第2章 民主主義とファシズム

 第11回コミンテルン執行委員会総会(1)は、「ブルジョア独裁の議会的形態と露骨なファシスト的形態との矛盾に関してのみならず、ファシズムとブルジョア民主主義との矛盾に関する自由主義的概念」にもとづいた誤った見解を完全に清算することが必要であるとみなした。このスターリン哲学の核心はきわめて単純である。すなわち、ファシズムとブルジョア民主主義との絶対的矛盾のマルクス主義的否定ということから、相対的矛盾を含む矛盾全般の否定という結論を引き出すことである。これは、俗流的急進主義の典型的誤りである。しかし、もし民主主義とファシズムとのあいだに、ブルジョアジーの支配形態という領域においてすらいかなる矛盾もないとすれば、これら2つの体制はあっさりと一体化するにちがいない。そこから「社会民主主義=ファシズム」という結論が出てくる。ところが、社会民主主義は何ゆえか社会ファシズムと呼ばれている。そもそも、この合成語における「社会」という言葉は何を意味するのだろうか? 今までのところ、われわれにそれを説明してくれた人はいない

※原注 形而上学者(反弁証法的な思考をする人々)にとっては、同一の抽象物が、2つ、3つ、あるいはもっと多くの役割を、そして時としてまったく正反対の役割を果たしている。彼らの言うところによれば、「民主主義」一般と「ファシズム」一般とはまったく相互に区別されない。しかしその代わり、世界にはなおも「労働者と農民の独裁」が存在しなければならない(中国、インド、スペインなどに)。それはプロレタリア独裁か? 否。では資本主義独裁か? 否。それではいったい何か? 民主主義独裁だ! まるで、世界には純粋な非階級的民主主義があるかのようだ。ところが、第11回執行委員会総会は、民主主義はファシズムと区別されないと説明する。とすれば「民主主義独裁」は…ファシスト独裁と区別されるのであろうか? 

 この原則的問題においてスターリニストからまじめで誠実な回答を期待するのは、まったく無邪気な人々だけであろう。期待できるのは、さらなる悪罵であり、ただそれだけだ。しかしながら、東方革命の運命はこの問題と結びついているのである。

 しかし、ものごとの本質は、コミンテルン執行委員会総会の決定によって変わるものではない。民主主義とファシズムとのあいだには矛盾が存在する。この矛盾はけっして「絶対的なもの」ではない。あるいは、マルクス主義の言葉で言うなら、この矛盾は、2つの非和解的な階級の支配を意味するものではまったくない。しかし、それは、同一の階級の異なった支配体制を意味する。議会制民主主義とファシズムというこの2つの制度は、それぞれ、抑圧され搾取されている諸階級の異なった組合せに依存しており、この両者が激しく衝突することは不可避である。

 今日ブルジョア議会体制の主な代表となっている社会民主主義は、労働者に依拠している。ファシズムは小ブルジョアジーに依拠している。社会民主主義は、労働者の大衆的組織なしには影響力を有することができない。ファシズムは、労働者組織を破壊することによってしか、その権力を確保することができない。社会民主主義の基本的な活動舞台は議会である。ファシズムの体制は議会主義の破壊にもとづいている。しかし、独占ブルジョアジーにとっては、議会の体制もファシズムの体制も、自らの支配のための異なった道具でしかない。ブルジョアジーは、歴史的条件に応じてそのいずれかに頼る。しかし、どちらの道具が選択されるかは、社会民主主義にとっても、ファシズムにとっても、独立した意義を有している、いや、それどころか、政治的な死活問題である。

