1887 Karl Marx
English Edition "Capital"  Translated by Samuel Moore and Edward Aveling,Edited by Friedrich Engels

Chapter 24

カール・マルクス

資 本 論


第一巻 資本の生産過程

第七篇 資本の集積


第二十四章 剰余価値の資本への変換
[Chapter 24]


第一節 累進的に規模を拡大する資本主義的生産。
商品生産を特徴づける所有法則の
資本主義的私物化法則への推移

  (1) これまで我々は、いかにして資本から剰余価値が飛び出してくるかを調べてきた。さて今我々は剰余価値からいかにして資本が発生するかを見なければならない。剰余価値を資本として用いること、剰余価値を資本への再変換は、資本の集積と呼ばれる。*1

  本文注 *1: 「資本の集積、収入の一部を資本として用いること」(マルサス 「定義、その他」ケイズノーブ版 11ページ)「収入の資本への変換」(マルサス 「政治経済学の原理」第二版 ロンドン 1836年 320ページ)

  (2) まず最初に我々は、この変換を資本家個人の立場から考えてみよう。ある紡績業者が1万英ポンドを前貸ししたと仮定しよう。そのうちの4/5 (8,000英ポンド) は綿や機械他に、そして1/5 (2,000英ポンド) を賃金に前貸ししたと仮定しよう。彼に年12,000英ポンドの価値をもつ24万重量ポンドの撚糸を生産させるとしよう。剰余価値率を100%とすれば、その剰余価値は剰余生産物または4万重量ポンドの撚糸に存在しており、全生産物の1/6を占め、2,000英ポンドの価値を有している。それを売ることによってその剰余価値は実現される。その2,000英ポンドはただの2,000英ポンドである。我々はその額の貨幣の中に剰余価値の痕跡を見出すことも嗅ぎ出すこともできはしない。そのある与えられた価値が剰余価値であると知ったとしても、どのようにしてその所有者がそれを入手したかを知ったとしても、その貨幣やその価値の性質を変えるものではない。




  訳者余談 久しぶりに追いかける必要がある数字が来た。賃金に1/5を前貸しし、総生産物の価値の1/6が剰余価値となるこの設定計算が面白い。1/5がどういうわけか、1/6と云う剰余価値率100%の剰余価値を生むのである。いや訳者当人はこの1/5から1/6のなんとやらを生む独特の直接的な一般計算式も作れるんじゃないかと思ったのだ。そうしてついに発見した、
  1/5×100% / (1/5+4/5+1/5×100%) = 1/6である。この計算式の意味が分かったとて別にどうと云うこともないが、不変資本、可変資本、剰余価値、剰余価値率を再度確認してもらいたいので、ちょこっと無駄を加えた。まあ、こうした繰り返しが頭を整理する。意味が分からない人には、丁寧に、分かり易く、繰り返しご説明申し上げ、ご理解をたまわりたい所存である。秘密はなく、理解できない人でも検挙されることは断じてありませんので、なんの心配も不安も絶対にありません。そこで派遣労働者の剰余価値率を200%とすると、1/5はいかなる剰余価値を生み出すか。これは資本主義的生産様式の特定秘密に属する。だから、それを漏らすことはここではできない。各自がこっそりと秘密を解明することは誰も妨げることができない。1/3.5になるのではないかってえ。知るか。(訳者のこの部分の英作文をお見せしよう。Necessary to know nothing! 資本論について尋ねると、ブルジョワジーとその取り巻き連中は必ずこう言う。)


 

  (3) この新たに追加された2,000英ポンド分を資本に変換するために、紡績業主は、全ての事情が以前と同じものとすれば、その4/5 (1,600英ポンド) を綿その他の購入に前貸しし、そして1/5 (400英ボンド) を追加する紡績工たちの購入に前貸しするであろう。紡績工たちは市場で生活必需品を見つけることになるだろう。その価値は紡績業主が紡績工たちに前貸ししたその分である。

  (4) かくして、新たな資本 2,000英ポンドは紡績工場で機能し、今度は、剰余価値 (400英ポンド)をもたらす。

  (5) 当初、資本価値は貨幣形式を以て前貸しされた。これとは違って、剰余価値は最初は全生産物のある一定部分の価値である。もしこの全生産物が売れ、貨幣に変換されれば、資本価値はその最初の姿を再取得する。この瞬間から、資本価値と剰余価値は共に貨幣額となる。そしてそれら両者の資本への再変換は全く正確に同じ過程を経る。一方も、他方と同様、資本家によって、新たな彼の品物の製造の開始地点に彼をして立たせる様々な商品の購入に支出される。ただ今度はより拡大された規模において支出される。しかし、それらの商品を購入することができるためには、彼はすでに市場に持ち込まれているそれらのものを見つけ出さねばならない。

  (6) 彼が所有する撚糸が流通するのは、他の全ての資本家が彼等の商品に対してするのと同じ様に、唯一の理由ゆえである。彼が彼の年生産物を市場に持ち込むからである。しかし、これらの商品は、市場に来る以前に、すでに全一般年生産物の一部を成していた。あらゆる種類の全量の品物群の一部を成していた。そこに個々の資本の総額が、つまり社会の全資本が入り込んで居り、それらが年間に変換されたものであり、それは個々の資本家がその一片部分を所有していると云うものである。市場の取引は単に、この年生産物の個々の部分をある者の手から他の者の手へ移管するという交換のみを取り扱う。それだけで、全年間生産物を増大させることもできはしないし、その生産物の性質を変えることもできはしない。であるから、全年間生産物によって出来上がったその利用法はそれら自体の構成に全面的に依存しており、流通の上に成り立っているものではない。

  (7) 年生産物は、とにもなおさず、それらによって、年間に更新されねばならない資本の物的構成要素である諸々の物(使用価値)を供給しなければならない。これらのものを除き、そこに残ったものは純益生産物または剰余生産物であり、その中に剰余価値がある。さて、この剰余生産物にはどのようなものが含まれているのだろうか? 資本家階級の欲望や名声を満足させる宿命的な物のみ、その結果として、それらのものが資本家の消費財源となってしまうもののみであろうか? もしそうだとすれば、剰余価値が入ったコップから泥水を捨てるがごときことになってしまう。ただの単純再生産が続くだけになってしまう。(ここの英文の訳も単純ではない。英文はwants and desires 向坂訳は 欲望や欲情 資本家の根本的欲求は明解だから、ここで欲求は使いにくい。向坂訳の欲情の方がやつらには正訳かも。余談を追加すれば、病院資本から選挙時点で大金を渡された社会派作家を標榜する都知事候補はこれを資本家のよくある名声ぐせとして受け取り、自らの生活保護のために貸し金庫に飾ったが、当選後、あまり役にも立たないので返したと云う。だが、そのような認識を議会から問われ、都知事を辞職することになった。これが根資本家的社会派作家の欲求なのか、欲望なのか、欲情なのか、名声なのかについては、彼の口からは恥ずかしくて言えたもんじゃない。私がすんなり云えば、賄賂と収賄、資本家と政治家のいつものことである。)

  (8) 集積とするためには、剰余生産物の一部を資本に転化する必要がある。しかし、奇跡以外には、それを資本に転化することは出来ない。ただその品物を労働過程(すなはち生産手段)に用いることだけしか転化の方法はない。また、それらの品物をさらに労働者の生存に合致するもの(つまり生存手段)に用いることだけしか転化の方法はない。(訳者小余談: さらにの英文はfurther で 向坂訳では、そのほかには となっている。両方が同時に必要であることを、向坂訳ではこれとそのほかと二つを別々にしていてそのいずれかのように読めてしまう。)であるから、前貸しした資本を返済するに必要なそれらの量の他の年間剰余労働の一部分は追加的な生産手段と生存手段の生産に用いられなければならない。一言で云えば、剰余価値はそれがそのまま剰余生産物であるが故に、資本に変換されうる。その価値がすでに、新たな、物質的な資本要素を持っているからである。*2

  本文注 *2: 我々は、ここでは、貿易取引を度外視する。貿易取引によって国は奢侈品を生産手段や生活手段に変換したり、その逆の変換をしたりするからである。我々は、我々の考察対象を厳密に捉えるために、また攪乱をもたらす些細な状況などに惑わされることなく捉えるために、我々は全ての世界が一つの国であるかのように、また資本主義的生産が全域において確立しているものと仮定し、それがあらゆる産業分野に行き渡っているものと仮定して取り扱わねばならない。

  (9) さて、ここで、これらの要素を実際に資本として機能させるためには、資本家階級は追加的な労働を必要とする。もし、労働者たちの搾取がすでに時間延長でも労働強化のいずれでも増やすことがすでにできなくなっているならば、その時は追加的な労働力が見出されなければならない。このために前もって資本主義的生産メカニズムが用意されている。労働者階級をして賃金に依存する階級に転化している。その階級の通常賃金は、その保持のためのみならず、その増加のために足るものともなっている。資本にとって唯一必要なことはこの追加的な労働力を、あらゆる年齢の労働者と云う形式をもつ労働者階級によって年に供給される労働力に、年間の生産に含まれる余剰生産手段とともに一体化することだけである。かくて剰余価値の資本への転換は完璧なものとなる。その現実の視点に立って見れば、集積そのものは漸進的にその規模を増していく資本の再生産であることが見えてくる。単純再生産が循環するこの輪がその姿を変え、そしてここでシスモンディの表現を使えば、螺旋形にその姿を変える。*3

  本文注 *3: シスモンディの、集積の分析は大きな欠陥を背負っている。彼は彼自身の「収益の資本への変換」という文句に限りなく満足しすぎていて、この運動の物質的条件を探ることがなかった。

  (10) それでは我々は我々の説明例に戻ることにしよう。それは古い話である。アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、それからそれと続く話である。当初の資本1万英ポンドは剰余価値2千英ボンドをもたらした。それは資本化された。新たな資本2千英ポンドは剰余価値400英ポンドをもたらした。そしてこれも資本化された。二度目の追加的な資本に転化されたそれらは、今度はさらなる剰余価値80英ポンドを産み出す。そしてそのようにボールは転がり続ける。

  (11) ここでは、我々は、資本家によって消費される剰余価値部分については考えないこととする。しばらくの間、我々は以下のことも考えない事とする。追加的資本が当初の資本に合体されるか、独立した機能を発揮するためにそれから分離されるかや、それを集積した資本家がそれを用いるか、またそれを他の資本家に手渡すかはどうでもいい。我々が忘れてはならない唯一の点は、新たに形成された資本と並んで、当初資本もまた自己の再生産を続けており、そして剰余価値を生産することを続けていることであり、すべての集積された資本がそれを継続していることであり、追加される資本もまたそれによって産み出されると云うことである。

  (12) 当初の資本は前貸しされた1万英ポンドによって形成された。いかにしてその所有者はそれを所持することになったのか? 「彼自身の労働と先祖たちのそれによって」と云う答えが政治経済学のスポークスマンから満場一致で返ってくる。*4

  本文注 *4:「当初の労働、そこに彼の資本の起源がある。」(フランス語) シスモンディ 前出 パリ版 第一巻 109ページ

  (本文に戻る) そして、事実、彼等の根拠もない説が商品の生産にかかる法則にただ一つ適うものとして生じる。

  (13) しかし、追加的資本2,000英ポンドに関しては全く別物である。それがどのようして生じたかは、我々はその一部始終を完壁に把握している。そこには、その実体が不払い労働に起因していない価値の一分子も存在しない。労働者たちを維持する生活必需品ともども、追加労働力が一体化された生産手段は、他でもなく、剰余生産物の構成要素なのである。資本家階級によって労働者階級から毎年厳しく取り立てられた貢ぎ物の構成要素なのである。後者がその貢ぎ物の一部をもって追加的労働力を購入するということになれば、たとえそれがその全価格で購入されるとしても、等価物と等価物が交換されるとしても、依然として、その取引は全くもって、彼等が被征服者から盗んだ貨幣をもって被征服者から商品を買うと云う征服者の古き詐術以外のなにものでもない。

  (14) もし、その追加的資本が、それを生産した者を使用するとしたら、この生産者は、当初資本の価値を増大し続けなければならないばかりでなく、かれの以前の労働の果実を、その果実に費やした労働以上の労働をもって買い戻さねばならない。資本家階級と労働者階級との間の取引として見れば、以前に雇用された労働者たちの不払い労働によって追加的労働者たちが雇用されると云ったとしても違った言い方にはならない。資本家は追加的資本を、その追加的資本の生産者たちを仕事から放り出すことになる機械にさえも変換するかも知れない。そして彼等労働者たちを二三人の子供たちと置き換えてしまいかねない機械にさえも変換するかも知れない。いかなるケースにおいても、労働者階級はその年の剰余労働によって翌年には追加的労働を使用するように運命づけられた資本を創造するのである。*5

  本文注 *5:「資本が労働を使用する前に、労働は資本を創造する。」E.G. ウエークフィールド 「英国とアメリカ」ロンドン 1833年 第二巻 110ページ

  (本文に戻る) そして、これが、資本から資本を創造すると言われている所のものである。 

  (15) 最初の追加的資本である2,000英ポンドの集積は、資本家に所属する彼自身の徳をもって始まる「そもそもの労働」なる一万英ポンドの価値と、彼によるその前貸しを前提とする。第二の400英ポンドの追加的資本は、これとは違って、以前の集積である2,000英ポンドだけがその前提であり、その2,000英ポンドの剰余価値の400英ポンドが資本化されたものである。これをもって以後、過去の不払い労働の占有が、生きた不払い労働の私物化の唯一の条件となり、その規模を着実に増大させている。資本家が集積すればする程、彼はより集積することができる。

