カール・マルクス


「資本論」 (第1巻)

 

訳者  宮 崎 恭 一

(1887年にイギリスで発行された版に基づく)

 

 

カール・マルクス

資 本 論


第一巻 資本の生産過程

第五篇 絶対的剰余価値と相対的剰余価値の生産


第十七章 労働力の価格と剰余価値とにおける
大きさの変化







  (1) 労働力の価値は、平均的労働者が習慣的に必要とする生活必需品の価値によって決められる。これらの必需品の量はある与えられた時代の与えられた社会によって知られ、それゆえ、一定の大きさとして扱われることができる。変化するものはこの量の価値である。さらに、労働力の価値を決めるのに二つの他の要素が加わる。一つは労働力を発展させるための支出で、その支出は生産様式によって様々である。もう一つは、労働力の自然的な差異である。男性と女性間の労働力の違い、そして子供と大人のその違いである。これらの異なる種類の労働力の雇用は、そのある雇用は結果的には生産様式によって必要なものとされるのだが、労働者の家族を維持するコストと成人男子の労働力の価値との間に大きな違いを作る。とはいえ、これらの両要素は以下の考察では排除される。*1

  本文注 *1 ドイツ語版第三版の注−321-324ページで取り上げられたケースは、勿論ここでは、取り上げられてはいない。−F. エンゲルス (イタリック)  

  (2) 私は、以下のように仮定する。(1)商品はその価値で売られる。(2)労働力の価格は時にはその価値以上に上がるが、それ以下には決して下がらない。

  (3) この仮定の上では、我々は剰余価値の相対的大きさと労働力の価格の相対的大きさは以下の三つの状況によって決まることを見てきた。(1)労働日の長さ、または労働の拡張される大きさ。(2)労働の標準的強度、その労働の強さの大きさ、与えられた時間において消費される与えられた労働の大きさ。(3)労働生産性、そこにおいて定量の労働が、与えられた時間において、生産する 多いかまたは少ない生産物量は、生産条件に係る発展の度合に依存する。様々な異なる組み合わせが明白に存在可能であり、三つの要素のうち、一つが一定で二つが変化する場合、または二つが一定で一つが変化する場合、または最終的に三つが全て同時に変化する場合がある。そしてこれらの多くの組み合わせは、これらの要素が同時に変化し、その量と方向がそれらそれぞれによって異なる場合があるわけで、多岐にわたる。以下はその主たる組み合わせについてのみ考察される。



     

 

第一節 労働日の長さと労働強度が一定で、
労働生産性が変化する場合



  (1) これらの仮定から、労働力の価値と剰余価値の大きさは以下の三つの法則(訳者注: (1.),(2.),(3.))によって決められる。

  (2) (1.) 与えられた長さの労働日は同じ価値量を創出する。労働生産性がどうであれ、それに従って、生産物の量と 生産された各一商品の価格は変化するであろう。

  (3) もし、12時間労働日によって創出された価値が、例えば、6シリングであるとすれば、それは、生産された品物の量が労働生産性により変化したとしても、唯一の結果は、6シリングで表される価値は多いかあるいは少ない数の品物全ての上にふりまかれていると云う事である。

  (4) (2.) 剰余価値と労働力の価値は逆の方向に変化する。労働生産性の変化、その増加または減少は、労働力の価値には逆の方向に変化をもたらし、そして剰余価値には同じ方向に変化をもたらす。

  (5) 12時間労働日によって創出される価値は一定量である。例えば、6シリングである。この一定量は剰余価値に労働力の価値を加えた総計である。後者の価値は労働者がある等価で置き換えるものである。もし、二つの部分から成り立つ一定量があるとすれば、それらは他方の減少がなければ増加はない。自明である。二つの部分が最初 同じであるとして見よう。労働力の価値が3シリング、剰余価値が3シリングであると。そうであれば、労働力の価値が3シリングから4シリングに増加することは剰余価値が3シリングから2シリング減少することなくしてはできはしない。そして剰余価値は、労働力の価値が3シリングから2シリングへの減少なくしては3シリングから4シリングへ増加することはできない。この状況では、従って、剰余価値または労働力の価値のいずれにとっても絶対的な大きさとなっており変化は起こらない。同時にそれらの相対的価値、すなわちお互いの相対的大きさに変化がなければ変化は生じない。それらにあっては、増加または減少が同時に生じることは不可能である。

