カール・マルクス


「資本論」 (第1巻)

 

訳者  宮 崎 恭 一

(1887年にイギリスで発行された版に基づく)

 

 

カール・マルクス

資 本 論


第一巻 資本の生産過程

第三篇 絶対的剰余価値の生産

第十章 労 働 日



第一節

労働日の限界



(1) 我々は、労働力がその価値通りに買われ、また売られると云う前提から考察を進めてきた。その価値は、他の全ての商品と同じく、その生産に必要な労働時間で決められる。もし労働者の生存手段の生産のために、日平均6時間を要するのであれば、彼は、彼の一日の労働力を生産するために、または、その売りの結果として受け取った価値を再生産するために、平均して、毎日6時間労働しなければならない。彼の労働日の必要部分は6時間となり、そして従って、それが、なされるもの、示された量である。(ラテン語) この通りではあるが、労働日の長さ自体はだからと云って所与のものとは決まらない。

(2) 直線 A―――Bが、必要労働時間、つまりは6時間の長さを表すものと仮定する。もし、労働がA―――B を越えて1, 3, または6時間長引くならば、我々は3通りの別の直線を持つことになる。

    労働日 I.  A---B -C.
    労働日 II. A---B ―-C.
    労働日 III. A---B ―――C.

3つの違った労働日は、7時間、9時間、そして12時間を表している。直線A―――Bの、延長部分 B ―-C.は、剰余労働の長さを表している。労働日は、A―――B + B ―-C または、A―――Cであるから、可変量 B ―-C によって変化する。 A―――Bは一定であるから、B ―-CのA―――B に対する比率は、いつでも計算できる。労働日 I.の場合は 1/6、労働日 II.の場合は 3/6、労働日 III.の場合は6/6 ( A-B ) となる。さらに、比率、

    剰余労働時間 / 必要労働時間

は、剰余価値率を決めるものであるから、この後者の比率は、B-C の A-B に対する比率として与えられる。それは、それぞれ3通りの違った労働日で、16 2/3、50、そして100% となる。これとは違って、もし、剰余価値率のみが与えられたとしても、例えば100% であるとしても、労働日は、8、10、12、またはそれ以上の時間となるかもしれない。労働日を構成する二つの部分、必要労働時間と剰余労働時間が、引き延ばされた結果として同量になっているとしても、これらの二つの構成部分のそれぞれが いかなる長さであったかは 分からないということである。

(3) 労働日は、この様に、一定ではない。まさに変動量なのである。その一方の部分は、確かに、労働者彼自身の労働力の再生産に必要とされる労働時間によって決定される。だが、その全体の量は剰余労働の長さによって変動する。従って、労働日は決めることができるものではあるが、とはいえ、それだけで決まるものではない。(ラテン語)

(4) 労働日が、定まっているものではなく、変動するものではあるが、他方、一定の限界内でのみ変動する。しかしながら、その最小限度はもちろん決められない。もし、我々が延長線B-C または、剰余労働 = 0 とすることができるならば、我々は最小限度、すなわち、彼自身の維持のために必要となる労働をしなければならない労働日の部分だけと云うことになる。しかしながら、資本主義的生産の基本に従うならば、この必要労働は、労働日の単なる一部分をなすだけで、労働日自体はこの最小限度まで減じられることはありえない。他方、労働日には最大限度がある。ある点を超えて延長されることはできない。この最大限度は二つの物事によって条件付けられている。その第一は、労働力の物理的な活動によっている。自然日の24時間において、人は彼の生命力の決まった量だけしか支出できない。馬は、同様に云うならば、日から日までの間、8時間しか働けない。その日の一部において、この力は、休息し、眠らなければならない、またその日の別の部分において、他の物理的な必要を満足させなければならない。食事をし、洗濯をし、衣服を用意しなければならない。これらの純粋に物理的なものの他に、この労働日の延長は、道徳的倫理とも対立する。労働者は、彼の知的かつ社会的な欲求を満足させるための時間をも必要としている。その欲求の広がりや活動の回数は、社会の進展の一般的状況によって規定される。従って、労働日の変化は、物理的、また社会的な規制範囲内において生じる。とはいえ、これらの制限条件はいずれも、非常に弾力的で、どこまでも許容範囲を許す。そのため、我々は、8時間、10、12、14、16、また18時間と言ったような全く多くの違った長さの労働日を見いだす。

(5) 資本家は、その労働力を日単価で購入した。彼にとっては、その使用価値は一労働日の期間中ずーっと存在している。であるから、彼は、一日中ずーっと労働者を労働させる権利を得たのである。しかし、一労働日とは何なのか?

本文注: この質問は、ロバート・ピール氏がバーミンガム商業会議所に対して行った 1ポンドとは何か? という有名な質問よりもはるかに重要な質問である。彼がこの様な質問を提起したのは、ピール氏がバーミンガムの「小シリング派」の面々と同様に貨幣の由来について知らなかったが故である。

( 読者のために、多少訳者が補足する。貨幣が何であるかを読んできた読者にとっては、ピール氏の質問をもう少し詳しく紹介すれば足りるであろう。彼はこう言う。仮に、3英ポンド 17シリング なにがしかが、黄金1オンスの価値と言うならば、それは単に黄金1オンスの価値に過ぎない。もし、それが、黄金1オンスの価値が、5ポンド 4シリングになったなら、どうなる。1ポンドとは何か、一定の標準価値ではない。と。マルクスがここで、次のように書いている。その言葉の単位は、日々または週の「人の労働」を表している。と。これで、繋がりがはっきりしたであろう。経済学批判 貨幣の基準に関する理論 マルクスより)

(6) すべての出来ごとを並べようとも、それは自然日よりは少ない。どの程度少ないと云うかだが、資本家は、この労働日の必然的限界について彼独特の見解を持っている。資本家とは、単なる資本の擬人化に過ぎず、彼の魂は資本の魂に他ならぬ。資本は、ただひとつの衝動的生命を持つ、価値と剰余価値を創造しようとする衝動というべきもので、不変部分、生産手段となり、でき得る限りの剰余労働量を吸収しようとする衝動である。

(7) 資本とは、死んだ労働である。それが吸血鬼のごとく、生きた労働を吸って生きかえり、さらに労働を吸えば吸う程に大きな生命を持つに至る。労働者が働く時間こそ、擬人資本が、彼自身をもって購入した労働力を消費する時間なのである。

(8) もし、労働者が、彼のその使用に供した時間を、自分のために消費するなら、彼は資本家から盗むことになる。

(9) であるから、資本家は、商品交換の法律を拠り所とする。彼は、他の全ての買い手と同様に、彼の商品の使用価値から取り出し得る最大の便益を求める。突然、労働者の声が沸き上がる。生産過程の嵐と抑圧の中に放り込まれたのだから。

(10) 私があなたに売った商品は、他の商品群とは違って、その使用において価値を創造する。その商品自体より多くの価値を創造する。だからこそ、あなたはそれを買ったのである。あなたの側から見れば、天与の資本の拡大として表れる。だが、我々から見れば、労働力の余分な支出である。あなたと資本家である私は、市場においては、ただ一つの法律を知るだけである。すなわち、商品の交換のそれである。商品の消費は、それを手離した売り手に属するものではなく、それを獲得した買い手にだけ属している。従って、あなたが、私の毎日の労働力の使用に属しているということになる。しかし、あなたが日々支払う代価によって日々のそれを再生産することができなければならない。またそれを再び売ることができなければならない。年齢による自然な消耗等々を別にしても、あす日も同じ通常の力と健康と新鮮さをもって働くことができなければならない。あなたは毎度のように、節約せよとか、無駄遣いするなとかの文句で我々に説教を垂れるが、それなら、それもいいだろう。私は、注意深い節約家の持ち主として、私の唯一の富、労働力、の執事として、その馬鹿らしい無駄遣いを節制しょう。私は、日々その通常の時間と健康的な発展に見合う限りにおいて、動きを定め、行動を注入しよう。あなたは、無制限の労働日の拡大によって、私が三日かけなければ回復できない程の大きな労働力の量を一日で使い尽くそうとするかも知れない。あなたが労働から得るものは、私の失う命なのである。私の労働力の使用と、それの強奪とは全く違うものなのである。もし、(普通にやるべき当たり前の量の仕事をこなす) 平均的な時間の仕事によって、労働者が平均的に働く期間が、仮に30年であるとしょう、とすれば、あなたが私に日の始まりから終りまでの分として支払う価値は、私の受け取るべき全価値の1/(365×30) または 1/10950 の価値ということになる。しかるに、もし、あなたがこれを10年間で使い尽くし、それでもあなたは私に日々、全価値の1/3650 の代わりに1/10950 を支払うならば、つまりわずか 1/3しか支払わないならば、あなたは、私の商品の2/3 を毎日盗むこととなる。あなたは私に一日分の労働力に対して支払うが、その間あなたは、三日分の労働力を使用する。これは、我々の契約及び交換の原理原則に違反する。であるから、私は、普通の当たり前の長さの労働日を要求する。私は要求する、だが、あなたの心に訴えることはしない。何故かと云えば、心情などは、お金絡みの話となれば、どこかえ行ってしまう。あなたは、市民の模範となる方でしょう、多分、動物虐待防止協会の会員でもおありなさるでしょう、そして、長靴の先まで、高潔な芳香を漂わせておられる、だが、あなたは、私と、顔と顔の距離で対面すると、あなたには鼓動する心臓がない。その代わりに、そこにはなんと、鼓動する私の心臓の鼓動があるではありませんか。私は普通の当たり前の労働日を要求する。なぜならば、私は、他のすべての売り手と同様に、私の商品の価値を要求するからである。

   本文注: 1860-61年の、労働日を9時間に減らすためのロンドンの建築労働者の大ストライキの最中、建築業者側の委員会は、我々労働者の申し立てにかなり近い内容の宣言を公開した。その宣言の中に、皮肉ではなく、事実、建築業者の中でも最も利益をむさぼる サー・M・ピートなる者が、高潔の香りにおいて、と恥ずかしげもなく、述べた。

(11) ところで、我々は、とんでもない拡大解釈を別とすれば、商品の交換の性質自体は、労働日に制限を付与することも、剰余労働に制限を付すこともない。資本家は、買い手として、その権利を守る。彼が、労働日をできる限り長いものにしたいと思えば、またできるならば、いつでも一労働日を二労働日にしたいと思えば、その権利を守る。他方、売った商品の特異な性質は、買い手の消費に対しては、制限を表す。そして、労働者は、売り手として彼の権利を守る。労働日をある決まった普通の時間に減らしたい時は、彼の権利を守る。従って、ここには二律背反が生じる。権利 対 権利であり、ともに、同じように、交換の原理原則の約束事から生じている。同等の権利間では、力が事を決める。資本主義的生産の歴史においては、何が労働日なのかの決定は、闘争の結果として表れる。資本の集合体 すなわち、資本家階級と、労働の集合体 すなわち、労働者階級との間の闘争の結果として。




[第一節 終り]






第二節

剰余労働へのあくなき貪欲。工場主とボヤール


(1) 資本は、剰余労働を発明してはいない。社会の一部の者が、生産手段を独占的に保有する処では、どこでも、労働者は、彼が自由であろうと、また、自由でなかろうと、自分の生計に必要な労働時間に加えて、生産手段の所有者の生存手段を作り出すための余計な労働時間を追加しなければならない。このことは、生産手段の所有者が、アテネ人の富裕階級に属する人々(ギリシャ語)、エトルリアの神権政治家、ローマの市民( イタリック)、ノルマンの男爵、アメリカの奴隷所有者、ワラキアのボヤール、近代の 地主または資本家 でも同じである。とはいえ、生産物の使用価値が、その交換価値ではなくて、主要な関心事であるという 与えられた経済形式を持つある社会の場合では、以下のことは明らかである。剰余労働は、与えられた欲求の組み合わせによって、それが大きいか小さいかはあろうが、制限される。そこでは、生産自体の性質から生じる剰余労働の無制限な渇望はない。であるから、古代より、金銀の生産のように、特に、独立した貨幣形式をとる交換価値を獲得するための場合においては、過剰労働は恐るべきものとなる。死ぬまで強制的に働かされるのが過剰労働のそれと分かる形式となる。ここはただ、ディオドロス・シクルスを読む。

 本文注: 「誰も、これらの不幸な人々( エジプト、エチオピア、アラビア間の金鉱山の人々) を正視できない。彼等は彼等の体を洗うこともできず、布を纏うこともできない、彼等の惨めな運命を哀れむ人もいない。そこに、病人に対する、弱き者に対する、年寄りに対する、か弱き女性に対する、優しさも、手心もない。全ての者は、死が苦難と苦痛を終わらせるまで、叩かれながら働き続けねばならない。」(ディオドロス・シクルス. 歴史聖典)

 これらは、今に至るも、古代の例外である。しかし、奴隷労働とか賦役労働とかで依然として成り立っている生産に寄り係っていた人々も、資本主義的生産様式の支配による国際市場の渦の中に放り込まれるやいなや、自分達の生産物を輸出することが彼等の主要な関心事となり、文明化された過剰労働の恐怖が、奴隷、農奴、他の野蛮な恐怖の上に更に不当に強いられる。であるから、以前のアメリカ南部諸州連邦における黒人労働は、直接的な地方単位の消費を対象とした生産が行われていた間は、家長制的性格を保持していたが、綿の輸出が、諸州の血道を上げる関心事となるに及んで、黒人の過剰労働は、時には彼の命は7年の労働と計算され、また計算方式そのものの係数にまでなった。もはや、彼から一定量の有用な生産物を得ることは問題では無くなってしまった。今では、剰余労働そのものの生産が問題となった。すなわち、ドナウ諸候国 (今のルーマニア) の賦役労働と似たようなものとなった。

 (2) ドナウ諸候国の剰余労働に対する飽くなき貪欲と英国の工場の飽くなき貪欲の比較は、特別に興味を引く。なぜならば、賦役労働における剰余労働は、独立しており、直ぐにそれと分かる形を持っているからである。

 (3) 労働日が、6時間の必要労働と、6時間の剰余労働から成り立っているものと仮定してみよう。とすれば、自由な労働者は、毎週6時間×6 または36時間の剰余労働を資本家に与える。このことは、週3日は彼自身のために働き、そして週3日は、ただで、資本家のために働くというのと同じである。しかし、このことは、表面的に見ただけでは明白ではない。剰余労働と必要労働は、互いに他と混然一体となって合わさっている。従って、この関係を、毎分30秒彼自身のために働き、毎分30秒資本家のために働く 等々と表現することもできる。賦役労働はそうではない。ワラキアの農夫は、彼自身を維持するための必要労働を、ボヤールのための彼の剰余労働とは明確に区分された場所で行う。一つは彼の畑でなされ、もう一つは候国主の土地でなされる。であるから、労働時間の各部分いずれも、独立しており、別々に他とは分かたれている。賦役労働においては、剰余労働は正確に、必要労働とは分かたれている。とはいえ、このことは、剰余労働と必要労働の量的関係には、なんら差をもたらすものではない。週3日の剰余労働は、それが賦役労働であろうと、賃労働であろうと、労働者自身には何の等価ももたらさない。ボヤールの場合は、直接的に賦役日数をごく単純に強いるのであるが、資本家の剰余労働への飽くなき貪欲は、労働日の無制限な拡大を追い求めることに表れる。

 (4) ドナウ諸候国では、賦役労働は、地代のようなものとか、その他の従属の付属物とかと混ぜ合わされたものであったが、それが、支配階級へ支払う最も重要な献上物をなしていた。この場合もそうだが、どこでも多くの場合、農奴制から賦役労働が生じることは稀であって、逆に、農奴制の方が、より多くの場合、賦役労働から生じていた。ルーマニア地方でもそうであった。彼等の生産様式は土地の共有に基づくものではあったが、スラブやインドの形式とは違っていた。土地のある部分は、多くは、共同体メンバーの自由な保有によって、耕された。他の部分−共同農場−は、共同で耕した。(ラテン語) この共同労働の生産物は、ある部分は、不作や災害のための貯蔵物であり、ある部分は、戦争や、宗教や、その他の共同の支出に供するための共同貯蔵物であった。やがて、軍や聖職の高官・高僧達が、この共同の土地と、そこに費やされた労働を横領した。彼等の共同の土地の自由農夫の労働は、共同の土地を掠めた盗賊らのための賦役労働に変換された。この賦役労働はすぐ、事実上は農奴的関係へと発展したが、世界解放者ロシアが農奴制廃止を表明して、法を策定するまでは、法的な関係ではなかった。1831年、ロシアのキセレフ将軍が公布した、賦役労働法だが、勿論のこと、ボヤールらが書き示したものであった。ロシアは、ドナウ地方の有力者を排除して征服を果たした、そして、ヨーロッパ中のこの種の自由主義者 (土地所有者 訳者挿入) の喝采を得た。

 (5) この賦役労働法は、"基本法" と呼ばれたが、(フランス語) その基本法によれば、ワラキアの農夫は、誰であろうと、細かく示された支払いに係る項目の山の他に、いわゆる地主と呼ばれる者に対して以下の責務を負っている。(1), 12日の一般的労働、(2), 1日の畑仕事、(3), 1日の木材運搬、計 年14日である。ではあるが、この政治経済の内容を深く見るならば、普通の感覚で捉えられるものではない。平均的な一日の生産物を生産するに必要な労働日のようなものではなく、ギリシャの巨人、キュクロプスですら24時間ではできないようなずるい方法で、平均的な1日の生産物が決められているのである。基本法自ら、あの、ロシア人の皮肉も込めて、36日の手作業の生産物が、12日の労働日であると解釈せねばならない。と宣言している。3日の労働が、1日の畑仕事であり、同じような方法で3倍に該当するものが、1日の木材運搬である。合計すれば、42日の賦役労働となる。ここでは、地主に供する、たびたび臨時の使役、ヨバギーなる奉仕が加えられる。人口に応じて、全ての村は、年一定量の割り当て分をヨバギーとして提供しなければならない。この追加的賦役は、ワラキアの農夫一人あたり14日と見積もられる。この様に、前記の賦役労働は、年に56日という大きさに達する。ところで、ワラキアの農業年は、厳しい気候のため、210日に過ぎない。この中の40日は日曜日と祝日であって、平均30日は悪天候なのである。計70日は勘定には入れられない。140日が労働日として残る。かくて、必要労働に対する賦役労働の比は、56 / 84 または66 2/3 %と、英国の農業労働者または工場労働者の労働を規制する剰余価値よりもかなり小さい値を示す。とはいえ、これは、賦役労働を法律として記述したものに過ぎない。英国の工場法に較べて、その精神においては、依然として、より「自由」である「基本法」は、その中身を簡単にすり替える方法を知り抜いている。12日を56日とした後、その56日の賦役労働の名目上の1日の規定をとてつもない1日とする。すなわち、トウモロコシ農場では、この仕事のために、その農場全体の草取りをしなければならない、そのためには、2倍の余計な時間を必要とする。1日のそのような農業労働は、5月から10月までを意味すると、法律的には解釈できるのである。モルダビア地方の条項は、さらに過酷で、「勝利の酒に酔ったボヤールは、"基本法" の12日の賦役労働は、年に365日に達するとほざいたのである。」

 (6) もし仮に、ドナウ諸候国の基本法の、いずれの項目もが、剰余労働に対する飽くなき渇望をおおっぴらに合法化しているとすれば、英国の工場法は、同じ飽くなき渇望の隠蔽された表現である。これらの法律は、労働力の制限のない使い果たしへの資本家の飽くなき渇望に対して、資本家と地主が支配する国家によって制定された国家法によって、労働日に制限を課している。日々、より脅威となる労働者階級の運動を別にしても、英国中の畑にグアノを散布するという事態に対して、その同じ必要性によって、工場労働の制限が導き出されたのである。その同じ盲目の渇望 土地の略奪的な使用が、ある場合には、土地を疲弊し尽くし、他の場合は、国家の生活活力の源を引き裂いた。周期的な疫病が、このことを鮮明に明らかにしている。ドイツとフランスの軍兵士採用最低基準が小さくなっていると。

 (7) 今現在(1867)も有効な、1850年の工場法は、平均10時間の労働日を認めている。すなわち、最初の5日間は、12時間、朝6時から夕方の6時まで、半時間の朝食と、1時間の夕食を含んでいるが、10時間半の労働時間がそこにある。土曜日は、8時間、朝6時から午後2時まで、朝食のための半時間が差し引かれる。差し引き計60時間が残る。各5日間が10時間半、最後の日が7時間半である。

 (8) この法律の管理人が何人か任命されている。工場査察官である。英内務省に直属し、半年ごとに彼等の報告書が議会の命令によって公開される。その内容は、資本家の剰余労働に対する飽くなき渇望を、定期的かつ公式的な統計資料として、示している。

 (9) しばらくは、工場査察官が述べるところを聴こう。「ある詐欺的な工場主は、朝6時15分前に ( 時にはもっと早くから、また時には、多少遅くから) 仕事を始める。そして夕方6時15分過ぎに ( 時にはもっと長くまで、また時には、多少短く) 仕事を止める。彼は、朝食のために普通に認められている半時間の最初の部分から5分を、最後の部分から5分を盗む。また、夕食のために普通に認められている1時間の初めの部分から10分を、終りの部分から10分を盗む。土曜日には、午後2時15分に ( 時にはもっと長くまで、また時には、多少短く) 仕事を止める。かくて、彼が得た時間は、

    朝6時前------------------------------15分
    夕方6時以後--------------------------15分
    朝食時間-----------------------------10分
    夕食時間-----------------------------20分
    ―――――――――――――――――――――
    小計---------------------------------60分
    5日間では---------------------------300分

    土曜日朝6時前------------------------15分
    朝食時間-----------------------------10分
    午後2時以後--------------------------15分
    ―――――――――――――――――――――
    小計---------------------------------40分

    週計では-----------------------------340分

 または、週5時間40分であり、これを年50労働週と見なして計算すれば、(祝日と臨時休業に相当する2週をはずして48労働週倍とすれば) 年、27労働日に等しいものとなる。」

 (10) 一日当り5分、労働時間を増やせば、各週倍すれば、年には2日半に等しいものとなる。

 (11) 一日当り追加的な1時間を、朝6時前とか、夕方6時以後とか、食事のために決められた時間の初めと終りとかの小さな部分取りで獲得すれば、年が13ヶ月労働月に近いものとなる。

 (12) 恐慌に見舞われ、生産が中断され、週のうちほんの僅かな時間 「ショートタイム」労働しかなくなった工場においても、労働日を拡大するこの飽くなき渇望はなんの影響も受けない。商売が少なくなればなるほど、その商売からより多くの利益を作り出さねばならない。労働時間が少なくなればなるほど、より多くの時間が剰余労働時間に転じられねばならない。

 (13) 工場査察官の、1857-1885年の恐慌時の報告書では、次のようになっている。

 (14) 「商売が非常に不景気な時に、そのような過剰労働が存在するというのは、一見矛盾しているように見えるが、この不況がとんでもない人達をして、違反を引き起こすのである。そして、とてつもない利益を獲得する。過去半年で、」レオナード ホーマーは云う。「我が地区の112工場が廃業し、143工場が休業中だが、依然として、法的時間を超えた過大労働が継続している。」

 (15) 「大部分の時間は、」とハウエル氏は云う。「売買の減退により、多くの工場は全体的に閉鎖されており、依然として多くの所では、短時間労働しかない。にも係わらず、私は、1日のうちの半時間、または3/4時間が、労働者に公的に認められた休息やリフレッシュのための時間から削られて、掠め取られているという苦情を、相変わらず受け取り続けている。」この様な現象は、1861年から1865年に起こったあの恐ろしき綿恐慌の際にも、規模的には小さいが、再現された。「食事時間とか、違法な時間とかに、工場内で人が働いているのが見つかれば、大抵は、彼等は工場を決められた時間に立ち去らず、[彼等の機器類の手入れ、その他の] 仕事を止めさせるためには強制的な措置が必要となる、特に土曜日の午後はそうなる。という言い訳が予め用意されていることが多い。しかし、もし、機械が回転を止めた後に、工場内に人手が残っているならば、…彼等には、機器類の手入れ等々の時間が特別に分けて充分用意されて雇用されているのではないと云うことである。朝6時前にも、土曜日の午後2時前にも、いずれにしても、そんな時間はないのである。ただ、やれ、やらんのか。と。(ラテン語で、犬に攻撃をけしかける命令語)

 本文注: 1860年10月31日付け報告書云々 23ページ。法律に基づく法廷に提出された工場主等の証言によれば、その熱狂的な、工場内労働のいかなる邪魔に対しても、彼等自身をして反対させる彼等の手に驚くばかりであるが、以下のような奇怪な状況を示すに至る。1836年7月の初め、ドーズバリー(ヨークシャー) の治安判事に届いた告訴状には、バトレー近郊の8つの大きな工場の工場主が工場法に違反したとあった。これらの紳士達のある者は、12歳から15歳の5人の少年を、金曜日の朝6時からそれに続く土曜日の4時まで、食事のための小休止と深夜の睡眠のための1時間の他には、休みもなく働かせたとして告訴された。そして、この子供たちは、30時間ものやむことなき労働を、穴と呼ばれる"ぼろくず小屋,"の中で続けねばならなかった。このぼろくず小屋の中は、毛織物くずが細片にまで引き裂かれ、塵埃、切片等々が充満しており、大人の作業者ですら、彼の肺を守るためハンカチで常に鼻や口を覆わなければならぬ程なのである。告訴された紳士等は宣誓する場面で、宣誓せずに証言する。(フランス語) 宣誓するには、クエーカー教徒として、あまりにも宗教的に良心的すぎるのかもしれないが、次のように証言した。この不幸な子供たちのために、かれらの持ちうる限りの同情をもって、4時間の睡眠を許したが、頑固な子供たちは、なんとしてもベッドに行こうとはしなかった。と。このクエーカー教徒なる紳士達は、20英ポンドの罰金を科された。(桂冠詩人)ドライデン(1631-1700)(の風刺詩) は、こうした紳士達の出現を見透していたようだ。(訳者挿入)