 議会制度によって隠蔽されたブルジョア独裁の「通常の」軍事的・警察的手段が、社会の均衡を維持する上で不十分になったときに、ファシズムの出番がやってくる。資本は、ファシズムという代理人を通じて、分別を失った小ブルジョアジー、階級脱落分子、道徳的に堕落したルンペンといった大衆を、すなわち金融資本自身が絶望と激昂に駆り立てた無数の人間を動員する。ブルジョアジーは、ファシズムに仕事を完遂するよう要求する。すなわち、ブルジョアジーはいったん内戦の方法を受け入れたかぎりは、今後何年も安心して支配していけることを欲するのだ。そして、ファシスト代理人は、小ブルジョアジーを破城槌として利用して、行く手に立ちはだかるいっさいの障害物を破壊しながら、自らの仕事を最後まで遂行しようとする。ファシズムの勝利は、金融資本が、統治、指導、教育などのあらゆる機関と施設――国家機構、軍隊、地方自治体、大学、学校、報道機関、労働組合、協同組合――を鋼鉄のやっとこで直接支配するという事態をもたらす。国家のファッショ化とは、統治の形態や手法のムッソリーニ(2)化ということを意味するだけではない。この分野では、変革は結局のところ二次的役割しか果たさない。最も重要で主要な点は、労働者組織を破壊し、プロレタリアートを無気力の中へ陥れ、かくして、プロレタリアートの独立した結晶化を妨げるための、大衆の中に深く浸透した有機的システムを作り上げることにある。そこにこそ、ファシズム体制の本質が存在するのである。

 以上述べたことは、ある一定の時期に民主主義制度とファシスト制度との中間に、両者の特色を合わせもった過渡的体制が形成されるという事実と矛盾するものではない。総じて、2つの社会体制が交替する場合には、その両者が非和解的に敵対しあっている場合でさえ、以上のような法則性が存在しているのである。ブルジョアジーが、社会民主主義とともにファシズムにも支持を求める場合もある。つまり、ブルジョアジーが、その協調主義的代理人とテロリスト的代理人の両方を同時に利用する場合もある。ある意味では、ケレンスキー(3)政府の最後の数ヵ月は、このようなものであった。この政府は、半分ソヴィエトによりかかりながら、他方ではコルニーロフ(4)と交渉していた。緊急令というバランス棒を手にして2つの非和解的な階級のあいだを綱渡りしているブリューニング政府もまたそうである。しかし、国家や政府のこのような状態は一時的性格を有している。それは、社会民主主義がすでにその使命の終わりに近づいていながら、共産主義もファシズムもまだ、権力獲得の準備ができていないという、過渡期を表わしている。

 ずっと以前からファシズムの問題に取り組むことを余儀なくされているイタリアの共産主義者は、頻繁に繰り返されるこの概念の誤用に対して、一再ならず抗議してきた。コミンテルン第6回大会のさいに、エルコリ[トリアッティ](5)は、ファシズムの問題をめぐって、現在「トロツキスト的」とみなされている観点を展開していた。ファシズムを、最も首尾一貫した最後まで行き着いた反動の体制だと規定したうえで、エルコリは次のように説明している。

「この主張は、激烈なテロリスト的行動にもとづいているのでもなければ、殺害された労働者・農民の膨大な数にもとづいているのでもなく、また広範に実施されているさまざまな種類の拷問の残忍さ、判決の過酷さにもとづいているのでもない。この主張は、ファシズム体制が独立した大衆組織のありとあらゆる形態を系統的に破壊しているという事実にもとづいている」。

 エルコリがここで述べていることはまったく正しい。ファシズムの本質と使命は、労働者組織を完全に根絶し、その再建を妨げることにある。発達した資本主義社会では、この目的は警察的手段だけでは達成することはできない。それを達成する唯一の方法は、プロレタリアートが弱体化しているときをねらって、プロレタリアートの力に、絶望した小ブルジョア大衆の力を対抗させることである。それこそがまさに、ファシズムの名のもとに歴史に登場した、資本主義的反動の独自の体制なのである。

