カール・マルクス


「資本論」 (第1巻)

 

訳者  宮 崎 恭 一

(1887年にイギリスで発行された版に基づく)

 

 

カール・マルクス

資 本 論


第一巻 資本の生産過程

第三篇 絶対的剰余価値の生産

第十一章 剰余価値の 率と量





  (1) この章でも、これまでと同様に、労働力の価値と、その結果として労働力を再生または維持するために必要な労働日のある部分については、ある一定の大きさがすでに与えられているものとする。

  (2) このことにより、個々の労働者が一定期間において資本家に供する剰余価値の率・量が、同時に与えられたものとなる。すなわち、仮に、必要労働が日6時間であり、ある一定量の黄金= 3 シリングで表されるならば、かくして、その3 シリングが、一労働力の日価値 あるいは、一労働力を購入するために前貸しした資本の価値となる。さらに、もし、剰余価値率が = 100% であるならば、この可変資本の3シリングが、3シリングの剰余価値の量を生産する。または、その労働者が、6時間に等しい剰余労働の量を資本家に一日あたりで供給する。

  (3) ところで、資本家の可変資本というのは、彼が同時に雇った全労働力の総価値の貨幣表現のことである。従って、その価値は、一労働力の平均価値に、雇った労働力の数を掛けたものに等しい。であるから、与えられた労働力の価値に基づき、可変資本の大きさは、同時に雇った労働者の数によって、直接的に変わる。もし、一労働力の日価値が = 3 シリングであるならば、日100労働力を搾取するためには、300シリングの資本が前貸しされねばならない。日n労働力を搾取するためには、3シリングのn倍の資本が前貸しされねばならない。(訳者挿入 云うまでもないことではあるが、前段で示されるように、剰余価値率=100% として計算される。) 

  (4) 同様に、もし、3シリングの可変資本、一労働力の日価値が、日3シリングの剰余価値を生産するとしたら、300シリングの可変資本は、日300シリングの剰余価値を生産する。そして、3シリングのn倍のそれは、日3シリング×n なる剰余価値を生産する。従って、生産される日剰余価値の量は、一労働者が供給する一労働日の剰余価値に、雇われた労働者の数を乗じた量と等しいものになる。しかも、さらに付け加えるならば、一労働者が生産する剰余価値の量は、労働力の価値が与えられたものならば、剰余価値率によって決まる。この法則は、次のように云える。剰余価値量は、前貸しされた可変資本の量に、剰余価値率を乗じた量となる。別の言葉で云えば、同一の資本家によって同時に搾取される労働力の数と、個々の労働力の搾取される率と、一労働力の価値、の各項目の複乗算によって求められる量となる。

  (5) 剰余価値の量を S 、個々の労働者によって日平均として供給される剰余価値を s 、一個人の労働力の購入に前貸しされた日可変資本を v 、可変資本の総計を V 、平均労働力の価値を P 、その搾取率を、(a'/a) (剰余労働 / 必要労働) 、そして雇われた労働者数を n としよう。我々は次の式を得る。

 

S = (s/v) × V

S = P × (a'/a) × n

  (6) 以下のことは、常に想定されている。労働力の平均価値だけではなく、資本家によって雇われる労働者も、平均的な労働者なのである。時に、搾取される労働者数に比例して生産される剰余価値が増加しないという例外的ケースもあるが、この場合では、労働力の価値が一定値に留まってはいない。( 云わずもがなではあるが、訳者注: 労働力の価値が上昇する。)

  (7) であるゆえ、剰余価値の一定量の生産においては、一要因の減少は他の増加で補完されるであろう。もし、可変資本が減少しても、同時に、剰余価値率が同じ比率で上昇すれば、剰余価値量は、変化なく留まる。もし、我々の前段の仮定で見るとして、資本家が、日100人の労働者を搾取するために、300シリングを前貸しせねばならぬとしたら、剰余価値率が50%として、この可変資本300シリングは、剰余価値150シリング、または、100人×3 労働時間 の剰余価値を産む。もし仮に、剰余価値率が2倍、(訳者注: 100%) または、労働日の超過が6時間から9時間に代わって6時間から12時間となり、 同時に可変資本が半分に減らされた つまり150シリングになったとすれば、剰余価値は、同様にして150シリング、または50人×6労働時間の剰余価値を産む。可変資本の減少は、このように、労働力の搾取率の比例的上昇によって補完される。または、労働日の拡大に相当する雇用労働者数の減少によって補完される。ある一定の限界はあるものの、かくして、資本によって搾取される労働の供給は、労働者の供給からは独立している。*1

