第10章 中間主義「一般」と

スターリニスト官僚の中間主義

 コミンテルン指導部の誤り、したがってまたドイツ共産党の誤りは、レーニンのよく用いた言葉を使えば、一連の「極左的愚行」に結びついている。賢明な人でも愚行を犯すことはある。とくに青年期にはそうである。しかし、この権利は――ハイネ(1)がすでに忠告しているように――濫用してはいけない。特定の種類の政治的愚行が、系統的に、長期にわたって、しかも最も重要な問題の領域において犯されるなら、それは単なる愚行ではなくなり、一つの傾向となってしまう。この傾向はいかなるものであろうか? それは、いかなる歴史的要求にもとづいているのだろうか? また、いかなる社会的根源を持っているだろうか?

 極左主義は、さまざまな国、さまざまな時代に、それぞれさまざまな社会的基盤を持っている。極左主義の最も徹底した表現は、アナーキズムとブランキズム、およびその種々の組合せであって、その後のアナルコ・サンディカリズムもそこに含まれる。

 主としてラテン系諸国に広まったこれらの潮流の社会的基盤は、パリの古い古典的小工業にあった。この小工業の根強さは疑いもなく、フランスの多種多様なウルトラ急進主義に重みを与え、このウルトラ急進主義が他の国の労働運動にも、ある程度の思想的影響を及ぼすことを可能にしたのである。フランスにおける大工業の発展、戦争、ロシア革命が、アナルコ・サンディカリズムの背骨をへし折った。後方に投げ捨てられたアナルコ・サンディカリズムは、粗悪な日和見主義に転化した。このどちらの段階においても、フランスのサンディカリズムは、同じジュオー(2)によって指導されていた。時代は変わり、人々もそれとともに変わるのである。

 スペインのアナルコ・サンディカリズムは、政治的停滞の状況の中でのみ、表面的な革命性を保持していた。革命はすべての問題を正面から突きつけることによって、アナルコ・サンディカリズムの指導者がウルトラ急進主義を脱ぎ捨てその日和見主義的本質を暴露することを余儀なくさせた。スペイン革命は、サンディカリズムの偏見をラテン諸国の最後の牙城からたたき出すだろう。このことは、確信をもって予測することができる。

 アナーキズムやブランキズムの諸要素は、他の極左主義的な潮流やグループにも入り込んでいる。大きな革命運動の周辺にはつねに、一揆主義や冒険主義の現象が見られる。その担い手は、後進的な――しばしば半職人的な――労働者層であり、あるいはインテリゲンツィア的同伴者である。しかし、このような極左主義は通常、独自の歴史的意義を持つまでに至らずに、たいていはエピソード的性格で終わっている。

 発達した世界労働運動が展開されている状況の中で自国のブルジョア革命をまだこれから遂行しなければならないような歴史的な後発諸国においては、左翼的インテリゲンツィアが、半自然発生的な大衆運動――それは主として小ブルジョア大衆の運動である――に、しばしば最も極端なスローガンと方法を持ち込む。これが、一揆主義や個人テロルなどへの傾向を伴ったロシアの「社会革命党」のような小ブルジョア政党の本質である。東方にはすでに共産党が存在しているおかげで、独立した冒険主義的グループが、ロシアの社会革命党のような意義を獲得することはたぶんないであろう。しかし、その代わり、東方の若い共産党自身の中に、冒険主義的要素が持ち込まれる可能性がある。ロシアのエスエルに関して言うと、彼らはブルジョア社会の発展の圧力を受けて、帝国主義的小ブルジョア政党と化し、10月革命に対して反革命的立場をとった。

 現在のコミンテルンの極左主義が、先に特徴づけた歴史的タイプのいずれにも該当しないことは、まったく明らかである。コミンテルンの最大の党であるロシア共産党は、周知のように、工業プロレタリアートに依拠しており、良かれ悪しかれ、ボリシェヴィズムの革命的伝統に立脚している。コミンテルンの他の支部の大多数もプロレタリア組織である。公式共産主義の極左的政策が、条件のまったく異なったさまざまな国で、同じ程度にそして同時に蔓延している。このことからして、この傾向には共通の社会的根源などありえないと言えるのではなかろうか? 同一の「原則的」性格をもった極左的路線が、中国でもイギリスでも遂行されている。しかし、だとしたら、この新しい極左主義の謎の答えをいったいどこに求めればよいのか?