  (16) No.1の追加的資本の価値を構成する剰余価値が、当初資本の一部によって購入された労働力の結果である限りでは、その購入は商品の交換法則に適合する。そして、法的視点からは、自由な取引以上のなにものも前提されてはいない。労働者の側からは彼自身の能力であり、貨幣や商品の持ち主の側からは彼に属する価値である。No.2以降の追加的な資本が、No.1の単なる結果であり、従って、前記の条件の結果である限りにおいては、それぞれの各単一の取引が一定不変に商品の交換法則に適合する限りでは、資本家は労働力を買い、労働者はそれを売る。我々もそれぞれの価値がその通りであると仮定しておく。これらの全てが正当である限りでは、私物化または個人的な財産の法則が、商品の生産や流通に基づく法則が、それら自体の内部的かつ冷徹なる弁証法によってそれらとは全く対立するものとして表れることは明らかである。等価物の交換、我々が始めた当初の交換操作は、今や、ぐるりと回って、ここに表れたように、単なる外観的な交換となった。このことは以下の事実に起因している。まず第一に、労働力と交換された資本が、それ自体ではなく、等価交換されたものではない私物化した他人の生産物の一部だからである。第二には、この資本がその生産者によって置き換えられねばならないのみならず、剰余も含めたものと置き換えられねばならないからである。資本家と労働者の間に存在しているこの交換関係は流通過程に関する単なる見せかけとなる。単なる形式、取引の真の性質からかけ離れたもの、単なるその神秘化である。絶えず繰り返される労働力の買いと売りは、かくして、単なる形式となる。実際に起こっていることはこうである。−資本家は何回も何回も、等価交換なしに、以前に物質化された他人の労働を私物化し、これをもって生きた労働の大きな量と交換する。最初は私有財産の権利が、我々には、その人自身の労働に基づいているように映る。わずかにそのような見方が必要なのは、互いに同等の権利として他人と直面する商品所有者たちで、それが、他人の商品を、自分自身の商品を手放すことによって獲得する唯一の手段だからである。そしてこれらのものは労働よってのみ置き換えられることができるからである。今では、しかしながら、財産が資本の側では他人の不払い労働またはその生産物を私物化する権利にすりかわる。そして労働者の側では彼自身の生産物を私物化することは不可能事となる。労働からの財産の分離がそれらの明らかな同一性に起因する法則の必然的な帰結となる。*6

  本文注 *6: 他人の労働の生産物に関する資本家の財産化は、「私物化の法則の厳密なる帰結である。この基本的な原理は、これとは逆に、あらゆる労働者の彼自身の労働の生産物に対する排他的な権利であったものである。」(シェルブリエ 「富者か貧者か」パリ 1841年 58ページ。 しかしながら、弁証法的な反転的展開については、この中では、適切には追及されていない。)

  (17) それゆえ、*7

  本文注 *7: 以下の文言("laws of capitalist appropriation."(「資本主義的私物化の法則」)) は、ドイツ語版第4版 に合わせるために英語版のテキストに加えられている。

  (本文に戻る) 私物化の資本主義的様式 (注*7) の多くが、商品生産のそもそもの法則に激しく逆らうように見えるのではあるが、それは、それにも係わらず、規則に違反することから生じるのではなく、それどころか、これらの法則の適用から生じるのである。我々はこの点をもう一度、一連の諸々が資本主義的集積に至るこの運動を簡単に振り返ることによって再確認することにしよう。




  訳者余談: 商品生産の法則に従って、資本家の剰余労働の搾取が出現するという命題に直面しているが、当の訳者としても直ぐには納得が行かない。資本家の詐欺的収奪があるのであって、商品生産の法則の純粋なる適用などと簡単に云ってもらいたくはない感情が激しく交差する。剰余労働時間をもって、剰余労働を強制し、その剰余生産物を横取りする資本家の勝手が等価交換という商品同士の交換で許されるものではないと思うからだ。だが、もしそうだったら、それをこれほどまでに受け入れ続けているこの資本主義社会の詐欺的継続を維持し続けることがなぜ出来ているのかと云う質問も受け取らざるを得ない。この商品生産の法則そのものの歴史的経過と社会的な関係を、さらにその将来的な変貌を見つめていかなければならないと云う気になる。見返せば、本章・本節のタイトルがその答えをすでに掲げているではないか。それをマルクスは本章で詳細にその内容を解析して呉れていると、再び翻訳に取りかかる。まるで謎解きのように。次の一手を読ませてくれるのではないかと。翻訳の継続こそ、翻訳の楽しみ方である。


 

  (18) 我々は、最初のところで、価値総額の資本への原初変換が交換の諸法則に完全に従って成し遂げられたことを見てきた。契約の一方が彼の労働力を売り、他方がそれを買う。前者は彼の商品の価値を受け取る。彼の使用価値−労働−は従って、買い手に譲渡される。生産手段はすでに後者に属しており、生産手段は彼によって、同様に彼に属する労働の助力を得て、新たな生産物へと変換される。その新たな生産物は同様にして、合法的に彼のものとなる。

  (19) この生産物の価値は、第一に、生産手段が消費されたことによる価値を持っている。有益なる労働はこの生産手段の価値を新たな生産物に移管することなしに生産手段を消費することはできない。しかもその新生産物は売ることができるように、労働力は工場の雇用された各現場で有益なる労働を供給するようにしなければならない。

  (20) 新たな生産物の価値は、労働力の価値の等量といっしょに、さらに、剰余価値を持っている。これが労働力の価値であるがゆえに、−日とか週とかその他の明確なる長さを定めて売られた労働力の価値は、− その使用時間によって作られた価値よりも少ない。まさに、労働者は彼の労働力の交換価値の支払いを受け取るが、そうすることによって、その使用価値とは切り離なされる。−これが売りと買いのあらゆる場面で生じていることである。

  (21) 事実、この特殊なる商品、労働力は、労働を供給すると云う特有なる使用価値を持っており、それゆえ価値を創造するのだが、商品生産の一般法則にはなんの影響も与えない。であるがゆえに、もし賃金として前貸しされた価値の大きさが生産物において再び見出されるのみではなく、剰余価値によって増大された価値がそこに見出されようと、このことは売り手が騙されたのではなく、彼は彼の商品の価値をまさに受け取ったがゆえのことである。このことは全てこの商品が買い手によって使用されると言う事実に帰すべきことなのである。

  (22) 交換の法則は、ただ一つ、互いに交換することになった商品の交換価値間の等価性を求めている。そもそもの交換に先立って、それらの使用価値については互いに違いを想定しており、取引が決着し履行された後でのみ始まるそれらの消費に関してなにをしようと関知していない。

  (23) この様に、最初の貨幣から資本への変換は、最も厳格に商品生産の経済的諸法則と、それによってもたらされる所有の権利に従って成就される。それにもかかわらず、その結果は、

  (1)その生産物は資本家に属し、労働者には属さない。

  (2)この生産物の価値は、前貸しされた資本の価値の他に、剰余価値を含んでいる。その剰余価値のために労働者は労働と云うコストを支出しているが、資本家はなにも支出してはいない。それにも係わらずそれが資本家の合法的な占有物となる。

  (3)労働者は彼の労働力を保持しており、もし彼が買い手を見つけることができるならば、それを再び売ることができる。

  (24) 単純再生産は、この最初の作動の定期的な繰り返しに過ぎない。毎回、貨幣は新たに資本に変換される。ここでは、法則は破られることがない。そうではなく逆に、単なる連続的な作動が可能とされるだけである。「個々の相次ぐ交換行為は単に、最新のものが最初のものを再現するに過ぎない。」(シスモンディ 「新経済学原理、他」70ベージ)

  (25) それにもかかわらず、我々は単純再生産が、隔絶された工程として見る限りにおいてはこの最初の作動を刻印するにはなんの不足もないのに、全く変化した性格をも伴っていることをすでに知っている。「自分たちの中で、国民所得の分配に預かる人々について見れば、一方(労働者たち)は、毎年、新たな労働によって彼等の取り分の新たな権利を獲得し、他方(資本家ら)は、最初の作動によって彼等の永遠の配分の権利をすでに獲得している。」(シスモンディ 前出 110、111ページ) これはただただ、長子相続の不可思議が労働分野のみではないことは周知の奇習と云うより他ない。
   (この文節の向坂訳は困る。(訳者小余談) (以下向坂訳)それにもかかわらず、われわれが知るものは、単純再生産がこの第一の操作に−孤立的事象として把握されたかぎりのこの操作に−一つの全く変化した性格を付与するに足るものであることである。-------しかし、周知のように、長子が奇跡を行うのは労働の領域だけではない。(以上向坂訳) これでは、意味もなにもあったものではない。長子が誰かは朝鮮王朝テレビドラマの世子にでも聞いてくれ。)

  (26) また、例え、単純再生産が拡大された規模の再生産、集積による再生産に置き換えられたとしても、何の問題もありはしない。前者のケースでは資本家は全剰余価値を遊興に浪費するが、後者では資本家はその一部分のみを消費し、その他残余を貨幣に変換することで、彼のブルジョワ道徳を誇示する。

  (27) 剰余価値は彼の占有物である。それは他の誰にも所属したことは今までずーっと無かった。もし彼がそれを生産の目的のために前貸しするとすれば、その前貸しは、彼が最初に市場に行った日と全く同様に、彼自身の所持金から出たものである。この場合その所持金が彼の労働者の不払い労働から得たものであるが、その事実は全くもって何の違いも生じさせない。仮に、労働者Bが労働者Aが生産した剰余価値で雇われたとしても、まず、第一に、Aがその剰余価値を、彼の商品の価格を半ペニーも値切られることもなしに提供したのであり、第二に、その取引には、Bは何一つ関係がない。Bが請求することは、そして請求の権利として持っているものは、資本家は彼に彼の労働力の価値を支払うべきであると云うことである。「いずれの者も依然として利益の獲得者である。なぜならば、労働者には彼の労働の果実を前貸しされた。」(次のように読むべきである。「彼以外の労働者の不払い労働の果実を」(各色づけは訳者によるもの))「労働がなされる前に」(次のように読むべきである。「彼自身の労働が果実を結ぶ前に」)「なぜならば、雇用主(彼のご主人様)には、この労働者の労働に彼の賃金よりもより大きな価値があったのだから。」(次のように読むべきである。「彼の賃金の価値よりもより大きな価値を生産したのだから。」)(シスモンディ 前出 135ページ)

  (28) もし我々が資本主義的生産を隔絶された更新の流れの中で捉えたり、また個々の資本家と個々の労働者との場で考えたりするのと、それらを全体として見る場合、資本家階級と労働者階級が互いに対面していると見る場合とでは、確かに、事態は全く違った様相を示す。もしそうすると云うならば、我々は商品生産とは全く性格を異にする基準を適用するべきである。

  (29) 商品生産の場では、買い手も売り手も、単に、互いに独立して、相手と向き合うにすぎない。彼等の関係は、彼等が締結した契約に明記された期限が切れる日をもって終了する。もし取引が繰り返されるならば、以前になされた契約とは関係のない新たな合意の同じ様な結果として繰り返されるものであり、単に同じ売り手と同じ買い手が共に偶然に再会したことに過ぎない。(the -resultとハイフンが付されている。)

  (30) それゆえ、もし、商品生産またはその一連の工程の一つがそれ自体の経済的法則によって判断されるとしたら、我々は各交換の行為をそれ自体において考察しなければならない。交換行為に伴っているそれ以前のことやそれ以後の関係とは切り離して考察しなければならない。そして、売りや買いはもっぱら特定の個人間で決着がつけられてきたのであるから、ここに全社会の階級間の諸関係を持ち出すのは容認しがたい。

  (31) いかに長く、今日機能している資本が周期的な再生産とそれに先立つ集積を経てきたかも知れないとはいえ、その原初の処女性は常に維持している。交換の法則が各単一の交換行為において認められる限り、商品生産に係わる所有権にいかなる影響も与えることなしに、私物化様式は徹底的に大変革され得る。これらの同じ権利は依然として有効で、生産物が生産者に所属する当初にあっても、生産者が等価と等価を交換しても、彼自身を豊かにすることができるものはただただ彼自身の労働によるものであり、そしてまた、社会的富が絶え間なく資本家の財産を拡大し、彼等がいつでも私物化し、他人の不払い労働を何回も何回も手に入れる地位に立っているこの資本主義時代にあっても、そのいずれにおいても依然としてその権利は生産者においては有効なのである。( rights remain in force both at the outset, ……and also in the period of capitalism, 訳者色付け。 英文は見事である。やっとそう来たか。私物化様式ときたか。向坂訳は「資本主義時代においても、変わらないのである。」でなにが変わらないのかを読み取ることは難し過ぎる。)

  (32) この結果は、労働力をまるで商品のように自由に売ると云うことが労働者自身によって行われるやいなや、避けることができないものとなる。しかし、それはまたそれ以降、商品生産が一般化され、典型的な生産形式となる唯一のものとなる。それはまたそれ以降、最初から、あらゆる商品が売るために生産され、そして生産された全ての富が流通の局面を通過する。唯一、賃金労働がその基礎となる時間的空間的な場にあっては、商品生産がそれ自身をまるでそれが全てであるかのように社会に押しつける。しかしまたかくしてそれが商品生産の隠された可能性の全てを解き放つ唯一のものとなる。賃労働によって商品生産が奇形化すると云うならば、もし奇形化を招かないようにしたいならば、商品生産を発展させてはならないと云うのと同じである。商品生産がそれ自身の固有の法則に従って、さらに発展し、資本主義生産へと至るに応じて、商品生産の各所有法則は資本家の私物化諸法則へと変化する。*8

  本文注 *8: それ故、我々はブルードンの賢明さに驚かされるだろう。彼は商品生産に基づく永遠なる所有法則を強化することによって資本主義的な私物化を廃棄しようとするのだから。

  (33) 我々は、単純な再生産のケースでさえも、全ての資本は、その最初の源泉がなんであれ、集積された資本へと、資本化された剰余価値へと変換されることになる。しかし、生産の洪水にあっては、端的に集積された資本、すなわち、資本化された剰余価値または剰余生産物、それが集積者の手によって機能していようと、そのような他人によって機能していようとに関わりなく集積された資本と較べれば、当初において前貸しされた資本は消滅点ほどの大きさ(数学的感覚における徐々に消え去る大きさ)(イタリック)となる。それゆえこれ以後、政治経済学は、資本を一般形式化して「集積された富」(変換された剰余価値または総収入)のように書き、「それは剰余価値生産に繰り返し投入されるもの」*9 のように書く。そして資本家を「剰余価値の所有者」*10 のように書く。それは単に、存在するあらゆる資本は集積されたものまたは資本化された利子である、と云う表現の単なる別の言い方でしかない。なぜならば、利子とは単なる剰余価値の一断片にすぎないのだから。*11

  本文注 *9「資本とは、すなわち、利益を企てるよう用いられる集積された富である。」(マルサス 既出) 「資本…. 総収入から蓄えられた富から成っており、そして利益を企てるように使われる。」(R. ジョーンズ 「政治経済学序論」ロンドン1833年 16ページ)

  本文注 *10「剰余生産物または資本の占有者」(「国家的困難の根源と救済策 ジョン ラッセル卿への手紙」ロンドン 1821年)