  見かけは、まったくもって高潔そのもののきつね、
   宣誓するのは恐れるが、悪魔のように嘘はつく、
   受難節の祝賀に向かうがごとくだが、聖なる目は意地悪く、
   祈りの文句を云う前は、罪もないのだが。
   祈ったとたん、やりたい放題。(この行 訳者の勝手な追加 )

 (16) 「それ (法に違反する超過労働) によって得られる利益は、彼等にとって抗することができるところを超えた大きな誘惑として、多くの場合、現われる。 彼等は見つからないで済む確率も読んだ上であり、有罪判決を受けて支払う罰金や裁判経費の額が小さいことも承知の上である。かれらは、仮にそれが露顕した場合でも、利得と損失の差し引き利得がそれなりのものであると承知しているのである。.... 日々の中で、小さな時間を盗み、それを積み上げて、追加的な時間を得ると云う場合には、査察官をして、それを1件としてあばくには、無理というべき困難性がある。

 (17) これらの、労働者の食事時間や息抜き時間からの資本による "小さな窃盗" を、査察官達は、"分のこそ泥" とか "分のかっさらい," と呼称している。また、労働者が゛俗術語的に云う"食事時間をちょい齧りして溜め込む" も使っている。

 (18) このような状況下では、余剰労働による剰余価値の形成は明白で、何の秘密でもない。ある高貴で尊敬に値する親方が、こう云った。「もし、あなたが、私に、1日の労働においてほんの10分の延長時間の使用を許して呉れるならば、あなたは私のポケットに年間1千ポンドを入れて呉れる。」「2,3分こそ、利益の妊産婦じゃ。」("Moments are the elements of profit."  なる英文の語呂合わせをなんとか訳出したところ。ま、お後がよろしいようで。訳者)

 (19) 全労働時間を働く労働者を、「フルタイマー」と呼び、6時間しか働かすことができない13歳以下の子供たちを「ハーフタイマー」と呼ぶが、この視点からは、これ以上に明確なものを取りだせはしない。ここでは、労働者は、作業時間の擬人化以外のなにものでもない。全ての個々人の特徴は、フルタイマーとハーフタイマーとの呼称に溶解させられている。


[第二節 終り]






第三節

搾取に対して法的制限がない イギリスの各産業部門


 (1) 我々は、ここまで、労働日の拡大に係る傾向を考察してきた。剰余労働に対する狼人間のごとき飽くなき渇望には、怪物的強制がともなった。それは、イギリスの一ブルジョワ経済学者をして、アメリカ大陸を征服したスペイン人が黄金のために行ったインディオに対する残虐さを上回るとは言わないが、と云わせたほどのものであった。しかるが故に、資本は最終的には法的規制の鎖に縛りつけられることになった。そこで、我々は、労働の搾取が法的規制から今日まで免れていた、または昨日までそうであったある産業部門について見て置くことにしよう。

 (2) ブロートン チャールトン州治安判事は、1860年1月14日、ノッチンガム議会で開催された会議の議長として、次のように述べた。「レース業界に関係する人々の大部分における、窮乏と苦難の状況は、英王国の他の地域や、世界の文明国では知ることができない程のものである。9歳または10歳の子供たちは、朝の2時、3時または4時に、彼等の汚いベッドから引きずり出され、かろうじての生存のために、深夜の10時、11時または12時まで働くことを強いられる。子供たちの手足はやせ細り、体はちぢこまり、顔は青白く、石のように麻痺したままで子供らしさは微塵も感じられない。本当に見るに忍びない。…我々は、マレット氏または、他のいかなる工場主が身を乗り出して、審議に反対の抗議をしようと、驚かされはしない。…この制度は、モンタギュー バルピー牧師が述べたように、厳格きわまりない奴隷制度そのものであって、社会的にも、肉体的にも、道徳的にも、精神的にも…人の労働時間は日18時間に減らされるべきであろうなどと云う申し立てのための公的会議を開催する町を我々は一体何と考えたらいいのか? …我々は、バージニアやカロライナの綿農園主を批難する。彼等の黒人市場、黒人を満載した船、黒人の人身売買が、ここで起こっている、資本家の利益のために編まれるベールや襟飾りの作業における、ゆるやかな人間性の喪失よりも、より忌まわしいものなのか。」

 (3) スタッフードシヤーの陶器製造業は、過去22年間で、3回、議会査問の対象となった。その結果は、1841年に「児童雇用コミッショナー」に提出されたスクリビン氏の報告書、1860年に枢密院の医務官の命令で公開されたグリーンハウ博士の報告書(公衆衛生第三次報告書112-113 )、そして最後が、1862年のロンゲ氏の「第一次児童雇用コミッショナー報告書 1863年7月13日」に収録された報告書である。私の目的を達するには、搾取された子供たち彼等自身のいくつかの証言を、1860年と1863年の報告から引用すれば充分である。子供たちの証言からは、大人の、特に少女や女性の状況も推測される。そして、この産業部門から見れば、綿紡績部門が、好ましいもので健康的な作業場に見えると。(以下、これらの報告書から 訳者注)

 (4) ウイリアム ウッド 9歳は、7歳10ヶ月の時に働き始めた。彼は最初から「型運び」( 型に入っている品物を乾燥室に運び、その後、空になった型を、持ち帰る仕事) をやった。彼は、週の毎日朝6時に働きに来た、そして午後9時に帰った。「ぼくは週のうち6日は夜9時まで働き、7週から8週はそうであった。」7歳の子供に15時間労働とは!
 J マレー 12歳は、次のように証言した。「私はろくろを回し、型運びをした。私は6時に来る。時には4時に来る。昨日は徹夜で働いた。朝の6時まで。一昨日から、ベッドへは行っていない。他に8人か9人の他の少年たちが徹夜で働いていた。一人を除いて全員が今朝も来た。私は3シリング6ペンスを得る。私は夜の仕事をしてもそれ以上は得ていない。先週は二晩働いた。
 ファニーホウ 10歳の少年は、「いつも、(食事のための)1時間はない。時には30分しかない。木曜日、金曜日、そして土曜日。」(第一次児童雇用コミッショナー報告書 1863年)

 (5) グリーンハウ博士は、ストーク-オン-トレンドやウォルスタントンの製陶業地域での平均寿命が異常に短いと述べた。陶器製造業に雇われている20歳以上の成人男子人口は、ストーク地域で僅か36.6%、ウォルスタントン地域ではただの30.4%に過ぎないのであるが、第一の地域では、20歳以上の成人男子で、肺疾患で亡くなった人の半数以上が、第二の地域では、約 2/5が、陶工であった。アンレイの開業医 ブースロイド博士は、「後継世代の陶工は、誰もが、先代の者に較べて、矮小で健康も劣っている。」と述べた。他にマックビーンズ医師も同様、「私が25年前に陶工達の間で開業して以来、私は、このはっきりした退化、特に身長と胸囲の減少が見られた。」これらの記述は、1860年のグリーンハウ博士の報告書(公衆衛生第三次報告書)から取りだしたものである。

 (6) 1863年の児童雇用コミッショナー報告書から、次のようなものを読むことができる。北スタッフードシヤー病院の上級医師である J. T. アーレッジ博士、こう述べている。「陶工は、一階級ひとまとめにして、男も女も衰弱しきった人々の代表である。肉体的にも精神的にもである。彼等は、一般的に、発育不全で、病弱で、多くは胸に病状が見られる。彼等は早くから年寄りのようになり、当然のように短命に終わる。彼等は無気力で、青白く、消化不良が顕著で、肝臓や腎臓の不調があり、またリウマチに罹っているなど、健康障害の数々が見られる。とはいえ、これらの様々な病気の中で、特にはっきりしている傾向は、胸の病気である。肺結核、気管支炎、そして喘息である。彼等に特異的に表れるのは、よく云われる陶工喘息、または陶工の使い捨てである。腺または骨、またはその他の体の各部分を冒す腺病は、陶工の2/3またはそれ以上を占める病気である。… この地方の人々の退化が現状より悪化しないのは、近郊から絶え間く陶工が補充されるからであり、またより健康な人々との結婚によるものである。」

 (7) 同病院の専門外科医であった、故 チャールス パーソンズ氏は、ロンゲ コミッショナー宛の手紙の中で、様々な事を書いているが、とりわけ次の点に触れている。「私は私の個人的観察からのみ云うことができるのであるが、統計的なデータからではないが、不憫な子供たちを見ては、何回となく感じざるを得ない怒りを表すに躊躇しない。子供たちは両親と雇用主のあくなき渇欲の満足のために、自分達の健康を犠牲にしている。」彼は、陶工たちの病気の原因をいろいろと列挙し、次の言葉で要約している。「長時間労働」と。このコミッショナーの報告書は、以下のことを信じているとある。「全世界でこれほどの栄光を獲得したと称される製造業が、その成功の傍らに、労働者達の身体的退化、蔓延する肉体的な苦悩、早過ぎる死、がまつわり付いていると云う点を延々と指摘され続けることはないであろうと。この偉大な成果は、労働者の労働と技術によって達成されたのであるのだから。」そして、英国の製陶業で起こったことの全ては、スコットランドの製陶業でも同様であった。

 (8) 黄燐マッチ製造業は、1883年 マッチの軸木本体に燐を用いる方法の発明から始まった。1845年以降、この製造業は英国において急速に発展し、特にロンドンの人口の多い地区の中で広がり、同様、マンチェスター、バーミンガム、リバプール、ブリストル、ノーリッジ、ニューカッスル、そしてグラスゴーでも広がった。それとともに、破傷風初期によく見られる咬みあわせの痙攣も広がった。ウィーンの一医師が1845年に発見した、黄燐マッチ製造業に特異的な病気である。労働者の半数は、13歳以下の子供たちと、18歳以下の少年である。この製造業は、その非健康的であること、悪臭がひどく、その不快きわまりないことから、労働者階級の最も悲惨な人々、半飢餓状態の寡婦等々が、彼女等の子供たちをそこになげやった。ぼろを纏った、半飢餓の、教育を受けたこともない子供たちを。

 (9) (1863年)、ホワイト コミッショナーが尋問した証人の270人は18歳以下であり、50人は10歳以下、10人は8歳、5人はただの6歳であった。夜間の労働、不規則な食事時間、食事も大抵は有害な燐のある作業場そのものの中で取っていた。ダンテも、彼の最恐の地獄よりもさらに恐ろしい地獄を、この製造業の中に見つけたことであろう。

 (10) 壁紙製造業では、粗雑な下等ものは、機械印刷される。上等のものは、手で(木版印刷で)仕上げる。もっとも忙しい月は、10月の初めから4月の終りまでである。この間、仕事は朝6時から夜10時まで、またはさらに深夜近くまで、休みなく怒濤のごとく続く。

 (11) J. リーチは、次のように述べた。「冬、ここのところ、19人の少女のうち6人が、同時に、過労から病気で休んでしまったので、残りの彼女らを起こして置くために、私は、彼女らのそばで、どならねばならなかった。」
 W. ダッフィは、「子供たちは、眼を開けていられず、仕事にならなかったのをよく見ることがあった。本当のところ、我々もそんな状態だった。」
 J. ライトボーンは、「私は13歳、我々はこの冬、(夜の) 9時まで働いた。去年の冬は、10時までだった。この冬は足がうずき、いつも私は泣いていました。」
 G. アプスデンは、「私と働くその少年が7歳のとき、私は彼をおぶって、雪の中を行き来したものです。そして、いつも彼は一日16時間働きました。…私は、たびたび、機械の傍で立っている彼に、膝を床につけて、食事を与えました。なぜって、彼がそこを離れることも、機械を止めることもできなかったからです。」
 あるマンチエスター工場の共同経営者 スミスは、「我々は、(この我々なる意味は、自分たちのために働く手をそう云うのであるが) 食事のために休むということもなく、仕事をし続けるので、10時間半の日労働は、午後4時半には終了する。そして、それ以後のすべての時間は超過時間となる。」

 本文注: この超過時間は、我々の云う、剰余労働時間という意味で使われているものではない。これらの紳士諸君は、10時間半労働を通常の労働日と考えており、さらにその上、勿論のこと、通常の剰余労働が含まれていると考えているのである。この超過労働が始まれば、ほんの少しだけ余計に支払われる。でも、よく見れば、いわゆる通常日に支払われるものは、その価値よりも下回っているのが分かる。従って、超過時間は単純に、より多くの剰余労働を強奪するための、資本家のトリックなのである。例え通常日に対して適切に支払われたとしても、そう云うことになるであろう。

 (さて、このスミス氏は、10時間半の間で、彼自身の食事を取らなかったのか) 「我々は、(スミス流の、例による我々のことだが) 夕方6時前に仕事を止めることは稀で、(彼の意味では、"自分達"が前貸しした労働力機械の消費を止めないと云うものだが) その結果、我々は、(またまた、クリスピナス・スミスの云うところの我々のことだが 色の部分はラテン語) 実際のところ、年がら年中 全てにおいて超過時間作業を行っている。これらのことは、子供たちも大人も同様である。(152人の子供と少年たち、140人の大人達のことである。) このところの18ヶ月の平均労働は、少なく見ても、週7日と5時間、または週78時間半であった。今年(1862) 5月2日までの6週間の平均はより大きく、週8日または週84時間であった。」その上、くだんのスミス氏は、相変わらず自分のことを我々と王族が自分表現に複数形を用いるように、(ラテン語) 極端に複数形に固執してこれを用いながら、こう、笑って、付け加えた。「機械作業は、大した作業じゃない。」木版印刷の雇用主らは、「手作業は、機械作業よりも健康的なもの。」と云う。概して、工場主は、「少なくとも、食事時間の間は、機械を止めよう。」という提案には、不正に対するかの様な憤激をもって、これに反対を申し立てる。ボローの壁紙工場支配人であるオトレー氏は云う。「法律条項が、朝6時から夜9時までの作業を許可するものならば、それは、我々( ! ) にとてもよく合う。しかし、工場法の朝6時から夕方の6時というのは、合わない。我々の機械は、いつも食事のために止められる。( おお、なんとまあ寛大なこと ! ) 止めたからといって、紙も色インクも、云うに及ぶ無駄はない。だが、」 彼は、同業者らの心情をおもんばかり、「時間のロスが好ましいものではないことは理解しうる。」と付け加える。委員会報告書は、次のように、無邪気に、(英語の古語) 意見を書いている。ある主要な企業の云う時間をロスするという恐怖、すなわち、他人の労働を占有する時間のロスが、そのために利益を失うということが、13歳以下の子供らの、そして18歳以下の少年たちを、日12時間から16時間働かせることを許すに足る理由になるのか。なりはしないだろう。彼等の食事時間を減らす、あるいはそれを与えない理由として成り立ちうるのか。生産過程そのものにおいて、蒸気機関に石炭や水を給するように、羊毛に石鹸水を加えるように、車輪にオイルを注すように、単なる補助材料を労働手段に供するように、彼等の食事も食事時間も与えないのか。そんな理由があるはずもないだろう。と。

 (12) (最近導入された機械による製パン方式は別であるが、)英国の製パン業ほど、古風な生産方法を保持している業界は他にはない。まるでローマ帝国の詩文からそのまま出てきたような、キリスト教以前のような製法である。前にも述べたが、資本は、労働過程の技術的な性格など最初はどうでもいいのである。それを見つけた時そのままを取り入れて、その過程を始める。

 (13) 特にロンドンでの、信じられないような、とんでもない混ぜ物のパンについて、下院の「食品への混入物に関する」調査委員会(1855-56)と、ハッサル博士の「混ぜ物の検出」調査によって初めて、明らかにされた。( 本文注: 硫酸アルミニウム (またはアルミナ または明礬) の粉末、またはそれに塩を混ぜたものが、通常の商品として、「パン製造業者向けの材料」と言う明確なる名前で出回っている。) これらの摘発の結果が、1860年8月6日の「食品・飲料への混ぜ物を予防するための」法律であったが、効力のない法律であった。いつもながらの、全ての自由な商売人達、混ぜ物の商品の買いや売りで、それを正直なペニーと交換することを決意している彼等に対して、手厚い配慮を施したものであった。当の委員会自身が、自由な商売とは、基本的に、混ぜ物の取引であり、英国人の独創性に富む「洗練された」代物という物の取引のことであると、多少はともかく、無邪気に、(英語の古語) 信じていたのである。実際のところ、この種の詭弁は、プロタゴラスが白を黒、黒を白とするよりも、よく知られており、エレア派が全てはただの外観であることを、直接目に、(ラテン語) いかに示すかにあると実証するよりも、よく分かっている。

 本文注: 煤は炭素の非常に利用しやすい形態であり、よく知られた物質である。そして、肥料となる。資本家的煙突掃除業者は、これを英国の借地農業者に売る。ところで、この時、1862年、英国の陪審員は法律上、買い手に知らされることなく、90%の埃や砂が混ざった煤が、商売上の観念から見て本物の煤であるのか、混ぜ物の煤なのかを決めたのである。「商売の友」(フランス語) は、その煤を、商売上の本物の煤と判決したのであった。そして農民の原告訴訟人の訴えは却下された。原告が訴訟費用をも負担したのである。(正直なペニーは、農民から資本家的煙突掃除業者の手に, 無邪気に、正直に、渡った。訳者追記)

   もう一つ本文注: フランスの化学者 シュバリエは、商品の「洗練化」に関する彼の論文で、彼が調べた600以上の品物の多くにおいて、10、20、30種の様々な偽装方法を列挙している。彼は、私が全ての方法を知っている分けでもないし、知っているもの全てを述べているものではないと、付け加えている。彼は、砂糖の偽装について6種類、オリーブ油で9種、バターで10種、塩で12、ミルクで19、パンで20、ブランデーで23、オートミールで24、チョコレートで28、ワインで30、コーヒーで32、等々。全能の神ですら、この運命から逃げられない。ルアル ド カールの「聖体の偽装について」(フランス語併記) 1856年を見よ。( 資本主義体制の偽装については、嘘丸出しの800 訳者のワープロが突然自動車的に急発進 ブレーキが…)

 (14) これらの全ての報告書で、委員会は、大衆の注目を、その「日々のパン」に向けさせた。そして、そうであるからこそ、製パン業にも注目させることとなった。同時に、多くの人々の集会や、議会への申し立てに、ロンドンのパンの旅職人達の、超過労働に反対する叫びが沸き起こった。この叫びが非常に急激なものであったため、何回も登場する1863年の委員会だが、そのメンバーの一人である、H. S. トレメンヒア氏が王室直属の調査委員に任命された。彼の報告書は、付された証拠と合わせて、資本家、地主、名誉聖職者を激怒させた。これらの人物は、彼のパンを食べるには、額に汗することによってなすべきことと神に命じられていると知ってはいたが、その彼のパンで、一定量の人間の汗という分泌物も毎日食べねばならないとは知らなかった。さらに加えて、腫れ物の膿とか、蜘蛛の巣とか、ゴキブリの死骸とか、腐敗したドイツ酵母とかを混ぜて食べているとは知らなかった。硫酸アルミニウムとか砂とか、その他の、商品的には当然とした鉱物質の他に、こんなものを混ぜ合わせて食べねばならいとは、知らなかったからである。神聖なる自由な商売には何ら顧慮を施されることもなく、自由な製パン業は、かくて、( 1863,;の議会会期期間終了のため ) 国家監視官達の監視下に置かれたのであった。また、同議会の法律によって、18歳以下のパンの旅職人については、夜9時から朝5時までの労働が禁止された。この最後の条項は、超過労働に対する、様々の実情、古くから続く、ごくありふれた商売のなんたるかを見事に表している。( 旅職人の汗とゴキブリの死骸を混ぜたこの味は、この程度の法律に帰着するいい味なんだろう。訳者の補足的注である。)

 (15) ロンドンのパンの旅職人の仕事は、通常、大体夜の11時に始まる。まずは、「生地」を作る。これはかなりきつい労働過程で、約30分から45分係る。その回のバッチ量にもよるし、労働を捧げるべき内容にもよる。その後、彼は、捏ね鉢の蓋でもある捏ね板の上で、小麦粉袋一枚を敷き、もう一枚を丸めて枕とし、横になって大体2時間程度眠る。その後は、約5時間は続く、激しく連続する作業に従事させられる。生地を掴み取り、秤にかけ、型に入れる。それを竈に入れ、ロールパンその他の菓子パンづくりの準備をし、竈から、型パンを取りだす。そして店の仕事をこなし、等々と続く。竈作業室の温度は、約75°から90°の範囲にあり、小さな竈室の場合は、温度が低いと云うことはなく、通常は、むしろ高いと思われる。これらの食パン、ロールパン、その他の作業が一段落すれば、次にはこれらの配達の仕事が始まる。パンの旅職人のかなり多くの者は、仕事として、夜のこれらの激しい仕事をした足で、昼間の長い時間、バスケットや一輪車で配達する。そしてしばしば、また竈室に戻る。仕事は午後1時から6時の間の、季節による、様々な時間で、終わるか、彼等の主人の仕事の量と内容で終わる。他方、その他の者は、竈室に戻って、さらなるバッチを釜から取りだす作業に午後遅くまで従事させられる。
 いわゆるロンドン季節なる期間 ( クリスマスから 初夏の7月までの期間、議会が開催され、多くの人々が首都を訪れる期間 訳者注 ) には、市のウエストエンドの「正札価格」の製パン業者に所属する職人は、一般的には、午後11時に仕事を始め、製パン作業をする。1-2時間の短い休息の後、( 時々はほんの僅かな場合もあるが ) 翌朝8時まで続く。彼等は、その後、ほぼ全日、4、5、6時、そして夕方7時までパンの運搬に従事させられる。また、時には、午後、竈室に戻り、ビッケット焼きを手伝う。そして仕事を終えた後、時には5または6時間の、ある時は、たったの4または5時間の睡眠を、彼等の次の作業を開始する前に、持つことができるかもしれない。金曜日は、いつも、彼等はいつもより早い10時頃には仕事を始める。そしてある場合は、仕事、パン焼きとパンの配達だが、土曜日の夜8時まで続く、しかしより一般的には、日曜日の朝4または5時までも続く。そして日曜日、彼等は一日に2、3回、1、2時間、次の日のパンを準備する仕事に従事せねばならない…。
 安売り業者に雇われた職人は、平均時間より長い時間を働かねばならないだけでなく、殆ど全ての時間を竈室に閉じ込められる。( 安売り業者とは、正札以下で彼等のパンを売る業者のことであるが、すでに述べたように、ロンドンの全製パン業者の3/4を構成するのである。) 安売り業者は通常、彼等のパンを…店内で売る。もし、彼等がそれを外に送り出すなら、一般的ではないが、雑貨屋に供するのを除けば、大抵はその目的のために他人の手を雇っているはずである。パンを家から家へと配達する作業は職人の仕事ではない。週末に向けて、… 職人達は木曜日の夜10時に始めて、僅かな中休みで、土曜日の夕方遅くになるまで、続ける。  

 (16) ブルジョワ的知識人ですら、安売り業者の立場を理解している。「職人の不払い労働が、彼等の競争成立の根源を成している。」と。そして、正札業者は、彼等安売り業者という競争相手を、外国人 ( 何を指すのかは、後段(18 )で分かる。 ) の労働を盗み、なんやらを混ぜこんだ不良品を売っていると国の調査委員会に告発した。「彼等は、今では、ただ、まず第一に、大衆を騙し、第二に、12時間分の賃金で、18時間も職人を働かせることで存在しているだけである。」と。

 (17) パンに粗悪材料等を混ぜることと、正札以下で売る業者階級が形成されたのは、18世紀の初めの頃からである。協同的商売の性格が失われた時からで、製粉業者または小麦粉問屋の姿で、資本家が、普通の製パン業者の後ろに回って登場した頃からである。資本家的生産は、こうしたことを、この商売の中に持ち込んだのであり、労働日の際限のない拡張、夜間労働、もまた持ち込まれた。特に後者は、1824年以降、ロンドンにおいて、顕著な跋扈を見せる実態となった。

 本文注: ( 製粉業者または小麦粉問屋の姿で、資本家が、普通の製パン業者の後ろに回って登場した頃、の部分に、以下の注を付けている。訳者付記 ) 17世紀の終り頃、そして18世紀の初めの頃は、ありとあらゆる商売に割り込んでくる問屋 ( 代理店 )は、依然として、「公衆の迷惑」として、批難された。サマセット州で四半期ごとに開廷される治安判事裁判の大陪審は、下院に対して、ある告発を送付した。いろいろとあるのだが、その中に、次のような陳述がある。「ブラックウエル ホールのこれらの問屋は、公衆の迷惑であり、布地の取引を害する、であるから、不法妨害として排除すべきである。」ジョージ リード著 「我々英国の羊毛の場合 …他云々」ロンドン 1685年

 (18) これらが述べている内容を知れば、調査委員会が、パンの旅職人を、短命な労働者群に区分するという報告も理解できるものとなろう。彼等は、労働者階級の子供たちの多くが死んで行く一般的状況を幸運にも逃れ得たとしても、42歳に達する者は稀である。にもかかわらず、製パン業は応募者に溢れかえっている。ロンドンに供給される労働力の源は、スコットランドであり、英国西部農業地域であり、そして、ドイツなのである。

 (19) 1858−60年、アイルランドのパンの旅職人達は、彼等自身の資金を集めて、夜間及び日曜日の労働に反対する抗議集会を組織した。大衆は、−例えば、1860年5月のダブリンの集会では−、アイルランド人としての温情をもって、彼等としての、支援する立場を、鮮明にした。運動の結果、ウエックス、キルケニー、クロンメル、ウオーターフォード等では、(夜間労働はともかく、訳者注) 週日労働のみについては成功裏に確立を見た。「旅職人の要求が強く表明されたリメリックでは、製パン親方の反対や、最も大きな反対者となった製粉・製パン一貫業者の反対によって、これらの運動は挫折させられた。リメリックの例が、エニスやティペレアリの運動を後退させた。最も強くあらん限りの示威感情が沸き上ったコークでは、親方達は、労働者を解雇するという彼等の実力を行使することで、運動を壊滅させた。ダブリンでは、製パン親方達はこの運動に対して反対の決意をあらわにし、旅職人の要求に対して、できる限りの手を使って挫き、日曜労働と夜間労働を承諾するよう追い込んだ。応じようとしない労働者には、これとは別の手を使って、追い払った。」

