第2章 われわれと資本主義世界

 量的にだけでなく質的にも戦前の水準に達したことは、現在の歴史的諸条件のもとでは巨大な成果である。この問題は本書の第1章で解明した。しかし、この成果はわれわれを「スタート」につけるだけであり、この地点から世界資本主義との真の経済競争が始まるのである。

 ゴスプランの説明文の最後の一文は、一般的な課題を次のように定式化している。

「獲得した地歩をしっかりと守り、経済事情が許すところならばどこでも、年々、たとえ一歩づつでも着実に社会主義へ前進すること」。

 これらの言葉を文字どおりに解釈するならば、それらは誤った結論を生む源泉になりうる。年々「たとえ一歩づつでも」社会主義へ前進すればよいといった言葉は、テンポの問題がほとんど意味を持たないかのように理解される可能性がある。すなわち、いったん合力が社会主義の方向に向けられるならば、われわれはどのみち目標に達するだろう、というわけだ。このような結論は根本的に誤っており、ゴスプランは、もちろんこのようなことを言いたかったのではない。実際のところ、問題を決するのはまさにテンポなのである。もっぱら国営の商工業の発展テンポが私営の商工業のそれよりも優越していたことによって、これまでの時期における「社会主義的」合力が保証されてきたのだ。この両テンポ間にある同一の相互関係は今後とも維持されなければならない。しかし、これよりもずっと重要なのが、全体としてのわが国の発展テンポと世界経済の発展テンポの間にある相互関係である。この問題について、ゴスプランの説明文は今のところ言及していない。それだけにいっそう、われわれはこの問題に詳しく言及する必要性があると考えている。なぜならば、この新しい基準は、「戦前の水準」が復興期における成功を測るのに役立ったのと同じくらい、次の時期におけるわれわれの成功と失敗を測るのに役立つであろうからである。

 われわれが世界市場に参入するのに伴って、さまざまな可能性だけでなく、さまざまな危険性もまた増大することは完全に明らかである。その基礎はあいかわらず同じである。すなわち、農業経営の細分状態、わが国の技術的後進性、わが国に対する世界資本主義の――今のところまだ――巨大な生産上の優位性、である。このようにあるがままを率直に承認することは、言うまでもなく、社会主義的な生産体制が、その方法、傾向、可能性の点で、資本主義的な生産体制よりもはるかに強力であるという事実といささかも矛盾しない。ライオンは犬よりも強力であるが、年老いた犬は子供のライオンよりも強い場合がありうるのだ。若いライオンを守る最良の保証は、ライオンが成熟することであり、牙と爪を強化することである。このために必要なのは一定の時間だけである。

 若い社会主義に対する年老いた資本主義の最も重要な優位性は今のところどういう点にあるだろうか? それは、手持ちの価値にでもなければ、地下室に保管されている金にでもなく、蓄積し掠奪してきた富の総額にあるのでもない。過去に蓄積された価値は大きな重要性を有しているが、決定的なものではない。生きた社会は旧来の備蓄だけで生きていくことはできない。それは生きた労働の生産物によって養われるのである。古代ローマはそのすべての富にもかかわらず、「蛮族」の侵入にもちこたえることができなかった。なぜならば、その時には後者は、奴隷制の腐敗した体制よりもはるかに高い労働生産性の担い手になっていたからである。大革命で目覚めたフランスのブルジョア社会は、イタリアの貴族的都市共同体が中世以来蓄積してきた富をあっさりと奪いとった。もしアメリカの労働生産性がヨーロッパの水準よりも低くなったとしたら、銀行の地下室に保管されている90億ドルの金も合衆国を救いはしないだろう。ブルジョア国家の基本的な経済的優位性は、資本主義が今のところまだ、社会主義よりも廉価でしかも良質の商品を生産しているという点にあるのである。言いかえれば、古い資本主義文化の慣性で生き永らえている国の労働生産性は今のところまだ、過去から受け継いだ非文化性の条件のもとで社会主義的方法を適用し始めたばかりの国の労働生産性よりも著しく高い、ということにあるのだ。

 人類社会のより高度な経済水準を保証する体制が究極的には勝利するという基本的な歴史法則をわれわれは知っている。歴史的な係争問題は労働生産性の比較係数によって――一気にでも、一撃にもないが――決っせられるのである。