 さらに、もう一つのきわめて重要な事情を考慮するならば、この問題はいっそう複雑になると同時に、いっそう明確なものとなる。それは、極左主義が現在のコミンテルン指導部の不変的ないし基本的な特徴ではないという事情である。この同じ――その基本的な構成の点では――機構は、1928年まで公然と日和見主義的政策を遂行しており、多くの最も重要な問題においてメンシェヴィキの軌道に完全に移行していた。1924年〜1927年においては、改良主義者との協定が義務とみなされていただけでなく、その協定の際、党の独立性、批判の自由、そして党のプロレタリア的基盤さえも放棄することが容認されていた。したがって、問題になっているのは、独自の極左的潮流ではなく、過去には極右的ジグザグをも取ることができた潮流の長びく極左的ジグザグなのである。このような外的特徴だけでもすでに、問題になっているのが中間主義であることがわかる。

※原注 数年間続いたコミンテルンのこの日和見主義時代の詳しい分析に関しては、拙著『プロレタリア革命と共産主義インターナショナル(コミンテルン綱領の批判)[レーニン死後の第3インターナショナル]』、『永続革命論』、「現在コミンテルンを指導しているのは誰か」などを参照。

 形式的かつ記述的に語るなら、中間主義とは、プロレタリアートの内部およびその周辺において、改良主義とマルクス主義との中間に位置し、たいていの場合、改良主義からマルクス主義への――あるいはその逆の――発展のさまざまな段階にいる潮流のことである。マルクス主義も改良主義も、その足元には堅固な社会的基盤を有している。マルクス主義は、プロレタリアートの歴史的利害を表現している。改良主義は、資本主義国家における労働官僚と労働貴族の特権的地位に照応している。過去われわれが見聞したことのある中間主義は、独立した社会的土台を持っていなかったし、持つこともできなかった。プロレタリアートのさまざまな階層は、さまざまな道とさまざまな期間を通じて、革命的方向へ発展していく。長期にわたる産業好況の時期や、敗北の後にくる政治的引き潮の時期には、プロレタリアートのさまざま階層は、政治的に左から右へ向かって移動し、そのときになってようやく左に向かいだした他の階層と交差する。さまざまなグループは、その発展の一定の段階で停止して、一時的に自らの指導者を見つけ出し、独自の綱領と組織を作り出す。「中間主義」という概念がいかに種々雑多な傾向を内包しているかを、理解するのは困難ではない! 種々のグループは、その起源や社会的構成や発展傾向などに応じて、相互に激しい闘争を繰り広げることもあるが、だからといって、それぞれが中間主義の諸変種であることに変わりはない。

 中間主義一般は通常、改良主義の左翼的隠れ蓑としての機能を果たすのだが、その場合、ある特定の中間主義的偏向が、改良主義とマルクス主義という2つの基本陣営のいずれに属するのかという問題に、出来合いの回答を与えることはけっしてできない。ここでは、他のどんな場合にもまして、その度ごとに各過程の具体的内容とその発展の内的傾向とを分析しなければならない。たとえば、ローザ・ルクセンブルクの犯したいくつかの誤りを左翼中間主義的な誤りと特徴づけることは、理論的に十分に根拠がある。また、ローザ・ルクセンブルクとレーニンとの意見対立の大部分は、多少なりとも中間主義的な偏向を表わしていたと言うことができる。しかし、歴史的潮流としてのルクセンブルク主義を中間主義に分類することができるのは、コミンテルン官僚の恥知らずで無知な知ったかぶり連中だけである。スターリンを始めとするコミンテルンの現在の「指導者」たちは、政治的にも道徳的にもこの偉大な革命家の足もとにも及ばないことは、ここで指摘するまでもない。

