5、スターリン=テールマン政策を

彼ら自身の経験によって検証する

 戦術というものは、最も危機的で決定的な瞬問にこそ検証にかけられる。ボリシェヴィズムの力は、事態の推移が大胆な決定を要求するやいなや、ボリシェヴィキのスローガンと方法の正しさが全面的に確認されたことにあった。情勢が深刻になるやいなや放棄しなければならないような原則に、何の価値があろう?

 現実主義的政策は、階級闘争の自然な発展によりどころを置いている。セクト主義的政策は、階級闘争に人為的な規則を設けようとする。革命情勢は、階級闘争の最も先鋭な高まりを意味する。まさにそれゆえ、マルクス主義の現実主義的政策は、革命情勢においてこそ、大衆に対して強力な引力を発揮するのである。これに反して、セクト主義的政策は、事件の圧力が強ければ強いほど弱くなる。パリ・コミューンの動きに不意を打たれたブランキ(1)主義者とプルードン(2)主義者は、彼らが常に説いていたことと正反対のことを実行した。ロシア革命のあいだ、アナーキストはソヴィエトを、すなわち権力の機関を承認せざるをえなかった。その他きりがない。

 コミンテルンが自らの支えとしているのは、それ以前にマルクス主義に獲得され、10月革命の権成によって打ち固められた大衆である。だが現在の指導的スターリン派の政策は、階級闘争に政治的表現を与えるかわりに、指令を与えることに血道を上げている。これは官僚主義の本質的特徴であり、その他の特徴に関しては鋭く区別されるセクト主義とこの点では一致している。強力な機構、ソヴィエト国家の物質的資源、10月革命の権威のおかげで、各国のスターリニスト官僚は、相対的安定期に、一定の時間をかけてプロレタリア前衛に人為的制約を課した。しかし階級闘争が内乱へと凝縮するにしたがって、官僚主義的規制は仮借ない現実とますます激しく衝突する。情勢の急激な転換に直面すると、傲慢で自己過信した官僚はたちどころに困惑状態に陥る。指令を与えることができなければ、降伏する。この数ヵ月におけるテールマンの中央委員会の政策は、いつの日か最も惨めで最も憐れむべき混乱の見本として研究されることだろう。

 「第三期」以来、社会民主党との協定は問題になりえないということは、不可侵の原則とみなされていた。コミンテルンの第3回、第4回世界大会が教えたような、自ら統一戦線のイニシアチブをとることが認められなくなっただけでなかった。それどころか、社会民主党から出される共同行動の提案をも拒否しなければならなかった。改良主義的指導者は「十分に暴露された」。過去の経験は十分である。政治を追求する代わりに、大衆に歴史を語って聞かせなければならない。改良主義者に何かを提案することは、彼らに闘争能力があることを認めることになる。それだけで社会ファシズムだ、云々。このようなものが、この3、4年間における、耳を聾する極左主義的手回しオルガンの調べであった。そして今や、プロイセン州議会において、共産党議員団は6月22日、誰にとっても、また自分自身にとっても思いがけないことに、社会民主党ばかりでなく、中央党に対しても、協定を提案したのである。ヘッセンでも同じことが繰り返された。プロイセン州議会の議長の席がナチスの手に落ちるかもしれない危険に直面して、あらゆる神聖不可侵の原則は崩れ去った。驚くべきことではなかろうか? そして恥ずべきことではなかろうか? 

 しかしながら、これらの命がけの飛躍を説明することは、それほど難しいことではない。周知のとおり、多くの皮相な自由主義者や急進主義者は、日ごろは宗教や神の力を冗談の種にしているが、死や重病に直面すると司祭を呼ぶ。政治においても同じである。中間主義の核心は日和見主義だ。外的諸事情(伝統、大衆の圧力、政治的競争)の影響下で、中間主義は、ある期間、急進主義を誇示することを余儀なくされる。そのためには、自分の力にあまることをし、その政治的本質を侵害しなければならない。全力をあげて自らを奮い立たせることによって、形式的急進主義の極限に達することもしばしばある。だが、深刻な危険を告げる鐘が鳴るやいなや、中間主義の本性が表面化する。ソヴィエト連邦の防衛のようなきわめて徴妙な問題においては、スターリニストは、ただちにその極左的空文句を犠牲にするだけでなく、――弁護士、作家、あるいは単なるサロンの英雄といった、あてにならない偽りの「友人」との友惰の名において――国際革命の死活にかかわる利益をも犠牲にしてしまう。上からの統一戦線? 断じて否! だが、それと同時に、ミュンツェンベルクという名前の曖昧問題人民委員は、「ソ連防衛のために」、ありとあらゆる種類の自由主義的おしゃべりや急進主義的三文文士たちの上着のすそを引っぱって来た。