  本文注 *11「資本、蓄えられた資本のあらゆる部分の複利合計額は、収入が生じる世界の富のすべて表しており、太古より資本の利子にいとにあはし。」(ロンドン エコノミスト誌 1851年7月19日) (訳者の訳であるが、よく似合うの古語を採用してみたところ。英文は become なのである。つい悪のりするのが訳者の懲りない性癖だが、現経済誌紙にも、神代の昔も今も遥か遠い未来においても資本には、脱貧乏人依存 なる概念はあるはずもないと云うご宣命がお似合いだ。)


   

[第一節 終り]




第二節 累進的に規模を拡大する
再生産についての
政治経済学に見られる 間違った考え方



 

  (1) 我々が、剰余価値の資本への集積や資本への再変換についてさらなる考察をする前に、我々は古典経済学者らによって持ち込まれた曖昧さの一面を見ておかなければならない。

  (2) 資本家が剰余価値の一部をもって彼自身の消費として買う商品は少しも生産の目的や価値の創造にはならない。資本家が彼の生まれつきのまたは社会的な理由で購入する労働は同様に少しも生産的労働とはならない。剰余価値を資本に変換するのとは違って、彼は、全く逆に、それらの商品や労働を買うことによって、それを収入 (訳者注: 単なる彼の取り分の取り崩し) として消費または支出する。古き封建貴族階級の習慣的な生活様式に対して、ヘーゲルが臆面もなく、「手に入れたものを消費することから成り立っており」そして個人的な持ち物としてそれを己の快楽のために見せびらかした、と、実相を喝破したが、ブルジョワ経済学にとっては、次のことが至上の重要事項なのであった。資本の集積が各市民の第一の義務であると云う教義を広め、そしてどこまでも、もし彼が彼の収入を、その実り多き部分を、それに支払う以上の多くのものをもたらす追加的な生産的な労働者たちの確保に用いることなく、食べ尽くしてしまうならば、人は集積することができないと説教することをやめない。その一方で、経済学者らは、資本主義的生産を困惑させる秘蔵 *12 とか、

  本文注 *12「今日の政治経済学者には、貯蓄を単なる秘蔵と解する者はいない。そしてこの、けちくさいそして不適当な行為を表す用語の他に、国民的富なるものを適当にイメージさせうるものはない。しかし、そこに貯蓄されたものの異なる利用から生じるにちがいないことが、それによって保持された異なる種類の労働間の現実的な差異として見出される。(マルサス 前出 38、39ページ)

  (本文に戻る) 集積された富とは、その存在形式を破壊されることから、すなわち、消費されることから 救出されたものであるとか、流通から回収された富であるとかのさまざまな幻想と云うべき俗世間の先入観と論争せねばならなかった。貨幣の流通からの排除は同時に、資本としてのその自己拡大を絶対的に排除することになろう。だが、商品の形のままの秘蔵の集積というのも全くの愚行であろう。*13

  本文注 *13 例えば、貪欲の様々な陰の部分を熟考し尽くしたバルザックは、こんな風に、老高利貸しのゴブセックが商品の秘蔵を積み上げ始めたことを、まるで子供返りしたかのように書く。

  (本文に戻る) 大量の商品の集積は、過剰生産かあるいはまた流通の閉塞かの結果である。*14

  本文注 *14 「貯蔵品の集積…. 交換上の …. 過剰生産」(Th. コルベット 既出 104ページ)

  (本文に戻る) 世間の人々の心は、そこに存在する見た目の有様によって印象づけられるものではあり、ある一面では、大量の品物は徐々に消費される富裕層 *15の消費のために積み上げられているように見えるだろうし、  

  本文注 *15この意味で、ネッカーは「華麗で豪奢な物」は「時間をかけて集積された」のであり、それらの物は、「所有の法則によって、社会の一つの階級に手にのみもたらされた。」と云う。(オーブレ ドゥ ネッカー パリとローザンヌ 1789年 第二巻 291ページ) 

  (本文に戻る) そして他の一面では、予備貯蔵の整然たる配列に見えるであろう。この後者の場合、全ての生産様式において一般的に見られる現象である。この点については、直ぐ後で、流通の分析の所で詳しく触れるものとする。古典経済学は従って、非生産的な労働者たち(訳者注: 低賃金労働者(の消費))とは違って、剰余生産物の消費を生産的に維持することは、集積過程の特有なる特徴として全く正しい。しかし、この点から間違いが始まる。アダム スミスは以下を流行句に仕上げた。集積は生産的労働者による剰余生産物の消費のため以上のなにものでもなく、資本化する剰余価値は単に剰余価値を労働力に換えるものである と云う(訳者注: 間違った) 句を。

  (3) それでは、リカードの云うところを、例として、とりあげて見よう。

  (4) 「一国の全ての生産物が、消費されることは理解されねばならない。しかしそれらが再生産を行う者たちによって消費されるか、または更なる価値を再生産しない者たちによって消費されるかでは、考えうる限りの大きな違いが生じる。我々が収入は貯蓄されそして資本に加えられると云う時、我々が意味するのは収入の相当部分が,つまり、資本に加えられると言われる部分が、非生産的労働者たちによって消費されるのに代って、生産的労働者たちによって消費されることを意味する。資本は消費ではないものによって増加すると考えること以上に大きく間違った捉え方は存在しえない。」*16 

  本文注 *16 リカード 既出 163ページのノート

  (5) A. スミスが云ったことを真似して、リカードとそれに続く全ての経済学者が云うこと以上の大きな間違いは存在しえない。すなわち、スミスは「収入の相当部分、資本に加えられたと云われるものは、生産的労働者たちによって消費される。」と云ったのだから。(訳者注: 色付き部分を比較されたし、向坂訳は、「リカード及び以後の全ての者がアダム・スミスの口真似して述べる、「資本に加えられると称される収入部分は、生産的労働者によって消費される」という誤りより甚だしい誤りはない。」となっていて、内鉤カッコ部分を、スミスが云ったことではなく、リカードらが云ったことと取り違えている。このため、マルクスがリカードの口調を借りて、リカードらのスミス以上の大きな間違いを指摘したところの「非生産的労働者に代って」を行方不明にしてしまっている。)

  (6) この論に従えば、資本に変化されたすべての剰余価値は、可変資本となる。このようなケースとなるはずもない。剰余価値は、当初資本と同じ様に、それらは不変資本と可変資本とに分けられ生産手段と労働力となる。労働力は生産過程の期間中ずーっと存在している可変資本の形式となる。この過程において、労働力は資本家によって消費されるそのもの自体であり、労働力、その機能 労働 が実行され、その労働力によってその間生産手段が消費される。同時に、労働力の買いに支払われた貨幣は生活必需品に変換される。「生産的労働」によってではなく、「生産的労働者」によって。アダム スミスは、根本的に間違った分析から、馬鹿げた結論に到達する。各個々の資本は不変資本部分と可変資本部分に分けられるのに、社会資本はそのまま可変資本に変形する、すなわち、他ではなくすべて賃金の支払いに当てられるというのだから。例えば、あるウール布工場手工業主が2,000英ポンドを資本に換えたとして見よう。ある部分を彼は織工たちを買うためにぶち込み、その他の部分を羊毛撚糸、機械、その他にぶち込む。ところが、人々、その人々から彼が撚糸や機械を買うその人々は、撚糸や機械の買い入れ金なる貨幣の一部を労働に支払い、全2,000英ポンドが賃金に支払われるまでそれが繰り返される。すなわち生産的労働者たちによって全生産物、2,000英ポンド が、消費されたとはっきりするまで繰り返されると云うことになる。この議論の全旨は「繰り返される」という右往左往させられる単語にあるのは明らかである。本当のところ、アダム スミスはまさに、論の欠陥点がはじまるところで彼の論的考察を止めている。*17

  本文注 *17 ジョン St. ミルは、彼の「論理学」が泣くと思うのだが、先輩らによって作られた、ブルジョワ的な科学的視点からも修正を求められている、このような欠陥のある分析内容すら全く検出することが無かった。あらゆる場で彼はこの教義のドグマを、彼の先輩らの混乱を、振り回す。そして、こう言う。「資本そのものは、長い行程を経るが、全て賃金となる、そして生産物の売りによって置き換えられ再び賃金となる。」     


  

  訳者余談: ブルジョワ経済学の観念論的論理は貧乏人には分からないのだが、仮に2,000英ポンドのうち、1,800英ポンドが不変資本に、200英ポンドが可変資本に投じられたとする。剰余価値を含めて、2,200ポンドの価値を有する生産物が生産され販売されたとすれば、これがどうして2,000ポンドの賃金に変換されるのだろう。可変資本の200ポンドはともかく、残りの1,800ポンドが、不変資本の一部が、なんやらを繰り返されて、賃金に変換されるところも、剰余価値が仮に、変換されるとしても、誰が、いかなる法則に基づいて、いかなる期間において、どのようになされるのかは、全く想像することさえもできない。しかし、ブルジョワ爺の頭の中では永遠の時間を掛けて、それが遂行されると予測する推測経済考法があり、万事まかせておけと云いたいのだろう。その論理の基本は、なんとかうまくいくはずと云う経済学者の希望的論説と同じである。アメリカ財政の破綻危機に際して、イエレン新FRB議長は、金融緩和を縮小する、ドル貨幣の供給を減らしていくと発表した。ドル貨幣の供給がなくなれば、それに寄り掛かった景気は維持できない。世界各国、日本も含めて、通貨安、株安となった。アベノミクスの何とか矢で金融緩和した日本は、円高・株高で賑わった一瞬の後、アメリカと自国の始末からの円安・株安の二重の影響を受けた。さらにアメリカ景気の後退の見通しからも、一斉売り 株安、輸出停滞の恐怖に歯止めが掛からない。一瞬の賃金への変換話も空耳のように消えた。こんな金融緩和方式による変換があり得るはずもないではないか。株券が紙屑になった昔が懐かしい。今や電子デジタル信号で燃料リサイクルすらもない。ただのエラー信号に変換される。賃金エラー変換論をリカード スミス。(意味不明でごめんなさい。再カード済で、あなたのクレジットカードはもうどうにもならないと云いたいのです。駄洒落欠陥の余談を止める。)


 

  (7) 我々が単に年間総生産高を見ている限りでは、毎年の再生産過程は簡単に把握される。しかし、この生産物の各一つ一つの構成要素は商品として市場に持ち込まれなければならない。そしてその困難が始まる。個々の資本、そして個人的な収入の動きは、交差し、混ざり合い、そしてそれらの多くの移転の中で、社会の富の流通の中で、どこに行ったのか分からなくなる。このことに目がくらむ。そのため解決を要する非常に複雑な問題が提起される。第二巻の第三篇で、私はこれらの事実の実際の関連についての分析を示すつもりである。重農主義者達が作った経済関連表(イタリック フランス語)は大きな価値があるものの一つである。彼等は年生産物を、流通過程を追うようにして我々に明らかにするという形で、それを描き出そうと試みた最初の人々であった。*18

  本文注 *18 アダム スミスには、彼の再生産過程及び集積過程についての記述に関しては、様々な角度から見て、彼の先輩達と比較すれば、なんの進歩ないばかりでなく、かなり後退している。特に重農主義者達に対しては。彼の書物に書かれた妄想について云えば、全く不可思議なドグマであり、それが政治経済学に彼によって遺産として残されたのだが、そのドグマはこう云う。商品の価格は、賃金、利益(利子)、そして地代、すなわち賃金と剰余価値から出来上がっている、とある。この基礎から始めて、ストルヒは無邪気にこう告白する。「…. 当然の価格をその最も単純なる要素に分けることは不可能である。」(ストルヒ 既出 ペーテルスブルグ版 1815年 第二巻 141ページ ノート (フランフ語)) 上質なる経済科学、これが、商品の価格をその最も単純なる要素に分けることは不可能だ! と宣言する。この点については第三巻 第七篇でさらに考察されるであろう。(訳者小余談: 商品の価格は資本家が妄想して勝手に付ける。売れるだろうとか儲かるはずだと。時には、付加価値があるとか、特許がどうのとか云ったり、あげくのはてには、何がなんでも売るために。他社の商売を邪魔するために。そのくせ、価格が安いと云い、デフレだと騒ぐ。デフレとはなにかと問われると、デフレが問題なのではなくデフレマインドが問題なのだと云わずもがなの回避にこだわる。価格を自分では決められないと告白しているようなもんだが、その何故かを分析することはできない。分析すれば労働力の価格とか労働時間とか労働強度とか、そして剰余価値に行きつき、労働者と云う貧乏人依存の本質が暴露される恐れがあるので特定秘密のままにせざるを得ないのだ。)

  (8) 最後に一言、云うまでもないことだが、政治経済学は、資本家階級の利益のために侍り、アダム スミスの次のような教義を利用するのに抜かりは無かった。すなわち、その教義とは、資本に変換された剰余生産物の全ての部分は、労働者階級によって消費される。 となっているのだから。


 

 

[第二節 終り]




第三節 剰余価値の
資本と収入への分割。 禁欲理論



 

  (1) 前章では、我々は剰余価値(または剰余生産物)を単なる資本家の個人的な消費に用いるための所持金として取り扱っていた。本章では、我々はそれをどこまでも単なる集積のための所持金として取り扱っている。とはいえ、それはその一方でもなければまた他方でもなく、共に一体のものである。ある部分は資本家の収入 * 19 のごとく消費され、他の部分は資本として用いられ、集積される。

  本文注 *19 読者は、収入 と云う言葉が二重の意味で使われていることに気が付くであろう。一つは、それが定期的に資本によって生み出される果実である限りでの剰余価値を表し、二つ目は資本家によって定期的に消費される果実部分を表す、または、彼の個人的な消費を支出する所持金に加えられるものを表す。私はこの二重の意味をそのままにしている、なぜならば、それが英国やフランスの経済学者の言葉遣いと一致するからである。

  (2) 剰余価値の大きさが与えられているものとすれば、これらの部分の一つを大きくすればする程、他方は小さくなる。支払い残 (イタリック ラテン語)、この部分の比率が集積の大きさを確定する。しかしその分割は、剰余価値の所有者、資本家のみによってなされる。それは彼の故意の行為である。彼によってなされたその貢物部分、集積部分は、彼によって救出されたものと言われる。なぜなら、彼はそれを食べてはいない。すなわち、なぜなら、彼は資本家としての機能を実行し、彼自身をより富ませるからである。