 エルコリはさらに次のように書いている。

「ファシズムと社会民主主義とのあいだに存在する関係の問題も、同じ範疇(ファシズムと労働者組織の非和解性)に属する。この関係においては、ファシズムは、現代資本主義世界において今までに確立された他のいかなる反動的体制とも、はっきり異なっている。ファシズムは、社会民主主義とのあらゆる妥協をしりぞけ、社会民主主義を残酷に狩り立てた。また、社会民主主義から合法的存在のあらゆる可能性をとりあげ、亡命を余儀なくさせた」。

 コミンテルンの指導的機関誌に掲載されたこの記事は、このように書かれていたのだ! その後、マヌイリスキー(6)が、モロトフ(7)に「第三期」という偉大な概念をささやいた。フランス、ドイツ、ポーランドは、「革命的攻勢の最前列」に指名された。直接の任務は権力の奪取であると宣言された。そして、プロレタリアートの蜂起の際には、共産党以外のすべての政党は反革命的であるからファシズムと社会民主主義を区別する必要はもはやない、とされた。社会ファシズムの理論が掲げられた。コミンテルンの官僚たちは再武装した。エルコリはすかさず、真理は大切ではあるがモロトフの方がもっと大切である、ということを証明し…、社会ファシズムの理論を弁護する報告を書いた。1930年2月、彼は次のように述べた。「イタリアの社会民主主義はきわめて容易にファッショ化している」。悲しいかな、公式の共産党の官僚が奴隷化してゆく方がはるかに容易なのだ。

 「第三期」の理論と実践に対するわれわれの批判は、言うまでもなく、反革命的と宣言された。それにもかかわらず、プロレタリア前衛にとって非常に高くついた過酷な経験は、この分野においても転換を余儀なくした。「第三期」はお蔵入りし、モロトフ自身もコミンテルンからお払い箱にされた。しかし、社会ファシズムの理論は、第三期の唯一の成果として生き残っている。ここでは変更は不可能である。というのは、第三期論にはモロトフだけが関係していたが、社会ファシズム論にはスターリン自身がかかわっているからである。

 ドイツ共産党の機関紙『ローテ・ファーネ』は、その社会ファシズム分析の冒頭句として、スターリンの次の言葉を選んでいる――「ファシズムとは、社会民主主義の積極的支持に依拠するブルジョアジーの戦闘組織である。社会民主主義は、客観的には、ファシズムの穏健な一翼である」(8)。スターリンが何かを一般化しようとする場合にはいつもそうだが、最初の文章と次の文章とが矛盾している。ブルジョアジーが社会民主主義に依拠していることと、ファシズムがブルジョアジーの戦闘組織であることは、まったく議論の余地がないことだし、とっくの昔に言われていることである。しかし、そこから結論できるのはただ、社会民主主義もファシズムも大ブルジョアジーの道具であるということだけだ。いったい社会民主主義はどのようにして、さらにファシズムの「一翼」になるのか、まったく理解不能である。同じ筆者による、「ファシズムと社会民主主義とは敵対者ではなく、双生児である」というもう一つの定義もまたさして思慮深いものではない。双生児とて不倶戴天の敵となりうるし、他方、同盟者だからといって、何も同じ日に、同じ母親から生まれる必要はない。スターリンの文章には、弁証法どころか、形式論理さえも欠落している。この文章の力は、誰もあえてそれに反論しようとしない点にある。

 スターリンに続いて、ウェルナー・ヒルシュ(9)は、民主主義とファシズムとのあいだには「階級的内容の点で」相違はないと述べている(『インテルナチオナーレ』1932年1月号)。民主主義からファシズムへの移行は「有機的過程」という性格を持っている、すなわち「漸進的に冷たい道をとおって」起こる、と。エピゴーネン主義のせいでわれわれはすっかり驚くことに免疫ができていたが、もしそうでなかったら、この主張は卒倒するほど驚くべきものであったろう。