  (6) さらに云えば、労働力の価値は労働生産性の増加なくしては低下し得ないし、また、その結果として、剰余価値も増加できない。例えば前述のケースでは、労働力の価値は、労働生産性の増加なくしては、以前は6時間を要した生活必需品と同じ量を4時間で生産することができなければ、3シリングから2シリングへと縮小させることはできない。また逆に、労働力の価値は、労働生産性の減少なくしては、以前は6時間で足りた生活必需品の生産と同じ量の生産に8時間を要することにおいてしか、3シリングから4シリングへと増加させることはできない。このことは、次のことを示す。労働生産性の増加は労働力の価値の下落を引き起し、そしてその結果として剰余価値の増加を引き起こす。ところが、他方、そのような生産性の減少は労働力の価値の増大とまた剰余価値の下落を引き起こす。

  (7) リカードは、この法則を公式化するに当って、一つの重要な点を見落とした。剰余価値または剰余労働の大きさの変化は、労働力の価値または必要労働の量の大きさと反対に変化するのではあるが、その変化率は決して同じ比率とはならない。それらは同じ量だけ増加・減少する。しかしそれらの比率は、増加にしろ減少にしろそれらの元の大きさ、労働生産性が変化する前の大きさに依存している。もし、仮に、労働力の価値が4シリング、または必要労働時間が8時間で、剰余価値が2シリング、または剰余労働が4時間であるとしよう。そしてもし、この状況下で労働生産性が上昇すれば、労働力の価値は3シリングに下落し、または必要労働時間が6時間となれば、剰余価値は3シリングに増加し、または剰余労働は6時間となるであろう。全く同じ量の、1シリングまたは2時間が、一方には加算され他方では減算される。しかしその変化率は各々違った大きさである。さて、労働力の価値は4シリングから3シリングへと下落、すなわち、1/4または25%の変化率、剰余価値は2シリングから3シリングへと増加、すなわち、1/2または50%の変化率を示す。従って、以下のようになる。剰余価値の増加率または下落率は、与えられた労働生産性の増加または減少の結果として、剰余価値としてそれ自体を実体化する労働日の該当部分の元の大きさに依存している。その部分が小さければ小さい程その変化率はより大きくなり、その部分が大きければ大きい程その変化率はより小さくなる。

  (8) (3.) 剰余価値における増加・減少は常に結果として存在しており、決して原因にはならない。労働力の価値の減少または増加に対応している。*2

  本文注 *2 上の(3.)の法則について、マカロックは、とりわけ、以下のようなばかげた追加を加えている。剰余価値の増加は労働力の価値の下落が伴わなくても生じる。資本家が支払うべき税金の廃止によっても生じると。そのような税金の廃止は資本家が最初に労働者から強奪した剰余価値なるものには何一つ変化を生じさせない。それは単に彼自身と第三者とで剰余価値を分け合った部分を変えるのみである。であるから、剰余価値と労働力の価値との相互関係にはなんの変更も生じない。マカロックの例外は、結果として、彼の法則理解の間違い、丁度アダム スミスの論を低俗化したJ. B. セイが陥った不運と同様、リカードの論を低俗化した彼に始終起こってくる不運を証明するだけの事である。 

  (9) 労働日の大きさが一定でかつ一定の大きさの価値によって表されており、剰余価値の大きさのあらゆる変動が、労働力の価値の逆変動に対応しているものであるから、さらに労働力の価値は、労働生産性の変化と云うものがなければ変化することはできないのである。これらのような条件下では、剰余価値の大きさのあらゆる変化は、労働力の価値の大きさの逆変化から生じることは明らかである。であるから、もし、我々が既に見てきたように、労働力の価値の絶対的大きさの変化がないものとすれば、そして剰余価値にはそれらの相対的な大きさの変化が伴わないのであるから、それに先立つ労働力の価値の絶対的な大きさの変化がなければ、それらの相対的大きさの変化は存在しないことになる。 