  (3) 人格化された資本であることを除けば、資本家には何の価値もない。そして歴史的な存在としての権利もない。皮肉たっぷりの リクノフスキーの表現を使えは、「日付なしを得てはいない。」( 訳者の特訳案: 賞味期限なしと云うわけには行かない。)そして、ただ彼自身の一時的な存在と云う必然性は、資本主義的生産様式と云う一時的な必然性からもたらされたものなのである。しかし、彼が人格化された資本である限り、それらの使用やそれらを楽しむことに意味はない。そうではなくて、交換価値とその拡大化が彼を行動に駆り立てるばかりなのである。価値自体の拡大に狂信的な倒錯から、彼は冷酷に人類に生産のための生産を強制する。であるから、社会の様々な生産力の発展を強制する。そしてそれらの物質的条件を創造し、その物質的条件のみが社会の高いレベルの形式の基礎を形成することができる。その社会にあっては、完全なそして自由な各個人の発展が支配的な原理となる。ただ単に、人格化された資本であることこそそれなり資本家なのである。そのように、彼は富としての富のために守銭奴的情熱をもってその居場所にいる。ただし、その守銭奴的なるものは単なる性癖であって、資本家としてのそれであって、社会的メカニズムの結果であって、実際のところ彼は幾つもの車輪の一つでしかない。その上、資本主義的生産の発展は、それを常に与えられたある工業企業家をして資本量の増大を維持する必要があり、そして競争が資本主義的生産の内部法則をして各資本家個人によってあたかも外部からの強制的な法則と感じさせるようにする。それが彼をして、彼の資本の絶えざる拡大の維持を強いる。それを保持するためには、かれはそれを拡大するのだが、累進的な集積手段以外の方法によってそれを保持することはできない。

  (4) 従って、彼の様々な行為が単に資本機能である限り、−資本であるとして賦与され、彼の役にある、自意識と意志においては−彼自身の私的消費は集積に仇をなす狼藉でしかなく、複式簿記上は、資本家の私的支出は、彼の資本(訳者注: 貸方)に対しては逆の、彼の勘定の借方側に記される。集積することは社会的富の世界の制服であり、彼によって搾取される大勢の人類の増加であり、そしてかくして、資本家による直接的・間接的統治のいずれをも拡大する。*20

  本文注 *20 資本家の見本、高利貸し、古風とはいえいつも新しい姿を見せる高利貸しについて、ルーサーは、彼の書物の中で、非常に適切にこう書いている。力への熱愛は富を獲得する欲求の一つの要素であると。「異教徒達は理性の光によって、高利貸しは二重に染められた盗賊であり殺人者であると結論することができた。ところが、我々クリスチャンは彼等に名誉を与えて崇める。我々は、彼等を彼等の貨幣ゆえにはっきりと崇拝する。…. 誰であれ、他人の慈しんだものを食い尽くしたり、略奪したり、掠め取ったりした者は、人を飢餓に陥れたり、人を破滅させたりするとんでもない殺人者(彼が直接手を下し、あの世に送った限りでのことだが)と同じである。そのような行為をなす高利貸しは、絞首台に吊るされ、そして彼が盗んだギルダー貨幣の数と同じ数の烏に食われて然るべきなのに、もっとも彼にそれほどの肉がくっついていて、それだけの沢山の烏がつっつきそれなりの分け前に行き着けば の話だが、その間も彼は安穏に椅子に座っている。その間も我々は、こそ泥を吊るしている。…. こそ泥はさらし台に載せられ、大泥は金や絹をこれみよがしにみせびらかしながら大道を行く。…. 従って、この地上には、全ての人を支配する神になろうと欲する 銭を握る者と高利貸し以上の人類の敵(悪魔に次ぐ)はいない。トルコ人や兵隊や大君もまた悪人であるが、それでも人々を生かさねばならず、そして彼等が悪人で、敵であると告白し、そしてそのようにする。いやそうではなく、今こそ誰かに哀れみを見せなければならない。しかるに、高利貸しと銭鼬は、すべての世界を飢えと渇きで苛み、悲惨と困窮を蔓延させ、彼の手が届く限りの人々をあの世に送る。それ故、彼は全てを自分の手に入れるだろう。そして全ての者は彼から、まるで神からかのように受け取ることになろう。そして永遠の彼の奴隷となる。きれいな外套をまとい、金の鎖や金の指輪を身に付け、口を拭い、立派で敬虔な者に見せかけ、そう思わせる。…. 高利貸しはとんでもない大きな怪物である。まるで狼男のよう。彼はすべてを浪費する。それはあらゆるカクスやゲリオンやあるいはアンティウス以上である。しかも着飾って、敬虔と思わせ、それ故人々は牡牛がどこえ行ったのかを見ることはできないだろう。彼は牡牛を尻の方から彼の小屋に引き入れるのだから。しかし、ヘラクレスは牡牛や彼の囚人の叫びを聞くであろう、そして断崖や岩石の中からさえもカクスを見つけ出すであろう。そして牡牛を悪漢の手から解き放つであろう。なぜならばカクスとは敬虔な高利貸しで、横取りし、略奪し、食い尽くす悪漢を意味するから。そして彼(訳者注: 悪漢)がそのようにしたからと(云って、彼自身ではそれを持ってはいないであろうし、彼を究明することは誰にも出来ないと思っている。なぜならば、彼が彼の小屋に引き込んだ牡牛は、見た目には、牡牛の足跡から、牡牛は外に出ていったようになっているからだ。そのように高利貸しは、世間を欺く、一人で引きちぎって食べてしまった牡牛をまるで世間の使用に与えたかのように欺く。…. 昔から我々は、追剥や殺人者や押し込み強盗らを車裂きにしたり首を刎ねたりしてきたが、我々がそれ以上に車裂きにし、殺すべきものは、…. 捜し出し、罵り、斬首するべきは全ての高利貸しらである。」(マルティン ルーサー 既出)

  (5) しかし、原罪はどこへでもついて回る。資本主義的生産、集積、そして富の成長に応じて、資本家は単なる資本の化身としての存在を止める。彼は彼の内なるアダムに仲間意識を持ち、彼の学識が禁欲の激情に置かれている彼に微笑を可能とし、その禁欲を古風な守銭奴への単なる偏見のごときものとする。古典的なタイプの資本家が個人的な消費を彼の機能に対する罪のごときものとして烙印を押し、また集積のために「制欲すべきもの」とするが、一方の近代資本家は集積を快楽に対する「制欲」と見ることができる。(訳者小余談: 色付けした部分の英文はいずれも、from なのである。単純に双方とも から とか からの とするとどうにも意味をなさない。また「 」の中味も同じ"abstinence" で同じなのであるが、違った意味付けにして訳した。苦労の訳である。集積量によって原罪もその形式を変え、文字もまた変質する。と言うかfromの意味はもともとなんとも広い。からだけじゃなくずれるもあるし。向坂訳は前者の消費は集積の「抑制」で、後者の集積は享楽の「節制」とある。後者はともかく前者の訳では、消費の抑制こその集積であってその逆はないだろう。 享楽を節制するなんてえ概念は、近代資本家の発明であって、貧乏人には節制する必要もなければ、その始点もない。古典時代には原罪意識が消費を抑制しているが、近代ともなれば原罪意識は享楽側に転落しており、人のものを盗んだ意識の磨耗も甚だしい。)

  (6) 「ああ、悲しいかな、二つの心が彼の胸に宿る。その一つはもう一つからいつも離れて行く。」*21

  本文注 *21 ゲーテの「フアウスト」を見よ。        

  (7)  資本主義的生産の歴史的黎明期においては、−成り上がったどの資本家も、個別的にはこの歴史的な段階を通らねばならない。−貪欲と富者への願望が支配的なる激情である。しかし資本主義的生産の進展は歓喜の世界を作り出すのみではなく、投機と信用のシステムを据え,突然の富の何千という源泉を開く。その発展がある段階に到達すれば、習慣的な範囲の浪費、それもまた富の展示であり、それゆえ信用の源泉でもあるが、その浪費が「不幸な」資本家の必要な商売となる。贅沢が資本家表現の支出項目に入り込む。さらに、資本家は豊かになり、自分の労働と消費の抑制に比例する守銭奴とは違って、だが同じ様な比率をもって、他人の労働力を搾り取り、そして労働者に対しては、全ての生活の娯楽に関して制欲を強いる。それ故、資本家の浪費は封建領主の物惜しみしない誠意をもった性格を決して持たず、これとは逆の、最も汚い貪欲と最も狡賢い打算がいつも隠されている。にもかかわらず、依然としてかれの支出は彼の集積に応じて大きくなり、一方の必要を縛る他方もありはしない。しかし、この成長につれて、そこには同時に、彼の胸に、フアウスト並の葛藤が、集積への熱情と娯楽への欲望との間で大きさを増す。

  (8)  エイキン博士は、1795年発行の彼の著作の中で、次のように云う。

  (9) 「マンチェスターの商売は、四つの期に分けることができるだろう。第一期は、工場手工業者達が彼等の生活のために激しく働くことを余儀なくされていた。」

  (10)  彼等は、主に、子供たちが彼等に見習い工として奉公させられるのだが、その親たちから略奪することで富を成した。両親たちは、高いブレミアム料金を支払ったのだが、見習い工たちは飢えに苦しんでいた。その一方で、平均利益は低く、また、集積のために、極端なけちが不可欠であった。彼等は守銭奴のように暮らし、彼等の資本の利子さえ消費することからは遠い生活であった。

  (11) 「第二期は、彼等が多少なりとも家具を備え始めた時期である。しかし以前と同じ様に激しく働いた。」−奴隷使用主ならだれでも知っているように労働の直接的搾取にはそれなりの労働をせねばならぬ。− 「そして以前と同様な質素な生活をしていた…. 第三期には、贅沢が始まった。そして商売は、王国のあらゆる市場都市に注文取りの騎馬ライダーを回らせることによって、活況を呈した。1690年以前 ここで、商売によって得られた 3,000 ないし 4,000英ポンドの資本なるものは殆ど無かったであろうし、あるいは全く無かったであろう。とはいえ、この頃またはほんの少し後の頃、すでに商売人らは以前からの貨幣を手にしていた。そして木と漆喰の家に替わって、近代的な煉瓦づくりの家を建て始めた。」

  (12)  18世紀初期にあってさえ、彼の特別なる客達に1パイントの外国製ワインを出したあるマンチェスターの工場手工業主は、近隣の全ての人々の注視と左右の首振りに晒された。機械が登場する以前は、工場手工業主達が集う酒場での夕時の支払いは手頃なグラス一杯は6ペンスを、そして一包みのタバコは1ペニーを越えることは無かった。1758年にはまだなっていなかったが、画期的なことが起こった。というのも、ある人物が、彼の商売に、現実に、自前の完全装備の四輪馬車を用いたと知られたことだった。

  (13) 「第四期は、」18世紀末の30年間だが、「その頃は浪費と贅沢が非常に冗長した。ヨーロッパのあらゆるところをめぐる騎馬ライダーや代理人を使って拡大された商売がそれを支えた。」*22

  本文注 *22 エイキン博士の「マンチェスターから30ないし40マイルの地域に関する記述」ロンドン 1795年 182ページ以下        

  (14)  もし、 美徳溢れるエイキン博士が彼の墓から起き出して、今日のマンチェスターを見たらなんと云うだろうか? 

  (15)  集積せよ、 集積せよ! それこそ予言者モーゼの言葉なり!「勤勉が集積を助ける素材をもたらす。」*23 

  本文注 *23 A. スミス 既出 第三巻 第三章 

  (本文に戻る) それゆえ、倹約、倹約、それが剰余価値または剰余生産物のできうる限りの大きな部分を資本に再変換する。集積のための集積、生産のための生産、この公式によって、古典的経済学はブルジョワジーの歴史的ミッションを表わし、また一瞬も、富の誕生の苦しみに関してはその公式を欺くことはなかった。*24 

  本文注 *24 J. B. セイ ですら、こう云っている。「金持ちの蓄財は貧乏人の支出から作られる。」「ローマ時代のプロレタリアはほとんど全くのところ社会の支出によって生きていた。….このことはほとんど次のようにも言える。近代社会はプロレタリアの支出によって生き延びている。その上にありながら、近代社会は労働の報酬のあるべき姿を締め出している。」(シスモンディ 「学問 他」第一巻 24ページ) 

  (本文に戻る) しかし、歴史的必然を目の当たりにして嘆いたとしても何の役に立つと云うのか? 仮に古典経済学にとって、プロレタリア階級が単に剰余価値の生産のための装置であるとするなら、他方の、資本家階級も同様に単なるこの剰余価値を追加的な資本へと変換する装置である。政治経済学は資本家の歴史的職務を、苦々しきことの始まりと解する。彼の胸の内なる享楽欲望と富の追及との恐ろしい葛藤に魔法を施すために、1820年となった頃、マルサスは、その苦労の分割を主唱した。(英文は、なんと a division of labour なのである。なるほど。やつらの分業とな。) すなはち、実際に生産に係わる資本家には集積のビジネスを、そして剰余価値を分け合う他の者達、地主等や高い地位に居座る者等や属領所有聖職者等には浪費ビジネスを割りつける。これが最上段の重要事項と彼はのたまってこう言う。

  (16) 「浪費熱情と集積熱情の分離を維持するために」*25 

  本文注 *25 マルサス 既出 319、320ページ 

  (17)  長らく良き生活を送り、また世界に知れた人物ともなっていた資本家等は大きな叫び声をあげた。リカード学派の、資本家の代弁者は絶叫する。マルサス氏の高い地代や重い税金等々の説教は、非生産的消費者による、勤勉を常に維持せよとのプレッシャーに拍車をかけるというものだ! なにはともあれ生産、常にその規模を拡大する生産をと古くさい文句を云うが、しかし、

  (18) 「生産はそのようなやり方では拍車を掛け続けるよりもよっぽど妨害されることになるだろう。他人から搾り取るだけの多くの人々を怠惰にしておくこのようなことが果して公平と言えるものか。もし彼等を働かせるように強制することができるならば、なんらかの結果を残すように働かせることができるならば、彼等が彼等の勤勉法なるものからして、なんとかなるはずなんじゃないのか。」*26

  本文注 *26 「需要の性質に関する様々な原理の調査 その他」67ページ

  (19)  勤勉なる資本家に、彼のパンとバターを奪うことによって拍車をかけるというのは不公平なことと彼は気付くのではあるが、依然として彼は労働者の賃金を、「彼の勤勉を維持するために」最低限まで減らすことが必要であると考えている。そしてまた、この時ばかりは、不払い労働の私物化が剰余価値の秘法であると云う事実をも隠そうともしない。