 民主主義とファシズムとのあいだに「階級的相違」がない。これは、明らかに次のような意味を持っているのでなければならない。民主主義は、ファシズムと同様、ブルジョア的性格を持っているということである。われわれは、1932年1月以前から、そういう立場であった。しかし、支配階級は真空の中で生きているのではない。他の階級とも一定の関係を持っている。発達した資本主義社会の「民主主義」体制においては、ブルジョアジーは、何よりもまず、改良主義者によって飼いならされた労働者階級に依拠している。このシステムはイギリスにおいて最も法則的な形で表現されている。労働党政権の場合でも、保守党政権の場合でもそうである。ファシスト体制のもとでは、少なくともその第一段階では、資本家階級は、プロレタリアートの組織を破壊する小ブルジョアジーに依拠する。イタリアがまさにそうだった! この2つの体制のあいだに「階級的内容」の相違はあるだろうか? 支配階級だけを問題にするなら、相違はない。しかし、すべての諸階級の諸状況とそれらの相互関係をプロレタリアートの観点から取り上げるなら、相違ははなはだ大きい。

 何十年ものあいだ、労働者は、ブルジョア民主主義の内部で、ときにはそれを利用し、ときにはそれと闘いながら、プロレタリア民主主義のための自らの要塞、自らの基盤、自らの梃子を建設してきた。労働組合、政党、教育クラブ、スポーツ団体、協同組合などである。プロレタリアートが権力に達することができるのは、ブルジョア民主主義の形式的枠組みにもとづいてではなく、革命の道によってのみである。このことは理論によっても経験によっても証明されている。しかし、まさにこの革命の道のためには、プロレタリアートには、ブルジョア国家の内部にある労働者民主主義の勢力基盤が必要なのだ。第2インターナショナルがまだ歴史的に進歩的な仕事を果たしていた時代には、その仕事の中心はまさにこのような基盤をつくることであった。

 ファシズムの基本的かつ唯一の使命は、プロレタリア民主主義のすべての機関を、その土台まで破壊することにある。この事実はプロレタリアートにとり「階級的重要性」を持っているのか、いないのか? 高尚な理論家諸君はそのことをとくと考えてみるがよい。ヒルシュは、その教師と同じく、ある体制をブルジョア的と名づけることによって――そのことに議論の余地はない――、ちょっとしたことを忘れる。この体制におけるプロレタリアートの位置がそれである。彼らは、歴史的過程を、空虚な社会学的抽象物にすりかえる。しかし、階級闘争が起こるのは歴史の地表の上であって、社会学の成層圏の中ではない。ファシズムに対する闘争の出発点は、民主主義国家の抽象ではなく、プロレタリアートそのものの生きた組織である。この組織のうちにプロレタリアートのすべての経験が総括され、この組織こそがプロレタリアートの未来を準備しているのである。

 民主主義からファシズムへの移行が「有機的」で「漸進的」な性格を持つ、という理論の意味するところは、明らかに、次のようなこと以外に考えられない。プロレタリアートが獲得したそのいっさいの物質的成果――一定の生活水準、社会的立法、市民的・政治的権利など――のみならず、こうした諸成果の基本的道具であるプロレタリアートの組織さえも、いかなる動乱も闘争もなしに、プロレタリアートから奪いとることができる、ということである。したがって、「冷たい道をとおって」ファシズムに移行するということは、およそ想像しうるかぎり最も恐るべきプロレタリアートの政治的降伏をほのめかすものである。

 ウェルナー・ヒルシュの理論的主張は偶然ではない。それは、スターリンの理論的御託をいっそう発展させたものであると同時に、共産党の現在のアジテーション全体を一般化したものである。その主要な努力は、ブリューニングの体制とヒトラーの体制とのあいだには相違がないということを証明することに向けられている。現在、テールマン(10)やレンメレは、このことのうちにボリシェヴィキ政策の真髄があるとみなしている。

 問題はドイツに限られたものではない。ファシストの勝利がいかなる新しい事態ももたらさないという考えは、今日では、コミンテルンのすべての支部で熱心に宣伝されている。フランスの雑誌『カイエ・デュ・ボリシェヴィズム』の1月号には次のように書かれている。