 (20) 英国政府委員会は、その政府は、アイルランドで、歯に至るまで武装して、そのことをいかに示すかをよく知っていたのだが、柔らかく、あたかも葬式に参列したかのような声色で、容赦しようともしないダブリン、リメリック、コーク他の、製パン親方達に次の様に忠告した。「委員会は、労働時間は自然の法則によって制限されており、罰則なしで冒されることはできないものと信じている。製パン親方達は、彼等の労働者に、解雇の恐怖をもって、彼等の宗教上の信念とかれらの良き感情とを冒涜し、国の法律に従わず、大衆の意見( この内容は日曜日の労働に関するものが全てではあるが ) を無視したことは、労働者達と親方達の間に反目を惹起させたと考えられる。…そして、宗教、道徳、社会的秩序等に危険な例を引き起こした。…委員会は、日12時間を超える定常労働は、労働者の家庭生活及び個人生活を浸食し、倫理崩壊に至らしめる。個々人の家庭に干渉し、そして息子としての、兄弟としての、亭主としての、家長としての、家族的義務を放棄させるものと信じている。12時間を超える労働は、労働者の健康に穴をあけるもので、早過ぎる老化と死をもたらす。労働者の家族にとっては耐えがたい痛手となる。かくて、最も必要な時に、家族の長の配慮や支援が剥奪される。」

 (21) ここまでは、アイルランドの場合を取り上げたが、海峡の向こう側、スコットランドでは、農業労働者、犂百姓達が、厳冬期の13-14時間労働と、その上に加えられる日曜日の4時間の労働に対する抗議を行った。( なんと、安息日を厳守するキリスト教徒達の国なのに! )

 本文注: 1866年1月5日、エジンバラに近いラスワードで開催された、農業労働者の大衆集会。( 「労働者の擁護者」紙 1866年1月13日を見よ。) 最初に、スコットランドにおいて、農業労働者達の中から、職業組合の組織化がなされたことは、歴史的な出来事なのである。中でも、最も抑圧された英国農業地域の一つ、バッキンガムシヤーで、1867年3月、労働者は、彼等の週賃金を9-10シリングから12シリングに上げるための一大ストライキを打った。( 前述紙に見るように、英国農業プロレタリアートの運動は、1830年以後、彼等の激しい意志表示が鎮圧されたことで、全く潰れてしまったが、また、新救貧法の導入によっても実際に潰滅されていたが、1860年代になって、再び開始された。1872年の画期的な時点に至るまでの間、様々に成長した。英国の地の労働者の位置について触れている1867年以降に発行された青書 ( 英国議会発行の報告書 訳者注 ) と、ともに、私は、第二巻でこの点に再度触れる。第3版にも補追した。)

   一方で、同じ時間に、3人の鉄道員が、ロンドン検死官の陪審に立っていた。−車掌、機関手、信号手である。非常に大きな鉄道事故が、何百人という旅客をあの世への特急に乗せた。この不運の原因は、雇用者の過失である。彼等は、陪審員の前で、異口同音に次のような陳述した。10年または12年前、彼等の労働は日8時間続くのみであった。ここ5-6年は、それが14、18 そして20時間へと捩じり上げられた。そして、休日の運行、遊覧列車の運行と言った非常に過酷な圧力も加わった。たびたび、40から50時間の休息なしの運行状態が続いた。彼等は、普通の人間で、キュクロプス( ギリシャ神話の単眼巨人 訳者注 )ではない。ある時点・地点で彼等の労働力は消滅した。昏睡が彼等を捉えた。彼等の頭脳は考えることを止め、目は見るのを止めた、と。本当に「尊敬に値する」陪審員達は、評決によって、殺人の罪で、彼等を次の裁判に送った。その評決には、心やさしき「添え書き」があり、こう書かれていた。将来は、鉄道の資本家的有力者は、充分な量の労働力の購入により浪費的に、そして購入した労働力の排出に当たっては、より「節制的」に、より「自制的」に、そしてより「つつましく」あるべきものと信心深く希望する、と。 

 本文注: レイノルズ ニュース紙 1866年1月−毎週この新聞は、「恐ろしく、かつ破滅的な事故」「ぞっとするような悲劇」等々のセンセーショナルな見出しで、新たな鉄道事故を次々に取り上げた。これらの事故の一つに係る、北スタッフォードシャー線の雇用者の一人は次のように述べた。「誰でも分かるように、もし、蒸気機関車の機関手と火夫が、常に外を見ていなければ、こうなる。風雨の中、29-30時間も休息なしで仕事をする彼等から、それをどうやって期待できるのか。いつも行われていることだが、一つの例を上げれば、−ある火夫は月曜日の朝早くから仕事を始める。一日の仕事と称される仕事を終わった時、彼は14時間50分の職務を果たした。お茶を飲む時間の前に、彼は次の職務に呼び出される。…彼が14時間25分の職務を終えた時には、何の中断もない計29時間と15分の職務となっている。残りの週日の仕事は、次のようになっている。−水曜日 15時間、木曜日 15時間35分、金曜日 14時間半、土曜日 14時間10分、合計 週 88時間30分となる。そこで、旦那、この全ての時間に対して6日と1/4日分の支払いを受けた時の彼の驚きを想像してみよ。これは何かの間違いであると思った彼は、運行係に申し出た。…そして、一日の仕事を何と考えているのかを尋ねた。貨物輸送に当たる火夫では13時間 ( すなわち、週78時間 ) であるとの答えが戻った。それを受けて彼は、週78時間以上の職務についての支払いを求めた。が、拒絶された。とはいえ、最後に彼は、彼等が彼に別に1/4日分を与えると云われた。すなわち10ペンスを。」1866年2月4日号

 (22) あらゆる職業の労働者が、年齢・性別を問わず、我々の所に頻繁に押しかけてくる。殺された魂がユリシーズの所に押しかける以上に。彼等は、−その内容に言及した青書を腕に抱えてはないが、− 一見して過労の印が見てとれる。その雑多な中から、さらに二つの姿を取り上げる。その姿は、資本の前では全ての人間が均一であることを驚くべき鮮明さで証明している。− 婦人用帽子縫製工と鍛冶工とである。

 (23) 1863年6月の最後の週、ロンドンの日刊紙の全てが、「センセーショナル」な見出しで、「単なる過労による死」という小さな記事を掲載した。それは、婦人用帽子縫製工の死を取り上げたもので、マリー アン ウォークリー 20歳。非常に高い評価を受けている婦人服の仕立業者に雇用されていた。エリーズという感じのよい名前の一人のご婦人によって、労働力を搾取された。古い、よく登場する話題が、今一度語られる。この少女は、平均で16時間半働いた。季節によっては、30時間休みもなく働くこともあった。彼女の労働力が無くなると、たびたび、シェリーとか葡萄酒とか、またはコーヒーで回復されられた。その時はまさにこの季節の真っ只中であった。新らたに宮廷入りした英国皇太子妃のための舞踏会に招待された貴婦人達のために、豪華なドレスの数々を瞬きする間に魔法のように仕上げる必要があった。マリー アン ウォークリーは、休みもなく、他の60人の少女たちと、30人一部屋で、そこは、彼女たちに必要とされる空気量の1/3しか与えない狭さの中で、26時間半働いた。夜は、二人一組で、板で間仕切りされた窮屈極まる穴のような寝室で寝た。

 本文注: 保健委員会の顧問医師 レースビー博士は、「大人一人当り、寝室では300立方フィート、居室では500立方フィートが最低必要空気量としてあるべきである。」と述べた。ロンドンの病院の一つに所属する先任医師 リチャードソン博士は、「婦人用帽子縫製工、服飾縫製工、そして普通の裁縫婦達を含むあらゆる種類の裁縫工には、3つの苦痛がある。−過労、不十分な空気、そして食料不足または消化不良…裁縫作業は主として…圧倒的に男性よりも女性に適している。だが、この業種の欠陥は、特に首都では、僅か26人の資本家によって寡占されており、資本からはじけだす利益を独占するという権利をもつ資本家によって、資本へと労働から経済を取りだすことができることにあった。この力は、全階級にそのことを知らしめている。もし仮に、一人の裁縫師が僅かな顧客を得て経営することができたとしても、競争があり、維持していくためには、彼女の家で、彼女は死ぬほど働かねばならない。そしてこの過労を、彼女は彼女を支えてくれる人達にも強いねばならない。もし失敗するか、独立を試みることがなければ、より大きな業者に加わらざるを得ない。そこでは彼女の労働は少なくなりはしないが、彼女の金は安全である。このようになれば、彼女は単なる奴隷となる。社会の変化の中に投げ出される。たった一部屋の我が家で、飢えまたはそれに近い生活、そして24時間のうちの15、16、そして( aye 古英語:olde englishe )18時間ともなる作業に従事し、空気はやっと耐えられるもの、そして食べ物といえば、例えそれが良いものであったとしても、きれいな空気がなければ、消化されない。これらの犠牲の上に、肺病が、これこそ純粋に、悪い空気、悪い食料によって発症する病気である。」リチャードソン博士著 「社会科学評論」の中の「労働と過度労働」1863年7月18日 ( 以下 本文に戻る )

 そして、この婦人用帽子製造業者は、ロンドンでも最良の部類に入る業者の一つであった。マリー アン ウォークリーは、金曜日に病気となり、日曜日に死んだ。彼女の仕事が完成することがないままに。マダム エリーズは、このことに仰天した。医師 キーズ氏は、臨終には間に合わなかったが、検死陪審が来る前に、状況をよく監察し、「マリー アン ウォークリーは、人数が多過ぎる作業室での長時間作業と小さ過ぎの不良通風装置しかない寝室のために死んだ。」と述べた。この医師に良き礼儀作法の授業を施すために、検死陪審は、検死報告に次のように記した。「脳卒中で死亡。しかし、過密作業室内での過重労働がその死を加速させた懸念という理由もある。等々。」「我々の白人奴隷」と自由取引業者 コブデンとブライドの機関紙、モーニングスター紙は叫んだ。「我々の白人奴隷は、墓場に入るまで働かされた。その間、黙ったまま、やせ衰えて、そして死んだ。」

 本文注: モーニング スター紙 1863年7月23日− ザ タイムズ紙は、この事件を利用して、ブライト他の言い分と比較して、アメリカの奴隷所有者を擁護した。「我々の多くは、こう思っている。」と、同紙社説 1863年7月2日 は云っている。「我々( ここの我々は自分達とは異なる英国人の我々ということである。訳者注) は、笞の音の代わりに、まるで強制する器具のように、飢餓の苦しみを使用して、我々(前述注)の若い婦人を死に至らしめたが、我々は、奴隷所有者の家族として生まれた者に対して、火や虐殺を用いて追い立てる権利は少しも持ってはいない。少なくとも、彼等 ( 奴隷所有者達のことだが、訳者注 ) は、奴隷たちをよく養い、少しだけ働かせる。」同じような態度で、スタンダード紙、保守主義者トーリー党の機関紙は、ニューマン ホール師を口汚くこき下ろし、「彼は、奴隷所有者を破門するが、ロンドンのバス運転手や車掌をして、犬に与える程の賃金で、日16時間も働かせるご立派なご一族と、良心の呵責もなく、お祈りを共にする。」最後にトーマス カーライル、私( スタンダード紙の論説者 訳者注 ) は、彼については1850年に書いたことがあるが( spake 古英語:olde englishe )、のご神託を。「悪魔が勝利したが、内実はなにも変わらなかった。」(ドイツ語) 短い寓話で、彼は現代史の一大偉業の一つであるアメリカ南北戦争をこのレベルの話に矮小した。次の様な話である。北のピーターは、南のポールの頭を、力を込めて叩き潰そうと思った。なぜならば、北のピーターは、彼の労働者を日単位で雇おうとし、南のポールは、彼の労働者を生涯で雇おうとするからである。( "マクシミリアンズ マガジン" 殻の中のイリアス アメリカーナ 1863年8月 ( ラテン語 ) ) かくて、都市労働者に対するトーリー的同情の泡が、−農業労働者にではない、が、−ここのところに来て破裂した。云いたいことは、−奴隷制擁護!

 (24) 「あたかも一日の日課のごとき、死に至る労働は、何も服飾製造業者の作業室に限ったことではない。他に千もの場所がある。繁盛している商売がそこにあるならば、私が云った通り、その全ての場所で。…我々は、一つの典型として鍛冶屋を取り上げよう。もし詩人が正しいならば、鍛冶屋ほど、心暖かく、陽気な人はいない。彼は朝早く起き、太陽が光を広げる前に火花を打ち出す。彼は、他の人には見られない程、食べ、飲み、そして眠る。彼が、事実、適度に働くならば、肉体的に云えば、最良の人間の位置にいる者の一人である。しかし、彼の後に付いて市や町まで行けば、そこに、我々はこの強き男の上に覆いかぶさる仕事の重圧を見る。そして、彼の国の死亡率における彼の位置が、どのようなものであるかを見る。メアリルボーン(ロンドン北西約4kmにある地区 訳者注.) では、鍛冶屋が年 1,000人に、31人の割合で、死ぬ。別な言い方をすれば、成人男子のこの国全体の平均死亡率に較べて11人も上回る。この職業は、人間の活動としては全く自然なもので、人間の行う製造業の一分野としても異議を挟むこともないものであるが、それが、単なる労働の過重によって、人間を破壊することになる。彼は、日にかなりの回数で鉄を打ち、かなりの歩数で動き回り、かなりの回数の呼吸をする、そして、平均的に長生きし、50歳に至ることができる。彼は、もう少し余計に打ち、もう少し余計に歩き、もう少し余計に呼吸することで、合わせて、彼の人生の1/4分を余計に増加するよう仕向けられる。その努力に見合う、その結果は、限られた時間の中で、1/4多い労働によって、それだけ多い生産をなす。そして50歳に達せず、37歳で死ぬ。」

[第三節 終り]






第四節

昼間労働と夜間労働 交替制

 (1) 剰余価値創造視点から見れば、不変資本、生産手段は、労働を吸収するために存在するのみである。労働の全ての一滴とともに、それに比例する量の剰余労働をも吸収する。もし、それらが、このことをなさず、単なる存在に過ぎないものであるならば、資本家にとっては、相対的な損失となる。休んで横になっている間は、役にもたたない前貸し資本を意味することになるからである。そして、この損失は明白かつ絶対的なものになる。それらの活用の中断が、作業を再開するに及んで、追加的な支出を余儀なくされるからである。労働日の自然日の限界を超えた延長、夜間へと突入させること、は、その唯一の鎮痛剤となる。だが、生きた労働の血に対するバンパイヤーの渇望をただ僅かに鎮めるにすぎない。かくて、日の全24時間の労働の占有が、資本主義的生産の固有の性向となる。しかし、同一個人の労働力を昼間と同様に夜間も連続して搾取することは、肉体的に不可能である。この肉体的な障害条件を克服するためには、昼間に使い果たされる労働者の労働力と夜間に使用される者のそれとの間で、交替が必要となる。この交替は、様々な方法によって、いろいろな形で実施されよう。例えば、ある労働者たちは、ある週は、昼間の労働者として雇用され、次の週は夜間の労働者として雇用されるように調整される。これは、リレーシステムとしてよく知られているものである。この二つの労働者達のセットの交替制が、英国綿製造業の若き血気盛んな時代においては、圧倒的に用いられた方法であった。そして、現在でも、依然として、随所に用いられており、モスコー地域の綿紡績業では支配的である。この24時間生産過程は、今日でもシステムとして存在している。依然として「自由な」大英帝国の多くの製造部門、イングランド、ウエールズ、そしてスコットランドの、溶鉱炉、鍛造工場、圧延工場、その他の冶金工場に存在している。ここでの労働時間は、6労働日の24時間の他に、多くの場合、日曜日の24時間を含んでいる。労働者は、男子と婦人、成人と男女の子供たちからなっている。子供たちや少年少女たちの年齢は、8歳から、(場合によっては、6歳から) 18歳までの間、あらゆる年齢の者がいる。

 (2) ある製造部門では、少女も婦人も、男子といっしょに、夜間を通して働く。

 本文注: 「スタッフォードシャーでも、南ウェールズでも、若い少女たちや婦人達は、採炭立て坑口やコークスの貯留処で、昼間のみではなく、夜間も雇用されている。この慣習については、英国議会に提出される報告書でたびたび、非常に悪質な弊害が伴うものとして、警告されている。これらの女性達は、男どもと一緒に、雇用されており、彼女らの服装からは殆どその見分けもつかない。泥や煤で汚れており、彼女達は女性らしい仕事から隔てられていて、自尊心を喪失しており、女性らしい性格が欠落しているように見える。」( 児童の雇用に関する調査委員会 第四次報告書 ロンドン 1865 ) ガラス工場における労働も同様である。

 (3) 夜間労働による、一般的と云える有害な影響を脇にどけたとすれば、

 本文注: 子供たちを夜間労働に雇用するある一人の製鋼業者は、この様に云う。「夜間労働する少年たちは、昼間 眠ったり、また適当な休息を得ることができなくとも、なんとかやっていける、ように見える。」( 児童の雇用に関する調査委員会 第四次報告書 ロンドン 1865 ) ある医師は、少年の成長と体の維持に関する太陽光の重要性について、次の様に書いている。「光は、また、直接的に身体の組織を堅固にし、かつ弾力性を加える作用をなす。動物の筋肉は、適当な量の光を奪われると、軟化し、かつ弾力性をなくす。神経組織も、光の刺激の欠如から、その感度を失い、あらゆる成長への協調が阻害される。…子供たちの場合は、常に、日中は、沢山の光に触れていることが、そして、その中の相当部分が、直射する太陽光線に触れていることが、健康にとって、最も重要なのである。光は、順応性を持つ良き血液への凝結を助け、繊維が形成された後には、それを堅固にする。また、光は、各器官を刺激する役割を果たす。このことは、様々な大脳機能により活動的なものをもたらすこととなる。」この一節はウォセスター総合病院の先任医師 W. ストレンジ博士の「健康」1984から引用されたものであるが、調査委員会の一メンバーであるホワイト氏への手紙に書かれた。「私は、以前、ランカシャーで、夜間労働の子供たちへの影響について観察する機会を持ったことがあるが、私は、次の様に云うことを躊躇しない。何人かの雇用主がその実態を擁護するかのように言い張るに反して、子供たちは直ぐに彼等の健康を損なうことに直面させられる。」( 第四次報告書 1865 ) この様な問題が、重大な議論の材料に並ぶことこそ、資本主義的生産が、資本家等やその家来等の頭脳機能を、どのようにおかしなものにするか よく分かるというものである。(以下本文に戻る )

 破られることなき24時間継続する生産過程は、通常の労働日の制約を超す絶好の機会を提供する。例えば、既述の産業部門では、特に疲労度が高い部門であるが、公式の労働日は夜だろうが、昼だろうが、それぞれの労働者には通常、12時間である。だが、この量を超える超過労働は、多くの場合、英国の公式報告の言葉を使って云えば、「恐るべきもの以外のなにものでもない。」

 (4) 「それは不可能である。」と報告書は続ける。「9歳から12歳の少年たちによって行われる、次の文章に記されているような過重労働がどんなものかを思い描くのは、誰にとっても、不可能である。…両親らや雇用主らによるこのような力の乱用は、これ以上存在することを許されるべきものではない、という押さえがたい結論に到達することなしには。」( 第四次報告書 1865 )

 (5) 「少年たちの労働を、通常的な方法として、または忙しい時の方法であるとを問わず、昼夜交替で実施することは、過度に長い時間の労働を、定常的なものとする扉を、避けようもなく開けることになる。これらの長時間労働は、明らかに、ある場合には、子供たちにとって、残酷であるばかりでなく、信じられない程の長さになっている。当然のことだが、多くの少年たちの中には、何らかの理由で、一人ならず、それ以上の者が、仕事を休むことがある。そうなれば、それらの欠勤を補充することになるが、そのため、何人かは、交替番を超えて、働くことになる。このことは、当たり前のことと、よく知られているシステムである。…交替番の少年たちが、欠勤した場合、どのように対処するのかと、私が、大きな圧延工場の支配人に尋ねた時、彼は「私は、恐らく、あなたがよく知っているのと同じことをするでしょうね、旦那。」と、この事実を認めた。」( 第四次報告書 1865 )

 (6) 「正規の時間は、午前6時から午後5時半までとなっているある圧延工場で、ある一人の少年は毎週の4夜、少なくとも午後8時半まで働いた。…このことが6ヶ月間続いた。また、別の少年は、9歳の時、時々、12時間交替を3回分続けたことがあり、10歳の時は、二日二晩連続したことがあった。」第三の少年は、「現在10歳、…朝6時から夜12時まで三晩、そして他の日は午後9時まで。」「別の少年、現在13歳、夜6時から次の日の正午12時まで働いた、一週間すべてで。そして、時々は、交替3回分をまるまる通して働いた、例えば、月曜日の朝から火曜日の夜まで。」「別の、現在12歳、ステーブリーのある鋳造工場で、朝6時から夜12時まで、ここ2週間働いた、これ以上はもう続けられない。」「ジョージ アリンズワース 現在9歳、地下貯蔵室係のボーイとして、金曜日にここに来た。翌朝3時に仕事を始めなければならなかったため、僕はここに夜中留まった。家は5マイル程離れている。溶鉱炉の上の床で寝た。エプロンを敷き、ぢょこっとジャケットを被って寝た。他の2日も、朝6時に来た。そう! ここは熱い所だ。僕は、ここに来る前、1年ぐらい、この地域のある工場で、同じ仕事をした。そこでも同じで、土曜日の朝3時に仕事が始まった。−いつもそうだった。しかし、家が非常に着く[近く]、家で寝ることができた。別の日、僕は、6時に始めた。そして、夕方6時か7時にやっと貰えた。」他云々。( 何か訳文が難解状態では、と思われるかもしれないが、9歳の少年の英文を、訳者がそれなりに訳したところ。英文がどうなっているか、知りたい方は英文本文を。以下の訳文も同様のもので、難解ものではない。)

本文注: 同上報告書。これらの「労働力」の学力に欠ける程度は当然とはいえ、以下のような、委員会メンバーの一人との対話に表れるものとならざるを得ない。 ジェレミアー ハインズ 12歳−「4の4倍は8、4つの4は16。王は、彼を、彼に全ての貨幣と黄金を持つ。我々はエー・ジェイ王(王妃のことを云っている)を持つ。人々は彼女をアレクサンドラ王女と呼ぶ。彼女は王妃の息子と結婚していると云われている。王妃の息子はアレクサンドラ王女である。王女は男である。」 ウィリアム ターナー 12歳−「英国には住んでいない。それはある地方のこととは思うが、前はそれも知らなかった。」 ジョン モリス 14歳−「神が世界を作ったと云うのを聞いたことがある。そして、一人を除いて、全ての人々が溺れて死んでしまったと云うのも。その一人が小さな鳥であったというのも聞いたことがある。」 ウィリアム スミス 15歳−「神は男を作り、男が女を作った。」 エドワード ティラー 15歳−「ロンドンのことは知らない。」 ヘンリー マシューマン 17歳−「教会には行ったことがある、最近は殆ど行っていない。彼等の説教に出てくる一人は、イエス キリストである。他の人の名を云うことはできない。そして、彼についても何も話すえない。彼は殺されてはいなかった。そうではなく、他の人々と同じように死んだ。ある点で、彼は、他の人々と同じではなかった。なぜならば、彼はある点で信心深く、他の者はそうではなかったからである。( 第四次報告書 1865 訳者注 )
 「悪魔は、良い人である。彼が何処に住んでいるかは知らない。」「キリストは、邪悪な人間である。」「この少女は、Godをdogとつづった。そして、女王の名前は知らなかった。」( 第五次報告書 1866 ) この同じシステムは、ガラス工場でも、製紙工場でも、冶金工場、すでに触れているが、と同様に行われている。製紙工場では、機械で紙が作られる所では、禁忌物除去工程を除いて、子供の労働が全工程で常用されている。ある場合では、交替制による夜間労働が全週に渡って、絶え間もなく遂行されている。通常、日曜日の夜から、次の土曜日の真夜中直前まで続く。ここでは、昼の作業で12時間が5日、18時間が1日とあるが、子供たちは、毎週、12時間が5夜、6時間が1夜である。他の場合では、それぞれの交替番が、次の日まで連続する24時間を働く。ある番は、月曜日に6時間が予定され、土曜日に18時間が組まれていて、計24時間となる。他の場合では、その中間的なシステムが横行しており、製紙工場に雇用される者は、週の毎日を15または16時間働く。このシステムについて、調査委員のロードは、こう云う。「12時間交替と24時間交替の悪いところを全て合わせたようなものである。」と。13歳以下の子供たち、18歳以下の若者、そして女性たちがこの夜間労働システムで働く。往々にして、12時間交替システムでは、彼等彼女等は、自身を回復させるために姿を見せなかった者の代わりに、二番続けて24時間仕事をすることを強いられた。少年少女たちはたびたび超過労働していることを証拠が証明している。たまにはでなく、24時間または36時間もの中断なき労役へと延長していく。連続する単調な釉薬工程で、12歳の少女が、まるまる1ヶ月間 日14時間働くのが見出された。「食事ごとの2回の、多くても3回の半時間の通常の休憩や、中休みすらなしに。」通常の夜間労働を全面的に止めたある工場では、超過労働が恐ろしい程、延長するところとなった。「そして、そこは、大抵は、最も汚く、最も熱く、最も単調な様々な工程なのである。」( 第四次報告書 1865 )

(7) さて、今度は、資本なるものが、この24時間システムをどのように見ているかを聞いてみよう。このシステムの極端な実状、「残酷にして信じがたい」労働日の拡大化の乱用については、沈黙のうちに、当たり前のように、通り過ぎる。資本は、ただ、このシステムについて、「正常」なものであると語るだけである。