  (10) 第三の法則( 訳者注: (3.))によれば、剰余価値の大きさの変化には、労働生産性の変化によってもたらされる動静であるところの労働力の価値の動静が想定される。この変化の限界は労働力の価値変化によって与えられる。にもかかわらず、法則の作動を許す状況であっても、付随的な動静が生じるかも知れない。例えば、労働生産性の増加の結果、労働力の価値が4シリングから3シリングへ、または必要労働時間が8時間から6時間へとなったとしても、労働力の価格は、3シリング8ペンス、3シリング6ペンスまたは3シリング2ペンス以下には下がらないかも知れない。そしてその結果として、剰余価値は3シリング4ペンス、3シリング6ペンスまたは3シリング10ペンス以上には上がらない。この下落額は、最低限度は3シリング(新たな労働力の価値)であるが、一方の資本側の圧力と、他方の側の労働者の抵抗という吊り秤に投げ入れる相対的重量に依存している。

  (11) 労働力の価値は与えられた生活必需品の量の価値によって決められている。それは価値であって、労働生産性によって変化するこれらの生活必需品の量ではない。とはいえ、労働生産性の増加によって、労働力または剰余価値の価格になんら変化がなくても、労働者も資本家も同時にこれらの生活必需品の大きな量を享受することはできるだろう。仮に、労働力の価値が3シリングで必要労働時間が6時間ならば、同様 剰余価値が3シリングで剰余労働が6時間ならば、そして労働生産性が必要労働の剰余労働に対する比率を変えることなく2倍になったとしても、剰余価値の大きさと労働力の価格にはなんの変化もないだろう。唯一の結果は、それぞれに以前とくらべて2倍の使用価値があることであろう。これらの使用価値は以前と比べて2倍安くなっている(訳者注: ここは価格)であろう。とはいえ、労働力の価格が変わらなくても、その価値以上であるかも知れない。例えば、労働力の価格が1シリング6ペンスに、その新たな価値と一致する最低点にまで下落するのではなく、2シリング10ペンスまたは2シリング6ペンスへと下がることはありうる。このより下がった価格が、そのまま、生活必需品の増加量を表すことになろう。この事から、労働生産性の増加によって、労働力の価格は下落し続けることもありうる。そしてこの下落は、それでも、労働者の生活手段の量の一定の成長を伴っている。しかしそのような場合でも、労働力の価値の下落はそれに対応する剰余価値の増加を生じる。そして、であるからこそ、労働者の位置と資本家の位置の間にある断裂帯は広がり続けて行くであろう。*3

  本文注 *3 「工業の生産性にある変化が起きれば、そして労働と資本の与えられた量によって生産されるものはより多くなるかより少なくなれば、その賃金の割合で示されるところの量が同じであっても、賃金の割合は明らかに変化するかも知れない。また、その割合が同じ場合でも、その量が変化するかも知れない。」(「政治経済学概要、他」67ページ)  

 





第二節 労働日が一定、労働生産性が一定で、
労働の強度が変化する場合




  (1) 労働の増加した強度とは、与えられた時間における労働の増加した支出を意味する。それ故より強度の大きい労働は、より強度の少ない労働に比べて より多くの生産物に体現化される、それぞれの労働日の長さは同じで変わりはない。労働生産性の増加は、同様、与えられた労働日で、より多くの生産物を供給するであろうことはその通りである。しかし後者の場合は、各一生産物の価値は、以前に比べれば少ない労働しか要していないので、低下する。前者の場合は、価値は不変のままに留まる、各一物品は以前と同じ労働を要しているからである。ここでは我々はその数において増加した生産物を持つことになるが、それらの個々の価格の低下を伴っているものではない。それらの数は増加し、それらの価格合計もそのように増加する。しかし生産性が増加する場合は、与えられた価値がより多くなった生産物全体にふりまかれる。かくして、労働日の長さが一定で、増加された強度の一労働日は増加した価値に、そして、貨幣の価値がそのままに留まるものとして、より多くの貨幣に体現化される。創出される価値は、その社会の通常の労働強度からの逸脱の程度によって変化する。与えられた労働日は、それ故、もはや一定の価値を創出するのではなく、変化する価値を創出する。12時間労働日において通常の労働強度で創出される価値は、例えば6シリングであるが、増加した労働強度においては創出される価値は7、8、またはそれ以上のシリングとなるかも知れない。もし仮に、一労働日の労働によって、例えば6シリングから8シリングへと増加し、そしてその価値を二つの部分に分けるとするならば、つまり労働力の価格と剰余価値の二つに分けるとするならば、共に平等に、あるいは不平等にであっても、それらは同時に増加するであろうことは明白である。それらは共に同時に3シリングから4シリングに増加するかも知れない。さてここでだが、労働力の価格の増加は労働力の価値以上にその価格が増加することを意味する必然性はない。全く逆で、価格の上昇は価値の下落を意味するであろう。このことは、労働力の価格の増加がその増加した消耗に見合わない場合にはいつでも生じる。

