第11章 ソ連における経済的成功と

  官僚体制との矛盾

 革命的政策の基盤をつくり出すことは、「一国」ではできない。ドイツ革命の問題は現在、ソ連における政治指導の問題とわかちがたく結びついている。この結びつきを徹底的に理解しなければならない。

 プロレタリア独裁は、有産階級の抵抗に対する回答である。自由の制限は、革命の戦時体制、すなわち階級戦争の諸条件から生じる。この見地からすれば、ソヴィエト共和国の内的強化、その経済発展、ブルジョアジーの抵抗の弱化、とりわけ最後の資本家階級たるクラーク「根絶」の成功が、党や労働組合やソヴィエト内の民主主義の開花をもたらすべきであるのは、まったく明白である。

 スターリニストは、「われわれはすでに社会主義に入った」とか、現在行なわれている集団化はそれ自体で階級としてのクラークの根絶を意味するとか、次の5ヵ年計画がこの過程を最後まで押し進めるであろうなどと飽きることなく繰り返している。しかし、事態が実際にこのようなものであったとしたら、どうしてこの同じ過程は、官僚機構による党や労働組合やソヴィエトの完全な抑圧をもたらしているのであろうか? どうして官僚機構は官僚機構で、ポピュリスト的ボナパルティズムの性格を帯びているのか? 飢餓と内戦の時期には、党はその生を謳歌しており、レーニンや中央委員会を批判できるかどうかなど誰も尋ねてみようとさえ思わなかったにもかかわらず、今では、スターリンとのどんなわずかな意見の相違でも党からの除名と行政的弾圧をもたらしているのは、いったい何ゆえなのか? 

 帝国主義諸国からの軍事的脅威は、官僚独裁の成長を正当化することはもちろん説明することもけっしてできない。一国での社会主義社会において、階級がほとんど一掃されているとすれば、それは国家の死滅の始まりを意味している。社会主義社会は、プロレタリア独裁国家としてではなく、ましてや官僚独裁国家としてではなく、まさに社会主義社会として、外敵に抵抗し勝利することができるだろう。

 しかし、われわれが問題にしているのは、独裁の死滅ではない。それを語るのはまだ早い。われわれはまだ「社会主義に入って」いない。われわれが問題にしているのは、別のものである。われわれは次のように問うているのだ。独裁の官僚的堕落は何によって説明されるのか? 社会主義建設の成果と、わが国の支配階級の喉もとをつかんでいる無個性の機構に支えられた個人独裁体制との、常軌を逸した法外で破滅的な矛盾は、いったいどこから生じているのか? 経済と政治がまったく正反対の方向に発展していっているのを、どのように説明するのか? 

 経済的成功は非常に大きなものである。経済的見地からは、10月革命はすでに完全に正当化されている。西方の資本主義的方法によってすでに解決済みの生産上の課題を解決するためでさえ、社会主義的方法が並み外れた優位性を発揮しうることを、高い経済成長率が疑いの余地なく明らかにしている。とすれば、先進国における社会主義経済の優位性は、どれほど巨大なものとなることだろう。

 しかしながら、10月革命によって提起された問題はいまだ、大雑把にすら解決されていない。

 スターリニスト官僚は、経済をその前提条件や傾向にもとづいて「社会主義的」と呼んでいる。だが、それだけでは不十分である。ソ連の経済的成功は、依然として低い経済的基礎の上で展開されている。国有工業は、先進資本主義諸国がすでにずっと以前に通過した段階を通過しつつある。行列に並ぶ女性労働者は、社会主義に関して自分自身の基準を持っている。この「消費者的」基準――官僚は軽蔑的にこう表現している――が、この問題では決定的なのである。この女性労働者と官僚とのあいだの見解の衝突においては、われわれ左翼反対派は官僚に反対し、女性労働者に味方する。この官僚は成功を誇張し、累積している矛盾を糊塗し、女性労働者が批判できないように彼女の喉もとを締めつけている。