(8) 製鋼業 マサーズ(訳者注: Mr.の複数形が使われている。旦那衆とか、親分どもとか、バカ殿連とか書きたいところ。) ネイラー&ビッカーズ社の、工場主たちは、600人から700人の間の人数を雇っており、そのうちの僅か10%が、18歳以下である。その18歳以下の中の僅か20人を夜間番に組み込んでいるだけであるとして、次のように彼等自身を言い表す。「少年たちは、熱から苦痛を受けることはない。温度は大体華氏86度から90度…鍛造や圧延では、人手は夜も昼も交替制で働く。しかし、他の作業では、昼間の作業であって、そこでは、朝6時から夕方6時までである。鍛造工場では、12時から12時である。ある人手は、常に夜間に働く、昼と夜の作業を交替することはない。…我々は、常に夜働く者と、昼間働く者とに、健康に関しては、なんらの差も見出さない。多分、人は、同じ時間の休息をとることが、その時間がまちまちであるよりも、よく眠ることができるのだろう。…夜間番を働く18歳以下の20人の少年たちについてだが、…18歳以下の若者の夜間労働なしでは、我々はうまくは出来ない。問題となるのは、生産コストの増加であろう。…熟練の人手と全ての部門の頭を揃えるのは困難だが、若者については、我々はいくらでも得られる。…だが、我々が雇っている少年たちの僅かな比率から云うならば、その問題 (夜間労働の制限規定) は、我々にとっては、重要なものでもないし、興味もない。」( 第四次報告書 1865 )

(9) 製鋼製鉄業 マサーズ ジョン ブラウン & カンパニー 会社、約3,000人の大人と子供たちを雇用し、製鉄と重製鋼部門の操業においては、昼夜の交替制を敷いているのだが、その工場主の一人である J. エリス氏は、「重製鋼作業では、一人または二人の成人男子らに対して、少年一人か二人を雇用している。」と述べた。彼等の事業計画では、18歳以下の少年 500人以上を雇用し、そのうちの約1/3、または170人が13歳以下である。法律の変更提案に関する意見として、エリー氏は、「18歳以下の者を、24時間のうち12時間以上働かせるべきではないという要求は、なんとしても反対を申し上げねばならないこととは思わない。しかし、我々は、12歳以上の、夜間労働に用いることができる少年たちに、何らかの線を引くことができるとは思わない。しかし、我々が現在夜間労働に使用している少年たちの雇用が許されないというよりは、13歳または、より上の14歳以下の少年たちを雇用することが遅かれ早かれ、完全に禁止されるであろう。昼間番で働くこの少年たちは、彼等の番が代われば、夜番でも働かねばならない。なぜならば、成人男子らが夜番だけ、働くことは出来ないからで、それでは成人男子らの健康を破滅させるであろう。…とはいえ、我々は、隔週の夜間労働であればなんの害もないと考える。( ネイラー&ビッカーズ社の、工場主たちは、これとは逆に、彼等のビジネス上の利益と思うがゆえに、夜間/昼間労働を定期的に変更することの方が、夜間労働だけの連続よりも害があると配慮したのであった。) 我々は、交替制で働く者が、他の仕事を昼間のみ行う者と同じく健康であることを見ている。…18歳以下の少年たちを夜間労働に用いることが許されないということに対する我々の反対は、支出の増加がその理由である。そしてこれが唯一の理由である。( なんとまあ、利己的で、恥ずかしげもなく赤子のようなもの言いで (フランス語)) その増加の負担が、商売を成功させる上での額よりも、多少は耐えうる額よりも、大きいと考える。(なんとまあ、何が云いたいのか分かるような 分からんような、馬鹿げた言い回しであることよ) もし、法がそのように決まったら、我々には労働がなくなり、立ち行かない。」(すなわち、エリス ブラウン & カンパニーは、労働力の全価値を支払わされるという致命的な困惑に遭遇することになるであろう。)

(10) "夜も眠らぬ一つ目巨人キュクロプスが支配するかのような製鋼製鉄工場" マサーズ キャンメル & カンパニー 会社の工場は、前述のジョン ブラウン & カンパニーと同様、大規模工場である。そこの管理責任者は、政府調査委員のホワイト氏に彼の証言を書面で提出した。後に、訂正のために戻された時、彼はこの文書を再提出しない方がいいのではないかということに気がついた。しかし、ホワイト氏は記憶力が良かった。彼は完璧に正確に、思い出した。少年たちや若年の者らの夜間労働を禁止することは、マサーズ キュクロプスにとって、「不可能であり、自分等の商売を止めることと同義語であろう。」そして、あいも変わらず、6%よりわずかに多い18歳以下の少年と、1%より少ない13歳以下の子供たちを雇用する。

(11) 同じテーマについて、製鋼圧延及び鍛造工場の、サンダースン兄弟 & カンパニー 会社の工場主 E. F. サンダースン氏は、こう云う。「夜間労働から18歳以下の少年を排除することによって大きな困難が生じるだろう。主な点は、少年たちの代わりに男子成人を雇用することから生じるコストの増大であろう。それがどの程度になるのかは私には云えないが、多分、鋼の価格を工場主達が充分に上げうる程のものとは、ならないであろう。であるから、その結果は、彼等の上にのしかかる。と言うことで、勿論のこと、この人達は (なんとまあ、おかしな頭の持ち主たちよ ! ) その額を支払うのを拒否するであろう。」サンダースン氏は子供たちに、いくら支払っているのか知りはしないのだが、「おそらく、若い少年たちは、週4シリングから5シリングを得ている。…子供たちの仕事は、一般的に、( '一般的' 勿論いつもそうではない。) 子供たちの力に見合ったもので、それで充分足りるものである。であるから、より大きい力を持つ成年男子を用いることによる損失に見合う利得はない。または、重い金属を扱う稀な場合のみしか見合わない。大人達は、彼等の元に少年たちを持たないのを好まない。なぜって、大人は子供より従順ではないからである。それに加えて、少年たちは、このやり方を学ぶためには、若いときから始めなければならない。昼間の労働だけに少年たちを付けて置くことは、この目的にはそぐわない。」何故そぐわないのか? 何故、昼間の作業のみからで、必要な技能を修得できないのか? あなたの答えは? 「それは、隔週ごとに、昼/夜を交替する大人達に起因する。大人達は、その半分の時間を少年たちから離されれば、彼等から捻り出す利益の半分を失うであろう。彼等が見習い工に与える訓練が、少年たちの労働のためという見返り余祿の一部となっているからである。だからこそ、大人達は、安い価格で少年たちを連れてくる。大人の誰もが、この半分の利益を欲するからであろう。」他の言葉で云うならば、マサーズ サンダースンは、成人男子の賃金を、少年の夜間労働に代わって自分達のポケットからその部分を支払わねばならないだろう。マサーズ サンダースンの利益は、ある程度減ることになるが、これが良きサンダースン人の、何故少年たちが彼等の技能熟練を昼間作業から修得することができないかの理由である。

本文注: 我々の時代、いろいろと振り返ってみたり、論証したりするこの時代では、何事にも適切な理由を付けられない者は、それがいかに悪かろうと、気違いじみていようと、少しも価値がない。悪しき結果に終わるこの世の全ては、最も適切な理由のために、悪しき結果に終わる。( ヘーゲル)

さらに、加えるなら、少年たちに代わって働く大人たちに夜間労働を投げ込むこととなろう。マサーズ等は耐えられないであろう。事実、この困難は非常に大きく、彼等には夜間労働全てを諦めることになるほどではなかろうか。そして、「この仕事に関する限りでは、」とE. F. サンダースンは云う。「それなりにうまくやっていけるだろうが、−」しかし、マサーズ サンダースンは、製鋼の他にいろいろとやらなければならないことがある。製鋼業は、単純に、剰余価値づくりの口実に過ぎない。溶鉱炉、圧延工場、等々、建物、機器類、鉄、石炭他等々は、それらを鋼に変換よりも多くの何物かを持っている。それらは剰余価値を吸い取るためにそこに存在している。そして、12時間よりも24時間の方が、ごく当然により多くのそれを吸い取る。 事実、それらの道具建てが、神のお恵みと法の名において、そのサンダースン達に、一日の全24時間、相当数の人手の労働時間を記した小切手を与える。そして、それら道具建ての労働を吸収する機能が妨げられやいなや、それらは資本としての性格を失い、すなわち、サンダースン達にとっては、純粋な損失となる。「であるとしても、かなりの高価な機器類の半分がただ無駄に放置されるという損失が生じる。そして現在のシステムができる程の仕事を得るためには、我々は、土地と工場を広げ、二倍にせねばならず、そのためには、二倍の出資が必要となる。」 だが、しかし、何故、これらサンダースンたちは、他の資本家が、昼間だけの労働で、建物、機器類、原材料が夜間は"止まっており"、そのうま味がないのに、あたかも自分達には特権があるように云うのだろう? E. F. サンダースンの答えは、全アンダースンたちの名において、「それらの昼間のみの工場は、機器類の無駄な放置による損失を被る、その通りである。しかし、溶鉱炉の使用は、我々の場合、より大きな損失を含んでいる。もし、炉温を維持するなら、燃料の損失であり、(ここには、労働者の命の損失は無くなるが、) また、もし炉温が維持出来なければ、炉温を上げるための追い焚き時間が損失となる。( 睡眠時間の損失、8歳の子供たちのそれさえも、サンダースン族のための労働時間の利得と云うのか。) そしてさらに、炉温度の変化による炉の痛みがある。( 昼夜交替労働の場合は、この同じ炉が痛まないとでも云うのか。)

本文注: これと似たような、ガラス製造工場主達の心優しき良心の呵責話は、次のようになる。子供たちの規則正しい食事時間は不可能である。なぜならば、炉から放射されるある一定量の熱が、"純粋なる損失"となるか、"浪費"となると思われるからである。調査委員 ホワイトは、これについて実状を記している。彼の記述は、ユア や、シーニョア 他のそれとは違って、(ユア、シーニョア については、第九章第三節(4)の本文注他を参照されたい。訳者注 ) また、取るに足りない彼等の剽窃者 ドイツのラ ロッシェールのように、資本家の、彼等の、黄金の支出における、"禁欲"、"自制"、"節約" や、また彼等の、チムール帝国並みというべき 人の命! の浪費に影響されることもない。「子供たちの食事時間を確保すれば、現状でのいつもの状態と較べれば、ある量の熱は、たしかに失われることになるだろうが、その貨幣価値においては、成長ざかりの子供たちに、くつろぎながら食事をとる充分な静かな時間を与えず、そして消化のための食事後の休息をも与えず、英国中のガラス工場群でやられているよう有様を見れば、そこに生じている人間の力の浪費に匹敵するものとは思えない。」そして、今は進展著しき時代、1865 ! 年なのだ。そのような子供たちは、持ち上げたり、運んだりする力の支出を考えないものとしても、瓶や高密度の光学用フリントガラスを作る小屋の中を、仕事の間、6時間ごとに、15−20マイルを歩く! さらに、仕事は度々、14−15時間も続く! これらのガラス工場は、モスコーの紡績工場と同様に、6時間ごとの交替制が大半なのである。「週の労働時間部分の間、休息のために与えられる時間は、最も長く煩わされない時間としても、一度に6時間なのである。そして、この中から、仕事への行き帰り、洗濯、衣服の手入れ、そして食事の時間をやりくりせねばならぬ。若い少年たちのために必要な睡眠時間分を削ってのことである。特に、このような暑い、消耗の激しい仕事には必要な睡眠時間なのに。休息のための時間は、僅かしか残らない。新鮮な空気や遊びのための時間はない。…その僅かな睡眠も、勿論のことだが、夜は自分自身を仕事のために起こすことで、昼は騒音で邪魔される。」ホワイト氏は、一少年が、連続36時間働いたケースを取り上げる。また他に、12歳の少年たちが朝の2時まで働き続け、そして彼等の次の仕事に戻るまでの、朝5時まで、( 3時間 ! ) 工場内で寝たというケースも取り上げる。「仕事の量は、」一般報告書の下書きを書くトレメンヘアーとタフネルは、こう書いている。「各 少年、若者、少女、婦人たちによってなされる、彼等の昼または夜のひとつながりの労働の量は、まさに、通常のものとは思えない程のものである。」その一方で、夜遅く、自制的なガラス資本氏は、ポルトガル産のワインを腹に納めて、いつものクラブからよろめきいでて、家路へと操り人形さながらにふらつきながら、「ブリトン人は、決してローマの奴隷になるべきではない!」とのたまう。




 訳者余談、不要ではあるが、書きたいところをここまでぐっと我慢してきたのだから、少しだけ。我々8時間労働 / 日 40時間労働 / 週の労基法上の存在として、これらを読めば、マルクス以前の資本家が労働者を、少年少女や女性をとことん絞り上げて働かせた歴史を、古き恐ろしき物語風に読める。未来の時代ならそうかもしれないが、我等が、現実の状況下で読んでいるのであるから、とてもそうは読めない。我が現実そのものとして読んでいることに気付く。たしかに13歳以下の子供たちの労働はないが、これを教育現場で、消費活動として姿をかえて強いていることを見出す。労働時間はむしろ見えなくなっただけで、サービス残業、風呂敷残業、ディスク持ち帰り残業、いや自分宛メール送信方式の交替制、常時携帯呼び出し待機・いつでも現場へと、24時間 / 日に近づいた。労賃は出来高払いで、時間計算とは無縁となった。まるで悪化した事態を知る。英国の10時間制限の工場法や、工場査察官の時代が羨ましい感じすらするではないか。資本主義社会の強力極まりない進展が、労働者の廃棄と労働力商品の使用価値をここまで進展させるとは。確かに、労働時間制限の戦いの歴史を見れば、その進展は着実に地歩を得ており、決して後戻りするはずもないが、実状としてのやりとりは一進一退だ。16世紀に始まった近代資本主義社会体制が21世紀になって、500年、マルクスの時代から150年を経過しつつある。長い歴史であり、今後も一進一退が続くものではあるが、現在の後戻り状況ということから、これほどまでに、日本で、資本主義社会の矛盾が明確になったことも、以前には無かったことであろう。私は当然生きてはいないが、もうあと150年も続くはずもない。安心して、眠ることができそうである。ごめんね。なにもお手伝いできなくてね。


[第四節 終り]






第五節

標準的な労働日のための闘争。
14世紀中頃から17世紀末にかけての、
労働日拡張のための強制的な法律

 (1) 「労働日とは何か? 資本家が購入した労働力の価値を、どの程度の時間的長さの間、消費することが許されるのか? 労働力そのものの再生産のために必要な時間を越えて、どの程度まで労働時間の拡張が許されると言うのか? 」これらの質問に対する資本家の答えるところは、すでに見てきたように、次のようなものである。すなわち、労働日は全24時間を意味する。それなくしては、労働力がその活用を絶対的に拒否する、僅かな休息の時間を控除はするが。であるから、労働者は、彼の全生活全時間を通して、労働力以外のなにものでもないことは自明である。であるから、彼が持っている時間は、ごく当たり前のこととして、法的な労働時間としても、資本の自己拡大のために捧げられたものである。学習のための時間、教養充実のため、社会的な役割のため、社交のため、自身の肉体的精神的な活動としての自由な遊びのため、日曜日の安息のため (そして、それがなんと、安息日を厳粛に守るキリスト教徒の国なのに! ) の時間は、月明かりのごとき代物、どうでもいいことである。 

 本文注: 英国では、現在でも、農業地域で、労働者が自分の家の前の庭仕事をしただけで、安息日を冒涜したとして、投獄の刑を受ける。同じ労働者が、もし、彼が働く、金属、紙またはガラス工場に、日曜日に出勤しなかったならば、例えそれが宗教的な発心からであったとしても、契約違反として罰せられる。この古き伝統を守る議会には、それがもし、資本拡大過程で起こった、安息日破りに関してならば、何も聞こえないのであろう。ある陳情書 (1863年 夏) では、魚店や鶏肉店の日雇い労働者が、日曜日の労働の廃止を要求している。そして、彼等の仕事が週日は平均15時間、日曜日は8 -10時間であると述べている。同じ陳情書から、我々はまた、次のようなことを知る。エクゼター ホールの貴族的偽善者の中のとてもグルメな者達が、特にこの「日曜労働」を支持している。これらの「神聖なる者達」は、それは熱心に、彼等の肉体的楽しみを求め、他人の過重労働、窮乏、飢餓には耐えるという謙虚さをもって、彼等のキリスト教徒らしい信仰を表す。大食は、労働者等の胃をよりひどく痛める と、古代ローマの詩人ホラチウスの章句を歪曲する。(ラテン語)

 まさに、資本の盲目的で抑制の効かない、剰余労働への狼人間的渇望をもって、道徳的範囲を越えるのみではなく、労働日としての、単に肉体的な限界のギリギリの範囲すらも踏み越える。それは、成長のための時間をも、発達のための時間をも、体の健康維持の時間をも強奪する。それは、新鮮な大気や日光に当たるために必要な時間をも盗む。それは、食事時間を値切り、しかもそれを生産過程そのものにできる限り組み込む。かくて、労働者に対する食事は、ボイラーに石炭を放り込むのと同じく、機器類にグリースを塗り、油を注すように、単なる生産手段に施されるものとなる。それは、麻痺するまでに至った肉体的活力の回復のために必要な、それを補い、刷新するために必要な、絶対的に消耗しきった生体組織の再生のために必須の、深い睡眠をむさぼりくすねる。労働日の限界を決めるものは、労働力の通常的な維持ではなく、労働力の日最大限の支出可能性がそれを決める。例えそれがどんなに病的であり、強制的であり、苦痛に満ちたものであろうともである。それはまた、労働者の休息時間の限界をも決めている。資本は、労働力の寿命についてはなんの関心も持たない。気づかうことは単純かつ唯一、労働日において潤沢に使うことができる最大限の労働力だけである。結果として、労働者の生命を短縮する。それは、丁度、貪欲な農夫が、土壌からより収穫を増やそうと、その肥沃土を台無しにするがごとくである。

 (2) 資本主義的生産様式 (本質的に、剰余価値の生産、剰余労働の吸収そのものである) は、労働日の拡張をもって、人間の労働力の発展と機能の一般的、道徳的かつ肉体的条件を人間の労働力から盗み取り、人間の労働力を低下させるだけではなく、労働力そのものの早期の消耗と死をも生産する。

 本文注: 「我々は、我々の以前の報告書に、何人かの経験のある工場主達が、超過時間労働の結果について述べているところを、書いている。… 明らかに、人の労働力を早期に喪失する傾向がある。」(第四次報告書 1865)

 それは、労働者の実際の生命時間を短くすることによって、ある与えられた時間内の労働者の生産時間を延長している。

 (3) とはいえ、労働力の価値は、その商品の、つまり労働者の再生産に必要な価値を含んでいる。または、労働者階級の維持のためのものを含んでいる。もしそう言うことであるならば、労働日の不自然な延長は、資本が自己拡大のためへの無限の渇望を追って、必然的に奮闘するものとはいえ、労働者個々の命の長さを縮め、それゆえ、労働力の使用期間をも縮めるのであるから、より頻繁に置き換えを強いられるところとなる。そして、労働力の再生産のための支出総額もより大きな額となるであろう。丁度、機械の価値を毎日より大きく再生産することにすれば、機械はより早く磨耗させられる。従って、資本自身の利益としては、通常の労働日へとその視線方向を向けるように思われる。

 (4) 奴隷所有者は、彼の労働者を、彼の馬を買うかのように、買う。もし、彼が彼の奴隷を失うならば、彼は奴隷市場で新たな支出によって、補填する分の資本を失う。 

 (5) だが、「ジョージアの米作沼地、またはミシシッピーの沼沢地は、人間の健康にとっては、致命的な性状をもっているやもしれないが、このような地域を耕すためには、人間の生命の消耗も必要であり、バージニアやケンタッキーの地が持っている豊穣から補填できないほどの、大きなものでもない。さらに、経済を考慮すれば、奴隷所有当初においては、奴隷の保持と所有主の利益が一致するため、思いやりのある取り扱いにいくらかの保証を与えるが、一旦奴隷売買があたりまえとなれば、それが、奴隷労働を最大限積み上げるための理由となる。なぜならば、奴隷は直ぐに外国領地から供給されて、置き換えることができ、その生産性がどの程度に達するかに較べれば、奴隷の生命の期間などはどうでもいい程度のものとなる。奴隷輸入国の奴隷使用にかかる格言によれば、もっとも効果的な経済とは、最も短時間内に、できるかぎりの方法によって、人間家財をして最大限の量の働きをさせるかにある。熱帯耕地では、たびたび年の利益が、当該農場への投資総額に匹敵し、黒人の生命は、最もでたらめに放棄された。西インドの農業は、数世紀にわたって信じられないほどの富をもたらした。そして、それは、数百万のアフリカ人を飲み込んだ。キューバでは、当時、その収益は、数百万を数え、そこの農場主は君主であり、奴隷階級は、粗悪極まる食料、最も疲弊しており、絶え間のない労働で、毎年その大部分の者が絶滅された。(ケアンズ "奴隷力") 

 (6) この話は、あなたのこと。(ラテン語 古代ローマの詩人ホラチウスの章句) 奴隷売買を労働市場と、ケンタッキーとバージニアをアイルランドや英国の農業地域、スコットランドやウェールズと、アフリカをドイツと読む。我々は、いかに超過労働がロンドンの製パン業で働く者達をやせ細らせたかを知っているが、にもかかわらず、ロンドンの労働市場はいつも、製パン業者で死亡を望むドイツ人他の志望者の過剰待機者で溢れている。製陶業は、我々が見たように、労働者が最も短命である製造業種の一つである。が、そこにそれゆえ、製陶工場で働く者達の不足があるか? 近代的な製陶方法の発明者である、ジョシァ ウェッジウッド、彼自身元は普通の労働者であったが、1785年、下院で、この業界全体では、15,000人から 20,000人の人々を雇用している。と語った。1861年の大英帝国のこれらの業者が町の中心にある地域の人口は101,302人である。 

 (7) 「綿関係の業界は、90年も存在し続けている。… それは、イギリス人の三世代もの間存在し続けている。そして、私は確信しているが、充分に余裕を見ても、次のように云うことが許されるものと思う。この間に、九世代の工場労働者を使い捨てたと。」( 1863年 4月27日の下院における フェランドの演説)

 (8) 確かに、熱狂的な活気を呈したある時代には、労働市場が明らかに枯渇を示したことは疑いもない。例えば、1834年である。が、その時、製造業者達は、救貧法委員会に、農業地域の「余剰人口」を北に送り出すべきであると、「製造業者達が、それらを完全に吸収して使用する」との説明を付けて、申し入れをした。(これらの言葉は、綿製造業者達によって書かれたそのままのものである。)

 (9) 救貧法委員会の同意により、代理人が任命された。マンチェスターに、事務所が設置され、そこに、雇用を希望する( 誰が雇用を希望するかが問われねばならないのだが 訳者注) 農業地域の労働者のリストが送られ、彼等の名前が登録された。製造業者達は、これらの事務所にやって来て、彼等の選択によって、適当と思われる者を選んだ。「必要なる要望」としてそれらの者を選ぶと、マンチェスターに、できるだけ早くその者が来るようにと、なんのことはない、ただ指示書を書いた。その者たちは、品物の包みのごとくその案内書を与えられて送り出された。運河や、荷車や、その他の者は道を歩いて、そして多くの者は、行く先不明で、半分飢えた状態で、途中で、見つけられた。このシステムは、後に成長し、恒常的な商売となった。下院議会にとっては、信じがたいものと思われるが、私に云わせれば、この人身商売は長く維持され、その結果として、それらの者たちが当たり前に、これらの[マンチェスター]の製造業者達の元へと、あたかも奴隷が合衆国の綿耕作地に売られるがごとく、1860年の「綿関連業種の好況に沸き返る」場所に売られたのである。… 製造業者達は、再び、手が足りないことに直面した。… 彼等は、彼等が人身屋と呼んだ方式を採用した。これらの代理人が英国南部・東南部や、ドウセットシャーの牧草地や、デボンシャーの沼沢地や、ウイルシャーの雌牛を飼育する人々の所に送られたが、彼等代理人は、誰も見出すことができなかった。余剰人口は「吸収」されつくされていた。

 (10) バーリィ ガーディアン紙は、対フランス条約締結に際して、「追加的な10,000人の人手がランカシャーに吸収されるだろう、そして30,000人から40,000人が必要となるだろう。」と書いた。「人身屋やその下請け人」が、農業地域をくまなく無駄に回った後では、尚更である。

 (11) 代表が、ロンドンにやって来て、まさに正しき場所、名誉ある紳士、[ウ゛ィリアーズ氏、救貧院評議会の理事長]の所に、おもむいた。ある英国救貧院施設から貧しい子供たちをランカシャーの工場へと獲得する目論見を持ったからである。