 すべての問題は現在、わが国の経済と資本主義経済との相互関係が、近い将来、いかなる方向に、いかなるテンポで変化するのかという点にこそある。

 わが国経済と資本主義経済との比較は、さまざまな分野で、かつさまざまな方法で可能である。なにしろ資本主義経済自体が著しく多様である。比較は、現時点での経済状態に立脚した静態的性格をもつことも可能であるし、発展テンポの対照にもとづいた動態的性格をもつことも可能である。すなわち、資本主義諸国の国民所得とわが国のそれとを比較することもできるし、生産の成長率を比較することもできる。こうしたすべての比較・対照は、それなりの――あるものはより小さな、別のものはより大きな――重要性を有している。必要なのは、それらの結びつきと相互関係を理解することだけである。そこでわれわれは若干の例を次に示そうと思う。これは、われわれの考えを例証するためのものであって、それ以上のものではない。

 北アメリカ合衆国において、資本主義的過程はその頂点に達しつつある。社会主義に対する資本主義の今ある物質的優位性を測るためには、この優位性を、まさにそれが極端な表現をとっているところで取り上げるのが至当であろう。

 アメリカ産業委評議会はつい最近、一つの表を発表した。そこからわれわれは若干のデータを拝借しよう。合衆国の人口は世界の人口の6%であるが、そのアメリカは穀物の52%、その他の農作物の32%、綿花の52%、木材生産物の53%、鋳鉄の62%、鋼鉄の60%、紙の57%、銅の60%、鉛の46%、石油の72%を生産している。合衆国には世界の富の3分の1が集中している。全世界の水力の38%、電信および電話線の59%、鉄道の40%、自動車の90%が、合衆国の所有となっている。

 わがソ連邦の公共用発電所の出力は、来年には77万5000キロワットに達するだろうが、合衆国では、この出力は昨年すでに1500万キロワットに達していた。工場用発電所に関して言えば、1920年の調査がわが国の総出力を約100万キロワットとしていたのに対し、合衆国では同じ時期に約1050万キロワットと見積もられていた。

 総労働生産力は国民所得に表されるが、それの計算は周知の通りきわめて困難である。わが統計局のデータによれば、ソヴィエト連邦の国民所得が1923〜24年の間に国民1人あたり平均して約100ルーブルであったのに対し、合衆国では約550ルーブルであった。だが外国の統計によれば、合衆国の1人あたりの国民所得は550ルーブルではなく1000ルーブルである。したがって設備や組織や熟練によって制約される平均労働生産性は、アメリカがわが国よりも10倍、少なくとも6倍は高いということになる。

 しかしながら、これらのデータがどんなに重要なものであるとしても、だからといってそれは歴史的闘争におけるわれわれの敗北をあらかじめ決定するものではけっしてない。その理由は、資本主義世界が別にアメリカに限られているわけではないからだけではなく、歴史的闘争には、先行する経済発展の全体から生じる強力な政治的諸力が入りこむからだけでもない。何よりも、今後におけるアメリカ自身の経済発展の曲線がはなはだ未知なものだからである。合衆国の生産力はフルに発揮されているというにはほど遠く、操業率の低下は労働生産性の低下を意味する。合衆国の市場はまったく十分ではない。販路の問題は今後ますます露わかつ先鋭に合衆国の前に持ち上がってくるだろう。したがって、労働生産性の比較係数が2つの方向から、すなわち、わが国の上昇とアメリカの没落によって均等化することもけっしてありえないことではない。このことは、ヨーロッパに関しては比較にならないほどの確実性をもって言える。なぜならば、ヨーロッパの生産水準は現在でもアメリカよりも著しく低いからである。

 一つのことだけは明白である。資本主義の技術と経済の優位性は今のところまだ巨大である。前途には急な上り坂がひかえている。課題と困難はまことに絶大である。道を見つけ出し、それを検討することができるのはただ、世界経済という測定器を手中に持っている場合だけである。

 

世界経済の比較係数

 ソヴィエト経済の動的均衡を、いかなる意味でも、閉鎖的で自足した全体の均衡として考えてはならない。反対に、時が立つにつれてますます国内の経済的均衡は輸出入によって保たれるであろう。こうした事情について徹底的に考え抜き、そこからあらゆる結論を引き出す必要がある。わが国が国際分業のシステムに入り込めば入り込むほど、国内経済における商品価格や品質のような要素は、ますます世界経済の当該要素への依存に陥っていくのである。