 昨年、平等賃金から、差別賃金(出来高賃金)への急激な転換がなされた。生産力の低い水準、したがってまた、文化全般の低い水準がある場合に、労賃の平等が実現不可能であることに、何の疑いもありえない。しかし、まさにこのことは、社会主義の問題が所有の社会的形態によってのみ解決されるのではなく、ある程度の技術的力を前提としていることを意味している。しかし一方、技術的力の成長は自動的に生産力を国境からはみ出させてしまう。

 早く廃止されすぎた出来高賃金を復活したとき、官僚は、平等賃金を「クラーク的」原理と呼んだ。この純然たるナンセンスは、スターリニストが、どんなに深く偽善と欺瞞の袋小路にはまり込んでいるかを示している。実際にはこう言うべきだった。「われわれは、労賃の平等的方法に先回りしすぎた。われわれはまだ社会主義からはほど遠く、非常に貧しいのだから、われわれは労賃の半資本主義的・クラーク的な形態に戻らなければならない」。繰り返して言えば、ここには社会主義的目的との矛盾はない。ここにあるのはただ、現実の官僚主義的な偽造との非和解的な矛盾だけである。

 出来高賃金への後退は、経済的後進性の示す抵抗の結果である。このような後退は、今後もまだまだなされるだろう。あまりに大きな行政的先走りがなされた農業分野においては、とくにそうであろう。

 工業化と集団化は、労働者大衆に対する一方的で無統制の官僚的指令の方法によって実施されている。労働組合は、消費と蓄積の相互関係に働きかける可能性を完全に奪われている。農民の階層分化は、今のところまだ、経済的というよりは行政的に一掃されている。階級を一掃するために官僚制がとっている社会的措置は、生産力の発展という根本的過程にはなはだしく先んじている。これは、工業原価の上昇、生産物の品質低下、価格の上昇、消費物資の欠乏をもたらし、失業を再び招来しかねない。

 国内における政治的雰囲気の極度の緊張は、ソヴィエト経済の成長と官僚の経済政策との矛盾の結果である。それは、経済の必要性にはなはだしく立ち遅れるか(1923〜1928年)、さもなければ、自らの立ち遅れに恐れをなして、失われた時間を純行政的な措置でとり戻そうと、前方に突進する(1928〜1932年)。ここでもまた、右へのジグザグには、左へのジグザグが続いている。この2つのジグザグの中で、官僚は、経済的現実との矛盾、したがって勤労者の気分との矛盾に陥っている。立ち遅れているときにも、先走りしすぎたときにも、官僚は、勤労者に自らへの批判を許すことはできない。

 官僚は、勤労者から、彼ら自身の労働や将来全体の問題を決定する過程に参加する可能性を奪うことによってしか、労働者と農民を押さえつけることはできない。そこに最大の危険性が存在する! 大衆の反抗に対する絶えざる恐怖は、政治においては、官僚的・個人的独裁の「ショート」をもたらす。

 以上のことは、工業化と集団化のテンポを緩めなければならないということを意味しているのであろうか? ある一定の期間は疑いもなくそうである。しかし、この期間が短期ですむこともありうる。国やその政治と経済に対する指導に労働者自身が参加すること、官僚を実際に統制すること、統治される側に対する統治する側の責任感が増大すること――これらは、生産そのものに疑いもなく有益な影響を及ぼすだろうし、国内の摩擦を少なくし、現在極端に高くついている経済的ジグザグを最小限にし、労働力や生産手段のより健全な配分を保証し、結局のところ、全般的な成長率を増大させるであろう。ソヴィエト民主主義は、何よりもまず、経済そのものにとって死活にかかわる必要物なのである。それとは反対に、官僚主義は、経済上の悲劇的な不測事態を内包している。