  (20) 「労働者たちからの増大した要求は、彼等自身のために、彼等自身が生産した生産物を多少なりとも手に入れたいと云う以上のものを意味するものではないし、実際にはその生産物の大部分を彼等の雇用主に残している。もしそれが、消費(労働者たちの)を減らすことによって供給過剰をたらすと云うなら、私はただ、その供給過剰とやらは大きな利益と同義語であると答えるのみである。」*27

  本文注 *27 前出 59ぺージ

  (21)  労働者から汲み上げた戦利品はいかように、集積にとって最も有利となるように、勤勉なる資本家と怠惰な富者との間でどのように分配すべきか と云う学問的論争は、七月革命に直面して沈黙させられた。直ぐ後に、リヨンで、都市プロレタリアは、革命の のろしを揚げ、英国で、農村ブロレタリアは、農具置場や穀物倉庫に火を懸け始めた。海峡の英国側ではオーウェン主義が拡がり、あちら側ではサン シモンズ主義やらフーリエ主義が広がった。俗流経済学の授業は終わっていた。マンチェスターで、ナッソー W. シーニョアが、資本の利益(利子を含む)が、12時間のうちの最後の1時間の生産物であると発見したその丁度1年前、彼は別の発見を世界に発表していた。

  (22) 「私は、」と彼は誇らしげに云った。「生産の道具と考えられている資本なる文字に替えて、節欲と云う文字を当てる。」と。       

  (23)  これは、他に類似を見出すこともできないほどの俗流経済学のとんでも発見のいい例である! まるで経済学的用語に替えて、おべっか修句を当てている。大売出しの旗ばっかり。(フランス語 sail allなのだが、ここは無理やりsale allで)

  (24) 「野蛮時代では、」とシーニョアは云う。「人は弓矢を作るに、勤勉をもって行う。が、彼は節欲はしない。」*28 

  本文注 *28 (シーニョア 「経済学の基礎的原理」伝統的なるアリバベネ版 パリ 1836年 308ページ) この言葉は旧古典経済学派の者には余計なことであった。「シーニョア氏はそれ(労働とその利益と云う表現)に替えて、労働とその節欲なる表現を用いる。彼、彼の収入を変換する者、が、楽しみのために支出を許されているのにそれを節欲する。そもそも利益の原因は、資本の生産的な使用であって、資本にありはしない。」(じョン ケイズノーブ 既出 130ページ ノート) これとは違って、ジョン St. ミルは一方でリカードの利益論を受け入れ、他方ではシーニョアの「節欲の報酬」をも追加する。彼は弁証法の出発点でもあるヘーゲルの矛盾の海で見出すものを、あたかも自分の家の回りで見つかる馬鹿げた矛盾と同一視する。どういう分けかあらゆる人間行動が、その反対物の「節欲」のごときものとして表れるという簡単な思考が俗流経済学者には決して生じない。食事は断食の節欲、歩行、じっと立っていることの節欲、労働、怠惰の節欲、怠惰、労働の節欲 等々。これらの紳士諸君はたまには、スピノザの「確定は否定なり」なる言葉についてよく考えてみるがよい。 

  (25) 「節欲しない」と云う言葉が説明しているものは、初期状態の社会にあっては、労働の道具が、いかにして、かつ何故、資本家に生じる節欲なしに作られているか である。 

  (26) 「社会がより進歩すれば、より節欲が求められる。」*29

  本文注 *29 シーニョア 前出 342ページ

  (27)  すなわち、他人の企業の果実を横取りしようと狙っている輩からの節欲の要求と云うお話。これでは、労働過程を維持継続する全ての条件は、たちまちにして、資本家の様々なる節欲行動へと変換される。もし穀物が全て食べ尽くされるずに、いくらかは種蒔きされるなら、−資本家の節欲。もしワインが熟成時間を得るならば、−資本家の節欲。*30

  本文注 *30「何人も、…. 追加的な価値他の獲得を考えることもなく、様々な物とかそれらの等価を直ちに消費する代わりに、例えば、小麦を蒔きはしないだろうし、また畑に12ヶ月も放置もしないし、またワインを何年も貯蔵室に置きっぱなしにはしないだろう。」(スクロープ 「政治経済学」A. ポッター 編 ニューヨーク 1841年 133−134ページ)

  (本文に戻る) 資本家が「労働者に生産道具を 貸す(!) 場合はいつでも、資本家は彼自身の持ち物を盗む。すなわち、それらを労働力と一体化させる場合はいつも、それらを食べ尽くすのに替えて、それらをその労働力から剰余価値を引き出すために使用する。蒸気機関、綿、鉄道、肥料、馬、など全てを。また俗流経済学の子供じみた表現で云うならば、それらの価値を贅沢品とかなんとかの消費で散財する代わりに用いる。*31

  本文注 *31 彼自身に生じる貸すと云う剥奪を資本家的に表わし、(この婉曲法は、俗流経済学の公認表現法であって、労働者が工業資本家から搾取されるのを、工業資本家が搾取するのであるが、その資本家に他の資本家が金を貸すと云うことを表すのに用いられる。) それらの価値を、使う物や遊びの物に替えてしまう彼自身の消費に支出する代わりに、労働者に彼の生産道具をくっつける。(いずれもフランス語) (G. ドゥ モリナリ 既出 36ページ)

  (本文に戻る) 資本家らが階級として、いかにこの偉業を実行するかは、俗流日米欧中ロ経済学領域の特定秘密である。(やや言い過ぎかと気にはしている。訳者注) 俗流経済学は、今に至るもその秘密の漏洩を頑なに拒んで来た。資本家にとっては、この資本家なる近代ヒンズー ビシュヌ教 改心者の自己節欲だけで依然として世界は前進していると云うことで十分なのだ。集積のみでなく単純なる「資本の維持でさえも、それを消費しようとする誘惑に抗する努力が、間断なく必要なのである。」(英語) *32

  本文注 *32 (訳者注: 直前の色付きの「 」部分の、フランス語が示されている。)

  (本文に戻る) 従って、ごく単純な人間的な命令が、資本家の苦悶と誘惑からの解放をもたらすことは明らかである。これと同じような命令が最近ジョージアの奴隷所有者に通達された。奴隷制度の廃絶と云う命令である。そして、剰余生産物をどぶに捨てるか、黒人奴隷を鞭打つことに使うか、シャンパンに散財するか、はたまたはそれをより多くの黒人奴隷とか より多くの土地とかにつぎ込むかの苦痛のジレンマから解放した。

  (28 )  最も異なる種類の社会の経済形式においても、そこには単純な再生産のみではなく、刻々と変化するものや、累進的に規模を拡大する再生産も生じる。その度合に応じて、沢山の物が生産されればされる程、より沢山の物が消費される。そしてその結果として、より沢山の生産物が生産手段に変換される。とはいえ、この過程にあっては、それ自体を資本の集積なるものとして現しはしないし、資本家の機能なるものとしても現しはしない。労働者の生産手段である限りでは、そしてそれらと共にある限りでは、彼の生産物であり生活手段である限りでは、それらが、彼に対して、資本の姿で立ちはだかることはない。*33       

  本文注 *33「国家資本の進展に最も多大なものをもたらす特殊ないくつかの階級は、それらの進歩の異なる段階に応じて変化する。そしてそれ故、その進歩において異なる地位を占める国々も全く異なる。…. 利益…. 社会の初期の段階では、賃金や地代とくらべても集積の源泉としては取るに足らない。…. 国家的な工業の力が大きな進歩となるに及んで、利益は集積の源泉として比較的重要なものとして登場してきた。」(リチャード ジョーンズ「教科書 その他」16、21ページ)

  (本文に戻る) リチャード ジョーンズは、二三年前に亡くなったが、マルサスの後継者で、ヘイリーバリー大学の政治経済学部の学部長を務めていた。そして彼はこの点について二つの重要な事実の光を当てて論じている。大多数のヒンズーの人々は彼等自身達の土地を耕す農民であり、彼等の農産物を育て、彼等の労働用具を作り、そして生活必需品を得るのであるから、「収益を貯めて、集積過程の前身へと進展するような基金を形成するようなことなどはあり得ない。」*34 

  本文注 *34 前出 36ページ以降

  (本文に戻る) 他方、英国の支配が古きシステムを殆ど乱すことが無かった地域の非農業労働者達は、剰余農業生産物が年貢とか地代とかの形で提供されるお大尽らに雇用される。この生産物の一部は、様々なお大尽方によって消費され、またこれらの労働者によって、彼等のための贅沢品とかそんなものに変換される。また残りは労働用具を持つ労働者達の賃金を形成する。この部分では、生産及び再生産は次第に、苦悩に満ちた騎士面で、資本家に「節制」をほざく、生臭聖者らの介在もなしにその規模は大きくなる。




[第三節 終り]




第四節 剰余価値を資本と収入に
分ける比率から独立して、
集積の大きさ、労働力の搾取度、
労働生産性、充当される資本と
消費される資本間の差額の増大、
前貸し資本の大きさ、
等を決める諸事情

[Dr.エイブリング訳 エンゲルス監修]



  (1) 資本と、収入(訳者注: 資本家が己の消費に当てる部分)とに、剰余価値を分ける比率が与えられているものとすれば、集積資本の大きさは云うまでもなく剰余価値の絶対的大きさに依存する。仮に、80%が資本化され、20%が腹に納まるものとすれば、集積された資本は、全剰余価値が3,000ポンドまたは1,500ポンドであれば、2,400ポンドまたは1,200ポンドとなるであろう。であるから、ここでは、剰余価値の大きさを決める全ての諸状況が集積の大きさを決める作用をなす。我々はこれらの点についてもう一度要約して置こう、但し集積に関して新たな視点を提供するもののみに限るものとする。

  (2) 剰余価値率が、まず第一に、労働力の搾取の程度に依存していると云うことが思い起こされよう。政治経済学はこの事実(訳者注: 利益率のこと)をことのほか高く評価するため、たびたび、労働者の搾取増大による集積の加速を、労働生産性の増大による集積の加速と、同一視する。*35

  本文注 *35「リカードは云う、「社会の様々な段階で、資本の集積または労働雇用」(すなわち搾取)「手段には、様々な成長速度があり、そしてそのすべてのケースで、労働の生産的諸力(訳者注: 英文はproductive powers of labour 複数に注目 ブルジョワ的概念の表現で、労働生産力とか労働生産性とは別の概念) に依存しているにちがいない。労働の生産的諸力は、一般的に云って、肥沃な土地が豊富にある場所で最大となる。」もしこの文章において労働の生産的諸力なるものが、それを作り出した、肉体労働を行った者たちに帰属する部分が小さいことを意味するならば、この文章は同義反復に近い。なぜならば、残りの部分は、もし所有者が望むなら、資本が集積されるうる基金であるからである。だが、最も肥沃な土地では一般的に云ってこうしたことは起こらない。」(「ある種の言葉争いに関する観察、その他」74、75ページ)


  訳者:余談: 搾取も労働生産性もその他の諸条件も正確に把握できず混用するブルジョワジーの観念論の一つであるリカードの言葉をそのまま示せば注としては必要十分なところだが、マルクスはここでリカードの引用と引用者の云うところを注にした。リカードとその後継者である引用者の二つの混用例を示して我々の頭の細胞を叩いてくれる。余談は引用者の方である。この論が分からない。労働者への配分が少なければ何故同義反復となるのか、そして肥沃な土地ではなにがどうして起こらないのかすぐには分からないからである。ブルジョワ土地貴族の頭の中は私には全くなじみがない。一見リカードを批判しているかのように読めるところがあるため、さらに混乱する。私の訳は文字だけ訳で意味を伝えることができていない。相当の時間悩んだのである。リカードは収益は労働諸力に依存すると云ったのだから、それが搾取も生産性も混同しているとしても、労働諸力には言及している。だが、引用者は、労働者への配分が少なければ、同義反復だと云う。はたと気がついた。労働者への配分が極小ならば、労働諸力に依存するものではない。つまりリカードのこの言及は言及していないのと同じであると云うのが引用者の同義反復なる判断なのであると。そして肥沃な土地ではそれゆえ、労働諸力とは全く関係なく農産物が得られるのであるから労働諸力に依存するという事態は起きない。貧相な土地では、労働諸力に依存するにしても。引用者はリカードの労働諸力概念が気に入らないのである。リカードにはそれでも労働者の労働が僅かとはいえ頭の隅にはあるが、引用者はその労働を極限小にしか見たくない。二人の論争は労働を見つけられない者達の論及。肥沃な土地を所有する農場主ブルジョワジーの頭はリカードを少々笑い飛ばしたいらしい。なんという不毛。事実を追及する一歩もなき劣化を付け加えている。マルクスのリカード批判と引用者のリカード批判の本質的な違いである階級視点を改めて確認させられるところである。そう、TPP交渉が暗礁に乗り上げている。アメリカ農場主らが自分らの農産物を、肥沃なる広大な土地の入手と遺伝子操作と化学肥料と機械化と僅かな雇用で、大量に生産する。でもこれが商品として貨幣との交換が果たされなければなんの価値もない。彼の頭の中は、他国の農民の労働のことなどは発想不能である。関税を下げて、我が農産物を大量に安く買えるようにせよ。があるのみ。古き概念の最新の同義反復亜流がいまだに続く。そしてもう少し余談も続く。安い農産物をグローバルに供給することに資本家階級は絶対に反対しない。資本がその機械化農業に投資されていることは勿論だが、その支持理由は、彼等が明言することは絶対にないが、労働力の価値の低下による間接的剰余価値の獲得にある。リカードもその引用者もまた現代のグローバルブルジョワジーもこの点は分析不能領域として置きたいのである。


  (本文に戻る) 剰余価値に関する各章では、賃金は少なくとも労働力の価値と等価であると前提されている。しかしながら、我々にとっては、この価値以下に賃金を強制的に引き下げることが実際に生じており、非常に重要な点になっており、それを見過ごすことはできない。事実、それが、ある範囲において、労働者の必要な消費基金を資本集積の基金へと変換している。

  (3) 「賃金は」と、ジョン スチュアード ミルは云う、「何も生産的な力を持っていない。それらは生産的な力の価格なのである。賃金は労働と一緒になっても、商品の生産に貢献することはない。道具の価格が道具と一緒になってもそれ自体がなんら貢献しないのと同様である。もし、労働が購入することなしに手にすることができるならば、賃金なんぞ無くて済むだろう。」*36