   本文注: 1 *この初歩的な法則は、アルキメデスが逆さまになったような俗流経済学者には未知のようなもので、供給と需要で労働の市場価値を決める場合の梃子の支点を見出したと思っているらしい。その梃子の支点が、世界を動かすようなことはなく、その動きを止めるものと思っているらしい。(訳者注: この梃子の支点、剰余価値(率と量)こそ、資本主義社会を拡大し、資本主義世界を変革して行くものなのであるが、その認識を欠いている。2010/08/09のニューヨークタイムズのコラムに、ニューケインズ理論とやらを用いてとある経済モデルを提案し、2008年ノーベル経済学賞を授かった、クルーグマン教授が、こう書いている。「最近、アメリカが暗くなった。文字通りで、道路の街灯が消えたからである。富裕層への減税政策が、この公共的費用を減らしたからである。なんかおかしくはないか。」富裕層への減税政策と公共的費用の削減政策の支点とは何かが分からないから、「おかしい」までしか言及できない。)

   この事とは逆に、剰余価値率の低下は、生産される剰余価値の量に何の変化も残さない。もし、同じような比率で、可変資本の量、または雇用される労働者数が増大すれば、剰余価値量には何の変化も残さない。    




   剰余価値、剰余労働を見出せなかったために、アダムスミスは、労働を見ながら、社会の状況によって、「地代や利子が地主や資本家によって、労働の成果から差し引かれる。」と、国富論で書いてしまったのであった。さて、その出発点である一労働力の価値、一必要労働の労働時間と、そこに前貸しされる可変資本の価値について、触れて置きたい。なんやら大げさな書き方で申し訳ないが、訳で混乱して、我ながら思い至ったことなので、書き留めて置く事とした。訳者余談である。  可変資本量、または可変資本の価値の単位はシリングそのものである。一方、一労働力の単位はシリング/日であり、一労働力の日価値である。なぜ、可変資本は、一労働力一日価値に前貸しされても、シリング/日にならないのか。いや、訳を見れば明らかに、シリング/日もあるのだが、マルクスは、それもあるが、シリングと通常は書く。一方の労働力の日単位はゆるがない。単位の混乱ではと、何回となく読み直した。そして気がついたのである。労働力や必要労働の価値は、人間の生命そのものであって、日々の生活が掛かっており、半日も、一週間も半年も一年も全て1日の命の継続として存在している。時間など多少短くても長くても大した問題とはならない資本の価値とは、較べ物になるはずもないのである。価値の実体に差異があるのである。ただ一様な商品としての需給では、知る事が出来ないものがそこにあるではないか。単位問題は、生命の問題なのである。自分の頭の悪さの言い訳であるが、翻訳で悩んだもので、つい。