 ソ連の発展におけるエピゴーネン時代の全歴史を検討すれば、体制の官僚化の政治的な基本的前提条件が、革命と内戦という激変の後に訪れた大衆の疲弊にあったという結論に達するのは困難ではない。国内では、飢餓と伝染病が猛威を振るっていた。政治問題は後景に退けられた。誰もがパンの一かけらを手に入れることで頭がいっぱいだった。戦時共産主義の時期には、誰もが同一の飢餓配給を受けていた。ネップへの移行は最初の経済的成果をもたらした。配給量は以前より多くなった。しかし、まだ全員には行き届いていなかった。商品経済の成立は、原価計算、初歩的合理化、工場での過剰労働者の解雇などをもたらした。経済的成功は、長きにわたって失業の増大と手をたずさえて進んだ。

 いっときたりとも忘れてはならないのは、機構の力の増大が失業にもとづいていたことである。飢餓の時期が過ぎたあとも、産業予備軍が、工場プロレタリアの一人一人に脅威を与えていた。独立心を有し批判精神を備えた労働者を工場から放逐すること、反対派のブラックリストを作成することが、スターリン官僚制の手中にある最も重要で最も効果的な道具となった。これらの条件なしには、スターリン官僚制は、けっしてレーニンの党を圧殺することに成功しなかったであろう。

 その後の経済的成功は、工業労働者の予備軍を少しづつ解消していった(ただし、集団化によって隠蔽された潜在的な農村過剰人口はなおその圧力を完全に保持している)。今日では、工業労働者は、もう工場から放り出されることを恐れてはいない。工場労働者は日頃の経験から、官僚どもの先見の明のなさと専横のせいで諸問題の解決がはなはだ困難になっていることを知っている。ソヴィエトの報道機関は、労働者のイニシアチブや独創性等々に十分の活動の場を与えていない個々の職場や企業を摘発している。これはまるで、プロレタリアートのイニシアチブを職場の中に閉じこめておけるかのようだ。また、党、ソヴィエト、労働組合内においてプロレタリアートが完全に抑圧されているにもかかわらず、職場が生産民主主義のオアシスになりうるかのようだ!

 プロレタリアートの全般的な気分は、1922〜23年当時とはまったく異なっている。プロレタリアートは数的にも文化的にも成長した。経済の復興と上昇という巨大な仕事を成し遂げた労働者は、自信が復活し高まったと感じている。この増大しつつある内的な自信は、官僚体制に対する不満に変わり始めている。

 党が圧殺され、個人独裁の体制と私的専横が猖獗をきわめているという事実は、一見したところ、ソヴィエト制度が弱体化したというイメージを与えるかもしれない。しかし、実はそうではない。ソヴィエト制度は、はなはだしく強化された。しかし、それと同時に、この制度と、その官僚的締めつけとの矛盾もまたはなはだしく先鋭化している。経済的成功が官僚を強化するのではなくその地位を掘りくずしているのを、スターリンの機構は驚きをもって見つめている。機構は、自らの地位を守る闘争において、ますますネジを固く締めつけ、指導者に向けられたビザンチン的賛美以外のいっさいの「自己批判」を禁じることを余儀なくされている。

 経済的発展が、その発展の枠組みを形づくっている政治的諸条件と矛盾するということは、歴史において初めてのことではない。しかし、明確に理解しなければならないのは、これらの諸条件のうちのいずれが不満を引き起こしているのかである。台頭しつつある反対派の波は、社会主義の課題やソヴィエトや共産党にその矛先を向けるものではいささかもない。不満の矛先は、官僚機構とその人格化たるスターリンに向けられている。そこから、いわゆる「トロツキズムの密輸入」に対する激烈な闘争の新たな時期が生じているのである。

 敵はとらえどころのない存在と化し、あらゆる所にいて、しかもどこにもいない。それは職場や学校に現われ、歴史雑誌やすべての教科書の中にもぐり込んでいる。言いかえれば、これは、事実と記録が、官僚制の動揺や誤りを暴露することによって官僚を摘発しているということである。もはや官僚は、落ち着いて客観的に過去を想起することはできない。過去を作り直して、機構とその領袖の無謬性に対する疑惑がしのび込そうなあらゆる隙間をふさいでしまわなければならない。われわれが目にしているのは、すっかり度を失った支配層のあらゆる特徴である。ヤロスラフスキー(1)、あのヤロスラフスキーでさえも当てにできなくなってしまった! これは、偶然的エピソードでも些細な事柄でも個人的衝突でもない。問題の根本は、最初は官僚制を強化した経済的成功が、その発展の弁証法によって、今や官僚制に対立するようになったという事実にある。だからこそ、最近の党協議会において、すなわち、スターリンの機構の大会において、3回も4回も粉砕され葬り去られたはずの「トロツキズム」が、「ブルジョア反革命の前衛」であると宣言されたのである。