 今日まで、われわれは工業を戦前の水準と比べながら発展させてきている。生産物価格の大きさを比較したり決定するために、われわれは1913年の価格一覧表を利用している。しかし、このような比較――といっても、それは極めて不完全なものであったのだが――が当を得ていた復興初期は終わりに近づきつつあり、わが国の経済発展の指標に関する全問題は新しい地平に移りつつある。われわれは今後、それぞれの時点において、わが国の生産物が、その量、品質、価格において、どれほどヨーロッパ市場ないしは世界市場の生産物に立ち遅れているかを確実に知らなければならない。復興期が完了すれば、われわれは、わが国自身の1913年の一覧表を完全に捨て去って、ドイツ、イギリス、アメリカその他の国の商社が持っている現在の一覧表でもって武装することになるだろう。われわれは、わが国の生産物を世界市場の生産物と――品質の面からも価格の面からも――比較している新しい目録に注意を集中しなければならない。この新しい指標、すなわち国内に閉じられた規模の比較係数ではなく、この世界的規模の比較係数は今後、レーニンによって定式化された「誰が誰を?」という過程の個々の段階を特徴づける唯一正しいものであろう。

※  ※  ※

 世界経済と世界政治における敵対的状況の中で決定的な意義をもつのは、わが国の発展テンポ、すなわちわが国の労働生産物の質的・量的増大のテンポである。

 今日、わが国の後進性と貧困とは疑いもなく明白であり、われわれはそれに反駁するどころか、反対にこの事実をできるだけ強調している。したがって、世界経済との系統的な比較はこの事実を統計に表わすにすぎない。われわれがまだ本格的に向上するにはほど遠い近い将来において、世界市場がその資源の巨大な物的優位性でもってわが国を圧殺する危険性はないだろうか? このように立てられた問題に対して何らかの争う余地のない回答をすることは不可能であり、統計上の回答をするのはなおさら不可能である。

 これは、たとえば、資本家的農場主(クラーク)の傾向が中農を後に従えて、農村に対するプロレタリアートの影響を麻痺させ、社会主義建設の政治的障害物をつくり出しはしないか、といった問題に対する統計上の回答ができないのと同じである。同様に、もし一時的で極めて相対的な資本主義の安定が長引くならば、資本主義がわが国に対して本格的な軍事力を動員し、新しい戦争によってわが国の発展にブレーキをかけることに成功しはしないか、という問題にも断定的に答えることもできない。このような問題は、受動的な予測によって答えることを許さないのである。ここで問題となっているのは闘争であり、そこでは創造力や駆け引きやエネルギーといった契機が巨大な役割を、ある瞬間には決定的な役割を果たすのである。だが、この問題の研究は本書の課題ではない。本書では、われわれは経済発展の内的傾向を他の諸要因からできるだけ抽象して解明しようと試みているのである。

 いずれにせよ、世界市場はその経済的優位性だけでわが国を敗北させることができるかどうかについては、次のように答えざるをえない。すなわち、われわれはけっして世界市場に対して無防備ではない、わが国の経済は、社会主義的保護貿易制度を全面的に採用する一定の国家機関によって守られている、と。しかしながら、この機関はどの程度有効だろうか? これに関して、われわれは資本主義の発展史から何事かを学ぶことができる。長期間にわたって、ドイツや合衆国の工業は、克服しがたいと思えるほどイギリスから立ち遅れていた。その後、これらの後進諸国は、保護関税に守られながら、自然的および歴史的諸事情を利用することによって、先進諸国に追いつき、さらには追いこすことすらできたのである。国境や国家権力や関税制度は 資本主義の発展史における強力な要因である。このことは、社会主義国にはるかによくあてはまる。わが国と世界市場との結びつきが広くかつ複雑になればなるほど、深く考え抜かれた、頑固かつ柔軟な社会主義的保護貿易制度はますます重要になるであろう。