 問題の核心にまで踏み込んで考えることのない批評家は、最近、本書の著者が、「中間主義」という言葉を濫用して、その名のもとに、労働運動内のあまりに多種多様な潮流やグループを含めてしまっていると一度ならず非難した。しかし実際には、中間主義のタイプの多様性は、すでにみたように、中間主義という現象の本質そのものから生じているのであって、用語の濫用から生じているのではまったくない。マルクス主義が、多種多様で相互に矛盾した多くの現象を小ブルジョアジーに帰しているといって、しばしば非難されたことを思い出そう。実際には、「小ブルジョアジー」の範疇の中には、一見したところまったく両立できないように見える諸事実や諸思想や諸傾向を含めなければならない。農民運動や都市改革における急進運動。フランスの小ブルジョア的ジャコバン派やロシアのナロードニキ。小ブルジョア的プルードン主義者やブランキ主義者。現在の社会民主主義やファシズム。フランスのアナルコ・サンディカリストや「救世軍」、インドにおけるガンディー(3)の運動、等々、等々。これらすべては、小ブルジョア的性格を有している。哲学と芸術の分野に移れば、はるかに複雑な模様をもった絵ができ上がる。これは、マルクス主義が言葉遊びをしているということであろうか? いやそうではない。これは、小ブルジョアジーがその社会的本質の驚くべき多様性を特徴としていることを意味しているにすぎない。小ブルジョアジーは、下部ではプロレタリアートの中に溶けこみ、ルンペン・プロレタリアートにさえ移行し、また上部では資本主義ブルジョアジーにまでいたっている。小ブルジョアジーは、古い生産様式に依拠しているが、最新の工業にもとづいて急速に発展することもできる(新「中間階層」)。それが、小ブルジョアジーがイデオロギー的に虹の7色すべてを用いたとしても、何ら驚くにはあたらない。

 中間主義はある意味で、あらゆる種類の小ブルジョア・イデオロギーがブルジョア社会全体に対して果たしているのと同じ役割を、労働運動の内部において果たしている。中間主義は、社会の他のすべての階級がプロレタリアートに加えている圧力と結びついたプロレタリアートの発展過程、その政治的成長、あるいはその革命的衰退を反映している。中間主義のパレットがその色彩の多様性の点で際立っているとしても、驚くことではない! しかしこのことから出てくる結論は、中間主義の概念を放棄しなければならないということではなく、ただ、その時々における中間主義の真の本質を、具体的な社会的・歴史的分析によって暴露することが必要だということである。

 コミンテルンの主流派は中間主義「一般」ではなく、完全に特定の歴史的形成物であり、それは、まったく新規のものであるとはいえ強力な社会的根を持っている。まずもって問題になるのはソヴィエト官僚である。スターリン派の理論家の著作には、この社会的階層はまったく存在しない。語られているのは、「レーニン主義」であり、肉体のない指導部、思想的伝統、ボリシェヴィズムの精神であり、無形の「総路線」のことである。しかし、肉と骨をそなえた生身の官僚たちが、消防士が自分のホースの向きを変えるようにこの総路線の向きを変えていることについては、一言も聞くことができない。

 しかし、この官僚たちは、肉体のない精神とは似ても似つかない。彼らは食い、飲み、繁殖し、その立派な腹を肥やすのである。彼らは、かん高い大声で命令を下し、下部から自分に忠実な連中を選び出し、上司への忠義を守り、批判することを自己に禁じ、そして、このことのうちに総路線の核心を見出している。こういう官僚は数百万もいる。数百万もだ! それは10月革命当時の工業労働者よりも多い。これらの官僚の大部分は、犠牲と危険を伴う階級闘争に参加したことはまったくない。これらの連中の圧倒的多数は、政治的に支配階層として生まれついている。彼らの背後には国家権力が存在する。この国家権力は、彼らの存在を維持し、彼らを周囲の大衆のはるか上方に引き上げている。流れにうまく乗ることができるかぎり、彼らには失業の危険もない。また、上司の責任を免れさせるために、しかるべき時に贖罪の羊としての役割を果たすことに同意するなら、最も深刻な誤りでさえ許される。この数百万の支配階層は国の生活に何らかの社会的比重や政治的影響力を持っているか? イエスかノーか?