 本文注: ウ゛ィリアーズ氏は、彼の立場において、最良の意図を持っていたとしても、「法律上」は、これらの製造業者の要望を断る義務があった。しかしながら、紳士諸君は、地方の救貧院評議会の当然の法律上の手続きを経て彼等の目的を達した。A.レッドグレーブ氏、工場査察官は、今回は、孤児や困窮者の子供たちは、「法律上」の、見習い工として、「昔のような乱用を伴うものではなかった」と、(この乱用については、エンゲルスの著作「労働者階級の状態」を )とはいえ、確かに「このシステムの乱用が、スコットランドの農業地域からランカシャーやチェッシャーに連れてこられた少女たちや若い女性たちの場合」にあったけれども、と主張する。このシステム下においては、製造業者達は、救貧院当局との間で、一定期間を定めた契約を交わす。契約の一方は、子供たちに、食事を与え、衣服を給し、宿舎を提供する。そして彼等たちに小額とはいえ貨幣による給与を出す。このレッドグレーブ氏の記述部分は、そのまま見れば奇妙である。特に、もし、我々が、イギリスの綿商売が繁栄の時期にあり、1860年は、前代未聞の好景気の時期であって、その上、賃金は異例の高さにあったことを考えても、このような契約はありえないのではと。この商売における異常とも云える人手の要望は、ちょうどアイルランドの人口減少とも、イギリスやスコットランドからオーストラリアやアメリカへの前例のない規模の移民とも、いくつもの英国農業地域の現実に起こっている人口減少とも直面した。一つは、労働者の活力ある力量を実際に、打ち壊したからでもあり、一つは、人身屋がすでに、使い捨てできうる人口を食い散らした結果である。このような状況にもかかわらず、レッドグレーブ氏は、「しかしながら、この種類の労働者は、その高価な労働者として、他の様々な策が尽きた後で探し出すべきものであろう。通常13歳の少年の賃金は、週4シリングである。しかし、50人から100人の少年のための、宿舎、衣服、食事、そして医療的な看視、そして適切な管理、そしてその他にそれなりの報酬をというならば、一人当り週当り4シリングではでは出来ない話である。」と、さらに奇妙な報告を書いている。(工場査察官報告書 1860年4月30日) レッドグレーブ氏は、労働者が彼の見習いに対して、子供たちの週4シリングなる賃金で、できることがなんなのかを我々に説明するのを忘れている。製造業者が50人または100人の子供たちに対して宿舎とか、まかないとか、監督指導とかの諸々を成し得ない時に、見習い預かりの労働者にできるはずがないのに。テキストから間違った結論に至るのを防ぐために、私は、ここに、英国綿産業の事情について書かねばならない。1850年の労働時間の規制他を定めた工場法のもとに置かれ、英国の模範的産業として注目されねばならない存在なのである。英国綿産業の職工は、惨めな状況にある大陸の仲間に較べれば、遥かによき存在として注目を集めている。「プロシャの工場で作業に従事する労働者は、少なくとも週10時間 英国の競争相手に較べて長く働いている。もし、彼の家で、自分の織機で働く条件の雇用者であるなら、彼の労働はさらなる追加的時間を縛られることなく働くことになる。(工場査察官報告書 1855年10月31日) レッドグレーブ、工場査察官は、1851年の産業博覧会のあと、大陸各国を旅行した後、特にフランスとドイツを、工場各所の状況を調査する目的のために、回った後に、上記のように述べた。プロシャの職工について、彼は、こう云った。「彼は、質素な暮らしをなんとか維持するに足る、そして慣らされたところの細き安らぎをなんとか満たすに足る 報酬を得る。… 彼は粗悪な暮らしをし、そして猛烈に働く。彼の状況は、英国の職工よりも劣悪である。」(工場査察官報告書 1855年10月31日)




 訳者余談を挟む。テキストに、間違った結論に至るのを防ぐために、と書かれた部分を読んで、正しい結論に達したかどうかである。テキストは読めても、その裏までは読めないレベルでは、手が出ないかもしれないが、問題は、契約により、救貧院施設からランカシャーの工場へと連れて来られた見習い工が、いかなる処遇を受けたかということであって、正しい結論は、契約とは違った真っ赤な嘘というべき状況に投げ込まれたということである。工場法下にあり、大陸の労働者とくらべれば、雲泥の差もあるべき英国の工場で、長時間労働を強いられるはずもないところで、どのようなことが起こったかを正しく把握できたかどうかである。当時からは150年以上の歴史的経過があり、我々は多くのことを学んでいるのだから、ここで間違うはずもないだろう。名ばかり管理職で、残業代を奪われ、偽装請負で、労災保険が受けられず、安全も脅かされた。今度は、派遣法が改正されて、法律上は派遣労働が廃止となるのに、実際は無くならないことを知らない者はいない。契約があっても、名目であって、はなからそれを守る資本家はいないし、工場査察官もその報告書が後世で奇妙と指摘される程度までしか迫るものではない。工場査察官のうしろには、議会が張りついており、議会・政府は資本家の御用人そのものだからである。テキストには、正解が書かれてはいないが、何年か労働者をやっていれば、分かるはずである。本を読む難しさもこんなところにある。余談中の余談で申し訳ないが、この部分の訳には苦労した。向坂本では、本筋が見えてこず、参考にならなかった。何故かと我ながら考えてみたが、問題と正解という図式が見えていなかったからであろうかと判じた。資本家は、問題すら見出さないであろう。救貧院の孤児に報酬を与えたという話にしか読めないかもしれない。労働者に生活費を提供する資本家という図式は、今でもたびたび登場するのだから。


 (12) これらの経験が資本家に示すものは、一般的に、不断の過剰人口である。それは、余剰労働を吸収しつつある資本のいつもの要求との関係における過剰ということである。だが、この過剰は、発育不全で、短命で、直ぐに互いに取り替えられ、もぎ取られた、いわば成熟前のということだが、の各世代の人間種から成り立っている。

 本文注: 超過労働で、「多くの者は、異常とも云える速さで死ぬ。しかし亡くなった者の場所は、瞬時に満たされる。そのように、人々の頻繁な入れ換えがあっても、その情景にはなんの変更も生じない。」(E.G. ウォークフィールド 1833 ロンドン「イングランドとアメリカ」)

 そして、はっきりと、これらの経験が、知識を有する観察者に、資本主義的生産様式が、人間史で云うならば、その日付はつい昨日からのことだが、人々を根源的に、あっという間に、強烈な握力で、捉えたことを教えている。−また、恒常的に、地方から、素朴で肉体的に痛んでいない人々を吸収することによって、工業人口の退化をいかに遅らすことができたかを示している。−また、新鮮な大気と自然淘汰の法則をして、彼等の内で、力強く働く者の中から、最も強き者のみの生存を許すという地方からの労働者ですら、すでに次々と死んでいく状況を知らしめている。

 本文注: 「公衆衛生 枢密院 医務官 第六次報告書、1863年」ロンドン 1864年発行 を見よ。この報告書は、特に、農業労働者のことを取り上げている。「サザーランド… は、通常、非常に良く改良された州を代表する…が…かっては、良質で勇敢な兵士を輩出するとして有名であったが、そこですら、住民が貧弱で、発育不全の人種であることが、最近の調査で発見された。この健康的な場所、海に面する丘で、飢えた子供たちは、あたかもロンドンの裏道の不潔な空気の中にいるかのように、青白い。(W. Th.ソーントン 過剰人口とその治療法) 彼等は、事実、グラスゴーの横町に豚が押し込まれるがごとくして、淫売・泥棒と一緒にいる3万の「勇敢なるスコットランド高地人」に似ている。

 資本の周囲に居る労働者の隊列の苦労などありはしないと云うためのご立派な言い分を持っている資本家は、早晩訪れるであろう人類の衰退や究極的な人口喪失を目の当たりにしても、実際になにをどうするのか、しないのかは、まるで、地球がいずれ太陽に落下するお話を聞くがごとくである。我 世を去りし後に、洪水よ 来たれ! (フランス語 イタリック) なる亡言こそ、ありとあらゆる資本家とありとあらゆる資本主義国家が腹のなかで思っていることである。以来資本家は、社会からの強制が無い限り、労働者の健康や命の長さについては、気にもしない。

 本文注: 「国家の資本にとっても、事実、人々の健康は非常に重要であるにも係わらず、残念ながら、我々は次のように云わざるを得ない。労働者を雇用する者達の階級は、この宝を守り、大切にするつもりが全くない。….職工たちの健康に配慮することが、工場主に強制された。」(タイムズ紙 1861年11月5日) 「ウエスト ライデングの人々は、人類の毛織物製造業者となった。….人類の労働者の健康は、犠牲となった。そして、人類が僅か2-3世代で、退化してしまうに違いない。ところがそこに反動が現われた。シャフツベリー卿の法案が、児童労働の時間を制限した。」云々。(1861年10月度の戸籍本署長官の報告書)

 肉体的、かつ精神的な退化、早過ぎる死、超過労働の苦しみからの抗議に対する資本の解答は、それが我々の利益を増大させるものなのに、それがなぜ、我々を悩ませるものであるべきなのか? ただ、全体としてこれらの対応を見るならば、明らかに、それらが、個々の資本家の良きあるいは悪しき意志に依存していると云うものではない。自由競争という資本主義的生産の避け得ぬ法則がもたらすものが、強圧的外部法則の形で、全ての個々の資本家に作用するからである。

 本文注: 我々は、それゆえ、以下のことを見つけた。1863年の初めの頃、スタッフォードシャーに広く製陶工場を所有する26の会社の中の一つである、ヨシア ウェッジウッド父子会社が、「いくつかの法律の制定」を求めて、請願書を提出した。他の資本家達との競争が、自分なりに子供たちの労働時間を制限すること他を許さない。製造業者間で、協定を設ける枠組みでは、前にもこの弊害について多くの遺憾を述べたが、子供たちの労働時間制限他を守ることはできない。….これらの全ての点を考慮して、我々は、いくつかの法律の制定こそ我々の求めるものと確信した。(児童雇用調査委員会 第1次報告書 1863年) 最近になって、より衝撃的な例が表れた。熱狂的な好景気で綿価格の急上昇が見られたことが、ブラックバーンの紡績業者達の互いの同意に基づく、ある一定期間、彼等の工場の労働時間を短縮する事態を引き起こした。この期間は、1871年11月の末に終了した。この間、紡績と織機を合わせ持つ裕福な工場主達は、この協定による減産を利用して、彼等自身の商売を拡張し、小さな雇用主の犠牲の上に、大きな利益をむさぼったのである。小さな雇用主達は、直ぐに、職工たちに対する、彼等の矛先を変えて、職工達に、熱心に、9時間労働を掲げて戦うようにと説いたのである。そして、その成立まで資金的に支援すると約束したのであった。

 (13) 標準労働時間の確立は、数世紀にわたる資本家と労働者の闘争の結果である。この闘争の歴史は、二つの対照的な違いを見せる。すなわち、我々の時代の英国の工場法と、14世紀から18世紀の中頃にまで至る間の英国労働法令とを比較してみよ。

 本文注: 英国労働法規は、似たようなものが、同時期フランスやオランダ他でも制定されたが、生産方法の変化が、それらを意味のないものにしてしまったずーっと後になって、英国では1813年になってやっと正式に廃止された。

 近代工場法は労働日を強制的に短縮するのに対して、初期の法令はそれを無理やりに延長しようとしたものである。勿論、萌芽時点の資本の要求で、−成長を始めた頃、資本が、充分な量(ラテン語)の剰余労働を吸収する権利を確実にしようとしたもので、経済的諸関係の力のみではなく、国家の助けによっても、それを果たそうとしたものである。−最初に表れた時は、控えめなもので、譲歩をもって相手とあい対峙したものが、不満になり、傲慢になり、成熟の状態へと成長したに違いないのである。数世紀の間、「自由な」労働者が、資本主義的生産の発展に感謝して合意したものが、社会的条件によって、覆されてしまった。彼の生きて活動する人生を、彼の働くあらゆる能力を、彼の生活必需品の価格のために売ることで、彼の生まれ持った権利を目茶苦茶にされた。言うなれば、14世紀から17世紀の終りに至るまで、資本が国家手段を用いて、成人労働者に負わそうとした労働日の延長と、19世紀後半で、このように、国家によって、子供たちの血を資本の鋳貨とするのを防止するために、労働日を短縮しようとしたこととは、まさに、表裏一体の関係で、当然の成り行きというものである。つまり、こう言うことである。今日、今までのところ、最も自由な北米共和国の州であるマサチュセッツ州が、12歳未満の子供たちの労働の制限を宣言したが、これは、英国の、17世紀中頃にすらあった、身体強健な工芸職人とか、頑丈な農耕労働者や、筋肉たくましき鍛冶屋達の標準労働日であった。

 本文注: 「12歳未満の者を、いかなる製造工場においても、1日当り10時間を超えて雇用することがあってはならない。」マサチュセッツ州一般法令 63 第12章 ( 様々な法令が、1836年から1858年にかけて、議決された。) 「当州内においては、いかなる日であれ、10時間の間になされる労働が、綿、羊毛、絹、紙、ガラス、亜麻の工場であれ、鉄や真鍮の製造工場であれ、法的な日労働でなければならない。法令制定により、以後、いかなる日であろうと、いかなる工場であろうと、未成年者に10時間を超えて、また週 60時間を超えて、働くよう強要したり、拘束したりして仕事に従事させてはならない。また、以後、いかなる工場であれ、10歳未満の未成年者を労働者として用いてはならない。」ニュージャージー州 労働時間の制限法他 第1節及び第2節 (1851年3月18日付けの法) 「12歳以上かつ15歳未満の未成年者を、いかなる製造工場であれ、いかなる日であれ、11時間を超えて雇用したり、または朝の5時前や、夕方7時半以後に雇用したりしてはならない。」( 「改正法令 ロード アイランド州」他 第139章 第23節 1857年7月1日)

 (14) 最初の「労働者法令」( エドワード三世在位第23年 1349年)は、その成立の直接的な口実として、大きな疫病が、人々を減少させたためであるとする。( 口実が消滅した後も、数世紀にわたって、この種の法令が存続したのであるから、存立理由とは云えない。) すなわち、トーリー党の書き手が云うように、「適切な価格で人を仕事に得ようとする困難性が、耐えられない程度に大きくなってしまった。」( 適切な剰余労働の量を得ようとする雇用者の算段から、その価格が離れてしまったということである。)

 本文注: 「自由取引の詭弁」第7版 ロンドン 1850及び9版で、この同じトーリー党員は、さらに、次のように認めている。「賃金を規制する議会法は、労働者に対しては不利に、雇用主には有利なものだが、464年の長期間存続した。人口も増大し、やがて、この法令は、事実上、不必要で、やっかいなものになってしまった。」

 合理的な賃金は、従って、労働日の制限と同様に、法令によって決められた。後者の労働日の制限が、ここでは我々のただ一つの関心事であるが、1496年の法令( ヘンリー七世) によっても、繰り返された。手工業職人や農耕労働者に対する労働日は、3月から9月まで、法に従えば、(とはいえ、強制できるものではなかったが) 朝の5時から、夕方の7-8時までの間である。それでも、食事時間として、朝食に1時間、夕食に1時間半、「昼食」に半時間があり、これは、工場法が今日規定しているものに較べて、正確に2倍あった。

 本文注: この法令について、J.ウェードは、まさしくも、次のように述べている。「上記の記述から、( 法令のことを指している) 1496年では、日常の食事に係る費用は、手工業職人の収入の1/3と、農耕労働者の収入の1/2と等価であると考えられており、現在の状況に較べて、労働者階級にはより大きな独立性があったことを示していることは明らかである。較べるならば、農耕労働者も手工業職人も、現在は、食費が、彼等の賃金のより高い割合を占めると認められるであろう。(J.ウェード 「中産階級と労働者階級の歴史」) この差は、当時と現在の食料や衣料の価格関係の差に起因するというような見方は、次の本の一瞥をもって、その誤りが証明される。「物価年表 他」ビショップ フリートウッド著 初版 ロンドン 1707年、第2版 ロンドン 1745年

 冬は、同じ食事時間を含んで、朝5時から暗くなるまで仕事が続く。エリザベス治下の1562年の法令は、「日払いであれ、週払いであれ」全ての労働者の労働日の長さには全く触れず、夏場の休息時間を2時間半、冬場は2時間に制限するものとなった。夕食は1時間、そして「午後の一休みは半時間」は、5月半ばから8月半ばの間のみ許された。いかなる場合でも1時間の欠席は、賃金から1ペニーが差し引かれた。実際には、それでも、法令書に較べれば、労働者にとってはもう少し好ましいものであった。 ウィリアム ペティ 政治経済学の父、そして広く見るならば、統計学の創設者でもある彼は、17世紀の終り1/3頃に出版した著作でこう云っている。

 (15) 「労働者は、( 当時は農耕労働者を意味する) 1日当り ( ラテン語) 10時間働く、そして、週20回の食事をとる。すなわち、( ラテン語) 労働日には、1日3回、そして日曜日は2回である。もし、金曜日の夜を食事なしとするならば、そしてまた、11時から1時までの2時間としている食事時間を1時間半にすることができるならば、結果として、1/20多く働き、1/20少なく支出することとなり、上記( 租税) が増収となるであろうことは明らかである。」( W. ペティ 「アイルランドの政治的解剖 賢き人にはこれで充分(ラテン語)」1672 1691年版 ) ( 訳者注: ここは、税徴収上の計算の必要性はなく、かっては食事時間が長かったことの説明まで)

 (16) アンドリュー ユア博士が、1833年の12時間法を、暗黒時代への後戻りだとして非難したのは、正鵠を得たものではなかったのか? これらの規則はこの法に、ペティが述べたように、まさしく含まれており、見習い工にも適用される。だが、児童労働の実態は、17世紀末でさえあってなお、次のような苦情からうかがい知ることができる。

 (17) 「7歳で見習い工とする この我が王国のやりかたと較べれば、(ドイツの) 彼等のやり方は違う。 3歳とか4歳が普通の基準である。どういうことかと云えば、彼等は、揺りかごの頃から仕事のことを仕込む。それが彼等を機敏かつ従順ならしめる。その結果、仕事において成果を得ることになり、急速なる熟練へと到達する。ところが、ここ、我々の英国の若者は、見習い工になる前には何の育成もない。進歩も非常に遅く、職人として完璧の域に達するには、より長い時間を要する。」

 本文注: 「機械工業奨励の必要性に関する一論」ロンドン 1690年 ホイッグ党とブルジョワジーの意図にかなうように、英国の歴史を偽造した マコーリーは、次のように書いている。「子供たちを早くから仕事につかせる慣習は、….17世紀には、当時の製造システムのまあまあの広がりに較べれば、ほとんど信じがたい程に広く用いられていた。衣服商売で首座を占めるノーウィッチ市では、6歳の小さな生き物が労働に適合すると見なされていた。当時の数人の著述家等は、著名で慈悲深き人と見なされる者達であるが、その市において、まだ世話のやける年頃の少年・少女たちが、自分達の生活に必要な範囲を超えた 年12,000ポンドの富を作りだすと云う事実を、狂喜をもって書いている。我々(マコーリー達 訳者注) は、過去の歴史をより注意深く調べれば調べる程、我々の時代が新たな社会的害悪に満ちていると想像する者共と明確な一線を引くために、より多くの理由を見つけることができるであろう。」(「英国の歴史」第1巻) マコーリーは、さらに、17世紀「非常に、紳士的な」商業の友誌 (イタリック)が、狂喜をもって、いかなる方法を弄して、オランダの一救貧院から4歳の子供が雇用されたか、そしてこの「美徳の応用」(ラテン語) が マコーリー一派(フランス語) から アダム スミス至るまで、人道的な方法として用いられてきたかを披瀝していることについても、報告することができたであろう。確かに、手工芸に代わって、製造業となるに及んで、子供たちを用いることが顕著になった。この方法はいつでもある一定の範囲で貧農達の間では用いられてきたが、より一層おおっぴらとなり、農夫達に加えられた軛が重くなればなるほどそのようになった。資本の狙いは間違いようもなく明らかだが、それらの事実は、依然として、双頭の子の出現のように、ありもしない話として隔絶されていた。だからこそ、それらを、狂喜をもって、記録するに値するものとして、先見の明ある 商業の友誌 の驚異として、彼等の時代と子孫のために、この方式を推奨して、書いているのである。この類と同じスコットランドのお追従者で、ご立派なお喋りさんのマコーリーは、こう云った。「我々が今日聞くものは、ただの退化で、見るものは、ただただ進歩である。」一体、どんな目、そして特にどんな耳なのか。見てみたいもんだ。

 (18) 18世紀の大部分の間、近代工業と機械の時代に行き着くまで、英国の資本は自らのために、労働者の全週を、労働力の週価値の支払いによって確保することには成功していなかった。と云うのも、農業労働者達の場合は例外的であったからである。事実、彼等は、4日分の賃金で、1週間生活できたから、他の2日分を資本家のために働くということは、労働者にとっては、充分なる理由とはならなかったからである。英国経済学者の一派は、資本の意向に添って、労働者のこの頑迷さを最上級の激烈なる態度をもって、非難した。もう一つの別の一派は、労働者を擁護した。そこで、マカロックやマクレガーの著作と同じく、今日、評判となった商業の辞典の著者 ポスルスェートと、「商業と貿易に関する評論」の著者(前述)(訳者注:マコーリー 但しここでは、匿名なのだが、前述とマルクスが書いており、明らかにした上で、次の本文注に続けている) との間でなされた論争を聞いてみることにしよう。

 本文注: 労働者を非難する者のうち、最も立腹が目立つのは、「商業と貿易に関する評論 税他に関する所見を含む」ロンドン 1770年 を表した 匿名の著者。彼はこの論調を初期の著作「課税に関する検討」ロンドン 1765年 で、既に取り扱っている。そして同じ側の仲間の一人、言語をなさない統計学的片言屋 ポロニウス アーサー ヤング。一方の労働者階級擁護側の真っ先にいるのは、ヤコブ バンダーリント 「貨幣は全ての物に対応する」ロンドン 1734年 の著作がある。神学博士 ナザニエル フォースター師 「現在の食料が高価格である原因に関する調査」ロンドン 1767年の著作で知られる。プライス博士、そして特に、ポスルスェート 彼の「商業と貿易に関する全般辞書」の補遺と同様の「大英帝国の商業的利益に関する説明と改善策」 第2版 1755年の著作もある。彼等は、事実、当時の他の多くの著述家達によって認められている。中でもジョシア タッカーによって明確に位置づけされている。

 (19) ポスルスェートは、いろいろある中から、こう述べている。

 (20) 「我々は、それらの少ない観察記を終わるに際して、以下の常套句に触れずして終わることはできない。もし、勤勉で貧しい者達が5日間で、彼等自身を維持するに充分な物を得られるならば、彼等は週6日は働かないであろうと云う、あまりにも多くの者が口にする、使い古された文句のことである。その結果、手工業や製造業で働く労働者を週6日果てし無く働かせるために、あえて課税または他の方法によって生活の必需品の価格等を操作する必要性すらほのめかす。私は、この王国で働く人々の永久的奴隷化を主張するそこいらの偉大なる政治家共とは心情を異にし、一線を画さねばならない。彼等は、働くばかりで遊びがなければどうなるか、という民衆の諺を忘れている。広く英国商品に信用と名声をもたらす、手工業や製造業で働く人々の独創性と器用さを英国人は自慢しないと云うのか? 何がこれらの独創性と器用さを生んでいると思うのか? 多分、働く人々が思い思いに遊ぶこと以上のものはないだろう。年中彼等を週6日のすべてを、同じ作業の繰り返しに縛りつけるならば、彼等の独創性を鈍らすことにならないとでも、また、注意深く器用な手を馬鹿でのろまの手と置き換えないとでも云うのか? そして、そのような永久奴隷化することで、我々の労働者たちのそれらの信用と名声を維持することにとって代わってそれを失うことにはならないとでも云うのか? … そして、我々は、そのように激しく強制される動物から、どのような職人の腕前を期待することができるのだろうか? … 彼等の多くは、フランス人なら5日か6日を要する仕事を、4日で片づけるだろう。だが、もし、英国人が永久苦役に置かれれば、彼等は、フランス人以下に退化すると恐れねばならない。我が国の兵士達が戦争では勇猛果敢と称賛される時、それが、英国風のローストビーフとデザートケーキが彼等のお腹の中にあるからと、またそれと同じように、彼等の憲法に記された自由な精神にあるからと、言わないのか? ならば、何故、我が手工芸や製造業の労働者の卓越した独創性と器用さが、彼等のそれぞれの好きな方法で行う自由かつ闊達な方法から生じるものであるとしてはならないのか、ここで、私は、そのような特権と、彼等の独創性を、彼等の果敢なる挑戦と同様に育む良き生活とが奪われるようなことがあってはならないと切望する。」(ポスルスェートの前述の著作の、最初の評論から)

 (21) これに対して、「商業と貿易に関する評論」の著者は、こう応じる。

 (22) 「もし、7日ごとの日を休日となせと、神が制定されたと云うのなら、同時に、他の6日間は働くということを意味していると見るのは当然のことである。」(彼が云いたいのは、資本の為にということである。直ぐにそのことを知ることになろう。) 「勿論、それは、冷酷に強制せよと云っているものではない。….とかく人類というものは、安楽と怠惰に堕する傾向があり、我々はこのことを経験からどうしようもなく知っている。我々製造業の衆愚の行動から見れば、彼等は、平均を超えては働かない。食料価格が高くならないならば、週4日を超えては働かない。…. 貧乏人の必要なものを一種類の物として見れば、例えば、それらを小麦であるとすれば、または次のように仮定すれば、…. 小麦のそのブッシェルが5シリングであるとして、そして彼 (製造工場主の彼) が彼の労働によって1シリングを稼ぐとすると、週 たったの5日働けばよい。もし、その小麦のブッシェルが4シリングになったとすれば、彼は週 4日働けばよい。だが、この王国の賃金は、生活に必要なものの価格に較べてかなり高い。…. 4日働く工場主は、週のあとの日を無為に過ごすだけの余分の貨幣を持っている。…. 私は、週 6日の適度の労働は奴隷制ではないと充分に述べたものと思う。我々の労働する人々は、このようにしており、全ての我々の働く貧しき者達は、最上の幸福を表している。

 本文注: 彼は、彼の著作「商業と貿易に関する評論」で、1770年の英国農業労働者の「幸福」がどんなものか に触れている。「彼等の力は常に限界まで使われており、今の生活レベル以下の生活をすることもできないし、より激しく働くこともできない。」

 しかし、オランダ人は、製造業で、このように行っており、人々は大変幸福の様子である。フランス人も、休日でない限りそのようにしている。

 本文注: プロテスタントは、全ての伝統的な休日を、労働日に変えたことによって、資本の成因に重要な役割を演じている。

 しかるに、我が衆愚は、ヨーロッパのどの国よりも、より自由でより独立的であるという生得特権を満喫するという観念に落ち込んでいる。この観念は、いくらかの利点として、我が軍隊の勇敢さに寄与しているものではあるが、製造業貧民達にとってはなんの利点もない。彼等自身にとっても、国家にとってもいいことはない。労働する人々は、絶対に、自分達の上位の者から自分達が独立していると、絶対に考えるべきではない。… 我々のような商業国においては、そのような観念で、暴徒を焚きつけるようなことは危険きわまりない。ここでは、7/8に当たる人々は財産を持たないか、殆ど持っていない。我々の製造業貧民達が、今4日で稼ぐと同じ額で、6日働くことに同意するまでは、治癒は完璧ではない。」