「トロツキストは、実践においてブライトシャイト(11)のように行動し、『より小さな悪』という社会民主主義の有名な理論を受け入れている。その理論によれば、ブリューニングはヒトラーよりも悪くなく、また、ブリューニングのもとで餓死した方が、ヒトラーのもとで餓死するより不愉快ではない。その上、グレーナー(12)によって銃殺される方が、フリック(13)によって銃殺されるよりはるかにましだ、ということになる」。

 この引用文は最も愚かしいというわけではないが、しかしやはり十分愚かしいということは正当に認めてやるべきだろう。しかし、悲しいかな、この引用文は、コミンテルン指導者の政治哲学の核心を表現しているのである。

 問題は、スターリニストが俗流民主主義の観点から2つの体制を比較している点にある。たしかに、形式的「民主主義」の基準にもとづいてブリューニング体制を見るならば、その結果は明白である。誇るべきワイマール憲法の中で残っているのは、骨と皮だけである。しかし、われわれにとって、このことはまだ問題を決するものではない。プロレタリア民主主義の観点から問題を検討しなければならない。それはまた、腐朽しつつあるドイツ資本主義の「通常の」警察的反動がいつどの地点でファシスト体制に取って代わられるのかという問題をはかる唯一確実な基準でもある。

 ブリューニングがヒトラーより「まし」(より共感できる?)かどうかという問題は、実をいうと、われわれにはあまり興味がない。しかし、「ドイツではファシズムはまだ勝利していない」と言うには、労働者組織の勢力地図に目をやりさえすればよい。ファシズムが勝利するまでにはなお、巨大な障害物や反対勢力が途上に立ちはだかっている。

 ブリューニングの現在の体制は官僚独裁の体制である。より正確に言えば、軍事・警察的手段によって実現されているブルジョア独裁の体制である。ファシスト的小ブルジョアジーとプロレタリア組織はかろうじて相互に均衡しあっている。労働者組織がソヴィエトに統一されていたとしたら、工場委員会が生産の労働者統制のために闘っていたとしたら、二重権力について語ることもできよう。しかし、労働者の力の分散と、プロレタリア前衛の戦術的無力さゆえに、まだその段階には達していない。しかし、一定の条件下では、ファシズムに対して壊滅的反撃を与えうる強力な労働者組織が存在するという事実そのものが、ヒトラーの権力獲得を許さず、官僚機構に一定の「自立性」を与えているのである。

 ブリューニングの独裁はボナパルティズムの戯画である。この独裁は不安定で、不確かで、長続きしない。それは、新しい社会的均衡の始まりを画するものではなく、古い均衡が近い将来崩壊することを予示するものだ。ブリューニングは、直接的にはブルジョアジーのごく小さな少数派にのみ依拠し、労働者の意に反する形で社会民主党に黙認され、ファシズムに脅されている。この体制は、緊急令という雷鳴を発することはできても、本物の雷を落とすことはできない。議会の同意を得た上で議会を解散すること、反労働者的な緊急令をいくつか出すこと、クリスマス休戦を宣言し、その煙幕に隠れていくつかの用事を片付けること、数百の集会を解散させること、数十の新聞を発禁にすること、地方の薬剤師でも書きそうな手紙をヒトラーとやりとりをすること――以上が、ブリューニングにできるせいいっぱいのことである。それ以上のことはブリューニングの手にあまるのだ。

 ブリューニングは労働者組織の存在を黙認することを余儀なくされている。なぜなら、今のところまだヒトラーに権力を譲り渡す決心ができていないし、かといって労働者組織を破壊する独自の力もブリューニングにはないからである。ブリューニングはファシストを黙認し保護することを余儀なくされている。なぜなら、ブリューニングは労働者組織を死ぬほど恐れているからである。ブリューニングの体制は、破局へと続く過渡的で短命な体制である。現在の政府が持ちこたえているのはただ、主要な陣営がまだ力の試し合いをしていないからにすぎない。本格的な戦闘はまだ始まっていない。それはまだ前方に控えている。戦闘前の、公然たる力の試し合い前の幕間に鎮座しているのが、官僚的無能力の独裁なのである。