 労働官僚と労働貴族が日和見主義の社会的基盤であるのは、古い書物からよく知られている。ロシアにおいては、この現象は新しい形態をとっている。資本主義に包囲された後進国のプロレタリア独裁を基礎としてはじめて、勤労者の上層部から強力な官僚機構がつくり出された。この官僚的機構は、大衆の上に立ち、大衆に命令を下し、巨大な特権を享受し、内的な連帯責任によって結ばれ、労働者国家の政策に自らの特殊な利害と方法と手法を持ち込んでいる。

 われわれはアナーキストではない。われわれは労働者国家の必要性を理解しているし、また当然、過渡期における官僚制の歴史的不可避性も理解している。しかし、われわれは、この事実に内包されている危険性――とくに孤立した後進国にとってのそれ――をも、理解している。ソヴィエト官僚制を理想化することは、マルクス主義者が犯すことのできる最も恥ずべき誤りである。レーニンは、プロレタリアートの歴史的利益を――単に一国的なものだけでなく国際的なそれをも――支配官僚の利益の上に置き、労働者階級の独立した前衛としての党が国家機構の上に立ち、それを統制し、点検し、指導し、浄化してゆくよう、全力をつくして努力した。党が国家を統制するための第一条件は、党員大衆が党機構を統制することであるとレーニンはみなした。ソヴィエト時代、とくに生涯の最後の2年間におけるレーニンの著作、演説、手紙を注意深く再読すれば、レーニンの思考がいかに大きな不安感を持ってこの焦眉の問題に何度となく立ち返ったかがわかるだろう。

 だが、レーニンの死後に何が起こっただろうか? 革命と内戦をやり遂げた党と国家の指導層はすべて、更迭され、職を奪われ、粉砕された。彼らに代わったのは、個性のない官僚であった。それと同時に、レーニン生存中は、まだ官僚制はオムツをはずしたばかりだったにもかかわらず、官僚主義に対する闘争はかなり先鋭な性格を帯びたが、機構が天高く成長した今日、その闘争は完全に停止してしまった。

 だが誰がいったいこの闘争を遂行することができるのか? プロレタリア前衛の自主管理組織としての党は、今や存在しない。党の機構は国家の機構と融合している。党内部における総路線の最も重大な道具はゲ・ペ・ウである。官僚は、上級に対する下からの批判を許さないどころか、自らの理論家がそれについて語ることも、その存在に言及することも許さない。左翼反対派に対するすさまじい憎悪は何よりも、反対派が官僚について、その特殊な役割やその利害について公然と語っていること、また、総路線が、プロレタリアートとけっして一致しない新しい支配層の血肉と切り離せないものであるという秘密を暴露していることから生じている。

 国家の労働者的性格から、国家官僚は、自分たちが生まれながらにして無謬であるという結論を引き出す。労働者国家の官僚が堕落することなどありえようか、というわけだ! しかもその際、国家と官僚制は、歴史的過程としてでなく、永遠のカテゴリーとして取り上げられている。つまり、神聖な教会と神の恩寵を受けた司祭が罪を犯すことなどあろうか、というわけだ! しかし、資本主義社会の中で闘争しているプロレタリアートの上に君臨する労働官僚が、ノスケ、シャイデマン、エーベルト、ウェルスの党の中で堕落したのならば、どうして、勝利したプロレタリアートの上に君臨する労働官僚は堕落しないというのだろうか?

