カール・マルクス


「資本論」 (第1巻)

 

訳者  宮 崎 恭 一

(1887年にイギリスで発行された版に基づく)

 

 

カール・マルクス

資 本 論


第一巻 資本の生産過程

第五篇 絶対的剰余価値と相対的剰余価値の生産


第十八章 剰余価値率に関する公式







  (1) 我々は剰余価値率が次のような公式で表されることはすでに見てきたところである。  

  剰余価値 / 可変資本 (s / v) = 剰余価値 / 労働力の価値
                       = 剰余労働 / 必要労働

  (2) これらの公式の最初の二つは価値の比率を表し、三番目のものはそれらの価値の生産に要する時間の比率で表わされている。これらの公式は、互いに補完しあいつつ、厳格に定義されており正確である。従って、我々は古典政治経済学においてもこれらの公式が実質的には認められていると分かるのだが、認識的にはそうではないことが分かる。そこでは我々は次のようなご都合的な派生公式に出会う。  

  剰余労働 / 労働日 = 剰余価値 / 生産物の価値
                       = 剰余生産物 / 全生産物

  (3) ここでは、一つの同じ比率が、労働時間の比率、それらの労働時間が体現されている価値の比率、そして価値が存在する生産物の比率として表されている。勿論のこと、分母の「生産物の価値」は、労働日において新たに創造された価値のみを意味することは分かっているところで、生産物の不変資本部分の価値は入らない。

  (4) これらの公式()の全てにおいては、実際の労働搾取度、または剰余価値率と云ったものが誤った形で表されている。労働日が仮に12時間とすれば、前者の公式によって計算するならば、真の労働搾取度は次のような比率で表わされるだろう。

    6時間の剰余労働 / 6時間の必要労働 =
    3シリングの剰余価値 / 3シリングの可変資本 = 100%

  (5) 公式()からは、我々は非常に違った結果を得る。

    6時間の剰余労働 / 12時間の労働日 =
    3シリングの剰余価値 / 6シリングの創造された価値 = 50%

  (6) これらのご都合的派生公式が表すものは、実際のところ、単に資本家と労働者の間で、分けられる労働日の比率とかその中で生産された価値の比率を表すだけのものである。もしそれらが資本の自己拡大の度合を直接表すものとして取り扱われるならば、このような間違った公式は正しい面を持つことであろうが、これでは、剰余労働または剰余価値は決して100%に達することがない。*1

  本文注 *1: このことは、たはえば「ロドベルトゥスからフォン.キルヒマン宛の第三書簡 リカード学派による新地代論の基礎的理論とその確立をと言う説への反論」(ドイツ語) ベルリン1851年 に書かれている。この書簡については後に立ち返るつもりだが、間違った地代理論にも係わらず、資本主義的生産の本質を見通している。

  (本文注*1の続き) ドイツ語版第三版に追加されたノート: このことからいかにマルクスが彼の先輩たちを好意的に評価しているかよく分かるであろう。それらの中に真の進歩や新たなそして正しい概念をマルクスが見出した時はいつでもそうなのである。その後公開されたロドベルトゥスからルドルフ.マイヤー宛の手紙には、マルクスが上に認めたような点がいくらかは限定されるものが書かれていた。それらの手紙には以下の文章がある。

  (本文注*1の続き2) 「資本は労働から救われなければならないのみでなく、資本自体からも救われねばならない。そしてそれは最も効果的に救われなければならない。工業資本家の行為が経済的かつ政治的機能として取り扱われることで、彼が彼の資本によってその立場に任命されている者として、彼の利益を俸給の形式で取り扱うことで救われることになる。なぜならば、我々は依然としてそれ以外の社会的組織を知らないからである。しかし俸給は規制されるかも知れないし、またもし賃金よりもあまりに多ければ減額される。マルクスの社会への乱入は、私は彼の本のことをそう云ってもいいと思うが、それは防ぎ倒さなければならない。全体的に見て、マルクスの本は資本に対する考察であるよりも、現在の資本形式に反対する論であり、それと資本と言う概念そのものとを混同した資本形式に反対する論である。」(「ドクター. ロドベルトゥスからヤゲッツォフへの書簡他 ドクター. ルドルフ.マイヤー編」 ベルリン1881年第一巻 111ページ 46 ロドベルトゥスの書簡 ) この観念的な俗論に至れば、ロドベルトゥスが彼の「社会的書簡」の中で行った大胆な発言は、結果として、品質が低下する。−F. エンゲルス

  (本文に戻る) 剰余労働は単に労働日の割り切れる部分なのだから、または剰余価値は単に創造された価値の割り切れる部分なのだから、剰余労働は労働日より常に必然的に少なくなければならない。または剰余価値は常に創造された全価値よりも少なくなければならない。しかしながら 100 : 100の比率を得るためには、分母分子は等しくなければならない。剰余労働が全日を占めるならば、(いかなる週または年の平均日ということだが) 必要労働はゼロにまで達しねばならない。しかし必要労働が消失すれば、剰余労働もまた消失する。それが唯一の公式の機能なのだから。比率 剰余労働 / 労働日 または剰余価値 / 創造された価値 は、従って100 / 100の限界に到達することはない。いつまでも (100+x) / 100 以上よりは少ない。しかし剰余価値率はそうではない。実際の労働搾取度はそんなことはない。例を上げれば、L. ドゥ ラベルニュの計算によれば、英国の農業労働者は生産物の 1/4 しか受け取っておらず、資本家(農場主)はその一方で生産物の 3/4 を収奪する。*2