 しかしながら、言うまでもないことだが、外国貿易の独占を頂点とする保護貿易主義はけっして全能ではない。それは資本主義商品群を国内の生産と消費の必要に応じて調整することによって、その商品群の圧力に持ちこたえることができる。これによって、保護貿易制度は、国の生産水準を引き上げるのに必要な期間を社会主義工業に保証することができる。外国貿易の独占なしにはわが国の復興過程は不可能であったろう。しかし、他方では、わが国における実際に生産上の成功を収めることだけが社会主義的保護貿易制度を維持しうるのである。今後も、外国貿易の独占は、今のところ国内工業には手に負えない外圧から国内工業を守るであろうが、しかしこれはもちろんのこと工業の発展そのものに取って代わることはできない。これからは、工業の発展は世界市場の係数によって測られることになるのである。

 現在われわれは戦前水準との比較を量と価格の見地からのみ行なっている。生産物を成分にしたがってではなく、名称にしたがって見ている。これはもちろん正しくない。生産上の比較係数はの問題をも包含しなければならない。これなしには、比較係数は自己欺瞞の源泉ないしは道具となりかねない。われわれはこの点に関して、いくつかの場合に価格の低下が品質の低下によって埋め合わせられたという若干の経験を有している。わが国と外国の同一商品の品質が同じであれば、比較係数は原価の相違によって決定される。原価が同じ場合には品質の相違によって決定される。最後に、原価も品質も異なる場合には、両者の評価を結合させることが必要とされる。原価を決定することは生産の原価計算の問題である。商品の品質は多くの場合、いくつかの指数を用いてしか確定されない。典型例として電球の例が役に立つ。その品質は次のような指数によって確定される。その耐用期間、1回の発光に消費される電力、光の分散の均等性、等々である。

 一定の技術的基準と生産規格(「品質」規格を含む)を設定することは、比較係数の作成を著しく容易にする。わが国の規格と世界市場の規格との関係はそれぞれの時点において定数で表わされるだろう。わが国の生産物が設定規格と合致するかどうかさえ知ればいいことになる。価格比較に関していえば、品質の相互関係が設定されている場合には、この問題は至極簡単に解決される。複合的な係数は簡単な掛算によって得られるだろう。わが国の何らかの商品が、外国商品よりも2倍劣悪で、1倍半高価である場合には、比較係数は3分の1ということになる。

 外国の原価がどれぐらいかをわれわれは知らないという事実を引き合いに出しても、それはその通りだが、問題にとって二義的な重要性しかない。価格がわかっているだけで十分である。それはカタログに書いてある。原価と価格との差は利潤と呼ばれる。わが国の原価が低下すれば、われわれは、外国の原価がどうであれ、価格の点で世界市場と肩を並べるであろう。実際のところ、このことこそが近い将来における根本問題を解決するのである。その後に――たしかに、それほど早くやっては来ないだろうが――第3の時期が開かれる。その課題は、世界市場において、社会主義経済の製品が資本主義国の生産物を打ち負かすであろう。

 時おり次のように言って反対する者がいる。商品の数は法外に多く、比較係数を作成することは「手に負えない」課題である、と。これに対しては2通りに答えられる。まず第1に、すべての商品は何であれ、原価計算をすまして本やカタログに記入される。そして、商品が多かろうとも、こうした仕事のうちに手に負えないようなことは何もない。第2に、最初のうちは、大衆の消費にとって最も重要な生産物と、それぞれの生産にとって言わば鍵となる商品に限定することも可能である。その際、その他の商品は比較評価システムの中の中間的位置を占めることを前提にするのである。

 また別の反対者は、品質の測定やその単なる確定すら困難であるということを持ち出す。実際のところ、更紗の品質とはどのようなものか? その丈夫さ、1平方アルシン中に含まれる綿の量、色褪せの度合い、見栄え、である。大多数の商品に関して、その品質を測定することが困難であるのは否定すべくもない。だが、この課題はけっして解決不能ではない。何らかの作為的ないしは絶対的な基準でもってこの問題にアプローチしてはならないだけである。農民・労働者市場向けの更紗に関して第1に考慮されるべきは、生地の丈夫さであり、第2に色褪せしにくいことである。この2つの契機を測るならば――そしてこれは厳格に客観的な方法でもってすれば完全に実行可能である――、数字で表わされる基本的な品質評価が得られる。わが国の鋤や脱穀機やトラクターとアメリカ製の同じ機械との正確な比較係数、すなわち数字で表わされた比較係数を与えることは、ずっと容易で単純である。今後何年もこの問題は、農業にとって、固定資本の更新の問題が工業において果たすのと同じ役割を果たすであろう。