  (2) 我々は、一時的な例外として、労働生産性の変化が労働力の価値になんの変化も起こさないし、またその結果として剰余価値の大きさになんの変化も起こさないことを知っている。工業の生産物が労働者達によって習慣的に消費されてしまい生産物に影響しない場合である。ここ第二節で言及しているケースではこの条件は少しも適用されない。労働の長さまたは労働の強度のいずれであれ、そこに変化があるのであれば、その価値を体現する品物の性質からは独立して、創出される価値の大きさには常にそれに対応する変化が生じる。


 

  訳者余談: 上の(2)の向坂訳を取り上げる。例によって難解挫折モードであるばかりでなく、労働の価値と労働の生産性に係わる概念が突如変動する。以下色を変えた所が向坂訳である。「人の知るように、一時的な例外はあるが、労働の生産性における変動が、労働力の価値量における、したがって剰余価値の大きさにおける変動をひき起こすのは、その産業部門の生産物が労働者の慣行的消費に関係する場合のみである。この限界はここではなくなる。労働の大いさが外延的に変動するにせよ、内包的に変動するにせよ、その大いさの変動には、その価値生産物の大いさにおける変動が、この価値を表示する商品の性質には無関係に、対応する。」なぜこのような概念喪失が生じるのかは労働の概念も剰余価値の概念も労働生産性の概念もその相互の増減関係も頭の中にはなく、突然の偉大なる閃きと訳出を混同する脳作用になんの抵抗もできないからである。読者が私の訳と向坂先輩の訳を比較してなにを把握するかは、読者におまかせするだけであるが、私は何故この一時的例外で、生産性が増加しても労働力の価値が低下しないケースにマルクスが触れたのかが気になる。そんな例外的で労働者の名誉が係る文言を取り上げなければならないのかと。単に法則を再確認させるためのものであるだけではなく、私には直ぐには分からないのだが、威光偉大なるブルジョワ経済学者がこの例外ケースを弄び労働力の価値と労働生産性の関係が労働者の習慣的消費とかで極めて不安定であることを示したものがあるとしか思えない。多分ミル先生の経済学概論と資本家達がこれを喜んだ経緯でもあるのではなかろうか。いや、スターリン及びそれ以後のロシアの偽労働者独裁的な資本家及び偽労働者の支配とか、中国の資本家に寄生する偽労働者支配とかの未来の特殊・強権的偽労働者の悪癖を早くも指摘しているのではと。まさかそう見るわけにも行かないが。いつものことだが脇道余談で邪魔して申し訳ない。


  (3) もし労働の強度が工業のあらゆる部門で同時に同程度増加したと云うことならば、新たな、高いレベルの強度はその社会にとっては普通のものと云うこととなろう。であるから、特に取り上げることでもなくなる。しかし、依然として労働の強度が違った国で異なる場合があるとするならば、国際的な価値法則の適用は違ってくる。ある国のより強い強度の労働日は強度のより少ない国とくらべれば、より大きな貨幣合計として表されよう。*4

    本文注 *4 「全てのものが釣り合っているとして、労働日の違いに関しての釣り合い条件が、英国では週60時間で大陸では72または80時間であると云うことならば、英国の工場手工業者等は外国の工場手工業者等にくらべて与えられた時間により驚く程の大きな労働を捻り出すことができる。(事実に関する工場査察報告書 1855年10月31日 65ページ) 英国と大陸の労働時間の質的な違いを解消する最も間違いのない手段は、大陸の工場における労働日の長さを量的に短縮する法ということになろう。 