  本文注 *36 J. スチュアード ミル 「政治経済学のある未解決の問題に関する評論」ロンドン 1844年 90ページ

  (4) 確かに、労働者たちが空気を食して生きて行けるならば、いかなる値段でも買われることはない。彼等のコストがゼロであることは、確かに数学的感覚としての限界であり、いずれにしても到達することはないが、にもかかわらず、我々は常にそれにより近づくようにと考えることはできる。資本の常に変わらぬ傾向としては、労働のコストをこのゼロに引き下げようとする。18世紀のある著者は、すでに度々引用したが、「商売と取引に関する評論」の著者は、英国の賃金をフランスやドイツのレベルに引き下げることが、英国の歴史的なミッションであると述べるのだが、まこと、英国資本主義の最も深く秘められた精神情報を漏らしたものである。*37      

  本文注 *37「商売と取引に関する評論」ロンドン 1770年 44ページ これと同様、タイムス紙 1866年12月号 1867年 1月号には、英国の炭鉱所有者の精神の明白なる吐露が載せられていた。幸せに満ちた多くのベルギーの炭鉱労働者は、彼等の「ご主人様」のために、彼等が生きていくに厳密に足りるものしか要求せず、その額を受け取っていると書かれていた。ベルギーの労働者たちはさらに苦痛を耐えねばならない、なのにタイムス紙上ではあたかも労働者のモデルであるとは! 1867年 2月の初め、その答えが返ってきた。ベルギー マルシェンヌの炭鉱労働者のストライキである。火薬と鉛弾で鎮圧されたが。

  (本文に戻る) その他の事に関しても、彼は、無邪気にもこう云う。

  (5) 「確かに、もし、我が貧乏人(労働者たちを表す技術用語)が将来贅沢に暮らすことになるならば、…. 労働は、当然ながら、高いものとなる。…. 工場手工業労働者らの下層階級どもが例えば、ブランディー、ジン、紅茶、砂糖、外国産の果物、度の強いビール、ブリント柄のリネン、嗅ぎ煙草、煙草、他、のものを贅沢に消費する時のことを考えても見よ。」*38

  本文注 *38 前出 44、46ページ

  (6) 彼はノーザンプトンシャーのある工場手工業主の著作を引用する。その工場主は天を上睨みしながら、呻いた。

  (7) 「フランスでは、英国よりも労働が1/3も安い。なぜかと云えば、彼等 (訳者注: フランス工場手工業主の) の貧乏人はよく働き、食べ物に関してはよき粗食である。着物も同様である。(訳者注: いずれも英文は hard) 彼等の主な食べ物は、パン、果物、ハーブ、根菜類、そして魚の干物である。肉は殆ど食べない。また小麦が高ければ、パンも僅かしか食べない。」*39

  本文注 *39 ノーザンプトンシャーのこの工場手工業主は、偽善的な誇張を犯している。そう言う気持ちは分かるので大目に見ておこう。彼は、英国とフランスの工場手工業労働者の生活を名目的に比較しているが、彼が表現しようとして引用した事は、彼自身が混乱して自白しているごとく、フランスの借地農業者のことを引用している。(訳者蛇足: フランス工場手工業労働者のそれはもっと過酷なのだが、やはりそれに触れることには気が引けたようだ。)

  (本文に戻る)「それに加えて」と、このエッセイストは続ける。「彼等の飲み物は水か少し酒が混じった水みたいなもので、それゆえ、殆ど。お金は使わない…. このような事が簡単にできるわけではないが、出来ないと云うものでもない。それらはフランスやオランダのいずれも証明されている。*40

  本文注 *40 前出 70、71ページ ドイツ語版第三版の注(イタリック) 今日では、世界市場における競争に感謝している。その樹立以後、我々はより以上の前進を満喫している。「もし中国が」と、国会議員スタップルトンは彼の選挙区の人々に次のように云う。「中国が偉大なる工場手工業国になるならば、いかにしてヨーロッパの工場手工業労働者が、彼等競争者のレベルにまで生活を低下させずしてその競争を維持できるか、私には分からない。」(タイムズ紙 1873年 9月 3日 8ページ) 英国資本が熱望する目標はもはや大陸賃金どころか、中国賃金なのだ。

  (8)  20年後、アメリカ人の詐欺師、男爵となったヤンキーの ベンジャミン トンプソン (別名 ラムフォード伯) は、同じ博愛の道をたどり、神と人類を満足させる偉大なる解答に到達した。彼の「エッセイ」は、労働者のいつもの高い食料を適当な代用品に置き換えるためのあらゆるレシピの料理本なのである。次のレシピはこのすばらしい哲学者の特別の好例なのである。

  (9) 「5重量ポンドの大麦ミール、7 1/2ペンス。 5ポンドのインド トウモロコシ、6 1/4ペンス。3ペンスの燻製にしん。 1ペンスの塩。 1ペンスの酢。 2ペンスの胡椒とハーブ。計 20 3/4ペンス。これでスープ64人分となる。そして大麦とインド トウモロコシの平均価格をもってすれば、…. このスープは、20オンス当たり 1/4ペンスとなろう。」*41

  本文注 *41 ベンジャミン トンプソン 「評論集 政治的・経済的・哲学的・その他の」全3巻 ロンドン 1796-1802年 第一巻 294ページ F. M. イーデン伯は、彼の著「貧民が置かれた状況、または英国の労働者階級の歴史、その他」でラムフォード風の乞食スープを労働者ハウスの運営委員達に強く推奨している。そして、英国労働者たちに非難を込めてこう警告する。「多くの貧しき人々、特にスコットランドで暮らす人々が幾月も続けて、単に水と塩に混ぜたオートミールや大麦ミールを食べて、非常に快適に暮らしている。」と。(前出 第一巻 第一冊 第二章 503ページ) 19世紀のこれと似たものに、「最も健康に良い小麦粉の混合物はいつも(英国の農業労働者には)受け入れられてはいない。スコットランドでは、教育がよりいいので、多分、この偏見は知られていない。」(チャールス H. パリー医師「現穀物法の必要性に関する問題点の考察」ロンドン1816年 69ページ) がある。 この同じパリーが、それにもかかわらず、こう嘆く。現在(1815年)の英国労働者は、イーデンの時代(1797年)よりももっと悪い条件に置かれている。と。     

  (10)  資本主義的生産の進歩とともに、食品への混ぜ物混入による粗悪化が大手を振るうようになり、トンプソンの提案を余計なものにしてしまった。*42

  本文注 *42 最新の議会調査委員会の報告書は、生存手段への混入物による粗悪品化について、医薬品ですらこうした混入物からなる粗悪品が見られるであろう。と述べている。英国では普通に行われており、例外的ケースではない。例えば、阿片の34個の見本、ロンドンで様々な異なる薬局で購入したもの、の検査の結果は、31個ではけしの頭部、小麦粉、ゴム、粘土、砂 その他が混入されていた。何個かはモルヒネの1分子も含んでいなかった。

  (本文に戻る) 18世紀末から19世紀初めの10年間、英国借地農業者らと地主らは絶対的極小な賃金を強制した。農業労働者には最低限以下の額を賃金として支払い、残りは教区の救済金の形で支払った。英国のドグベリー達が演じたところの賃金体系を「法的」に決めたでたらめなやり方の一例は。

  (11) バーク氏は云う。「東部ノーフォーク州の大地主らが賃金の率を決めるには、食事を取った後とするが、1795年 スピーンナムランドで賃金等の率を決める時、南部のバークシャー州の大地主らは、どうしたことか、労働者たちにはそんなものは必要ないと考えた。そこで彼等は「(週の)手当ては一人当たり3シリングにすべきである。」と決定した。1ガロンまたは8ポンド11オンスの半塊パンが1シリングの場合で、それが1シリング5ペンスに至る間はそれなりに手当てが増加するものとした。それ以上の場合は 2シリングに至る間減額するものとした。かくて、彼の食料は1/5少なくなるはずであろう。」(イタリック) *43

  本文注 *43 G. B. ニューナム(弁護士) 「穀物法に関する両院調査委員会に提出された証拠に関する評論」ロンドン 1815年 20ページ ノート) 

  (訳者注: でたらめの例としても、あんまりだ。私の訳では追い付けない。少しも両州大地主らの所業経過がよく分からないのだが、とりあえずここは、単位をなじみのものにして見ることにした。概略で、1英ポンドは170円(現行の為替レートで)= 20シリング= 240ペンスであるから週手当て3シリングはおよそ26円となる。日当たりでは4円となる。1ガロンは4リットル、1重量ポンドは450グラム=16オンスであるから 1オンスは約28グラムとなる。さて、8ポンド11オンスのパンは、3.9kgである。 (比重が1に近く、砂まじりのパンと云うことも歴然だが) この重量を週で食するとすれば、日あたりでは560g 3食分とすれば1食当たり185g 家族三人として62g まあいいか。この半塊パンが1シリングなのであるから、1日当たりで1.2円、1日4円の手当てのうちパン代が約30% を占めることになる。そしてこの半塊パンが1シリング=12ペンス( 9円)から1シリング5ペンス=17ペンス (13円)へと5ペンス(4円)値上がりする場合(約42%)それに応じて週手当てが3シリング=36ペンス(26円)から4シリング3ペンス=51ペンス(38円)へ42%増えるのは、まあありがたいが、それ以上になり半塊パンが2シリング(18円)まで値上がりする間は逆に38円まで行った手当てがそれに応じて減額するという。他の生存に欠かせないものの価格がどうなるのかや、パン代部分以外の70% を含めての話ではなさそうだし、半塊パンがさらに値上がりした場合等はどうなるのか分からない。我が計算は骨折り損のくたびれ儲け。なおさら分けが分からなくなるお粗末。だが、先を読めばもう少し分かってくる。)   

  (12) 上院調査委員会において、1814年 例の人物 A. ベネット 大借地農業主、治安判事、救貧院院長、そして賃金の調整委員は、以下のような質問を受けた。

  (13) 「労働者たちに対する日労働の価値の比率は救貧院の給付金率に関係があるのか?」答え、「はい、あります。全ての家族の週手当ては、一人当たり1ガロンのパン(8ポンド 11オンス)と3ペンスとなるようになっています。そのガロンパン/ 週については、我々は、家族の皆を一週間養うのに十分だと思います。そして、3ペンスは衣料分で、もしも教区が衣料を見つくろう方が適当ならば、その3ペンスは差し引かれます。このやり方はウイルトシャーの西部一帯で行われており、私は英国中で行われているものと信じています。」*44

  本文注 *44 前出 19、20ページ

  (本文に戻る)「何年にも渡って」と、当路のあるブルジョワジー著者は叫ぶ。「彼等( その農業主ら) は、彼等の高潔な農業労働者階級の人々に、救貧院を当てにするよう強いることによって、堕落させた。…. 農業主は、自分の収益の増大が続く間、彼の依存者たちの側のわずかな集積をも踏みにじった。」*45

  本文注 *45 C. H. パリー 前出 77、69ページ。地主らは、彼等の側に、英国の名のもとに行った 反ジャコバン戦争の損失を「賠償」させたのみならず、それどころかとんでもなく彼等自身を大金持ちにした。彼等の地代は、2倍、3倍、4倍、「ある例ではこの 18年間で6倍にもなった。」(前出 100、101ページ)

  (14) 我等の今日にあっても、剰余価値を形成する基金にのうちの、従って資本の集積基金を形成するものでもあるのだが、そのうちの労働者が必要とする消費基金から鷲掴みして奪い取る役割を演じる者については、以前のいわゆる家内工業と呼ばれるものがこれをよく示している。(第15章 第8節 c)このテーマについての更なる現実がこの先で示めされよう。

  訳者注: 第15章 第8節 c の一部をここに置くことにした。「彼等それぞれは7人の手下を彼の小屋に食事付きで宿泊させる。彼の家族であろうとなかろうと、成人男子、少年、少女 全員がその小屋で寝る。小屋は通常部屋が二つ、例外的に三部屋で、全て一階で通風が悪い。これらの人々はその日の重労働で疲れ果てていて、健康のルール、清潔さのルール、礼儀正しさのルールは少しも見られない。この様な小屋多くのは乱雑で、汚れていて、埃も…. の見本である。この様な作業に年少少女を雇うことの最も大きな悪影響は此処にある。通例として彼女たちを幼児期の初めからその後の一生をこの最も破廉恥ななべに繋ぎとめる事にある。」

  (15) 全ての工業各部門において、労働手段を構成する不変資本の大きさは、(その部門の意図する商売の大きさによって決められる)労働者数に見合ったものでなければならないが、とはいえ、雇用労働者数に合わせて同じ様な比率で、常に、増大させる必要は全くない。ある工場では、100人の労働者が日8時間働き、800労働時間を産み出しているものとしよう。もし資本家がこの量をもう半分増加させたいと欲するならば、彼はさらに50人を雇用することもできる。だが、そうするならば、彼は更なる前貸し資本を投入せねばならない。賃金だけではなく、労働手段にもである。しかし彼はまた、その100人の労働者を8時間に替えて12時間働かせるかも知れない。そして、労働手段はすでに手持ちのもので十分かも知れない。単にそれらはより急速に損耗するかも知れないけれど。かくして、それなりに増加させねばならぬ固定資本分なしに、追加労働は、労働力にはより大きな緊張をもたらすが、剰余生産物と剰余価値(それが集積の狙いである。) を増大させることができる。     

  (16)  採掘業、鉱山その他では、そこでの原材料は前貸し資本には当たらない。この場合の労働対象はそれに先立つ労働の生産物ではなく、金属、鉱石、石炭、石材、その他、のケースでは、自然が無料で用意したものである。これらのケースでは固定資本はもっぱらそのものずばりの労働手段で構成される。それら労働手段は労働量の増加を非常にうまく吸収することができる。(例えば、労働者たちを昼夜交代シフト制で働かせるとか) 他のものが全て同じであるならば、生産物の量と価値は、つぎ込んだ労働量に直接的に比例して増大するであろう。生産の第一日目のように、新たに、当初の生産者・形成者が、資本の物質的要素の創造者へと変わる。− 人間と自然 −が依然として共に働く。労働力の伸張性に感謝する。集積の持ち分が、なんらそれに先立つ固定資本の拡大なしに拡大したのである。

  (17) 農業では、種子と肥料の更なる前貸しなしでは、栽培によって生産物を得る土地を増やすことはできない。しかし、一度この前貸しがなされれば、純機械的にその土地自身が生産物の量に驚くほどの結果をもたらす。以前と同じ数の労働者によってなされるより大きな労働量が、労働手段の新たな前貸しを何ら必要とせずに、土地の肥沃度を増大させる。いかなる新たな資本の介在もなしに、より大きな集積の直接的源泉となるものは、前にも指摘したように自然に働きかける人間の直接的な行為なのである。