 農民は、馬や雌牛を購入するにあたって、自ら必要なすべての「係数」を確定し、しかも並み外れた正確さでもってそうする。ところが機械を購入するとなると、農民はほとんどなすすべを知らない。劣悪なギアを買って痛い目にあった農民は、隣人たちにも機械購入の恐るべきことを伝えるだろう。必要なのは、農民が自分の購入する機械がどのようなものかをきちんと知っておくことである。したがって、ソヴィエトの脱穀機は商品仕様書を備えておかなければならず、比較係数はまさにその仕様書に依拠するであろう。こうして、農民は自分の買うものを知り、国家はわが国の生産とアメリカの生産との相互関係を知るのである

※原注 以上、典型的な反対論をいくつか挙げたが、これによってわれわれは、比較係数の観念が当事者の抵抗に逢着していると言いたいのではけっしてない。反対に、この考えは、わが国の経済発展の全体から出てくるものとして、わが国の経営担当者や国営商業・協同組合・科学技術研究施設の活動家たちの多大な共感を得ている。しかるべき仕事はすでに品質特別会議においても、また科学技術研究所においても、行なわれているのである。

 比較係数の観念は、一見したところ抽象的で、ほとんど机上の空論であるかのように見えるが、実際には深く生活に根ざしたものであり、あらゆる経済条件から、いや日常生活のすべての毛孔からさえ、文字通りあふれ出てくるものである。

 戦前の水準に対比させて計算されている現在のわが国の比較係数もまた、理論的のみならず日常生活上の根拠を持っていた。統計表や価格曲線を利用することのできない一般消費者は、消費者としての自分自身や家族の記憶を利用する。統計表が語る戦前水準の一定のパーセントがほとんど完全に量的側面から取り上げられているのに対し、消費者の記憶は次のことを付け加える。「平和な時分には」(すなわち帝国主義戦争までは)、長靴は何ルーブルし、何ヵ月もった、と。消費者は長靴を買うたびに、頭の中でおよその比較係数を計算するのである。このような計算はすべての買い手が行なっている。すなわち、ヴォロネジないしはキエフの機械製造工場から機械を購入する製革トラストであろうと、市場で3アルシンの更紗を買う農婦であろうと、そうである。違いはただ、トラストがカタログや会計帳簿によって比較するのに対し、農婦は記憶にしたがって行なう、という点だけである。そして言っておく必要があるが、大急ぎで作成され、ほとんど常に品質について考慮せず、しばしば傾向的ですらあるトラストの比較係数と比べて、多くの場合、直接の生活経験にもとづく農婦の比較係数の方がはるかにリアルである。いずれにせよ、統計上の計算や経済的分析も消費者の記憶の日常的作業も、出発点を戦前の経済状態に求めていた点で一致しているのである。

 過去を振り返って比較するというこの一種の一国的制約は今や終わりに近づきつつある。わが国と世界市場との結びつきは現在でもすでに、われわれが一歩ごとに自国商品と外国商品を比較せざるをえないほど密接なものになっている。そして、旧来の比較がぼやけるにつれて――というのは、戦前の生産物の思い出は記憶から、とりわけ若い世代の記憶から消えていくからであるが――、新しい比較がますます鮮明になっていく。というのは、この新しい比較は思い出に立脚しているのではなく、日々の生きた事実に立脚しているからである。

 わが国の経営担当者は外国から、ある特定の商品に対するある特定の商社の供給や、さまざまな商社の商品カタログや、最後に彼個人の消費体験を持ち込んでくる。過去何年間もまるで存在しなかった問題、すなわち、あれこれの商品は外国でいくらするか、それはわが国の商品とどれぐらい品質が異なるか、といった問題が一歩ごとに持ち上がってくるであろう。外国旅行はますます頻繁になるだろう。われわれは種々の手段を通じて、わが国のトラスト職員や工場長、優秀な技術系学生、職長、機械組立工、熟練労働者に外国の工業を視察させる必要がある。もちろん一度にではなく、必要な順序を遵守して、であるが。このような旅行の目的は何といっても次の点にある。経営担当者や生産担当者の基幹メンバーが、かんばしくない各「比較係数」をあらゆる側面から評価できるようにすること、かんばしくないだけになおさら比較係数をわが国に有利なように変えること、である。