  (14) 資本主義的生産が以前にもあったと仮定してみるならば、そしてさらに、他のすべての状況が同じに留まるものとし、労働日の長さが与えられているものとすれば、剰余労働の量は労働の物理的条件によって変化するであろう。特に、土壌の肥沃度によって変化するであろう。しかし、最も肥沃な土壌が生産の資本主義的様式の成長に最も適合していると云うことには全くならない。この様式は人間が自然を支配することの上に成り立っている。自然があまりにも豊かであれば、自然は人をしてあたかも引き綱に繋がれた子供の様にそのままにしよう。自然は彼に彼自身を発展させる必要をなにも課すことはない。*5  

 





第三節 労働生産性と、労働強度が一定で、
労働日の長さが変化する場合



  (1) 労働日は二つの方向に変化するであろう。そしてそれはいずれの方向でも伸びたり縮んだりするであろう。我々の現在のデータと前に(本章最初の部分 (3)で記述されたもの)仮定した範囲内において、我々は以下の法則を得る。

  (2) (1.) 労働日はその長さに比例して、より大きいか、より少ない量の価値を創出する。−すなわち、変化し一定ではない価値の量を。(色を付けたNo.は前段の、以下の法則を得る とした三つの以下の法則を示す番号である。文節(6)以降は色をつけていない。)  

  (3) (2.) 剰余価値の大きさと労働力の価値との間の関係における全ての変化は剰余労働の絶対的大きさの変化から生じる。その結果として変化は剰余価値にも及ぶ。

  (4) (3.) 労働力の絶対的価値は、労働力の消耗を伴う延長化された余剰労働によって生じる反作用という結果においてのみ変化することができる。この絶対的価値の全ての変化は、従って、剰余価値の大きさにおける変化の、結果であり、決してその原因とはならない。(訳者注: (1)-(3) の法則説明は向坂本にはない)

  (5) 我々は労働日が短縮されたケースから見ていく。 

  (6) (1.) 上のように与えられた条件の下での労働日の短縮は、労働力の価値もまたそれに伴う必要労働時間も変えないままである。それは剰余労働と剰余価値を縮小する。後者の絶対的大きさとともに相対的大きさも低下する。すなわち、その大きさは変化しないままの労働力の価値の大きさに相対して変化することになるからである。唯一 労働力の価値以下に労働力の価格を低下させることによってのみ、資本家は彼自身の損傷を回避できることとなろう。(訳者小余談: アベノミクスの2%のインフレ手法もその一つとわかる。アベ某は労働日の短縮を意図しているものではないが、剰余価値低下状況に対してのその打破一般の範疇としての操作であり、ここで指摘してもおかしくはあるまい。) 

  (7) 労働日の短縮化に反対するよくある議論は、我々が上に書いたように、そのような条件下において生じると仮説を立てたもので、実際のところは全くそうではなく、ほとんどの場合は、生産性と労働強度が、労働日の短縮となると、事前にまたは即刻 変化する。(さらなる訳者余談的余談 札を刷ると政府が云えば、刷らぬうちから株価が上がり、円安になるのも同じことだ。) *5

  本文注: *5 「そこには様々なそれを補う事案が、…. 10時間法による労働の話が持ち上がると」(事実に関する調査報告書 1848年 10月31日 7ページ)

  (8) (2.) 続いて労働日の延長。必要労働時間を6時間、または労働力の価値を3シリング、そしてまた剰余労働が6時間、または剰余価値が3シリングとしよう。全労働日はかくて12時間、そしてそれは6シリングの価値として表される。さて仮に、今、労働日が2時間延長されるとしよう。そして労働力の価格がそのままに留まるとすれば、剰余価値は絶対的にも相対的にもともに増大する。とはいえ、労働力の価値にはなんの絶対的変化はない。それは相対的には下落させられる。1. (訳者注: 第一節 労働日の長さと労働強度が一定で、労働生産性が変化する場合) のように設定した条件の下では、労働力の価値は、その絶対的な大きさに変化がなければ、相対的な大きさに変化は生じなかった。逆に、ここでは、労働力の価値の相対的な大きさの変化は、剰余価値の絶対的な大きさの変化の結果である。

  (9) 労働日が実体化された価値はその労働日の延長に応じて増大するのであるから、剰余価値と労働力の価格は同時に増加するのは明らかである。それが同量であろうとなかろうと。であるから、この同時の増加には二つのケースが可能である。実際の労働日の延長がその一つであり、もう一つはそのような延長を伴わない労働の強度の増大である。