  (18) そして最後に、いわゆる工場手工業を捉えてみよう。そこでは追加的労働に対してはそれに対応する追加的な原材料が前提される。しかしだからと云って労働手段が必ずしも必要ではない。つまり、採掘業や農業は工場手工業にそれらの原材料やそのための労働手段を供給する。前者の追加的な生産物は追加的前貸し資本なしで作られているのであるから当然ながら後者の工場手工業にもそれなりの効用が及ぶと語っている。

  (19) 一般的な結論。資本は、二つの根本的な富の創造者、労働力や土地と一体化することによって、あきらかなる自身の大きさによって規定された限界を越えて、または、それが資本そのものの存在なのであるが、既に生産された生産手段の価値と大きさによって規定された限界を越えて、資本の集積の諸要素を拡大することを可能とする拡大力を獲得する。

  (20) 資本の集積におけるもう一つの重要な項目は社会的な労働生産性の水準の高低である。 

  (21) 生産性の高い労働力によって、生産物の量は増大する。その生産物には、それなりの価値、そして、であるから、与えられた大きさの剰余価値も実体化されている。剰余価値率が同じに留まるか、または下落していてさえ、生産的労働力の上昇に比較してよりゆっくりと下落する限りでは、剰余生産物の量は増加する。この剰余生産物の収入と追加的資本への分割が以前と同じであるとすれば、資本家の消費部分は、従って、集積基金にはなんらの減少を伴うこともなしに、増大する。集積基金の相対的大きさは、消費基金の支出がどうであれ、さらに増加するであろう。またその一方で、商品の低廉化が、資本家の享楽手段への支出をいつものようにもたらすか、またはいつも以上にさえももたらすことになる。しかし、我々が見てきたように、労働生産性の増大と一体そのものであるところの労働者の低廉化も進む。であるから、現実の賃金が上昇していてさえ、より高い剰余価値率となって表れる。現実の賃金は決して労働生産性に比例して上昇することはない。従って、同価値の可変資本はより多くの労働力を使い回す。つまりより多くの労働を飲み込む。同価値の固定資本は、より多くの生産手段となる。すなわち、より多くの労働手段、労働対象、補助材料となる。であるから、また、より多くの生産のための要素、使用価値と価値のいずれをも、そしてまた労働の吸収剤をも供給する。従って、追加資本の価値が、以前と同じかまたは多少減少ですらあっても、集積の加速は依然として出現する。再生産の規模が物質的に拡大するのみではなく、剰余価値の生産が、追加資本価値よりもより急速に増大する。   

  (22) 労働の生産的な力の発展は、また、すでに生産過程に用いられている当初の資本にも撥ね返る。労働手段を構成する固定資本として機能しているそのある部分は、例えば機械、その他、は消費されずそれ故再生産されることもなく、または同じ種類の新たなものに、その長い期間を経過しない前に置き換えられる。とはいえ、これらの労働手段の一部は毎年、損耗し、あるいは生産的機能の限界に達する。従って、その年に周期的な再生産の時期に該当するものは同じ種類の新たなものによって置き換えられることになる。もし、労働の生産性が、これらの労働手段が使用し尽くされる間に、増大するならば、(そしてそれが絶えず遮ることのできない科学と技術の進歩によって発展する。)またより効率的で、(それらの増大された効率を考慮すれば)より安い機械、道具、機器が古きものを置き換える。すでに使用されている労働手段の細かな継続的改良は別として、古き資本はより生産的な形で再生産される。その他の固定資本部分、原材料や補助材、は、絶え間なく、1年未満の内に再生産される。農業によって生産されたそれらのものは、殆どのものが毎年再生産される。従って、改良された方法のあらゆる導入は、新たな資本にも、すでに稼働している資本にも、殆ど同時に作用する。あらゆる化学の進歩は、単に多くの有用なる物質を、すでに知られたそれらの有益なる応用を 倍増するのみでなく、そのようにして投資局面において資本の成長を拡大する。同時に、化学は生産過程や消費過程からの廃棄物を再生産過程の循環に投入することを教える。かくして、なんら先立って投入する資本もなしに、新たな資本材料を創造する。あたかも自然の富を、単に労働力の強度を高めるだけで搾取するがごとく、科学と技術が資本に、現実に機能している資本の与えられた大きさからは独立して、その拡大力を与える。丁度更新時期に到達した当初資本の部分にも同時にそれらが撥ね返る。古き形が使い尽くされる間に起こった社会的進歩が無償で、成り行き的に新しい形で当初資本に一体化される。勿論この生産的な力の発展には、機能している資本の一部に減耗が伴う。この減耗が資本家間の競争において苦痛に感じられる場合には、その重荷が労働者に被せられる。資本家が彼の損失補填を労働者に対するより大きな搾取に求めるからである。

  (23) 労働は労働手段を消費することによってその労働手段の価値を生産物に移転する。他方、与えられた労働の量によって用いられる労働手段の大きさとその価値は、労働がより生産的となるにつれて増大する。同量の労働は常にその生産物に同量の新たな価値を追加するのみではあるが、にもかかわらず、古き以前の資本の価値も、労働によって生産物に移転され、労働の生産性の成長に応じてその移転される旧資本の価値も増大する。

  (24) すなわち、一人の英国人紡績工と一人の中国人紡績工は同じ時間同じ強度をもって働くであろう、その結果として、ともに週当たり同額の価値を創造する。この等価にも係わらず、巨大なる差異が両者の間には生じるであろう。強力なる自動機械をもって働く英国人の週生産物の量と、他方紡車しか持たない中国人の週生産物の量とでは。同時間では中国人は1重量ポンドの綿を紡ぎ、英国人は数百ポンドを紡ぐ。古き価値の数百倍の価値が彼の生産物の価値を膨らませる。そこに新たなものとして再現される。有益なる形式で再現される。そしてこの機能が再び資本を資本として登場させることができる。

  (25) 「1782年」フレデリック エンゲルスが我々に教えるがごとく、「英国の前三年間の羊毛の収穫の全てが、労働者不足によってなんら手を掛けられずにそのまま放置されていた。そしてそのまま放置されたに違いない。もし新たに発明された機械が来てそれを助けそれを紡ぐことが無かったならば。」*46

  本文注 *46フレデリック エンゲルス「英国における労働者階級の状態」20ページ (ドイツ語)

  (26) 「機械の形式で体現された労働は、残念ながら、たった一人の人間にさえ生命を与えるような直接的な力を及ぼしはしない。だが、それが、より少数の労働者たちによって、比較的少ない生きた労働の追加によって、羊毛を生産的に消費するのみではなく、またその新たな価値を付与するのみではなく、その古き価値を撚糸その他の形式で保存することを可能にする。と同時に、それは羊毛の拡大再生産を引き出し促進したのである。新たな価値を創造するとともに、古き価値を移転するのは生きた労働の自然的特性なのである。それ故、生産手段の効率、範囲、価値、の増大とともに、またそれによる生産的力の発展に伴う集積の増大とともに、労働は、常に増大する資本価値を何時までも新しい形式で保存し永久化する。」*47

  本文注 *47 古典経済学は、労働過程と、価値創造過程の欠陥だらけの分析のせいで、この重要なる再生産要素を適切に把握したことが無かった。リカードに見られる通りである。例えば彼はこう言う。生産的力にいかなる変化があろうとも、「百万人の人間は常に工場手工業において同じ価値を生産する。」これはもし、彼等の労働の範囲と強度が与えられたものであるならば、正確である。しかし、だからと云って、以下のことを排除するものではない。(この点こそ、彼が引き出したそのような結論では見逃したところなのである。) つまり、 彼等の労働における生産力が異なれば、百万人の人間は彼等の生産物に非常に異なった生産手段の大きさを移転し、そして、それゆえ、非常に異なる価値の大きさを生産物に保存する。従って、そこに産出された生産物の価値はまさに様々であると云うことを。ついでに触れるが、リカードは、J. B. セイの提起した、格好の例、 使用価値 ( セイは、ここで、これを富または物質的豊かさと呼ぶ ) と交換価値との違いについて、明確にすることに失敗している。 セイの解決案 「リカードが次のように云うように、「より良い生産方法を用いることによって、百万人の人間が2倍または3倍もの富を、何らのさらなる価値を生むことなしに生産できる。」としたこの論の難点については、この点を誰もが思い当たるように、当然のごとく、生産は交換であるとすれば解消する。彼の労働、彼の土地、彼の資本の生産的サービスを、生産物を得るために提供すると云う交換のことである。この生産的サービスによって、我々はこの世界にある全ての生産物を得る。従って、生産と呼ばれるところの交換を通じてもたらされる有益なる物の量が多ければ多いほど、我々はより豊かになり、我々の生産的サービスはより大きい価値を持つ。」(J. B. セイ「マルサスへの手紙」パリ 1820年 168、169ページ) (フランス語 英訳付き) そのセイが云いたい「難点」−それは彼において存在しており、リカードにおいてではない−を明解に示すなら次のようになろう。なぜ交換価値は使用価値を増大させないのか、労働の生産的な力の増大に応じてそれらの量が増えたのに、なぜ? 答え。 難点は、失礼とは存じますが、交換価値を使用価値と呼ぶことによって生じます。(訳者余談で触れる) 交換価値とは、様々な方法によって交換に係わるもので、もし生産を、労働や生産手段と生産物の交換というのならば、生産がより多くの使用価値を生めば生むほど、それに比例してより多くの交換価値を得るのは日中 陽を見るより明らかである。別の言葉で云えば、使用価値が増えれば増えるほど、この場合は靴下ですが、労働日が靴下工場手工業主に靴下を生み出せば生み出すほど、彼は靴下に関してより裕福なる者となる。ところが、突然、セイは思い当たる。「大量の」靴下、それらの「価格」(勿論、それらの交換価値とは何の関係もない!)が、下落する。「なぜならば、それらの生産物を作るに要した価格で売ろうとする彼等(生産者ら)を競争に駆り立てるからである。(フランス語 英訳付き) しかし、もし、資本家が商品を原価で売るならば、利益はいかなる場合に生じるのか? ご安心あれ、セイは次のように宣言する。生産性の増大の結果として、全ての者は今、以前の一足の靴下に代って、与えられた等価として、二足の靴下を受け取る。彼がたどり着いた結論は、論駁しようとしたリカードの命題そのものである。この偉大なる思考の奔走の後で、彼は勝ち誇ったように、マルサス宗匠に、こう のたもうた。「宗匠、これはしっかりした事実により確立された学説で、これなくしては。と、私は云いたい。政治経済学上の大きな難点、そして特に、生産物の価値が下落し、それでも富が価値である時、いかにして国はより裕福となるかを説明することは不可能である。」(前出 170ページ)(フランス語 英訳付き) ある一英国人経済学者は、この右往左往する悪癖、セイの「手紙」にもあるのと同じ種類の学説について次のように批判する。「セイ氏が好んで自分の学説と呼び、マルサスにハートフォードで教えるよう熱心に勧めたそれらの気取ったものの言い方は、すでに「ヨーロッパのあらゆる所で」教えられており、「もし、この種の命題が逆説的に表れるならば、そのものが表しているものを見よ。そして私はそれらがいずれ最も単純に最も論理的にそれらを表すと、どこまでも信じる。」(フランス語 英訳付き) 何の疑問もない。そして同じこの方法を通じて、それらはあらゆるものを表すであろう。ただその起源(訳者余談で触れる)を除いては。(「需要の性質に関する諸原理についての研究」116、110ページ )




  訳者余談: この長い注47で表れた二つ事項について触れることにする。難点は、失礼とは存じますが、交換価値を使用価値と呼ぶことによって生じます。と当訳者は訳したが、向坂氏は「使用価値を交換価値と呼んでもらうことによって、難点は解決される。」である。各価値の正副転倒と、生じる・解決されると前後反転になっている。経済学者のセイやマルサスの文章の引用とはいえ、その中でマルクスが指摘している以下の注の文章の該当部分を読めば、向坂訳はあり得ない。いや、その前に、そう呼ぶならば、以下の文章も要らない。どう解決するのかはともかく、すべて交換価値のみの世界や、使用価値と交換価値の違いがない世界ではどう呼ぼうとどうでもいい話しである。安倍なんとか党の法解釈自由方式を持ち出すまでもないし、その解釈方式を義務教育化する必要もない。さて、もう一つの起源であるが、この起源が何かと云う点である。当然ながらリカードが解明しようとして失敗した命題でもいいかも知れないが、マルクスが書いているのだから、もう一つ思い当たるものがある。それはリカードやマルサス等のブルジョワ経済学では分析不能なる「労働」である。この部分の向坂訳は「独創的なものや重要なもの」となんでもありの「日本を取り戻す式」安倍回帰節調。これではマルクス自身が付記している批判部分を見逃しており失格と云う他ない。


  (本文に戻る) この労働力なる自然が、労働と一体化した資本の固有の属性と云う外観をもって表れる。丁度、社会的労働生産力が資本の生来からの属性と云う外観をもって表れるがごとくである。そしてまた、資本家による絶えざる剰余労働の搾取が、資本の絶えざる自己拡大の外観をもって表れるがごとくである。

  (27) 資本の増大とともに、資本として用いられている部分と消費された資本との差も増大する。別の言葉で云えば、物質的な労働手段の量と価値は増大する、すなわち、建物、機械、排水管、役牛、機器などのあらゆる種類の、長期あるいは短期に生産行程に絶えず繰り返し用いられるもの、または特殊の用途のために用いられるものである。それらのもの自体はただ少しずつ磨耗し、従ってそれらの価値は少しずつだけ失われ、従って、生産物に移転する価値もまた僅かずつである。これらの労働手段が、過去の生産物として、生産物に価値を加えることなくそこに存在していることに比例して、すなわち、同じ比率でそれらは使用されており、ただほんの僅かな部分のみ消費される。それらは、我々が以前見てきたように、あたかも、自然の力、水、蒸気、空気、電気等々のように無料の仕事を行う。過去の労働の無料の仕事は、生きた労働によって魂に捉えられ、魂に満たされ、集積の更なる前貸し局面とともに増大する。(訳者注: 色付き部分の向坂訳「生産物形成者」では、意味をなさない。)