 西側志向の過程が経済の上層部のみを包含すると考えるとしたら、それは官僚主義的な視野の狭さであろう。反対に、この過程はすぐれて大衆的性格を持っており、さまざまな道を通じて基本的な下層消費者を包含している。この方向に向けて少なからぬ役割を演じているのが密輸である。これを過小評価してはならない。密輸は、経済生活の誉められぬ一部分であるにしても、やはりはなはだ重大な一部分であり、しかもそれは世界経済の比較係数に完全に依拠している。というのは、密輸業者は、わが国の国産品よりも著しく良質で廉価な外国商品のみを輸入するからである。それゆえ――ついでに指摘しておくと――生産物の品質のための闘争は、密輸に対する最良の闘争なのである。現在、密輸は何千万ルーブルもの外貨をわが国から流出させている。密輸は主として細々とした諸製品で生計をたてているが、しかしまさにこうした小物こそがいつでも日常生活の毛孔に最も深く浸透するのである

※原注 密輸商品を調査することは、専門生産の見地からしても、国民経済の見地からしても、はなはだ重要である。

 外国との比較が実際に一度も中断することなく行なわれた分野がもう一つある。それは農業用の機械や道具の分野である。農民はオーストリア製の鎌を知っていたし、常にそれをわが国の鎌と比較していた。彼らはアメリカ人のマコーミックやカナダ人のハリス、オーストリア人のハイト等を知っていた。現在、農業が復興し農業用の機械や道具に対する需要が増大するにつれて、こうした比較のすべてがよみがえりつつある。そして、これらの比較にさらに、新しい比較が、すなわちアメリカのフォードサン社製トラクターとわが国のトラクターとの比較がつけ加わっている。農民が馬力脱穀機を購入し、彼の目の前でその劣悪な鉄製ギアが2、3時間でだめになってしまったならば、彼は、これ以上にはないというぐらいのひどい係数でもってこの事実を脳裏に刻みつけることであろう。

 労働者について言えば、彼が最も身近にぶつかる比較係数は、彼自身が生産する生産物に関するものではなく、彼が生産するのに使う生産物と、部分的には彼が消費する生産物に関するものである。彼はアメリカ製とロシア製の工作機械や工具や鋳物鋳造や計測器等々の品質を知っている。言うまでもないことだが、高度熟練労働者はこれらの違いについてきわめて敏感であり、生産教育の課題の一つはこうした感度を向上させることである。

 以上述べたことは、世界生産の比較係数がわれわれにとってフィクションではなく、第一義的な実践上の問題であり、わが国の経済発展の新しい課題を反映するものである、ということを証明するのに十分であると思う。

 このような比較係数の体系は、現在のわが国経済の横断面を、世界経済の到達度の光に照らして示してくれる。すべての生産物の平均係数は、わが国における生産技術の後進性がどの程度のものかを、正確に測られた数値でもって表わすだろう。商品の個別係数と平均係数とを定期的に測定することは、わが国の到達度をわれわれに鮮やかに示し、個々の部門においても、工業全体においても、その発展テンポを測ることになろう。

 荷馬車に乗っている時には、距離を測るのに目測ないしは聴覚でもって行なうのに対し、自動車は自動メーターを備えている。わが国の工業は今後、国際メーターをもって進まなければならない。その目盛りを頼りに、われわれは最重要の経済措置だけでなく、われわれの多くの政治的決定をも根拠づけるのである。社会体制の勝利は労働生産性の向上によって決定されるということが正しいとすれば――そして、このことはマルクス主義者にとっては自明のことなのだが――、ソヴィエト経済の生産物を質的かつ量的に正しく計測することは、市場の当面する課題にとっても、またわが国の歴史的道程の来るべき諸段階を評価するためにも、等しくわれわれに必要なのである。

 