 ドイツのスターリニスト官僚は、他のすべての国(ソヴィエト連邦は除く)のスターリニスト官僚と同じく、反戦大会の問題に関して、バルビュス(3)の妥協的な指導に不満たらたらである。この領域では、テールマン、フォスター(4)その他は、急進的であることの方を選んだ。しかし、自分の国の国内問題では、彼らはいずれも、モスクワ当局と同じ手本にしたがって行動する。すなわち、深刻な危険性が接近するにつれて、彼らは、水増しされた偽りの急進主義を投げ捨て、自分たちの本性を、つまりその日和見主義的性質を露わにする。

 州議会の共産党議員団が社会民主党との協定のイニシアチブをとることは、それ自体として誤りで許容しがたいものだろうか? われわれはそうは思わない。ボリシェヴィキは1917年に、一度ならずメンシェヴィキと社会革命党に対して提案した。「政権をとりたまえ、ブルジョアジーが抵抗するならば、われわれは、ブルジョアジーに対抗して君たちを支援しよう」。妥協は許容されるし、一定の条件下では、それは義務的でさえある。全問題は、この妥協がどのような目的に役立つのか、それが大衆にはどう映るか、その限界はどこにあるのか、ということのうちにある。妥協を州議会や国会に限定したり、ファシストの代わりに社会民主党議員あるいはカトリック中央党議員が議長になるかどうかを一つの独立した目的とみなしたりすることは、完全に議会主義的クレティン病にかかることを意味する。しかし、党が統一戦線政策にもとづいて、社会民主党労働者を獲得するための系統的・計画的闘争を自己の任務とするならば、事態はまったく異なる。この場合だと、ファシストの議長就任に反対する等々のための議会主義的協定は、ファシズムに反対する議会外の戦闘協定の単なる一要素になるだろう。当然のことながら、共産党は議会外において一撃で全問題を解決することを望むだろう。しかし、力が不足している場合には、望むだけでは十分ではない。社会民主党労働者は、7月31日の投票の魔力を信奉していることを示した。われわれはこの事実から出発しなければならない。それ以前の共産党の誤り(プロイセン人民投票、等々)は、改良主義的指導者による統一戦線のサボタージュを途方もなく容易にした。技術的な議会内協定は――あるいはそのような協定の提案自体が――、社会民主党に反対してファシストと協力しているという非難から共産党を解放する助けとなるだろう。これはけっして独立した行動ではなく、ただ戦闘協定へと道を開くこと、あるいは少なくとも、大衆組織の戦闘協定のための闘争へと道を開くことである。

 2つの路線の相違はまったく明白である。社会民主党組織との共同闘争は革命的性格を帯びることができるし、それが展開されていくにつれて、そうならなければならない。われわれは、社会民主党の大衆に接近する可能性を得るために、ある一定の条件のもとでは、上部における議会内協定を結ぶことさえできるし、そうしなければならない。しかし、これは、ボリシェヴィキにとって単なる入会金にすぎない。スターリニスト官僚は、正反対の行動をとる。彼らは戦闘協定を拒絶するだけでなく、もっと悪いことには、下部から生まれる協定を悪意をもって破壊する。それと同時に、彼らは社会民主党議員に向かって、議会内協定を提案する。これは、危機の瞬間に、彼らが自らの極左主義的理論と実践が無価値であると宣言することを意味する。しかし、彼らはそれを革命的マルクス主義の政策と置きかえるのではなく、「より小さな悪」の精神にのっとった無原則的な議会内取り引きに置きかえるのである。

 もちろん、プロイセンとヘッセンのエピソードは、当地の議員が犯した誤りであり、中央委員会によって正しく収拾されたのだと彼らは言うことだろう。だが、まず第1に、このように重大な原則上の決定が、中央委員会なしでなされたはずはない。この誤りの責任は完全に中央委員会にも問われるはずである。第2に、「強固で」「首尾一貫した」「ボリシェヴィキ的」政策が、何ヵ月にもわたる自慢と大騒ぎ、論争、誹謗中傷、除名劇の後に、決定的瞬問が到来するや、突如として、日和見主義的「誤り」に席を譲ったということを、いったいどのように説明するのだろうか?