  (8) 雇用される労働者数の減少に対する補填、または前貸しされた可変資本の量に対する補填は、剰余価値率の上昇によって補填されるものではあるが、それは労働日の超過時間によるものであって、従って、それは、超えることが出来ない限界を持っている。労働力の価値がどの様なものであれ、労働者の生命維持のための必要労働時間が2時間であれ10時間であれ、労働者が生産し得る全価値は、日の始まりから日の終りまで、常に、24時間の労働によって体現される価値よりは少ない。もし12シリングが24時間の労働が実現するものの貨幣的表現であるとしたら、12シリングよりは少ない。我々の前の前提によれば、日6時間の労働時間が労働力自体の再生産に必要である、または、その労働力の購入に前貸しされた資本の価値を置き換えるものである。1,500シリングの可変資本が、500人の労働者を雇用し、剰余価値率100% 12時間労働日であれば、日剰余価値1,500シリング または6×500労働時間を生産する。300シリングの資本が日100人の労働者を雇用し、剰余価値率200% または18時間労働日であれば、単に、600シリングの剰余価値量を生産する、または、12×100労働時間のそれである。そうして、だが、全生産物の価値、前貸しされた可変資本の価値+剰余価値であるが、それは、日の始めから日の終りまでの、計1,200シリング または、24×100労働時間に届くことはあり得ない。( 剰余価値率がどうなるかを、計算すればよい。訳者のお節介ではあるが。) 平均労働日の絶対的限界- これは自然そのものにより、24時間より常に少ない- は、可変資本の減額に対してより高い剰余価値率で補填する場合に、絶対的な限界を設ける。または、搾取される労働者の減員に対してより高い搾取率で補填する場合に、絶対的な限界を設ける。(訳者注: 一番目の法則) この誰でも分かる法則は、資本の、出来得る限り雇用する労働者数をこのように少なくする性向(今後とも作用し続ける) から生じる多くの現象を解く上で非常に重要である。また、別の性向として、出来得る限りの大きな剰余価値量を求めることから、前者とは逆に、可変資本部分を労働力に変換することもある。これまでのこととは全く違って、(訳者注: 以下が二番目の法則) 雇用された労働者数、または可変資本量が増大したとしても、剰余価値率の同比の下落はないし、生産される剰余価値量の下落もありはしない。


   次々と訳者余談が続き申し訳ないのだが、敢えて触れておきたいことがあるのである。向坂訳のこの部分が意味をなしていないからである。向坂訳はこうなっている。
  「逆に、使用される労働力の量、または可変資本の大いさが増大しても、剰余価値の率の低下に比例していないならば、生産される剰余価値の量は減少する。」
  これでは、可変資本の大いさが増大すれば、「ある条件」では、剰余価値の量は減少する。 と読めてしまうだろう。これでは、資本論が泣くぞ。資本論をやっつけてぐうの音も出ないように論破したという1974年ノーベル経済学賞のハイエク教授の著書「隷従への道」の必要もないんじゃないか。「ある条件」にも言及すれば、剰余価値の率の低下に比例していないならば とあり、低下に比例する場合などあるはずもないのであるから、無条件にとなるだろう。資本の性向を訳しきれないのは本当に情けない。いや、大いに参考にさせてもらっているからこそである。取り上げついでだが、ハイエク教授の本は、なにも資本論を論破してはいない。そう思いたい人がいるということであって、ヒトラーの全体主義は資本主義体制の矛盾から突出したものだが、これを社会主義から派生したと云い、社会主義といえば、マルクスが思い当たるという程度のもので、取り上げるまでもない。が、気になっていたので書き留めることにした。