 この愚劣で政治的にまったく無力な決定は、個人的復讐の分野におけるスターリンのはなはだ「実践的な」計画を垣間見せてくれる。レーニンがスターリンの書記長任命に次のような警告を発したのも理由のないことではない。「この料理人は辛い料理しか作らないであろう」…。この料理人は、その料理の腕前を披露しつくしてはいない。

 しかし、スターリンの個人独裁は、あらゆる理論的・行政的ネジの締めつけにもかかわらず、明らかに終末に近づいている。機構はひびだらけになっている。ヤロスラフスキーという名前の亀裂は、今はまだ名前のない数百もの亀裂の一つにすぎない。ソヴィエト経済の明白で議論の余地のない成功、プロレタリアートの数的成長、集団農業の最初の成果などにもとづいて、新しい政治的危機が準備されつつあるという事実は、官僚独裁の一掃に伴って生じるものが――3、4年前に危ぶまれたように――ソヴィエト制度の転覆ではなくて、その逆に、ソヴィエト制度の解放、その発展と繁栄であることを十分に証明している。

 しかしまた、スターリン官僚制が多くの悪事をなしうるのは、まさに現在のような、官僚制の最後の時期なのである。威信の問題は、スターリン官僚制にとって今や、中心的な政治問題となっている。1917年におけるスターリンの功績を賛美しなかったというだけの理由で、非政治的な歴史家が党から除名されている。このポピュリスト体制は、自らが1931〜1932年に犯した種々の誤りを認めることができるだろうか? 社会ファシズム論を放棄することができるだろうか? あるいはまた、ドイツ問題の根本を、「まずファシストに政権をとらせよう、その次はわれわれの番だ」という形で定式化したスターリンを否認することができるだろうか?

 ドイツにおける客観的情勢はそれ自体、あまりに有無を言わせぬものであるがゆえに、ドイツ共産党の指導部が必要な行動の自由を得るならば、疑いもなく、ただちにわれわれの側に接近してくるであろう。しかし、彼らは自由ではない。左翼反対派が、1917年に勝利によって確認されたボリシェヴィズムの思想とスローガンを提起しているのに対し、スターリン一派は、注意をそらすことを目的として、「トロツキズム」に反対する国際的カンパニアを開始するよう電信で指令している。このカンパニアの基礎となっているのは、ドイツ革命の諸問題、すなわち、世界プロレタリアートの生死の問題ではなく、ボリシェヴィズムの歴史の問題についてスターリンが書いた偽造だらけの惨めな論文なのである。一方における時代の提起している課題と、他方における公式指導部の惨めな思想的資源とのあいだにある不均衡は、これ以上想像することも困難なほど巨大である。以上が、コミンテルンが陥っている、悲惨で軽蔑すべきであると同時にまたきわめて悲劇的な状況なのである。

 スターリン体制の問題とドイツ革命の問題は、けっして切り離すことのできない絆で結ばれている。目の前に控えている諸事件が、この結び目を解くか切断してしまうであろう。それは、ロシア革命の利益になるだけでなく、ドイツ革命の利益にもなるだろう。

 

  訳注

(1)ヤロスラフスキー、エメリアン(1878-1943)……1898年にロシア社会民主労働党に入党。1907年から1917年までシベリア流刑。ブレスト論争では左翼共産主義派。1921年に中央委員会書記に。1920年代には反対派を誹謗する文筆家として名を馳せ、スターリンの歴史偽造に大きく貢献。

 

目次序文1章2章3章4章5章6章7章

8章9章10章11章12章13章14章15章結論


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