強化によって労働日の効率を増やすことができるからである。*16

  本文注 *16「出来高払い賃金を支払われる者たちが、…. 多分、工場に於ける労働者の4/5を占めるだろう。」 (「工場査察報告書」 1858年4月30日)

  (21)  労働生産性の変化に応じて、同じ量の生産物が様々な労働時間を表す。であるから出来高払い賃金もまた変化する。なぜなら、それが決められた労働時間の貨幣表現だからである。前に示した我々の例では、12時間に24個の品物が生産され、一方、12時間の生産物の価値は6シリングであった。労働力の日価値は3シリングで、一労働時間の価格は3ペンス、品物1個当たりの賃金は1 1/2ペンスであった。1個には半時間の労働が吸収されていた。今、もし同じ労働日の労働生産性が2倍になったことで、24個に代って48個を供給するとしたら、他の状況が不変であるとすれば、かくて1個あたりの出来高払い賃金は1 1/2ペンスから 3/4ペンスに下落する。あらゆる品物が、今では、1/2労働時間に代って単に1/4労働時間を表すのであるから。24個×1 1/2ペンス=3シリングが、今では48×3/4ペンス=3シリングなのだから。別の言葉で云えば、同一時間で生産される個数が増える割合に応じて、出来高払い賃金は引き下げられるから。*17

  本文注 *17「彼の紡績機械の生産力は正確に計量され、それによって成された仕事に対する支払い率は、その生産力の増加とは逆に減少する。」(ユア 前出 317ページ) このユアの最後の謝罪的な文章は彼自身によって、再び、取り消された。ミュール紡績機を大きくすればある程度労働の増加になることを彼は認めている。従って、生産性の増加と同じ比率で労働が減少しない。さらに、「この機械の生産力の増加が1/5であるとしたら、事実そうなったとしても、紡績工には以前のように同じ比率で支払われることはないであろう。しかしその1/5の比率と同じ比率で引き下げられることはないであろう。この改良がある与えられた時間の労働に対する彼の稼ぎ額を大きくするであろう。」しかし「前述の発言は多少の変更が必要…. かの紡績工は多少の額を年少の見習い工に彼の付け加えられた6ペンスの中から支払わねばならず、また成人労働者の何人かの失業も伴っている。」(前出 321ページ) それらに、賃金を上げる傾向は見当たらない。

  (本文に戻る) そして、それゆえ、同じ個数に必要な時間は減少する。出来高払い賃金におけるこの変化は、純粋に名目額に関する限りにおいて、資本家と労働者の間の絶え間ない戦いを引き起こす。なぜかと云えば、一つは、資本家は現実に低下した労働の価格の言い訳としてこれを用い、もう一つは、増加した労働の生産性そのものに労働の強度の増加が伴っているからである。この両者があるからである。または、労働者たちは出来高払い賃金の実際の額に強い固執があり、(すなわち、彼の生産物に対して支払われるものであって、彼の労働力に支払われるものではないとして)そして、それゆえ、当該商品の売値の低下がないにもかかわらず、一方的な賃金の低下に対しては反抗するからである。

  (22) 「労働者たちには…. 原材料の価格や生産物の価格を注意深く観察しており、そして、彼等のご主人らの利益を正確に見積もる計算の方法が、かくして、備わるようになる。」*18

  本文注 *18 H. フォーセット「英国労働者の経済的地位」ケンブリッジ と ロンドン 1865 178ページ

  (23)  資本家は、そのような抗議は、賃労働の本質にかかる大きな思い違いであると、一瞬にして、端から、はねつける。*19

  本文注 *19「ロンドン スタンダード紙」1861年10月26日付けに、ロッジデール治安判事に提出された ジョン ブライト協同会社の訴訟の記事がある。 「カーペット織工労働組合代表を脅迫の罪で告訴するとある。ブライト社の協同経営者が新しい機械を導入した。その機械は、以前は160ヤードのカーペットを生産するに要した時間と 労働!で240ヤードを作り出す。労働者には新たな機械の改良に雇用主が投資したことから生じる利益を分け合うことに関しては何らの請求権もない。そこで、ブライト旦那達は、以前と同じ労働なのであるから、以前と正確に同じ稼ぎのままとして、1ヤード当たり1 1/2ペンスの比率を下げて1ヤード当たり1ペンスとする案を提出した。しかし実際には労働者数の減員狙いで、そんなことは以前にはなにも知らされておらずフエアではないとの抗議がなされた。」