  (9) 三番目となる法則 (訳者注: 一番目、二番目の法則に続くものとして) が、二つの要素、剰余価値率と前貸しされた資本の量で、生産される剰余価値の大きさが確定されることから導かれる。剰余価値率、または労働力の搾取度 と、労働力の価値、または必要労働時間 が、与えられるならば、可変資本が大きくなればなるほど、生産された価値の量も剰余価値の量も大きくなる、のは自明であろう。もし、労働日の制限が与えられるならば、また、必要労働部分の制限が与えられるならば、一資本家が生産する剰余価値量は、彼が設定した労働者の数に明確に、排他的に依存する。つまり、前に述べた条件の下では、労働力の量に依存し、または、彼が搾取する労働者の数に依存する。そして、その数そのものは、前貸しされた可変資本の量によって決まるのである。従って、与えられた剰余価値率と、与えられた労働力の価値によって、生産される剰余価値の大きさは、直接的に、前貸しされた可変資本の大きさによって変化する。さて、ここで、資本家は彼の資本を、二つの部分に分割することを思い出して欲しい。その一部分を彼は、生産手段に配置する。これは資本の不変部分である。もう一つの部分を彼は、生きた労働力に配置する。この部分は、彼の可変資本を形成する。社会的な生産様式が同じ基盤の上にあっても、資本の不変部分と可変部分との分割線は、生産部門が違えば、異なった引かれ方をする。同じ生産部門であっても、同様に異なり、技術的な条件や生産過程の社会的な構成の変化に応じてこの関係は変化する。しかし、与えられた資本が、いかなる比率で不変と可変に分割されたとしても、そして後者、可変部分の不変部分に対する比率が、なんであれ、1:2 または 1:10 または 1:x,であれ、ここに置かれた法則は何の影響も受けない。なぜなら、我々の以前の分析によれば、不変資本の価値は、生産物の価値に再現されるが、新たに生産された価値、新たに創造された価値である生産物には入り込まないからである。1000任の紡績工を雇用するためには、100人を雇用する以上の原材料、紡錘等々が勿論のこと必要となる。とはいえ、これらの追加的な労働手段の価値が上昇しようと、低下しようと、変化なく保持されようと、それが大きかろうと小さかろうと、そこに投入された労働力による剰余価値の生産過程には、何の影響も生じない。従って、前述の法則は、かくて、次のような形式をとる。異なる資本により生産される価値の大きさと剰余価値の大きさは、-- 与えられた労働力の価値とその搾取率が同じならば、-- 直接的に、これらの資本の可変部分を構成する大きさにより変化する。すなわち、生きた労働力に変換されたそれらの構成部分に応じて変化する。

  (10) この法則は、外観を見る限りでのあらゆる経験とは、明らかに矛盾している。誰もが知っている様に、綿紡績工場主は、自分が注ぎ込んでいる資本の全部について、多くの部分を不変部分に、わずかな部分を可変部分に用いていることを知っており、だからといって、可変部分に多くを、不変部分には殆ど注ぎ込んでいない製パン工場主に較べて、少ない利益、または少ない剰余価値を懐にしていると云う分けではない。この外観的矛盾の解答のためには、多くの中間項が依然として必要なのである。丁度、初等代数の地点から見れば、0 / 0 が実際の大きさを表していることを理解するためには、多くの中間項が必要なのと同じ様なものである。この法則を未だに把握していない古典経済学ではあるが、この点に本能的に固執する。なぜかと云えば、これが価値の一般法則としての必然的帰結だからである。古典経済学は、強引なる抽象化によって、この矛盾する現象の混乱から法則を解消しようとする。リカード派が、この躓きの石を乗り越えるためにどのように嘆いたか*2 は、後に、明らかにする。(本文注: 2 *より詳細については、第4冊 剰余価値学説史で示されるであろう。) 全くのところ、「実際には何も学ばない」俗流経済学は、この点で、法則が明瞭に成り立ち、その内容を説明しているにも係わらず、いつもの様に、至るところで、その反対側にある外観に固執する。スピノザとは逆に、彼等は「無知であることが、その充分な理由である。」と信じている。

  (11) 朝になると同時に、そして夜が終わるまでの間、社会の全資本によって注ぎ込まれる労働を、一労働日の集合体とみなしてみよう。もし、そこに労働者が100万人いて、一労働者の平均労働日が10時間であるとすれば、この社会的労働日は、1,000万時間を構成する。この労働日の長さが与えられているならば、それが物理的に決められていようと、社会的に決められていようと、剰余価値の大きさは、労働者の数 すなわち 労働人口の増加によってのみ増加され得る。ここでは、人口の増大が、全社会的資本による剰余価値の生産の数学的限界を形成する。これとは逆に、人口の大きさが与えられるものであるとしたら、この限界は、労働日の可能的長さ*3 によって形成される。(本文注:3 * 「社会の、経済的時間としての労働が与えられたものであるとしよう。例えば、100万人の日10時間 または 1,000万時間…. 資本は増加に境界線を持っている。この境界は、ある与えられた期間、雇用された経済時間の現実の延長によって獲得さる。」(「諸国の政治経済に関する一論」ロンドン 1821年 ) ) しかしながら、このことは、つまりこの法則は、ここまで取り上げて来た剰余価値の形成のためにのみ適用されているということを次章で知ることになろう。)