発展テンポ、その物質的限界と可能性

 1922〜24年における全般的な工業発展は、主として軽工業に依拠したものであった。今年度は、生産手段を生産する工業部門が優勢になり始めている。しかしながら、この後者の部門も今のところまだ、旧固定資本の利用にもとづいて復興している。ブルジョアジーから受け継いだ固定資本が100%稼働することになる次の経済年度には、われわれは固定資本を更新する広範な仕事に取りかかるであろう。ゴスプランの予定している全資本支出は、工業(電化を含む)に8億8000万ルーブル、輸送に2億3600万ルーブル、住宅建設やその他の建設に3億6500万ルーブル、農業に3億ルーブルであり、総計で約18億ルーブルである。このうちの9億ルーブル以上が新規投資、すなわち経済全体の新たな蓄積からの投資である。この――今のところまだ予定されているにすぎず、けっして徹底した検討が加えられたわけではない――計画によって、国の物的資源を分配する上でのきわめて巨大な変化が生じるだろう。これまでわれわれは既存の固定資本にもとづいて仕事をし、その一部分だけを補填したにすぎなかった。今後われわれは固定資本を新規につくり出さなければならない。この点に、これからの経済期間がこれまでと区別される基本的な違いがあるのである。

 個々の経営担当者、例えばトラスト職員の見地からすれば、発展テンポは銀行によって与えられる融資に依存しているように思えるかもしれない。「私に何百万ルーブルを与えよ。そうすれば私は新しい住居と工作機械を作り、生産を10倍にし、原価を2分の1に引き下げ、品質をヨーロッパの物と同等にしてみせる」――何度こうしたセリフを聞かされたことか。しかし肝腎なことは、いかなる場合でも融資は第1次的な要因ではないということである。経済発展のテンポは経済過程そのものの物質的諸条件によって規定されている。このことについて、実にタイミングよく、ゴスプランの説明文は次のことに注意を促している。

「国民経済発展の可能なテンポの一般的限界、すなわち、すべての部分的な制限要因を規定している限界は、物的形態をとった一国全体の蓄積の大きさに、すなわち、単純再生産の必要を満たした後に残る、したがってまた拡大再生産・再建設の物質的基礎となる、新たに生産された富の総和に求められるべきである」。

 紙幣、株券、債券、手形やその他の「紙でできた価値[有価証券]」それ自体は、経済発展の規模やテンポの問題にとって意味を持たない。それらは物質的価値の計算と分配の補助手段にすぎない。もちろん、私的資本主義の見地、および総じて私的経済の見地から見れば、これらの証券は独自の意味を持っている。すなわち、それらは、所有者に物質的価値の一定量を保証する。しかしながら、国民経済の見地――わが国では、それは国家の見地とほとんど一致する――から見れば、紙でできた価値[有価証券]はそれ自体、拡大生産の基礎として役立つ物質的生産物の量をいささかも増やすものではない。したがって、物質的生産というこの現実的基礎にこそ、われわれは立脚しなければならない。予算や銀行や経済復興債や工業基金等を通じて資金を振り向けることは、経済のさまざまな部門にしかるべき物質的生産物を分配する方法にすぎないのである。

 戦前の数年間におけるわが国の工業は年平均6〜7%成長した。この割合はかなり高いものと見るべきである。しかし、この割合も、工業が年に40〜50%成長している現在の割合と比べるとまったくちっぽけなものに見える。しかしながら、これらの成長率を単純に比較するならば、それは重大な誤りであろう。戦前、工業の拡張は基本的に新しい工場の建設にもとづいていた。それに対し、現在の拡張は、戦前と比べてはるかに旧工場の利用と旧設備の稼働とにもとづいている。このために、例外的な発展テンポが生じたのである。したがって、復興過程の完了とともに、成長率が著しく下落せざるをえないとしても当然であろう。こうした事情はきわめて大きな重要性を有している。なぜならば、それは資本主義世界の中のわれわれの地位をかなりの程度決定するからである。わが国が社会主義的な「陽のあたる場所」を確保するための闘争は、不可避的に、できるだけ生産成長率を高めるための闘争とならざるをえない。しかしながら、このような闘争の基礎でもあり「限界」でもあるのは、物質的価値の現有量なのである。