  (本文に戻る) 彼、資本家は、これについて、工業の進歩に税金を課すようなとんでもない代物であると、わめくのである。そして労働生産性は労働者には一切関わりのないことと大声で宣言するのである。*20

  本文注 *20「労働組合の連中は、賃金を維持したいばっかりに、機械改良の利益を分捕ろうとする。」(なんとおぞましいことか!)(フランス語)「…. 労働が少なくなったのに、より高い賃金を要求する。他の言葉で云えば、機械的な改良に税金を掛けると云うものだ。」(「商売等の結合について」新版 ロンドン 1834年 42ページ)







[第二十一章 終り]





  訳者余談: 章が終わったのにまだ読ませるのか。まるで税金を課せられるようだ。と言われかねないところだが、読まなくてもいい程度の余談だから、許してもらいたい。

  生太郎といっても大抵の人は記憶もないだろうが、彼がこう云って、それを撤回したニュースには思い当たるかも知れない。「ナチスは静かに、憲法に従って、ワイマール憲法をナチス憲法に替えたのである。静かに、こともなく、、気がついたら憲法が替わっていた。このやり方を見習ったらいい。」(入力ミスではない)

  ほとんど歴史を正確に学ばせない現社会の教育過程からは、生太郎の冗談もどきの話に、つきあい笑いをする程度の反応しか示し得ないとしても仕方がない。 

  デザイン講座の、第二時間目には、ワイマールに誕生した新しいデザイン学校 グロピウスのバウハウスが来る。そのデザインの近代性には、これがデザインなのかと身を震わす。バウハウスの教授たちの新鮮な教育方法もまた世界そのものを変える程のものがあった。今の自分には及びも付かない世界を見出す。そのバウハウスをある日ナチス親衛隊が訪れ、何人かの教授を名指しして、追放を命じる。ユダヤ人だからである。教授たちを失ったバウハウスは廃校する他なかった。ユダヤ人はやはり何か問題があったのだろう。これで2時間目が終わる。3時間目は口紅から機関車まで レイモンド ローイの英文読解となる。バウハウスはやはり一時期で終わるべき存在だったのだ。と頭はすっかり入れ代わる。思い出せば恥ずかしい限りである。この程度のデザイナー馬鹿が出来上がる。 

  資本論には、労働者に対する資本家の威喝がそこここに散らばっている。賃金を払ってやる。機械の改良は資本家の投資額でなりたっており、労働者にはなんの権利もない。文句をつけるなら解雇するぞ。今も同じセリフが吐かれ、ブラック企業野郎と返されている。実は資本家も心底自らの存在を否定しかねない相手に今も昔も怯えている。追及するのを危険と感じさせながらも、それでは終わらないと怯えているのだ。 

  ナチスを作り出したのは他でもない。資本家たちである。総選挙でナチスと共産党が躍進した。資本家が選挙で選出された共産党をどれほど恐れたかは、ナチスに共産党を排除するよういかに工作したかで分かる。君主制の地主たちの力も借りて、ヒンデンブルグ大統領の特権も利用して、ナチスになんでもできる特権を付与したのだから。共産党を非合法化し、壊滅的な粛清を行った。あとはナチスの人種差別の場となり、敗戦国を戦勝国にする狂気の場となった。スターリン ロシアと云う反資本主義国があって、そのせめぎ合いもヒットラーを利用すると云う側面があった。日本の中国侵略や朝鮮植民地化もあってドイツ・イタリア・日本の三国同盟も誕生し、大きな世界戦争へと突入して行った。米英資本の自由を維持するためにも、ナチスとの戦争は避けて通れない。日本軍の狼藉も許すことはできない。戦争はまた資本の大きな膨張の場でもある。今やアメリカは世界の警察官と言われるようになり、戦争から抜け出せない。原子力の平和利用という軍備直結の商売から抜け出せない。

  そして、資本の存在そのものを棄却する歴史が進展していることを、その中を生きていることを、知り、今我々は戦っているのである。生太郎の反面教師が歴史を改めて教えてくれる。共産党が今回の参院選で少し伸びた。資本はなんの脅威も感じていないように振る舞うが、ドイツ共産党のような飛躍があれば、右翼の維新を利用する資本家の策謀が登場するのは必至であろう。自らの悪政で片方に共産党を育て、それをつぶすことに必死にならざるを得ない資本の宿命が見えて来る。世界の対資本主義包囲網に怯えながら生き延びようとする資本をして己を抹消させなければならない。





   

[第二十一章と余計な訳者余談を含めての再度の 終り]