  (12) これまでの、剰余価値の生産で取り上げたことからは、あらゆる貨幣総額、またはあらゆる価値が、気ままに資本に変換できるものではないということが云える。この変換がなされるためには、実のところ、ある最小限の貨幣、または、交換価値が、貨幣とか商品の個人的所有者の手の中に、予め必要条件として前提されていなければならない。最小限の可変資本とは、一単位労働力の費用価格と云うことである。1年間を通して、朝から夕まで、剰余価値の生産のために用いられる一単位労働力の価値と云うことである。もし、この労働者が彼自身の生活手段を所有している状態にあるならば、そして労働者として生きていくことに満足しているならば、彼は、彼の生活手段の再生産に必要な時間を超えて働く必要はない。例えばそれは日8時間で足りよう。彼は、他には、ただ、8労働時間に必要な生産手段を求めることだけであろう。他方、資本家は自身をしてどうするか。これらの8時間の他に、云うなれば4時間の剰余労働を、追加的な生産手段を装備するための追加的な貨幣を要求する。とはいえ、我々の仮説によれば、彼は、日々妥当な剰余価値を得た上で、一労働者と同じように、それ以上ではなく、生活して行くためには、二人の労働者を雇わねばならないであろう。すなわち、彼の必要な欲求を満足させることができるためには。この場合、彼の生産の行き着く先は、単に生活の維持であって、富の増加ではない。だが、この後者こそ資本家的生産を意味している。通常の労働者の二倍の生活を送り、それに加えて、その剰余価値の半分を資本に転換するためには、彼は、労働者の数とともに、前貸し資本の最小限度額を8倍に増額しななければならないであろう。勿論、彼は労働者の様に、自身をして働かせることはできる。直接的に生産過程に加わればよい。だがしかし、そうしたからと言って、どうなるか。ただの資本家と労働者のハイブリッド、小工場主である。資本家的生産のある段階では、資本家は全ての時間を資本家として機能するように身を捧げることができる。すなわち人格化した資本として、従って、他の労働者の管理をし、この労働の生産物の販売を管理する者として、特化するに至る。*4

   注:4 *「借地農場経営者は、彼自身の農業労働に勤しむことはできない。もし、そう彼がしたら、彼はそれによって、損をすることになる。と私なら云うであろう。彼のやるべきことは、農場すべての全般的監視でなければならない。彼の脱穀作業者は監視されねばならぬ。そうでないと、脱穀されぬままの小麦のために、直ぐに彼の賃金を失うことになろう。彼の干し草の刈り取り作業者も、その他の者も監視されねばならない。彼は、常に、農場の柵を巡らねばならない。なにものも放置されないことを見て行かねばならない。彼がもし、ある一ヶ所に留められていたなら、このようには行かない。」(J.アーバスナット 「食糧の現在価格と農場規模との関係についての一研究」ロンドン 1773年) この本は非常に興味深い。この本から、「資本家的借地農場経営者」または「商人的借地農場経営者」と系統だって呼称される者の起源を学ぶことができる。そして、生存だけしかなし得ない小農場者を踏みつけにしての自己称賛の記録を見出す。「資本家階級は最初は部分的に、そして、自分の手作業から解放されて、最終的には完璧にそのようになる。」(「諸国の政治経済についての講義教科書 聖リチャード ジョーンズ」ハートホード 1852年 第三講義 ) 

   それ故、中世のギルドは、親方が資本家に変態しないように力をもって阻止することを試みた。一親方が雇用し得る労働者の数の最大限を小さく制限したのである。ただ一つ、この中世の最大限数を大きく超えて生産のために前貸しされることで、実際に、貨幣または商品の所有者が、資本家に転化するのである。ここに、自然科学のごとく、ヘーゲル ( 彼の「論理」) によって発見された法則の正しさが現われている。すなわち、単なる量的な違いが、ある一点を超えれば、質的な変化へと転じる。*5