  (10) 労働日が延長されると、労働力の価格はその価値以下に低下するであろう。たとえ価格が名目上は変化しないかまたは上昇したとしても。日労働力の価値は、忘れようもなく、標準的な平均時間または労働者たちの標準的生活時間、そしてまた、有機的な肉体物質の動作への、人間の自然に適う動作ということであるが、それへの標準的な移管に応じて算定される。*6

  本文注: *6 「一人の人間が24時間の間で行った労働の量は、彼の肉体に生じた化学変化の検査によって、おおよそ次のことに帰着するであろう。肉体的物質における変化の形が結果として、その結果をもたらす大きな運動力の行為を指し示す。」(グローブ 「肉体的な力の相互関係について」)

  (本文に戻る) ある程度までは、労働力の消耗の増大は労働日の延長と切り離すことはできず、高い賃金によって補填されるであろう。だが、この点を超えた幾何学的な進行を見せる損耗ともなれば、標準的な労働力の再生産と機能維持のための全ての適切な条件は抑圧される。労働力の価格とその搾取の度合は釣り合いの取れた量であることを止める。

 





第四節 労働日の長さ、生産性そして
労働の強度における同時的な変化



  (1) ここでは、非常に多くの組み合わせが可能であることは云うまでもなかろう。いずれかの二つの要素が変化し、第三の要素が不変であるとか、三つの全てが同時に変化する場合とか。それらがいずれも同じ程度に変化する場合や異なる程度で変化する場合や、同じ方向に変化する場合や反対方向に変化する場合など。その結果もその変化が互いに消し合う、全面的にそうなったり、または部分的にそうなったりする。ではあるものの、ほとんどの考えられるケースは、既に与えられた 第一節、第二節 そして第三節 の結果を参考にすれば簡単である。全ての可能な組み合わせの結果は、各要素が変化するものとし、他の二つの要素については当分の間変化しないものとして考えれば良い。従って、我々はそれらを踏まえて、簡単にまとめることにしよう。だが二つの重要なケースがある。


A.労働日の延長と同時に
労働生産性が低下するケース

 

  (1) 労働生産性の縮小に関しては、ここではそれらの工業の生産物が労働力の価値を決定する工業の縮小に関して言及する。そのような縮小は、例えば、土地の肥沃度の低下、またその商品の高額化によるものとかである。労働日が12時間として、そしてそこから作り出される価値が6シリングとする、その半分は労働力の価値を、あとの半分が剰余価値を形成するとしよう。土地の生産物の価格が高騰し、その結果労働力の価値が3シリングから4シリングに上昇する、そしてその結果必要労働時間が6時間から8時間になるとしよう。もし労働日の長さに変化が無ければ、剰余労働は6時間から4時間に下落し、剰余価値は3シリングから2シリングとなるであろう。もし、労働日が2時間延長される、すなわち12時間から14時間になるならば、剰余労働は6時間のままで、剰余価値は3シリングのままである。* note (MIAが英語版資本論をuploadした側の注)  

  本文注: *note 初期の英語版訳は、3シリングではなく「6シリング」となっている。この誤訳はある読者によって我々に指摘された。我々は1872年のドイツ語版他を再確認し、この明らかな間違いを正した。さて、誰がこの間違いの張本人か? (訳者注:: 以下省略、興味がある方はMIA の当該ノートのリンクをたどってみたらよい。ここが訳者の悪い癖だが、加藤 茶 風に云えば、ちょっとだけよ。ドイツ ブルジョワジーはここの3シリングをくすねはしなかったが、英国グローバル ブルジョワジーは狡猾にもここでも3シリングを横領した。と笑わせる。ついでに訳者余談、マルクスは繰り返し繰り返し 剰余価値が様々な条件でどのように変化するかを記述する。そして労働力の価値も併説される。他でもなくこれらが資本の誕生と資本の自己拡大・自己保存の仕組みそのものだからである。しっかりと読み込んで、資本主義経済の諸々に対応して貰いたい。笑点の木久扇ラーメン風に云えば、白味噌を労働者の脳味噌に熟成して貰いたい。グローバルブルジョワジーが押し進めるTPP:、為替操作、貨幣増刷、消費税、無駄な商品、軍備、金融道楽、福祉抑圧、賃金抑制、解雇の自由、原発再稼働、規制撤廃、等々様々な経済行為はまさに剰余価値の増大・保全そのものであることが分かるはずである。しっかりと頭に、忘れることもないものに仕上げることだ。無駄な余談で待たせて申し訳なかった、先に進もう。)