  (28) 過去の労働はそれ自身を資本のごとく見せかけるので、すなわち、A、B、C、その他の者の生気を失った労働(the passive of the labour of A, B, C, etc、)が、生気(なまき)を見せる 非労働者Xの現実的な所有の形式 (the form of the active of the non-labourer X ) を取るのであるから、ブルジョワジーや政治経済学者はこの死んだ労働、過去の労働の貢献を満面の賞賛で迎える。このことを、スコットランドの天才マカロックが述べる所に従えば、(訳者追加: 死んだ労働、過去の労働こそ) 利子や利益その他の形で特別なる報酬を受け取るべきものである。となる。 *48 (色の付いた部分の向坂訳はそれぞれ、「負債」、「資産」となっている。だがもしそんな単語セットで言うならなんとしても、「債権」「拾得物」であるべきだろう。passive−active の対語合わせには、「生気を失った−生気(なまき)を見せる」を我が対語訳として置いてみた。)

    本文注 *48マカロックは「過去の労働の賃金」と云う特許を取得した。シーニョアが「節制の賃金」と云う特許を取得したよりもかなり前のことである。 

  (本文に戻る) 労働手段と云う形式のもとに、生きた労働過程に持ち込まれる過去の労働によって与えられる強力かつ常時拡大する助力は、であるから、労働者自身からの、不払い労働であり、すなわち、資本的形式で譲渡された過去の労働という形式であると云える。資本主義的生産の実際上の代表達や彼等のために屁理屈を並べる観念論者達は、この生産手段 (訳者追加: の実相)を、それらが今日纏っている反社会的な仮面を、そこからはぎ取って、見ることは出来ない。丁度、奴隷所有者が、 (訳者追加: 自分の財産である) 労働者そのものを、奴隷という性格を外して、考えることが出来ないのと同じである。

  (29) 労働力の搾取の度合が与えられているものとすれば、生産された剰余価値の大きさは、同時に搾取されている労働者数によって決められる。そしてこれが、その比率は変化するが、資本の大きさに対応している。従って、次々なる集積によって資本が増大すればするほど、消費基金と集積基金に分かたれる価値の総額も増大する。であるからして、資本家はよりど派手な生活を送りかつ同時により大きな ど「節制」をして見せることができる。かくして究極のところ、前貸し資本の規模が大きくなればなるほど、あらゆる生産バネがより大きな伸張性を演じて見せる。 



[第四節 終り]




第五節 俗に云うところの 労働基金

[Dr.エイブリング訳 エンゲルス監修]


  (1) 資本が固定された大きさではないことは、これまでの考察において見てきたところである。その上、それは社会的富の一部であり、新たな剰余価値が収入と追加的資本とに分かたれることで、弾力性があり常に変動していることも見てきたところである。さらに、機能している資本の大きさがたとえ与えられた大きさであっても、労働力、科学、そして土地 (それは経済学的に云えば、人間から独立して、自然として、あらゆる労働の条件を与えるもの として理解されるべきものである。)を、そのなかに取り込んでおり、資本の弾力的な力と云う形式を取り、一定の限界の内において、それ自身の大きさとは独立した活動領域を資本に与えている。これまでの考察において、我々は流通過程の様々な効果を無視してきた。その効果は同じ資本の大きさにおいても非常に異なる効率の度合を生じさせるであろう。また、我々は資本主義的生産によって規定される限界を予め想定しており、つまり、純粋に自然成長的な発展形式における社会的生産過程を想定しており、そのため、我々はそれ以上のいかなる理論的な結合、直接的かつ組織的に生産手段として用いることができるものや現時点で使用できる労働力の大きさ と云った点については無視してきた。(訳者注: 資本や労働力をいかに用いるかと云う主題を想起させている。向坂訳でもこの点は訳されているのだが、「無視してきた。」と私が訳したところが「度外視された。」とあって、我々との関係がなくなり、誰から度外視されたのかも把握困難で、この主題を見逃してしまうだろう。) 古典経済学はいつも、社会的資本を固定した効率度合の固定した大きさであると見るのをを好む。しかしこの先入観は アーチ門付きペリシテ家のご亭主 ジェレミー ベンサムのドグマの一つとして最初に確立されたものである。つまらない、もったいぶった、19世紀の平凡無比なるブルジョワ知識人のなめし皮舌のご宣託である。*49

  本文注 *49 いろいろとあるが、ジェレミー ベンサム「何も与えないことと報酬を与えることの理論」Et. デュモン仏訳 第三版 パリ 1826年 第二巻 第四部 第二章 (フランス語)

  (本文に戻る) ベンサムの哲学者としての位置は、マーティン タッパーの詩人としての位置のごときものである。共に英国においてのみ工場手工業生産されることができた。*50

  本文注 *50 ベンサムは、いつの時代にあっても、いずれの国にあっても、最も平凡なありふれたことをいつも全く自分勝手に気取って云う我等が哲学者 クリスチャン ウルフ を除くまでもなく、純粋なる英国現象である。有用性の原理 (訳者注: 功利主義と日本語では訳されている。) は、ベンサムの発見ではなかった。彼は単に、エルベティウスやその他のフランス人達が18世紀に風刺を込めて表したものを、再生産したに過ぎない。何が犬にとって有用であるかを知りたければ、犬の性質を知らなければならない。その性質そのものは有用性の原理から引き出されるものではない。これを人に応用するならば、有用性の原理によって全ての人間の行為、動作、諸関係等を批評しようとするならば、まず最初に、一般的な人間の性質を取り扱わねばならない。そして次いで、その人間の性質なるものがそれぞれの歴史的な時代によって制約を受けたものであるとして取り扱わなければならない。ベンサムはそれをあっと云う間に片づける。彼は乾燥しきった素朴さそのままに、近代小売り商店主を、特に英国人小売り商店主を標準的人間として取り扱う。この奇妙奇天烈な標準人間にとって有用なるものはなんでも、そして彼の世界にとって有用なるものはなんでも、絶対的に有用なのである。そしてこの英国ヤード物指しを、彼は、過去、現在、未来に適用する。すなわち、キリスト教は「有用」である。「なぜならば、法の名において罰則が有罪と宣言する過失を、その同じ過失を宗教の名において禁じるからである。」芸術批評は「有害」である。なぜならば、マーティン タッパー他を楽しもうとする立派なる人々に迷惑を及ぼすからである。こんなごみを書き並べてこの勇敢なる男は、「1行も書かぬ日は来ぬ」をモットーに山なす本を書いたのである。もし私が、私の友であるハインリッヒ ハイネの大胆さを持っていたら、私はジェレミー ベンサム氏をブルジョワの馬鹿馬鹿しさにおける大天才と唄うであろう。(訳者注: 私は勿論マルクスである。ハイネは若き日のマルクスの友であった。ローレライで有名なハイネは、時には、時事詩、風刺詩をものにした。1844年 シレジアの窮乏した織物工たちの蜂起を採り上げた「シレジアの織工」(時事詩) は知る人ぞ知る。偽ドイツよ、お前の死装束を、歯を食いしばって織ってやる、織ってやる、織ってやる。ナチスドイツはハイネの著作を焚書の対象とした。)

  (本文に戻る) 彼のごとき独断勝手論者の目には、最も普通な生産過程の現象も、すなわち、突然の拡大や縮小、そして集積そのものも、完全に、想像すらできないものになってしまう。*51

  本文注 *51「政治経済学者らは一定量の資本と一定量の労働者たちを、一定の力の生産的手段、または一定強度によるそれらの作動と見てしまう傾向が強い。…. その連中は、…. 商品が生産の唯一の動機であるとか、…. 生産は決して拡大されないこと、なぜならば、予め必要とされる食料、原材料、道具といった絶対的条件が必要となるからである。つまり先立つ増加が無ければ生産の増加は起こらないと云うのが事実だからである。別の言葉で云えば、増加は不可能なのである。」(S. ベイリー 「貨幣とその変動」58ページ、70ページ) ベイリーは、主に、流通過程の視点からこの独断勝手論を批判している。

    (本文に戻る) この独断勝手論は、マルサスや、ジェームス ミルやマカロック、その他と同様に、ベンサム自身によっても、資本の一部、すなわち、可変資本または労働力に転換される部分が固定された大きさのものであることを言い表すために、言い訳的な目的のために使われている。可変資本の素材、すなわち、労働者のための生存手段の大きさ、または、俗に云うところの労働基金は、社会的富とは分かたれ、自然の法則によって決められ、変動することができないものとの、作り話にされていた。固定資本として機能させるための、またはそれを生産手段として物質的な形式で表現するために、社会的富を実際に起動させるためには、一定量の生きた労働の大きさが必要となる。この大きさは技術的に与えられる。しかし、この与えられた労働力(それも個々の労働力の搾取の度合によって変化する)の大きさを活用ならしめる労働者数としては求められてはいないし、与えられた労働力の価格としても求められてはいない。ただ単に、その最小限のみにしかすぎない。その最小限というものも他以上に極めて変化するものである。この独断勝手論の底にあるものは以下の通りである。一方において労働者は、社会的富を非労働者のための享楽手段と、生産手段とに分割することに関してはなんら口を挟む権利を持たないし。*52

  本文注 *52 ジョン スチュアート ミルは、彼の著「政治経済学の原理」でこう云っている。「本当に疲労し、そして本当に不快な仕事をする労働者たちは、他の者よりもよい支払いを受ける者とは違って、殆ど変わることのない最悪の支払いを受ける。…. ぞっとするような仕事になればなるほど、最低限の報酬を受け取ることがより確実である。…. 労苦と報酬は直接的な比例に代って、彼等が願うであろう社会的正義の名において、一般的に逆比例となって表れる。」 誤解をさけつつ、私に次のように言わせてほしい。ジョン スチュアート ミルは彼等の伝統的な経済学の独断勝手論と彼等の近代的な傾向に見られる矛盾があって、非難されるべきではあるのだが、俗流経済学弁護者の群れの中に入れたままにして置くのは全く間違っている。

  (本文に戻る) さらに他方においては、労働者は、何かの折りに、例外的に、資本家の「収入」の支出として、俗に云うところの労働基金を拡大する力を持つだけのことである。(訳者注: ここは茶番力とかやらされ力とか芝居力とかに近いと思う。ストもなしに、安倍式法人税減税を国民に説明するために用いた、賃上げ要請なる方便的資本指導演技もあることだし。) 

    (2) 労働基金の資本主義的限界をあたかも自然かつ社会的な限界として表す試みから生じる馬鹿げた同義反復は、例えば、フォーセット教授の著書で見ることができよう。*53 

  本文注 *53 H. フォーセット ケンブリッジで政治経済学の教授「英国労働者の経済的位置づけ」ロンドン 1865年 120ページ

  (3) 彼は云う。「一国内で流通する資本は、国の賃金基金である。であるから、もし我々が、各労働者によって受け取られる平均貨幣額賃金を計算しようと思うなら、我々は単純に、この資本総額を労働人口で割り算すればその答えを得る。*54

  本文注 *54 私は、ここで、私が初めて示した、「可変資本と不変資本」と云う資本の区分を、読者に思い起こさせねばならない。政治経済学は、アダム スミスの昔からこの方、これらの区分に係わる本質的な区別を認識するまでに至らず、ごちゃ混ぜにしていて、単なる呼称上の違い、流通過程の、決められかつ流通している資本の外に表れるものと、みなしていた。この点のさらなる詳細については、第二巻 第二部で見よ。

  (4) 云っていることを別の言い方で云い換えれば、我々はまず実際に支払われた賃金を全て加え合せ、その結果総額を得る。すなわちそれが、全「労働基金」として、神と自然によって決められ、下賜された全価値をなす。そしてもう一回、我々はその得られた総額を、再びそれぞれが平均でいくらが手にしたかを求めるために、労働者数で割る。なんじゃこれは、とんでもない故意のごまかしと云うべきものである。だから、この思考は、フォーセット氏が同じ口で次のように云うのを妨げることはなかった。

  (5) 「英国で、毎年蓄えられる全体の富は、二つの部分に分かたれる。ひとつは、我々の工業を維持するための資本として用いられ、そしてもう一つの部分は、外国に輸出される。…. この国で毎年蓄えられる価値の一部分、多分それは大きな部分ではないが、その部分のみが我々自身の工業に投資される。*55

  本文注 *55 フォーセット 前出 122、123ページ

  (6) 毎年次第に増大していくその大きな部分、横領された部分、なぜならば、英国労働者へ何の等価を支払うことなく剥ぎ取ったものなのだから、は、資本としてこのように、英国ではなく、外国において用いられる。かくて、このように、特別なる資本が、輸出されるのに付随して、神とベンサムによって発明された「労働基金」の一部もまた輸出される。*56

  本文注 *56 資本のみではなく、労働者もまた移民の形で、毎年英国から輸出されたと云うことができよう。とはいえ、移民者の財産については、その大部分が労働者ではない者のそれである点は疑問の余地がない。その者の大部分は、借地農業主の息子らである。毎年の資本集積の中においても、利子を求めて毎年輸出される特別なる資本は、毎年のごとに増大する移民人口に較べても、より大きな伸び率を示す。

   


  訳者余談: この注56は、アメリカ資本の出生の秘密を明かしている。今日のTPPに立ち至っているアメリカの状況も、また貧乏人に対する税金支出を拒否して富者の楽園という地方自治を作ろうとする市民の生き方の秘密も暴露している。この僅かなマルクスの指摘がこれほど見事にそれらを記述しているとはと身震いすらさせられる。また、マイケル サンデルの白熱教室がことの初めに、功利主義ベンサムの思想を取り扱う理由もはっきりする。資本主義のがらくたがここに始まるからである。当然ながら、日本資本の生誕の秘密を知れば、日本資本の今後の動向もまた明らかとなる。明治以後の侵略戦争開始こそ、その生誕の秘密である。満州国が日本資本の温室であり、一旦中国・欧米との戦争で失ったものの、一部が生き残り、朝鮮戦争やベトナム戦争で再生した。そして今、武器輸出と他国防衛化憲法解釈方式を成長の秘密にすることとなった。世界の資本が日本資本を、日本の労働力を利用しようとしたからこそ、日本資本が存在し増大したのである。従って、独自路線をも追い求めようとする日本資本としては、世界資本が実行する戦争に加担しつつ、戦争でない戦争という矢羽根曲芸こそ追い求める全てなのである。日本を取り戻す、取り戻す、取り戻す、なる取り戻す音頭の意味はその出所である日本資本出生の遺伝子が語るところと分かる。

 



 



[第五節 終り]



[第二十四章 終り]