   注:5 *近代化学の分子理論が最初に科学的に系統建てられたのは、ローランとジェラールによってであり、他の法則に依拠してはいない。(第三版への追加) この理論の説明ために、化学者でない者にとっては、なかなか難しいが、我々は、1843年に、C.ジェラールによって最初にそのように命名された炭素複合物の同族系列について、命名者本人が、この時、述べていることを書き留めておこう。この系列は、この物 独特の一般的な代数的公式を持っている。すなわち、パラフィン系列ではCnH2n+2 、標準アルコールは、CnH2n+2 O 、標準脂肪酸は、CnH2nO2 、他いろいろと。ここに述べた例は、CH2という単純な形のものを量的に 分子公式に追加して行くもので、その度ごとに、質的に違った物質が形成されるのである。この重要な事実の決定に関するローランとジェラールの功績(マルクスによって過大評価されている) については、コップの「化学の発達」(ドイツ語) ミュンヘン 1873年 と、スコークマーの「有機化学の起源と発展」ロンドン1879年を見よ。--エンゲルス (マルクスからエンゲルスへの手紙1867年6月22日、MIA英文にはそれへのリンクも施されている。) (また、ヘーゲルの論理についても、同様、リンクがある。) ( 量の、質変換への可及性は、これらの化学的事項に加えて、今日的には、DNAや、脳の生化学的な解明や、コンピュータや、証券とか国債とか、中国産の鰻の蒲焼に検出された、極微量の化学物質にすら及ぶ。イトーヨーカドーの名をマラカイトグリーンから隠さしめる迄に至る。このようなどうでもいい訳者小余談的追加にも及ぶ。)

  (13) 貨幣または商品の所有者個々が、彼自身を資本家に変態させるために指揮をとるその価値総額の最小値は、資本主義的生産の発展段階によって変化する。それぞれの与えられた段階や生産局面の違いによって、彼等の特別なる条件や技術的な条件によって変化する。生産のある局面では、その最初の資本主義的生産局面であってすら、一単独の手の中では見出せないほどの最小限の資本を要求する。このことが、ある部分では、私人達への国家的補助金をして、そのきっかけを与える。コルベールの時のフランスや、多くのドイツ諸州が我々の時代を作り上げた様に。またある部分では、工業 商業のある部門での搾取のために、法的独占*6 を社会的に形成する。我々の近代の株式会社の先駆である。

   注:6 *マーティーン ルーサーは、これらの種類の会社を「独占的会社」と呼ぶ。

  (14) 我々が見て来たように、生産過程の内部においては、資本が労働に対する命令権を要求する。すなわち、労働力または労働者そのものに対して指図する。擬人化した資本、資本家は、労働者が彼の仕事を規則正しくなすように、また適切な集中度をもってなすように、管理する。

  (15) さらに資本は、強制的な関係にまでこれを発展させ、労働者自身の生活に必要と処方された狭い範囲を超えて、労働者階級にそれ以上の労働を強要する。あたかも、他人の活動の演出者のごとく、剰余労働のポンプ係、労働力の搾取者として、直接的に労働者を追い立てた、初期の全ての生産システムを超えて、その熱中、規範の無視、無謀、効率一辺倒なやり方で、これを強要する。    

  (16) まず最初、資本は、歴史的に見出される技術的条件の基盤において、労働を服従させる。であるから、生産様式を直接的に変化させることはしない。剰余価値の生産は、 -- これまで我々が考察したような形式で、 -- 証明済の単純な労働日の延長によって、従って、生産様式自体のいかなる変化からも独立して行われる。だから、旧式の製パン業者においても、近代的な綿製造工場に劣らないほど活発にそれが行われる。