 本文注: 1734年に、ヤコブ バンダーリントが、資本家が、労働する人々の怠惰について云いたい腹の中を、単純に同じ賃金で、4日に代わって6日 働くことを要求することであると述べている。

 (23) この目的のために、そして「怠惰、放縦、過剰を根絶する」ために、産業の精神を促進するために、「我々の製造工場の労働の価格を低減させ、この国の、貧乏人のための課税率という重い負担を和らげる」ために、資本に「忠実なるエッカート」は、次のような広く認められている計画を提案する。そのような労働者が公の援助に寄り掛かることを止めさせると。別の言葉で云えば、生活困窮者の、救貧院を「恐怖の作業院」という理想的な作業院としなければならない。貧乏人の避難所にはしない。「今までの救貧院では、彼等は、多くの食事を与えられ、暖かで清潔な衣服があり、ほんの少ししか働かない。」この「恐怖の作業院で」、この「理想的な作業院で、貧乏人は、日14時間働く。食事のための適切な時間が許され、この方式で12時間の正味労働時間は残こされるであろう。」(本文注: 「フランス人は」と彼は云う。「この我々の自由なる素晴らしいアイディアを笑う」と。) (なぜ、またはどのようなフランス人が笑うのかは、次に進めば、直ぐに分かる 訳者注)

 (24) 1770年の「恐怖の家」、理想的な救貧院では日12時間労働! 63年後の1833年、英国国会が、13歳から18歳の子供たちの労働日を、4つの工業部門において、正味12時間に縮減した時には、英国製造業に最後の審判の日が来た! また、1852年 ルイ ボナパルドが、彼の位置をブルジョワジーとともに確かなものにしようと、法定された労働日を勝手に改悪することで、と模索した時、フランスの労働者達は、一つの声にまとまった。「労働日を12時間と限定した法律は、共和国の法律で、我々に残された、まさにその一つの宝だ。」と。

 本文注: 「彼等が、特に、日12時間を超えて働くことに反対したのは、共和国の法律で、彼等に残された、ただ一つの宝であるからである。」( 事実に関する 工場査察官調査報告 1856年10月31日 ) フランスの12時間法 1850年9月5日は、1848年5月2日の暫定政府が定めた法律のブルジョワ版だが、いかなる工場も例外なく拘束するものであった。この法律以前のフランスの労働日に関する法律は、何の制限もないものであった。各工場においては、14、15、またはそれ以上の時間の状態が続いていた。「1848年におけるフランスの各階級の状況 パル M. ブランキ」を見よ。M.ブランキ 経済学者、革命論者の方のブランキではなく、経済学者のブランキは、労働者階級の状況に関する調査を、政府から委任されていた。

 チューリッヒでは、10歳以下の子供たちの労働は、12時間に制限されている。1862年アールガウでは、13歳から16歳までの子供たちの労働時間は12時間半から12時間に軽減された。1860年オーストリアでは、14歳から16歳までの子供たちに、同様の軽減がなされた。

 本文注: ベルギーは、労働日の規制については、ブルジョワ国の模範である。駐ブリュセル 英国全権大使 ウエルデンのハワード上院議員が、1862年5月12日外務省にこう報告した。「M. ロジャー大臣は、私に、次のことを教えてくれた。子供たちの労働は、一般法でも、その他の地方法でも制限されてはいない。ここ3年政府はこの件に関する法律案を提出しようと、あらゆる会期で考えてきたが、いかなる法律でも労働の完全な自由の原理に反するものとする執拗な反対が、常に障碍として立ちふさがる。と。」

 「なんという進歩」1770年以来の! と、マコーリーは、狂喜して叫ぶだろう。

 (25) 1770年では単に夢であった資本家の心が、貧乏人のための「恐怖の家」が、二三年後には、工業労働者自身のための、巨大な「作業院」として実現されたのである。その名は、工場と呼ばれる。そして、このたびは、現実の前にアイディアは色褪せる。

[第五節 終り]






第六節

標準労働日のための闘争。
労働時間法による強制的な制限。
英国 工場法 1833年から1864年

 (1) 資本が、労働日を標準の最大限界まで拡張し、そしてさらにそれを超えて、自然日の12時間の限界までとするのに、

 本文注: いかなる階級の人達であれ、日12時間も辛苦せねばならいないと云うことは、まことに、大変気の毒なことと思う。これに、食事のための時間、仕事へ行くためと仕事から帰るための時間を含めれば、実際のところは、24時間のうちの計14時間となろう。…. 健康の点を問題外としてさえ、誰も以下のことを認めるに逡巡する者はいないと、私は思う。道徳的見地からも認めるものと思う。(イタリック) 休息もなく、13歳という年齢から、労働者階級の時間をそれほどまでに吸い取ることは、そして各製造業者等には、何の制限もなく、もっと年下の子供たちからも時間を吸い取るということは、はなはだしき損耗以外のなにものでもなく、非常に嘆かわしい悪弊と云わねばならない。….従って、人々の道徳、きちんとした人々の養育、そして大勢の人々に適切な生活の楽しみを与えるために、そのためにこそ、すべての製造業者等には、毎労働日のある部分を休息とレジャーのために保留するべきであることがより以上に求められよう。(レオナード ホーナー 「事実に基づく、工場査察官報告書 1841年12月31日」)

 自然日の12時間の限界までとするのに、数世紀を要した後、機械信仰と近代的工業の勃興に乗じて、18世紀の後半1/3にある現在、そこには、まるで山崩れのように強大で辺り一面を覆うがごとき、暴力的な侵害がやってきた。あらゆる境界、道徳と自然、年齢と性別、昼と夜 が打ち壊された。古き良き田園の法でもあった昼と夜の概念ですら、1860年の時点では、英国判事をして困惑させるものとなり、何が昼で、何が夜かを、「司法として」説明するためには、全くもって、ユダヤ教の律法の賢明さを、借用したのであった。( J.H.オトウェイ氏の判決文を見よ。ベルファスト ハイラリー法廷 アントリム州 1860年) 資本は、このお祭騒ぎを堪能したのであった。

 (2) 最初のうちは、新たな生産システムの混乱と騒音に呆然となっていた労働者階級だが、時間が多少経過するやいなや、実態を理解するまでに回復した、抵抗運動がはじまった。最初は、機械信仰の発祥地である英国で。とはいえ、その後の30年間、労働者達が獲得した譲歩は、純粋に名ばかりのものであった。議会は1802年から1833年迄の間、5つの労働法を議決したが、そこは抜け目なく、それらを遂行するための、それに必要な役人のための 1ペニーをも票決することなく、見事にやり過ごした。

 本文注: 以下の事は、フランス国ブルジョワ王 ルイス フィリップ体制下の極めて特徴的なことであって、彼の治世の間 1841年3月22日に議決された唯一の工場法は、執行されることが無かった。しかも、その法は、単に児童労働に関するものであり、8歳から12歳までの子供たちの日労働を8時間とするもので、12歳から16歳までの子供たちでは12時間とするもの、他であり、8歳の子供たちに対しての夜間労働すら許容するという多くの例外を含んだものなのにであった。この法の監督と執行は、この国ではいかなる鼠といえども警察の監視下に置かれるというのに、商売の友 (フランス語 イタリック) の善意に任された。ただ、1853年以降、唯一の単支所−ノード県支所−に有給の政府監視官が任命された。このことは、一般的に、同様、前者に劣らず、フランス社会の発展における極めて特徴的な事実であって、あたりを取り囲むあらゆる数のフランス国法のなかで、ルイス フィリップのこの法は、孤立を保持して立っていた。1848年の革命に至るまで。

 (3) それらは、( 訳者挿入 1802年から1833年迄の間の、5つの労働法は、) 死文のままであった。「事実は、1833年の法律に至るまでは、年少の者たち、そして子供たちは、夜も、昼も、またはその両方で、意のままに (イタリック) 働かされた。」(レオナード ホーナー 「事実に基づく、工場査察官報告書 1860年4月30日」)

 (4) 近代工業に、標準労働日が持ち込まれたのは、実に、1833年の工場法からである。この法は、綿、羊毛、亜麻、そして絹の各工場を対象とした。資本の精神をこれ以上特徴付けるものは、他にはなく、1833年から1864年の英国工場法の歴史がそれである。

 (5) 1833年の法は、一般的な工場の労働日は、朝5時半から、夕方8時半であり、これらの制限内において、つまり15時間内で、年少の者 (すなわち13歳から18歳までの者) を、一日のいかなる時刻から雇用しても、合法であり、いずれの一日のうちでも12時間超えなければよいと規定された。特別の場合の、例外も規定された。法の第6節は、次のように規定されている。「ここに示されるそのような例外的に規定される特別の者とは、毎日の中で、食事のために、少なくとも1時間半以上の食事時間が与えられる者である。」9歳未満の子供たちの雇用は、あとで述べる例外を除き、禁止された。9歳から13歳までの子供たちの労働は、日8時間に制限された。夜間労働、すなわち、この法によれば、夕方8時半から翌朝5時半までの労働であるが、9歳から18歳までの全ての者において禁止された。

 (6) この法の制定者達は、この工場法が結果としてもたらす子供たちの労働時間の拡大を防ぐために、特別のシステムを作りだした。これについては以下で説明するが、これによって、成人労働力を搾取する資本の自由、彼等はそれを「労働の自由」と呼ぶのだが、それを妨げることを望んでいるわけでは全く無かったのである。

 (7) 「現行の工場システムの大きな弊害は、」と 1833年7月28日の法制定委員会の中央代表委員会の報告書は書いている。「子供たちの労働が、大人の労働時間にまで延長されて継続される必要性から引き起こされることにあると思われる。この弊害を除去する唯一の方法として、我々の意見では、より弊害をもたらすと思われる成人の労働時間の短縮ではなく、子供達の二つの労働セットによる案が見出される。」

 (8) …リレー システムという名称のもとに、この「計画」はかくして実施された。すなわち、朝5時半から午後1時半まで、9歳から13歳の一つの労働セットが、そして、午後1時半から夕方8時半までがもう一つの別のセットが、「そこに用いられる、」等々。

 (9) ここ22年間で議決された子供たちの労働に関する全ての法を、最も厚かましいやり方で無視し続けてきた工場主達への報酬として、ある錠剤が、その上に金メッキまで施されて、彼等に与えられた。議会は、11歳未満の子供を、工場において、1834年3月1日以後は、日8時間以上働かせてはならない、と法を定めた。また、同様、1835年3月1日以後は、12歳未満の子供を、1836年3月1日以後は、13歳未満の子供を、工場においては、日8時間以上働かせてはならないと法で定めた。この何と云う「自由主義」、「資本」のためをこれほどまでに配慮した法は実に注目に値するものである。なぜならば、ロンドンの最も著名な内科医や外科医である ファー博士、A. カーライル卿、B. ブローディー卿、C. ベル卿、ガスリー氏 他が、下院の諮問において、遅滞は危険であると証言で明確に述べているからである。ファー博士はその後も、自分の考えを、遠慮なく述べている。

 (10) 「早々に、苦痛とともに、様々な形で現われる死を防ぐために、法律制定は必要である。そして明らかに、これ (すなわち、工場のやり方) は、最も冷酷な苦痛をもたらす様式であると見なす以外のなにものでもない。」

 (11) 工場主たちのために手厚い思いやりを盛る この同じ「改革」議会は、13歳未満の子供たちに、その後の何年間かの、地獄工場での、週72時間の労働を宣告したのであった。その一方で、奴隷解放法は、同様に自由を少しずつ執行したが、農場主に対しては、最初から、いかなる黒人奴隷であれ、週45時間以上の労働を禁じたのである。

 (12) しかし、資本は賢明さをもって調停されるものでもなく、今、数年にわたって続く、やかましい、論争を開始した。それは主に、日8時間労働に制限され、またある一定量の強制的教育を課せられる、子供と称される者の年齢についてであった。資本主義的人類学によれば、子供の年齢は、10歳で終り、またはせいぜいの所11歳までである。工場法が全面的に強制力を発揮する時期 致命的な年1836年が近づけば、近づく程、工場主達の暴徒共がより一段と怒り狂うことになった。彼等は、事実、ある程度まで、政府を威嚇して、政府をして1835年に、子供年齢制限を13歳から12歳に引き下げることを提案させるところまで行った。だが、その間、工場主以外の周囲からの圧力もまたより脅威なものになってきた。上院の勇気もこれには逆らえなくなった。彼等は、日8時間以上、13歳の子供たちを資本のジャガーノート馬車の元に投げ出すことを拒否した。そして1833年の法は完全実施されるところとなった。この法は、1844年7月に至るまでは、変更されずに留まった。

 (13) 工場法が施行されて10年間、初めは一部分であったが、やがて、全体的なものとなったのは、工場法を執行することの不可能性にかんする苦情で、工場査察官の公式報告書は、そのことばかりの土砂降り状態となった。なぜなら、1833年のこの法は、朝5時半から夕方8時半までの15時間において、全ての「年少の者」と全ての「子供」の12時間または8時間をいつでも好きなように始めたり、分断したり、つまみ食いしたり、終わらせたりする自由を資本のご主人達に与えていたからで、また、ご主人に、それぞれの年少者・子供に、それぞれの時間の、食事のための時間を定めることを許していたからである。これらの紳士諸君は直ぐに新しい「リレー システム」を見出した。労働馬を決まった駅で取り替えずに、馬車の方を替えてそのまま続けて走らせたのである。このシステムの美点については、改めて直ぐにこの点に戻ることにならざるを得ない。一見して明らかなように、結果として、このシステムは、工場法全体を台無しにした。その精神もさることながら、その文面をもである。どうやって工場査察官は、個々の子供や年少者に関する錯綜した簿記から、法的に決められた労働時間や法的に認められる食事時間を守らせることが出来るのか? 殆ど全ての工場が、罰せられることもなく、以前の花を直ぐに咲き誇らせた。内務大臣との面談 (1844年) において、工場査察官達は、この新たに発明されたリレー システムの下では、いかなる管理も不可能であることを論証した。(レオナード ホーナー 「事実に基づく、工場査察官報告書 1849年10月31日」)
 しかしながら、その間に、情勢は大きく変化した。工場の手達は、1838年以来、とりわけ、彼等の経済的な状況から、10時間法案をつくり、これを彼等の政治的かつ、選挙スローガンとしたことである。また、1833年の法に従って自分達の工場を運営していた工場主達の方は、彼等のとんでもない仲間達、勝手し放題の輩や、地方的状況で運良く法を破ることができた輩の節操なき競争に関する陳情書で議会を圧倒した。そして、それ以上に、個々の工場主が、彼の昔ながらの取得欲のために手綱を振ったとしても、工場主階級の代弁者や指導者が前線を替えることを命じ、労働者達に向けて協力要請をしたからである。彼等は、穀物法の廃止に関する(訳者挿入: 地主達との) 論争に首まで漬かっていて、この論争に勝利するために労働者達の助力を必要としたのである。彼等は、そこで、倍サイズのふかふかな食パンだけではなく、10時間法の制定すらを、自由貿易のミレニアム記念にと約束したのである。(レオナード ホーナー 「事実に基づく、工場査察官報告書 1848年10月31日」)
 であるから、彼等は、1833年の法がただ現実となるにまかせる状況に強く反対することは少なくなった。地主達、彼等の最も神聖なる利益 地代を脅されたトーリー党は、彼等の敵の「極悪なる実践」(レオナード ホーナー 「事実に基づく、工場査察官報告書 1859年10月31日」彼は、彼の公式報告書で、「極悪なる実践」という表現を用いている。) に対して博愛ある憤激をもって雷を発したのである。

 (14) これが、1844年7月7日の追加工場法の原因であった。1844年9月10日に執行された。この法は、労働者の新たなる範疇を法の保護の下に置いた。すなわち、18歳以上の女性である。彼女達は、全ての点について、年少者と同じ地位に立たされ、彼女達の労働時間は12時間とされ、夜間労働は禁止された、等々。初めて、法律そのものが、直接的かつ公式的に成人の労働について管理するのを見るところとなった。1844-1845の工場報告書には、次のように皮肉を込めて述べられている。

 (15) 「成人女性が、彼女たちの権利 (イタリック) がこのように大きく妨害されたことについてなんらかの遺憾を表すようなことは、私の知るところとなるような事例は、皆無であった。」(工場査察官報告書 1844年9月30日) 13歳未満の子供たちの労働時間は週61時間に減らされた。またある状況下では、日7時間となった。(本文注: この法は、子供たちが連日ではなく、隔日で働く場合、10時間の雇用を認めている。だが、全くのところ、この条文は、死んだままであった。)

 (16) 見せかけのリレー システムの乱用を防ぐために、法は、その上に、次のような重要な条項を確立した。

 (17) 「子供及び年少者の労働時間は、どの子供または年少者であれ、朝、仕事を始める時から起算されねばならない。」

 (18) であるから、例えば、少年Aが朝8時から仕事を始め、そして少年Bが朝10時から始めたとする。それでも、少年Bの労働日は、少年Aと同じ時刻に終了しなければならない。時刻は、公設時計によって決められるものとなる。例えば、最寄りの鉄道時計である。それに合わせて工場時計もセットされる。人を占有する者は、仕事の開始と終了時刻と何回かの食事時間を示す「読める」印刷した通知を掲示するものとする。正午前に仕事を始めた子供たちは、午後1時以降 再び仕事に従事させてはならない。午後番組は、従って、午前中の子供たち以外の他の子供たちから構成されねばならない。食事時間は、1時間半である。

 (19) 「このことにより、少なくともその1時間は、午後3時前には与えられねばならない。少なくとも30分の食事時間を置かずに、午後1時前に5時間以上働かせてはならない。子供または年少者 [または女性] を、[例えば食事時間] には、製造過程が行われるいかなる部屋で作業に従事させたり、そこに留まることを許したりしてはならない。」等々。

 (20) これらの微細極まる(フランス語)、軍隊式の、時計の鼓動に合わせて、労働の時間、制限、休止を決めることは、全くのところ、議会の思いつきの産物ではない。近代的生産様式がもたらす自然の法則というべき諸々の状況が、段階を追って生長させたものである。それらの内容の明確化、公式的な承認、国家による告示は、長き階級闘争の結果である。その成り行きの最初の一つは、工場における成人男子の労働日に関する関連であり、同じ制限が取り上げられるところとなった。多くの場合、生産工程は、子供たち、年少者、女性たちとの協働で成り立っており、その協業が必須だったからである。従って、全体として、1844年から1847年の期間では、12時間労働日が一般的となり、全工業部門が工場法の下に統一されたのである。

 (21) とはいえ、製造業工場主等は、この「進歩」を、「退歩」との組み合わせなしには許さなかった。彼等の横やりで、下院は利用できる子供たちの年齢を、神のご意志と人間の法に従って、資本家に必要なだけの追加的工場児童数の供給を確保するために、その年齢基準を9歳から8歳に引き下げたのである。

 本文注: 「子供たちの労働時間の短縮は、雇用される(子供たちの) 数の増大を引き起こすであろうから、8歳から9歳までの子供たちの追加的な供給は、増大する要求に合致するものと思われた。(工場査察官報告書 1844年9月30日)

 (22) 1846年−47年の両年は、英国経済史にとって新時代を画するものである。穀物法が撤廃され、また綿花やその他の原料の関税も撤廃された。自由貿易が法律の導きの星のごとく宣言された。別の言葉で云うなら、千年王国の到来である。だが、一方では、同じ両年は、チャーティスト運動 (訳者挿入: 成年男子全員による普通選挙を求める)と10時間法への運動が、それぞれ、それらの頂点に達した年でもあった。彼等は、復讐にあえぐトーリー党の中に同盟者を見出した。ブライトやコブデンを頭とする偽証を犯した自由貿易主義者達一群の狂信的な反対にも係わらず、長い闘争を経て、10時間法は、議会を通ったのであった。

 (23) 1847年6月8日の新工場法は、同1847年7月1日に施行されたが、それに先立って、「若い人々」(13歳から18歳までの)と、全ての女性の労働日が11時間に短縮された。だが、1848年5月1日には、まさに、労働日の制限が10時間となるはずである。その他の点では、単に、1833と1844年の法が補完され、完成されたということにすぎない。

 (24) 1848年5月1日には、完全実施となるはずのこの法律を妨害するために、資本は、今、事前の宣伝を開始しようとしていた。そして、労働者自身は、経験によって迫られた現況下にあり、彼等自身のやるべきことはその妨害を手伝うことであった。そして、その開始の時は、巧みに選ばれていたのであった。

 (25) 「(1846年−47年のものすごい恐慌の結果) 2年以上にわたる大きな苦難が、工場労働者には、ふりかかっていた。多くの工場には短時間の作業しかなく、また多くの工場は全休業となっていた。であるから、相当数の工場労働者には、極めて狭い状況下追い込まれており、多くは、負債におののき、過去の損失を補うためにも、借金を返済するためにも、家具を質屋から取り返すためにも、売ってしまった物を元のようにするためにも、彼等自身や彼等の家族のために衣服を得るためにも、より長時間の労働を選ばねばならない現状に迫られていたのであった。このことをもまた、思い起こさねばならぬ。」(工場査察官報告書 1848年10月31日)

 (26) 工場主等は、これらの状況の自然的効果を利用して、賃金の全面的10%引き下げを、強いた。これは、言うなれば、新自由貿易時代の幕開け儀式としてなされた。そして、さらに、労働日が11時間に短縮されると同時に、8 1/3%の賃金引き下げが続いた。さらにその倍の引き下げが、最終的に10時間に短縮されるやいなや、実行された。従って、状況が許すならば、どこであろうと、少なくとも25%の賃金切り下げが実行された。

 本文注: 「私は、ある人達のことを知っている。その者達は、週に10シリングを得ていた。賃金の10%切り下げで9シリングとなった。さらに、時間短縮により1シリング6ペンスを引かれ、計2シリング6ペンスが無くなった。だが、このことにも係わらず、彼等の多くは、10時間労働の方がよいと口々に云ったのである。」(工場査察官報告書 1848年10月31日)

 この様な好都合の条件が準備された中で、1847年の法の撤廃のための煽動が、工場労働者の内部で始まった。この煽動においては、嘘も、買収も、恐喝も節約されることは無かった。しかし、全ては無駄であった。労働者達が「労働者達への、法による脅迫」という苦情をのべた請願書の半ダースに関して、請願者達は、口頭尋問で、彼等の署名は、工場主等によって強要されたものであると述べた。「彼等は脅迫を感じている、が、それは工場法によるものでは、全く、ない。」

 本文注: "「私は、それ[その請願] に署名したことはその通りであるが、私は、その時に、私は間違ったことに手を使ったと云った。」「では、何故そんな風に手を使ったのかね?」「もし、断ったら、解雇されるにちがいないからで。」この請願者は、自分が「脅迫された」と感じているのは明らかであるが、工場法による脅迫では、全くない。" (工場査察官報告書 1848年10月31日)

 しかし、製造工場主達は、労働者達に、あたかも自分達が望んでいると語らせるのに成功しなくても、労働者の名を使って、新聞や議会にやたら大声で、自分達自ら喚き散らした。彼等は、工場査察官を、あたかもフランス国民議会の革命委員会のようなものであって、無慈悲に、不幸な工場労働者を、人道主義的な気まぐれの犠牲に供するようなものであると非難したのであった。この策動も失敗した。工場査察官 レオナード ホーナーは、彼自らと、彼の副査察官達の手を借りて、ランカシャーの工場群において、連署人に対する多くの聞き取りを行った。聞き取りを行った労働者の70%は、10時間を支持し、僅かなパーセントの労働者が11時間を支持し、全体の中では、取るに足りない僅かな者が、昔の12時間を支持した。

 本文注: (工場査察官報告書 1848年10月31日) ホーナー氏の地区において、181工場の成人男子労働者 10,270人が調査された。それらの証言は、1848年10月で終わる半年間の工場査察官報告書の付録に見出される。この証人聞き取り調査は、他の関連についても、同様、価値ある資料となっている。

 (27) これとは別の、「友情に満ちた」ごまかしは、12−15時間 成人男性を働かせた その後で、これこそが、彼等プロレタリアートが、心の中の心で欲している考えの、最上の証拠であると広く誇示するやり方であった。だが、「冷酷極まり無き」工場査察官 レオナード ホーナーが、再び立ちはだかった。殆どの「超過時間者達」は、と彼は述べた。

 (28) 「彼等は、より少ない賃金であっても、10時間労働の方がより好ましいと思っているのだが、彼等には選択の余地が無かった。つまり、多くの者が失業しており、( 多くの紡績工が、安い賃金で、糸繋ぎ工として働かざるを得ず、それ以上の良い方法は無かったのであるから。) もし、長時間労働を拒否すれば、他の者が直ぐにその仕事を奪ったであろう。であるから、長時間労働に合意したからなのか、仕事から放り出されるのを恐れたのかは、分かったものではない。」

 本文注: レオナード ホーナー自身が集めた証拠を見よ。また、副査察官 A が集めたものが、付録にある。一製造工場主もまた、そのままの真実を述べている。これらを見よ。