 しかし、もし復興過程が基本的に農業と工業との古い相互関係を、国内市場と外国市場との古い相互関係(穀物と原料の輸出、機械と完成品の輸入)を再現するとすれば、復興過程は戦前の成長率をも再現することに、すなわち、成長率が現在の40〜50%の高さから、1、2年で戦前の6%にまで下がることになりはしないだろうか? もちろん、この問題に対し、現時点で完全に正確な回答をすることはできない。だが、われわれは確信をもって次のように言おう。社会主義国家と国有工業とがあるかぎり、そして輸出入を含む基本的な経済過程の調整がますます強化されているかぎり、戦前の水準が達成された後であっても、われわれは、わが国の戦前の成長率だけでなく、資本主義諸国の平均的な成長率をもはるかに上回る成長率を維持できるであろう。

 われわれの優位性はどの点にあるか? われわれはこれをすでに列挙しておいた。

 第1に、わが国には寄生的階級が存在しない、もしくはほとんど存在しない。戦前における実際の蓄積は6%ではなく、少なくともその2倍は大きかった。しかし、蓄積された資金の半分しか生産に使用されず、もう半分は略奪的・寄生的に浪費された。したがって、その他の必要な諸条件が揃っているならば、君主制、官僚、貴族、ブルジョアジーの廃止だけでも成長率を6%から12%にまで、いや少なくとも9〜10%にまで引き上げることができるのである。

 第2に、私的資本主義の障壁を取り除いたことによって、経済主体たる国家は、あらゆる必要な自由をもって、必要な資金を必要な経済部門に適時投入することができるようになった。経済的重複、競争等の非生産的な間接費は大幅に削減され、今後ますます削減されることだろう。こうした諸条件があったからこそ、われわれは、外国の援助なしに、この数年間にあれほどの急上昇を達成することができたのである。今後は、これまでよりもはるかに、労働力と資源[資金]の計画的な分配だけが、同じ資源を消費しても資本主義社会より大きな生産上の成果をわれわれにもたらすことができるのである。

 第3に、われわれが始めたばかりの、生産技術への計画原理の導入(規格化、工場の専門化、それらの工場を単一の生産有機体へ結合すること)は、すでに近い将来において、生産係数を本格的に、かつますます増大する割合で向上させることであろう。

 第4に、資本主義社会は、好況と恐慌の定期的な交替を通じて生き発展しており、戦後においては、その交替は病的な痙攣と化している。たしかに、わが国の経済も恐慌から自由ではない。それどころか、世界市場との結びつきの増大――これについては後述する――は、わが国自身の経済における恐慌の源泉となりうる。だが、それもかかわらず、計画的な予見と調整が発展するならば、わが国の発展の恐慌段階を著しく軽減することができるし、軽減するに違いない。そしてそれによって、相当な量の剰余蓄積を保証することができるし、保証するに違いないのである。

 以上がわれわれの四つの優位性であり、その効果は過去数年間にもすでにずいぶん発揮されてきた。そしてその意義は、復興期の完了とともに弱まるどころか、反対に著しく増大するだろう。これらの優位性は全体として、われわれがそれらを正しく利用するならば、次の数年間にすでに、工業の成長率を戦前の6%の2倍どころか3倍、いやおそらくそれ以上に高めることを可能にするだろう。

 しかしながら、問題はこれでつきるわけではない。われわれが列挙した社会主義経済の優位性は、国内の経済過程においてその効果を発揮するだけでなく、世界市場が切り開く可能性にもとづくことによって著しく増大するのである。われわれはこれまで、この後者については、主としてそこに潜む経済的危険性という見地から見てきた。しかし、やはり資本主義市場は単にわれわれにとって脅威であるだけではなく、巨大な可能性をも切り開くものなのである。われわれは、世界市場を通じて、最も高度な科学技術上の成果に、そしてその最も複雑な産物に、ますます近づいていく。したがって、社会主義経済が世界市場に引き込まれることによって新たな危険性が生じるとしても、その世界市場はまた――社会主義国家の貿易が正しく規制されている限り――この危険性に対抗する強力な手段をも切り開くのだ。世界市場を正しく利用することによって、われわれは、比較係数を社会主義に有利なように変化させていく過程を著しく促進することができるのである。

 もちろん、われわれは厳密に深さを測りながら前へ進むだろう。なぜならば、この河を社会主義の船が航行するのは初めてだからである。しかし、周知のように、水路を先に進めば進むほど、河はますます広くますます深くなっていくのである。

 

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