 「ブリューニングとヒトラーとのあいだに」相違が認められないなどと豪語している賢者たちは、実際にはこう言っているのだ。われわれの組織がまだ存在しているか、それともすでに破壊されてしまったかは、意味を持たない、と。このエセ急進主義的大言壮語のもとに、最も卑劣な受動性が隠されている。何をしたところで敗北は避けられない、というわけだ! フランスのスターリニストの雑誌から引用した先の文章を注意深く再読すれば、次のようなことがわかる。そこでは、いっさいの問題が、誰のもとで飢えた方がよいか、ブリューニングのもとでかヒトラーのもとでか、ということに還元されている。だが、われわれが立てている問題は、いかなる状況で死んだ方がましかということではなく、いかにして闘い勝利するのかという問題である。われわれの結論は次のようなものだ。ブリューニングの官僚独裁がファシスト体制によって置きかえられる前に、すなわち、労働者組織が粉砕される前に、全面的戦闘を繰り広げなければならない。全面的戦闘への準備は、部分的戦闘の発展、拡張、激化によってなされなければならない。しかし、そのためには、正しい展望を持っていなければならないし、とりわけ、敵がまだ勝利からほど遠いうちに、敵を勝利者呼ばわりしないことが重要だ。

 そこに問題の核心があり、そこに情勢の戦略的鍵があり、そこに闘争の出発点がある。すべての思考する労働者、ましてやすべての共産党員は、ブリューニングもヒトラーも同じだと語るスターリニスト官僚の空文句がまったく空虚でまったく無価値でまったく腐り果てていることをはっきりと理解しなければならない。われわれは彼らに答える、諸君は混乱させられている! 諸君は、困難を前にした驚愕と、巨大な課題に対する恐れから、すっかり混乱させられている。諸君は、闘争する前から降伏し、自分たちはすでに敗北してしまったと宣言している。諸君はだまされている! 労働者階級は、分断され、改良主義者によって弱体化させられ、自分たちの前衛の右往左往によって方向を見失わされているが、まだ粉砕されてはいないし、その力はまだ使い果たされていない。いや、ドイツのプロレタリアートは強力である。プロレタリアートの革命的エネルギーが行動への道を切り開くならば、それは最も楽観的な予想をさえはるかにしのぐものになるだろう。

 ブリューニングの体制は準備的体制である。だがそれは何を準備するのか? ファシズムの勝利か、さもなくばプロレタリアートの勝利である。この体制が準備的であるのは、この2つの陣営がまだ決定的戦闘のための用意しかしていないからである。ブリューニングとヒトラーとを同一視することは、戦闘前の情勢と敗北後の情勢とを同一視すること、すなわち、前もって敗北を不可避だと認めること、戦闘もせずに降伏を呼びかけることである。

 労働者の圧倒的多数、とくに共産党員は、そんなことを望んではいない。もちろん、スターリニスト官僚もそれを望んではいない。しかし、重要なのは何らかの善意――それは、ヒトラーがファシズムの地獄に向けた道を舗装するための材料となっている――ではなく、現在の政策の客観的意味、その方向性と傾向である。スターリン=マヌイリスキー=テールマン=レンメレの政策の、受動的で臆病で待機的な性格、降伏主義的でしかも大言壮語的な性格を、徹底的に暴露しなければならない。革命的労働者が理解しなければならないのは、情勢の鍵は共産党の手中にあること、しかし、スターリニスト官僚は、その鍵を用いて、革命的行動へ通ずる扉を閉じようとしていることである。

 