 (29) この様な資本の事前キャンペーンは、嘆きに終わった。10時間法は1848年5月1日に施行されたからである。とはいえ、この間、チャーティスト党は大敗北を喫した。指導者達は投獄され、彼等の組織は分断された。このことが、労働者階級が知るところとになった自らの力の自信を震撼させた。この直ぐ後のパリの6月暴動とその血なまぐさい弾圧が、大陸同様、英国でも、あらゆる支配階級断片を団結させた。地主と資本家を、狼相場師と小店主を、保護主義者と自由貿易主義者を、政府と反政府側を、司祭と自由思想家を、若き売春婦と老修道女を、財産 宗教 家庭と社会の救済と云う共通の叫びの下に団結させたのである。労働者階級には、あらゆることが禁止され、あたかも容疑者として扱われる者と宣告された。製造工場主らにとっては、もはや自分らを抑制する必要がなくなった。彼等は、このおおっぴらの反動において、単に10時間法をぶち壊すだけではなく、労働力の「自由な」搾取を多少なりとも制限しようとした1833年以来の全ての法をも打ち壊したのである。この反動は、奴隷制擁護の反乱の縮小モデルであった。不真面目で無謀なこの反動は2年間以上も続いた。このテロリスト的な努力はまことに安いものであった。なぜならば、反動資本家にとっては、自分の「手」の皮膚以外に失うリスクがなかったのだから。(訳者注: 手を叩いて喜ぶだけで、以前の「労働の自由」が取り戻せたのだから。この部分の向坂訳は、どうしてなのか 資本家が、労働者の皮膚を失う恐れがあったとある。)

 (30) 以下のことを理解するためには、1833年、1844年、1847年の各工場法を想起する必要がある。後者が前者を改正していない点がある限りは、いずれの法も、有効であり、18歳以上の男子の労働日の制限もその一つで改正されていない。 1833年以来 朝5時半から夕方8時半の15時間が、法的な「労働日」として残存している。そして、この制限内で、当初は12時間の、そして最終的には10時間となる年少者と女性の労働時間制限が所定の条件によって実行されるべきものとなったのだが、以下のことを把握するには、このことを改めて想起しておく必要がある。

 (31) 製造工場主らは、こっちでもあっちでも、自分達が雇った年少者や女性のある部分を、多くの場合は半数を解雇し、成年男子と入れ換え、すたれていた夜間労働を再開した。10時間法は、と彼等は叫んだ、これ以外の方法を残していないと。(工場査察官報告書 1848年10月31日)

 (32) 続く策略は、食事のための法的な休止時間に狙いをつけたことである。工場査察官達の報告を聞いてみよう。

 (33) 「働く時間が10時間に制限されることになって以来、工場占有者らは、依然としてそれを実際には実行してはいないが、その労働時間が朝9時から夕方7時までであり、朝9時以前に1時間、夕7時以後に半時間「の食事時間」を許すことによって、法の条項を満たしていると主張する。彼等が1時間または半時間の昼食時間を許している場合もないわけではないが、それはそれとして、工場における労働日の中で、1時間の断片または半時間を与えるべしと決めつけられているわけではない点に固執する。」(工場査察官報告書 1848年4月30日) 製造工場主らは、であるから、1844年の法は、食事時間については、厳密に条項を正確に読み取るならば、最も適切な飲食許可は、工場に来る前、そして工場を去った後に、つまり自分の家でのみ与えられることになると主張する。そして、こう云うのだ。何んで労働者達は、朝の9時前に昼食をとってはいけないのか? と。しかし、王室法律顧問は、規定されている食事時間は、

 (34) 「労働時間の間になければならず、そして、10時間連続して、朝9時から夕7時までいかなる休憩もなく働かせることが合法と定めているものでもない。」と判決した。(工場査察官報告書 1848年10月31日)

 (35) この様なふざけた主張の後に、資本は、その反逆を、1844年の法律文面に沿った手段でその前奏を開始した。だから合法であった。

 (36) 確かに、1844年の法は、正午前に仕事につかせた8歳から13歳までの子供たちを、その同じ子供たちを、午後1時以降にも働かせることを禁じている。しかし、正午か正午を多少でも過ぎた時刻から仕事を始める子供たちの6時間半の労働については、いかなることも規制していない。8歳の子供たちがいて、もし彼等が正午に仕事を初めて、12時から1時までの1時間、午後2時から4時までの2時間、夕方5時から8時半までの3時間半を働かされたとしたら、計 合法的に6時間半となる。または、それよりもいい方法がある。子供たちの労働を、成人男子の労働に合わせて、午後8時半までとするために、製造工場主らは、午後2時までは子供たちに仕事をさせず、その後は途中の休憩もなしに、夕方8時半まで工場に居させることができた。

 (37) 「そして、現状において、英国には、日10時間以上彼等の機械類を稼働させたいという工場所有者らの欲求から、全ての年少者達と女性達が仕事から帰った後に、工場所有者の選択として、夕方8時半まで、成人男子の側に、子供たちを置いて仕事をさせるやり方が顕著に認められるものとなった。(工場査察官報告書 1848年10月31日)

 (38) 労働者達と、工場査察官達は、衛生上及び道徳上の理由から抗議したが、資本はこう答えた。

 (39) 「私の判断でやったこと!法が正しく行われますように。私の判断のようにご判断を。」(訳者注: このセリフは、シェークスピアのベニスの商人から。ユダヤ商人シャイロックが、裁判官ポーシャに、アントーニオへの慈悲を拒否して彼の胸の肉一ポンドを求めて云うセリフ。「慈悲とか正義とかのご高説はいい加減にしてもらいたい。私は法を要求しているんだ。私の債務証券に記された彼への罰則とその決済を要求しているんだ。」この後のセリフも次の文節で登場するが、その後ポーシャの「きっかり」肉一ポンドでなければならない、「血を一滴たりとも」流してはならない、キリスト教徒の血を一滴でも流したら、法によりあなたの土地と財産は、ベニスの国庫のものとなるぞ、と、どんでん返しの場面へと続く。)

 (40) 事実は、1850年7月26日に下院に提出された統計によれば、1850年7月15日に提出された多くの抗議にも係わらず、257の工場において、3,742名の子供たちが、この「判断」によって雇用されていた。(工場査察官報告書 1850年10月31日) それが全てではない、さらに加えて、資本の山猫のごとき目は、1844年の法に、正午前の5時間の労働が、少なくとも半時間の休息なしに行われることを許していないことを読み取っていながら、正午以後の労働には何も記されていないことを発見した。であるから、資本の判断として、9歳の子供たちを午後2時から午後8時半まで、休息なしに単調な骨の折れる労働に縛りつけるのみならず、子供達をしてこの間ひもじい思いをさせるという楽しみを要求し、それを獲得したのである。

 (41) 「はい、彼の心臓。債務証券にそう記されております。」(訳者注: シェークスピアのベニスの商人。裁判官ポーシャが、アントーニオへ胸をはだけよ、と命じたのに応じて、シャイロックが、文字通り、心臓直近の、と書いてあります、と続けるところ。「秤はあるか?」「用意しております。」)

 (42) このシャイロック式の1844年の法の字句へのこだわりは、

 本文注; 資本の本質として、その発展した段階でも、未発達の段階と同じ形式を保持している。アメリカ南北戦争が始まる少し前の頃、奴隷所有者らの権力下において、ニューメキシコ領に課した規定には、こうある。労働者は、彼の労働力を資本家が購入した限りにおいて、「彼(資本家)の貨幣である。」 ローマ帝国の貴族らにも、同じような見方が流布していた。彼等が平民債務者に前貸しした貨幣は、生活手段を経由して、債務者の血となり肉となった。従って、この「血と肉」は、「彼等の貨幣である」と。かくて、シャイロック的十戒となる。リングハットの仮説、貴族債権者らが時々、テルベ河を越えて、債務者の肉を食する宴会を開いたと云う仮説は、ドーマーの云うキリスト教徒の聖餐と同様、依然として分からないままである。

 子供たちの労働を規制する点に関する限りでは、その法への反逆の単なる言いがかりになっているにすぎない。「年少者達と婦人達」の労働に関する、「偽装リレーシステム」の廃止が、この法の主目的であり主題であったことが想起されるところであろう。工場主らは、彼等の反逆を、次のようなむき出しの宣言を以て開始した。1844年法の条項は、日15時間を細切れにして、年少者達と婦人達を好き勝手に(ラテン語)用いることを禁じているが、労働日が12時間と固定化されている限りでは、雇用者側が決めたことでもあり、「比較的無害なもの」であった。だが、10時間法下では、それらは「苦難に満ちた圧制」であった。(工場査察官報告書 1848年4月30日) 彼等は、工場査察官に、もっとも冷静なる態度をもって、自分らは、法の字句がどうであれ、自分らの考え通りに、前のシスシムを再導入すると通告したのであった。

 本文注; いろいろある中で、査察官 レオナード ホーナーに宛てた、慈善家 アッシュワースの不快極まるクエーカー教徒の手紙が、それをよく表している。(工場査察官報告書 1849年4月)

 彼等は、丸め込まれた職工たち自身の利益のために、「より高い賃金を彼等に支払うことが出来るようにするために」やっているのだと見せかける。

 (43) 「これが10時間法下で大英帝国の製造業の優位を維持して行く唯一の可能な計画であった。」「多分、リレーシステムの不正を見つけることが多少は困難となるかも知れないが、それがどうしたというんだ。工場査察官や副工場査察官のちょっとした面倒を減らすために、この国の大製造業の利益をあたかも二次的な問題として取り扱うべきと云うのか? (工場査察官報告書 1849年4月30日)

 (44) これらの全屁理屈は当然ながら、なんの役にもたたなかった。工場査察官達は、法廷に提訴した。だが、もう一方の工場主らの請願書も、たちまちにして、国務大臣 ジョージ グレー卿を砂塵のごとく圧倒した。1848年8月5日の巡回裁判で、卿は、工場査察官に対して、しないようにと以下の勧告したのである。

 (45) 「法の字句の隙間解釈に関して、また年少者たちのリレー方式において、法が規定する時間よりも長い時間雇用されたと、そのような年少者たちが実際に存在するという信んずべき理由もなく、工場所有者らを提訴申請しないように。」以後、工場査察官 J. スチュアートは、全スコットランドにおいて、15時間以内の工場日では、いわゆるリレーシステムを黙認した。たちまち以前のやり方が跋扈した。イングランドの工場査察官は、これとは異なり、国務大臣は法に関して独裁的な裁量権は持っていないと宣言して、奴隷制擁護の反逆に対して彼等の法的行為を続行した。

 (46) とはいえ、法廷がこの場合のように、州治安判事らが、―― コルベットの「偉大なる無給判事」らが、―― それら提訴を無罪とするなら、資本家らを査問したところで何の期待があるというのか? これらの裁判において、一例を上げるならば、自分達の事案に、工場主らが判事の椅子に座るのである。ある男 エスクリッジは、綿紡績業者で、カーショウ、リーズ、他による会社の経営者である。彼は当該地区工場査察官に、彼の工場で実施する予定のリレーシステムの概要を提出した。拒絶回答を聞いて、最初は静かにふるまった。二三カ月後、ロビンソンという名の個人が、この男も綿紡績業者で、エスクリッジのやる事には全部係わっていたが、忠僕と云えるかどうかは分からないが、エスクリッジが発明した典型的なリレー方式導入の罪で、ストックポートの州治安判事の前に出頭した。四人の判事が座った。そのうちの三人は、綿紡績業者であった。彼等の首席は、避けようしともしない同一人物たるエスクリッジその人であった。エスクリッジはロビンソンを無罪とした。翻って、ロビンソンに正しいことは、エスクリッジにも公正であると述べた。彼自身の法的判断に支えられて、彼は、彼の工場に直ちにそのシステムを導入した。(工場査察官報告書 1849年4月30日 21・22ページ 同4・5ページの例も参照せよ。) 勿論、この裁判官席の構成そのものが法に違反していた。

 (本文注: ジョン ウォブハウスの工場法として知られる、ウィリアム4世治下 1年度及び2年度の法 第24章 10節によれば、あらゆる綿紡績業または織物業の所有者、またはそのような所有者の父、息子、兄弟は、工場法に関するいかなる審理にも、治安判事としての参加は禁じられていた。)

 (47) この種の道化裁判官は「緊急の修正を要する。」と、査察官ホーナー叫ぶ。「−このような裁定に法を一致させるように改訂すべきか、または、法にこれらの裁定が一致するように、より過ちの少ない裁判所に管轄させるべきである。−今後このような事例が生じた場合には。 私としては、有給の裁判官を切望する。」(工場査察官報告書 1849年4月30日)

 (48) 王室法律学者は、1848年の法に対するこの工場主らの解釈は不自然であると公言した。しかしこの社会の救世主らは、彼等の目的を転ずることについては、自分達を許さなかった。レオナード ホーナーは次のように報告する。

 (49) 「法の施行に努力するものの、…10の提訴を、7つの行政区で行い、治安判事から支持されたものはただの1件のみ… このように、法の網の目が破られるようでは、この先の提訴は何の役にも立たないことになる。1848年法の労働時間の画一性を守るようにと確定された部分は、… この状況で、もはや私の地区(ランカシャー) では、法が正しく施行されている工場は存在しない。副査察官または私自身が、リレーシステムの拡大方式と言うべきシフト方式が行われている工場を査察しても、我々は、年少者たちと女性たちが日10時間以上働いていないと、確認するいかなる手段も持っていない。4月30日の報告書に戻るが、シフト方式を用いる工場所有者は、114人を数え、瞬く間に急速に増大している。多くの場合、工場の労働時間は、13時間半に拡張されており、朝6時から夕方の7時半である。… ある実例では、15時間であり、朝5時半から夕8時半までである。」(工場査察官報告書 1849年4月30日)

 (50) 既に、1848年12月時点で、レオナード ホーナーは、65製造工場主のリストと、29人の監視員のリストを持っていた。彼等は全員一致で、このようなリレーシステム下では、無法極まる超過労働を防ぐための監視方法が無いと言明した。(工場査察官報告書 1849年10月31日) 現に、同じ子供たちや年少者たちは、紡績室から織布室にシフトされ、現に、15時間の中で、ある工場から別の工場へとシフトされる。(工場査察官報告書 1849年4月30日) このようなシステム下で、どうやって監督することが出来るというのか。

 (51) 「リレーシステム隠しの横行下、無限の「手」を混ぜ合わせて作りだす沢山の方法のうちの一つを見てもどうにもならない。全日での個々の、労働時間のシフト、様々な休息時間のシフト、があり、同じ時間、同じ室で、一緒に働く労働者達の完全なる一チームをも見ることはあり得ない。」(工場査察官報告書 1849年10月31日)

 (52) とはいえ、現実の超過労働のことを度外視したとしても、このいわゆるリレーシステムは、資本主義的な幻想である。かのチャールス フーリエ (訳者注: フランスのユートピア社会主義者 1772-1837 マルクスやエンゲルスは科学的社会主義の視点から批判してはいるものの、歴史的な流れにおいては、それなりに評価している。) が、ユーモアを添えて描写した「様々な労働の選択」なるものが、実現したわけではない。「労働の魅力」(訳者注: これが彼の論文の一節のタイトルなのである。) が、資本の魅力に換えられた云う点を受け入れるかぎりでは、実現したとも云える。例えばこうだ。ある「名の通った」新聞が、この工場主らの方式を、「管理と方法の合理的な完成品」のモデルであると称賛したのを見れば、分かるだろう。労働者ら各員は、時には、12から14の範疇に分別された。そしてそれらの範疇の内容構成は、絶えず変えられ、かつ再編成された。工場日の15時間において、資本は、今度は30分、今度は1時間と労働者を無理やり引きずり込んで、そして放り出す。工場に入れては、工場から追い出す。時間を細切れにして、こっちへあっちへと追い立てる。10時間の仕事が終わる迄 彼を捕まえて離すことなはない。(訳者注: フーリエの論文の一節「労働の魅力」には、1時間半または2時間の労働なら、人は集中して楽しむことが出来るとの内容があるのだが、さらに、短い仕事にして、労働を楽しむように資本が考慮したと知ったら、ふざけるんじゃないと大声を出すだろう。) まるで、演劇舞台である。同じ人間が違う役を違う幕で演じねばならぬ。しかしながら、役者が、全演技の間は舞台に所属するのと違って、工場労働者は15時間工場に所属するのだが、あっちへ行ったりこっちへ来たりする時間は含まれていない。であるから、休息の時間は強制的な空き時間となり、青年たちを居酒屋の給仕に追い、少女たちを売春宿に追う。資本家が、彼の機械を12時間または15時間、労働者の数を増やすことなしに稼働させたいと日々思いつけばいつでも、労働者はこっちの細切れの時間に食事を飲み込まなければならないし、あるいは別のあっちの時間で食事を飲み下さねばならない。10時間法反対の煽動の時には、工場主らは、労働暴徒どもは、10時間の労働で12時間の賃金を要求していると叫んだものだが、今ではその言葉のメダルを裏返して、労働力の12時間または15時間の領有に対して10時間の賃金を支払った。(工場査察官報告書 1849年4月30日を見よ。また、工場査察官 ハウエルとサウンダースによる「シフトシステム」の詳細な説明 報告書 1848年10月31日 を見よ。また、アシュトン及び周辺区の聖職者達が1849年春 女王に提出したシフトシステムに反対する請願書も見よ。) これが、工場主らの10時間法の解釈であり、本質的な狙いそのものであった! これがあの同じ自由貿易主義者の姿である。穀物法反対運動のまるまる10年間、人間愛を熱く語り、ポンド、シリング、そしてペンスまで計算して、穀物の自由輸入と英国工業が所有する機械をもってすれば、資本家達を富ませるには10時間労働で充分であると、労働者に力説したあの者らの姿なのである。( 例えば、「工場問題と10時間法案」R.H.グレッグ 1837と比較してみよ。) この資本の反逆は、2年後、ついに勝利をもって結果の冠が与えられた。英国の四つの最高法廷の一つである財務裁判所法廷が、1850年2月8日に提出された提訴において次の様な判決を下したからである。製造工場主らは明らかに、1844年法の主旨に反した行動を取ったが、この法条項自体に、規定を無意味とする明確な言葉が書かれていると判決したのである。「この判決により、10時間法は廃止された。」

 (本文注: F.エンゲルスの「英国10時間法案」( K.マルクスの編集による「新ライン新聞 政治経済評論」1850年4月号に収録) に、この同じ「最高」裁判所法廷は、アメリカ南北戦争中、海賊船の武装を禁止する法の意味を逆転させるような語句の曖昧さを発見した。)

 これまでは年少者たちや女性たちに対して、リレーシステムを用いることに躊躇していた工場主連中は、いまや、それを用いることに、心臓も魂も注ぎ込んだ。(工場査察官報告書 1850年4月30日)

 (53) だが、この明らかに決定的な資本の勝利に、たちまち激変が伴った。労働者達の抵抗は不屈で根気強いものではあったが、これまでのところは、受け身に終始していた。今度は、ランカシャーやヨークシャーで、脅威的な集会をもって抗議した。ごまかしの様な10時間法は、この様に、単なる戯言であり、議会の法的詐欺であり、今だかって存在したこともない! 工場査察官達は直ちに、議会に対して警告した。階級的対立が信じられない程の緊張点に達したと。ある工場主らは、仲間うちで愚痴をこぼす始末であった。すなわち、

 (54) 「治安判事の相矛盾する判決のために、事態はまったく異常となり、無政府的なものとなった。一つの法がヨークシャーで執行され、ランカシャーでは別の法が、一つがランカシャーの一行政区で、他のものが直ぐ隣の区で。大きな町の工場主は法を強引に切り抜けることができても、地方では、そのリレーシステムに必要な人々を見つけることはできない。工場から工場へシフトするにも人手が少な過ぎる。等々」

 (55) 云うまでもないが、資本の第一の生存権は、あらゆる資本家による、労働力の、平等なる搾取なのである。

 (56) これらの状況下において、工場主と労働者の間の妥協が成立した。1850年8月5日の追加工場法である。議会の印章も捺印され確定した。「年少者たちと女性たち」の労働日は、週のうちの最初の5日間は、10時間から10時間半に伸び、土曜日は7時間半に短縮された。労働時間は朝6時から夕6時 ( 冬季は朝7時から夕7時となる) で、1844年の条件と同じく、食事時間として1時間半より少なくない時間の休息、そしてその食事時間は、一斉に同時刻に与えられるものとなった。これらにより、リレーシステムは永久に廃止された。( 本文注: 「この現行法 (1850年の)は、妥協の産物であり、そこで、労働者は、10時間法の恩恵を譲り渡して、労働者を制約する労働開始・労働終了の斉一時刻の方を選び取ったのである。」(工場査察官報告書 1852年4月30日)) 子供たちの労働については、1844年の法が変わらず有効であった。

 (57) 一部の工場主らは、この時も以前と同じように、プロレタリアートの子供たちに関する特別な領主権を法の上で確保した。絹製造工場主らであった。1833年でも、彼等は大声で吠えて上流階級を威嚇した。「もし、仮に、いかなる年齢の子供たちであれ、日10時間の労働の自由が(訳者注: 例によって、我々から) 奪われたなら、自分達の工場の仕事が停止するであろう。」(工場査察官報告書 1844年9月) 13歳以上の子供たちを充分な人数買うことは、自分達にとっては不可能であろうという言い分である。彼等は彼等の望む特権を強奪したのである。その後の調査で、この口実は故意の嘘であることが明らかとなった。(同上) とはいえ、以後10年間にわたって、日10時間の絹紡績において、仕事のためには椅子の上に乗せられねばならないような子供たちの血肉を用いることが、妨げられることは無かった。(同上) 1844年法は、確かに、彼等から11歳未満の子供たちを日6時間半以上雇用する「自由」を奪っていた。だがその一方で、11歳から13歳までの子供たちを日10時間働かせる特権を確保した。そして、他の全ての工場の子供たちに強制的に行われる教育を、彼等の場合には除外したのである。この時の口実は、以下の通りであった。

 (58) 「彼等が雇用された工場での織物の肌合いはとても繊細で、軽いタッチが必要で、早くからこれらの工場に導入された者たちによってのみ実現されるものなのである。」(工場査察官報告書 1846年10月31日)

 (59) 子供たちは、彼等の繊細な指のために、まるまる屠殺されたのである。ちょうど、南部ロシアで角を持った牛が彼等の皮と牛脂のために屠殺されるのと同じようにである。でもついに、1844年では認められた特権は、1850年には、絹糸撚糸と絹糸巻き取りの部門のみに限定された。ところがここで、資本の利益を温存するために、11歳から13歳までの子供たちの労働時間の資本の「自由」が10時間から10時間半に伸ばされたのであった。再びその口実は、「絹工場の労働は、」

 (60) 「他の織物工場に較べて容易なものであって、また、健康への影響も低いものである。」(工場査察官報告書 1861年10月31日) 後に、公式医療調査は、正反対であることを証明した。

 (61) 絹製品製造業地域の平均死亡率は、ことの他高く、特に全人口のうちの女性部分では、綿製品製造業地域であるランカシャーよりもさらに高い。

 本文注: 工場査察官報告書 1861年10月31日 概して云えば、工場法に係る労働者人口については、身体的には大いに改善を見た。全ての医学的証言は、この点では一致している。また、様々な時点での個人的な観察も私をそう確信させるものである。だが、にもかかわらず、子供たちの、人生の最初の段階にある子供たちの恐るべき死亡率を別にしても、グリーンハウ博士の公式報告書によれば、「農業地域の通常的健康状態」と比較して、製造業地域の健康状態が好ましいものではないことを示している。証拠として、彼の1861年の報告書から以下の表を提示する。





地域名
製造業に
おける成
年男子率

[%]
同左
成年女子


[%]
肺病によ
る10万人
当り男子
死亡率
[人]
同左
女子死亡


[人]
女性の
場合の職



ウィガン14.918.0598644綿
ブラックバーン42.634.9708734綿
ハリファックス37.320.4547564羊毛
ブラッドフォード41.930.0611603羊毛
マクルスフィールド31.026.0691804
リーク14.917.2588705
ストーク アポン トレント36.619.3721665陶器
ウールスタントン30.413.9726727陶器
8 健康的農業地域--305340-

 (62) 6ヶ月ごとに提出される工場査察官の抗議にも係わらず、この健康被害は今なおこの時間でも続いている。

 本文注: 英国「自由貿易論者達」にとって、絹製造業者のための、絹の保護関税を断念することが、なんとも気の進まないものであったかは、よく知られたところである。フランスからの輸入保護関税に対応して、英国工場で働く子供たちの保護の撤廃が今度は彼等の言い分となった。

 (63) 1850年の法は、「年少者たちと女性たち」についてのみ、朝6時から夕8時半での15時間を、朝6時から夕6時の12時間に変えただけである。従って、この時間の前の半時間と後の2時間半、いつもの様に使うことができる子供たちの労働についてはなんら影響するものでは無かった。子供たちの全労働時間が6時間半を超えないと言う条件ではあったが。この法案の審議中、工場査察官達は、この悪のりのはなはだしき乱用に係る統計を議会に提出した。無駄であった。その背後には、景気好調の年には、子供たちの補助によって、成年男子の日15時間労働をねじ込もうとする狙いが隠されていた。続く3年間の経験は、このような試みが、成年男子労働者の抵抗の前に、悲嘆に帰さねばならなかった。その結果、1850年の法は、「子供たちの、年少者たちと女性たちの時間より前の、朝の時間、以後の夕方の時間の使用」を禁じる条項により、1853年に最終的な完成を見た。以後、二三の例外を除けば、1850年の工場法が、全製造業種の全労働者を適用下に置いた。

 本文注: 1859年と1860年の間、英国綿製造業の絶頂期、ある製造工場主らは、超過時間に対して高賃金という疑似餌を用いて、労働日の延長を成人男子労働者に認めさせようとした。ミュール紡績工らと自動挽き肉機監視工らは、雇用主らに対して請願書を提出し、この種の試みを停止させた。嘆願書には、次のように書かれていた。「分かりやすく云えば、我々の生活が我々の重荷となっている。そして、この国の他の労働者よりも週2日近く以上も(イタリック)工場に閉じ込められている間は、ここの農奴のように思う。そして、我々は、この不当なシステムを我々自身と将来の世代へも永続化しようとしている。…. 従って、ここに、最上の敬意をもって、あなた方に、通告するものである。クリスマスと新年の休暇の後に、作業を再開するに当たっては、週60時間働き、6時から6時まで、1時間半の休息を取り、働くが、それ以上は働かない。(工場査察官報告書 1860年4月30日)

 最初の工場法が、議会を通過してこの方、半世紀の時間が経過した。

 本文注: この法の用語法が法の違反に寄与した点については、議会返書である「工場等標準法」(1859年8月6日)があり、その中には、レオナード ホーナーの「工場査察官をして、不法操業を防止することが出来るように工場法を修正するための提案、今やそれは、広く知られているものだが。」がある。

 (64) 1845年の「捺染工場法」は、工場立法としては最初の、本来のあるべき姿を逸脱したものであった。この新しい「おまけ」を受けた資本は今更という顔をしながらも、法の全行をわめきたてた。そこには、8歳から13歳までの子供たちと、女性のための労働日を16時間、朝6時から夜10時までに制限するものであり、その間には法的な食事時間のための休息も無かった。13歳を越える男性には、好きなだけ、昼夜通じて労働させることを許すものであった。

 本文注: 「8歳とそれより年齢の多い子供たちが、実際に、最近の半年間、私の地区で、朝6時から夜9時まで使用されていた。」(工場査察官報告書 1857年10月31日)

 それは、議会の流産児である。

 本文注: 「捺染工場法は、教育的な配慮に於いて、また児童保護の配慮の点でも、欠けるものと認められた。」(工場査察官報告書 1862年10月31日)

 (65) 曲折はあったものの、この労働時間という原理は、近代産業の最も先端的性格を持つそれらの大きな工業部門で勝利することによって、はっきりと確立された。工場労働者の肉体的・道徳的再生と相まって、1853年から1860年にかけて、彼等の見事な前進は、全く鈍感な者をも驚かした。法的制限と規制が、南北戦争後の半世紀、工場主らを、一歩一歩絞め上げて行ったが、今や、その工場主自身が、依然として「自由」に搾取を続ける部門と、工場法下にある部門との違いにこれ見よがしに言及するのである。

 本文注146: 例えば、1863年3月24日 タイムズ紙に宛てた、E. ポッターの手紙である。タイムズ紙は、10時間法案に反対する工場主らの暴動を彼に思い出させている。

 今や、「政治経済学」のパリサイ人らは、法的に規定された明確なる労働日の必要性の認識を、彼等の「科学」の特別なる新たな発見として高らかに宣言する。

 本文注147: いろいろある中で、トゥークの「物価史」の共同執筆者であり、編集者である W. ニューマーチ氏は、こんな具合である。大衆世論に対して意気地も見せず同意することが科学的進歩と云えるのか?