 ソヴィエト官僚の無統制な支配的地位は、プロレタリア革命家の心理に多くの点で直接対立する心理を醸成している。官僚は、国内政策および国際政策におけるその思惑と策略を、大衆の革命的教育という課題より上に置き、また、国際革命の課題とのあらゆる結びつきの外に置いている。何年にもわたって、スターリン派は、「強い農民」、技師、行政官、中国のブルジョア・インテリゲンツィア、イギリスの労働組合官僚の利益と心理の方が、下層労働者、貧農、反乱を起こしている中国の人民大衆、イギリスのストライキ参加者等の心理と要求よりも、自分たちに近く理解しやすいものであることを示してきた。

 しかし、もしそうならば、スターリン派は、なぜ一国的日和見主義の路線を最後まで推し進めなかったのだろうか? それは、この官僚が労働者国家の官僚だからである。国際社会民主主義がブルジョア支配の基礎を防衛しているのに対し、ソヴィエト官僚はクーデターを引き起こすことなく、10月革命によって据えられた社会的土台に自らを適応させることを余儀なくされている。そこから、スターリン官僚制の心理と政治における二重性格が生じている。中間主義――労働者国家に立脚した中間主義――は、この二重性を表現する唯一可能な用語である。

 資本主義国の中間主義的諸グループがたいていの場合、一部の労働者階層の左右への進化を反映した一時的・過渡的性格を有しているのに対し、ソヴィエト共和国という条件下での中間主義は、数百万の官僚という、はるかに安定しはるかによく組織化された土台を獲得している。彼らは、日和見主義的・民族主義的傾向の自然な環境であるが、しかし、「クラーク」に対する闘争においてその支配の基礎を守ると同時に、世界の労働運動における「ボリシェヴィキ的」威信を守ることに汲々とする。ソヴィエト官僚は、精神的に多くの点で自分たちと近い国民党やアムステルダム官僚との友情を求めた後に、ソヴィエト国家に対する世界ブルジョアジーの敵意を反映している社会民主主義との先鋭な衝突を引き起こす。これが、左翼的ジグザグの源泉である。

 現在の情勢の特色は、ソヴィエト官僚制が日和見主義や民族主義に対して特別な免疫を持っているという点にではなく、徹底した一国改良主義的立場をとることができないソヴィエト官僚制が、マルクス主義と一国改良主義とのあいだでジグザグを描くことを余儀なくされている、という点にある。この官僚主義的中間主義の動揺は、その強さ、その予備資源、そしてその状況の先鋭な矛盾に照応して、まったく前代未聞の大きな振り幅を示した。すなわち、ブルガリアやエストニアにおける極左的冒険(4)から、蒋介石、ラディッチ、パーセルとの同盟に至るまで。イギリスのスト破りとの恥ずべき友情から、大衆的労働組合との統一戦線の政策を完全に拒否することに至るまで。

 スターリン官僚制は、その方法とジグザグを他の諸国にまで持ち込んでいる。なぜなら、スターリン官僚制は、党機構を通じて、共産主義インターナショナルを指導しているだけでなく、命令を下しているからである。スターリンが国民党を支持しているときには、テールマンも国民党を支持していた。コミンテルン第7回執行委員会総会(1926年秋)において、蒋介石の使者であった国民党代表の邵力子(シャオ・リーズィ)は、「トロツキズム」への反対という点で、テールマン、セマール(5)、その他のレンメレ的輩との完全な意見の一致を表明した。「同志」邵力子は言った。「われわれはみな、コミンテルンの指導のもとに、国民党がその歴史的課題を遂行するであろうと信じている」(『議事録』第1巻、459頁)。これは歴史的事実である。

 1926年の『ローテ・ファーネ』を取り上げれば、次のような趣旨の記事を多数読むことができる。すなわち、トロツキーは、イギリス総評議会のストライキ破りとの決裂を要求しており、まさにそのことによって、その…メンシェヴィズムを証明している、と! だが今では、大衆組織との統一戦線を擁護すること、すなわち、レーニンの指導のもとに、第3、第4回コミンテルン大会が(テールマン、タールハイマー、ベラ・クン、フロッサール等の連中に反対して)採択した政策を遂行することのうちに「メンシェヴィズム」が存在するのだ。

 こうした重苦しいジグザグは、あらゆる共産党支部に、自足的な、すなわち党から独立した官僚層が形成されなければ、不可能だったろう。ここに悪の根源がある!