  訳注

(1)第11回コミンテルン執行委員会総会……1931年3月25日から4月13日まで開かれ、社会ファシズム論にもとづく一連の決議を採択した。

(2)ムッソリーニ、ベニート(1883-1945)……イタリアのファシスト独裁者。最初、社会主義者として出発し、イタリア社会党に入党。1912年に『アヴァンティ!』の編集長となる。党内では最左派に属していたが、第1次世界大戦勃発後、極端な排外主義者に変貌し、イタリアの参戦を主張、党から除名された。戦後の1919年、ファシスト党を結成。1922年、ローマ進軍によって首相の地位を獲得。1924年のマッティオッティ暗殺事件後の政治危機を乗り切り、1925年からファシスト独裁政治を遂行。1945年にレジスタンスのパルチザンに逮捕され、処刑。

(3)ケレンスキー、アレクサンドル(1881-1970)……ロシアの弁護士、政治家。第4国会でトルドヴィキ(勤労者党)の指導者。2月革命後、臨時政府に入閣。法相、陸海相、7月事件後に首相。10月革命後に亡命。アメリカで『回想録』を執筆。

(4)コルニーロフ、ラヴル(1870-1918)……帝政ロシアの反動派軍人、陸軍大将。第1次対戦中に師団長。オーストリア軍の捕虜になるが脱走。1917年の2月革命後にペトログラード軍管区司令官。ついでロシア軍最高総司令官。同年8月にケレンスキー政権に対するクーデターを敢行するが(コルニーロフの反乱)、ボリシェヴィキのアジテーションによって崩壊。10月革命後、南ロシアへ逃亡し、白衛軍を組織し、赤軍との内戦で戦死。

(5)トリアッティ、パルミーロ(1893-1964)……グラムシの友人で、イタリア共産党の指導者。当時の筆名はエルコリ。1926年にロシアに亡命し、そこでコミンテルンの指導的活動家に。1944年にイタリアに戻り、死ぬまでイタリア共産党の最高指導者として君臨。

(6)マヌイリスキー、ドミートリー(1883-1952)……第1次大戦中は『ナーシェ・スローヴォ』の編集者の一人。1931年から39年までコミンテルンの唯一の書記。「第三期」政策を積極的に推進。

(7)モロトフ、ヴャシェスラフ(1890-1986)……1906年にボリシェヴィキに。1917年の2月革命後『プラウダ』編集部。1921〜30年党書記局員。スターリンの腹心となり、1930〜41年、人民委員会議議長。1941〜49年、外務人民委員。スターリン死後、フルシチョフ路線に反対し、失脚。

(8)スターリン「国際情勢について」、邦訳『スターリン全集』第6巻、295頁。

(9)ヒルシュ、ウェルナー……ドイツのスターリン派のジャーナリスト。

(10)テールマン、エルネスト(1886-1944)……マスロフ、フィッシャー、ウルバーンスのグループが排除された後のドイツ共産党の最高指導者。忠実なスターリニスト。1932年にヒンデンブルク、ヒトラーと対抗して大統領選挙に立候補。1933年にナチスに逮捕され、1944年に強制収容所で銃殺。

(11)ブライトシャイト、ルドルフ(1876-1945)……独立社会民主党の創設者の一人。1918〜1919年、プロイセンの内務大臣。1920年からドイツ国会議員。1922年に社会民主党に再加盟。ヒトラーの権力掌握後にフランスに亡命。ヴィシー政府によって逮捕され、ゲシュタポに引き渡され、ブーヘンワルト収容所で死亡。

(12)グレーナー、ヴィルヘルム(1867-1939)……ドイツの将軍。1919年のスパルタクス弾圧に積極的に関与。1928年から1932年まで国防大臣。

(13)フリック、ヴィルヘルム(1877-1946)……ナチスの幹部の一人で、1930年にチューレンジア州のナチス政府の内務大臣。

 

目次序文1章2章3章4章5章6章7章

8章9章10章11章12章13章14章15章結論


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