  (17) もし、我々が、単純な労働過程の視点から、生産過程を見るとすれば、労働者は、生産手段との関係に立っており、資本のなんやらの性質にあるのではなく、彼自身の知的な生産活動の単なる手段と材料に対して立っている。例えば、皮なめしでは、彼は皮を単純な労働対象として取り扱う。資本家の皮をなめすのではない。( 訳者注: 資本家が所有する価値としての皮のことと分かるのであるが、資本家本人の皮膚とも訳せないではない、なにしろ資本擬人の皮膚という代物だからね ) しかし、これを剰余価値の創造過程という視点から見れば、生産過程はたちまち違ったものとなる。生産手段は、たちまち、他人の労働の吸収手段に換わる。もはや労働者が生産手段を用いるのではなく、生産手段が労働者を用いる。彼の生産的活動の材料的要素として彼が消費するものではなくて、それらがそれら自身の生命過程の必要な酵素として彼(訳者挿入 労働者)を消費する。そして資本の生命過程が、絶え間なく価値拡大の活動だけを作りだす。絶え間なく自身を倍増するだけの活動を作りだす。溶鉱炉や工場が、夜何もせずに突っ立っているだけで、生きた労働を吸収しないならば、それは資本家にとっては、「ただの損失」なのである。故に、溶鉱炉や工場は、労働者たちの夜間労働を、正当なる要求とするのである。単純な、貨幣の生産過程の材料的要素への転化が、生産手段への転化が、夜間労働への要求を、他人の労働と剰余労働に対する一命題に、一権利に転化するのである。死んだ労働と生きた労働間の、価値と価値を創造する力間の関係の完全なる倒錯、資本主義的生産の特徴でありかつ特異な珍妙論が、どのようにして、資本家の意識、それ自体の鏡像となるのか、後段の一つの例が明らかにするであろう。1848年から1850年の間、英国工場主の反抗の頃、「西スコットランドの最も古く、最も尊敬される工場の一つ カーライル一族会社、ペイスレーのリネンと綿の繊維工場、1752年に創業し1世紀に及ぶ存続を誇り、4世代の同家族によって経営されてきた、その工場主」…. この「非常に知的な紳士」が手紙*7 ( 本文注: 7 *工場査察官報告書 1849年4月30日) を書いた。1849年4月25日付けグラスゴー ディリー メール紙に、「リレー システム」と題するもので、いろいろとある中で、次のような珍妙で朴訥な文章があった。「我々は今、…. 悪魔が工場の労働を10時間に制限するやもしれない…. やつらは、工場主達の将来と財産に最も重大な損害を及ぼそうとしている。もし、彼 ( 彼の「労働者」のこと ) は以前12時間働いていたが、10時間に制限されると、彼の工場では、あらゆる12の機械または紡錘が10に縮んでしまう。工場を畳まねばならなくなるに違いない。その価値はただの10になるだろう。そうなれば、この国の全ての工場の価値の1/6の部分が差し引かれることとなるであろう。」*8

   注:8 *前出報告書 工場査察官 スチュアートは、彼自身はスコットランド人、は、英国人工場査察官達とは逆に、全く、資本家的な思考方式に捕らわれているのであるが、彼の報告書に加えたこの手紙について、次のように明確に述べている。「これは、同じ商売に従事する工場主達に与えられたリレー方式の採用についての最も有益な内容であり、作業時間の調整による変化への疑念と云う先入観を取り除くには最も明解なものである。」

  (18) この、西スコットランドのブルジョワの頭脳にとっては、「4代」もの間受け継がれ、積み上げられた資本家的品質の頭脳にとっては、生産手段の価値、紡錘等々は、それらの財産、資本としての、それら自体の価値と、日々飲み込む他人の不払い労働のある一定量、が切り離しがたく混ざり合っており、カーライル一族会社の社長は、実際のところ、もし彼が工場を売れば、彼に支払われる紡錘の価値のみではなく、それに加えて、剰余価値を追加する力も、紡錘の中に体現されている労働、そしてその種の紡錘の生産に必要な労働のみでなく、勇敢なるスコットランドのペイスレーの土地が日々の汲み出しを手助けする剰余労働もまた支払われると思っているようだ。だからこそ、彼は労働日の2時間の短縮が、12の紡績機械の売値が10 ! のそれになると思っている分けだ。





[第十一章 終り]







   訳者の余計な余談の追加で申し訳ない。ハイエク教授の頭の中の世界もこの分離がなく、殆ど同じような混合状態にあると読める。剰余価値の把握が不可欠項なのである。