  (本文に戻る) しかし、剰余価値は、必要労働時間として計量される労働力の価値と比較すれば減少する。もし仮に、労働日が4時間延長されて、つまり12時間から16時間になれば、剰余価値と労働力の価値の比例的大きさは、剰余労働と必要労働の比例的大きさは変化しないままとなる。ただし、剰余価値の絶対的大きさは3シリングから4シリングに上昇し、剰余労働は6時間から8時間へ 33 1/3% の増加となる。従って、労働生産性の低下と同時に生じる労働日の延長の場合は、剰余価値の絶対的大きさに変化は起こらないこととなろう。と同時に、その相対的大きさは減少する。その相対的大きさが変化しないならば、その絶対的大きさは増大する。そして労働日の延長が充分大きければ、共に増大する。

  (2) 1977年から1815年の期間、英国では、食料価格の値上がりが賃金の名目的な上昇をもたらした。とはいえ、実質賃金は生活必需品の範囲に圧縮され、下落した。この事実から、ウエストとリカードは、以下のような結論を引き出した。すなわち、農業労働の生産性の低下が剰余価値の比率の下落をもたらしたと。そして彼等はこの事実の仮説を、ただ彼等の想像上の存在でしかない仮説を、賃金、利益、地代の相対的な大きさを追求ための重要なる考察への出発点としたのであった。しかし、実のところは、この時点では、剰余価値は、労働強度の増大に、そしてまた労働日の延長に感謝すべきである。剰余価値は絶対的にも相対的にもその大きさがともに増加したのであった。この時期は、労働時間の延長をどこまでも延長する権利が確立された時代であった。*7

  本文注: *7 「穀物と労働が鼻先を並べて行進することはまずない。とはいえ、明確なる限界が存在する。その限界を越えてまで両者が別々に離れて行進することはできない。賃金の下落となるような物価高の時期における労働者階級の通常を超えた努力については証言にも記されている。」(すなわち、1814−1815年の議会委員会の諮問に応えたもの)「彼等個々には最大の称賛を惜しまない。そしてまさに、資本の成長と云う贈り物をもたらしてくれた。しかしながら、人間愛を抱く者は誰も、絶え間なく続く許されることもない彼等の姿を見ることを望むことはできないであろう。彼等のそれは一時の緊急対応としては最大の感謝に値するが、しかしもしそれが絶え間なく打ち続くのであれば、その結果としては、一国の人口が食料の限界のぎりぎりまで追い込まれたことと同じような結果となろう。」(マルサス 「地代の性質とその進展に関する研究」ロンドン 1815年 48ページ ノート)この様に、マルサスが労働時間の延長に注目し、事実、彼の小論文のあらゆるところで注意を喚起していることは、彼の大きな名誉と云える。一方のリカード他は、この最も悪名高き事実に直面ながら、彼等の考察の全ての基礎において労働日の長さに変化はないものとするのと比べれば、その名誉は揺るがない。だが、マルサスが侍る保守層の利益が彼をして強大なる機械の進展や婦人たちや子供たちの搾取と一体化した労働日の制限のない延長を捉える目を妨げた。その保守層の利益が必然的にこの労働者階級の大部分を「過剰人口」とするであろうこと、特に戦争が終結したり、世界市場での英国の独占が終わることになったりした場合にそうなることを把握し得なかった。当然のことながら、この過剰人口について資本主義的生産の歴史法則から説明するよりは、永遠の自然(頭文字は大文字)法則によって説明する方が、マルサスが真の聖職者として崇拝する支配階級の都合により合致したであろうし、非常に便利な説明であったであろう。 

  (本文に戻る) この時期は、一方では資本の加速的な集積によって、他方では重積する貧困によって特別に記述される。*8

  本文注: *8「戦時中、資本の増大の主要な原因は、あらゆる社会において最も人口の大きな労働者階級のより大きな努力とそして多分、より大きな困窮から発している。多くの婦人たちや子供たちが貧困の事情から追い込まれて骨の折れる仕事についた。以前の労働者たちも同じ理由で彼等の時間の大部分を生産増加に献身を余儀なくされた。」(政治経済学に関する評論 ここには現在の国家的な困窮の主要な原因について説明されている G. ロバートソン (著者名については訳者加記) ロンドン 1830年 248ページ)