  本文注 *2:この計算では、生産物のうちの前貸しした不変資本部分を単に置き換える部分については勿論のこと計算には入っていないが、L. ドゥ ラベルニュ氏、盲目的な英国賛美者は、資本家の取り分をかなり高く見積もるよりはかなり低く見積もる傾向がある。

  (本文に戻る) またはその3/4の価値を収奪する。その強奪物をさらにその後いかに資本家と領主とその他の者の間で分配するかはともかく。このことによれば、この英国農業労働者の剰余労働と彼の必要労働との比率は、3 :1 すなわち、搾取率にすれば 300% の数値を示す。

  (7) 労働日の大きさが一定であるかのように取り扱うお気に入りの方法は、公式Γ教騎鎧を用いることによって、定番化する。なぜならば彼等にあっては、常に、剰余労働を与えられた長さの労働日と対比させたいからである。生産された価値の再分配では他でもなくそれが全部自分のものであるとするのに都合がいい。すでに与えられた価値であるところの労働日は必然的に与えられた長さの一日でなければならない。(訳者の注: 資本家の立場で考えることが不慣れな労働者の皆さんにとっては多分難解部分だろう。でも資本家ともなれば、一定長さの労働日から自然に、神のご意志によって、崇高なる剰余労働を作り出しているのだから、労働日には必要労働も剰余労働もなく純粋無垢な一定長の労働日と信じて疑わない、ふとそこに疑問が沸いても、良心というなんやらが疼いてもそう思わないことには、その瞬間に自分の取り分が消失する恐怖に見舞われる。このことを知れば分かるだろう。他人の労働を盗む瞬間の悔恨は本当に神の罰を受ける程のものである。この時ばかりは恥も外聞もなく無神論者の迷子札をぶら下げる。と聞く。)  

  (8) 剰余価値及び労働力の価値を創造された価値の一部分として表す習慣は、−この習慣は資本主義的生産様式そのものに始点がある。この彼等の詐術的な習慣の持ち込み動機はいずれ将来明白なるものとなるだろう。−資本の特性そのものである取引の実態を隠蔽する。すなわち、可変資本と生きた労働力の交換と云う実態を遠ざけたり、生産物からなんとしても労働者を排除したがることと結びついている。真の事実に代わって、我々は偽の協同体という見せ掛けの形を見る。その協同体では労働者と資本家は生産物をそれぞれ違う要素、その公式に対するそれぞれの貢献度という要素に応じて分け合う。*3

  本文注 *3: 全てのよく発達した資本主義的生産形式は、協同体形式を示す。勿論のこと、それらの対立する性格を見落としたり、それらを自由協同体なる形式に文字上で変換することほど容易なものは他にはない。それが、A. ドゥ ラボルド の「あらゆる協同体の完全形における協同精神について」 (フランス語) パリ 1818年 の著作となっている。H. ケアリー 北米人(訳者挿入:ヤンキー) は、時々この悪質なトリックを用いてこの成果を納めている。奴隷制度という協同体ですらも。(訳者追加 :一種の自由協同体であると。)  

  (9) さらに云えば、公式はいつでも公式に再変換することができる。例えば、仮に、我々が次の式を見るならば、

    剰余労働力としての6時間 / 労働日なる12時間

    直ぐに、必要労働時間が、12時間より剰余労働の6時間少なことが分かるのであるから、次の結果を得る。

    剰余労働 6時間 / 必要労働の6時間 = 100 / 100

  (10) 私がすでに度々前にも取り上げたように、第三の公式が存在する。それは、

    剰余価値 / 労働力の価値 = 剰余労働 / 必要労働
                      = 不払い労働 / 支払い労働

である。

  (11) この考察の結果を得れば、不払い労働 / 支払い労働 と明記することによって、もはや間違われることはなくなる。あたかも資本家が労働に支払うのであって、労働力に支払うのではないと云うような結論には行き着かない。この公式は単に一般的な表現をとれば、剰余労働 / 必要労働 となる。

  (12) 資本家は、その価値に価格が一致する限りにおいて、労働力の価値に支払う。そして、交換と云う形で生きた労働力そのものの自由処分権を受け取る。彼の使用権は二つの期間に分けられる。一つの期間では労働者は彼の労働力の価値に見合う価値を生産する。つまり労働者はその等価分を生産する。資本家は、これを、かれが労働力の価格として前貸した部分として受け取る。市場で並んでいる生産物としての労働力の価格を受け取る。もう一つの別の期間では、剰余労働の期間では、労働力の使用権が資本家のための価値を創造する。資本家はその等価分を一銭も要さずに受け取る。*4

  本文注 *4: 重農主義者らはこの剰余価値の秘密に切り込むことはできなかったが、それでもこのことをより鮮明に把握していた。すなわち、「彼(所有者)が買ってはおらず、それを売ると云う独立した処分自由の富である。」(フランス語) (デュルゴー 「富の形成と分配に関する考察」11ページ)

  (本文に戻る) この労働力の支出が彼にはただでやってくる。このことは、剰余労働が不払い労働と呼ばれ得ることを示している。

  (13) であるから、資本は、アダム スミスが云うような、労働に関する支配権ではないばかりか、それは、不払い労働に関する本質的な支配なのである。全ての剰余価値は、それがどんなに特殊な形式 (利益、利子、または地代) であろうと、その結果としてどのような結晶体になっていようと、不払い労働の物質化という実体に他ならない。資本の自己拡大という秘密は他の大勢の人々の明白なる不払い労働量の支配そのものであることにつきる。







[第十八章 終り]