 以下のことは、誰でも容易に分かるところであろう。工場主らのお偉方が諦めて、避けようもない事態に適応しようとすれば、資本の抵抗力も次第に弱まる。と同時に一方では、労働者階級の攻撃力は、直接的な利害関係にない社会階級の同盟者をも得て成長した。かくて、この時点から、1860年以後、かなりの急速な進歩が始まった。

 (66) 1860年、染色工場と漂白工場が、1850年の工場法の適用下に入った。

 本文注148: 1860年に通過した法は、染色と漂白の各工場に関するもので、1861年8月1日から暫定的に12時間に、1862年の8月1日からは、明確に10時間、すなわち、通常日は10時間半、土曜日は7時間半にするべきものと決められていた。さて、運命の年 1862年が来た。また例の昔の茶番劇が繰り返されたのである。またまた、工場主らは、年少者たちと女性たちの12時間の雇用を1年間延長して認めて欲しいと議会に申請したのである。「現在の商売状況 (木綿不足の状況) では、労働者にとっては、日12時間働き、稼げる時に賃金を得るという非常に有利な状況にある。」法案は議会に、それらの声を受けて提出され、「そして、スコットランドの漂白作業を行う労働者らの行為を主な理由として廃案となった。」(工場査察官報告書 1862年10月31日) 労働者が申請したように見せかけて、その労働者によって覆されてしまった資本は、ほじくり屋法律家の助けも受けて、1860年の法が、「労働者の保護」のために書かれた全ての議会の法と同様の用語で書かれており、紛らわしい語句があって、彼等はその工場の中から、つや出し工場と仕上げ工場を除外する口実を与えることを発見した。いつなりとも資本の忠実なる使用人である英国法組織は、屁理屈部分を最高法廷で是認したのである。「労働者達は大いに失望させられた。…. 彼等は超過労働に不満を述べた。そして、立法府の明確な意図が不完全な定義という理由で損なわれてしまうことは実に残念なことである。」と述べた。(工場査察官報告書 1862年10月31日)

 レース製造工場とストッキング製造工場は、1861年に、1850年の法律の適用下に入った。

 (67) 子供達の雇用に関する委員会(1863年) の最初の報告書に従って、同じ運命が、全ての土器製造工場 (単に製陶業のみではなく)、他にも分け与えられた。すなわち、黄りんマッチ製造工場、雷管製造工場、弾薬筒製造工場、絨毯工場、ファスチャン織り工場 (綿等にコールテン風の仕上げをする)、 他多くの「仕上げ」という名称の下に括られる工程を含む工場にもである。1863年には、野外漂白工場が特別工場法の適用下に入った。

 本文注149: この「野外漂白工場」は、夜間に労働する女性たちはいないという嘘をついて、1860年の法から逃れていた。この嘘は工場査察官によって暴露された。同時に、議会は、労働者達からの嘆願書によって、野外で行われる漂白なる内容が、冷涼な牧草地で牧草の香りの中で実施されていると認識していたのを覆された。この大気によって漂白するという場所は、実は乾燥室のことであって、華氏90度から100度の温度なのである。中での作業は大部分が少女によって行われていた。「冷涼なる野外」とは彼女らが時々、乾燥室から新鮮な空気を求めて逃げ出すための工場用語のことなのである。「ストーブのある乾燥室には15人の少女たちがいる。リネンの場合は80度から90度、木綿の場合は100度かそれ以上となる。12人の少女たちがアイロン掛けや仕上げを10フィート四方の小さな部屋で行い、中央には密閉式ストーブがある。少女たちはストーブの回りに立って仕事をする。ストーブは恐ろしいほどに熱気を放射する。アイロン掛けのために、木綿等の布地を急速に乾かすためである。彼女たちの作業時間には制限がない。忙しい時期は、夜の9時または12時まで仕事をする。そのまま夜へと続けるためである。」(工場査察官報告書 1862年10月31日)
 ある医師は、こう述べている。「体を冷やすための特別の時間は決められていない。でも、温度が高すぎたり、作業者の手が汗で汚れたりすれば、僅かばかりの時間、外に出ることが許される。…. 熱い中で働く人々の病気を取り扱って来た、少なくはない私の経験から云えば、彼女たちの衛生上の状態は、紡績工場の労働者に較べて決して良くないとの意見をあえて述べざるを得ない。( 一方の資本は、議会への陳述書で、田園の豊穣・田園の人々の豊満を描くルーベンス風の絵のような、健康的な彼女らを描き出す。) 彼女らの最も顕著な症状は、肺結核、気管支炎、子宮機能異常、最も悪化した状態のヒステリー、そしてリウマチである。私の信じるところでは、これらの症状は、全て、直接的または間接的に、彼女らが使用される作業室の汚濁した空気、高温の空気によるもので、また、冬場、彼女らが、自分達の家に帰る時、冷たく湿った空気から体を守るための適切な衣服を持っていないことに起因するものである。(工場査察官報告書 1862年10月31日)
 工場査察官は、野外漂白業者によって掻きむしられたこの1860年の補遺法について、次のように述べている。「法は、当然に提供すべきもの、労働者に保護を与えることに失敗しただけでなく、ある条項で、…. 明らかに文字として、人達が夜8時以後働いていることを見つけられない限り、彼等は少しも保護条項に該当せずとある。仮に、働いていたとしても、それを証拠づける方式はなく、なんら摘発力が伴わない。」(工場査察官報告書 1862年10月31日)
 「以上の如く、様々な慈善または教育のための法として、その意図と目的という点で、この法は失敗している。であるからといって、女性達や子供達を日14時間、食事時間があろうと無かろうと、働かせるよう強いるに等しい内容が、慈善として認められ そう呼ばれることはあり得ない。場合によっては、多分これより長い時間、年齢の制限もなく、性別も考慮せず、そのような仕事 (漂白や染色) が行われる近隣の家庭の 社会的慣習も考慮することなしに 強いるであろうものを慈善とは云えない。」(工場査察官報告書 1863年4月30日)

 そして、製パン業も、この特別工場法の適用下に入った。これにより、野外漂白業では、年少者達と女性たちの夜間 (夕方8時から翌朝6時まで) の作業が、製パン業では、18歳未満の旅職人の、夕方9時と翌朝5時の間の労働が禁止された。我々は後に、英国製造業の全部門で、資本家らの「自由」を剥奪すると脅した この同じ議会の最近の提案に立ち戻るであろう。

 本文注150: 第2版へのノート。1866年、私が上記の一文を書いて以後、再び反動が始まった。  

[第六節 終り]






第七節

標準労働日のための闘争。
英国工場法に対する、他各国での反動

 (1) 労働の、資本への、隷属を生じるであろう生産様式の様々な変化を別にすれば、剰余価値の生産、または剰余労働の摘出は、資本主義的生産の特別なる終端であり目的である、絶総計であり本質である。読者はこのことを忘れることはないであろう。読者には、我々が今まで読んで来たところでは、ただ独立した労働者にのみ触れており、であるから、その労働者のみが、彼自身をして、商品の販売者として資本家との折衝に入る資格を有する。ということを思い出して貰いたい。従って、もし、我々がスケッチしてきた歴史において、一方で近代製造業が、他方で肉体的にも法的にも未熟な労働者が重要な役割を演じているとしたら、前者は我々にとっては単なる特別の部門であり、後者は、単に労働搾取の特別かつ衝撃的な事例ということである。とはいえ、我々の考察の進展の成り行きの予想は別として、我々の前にある歴史的な事実の単なる関連として、次の事に触れておく。

 (2) 第一 資本家の、無制限かつやりたい放題の労働日の拡大を希求する激情は、水力、蒸気力 そして機械類によって最も早くから大変革が起こった製造業部門で、最初に満足を得た。すなわち、近代生産様式の最初の型というべき綿、羊毛、亜麻、そして絹の紡績業と織物業である。生産の物質的様式の変化、そしてそれに呼応する生産者達*

 本文注151: *これらの各階級 ( 資本家達と労働者達 ) の行動は、それぞれが置かれた関係における相対的関係の結果から引き起こされる。」(工場査察官報告書 1848年10月31日)

 の社会的諸関連の変化が、あらゆる諸関連を超えて、まず最初の特別なる拡張として出現した。そして、これに拮抗するもの、社会的要請としての規制が呼び出される。すなわち、法的な制限、規則、そして労働日とそこに含まれる休息の斉一化である。とはいえ、この規制は、19世紀前半では単に、例外的な規則*として現われる。

 本文注152: *規則の下に置かれる雇用者は、蒸気力または水力の助けによって行われる織物製造業に関係する者である。雇用者がその対象者であると見なされるべき者であるかどうかは、二つの条件が存在する。すなわち、流れまたは水力を利用し、かつある特殊な繊維の製造業に属すると。(工場査察官報告書 1864年10月31日)

 この新たなる生産様式の初期的な領域が法の支配下に置かれる頃には、様相は一変、同じ工場システムを採用する他の多くの生産各部門ばかりでなく、なんとも古臭い方式で製造業、例えば製陶業、ガラス製造や、昔のまんまの手工業、例えば製パン業、さらに、いわゆる家族的業種と呼ばれる、釘製造業ですら、*

 本文注153: *いわゆる家族的製造業の状況については、極めて価値のある材料が、最近の、児童の雇用に関する委員会 の報告書に見出される。

 完全に、資本家的搾取下と同様な状況に、彼等の工場そのものが落ち込んで久しいのであった。従って、規則は、次第に例外的性格を捨てることを余儀なくされるか、または英国では、かってのローマの詭弁家達のやり方に習って、仕事がなされる建物としての家を工場*と宣言することを余儀なくされた。

 本文注154: *「前委員会の法(1864) ...習慣の大きく異なる様々な職業を包含し、かつ機械類の作動を生み出す機械的な力の利用は、以前は法的な字句「工場」を構成するものであったが、もはや必要なる要素ではない。」(工場査察官報告書 1864年10月31日)

 (3) 第二 ある生産部門の労働日の規制の歴史は、そしてこの規制に係る他の部門で依然として続く闘争は、孤立させられた労働者、彼の労働力の「自由」なる売り手、かってある時点で資本主義的生産が獲得した者が、何の抵抗の力もなく、屈伏したことを結果的に証明する。従って、標準的労働日の創設は、資本家階級と労働者階級間の、どの程度隠されたものかは別として、長い市民戦争の産物である。この競技は近代工業という競技場で始まるのであるから、その最初の開始地は、工業の故郷- 英国*である。

 本文注155: * ベルギー 大陸の自由主義者の楽園は、この運動の痕跡を何ら残していない。炭鉱や金属鉱山の男女及びあらゆる年令の労働者達でさえ、いかなる期間、いかなる時間の長さであれ、完全なる「自由特権」を以て消費されていた。毎1,000人の雇用者のうち、男子733人、女性88人、少年135人、16歳未満の少女44。溶鉱炉他では、毎1,000人の雇用者のうち、男子668人、女性149人、少年98人、16歳未満の少女85人である。これに加えて、熟練・非熟練労働力の莫大なる搾取の結果として、低賃金である。成年男子は平均日支払額 2シリング8ペンス、女性は1シリング8ペンス、少年は1シリング2 1/2ペンス。その結果として、ベルギーの自由主義者らは、1863年、1850年に較べて、約2倍の量と価値の石炭、鉄等々の輸出を得た。

 英国の工業労働者達は、英国のと云うだけでなく、近代労働者階級一般のチャンピオンであった。彼等の理論家達は、資本の理論に対して最初の鞭*を振り降ろした。

 本文注156: * ロバート オーエンは、1810年になって直ぐ、理論として、(1)労働日の制限の必要性を主張しただけではなく、(2)実際に、彼のニュー ラナークの工場に日10時間を導入したのである。(3)そしてまた当時、共産主義者のユートピアのようなものと笑われたが、彼の云うところは「生産的労働と児童教育との調和と、労働者達の協働的社会」だが、彼によって最初に叫ばれて知られる所となった。( ここに括弧付きの数字 (1)-(3)を訳者の都合で挿入した。以下の文面との対応を明確にするためである。) 今日、(1)最初のユートピアは、工場法である。(2)二番目となるのは、全工場法の公式的な字句として、(3)三番目は反動的な企ての隠れ蓑としてすでに使われている。以来、工場の哲学者 ユアは、資本に対して、「工場法と言う名の奴隷制度を」なる文字 ( 訳者注: 実際は「工場法を守れ」というスローガンをユアが書くとこうなるのであろう) を旗に書き込んで、男らしく「完全なる労働の自由」のために突き進んだ英国の労働者階級を、神に向かってはとても云えないような言葉で罵る*のである。(本文注157: *ユア 「フランス語訳 製造業者達の哲学」パリ 1836年 第2巻)

 (4) フランスは、英国の後をゆっくりとびっこを引きながら歩く。12時間法を世にもたらすためには二月革命が必要であった。だが、この12時間法*は、英国の原形に較べれば、より不完全なものである。

 本文注158: * パリにある国際統計会議の報告書 1855年 には、次の様に書かれている。「工場と作業場での日労働の長さを12時間に制限するフランスの法は、この労働の時間を明確な不動の時間としては限定していない。ただ児童労働については、朝5時から夕9時の間と明記されている。であるから、工場主のある者らは、日曜日を除いては、できる限り、日が始まろうと、終わろうと、休みもなしに、自分らの作業を自分らの好きなように継続できるという、この致命的な沈黙で示されている権利を利用する。この目的のために、彼等は、二組の異なる労働者の班を利用する。班はいずれもその作業場には1回では12時間を超えないが、作業は昼も夜も続く。法は納得されたが、人間性は納得されたか?」さらに、「人体にとっての、夜間労働の破壊的な影響」に触れ、さらにまた、「夜、男女が、同じように暗い照明の中でごったに置かれることの致命的な影響」にも触れている。

 とはいえ、フランスの革命的な方式は、特別なる前進も獲得している。労働日に係る同じ制限を、作業場であろうと工場であろうと区別することなく全てに対して命じている。一方の英国法では、状況の圧力に不承不承屈している。今回はこの点で、その次はあの点でと。そして、展望もなく、途方にくれる矛盾の絡まりあう条項*だらけに堕する。

 本文注159: * 「例えば、私の地区の一人の居住者は、同じ宅地内で、漂白と染色工場法下にある漂白業者であり、同時に染色業者でもある。また捺染工場法下の捺染業者であり、工場法下の仕上げ業者である。」(工場査察官報告書 1861年10月31日におけるベイカー氏の報告) これらのいろいろと異なる対応を列挙したのち、これらに起因する複雑な状況について、ベイカー氏は、「であるから、居住者が、法を逃れる道を選ぶことになれば、これらの3つの議会法の執行を確保するにはかなりの困難性が避けられないということになるであろう。」結果として、法律家がこれに対して自信を持って云えることは、法衣を持ち出すことのみである。

 英国では、単に、児童たち、年少者たち、女性たちで勝利を得たのみであり、僅かに最近になって、最初の一般的権利として勝利したに過ぎない。一方フランス法は、原理*そのものを宣言する。

 本文注160: * 工場査察官も、最後には敢えて、このように云っている。「これらの異議申し立て ( 資本家の、労働日の法的な制限に係る異議申し立て) は、労働の権利という大きな原理の前には屈伏せざるを得ない…. そこに、資本家の労働者に対する権利を停止する時が来る。そして労働者の時間が彼自身のものとなる。仮に、そこになんの疲労も無いとしても、勿論のことである。(工場査察官報告書 1862年10月31日)

 (5) 北アメリカ合衆国では、共和国の一部が奴隷制度で汚れているかぎりでは、あらゆる独立した労働者の運動は、麻痺させられていた。黒き烙印が白い皮膚にあるかぎり、労働は、自分を解放することは出来ない。しかし、奴隷制度の死以後、新たな生命が直ちに開花した。市民戦争の最初の果実は、8時間運動である。この運動は、大西洋から太平洋まで、ニューイングラインドからカリフォルニアまで、一足3マイル×7倍という民謡に登場するあの深靴を実現した機関車で一気に走った。ボルチモアで開かれた労働者一般会議 ( 1866年8月16日) は、次のように宣言した。

 (6) 「現在やらなければならないことの第一で名誉ある事は、この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放することである、そのためには、アメリカ連邦全州において、標準労働日を8時間とする法を議会で制定することである。我々は、我々の全力を以て、光栄ある結果が達成されるまで、これを前進させることを決意する。」*

 本文注161: * 「我々、ダンカークの労働者は、現在のシステムが課している労働時間の長さが、長すぎ、休息と教育のための時間が、労働者にはほとんど残されておらず、労働者を苦役に陥しめており、奴隷制度となんら変わらない状態にあると断言する。これが、何故我々が8時間の労働日で充分と決めたのかの理由である。また、充分であると法的にも承認されねばならない。何故我々が我々の助けとして力強き梃子、新聞記者を呼んだのかの理由である。…. そして、我々へのこのような助力を拒む者らを、労働改革と労働者の諸権利の獲得に対する敵と考えるかの理由である。」( ダンカークの労働者達の決議文 ニューヨーク州 1866年)

 (7) 同じ頃、ジュネーブの国際労働者協会の会議は、ロンドンの一般評議会の提案を受けて、次のように決議した。「労働日の制限は、それなくば、以後の改善や解放の推進が流産させられかねない前提条件である…. 会議は、8時間を労働日の法的制限として建議する。」

 (8) この様に、大西洋の両側で労働者階級の運動が、生産の状況自体の中から、本能的に成長した。英国工場査察官 R.J. サンダースの次の言葉が、それを認めている。

 (9) 「社会の改革へと向かう更なるステップは、労働時間が制限されること、その規定が厳格に執行されることが、なんらあり得ないということでは、永久に遂行され得ない。」*( 本文注: 162 :*工場査察官報告書 1848年10月)

 (10) 我が労働者達が、生産過程に入った時とは違った者としてそこから出て来た と云うことを、ここで、認識せねばならない。市場では、「労働力」商品の持ち主として、他の商品の持ち主達と互いに対面して立っていた。売買する者 対 売買する者として。契約によって、彼の労働力をその資本家に売るということが、言うなれば、白黒明解、彼自身を自由に処分することであると、明らかになった。取引が完結してみれば、彼はなんら「自由な取引業者」ではないことを見出す。彼が自由に彼の労働力を売る時は、なんと彼がそれを売らねばならないと、強要されていた時なのである。*」

 本文注163: *「そもそもの、その取引の数々 (1848年から1850年にかけての、資本の策動というべきもの) が、労働者達は保護を必要とはしていない、それどころか彼等が所有する彼等自身の唯一の財産- 彼等の手の労働そして彼等の額の汗 の処分については、自由な商売人と考えるべきと、何回となく繰り返し前提として叫ばれてきた主張の欺瞞性に、論争の余地がない証拠を、なによりもはっきりと提供したのである。」( 工場査察官報告書 1850年4月30日) 「自由な労働 ( もしその通りなら、そうも云えるかもしれないが) は、自由な国においてすら、それを保護するための法の強い腕を要求する。」( 工場査察官報告書 1864年10月31日) 「食事時間があろうとなかろうと、日14時間働かせることは、…. それを許容することは、強制労働となんら変わらない。等々」( 工場査察官報告書 1863年4月30日)

 「事実、その時、搾取の余地が、その筋肉、神経、一滴の血に至るも、そこにある限り、吸血鬼は、彼をして離しはしないであろう。」*(本文注164: *フリードリッヒ エンゲルス の著書 「イギリスの10時間法案」)

 労働者達に「激しい苦痛をもたらす悪魔のごとき蛇」に対抗する 「保護」のために、労働者達は、彼等の頭を一つにせねばならない。そして、階級としても。法の議会通過を推進するためにも。我が労働者の売り処分を防ぐであろう社会的な固い防塁が法なのだから。各自が個々に資本と交渉することでは、自分達も自分達の家族も奴隷制度とその死に至らしめる売り処分で終わる。*

 本文注165: *10時間法は、その法律の適用下に入った製造業の各部門において、「過去の長時間労働をする労働者達の早すぎる老衰を終結した。」( 工場査察官報告書 1859年10月31日) 資本は、(工場においては) 雇用者の健康やモラルに障害を与えることが無い様にするため、また彼等を、彼等自身を保護できない状態に置くことが無いようにするため、制限時間を超えて、機械類を運転し続けることが金輪際出来ない。」( 同上)

 大げさな「手離すことができない人間の権利」の大きな目録に代わって、飾りも何にもない労働日の法的制限というマグナカルタがそこにやって来た。実に、それが、いつ労働者の売りが終了するかを明確にし、いつ彼の時間が始まるかを明確にする。」なんと偉大なる変化がここに始まったことか ! * ( ラテン語 ローマの詩人 ウェルギリウス )

 本文注166: *「さらなる特典の一つは、労働者自身の時間と、彼の雇用主の時間とを、明瞭に区別したことである。労働者は、今では、彼の売り時間がいつ終わったか、そして彼自身の時間がいつ始まるかを知っている。このことの確かな予知を有することで、彼自身の目的のために彼自身の時間を予め準備することができる。」(フリードリッヒ エンゲルス の著書 p52)「このことをして、彼等自身の時間の主人とすることで、( 諸工場法は) 彼等に意欲のエネルギーを与え、その意欲こそが、彼等を結果として、政治的な力を持つ事へと導いたのである。(同上 p47) 強烈なる皮肉と際立つ適切なる言葉で、工場査察官達は、こう云う。現実の法が、また、資本家からある種の野獣性を取り除き、単なる資本家への道に向かわせたと。そして、彼に少しばかり「文化」のための時間を与えたと。「以前は、工場主は金の事以外の時間を持たず、その使用人は労働以外の時間を持たなかった。」(同上 p48)




 長い10章が終わった。訳者余談である。この長い深刻な資本家と労働者の階級闘争の歴史の経過を、現状認識の土台に据えて、改めてこの偉大なる変化の担い手としての我々を自覚する必要があろう。かの誇り高き英国の工場査察官の伝統を受け継ぐ、今日の工場査察官にも、我々の取り組みを語らせよう。翻訳に取り組んで半年、今広島・長崎の原爆忌を迎えた。悲しいかな。薬害エイズで名を上げ、今日の地位を得た民主党の菅新首相が、麻生そっくりの発言をして、核廃絶の流れの中、核害脳症に取りつかれたことを示した。今仮に、65年以前に時間を戻すことができたとしたら、人々には何ができるだろうか。原爆忌なしの時代を得ただろうか。いかなるSF的発想を用いたとしても、難しい。当然ながら資本主義的生産様式が生じる以前の時間に戻したとしても、一体なにができるだろう。仮にマルクスの頭脳が多くあったとしても、資本主義社会を飛び越えることはできないだろう。原爆戦争の何倍もの時間の経過がそこにある。改めて捉えれば、それが人間の、宇宙の自然である。避けられない自然という他ない。そして、現在もまた将来もその宇宙と人間の自然の中に居続ける。人間がいかに考えて社会を改革していくかもその人間の自然そのものの中にある。10章のごとき自然の継続が、これからのそこに、保証されたように存在する。私の翻訳も、この翻訳を読む皆さんも、その自然の中を生きているのだ。

 後期高齢者に該当しないかも知れないと最初の所に書いたが、半年の経過は、なんと、新高齢者にすでに該当しており、行方不明高齢者という範疇にも入るやも知れない。腹が痛くなるくらい気持ち悪い。トイレに行ってくる。

 トイレから戻っても納まらない。もう余談はやめた。11章を楽しむこととしよう。読者諸君よ、10章を肝に命ぜよ。そして腹を据えて、明日の自然の流れを作り生きよ。


[第七節 終り]







[第十章 終り]