 だが問題は州議会に限定されない。テールマン=レンメレは、はるかに重大で決定的な問題において、自分自身および自分たちの一派を完全に否定した。7月20日、共産党中央委員会は次の決議を採択した。

「共産党はプロレタリアートの前で、社会民主党、ドイツ労働総同盟(ADGB)、自由従業員総同盟(AfA−Bund)(5)に対して、共産党とともに、プロレタリアの諸要求のためのゼネストを行なう用意があるのかどうかという問いを、プロレタリア大衆の面前で提起する」。

 かくも重大で思いがけないこの決定は、何の注釈もなしに、中央委員会によって、7月26日付け回状の中で発表された。しかし、これまでの共産党の全政策に対して、これ以上に破滅的な審判があるだろうか? 改良主義的上層部に対して共同行動を提案することは、ほんの昨日までは、社会ファシスト的で反革命的であると宣告されていた。この問題のために、多くの共産党員が除名された。この基盤の上で「トロツキズム」に対する闘争が遂行されていた。それでは、いったい全体どうしてこの中央委員会は突然、7月20日の前夜になって、その前日まで断固として排撃していたものに拝跪することができたのか? そして中央委員会が、何の説明も弁明もすることなしにこの驚くべき決議をもって党の前に臆面もなく現われたとき、官僚は党を何と悲劇的な状況に導いたことだろう! 

 政策というものは、このような転換によってこそ検証に付される。ドイツ共産党中央委員会は、7月20日の前夜に、事実上、全世界に向かってこう宣言したのである。「われわれの政策は、この瞬間までまったくの役立たずであった」。この告白は、不本意なものであるとはいえまったく正しい。不幸なことに、これまでの政策を覆した7月20日の決定でさえ、けっして積極的な結果を生むことはできなかった。上層部への呼びかけは――この上層部の現時点での回答がいかなるものであれ――、事前にそれが下から準備されている場合にのみ、すなわち、総合的な政策全体にもとづいている場合にのみ、革命的意義を持つことができる。だが、スターリニスト官僚は、社会民主党労働者に向かって、毎日こう繰り返していた。「われわれ共産主義者は、社会民主党指導者とのいかなる協力も拒否する」(前章で紹介したテールマンの回答を参照せよ)と。7月20日の唐突で思いがけない場当たり的な提案は、ただ共産党指導部の無定見さ、真面目さの欠如、パニックと冒険主義的飛躍への傾向を白日のもとにさらすことによって、共産党指導部の正体を暴露することに役立っただけである。

 中間主義官僚の政策は、一歩ごとに敵を助けている。たとえ事件の強力な圧力が、数十万の新たな労働者を共産党の旗のもとに押しやるとしても、それは、スターリン=テールマン政策にもかかわらずそうなるのである。まさにそれゆえ、党の未来はいかなる意味でも確固たるものではないのだ。

1932年8月18日

『ドイツにおける反ファシズム闘争』(パスファインダー社)所収

新規

  訳注

(1)ブランキ、オーギュスト(1805-1881)……フランスの革命家。共産主義者。1848年 の革命における最左派の指導者。共産主義革命の手段として政治権力の奪取と人民の武装蜂起を主張し、マルクスにも影響を及ぼす。生涯のうち30年近くを獄中で過ごした不屈の革命家。

(2)プルードン、ピエール(1809-1865)……フランスの社会主義者、アナーキズムの理論的始祖の一人。労働者出身で、苦労して社会主義思想を身につける。1840年に『財産とは何か』を著わし、財産とは窃盗であると論じて、私有財産制を批判。1848年の2月革命で国民議会議員に。小経営の維持、分配における平等、財産相続の禁止、人民銀行の創設などを主張。1847年にマルクスによって小ブルジョア社会主義の一種として批判される。

(3)バルビュス、アンリ(1873-1935)……フランスの詩人・作家。人道主義的立場からしだいに社会主義的立場に移行し、共産党に入党。雑誌『クラルテ』を創刊。1930年代にはスターリニズムの主要な文学的弁護者となった。1935年に訪ソ中に死去。

(4)フォスター、ウイリアム(1881-1961)……アメリカ労働運動の指導者、アメリカ共産党の指導者、熱心なスターリニスト。1900年にアメリカ社会党に入党、1909年に世界産業労働者連合(IWW)に参加し、以来、労働運動で活躍。1916〜1921年、アメリカ労働総同盟(AFL)のオルグとして活躍し、1921年に鉄鋼ストライキを指導。1921年にアメリカ共産党の設立に参加し、中央委員に。1924、28、32年に大統領選挙に立候補。第2次世界大戦後に党議長。1947年に反逆罪で起訴されるも、1953年に保釈。

(5)いずれも社会民主党主導の労働組合連合。ADGBは、主としてブルーカラーの労働組合連合で、AfA−Bund(自由従業員総同盟)はホワイトカラー労働者の労働組合連合。

 

目次序文後記


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