 革命党の力は前衛の独立性のうちにある。前衛は、党のカードルをテストし選抜し、指導者を育成し、信頼できる順に漸次上級に配置してゆく。これによって、大衆とカードルとのあいだに、またカードルと指導者とのあいだにわかちがたい結びつきが生まれ、指導部全体に自己に対する内的確信を浸透させることができる。現在の共産党には、こうしたことはまったく見られない! 指導者は指名され、彼らは自分で部下を選ぶ。下部党員は、指名された指導者を受け入れることを余儀なくされており、その指導者の周囲には指導者崇拝の人為的な雰囲気がつくり出される。カードルは上部に依存し、下部には依存していない。カードルはかなりの程度、その影響力の源泉だけでなく、その存在の源泉をも、大衆の外部に求めている。彼らの政治的スローガンは、闘争の経験から汲みとったものではなく、上からの電報で受け取ったものである。その一方で、スターリンの書類綴には、必要なときには告発に使える文書類がたまってゆく。指導者の誰もが、いつでも羽毛のように吹き飛ばされかねないことを知っている。

 このように、中間主義のバクテリアにとって培養液となっている閉鎖的な官僚層が、コミンテルン全体を通じて形成されている。テールマン、レンメレとその仲間の中間主義は、ソヴィエト国家の官僚制に依存しているので、組織的には非常に安定的で強固であるが、政治の分野では、はなはだしい振動を特徴としている。大衆との有機的つながりによってのみ獲得できる確信を欠いた無謬の中央委員会には、最も極端なジグザグ行動をすることが可能である。中央委員会は、真面目な思想闘争に対する準備ができていなければいないほど、ますます罵詈雑言や誹謗中傷を大盤振るまいする。レーニンが言った「粗暴」で「不実」というスターリン像は、この官僚層が人格化したものにほかならない。

 以上のような官僚主義的中間主義の特徴が、スターリン官僚制に対する左翼反対派の関係を規定する。すなわち、官僚制が、ソヴィエト共和国の国境と10月革命の基礎を守るかぎりにおいて、全面的かつ無制限の支持をし、官僚制が、その行政的ジグザグによって、革命の防衛と社会的建設を困難にするかぎりにおいては、公然たる批判をする。また、その官僚主義的指令によって、世界プロレタリアートの闘争を解体しようとする場合には、容赦のない反撃を加えるのである。

 

  訳注

(1)ハイネ、ハインリヒ(1797-1856)……ドイツの代表的な詩人。1844年にマルクスと知り合って、共産主義者となる。

(2)ジュオー、レオン(1879-1954)……アナルコ・サンディカリズムの指導的人物。1909年以来、フランス労働総同盟(CGT)の書記長。第1次大戦中は愛国主義者。

(3)ガンディー、モハンダス(1869-1948)……インド独立運動の指導者、インド国民会議の指導者、インド建国の父。非暴力抵抗を訴え、この立場はガンディー主義と呼ばれた。

(4)エストニアにおける極左的冒険……1924年12月1日、200名ほどの武装した共産主義者は、政府の建物や戦略的拠点を襲撃したが、数時間後に粉砕された。

(5)セマール、ピエール(1887-1942)……フランス共産党の指導者で、労働組合運動を指導するポストに就いていた。1942年にナチスによって銃殺される。

 

目次序文1章2章3章4章5章6章7章

8章9章10章11章12章13章14章15章結論


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