B.労働日の短縮と同時に
労働強度と労働生産性が増大するケース

 

  (1) 増大した生産性とより強度を増した労働は、ともに同じような効果をもたらす。それらはともに、あたえられた時間内に生産される品々の量を増大させる。従って、それらはともに、労働者の生活手段またはそれらの等価を生産するに必要な労働日のそれに該当する部分を縮小する。労働日の最小の長さはこの必要によって決まるが、実際にはその該当部分の収縮いかんによって決まる。もし全労働日がこの該当部分の長さにまで縮小することになれば、剰余労働は消失するが、資本主義の制度下においてはその達成は全くもって不可能である。(フランス語)唯一資本主義的生産形式を廃止することによってのみ、労働日の長さを必要労働時間にまで減らすことができるであろう。しかし、その場合であってさえも、必要労働時間はその制限を拡大するであろう。一方の理由は、「生活手段」の概念がそれなりに大きなものとなり、労働者がこぞって今までとは違う生活基準を求めることになるからであり、他方、今の剰余労働部分を必要労働と考えるからである。私の意味するところは、予備や備蓄のための諸々を構築するに要する労働と云うことである。  

  (2 ) より労働生産が増大すればするほど、労働日はより短縮することができる。そしてより労働日が短くなればなるほど、労働の強度をより高めることができる。社会的視点から見れば、労働生産性は労働の節約に応じて同じ比率で増大する。節約の内訳には、生産手段の節約のみではなく全ての無益な労働の排除をも含んでいる。資本主義的生産様式は一方で各それぞれの個々の業務所においては節約を強要するが、そのくせ、他方、競争と云う無政府的なシステムによって、労働力と社会的生産手段の最大級の途方もない浪費を生じさせる。現時点では避けようもないことだが膨大な雇用創出が何ものであるかは云うまでもなかろう、まさにそれらは不要物なのである。



  訳者余談: 若き工業デザイナーであったころ、生意気にも仕事の発注先の業務課の担当者に私はこう言い放った。「他社製品が当社製品より安く生産できているのに、なんで似たような製品を高い価格で生産しなければならないのか。他社に任せればいいし、なんなら他社に生産してもらって売ればいいではないか。」と。担当者は絶句してしばらく口も聞いて呉れなかった。しばらくして、「当社の生産物が社会的に不必要であっても、生産・販売しなければ、多少もうけが少ないとしても、失業する。安くていいデザインにする必要がある。」と。また、当社製品の他社向けのデザインも依頼された。多少デザインを変え、ネームプレートを変えて売るのである。もっと安く、当社のものより多少は安物感のあるデザインにしてほしいと。デザインの仕事は現時点では避けられないが、云うまでもなく不要なデザインというお仕事なのである。日本製品を世界に売るためのデザイン業務もこの系列から外れはしない。ブルジョワ向けのより無駄な高級高額感デザインもあるにはあるが言及する必要もなかろう。


 

  (3) 労働の強度と生産性が与えられているものとして、共同社会の物質的生産に割くべき時間がより短くなるならば、その結果として、知的に・社会的に 自由に発展させるために使える個人の時間はより長くなる。共同社会の全ての身体強健なメンバーに仕事がより公平に分担されていればいるほど、そしてまたある特定の階級が労働の普遍的な負担を自分の肩から共同社会の他の階級の肩に転嫁する支配力が剥奪されていればいるほど、その比率に応じて自由に発展させるために使える個人の時間はより長くなる。このような方向で進展すれば、労働日の短縮は最終的には労働の一般化に応じた限界点に到達するであろう。資本主義的社会にあっては、ある階級の余裕な時間は、大勢の全生活時間を労働時間に変換することで獲得されている。

  (訳者余談を一言: この自由な時間を作り出すことこそ人間としてのデザインでなくてなんであろう。資本家やそのお抱えの経済学者やその政府には 決して思い点かない、できはしない究極的なデザイン・オブ・デザインなのである。)







[第十七章 終り]